45-謙徳公

百人一首百彩-45

海野 弘

45-謙徳公(けんとくこう)
拾遺集 物いひ侍りける女の、後につれなく侍(はべ)りて、さらにあはず侍りければ

哀(あわれ)とも いふべき人は おもほえで 身のいたづらに なりぬべきかな
〔哀れだと、いってくれる人はいるとは思えないから、私はむなしく死んでいくだけなのでしょう〕

詞書によると、つきあっていた女が、後に冷たくなり、逢えなくなったので、つくつた歌という。
ふられてしまったが、だれも同情してはくれないだろう。「身のいたづら」になる、というのは、寝こんでしまい、死にそうだ、というのだろうか。
これただ                 もろすけ
謙徳公は藤原伊デ(九二四-九七二) である。右大臣藤原師輔の子。天暦五年(九五一、撰和歌所がつくられたが、伊伊の宿所である昭陽舎(梨壷)に置かれ、伊伊はその別当となった。そして清原元輔など五人がその寄人(梨壷)に選ばれた。つまり伊伊は歌壇の取締役のようなものであった。
伊伊安子(あんし)は村上天皇の中宮となり、憲平(のりひら)親王(冷泉天皇)を生んだ。冷泉天皇の時、彼は摂政となった。和歌にくわしく、また政治家としても栄誉を極めた、幸運な人であった。
その人が、女にふられて、ひとりで死にそうだ、という歌を詠んでいるのはなんとなくおかしい。

44ー中納言朝忠

百人一首百彩-44

海野 弘

44ー中納言朝忠(ちゆうなごんあさただ)
拾遺集 天暦御時歌合に
逢ふことの 絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
〔もし逢わなかったら、人のことも自分のことも恨んだりすることもないだろうに〕

平兼盛、壬生忠見が歌合した天徳四年(九六〇)の歌合での歌である。この歌も、二つの解釈がある。
逢わなかったのか、逢ったのかでちがってくる。
前者なら、いっそ逢わないほうが、うらみっこなしでいいのではないか、となる。後者なら、いっそ逢わなければよかった、という後悔の歌となる。
中納言朝忠は藤原朝忠(九一〇-九六七)。父は三条右大臣藤原定方。笙の名手といわれ、華やかな宮廷生活を送り、多くの女性と浮名を流した。『大和物語』などにそのロマンスが伝えられている。
このような人であったから、逢わずにあきらめよう、としたとは考えられない。やはり逢ってから後の歌なのだろう。
天徳四年の歌合は、華やかな祝祭としての歌合の形式を確立したものといわれる。村上天皇の時代に女御、権門の室(貴族の夫人)による歌合が盛んに行なわれるようになり、天徳の歌合はそのピークであった。それは女性が文化に進出してきたことを示していた。
清少納言、紫式部などの女流文学の開花が村上天皇の時代(九四六-九六七)に準備されていた。
一方それは、宮廷文化がますます華美になり、時代から遊離していくことでもあった。

43-権中納言敦忠

 

百人一首百彩-43

海野 弘

43-権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)
拾遺集 題しらず

逢(あい)見ての 後(のち)の心に くらぶれば むかしは物を おもはぎりけり
〔人を愛するようになってからの心にくらべれば、昔はものを思わなかったな、としみじみ感じさせられる〕

これは「題しらず」となっているので、特定の相手ではなく、恋するようになつたこと一般という意味で訳してみた。
しかし、『拾遺集』より前の『拾遺抄』では同じ歌に「はじめて女のもとにまかりて、またの朝につかはしける」という詞書がついている。この場合は、特定の女性に向けて、呼びかけていることになる。すると、あなたにはじめて逢って、契りを交わしてからの心にくらべると、お逢いする前に抱いていた気持はたあいないもので、なにも思っていないようなものでした、といった意味になるだろう。                 √              一
権中納言敦忠は藤原敦忠(九〇六-九四三)で、藤原時平の三男。琵琶中納言といわれるほど琵琶の名手であった。しかし三十人歳で早死した。菅原道真の崇りであるといわれた。美男で才能に恵まれた人であったが、短い生涯であった。

42-清原元輔

百人一首百彩-42

海野 弘
はべ
清原元輔(きよはらのもとすけ)
後拾遺集 心変り侍りける女に人に代りて

契(ちぎ)りきな かたみに袖を しぼりつつ すゑの松山 なみこさじとは
〔末の松山を波が越すことは絶対ないように、私たちの仲も絶対だと、互いに涙に濡れた袖をしぼりながら約束しましたね〕

末の松山は宮城県多賀城あたりといわれている。海辺にあるが、いかなる波もそれを越すことがない、といわれた。(すゑの)は、さい果ての意味だろうか。もし披が越したら、この世も終わりということかもしれない。(すゑの松山)は、約束の裏切り、心変わりの歌に使われる。
「契りきな かたみに袖を しぼりつつ」は、袖をちぎれるほど、かたくしぼることと、かたくちぎる(約束する)ことを掛けた技巧的な句である。
清原元輔(九〇八-九九〇)は、代々、歌で知られる家柄で、清原深養父(ふかやぶ)の孫といわれ、清少納言の父である。九人六年に肥後守となった。歌の方では、九五一年、和歌所の寄人となり、梨壷(内裏 みなもとのしたごう 後宮五舎の一つ)の五人、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、源順、紀時文(きのときぶみ)、坂上望城(さかのうえのもちき)の一人として 『後撰集』をまとめた。
自分の内面に沈むよりは、場に合わせ、求められた題に合わせ、即興的に詠む歌にすぐれていた。

———

 

41-壬生忠見(みぶのただみ)

百人一首百彩-41

海野 弘

壬生忠見(みぶのただみ)
拾遺集 天暦御時歌合

恋すてふ わが名はまだき たちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
(恋をしていると、私の噂がもう立ってしまった。人に知れないように、こつそりと思いはじばかりであるのに)

前の平兼盛の歌と歌合で競ったもので、定家もどちらか決めかねたのか、両方を選び、並べている。兼盛の歌は「色に出でにけり」と視覚的だが、忠見の歌は、名は「立ちにけり」と聴覚的、言語的だ。もっとも「思ひそめ」(思い染め)と視覚性も加えられているし、前者には 「人のとふ」と聴覚性もあり、二つの歌はまるで一対のようにひびき合っていて、一緒に読み比べてみると、また面白さが増してくる。
壬生忠見は生没不明。壬生忠岑(ただみね)の子。下級官として、貧しい生活をしていたという。それだけに、天徳四年(九六〇)の歌合に招かれたことは大きな喜びだったろう。彼は摂津から田舎衣のまま駆けつけたという。その見すぼらしい姿のせいではないかもしれないが、負けてしまった。失望して病いに斃れ、死んでしまった、という伝説もある。
「恋すてふ」「わが名はまだき」「¥思ひそめ」などことばに対するるセンスがすばらしい。

40-平兼盛

百人一首百彩-40

海野 弘

40-平兼盛(たいらのかねもり)
拾遺集 天暦御時歌合(てんりやくのおんときのうたあわせ)

忍ぶれど 色に出にけり わが恋は 物やおもふと 人のとふまで
〔隠してはいるのだが、私の恋は顔色に出てしまっているのだろうか。なにか悩みがあるのかと人が聞くほどなのだから〕

天暦御時は、村上天皇の時代で、醍醐天皇の延喜とともに、宮廷文化が栄えた。醍醐の時、『古今集』、村上の時、『後撰集』がまとめられたのもそのあらわれである。
天暦御時歌合は、実際は、天徳四年(九六〇)に開かれたもので、この歌と次の壬生忠見の歌が合わせられ、この歌が勝っている。判者の藤原実頼は、迷ったが、天皇がこの歌を押しているらしいので勝ちにしたという。
平兼盛(?-九九一)は光孝天皇の子孫であるが、臣列に下り、平氏となった。晩年に駿河守となった。歌人としてもよく知られ、三十六歌仙の一人。
地方官としてあちこちに赴任したようだが、『大和物語』には、地方の娘に恋をしてふられる話などがある。この歌もそうだが、恋の歌が多く、すぐ好きになって、振られたりしている。この歌のように、すぐ惚れやすく、顔に出てしまう人だっ」たらしい。

39ー参議等(ひとし)

百人一首百彩-39

海野 弘
39-参議等(さんぎひとし)
後撰集 人につかはしける

浅茅生(あさじゆう)の をののしの原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき
〔この篠竹の茂った荒れ果てた野に、私は自分の想いをかくして、ひそんでいたが、その想いはあふれ出して、あなたに会いに行きたくなる〕

〈浅茅生〉は、小野の枕詞。〈しの原〉は、忍ぶを呼び出す。〈忍ぶ〉は、篠原に隠れることと想いを耐えしのぶことの両方を意味する。
参議等(880~951?)は源等(みなもとのひとし)。嵯峨天皇の曾孫で、嵯峨源氏である。九四七年に参議となった。娘は、やはり『小倉百人一首』に入っている権中納言敦忠の室となつた。
平安朝は藤原氏全盛であつたが、天皇家から源姓を与えられて臣列に下った源氏も、それに次で勢力を持った。藤原氏の首座を揺るがすことはできなかったが、学問、文学、芸能などでは源氏はユニークな活動をした。『小倉百人一首』にも源融(とおる=
河原左大臣)、源宗干、源等、源重之、源経信、源俊頼、源兼昌、源実朝と、藤原氏に次ぐ源氏が入っている。

39-参議等(さんぎひとし)

百人一首百彩-39

海野 弘
39-参議等(さんぎひとし)
後撰集 人につかはしける

浅茅生(あさじゆう)の をののしの原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき
〔この篠竹の茂った荒れ果てた野に、私は自分の想いをかくして、ひそんでいたが、その想いはあふれ出して、あなたに会いに行きたくなる〕

〈浅茅生〉は、小野の枕詞。〈しの原〉は、忍ぶを呼び出す。〈忍ぶ〉は、篠原に隠れることと想いを耐えしのぶことの両方を意味する。
参議等(880~951?)は源等(みなもとのひとし)。嵯峨天皇の曾孫で、嵯峨源氏である。九四七年に参議となった。娘は、やはり『小倉百人一首』に入っている権中納言敦忠の室となつた。
平安朝は藤原氏全盛であつたが、天皇家から源姓を与えられて臣列に下った源氏も、それに次で勢力を持った。藤原氏の首座を揺るがすことはできなかったが、学問、文学、芸能などでは源氏はユニークな活動をした。『小倉百人一首』にも源融(とおる=
河原左大臣)、源宗干、源等、源重之、源経信、源俊頼、源兼昌、源実朝と、藤原氏に次ぐ源氏が入っている。

38ー右近

百人一首百彩-38

海野 弘

38ー右近(うこん)
拾遺集 題しらず
忘らるる 身をばおもはず 誓(ちかい)てし 人の命の をしくも有るかな

〔忘れられてしまう自分の身も考えずに、愛を誓ったが、やはり捨てられてしまった。そんな人の命なのであるが、惜しいと思う気持がある〕
愛の誓いを裏切った、不実な男への想いである。「人の命の をしくもあるかな」は、誓いを破ると、神の罰を受けることになるが、あんな男でも、それはかわいそうだと裏切った男の命をなお気づかっている様子が伝わってくる。
右近は生没不明。藤原季縄(すえなわ)右近少将の娘と伝えられる。『大和物語』にも登曝し、『小倉百人一首』に入っている権中納言敦忠と親しかったという。
醍醐天皇の中宮穏子(おんし=藤原基経の娘)の女房で、いくつかのロマンスが伝えられている。
この歌は、誓いを破った男に送った歌と見れば、うらみをさらりとのべたものと解釈できるが、去ってしまった男をしのびながら自分の気持を見つめ、まだのこつている男への思いを、相手に伝えるつもりはなくて詠んだとも思える。相手に言ってやったのか、自分にいっているのか。私は後の方と思いたい。

37ー文屋朝康

百人一首百彩-37

海野 弘

37ー文屋朝康(ぶんやのあさやす)
後撰集 延喜御時、歌めしければ

白露(しらつゆ)に 風の吹きしく 秋ののは つらぬきとめぬ 玉ぞちりける
〔白露に風が吹きつけている。秋の野は、糸を通して、とめていない玉が風で散乱していくように見える〕

「延喜御時」というと醍醐天皇の時で、九〇一年から九〇五年である。九〇五年に『古今集』がまとめられているが、そこには入らず、九五一年の 『後撰集』 に入った。
文屋朝康は生没不明。文屋康秀の子といわれる。『古今集』には是貞親王家歌合の時(八九三)とある「秋の野に置く白露は玉なれやつらぬきかくる蜘昧の糸すぢ」が選ばれている。秋の野の白露を玉にたとえ、それを糸に通した玉飾りをイメージするところは、二つの歌に共通している。
彼は、この頃かなり知られた歌人だったと思われるが、『古今集』に一首、『後撰集』に二首の、全部で三首しか伝わっていない。いずれも、しやれたイメージが特徴で、もっと読んでみたいと思
わせる。

36-清原深養父

百人一首百彩-36

海野 弘

36-清原深養父(きよはらのふかやぶ)
古今集 月のおもしろかりける夜、あか月がたによめる

夏の夜は まだよひながら 明(あけ)ぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ
(夏の夜は まだ宵だと思っているうちに、もう明けはじめた。とても美しかった月はどこに行ったのか、雲のどこかにかくれているのか)

月はまだ落ちずに、そのあたりでうろうろしているのではないか、といった感じである。
清原深養父は生没不明。やはり『小倉百人一首』 に入っている清原元輔の祖父とも父ともいわれる。
琴の名手で、藤原兼輔邸で奏したのを、紀貫之が歌で讃えている。
藤原氏全盛の時代に、清原氏はあまり出世できず、歌や琴などの余技で藤原氏の芸術的保護を受けていたという文化状況が見える。もし、元輔が彼の子なら、元輔の子が清少納言だから、親子三代が「百人一首」に入っていることになる。
大原の近くに補陀落寺(ふだらくじ)を建てて隠居したといわれる。

35-紀貫之

百人一首百彩-34

         海野 弘
35-紀貫之(きのつらゆき)
古今集 はつせにまうづるごとに、やどりける人の家に、ひさしくやどらで、程へて後にいたり

ければ、かの家のあるじ、かくさだかになんやどりはあると、いひいだして得りければ、そこにたてりける梅の花ををりてよめる。
ふるさと
人はいさ 心もしらず 古郷は 花ぞむかしの 香ににほひける
〔人の心はわからないけれど、ふるさとの花は昔のままに、春のにおいを薫らせている〕

初瀬は、奈良県桜井市の初瀬、長谷寺1長い詞書がついていて、一篇の歌物語になっている。平安朝には長谷寺の詣りが盛んであった。その時のなじみの宿にしばらくぶりに訪ねると、主人が、この宿はこんなにしっかりと、昔のままにありますよ、と皮肉をいったので、宿の前に立っている梅の枝を折ってこの歌を詠んだ。
紀貫之(八六人ごろ-九四六)は友則、窮恒などとともに『古今集』 の撰者となり、「仮名序」を著、最終的にまとめたといわれる、この時代の代表的歌人である。藤原走方、藤原兼輔などの和歌のサロンに参加し、平安和歌の主流(古今調)をつくり上げた。
変わっていく人、変わらない自然という対比は、貴之の得意とする歌の世界だった。

34-藤原興風

百人一首百彩-34

海野 弘
34-藤原興風(ふじわらのおきかぜ)
古今集 題しらず
たかさご
誰(たれ)をかも しる人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
〔これからだれを親しい友としたらいいのだろうか。むかしの友はもういなくなり、高砂の松だけが昔のままだが、友にはならない〕

高砂の松は、兵庫県高砂市の松といわれる。住吉の松とともに、松の名所とされる。
さがみのじょう  みちなり
藤原興風は生没不明。相模捺藤原道成の子。下級役人で三十六歌仙の一人。貫之や窮恒の同時代の歌人。
じょう       うば
後に、世阿弥は能冨岡砂』をつくり、住吉の松(尉) と高砂の松(姥) の老夫婦を登場させた。
(高砂)は長寿のめでたいしるしとなる。
しかしこの歌では、すでに老齢にさしかかった作者が、亡くなった友をしのびつつ、とりのこさ
れた淋しさをうたっている。古い友人はいなくなってしまい、だれと親しく話したらいいのか、高砂の松では話し相手にならない。

老年の寂蓼(せきりょう)が迫ってくる。高砂の松を、古い松一般と見るか、具体的な地にある松と見るか、二説がある。
私は、実際の高砂の地の松林が見えてくるように読んでみたい。

33-紀友則

百人一首百彩-33

海野 弘

33-紀友則(きのとものり)
古今集 さくらの花のちるのをよめる
久方(ひさかた)の光のどけき 春の日に しづ心(ごころ)なく 花のちるらむ
〔のどかな日の光にあふれた春の日なのに、なぜそんなに落ち着かずに、さくらの花は散っていくのだろうか〕

紀友則は生没不明。紀貫之とは親戚といわれる。四十すぎまでほとんど出世できず、藤原時平にそれを嘆く歌を詠んでみせた。時平は彼の歌の才能を認めていた。そのおかげで、紀貫之、凡河内窮恒、壬生忠琴と共に『古今集』の撰者になつた。しかしその時は、かなり老齢であったらしく、
その完成を待たずに没した。『古今集』には、貫之と忠琴の、友則をしのぶ歌が入っている。
友則は、冒今集』までの、古典的で優雅な気品を漂わせる。この歌も『古今集』らしさを感じさせる。
その一方で、窮恒、忠琴、貴之などと同じく、下級役人として、うだつのあがらない悲哀も秘めている。
この歌も、こんなにすばらしい春の日なのに、心落ち着かず散っていく桜に自己投入しているのである。

32-春道列樹

百人一首百彩-31

海野 弘

32-春道列樹(はるみちのつらき)
古今集
しがの山ごえにてよめる

山川に風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ もみぢなりけり
〔山川に、風が掛けた柵(しがらみ)ができている。それは流れていかずに引っかかっている紅葉であった〕

「しがの山ごえ」は京都から志賀への山ごえの道で、『万葉集』 にも出てくる古道だ。天智天皇のつくつた大津京に向かい、途中に志賀寺(崇福寺)があった。平安時代には志賀寺参りが盛んだったという。
春道列樹(?-九二〇)は九一〇年、文章生となり、九二〇年、壱岐守(いきのかみ)となったが、赴任する前に亡くなったという。紀貫之などと同時代であるが、あまり多くの歌はのこつていない。
この歌は、山川に、紅葉がひつかかって、柵のようになっているという絵画的な世界をうたい、それを「風のかけたる」と見立てるのが工夫である。
平安後期には志賀寺はなくなつていた。この歌のころには廃墟になっていたろうか。

31-坂上是則

百人一首百彩-31

海野 弘

坂上是則(さかのうえのこれのり)
古今集
やまとのくににまかれりける時に、雪のふりけるをみてよめる

朝ぼらけ 有明(ありあけ)の月と みるまでに よしののさとに ふれるしら雪
〔朝になり、あたりが明るくなりかけた時に、有明の月が光っているように見えたが、吉野の里に雪が白々と降り積もっていたのであった。〕

あっさりした、素直に風景を詠んだ歌だ。大和国の吉野の里を訪れた時の歌という

坂上是則は生没不明。坂上田村麻呂(たむらまろ)の子孫ともいわれる。下級官であったが、趣味人、才人で、それが認められて、宮廷文化人の仲間入りをした。三十六歌仙の一人である。
彼は京都の清水寺の別当でもあった。この寺は坂上田村麻呂に起源を持っていて、代々坂上家が別当をつとめてきた。したがって彼も田村麻呂の後裔(こうえい)と見られるのである。
この歌は『古今集』の「冬歌」に入っている。冬の風景を淡々と詠んでいる。そこには、やまとうたのこまやかな男女の情感というよりも、漢詩文の風景描写が感じられるような気がする。

30- 壬生忠岑(みぷのただみね)

百人一首百彩-30

海野 弘

壬生忠岑(みぷのただみね)
古今集 題しらず
有明(ありあけ)の つれなく見えし 別(わかれ)より あかつきばかり うき物はなし
〔夜が明けかけ有明の月が出て、それが一際つらく見える別れをしたことがある。それ以来、暁ほど憂うつに思えるものはない〕

壬生忠岑は生没不明。藤原定国の随身だったといわれる。窮恒と同じ下級官で、歌で認められるようになった。藤原定国や藤原時平などに歌の才能をかわれ、字多、醍醐の宮廷歌人となつた。「是貞親王家歌合」「寛平后宮歌合」などに参加している。
忠岑の歌は、繊細で、イメージ豊かで、物語を感じさせる。この歌でも「あかつきばかり うき物はなし」がすばらしい句だ。そして有明の月、暁のシーンが視覚的で、別れた女性の姿はその彼方にかすんでいる。
この歌について古くから論議がある。なにがつれないのか。藤原定家などは、つれないのは有明の月と見た。二人は別れたくなかったが、有明の月が出て、朝になつたので、別れなければならなかった。だから月がつれなく見えた。
ところがこの歌は『古今集』の「恋歌二こに入っている。「逢はずして帰る恋」の歌を集めた巻である。するとこの歌は、逢えずに待っていて、暁になつてしまったということになり、つれないのは、逢えなかった女ということになる。どちらなのだろう。

29-凡河内窮恒

百人一首百彩-29

海野 弘
凡河内窮恒(おおしこうちのみつね)
古今集 しらぎくの花をよめる

心あてに をらばやをらむ はつしもの 置まどはせる 白菊の花
〔あてずっぼうに折ってみるしかない。初霜が一面に降りて、まっ白になったので、どれが本物の白菊の花なのかわからなくなったから〕
あまりに技巧的、観念の遊び、とこの歌に批判的な人もいる。だが、「をらばやをらむ」「置まどはせる」などのことばは印象的だ。
凡河内窮恒は生没不明。下級の地方官で、甲斐、丹波、和泉などに赴任している。しかし歌の才能を認められ、宇多天皇、醍醐天皇などに保護され、宮廷歌人としてあつかわれるようになつた。
与えられた題や、その場の気分に合わせて、即興でつくるのがうまかったらしい。そのような、こ
とばをあつかう機知を、この歌も感じさせる。
そして紀貫之、紀友則、壬生忠写らと『古今集』 の撰者に選ばれている。
彼が宮廷歌人として認められたのは、藤原兼輔のサロンに、紀貫之の紹介で出入りするようになってかららしい。    む
宮廷歌人になったけれど、彼の位は下級官僚にとどまった。逆にいえば、身分が低くても、歌などの一芸に秀でていれば、宮廷に受け入れられるようになづた。

百人一首百彩-28

百人一首百彩-28

海野 弘

源 宗干朝臣(みなもとのむねゆきあそん)
古今集 冬の歌とてよめる
山里は 冬ぞ淋しさ まさりける 人めも草も かれぬと思へば
〔山里の淋しさは、冬に一層つのってくる。人も訪れず、草も枯れてしまうから〕

枯れる(かれる)は、離れる、枯れる、が掛けられている。読んだままにわかるような歌である。
源宗干(?-九三九)は、光孝天皇の孫。陽成天皇が急に退位したので、子沢山で貧乏な光孝天皇が藤原基経の力で即位した。天皇は何十人も皇子がいたので臣籍にして源姓にした。走省(そがみ)皇子も源姓になったが、やがて呼びもどされ、源姓を離れ、宇多天皇になつた。宗干は天皇の甥に当たるこ
とになるが、源姓にとどまり、地方官としてあちこちをまわった。父の兄弟が天皇になったのに、
なぜ自分は不遇なのか、と彼は不満だったようだ。彼の歌にはその気分が漂っている。
『小倉百人一/首』には冬の歌が少ないが、宗干は、その冬の歌で選ばれている。彼の気分はいつも
一-
冬なのだ。山里の冬はさびしい。人もやって来ず、革も枯れている。私はそんな冬の山里にいるのだ。

百人一首百彩-27

海野 弘

27、中納言兼輔(ちゆうなごんかねすけ)
新古今集 題不知

みかの原 わきてながるるいづみ川 いつみきとてか 恋しかるらむ
〔みかの原に湧いて流れる泉川よ、いつ見たのかはつきりおぼえていないのに、どうしてこんなに恋しいのか〕

みか      そうらく            きづがわ               み
甕(みか)の原は京都府相楽郡にある。「いづみ川」は木津川である。「いづみ川」と「いつ見き」が掛けられている。「みか」は「みき」にひびいている。
「いつみき」については諸説ある。いつ見たのかわからない、というのは、一度も会ったことはないのに、の意味だというのが一説、いや、一度は契りをかわしたが、それからずっと会っていないのだ、というのが一説。
どちらともいえるようなあいまいさが、新古今の魅力かもしれない。私の想像では、小さな甕を両手で肩にのせて、そこから水を流れ出させている泉の女神が浮かんでくる。泉の女神、:ンフへ
のあこがれをうたった、とヤっのは、あまりにロマンティックな解釈だろうか。
藤原兼輔(八七七-九三三)は左大臣藤原冬嗣(ふゆつぐ)の曾孫。九二七年に中納言となり、鴨川の堤に邸があったので、堤中納言と呼ばれた。25の藤原走方と従兄弟で、走方の娘を妻とした。定方とともに和歌サロンのパトロンであった。

26、貞信公

百人一首百彩-26

海野 弘

26、貞信公(ていしんこう)
拾遺集 亭子院、大井河に御幸ありて、行幸もありぬべき所なりとおほせ給ふに、ことのよし奏せむと申して
ひと    みゆき
小倉山(おぐらやま) みねのもみぢ葉 心あらば いま一たびの 御幸またなむ
〔小倉山の峯の紅葉に心があるなら、もう一度行幸があるまで、散るのを待っていよう〕

亭子院(ていじいん=宇多上皇)が大井河に行った時、紅葉がすばらしいから、もう一度行幸があってもいいほどだ、といった。
そのことを醍醐天皇に奉上しようというのでつくつた歌である。御幸は上皇や皇族、行幸は天皇に使われる。
大井河(大堰川)は嵯峨野の小倉山と嵐山の間を流れている。
この歌は、字多上皇が九〇七年に大井河に多くの文人を連れて行った時のものではないか、といわれている。
ただひら
貞信公は藤原忠平(ただひら・八八〇-九四九)のことである。関白藤原基経の四男で、時平、仲平の異母弟。
九三六年、太政大臣となり、醍醐天皇が譲位し、宋雀天皇となると、摂政となり、さらに関白となった。
忠平は字多の信任を受け、時平は醍醐の信任を受けたので、二つのグループが対立していた。
そんな事情からこの歌を読むと、宇多上皇が、この見事な紅葉を醍醐も見にくればいいのに、といったのに対し、時平がいるよゝつでもある。では私が天皇に申し上げて、行幸してもらいましょう、と勝手にいっている。

25、三條右大臣

百人一首百彩-25

海野 弘

25、三條右大臣(さんじょうのうだいじん)
後撰集 女のもとにつかはしける

名にしおはば 逢坂山(おうさかやま)の さねかづら 人にしられで くるよしも哉(がな)

〔(さねかずら)は、草木の中にかくれ、そのつるをのばしていきます。そのつるをたぐつて、人目につかずにしのんでこれないだろうか。逢坂山のさねかずらよ、その名にふさわしいかくれ道を教えてほしいものだ〕
(さねかづら)(真葛) は美男葛ともいう、つる草。(さね)には(さ寝)(共寝) の意味が掛けら
れている。つる草をたぐる、で(来る)の意もある。
三条右大臣(八七三-九三二)は藤原走方(さだかた)で京の三条に邸があった。内大臣藤原高藤(たかふじ)の次男。姉の
胤子は、字多天皇の女御で、醍醐天皇の母である。娘は、醍醐天皇の女御であり、息子の朝恩(ああさただ)も『小倉百人一首』に入っている。定方や藤原兼輔などは和歌のサロンをつくり、紀貴之・大河内窮恒などを後援していたようであり、歌物語である『大和物語』は、このサロンの周辺でつくられたもののよ、つだ。
『小倉百人一首』は、平安時代に形成された和歌のネットワークを示しているともいえるだろう。
ほとんどの歌人は互いに知っていて、歌の詠まれた背景や人間関係についてもよくわかっていたのだ。そのネットワークはまきに(さねかづら)のつるのようにつながり、もつれあっていたのであ

24-菅家

百人一首百彩-24

海野 弘

24-菅家(かんけ)
古今集
朱雀院(すざくいん)のならにおはしましたりける時に、たむけ山にてよみける
たむけやま
此(この)たびは ぬさもとりあへず手向山 もみぢのにしき 神のまにまに

〔今度の旅は、幣(ぬさ)も持たずに出ました。山には紅葉の錦が美しく、幣を捧げる必要がないほどです。神の気持におまかせしましょう〕
幣は錦や絹を細く切ったもので、袋に入れて持ってゆき、旅の途中で、神社などに手向けてゆく。
今度の旅(たびに旅と度が掛けられている) はあわただしく、幣も用意せずに立ってきた。しかし紅葉が見事で、幣などいらないほどである。この自然の幣にまかせて、神の恵みにひたることにしよう、というのである。宋雀院は、出家して上皇となった宇多である。菅家は菅原道真で、八九人年、上皇が奈良から士口野に行った旅に同行した時の歌らしい。
菅原道真(八四五-九〇三)は文章博士として、その文才をうたわれた。宇多天皇に登用され、藤原氏を押さえようとした。宇多が譲位すると、醍醐天皇の補佐役となった。そのため右大臣藤原時平の陰謀で、謀反の疑いにより、九〇一年、大事府に流され、九〇三年、その地で没した。その怨霊におびえた京都は、道真を天満天神として北野に祀った。
彼の死後、藤原氏の勢力は復活し、後期の摂関政治が確立される。
この歌は流される前の、まだ宇多上皇とその子、醍醐天皇の宮廷が花開いていた時のにぎわいを薫らせている。

23-大江千里

百人一首百彩-23

海野 弘
23ー大江千里(おおえのちさと)
古今集 これさだのみこの家の歌合によめる

月見れば 千々(ちぢ)に物こそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど

〔月を見ると、千々に(とめどなく)、ものごとが悲しく思える。秋は私一人のものというわけではないのだが〕

ち(千)と一つが対比されている。作者は、(千々)に、自分の名の千里を意識していたろうか。
おおえのおとんど 大江千里は生没不明。参議大江音人(八二-八七七)の子である。大江音人は、在原行平・業平の兄弟で、千里は甥であるという説もあるが、はつきりしない。音人は文章生として漢文にくわしく、千里も学者として知られた。大江家は学者の家系となり、やはり『小倉百人一首』 に入った大まさふさ江匡房に受け継がれてゆく。
千里の弟は千古(ちふる)で、『後撰集』に入った歌人であった。千里は地方官として伊予に赴任したらしく、また弟千古へのこまやかな思いを歌に詠んでいる。
八九四年、字多天皇の勅で、『自民文集』 の漢詩の詩句を題とした和歌をつくり、『句題和歌』をまとめて献上している。漢詩の和様化に大きな役割を果たした。この歌も、中国の月の詩のモデルがあるのかもしれないが、それを巧みに、日本的な月への想い、秋の哀れへといいかえている。

22-文屋康秀

 

百人一首百彩-22

海野 弘

22-文屋康秀(ふんやのやすひで)
古今集 これさだのみこの家の歌合のうた
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ
〔それが吹くと、秋の草木がしおれてしまうから、山風を嵐というのだな〕

(むべ)は、なるほどの意。なぜ山風を嵐というのか。草木を枯らすからであり、また山と風を組み合わせると嵐の字になるからだ。かなの日本的な意味と漢字のつくり(字形)の両面から、「むべ」(なるほど)なのである。
文屋康秀は、六歌仙の一人であるが、生没不明で、生涯もほとんどわからない。三河や山城の地方官で、小野小町を三河に誘っている。『古今集』 の序では、「言葉巧みにてそのさま身におはず、いはば商人(あきびと)のよき衣着たらむが如し」と評された。表面的なことばのあそびが巧みだが、深みがない、ということだろうか。
しかし歌の才能は認められていて、業平が「ちはやぶる」と詠んだ二条の后の歌会にも、業平、素性とともに出ている。
この歌は、是貞親王の濠の歌合の時のものとある。是貞親王は光孝天皇の第二皇子で、宇多天皇の見であった。この歌合は寛平五年(八九三)にあったという。

21-素性法師

百人一首百彩-21

海野 弘
21-素性法師(そせいほうし)
古今集 題しらず

今こむと いひしばかりに 長月の 有明の月を まち出つるかな
〔今すぐ行くと、おっしゃったから、長月(陰暦九月)の有明の月が出るまで待ってしまいました〕

「まち出つる」と読ませるのは、待っているあなたが来ないのに、待っていない月が出てきた、というニュアJスだからという。そして待っているのは女性である。つまり、男性が女性の身になって歌を詠んでいるのである。
素性法師は僧正遍昭の出家前にできた子である。生没は不明。清和天皇から醍醐天皇ぐらいまで活動していたらしい。業平が、二条の后が東宮の御息所と呼ばれていた時の 「千早ぶる」 の歌を詠んだ会には素性法師も参加していたらしい。それから二十年以上たった字多天皇の時にも活動している。出家した宇多は、素性法師をかわいがっていたという。
『小倉百人一首』には、多くの坊さんが入っているが、浮世を捨てたはずなのに、いずれも、色っぽい恋の歌を詠んでいる。

20-元良親王

百人一首百彩-20

海野 弘

20-元良親王(もと上ししんのう)
後撰集
事いできて後に京極御息所(きょうごくみやすどころ)につかはしける
なにわ
詫びぬれば 今はたおなじ 難波なる 身をつくしても あはむとぞおもふ
〔あなたとのことは世の噂になってしまいました。そのことをわびしく感じますが、どうせ知られてしまったのなら、自分はどうなっても、あなたに逢いたいと思います〕

「なにはなる(難波なる)」は「みをつくし」(澪標)を呼びだす。難波の港の航路の道標と、(身をつくす)(自分を犠牲にする)が掛けられている。そして「なにはなる」は、汚名が立ってしまう意味になっている。
19の伊勢の歌と対になつているかのような、こちらは色好みの男の歌である。
元良親王(八九〇~九四三)は狂える王であった陽成天皇の子である。和歌集『元良親王集』 のはじめに、次のようにある。
「陽成院の一呂もとよしのみこ、いみじきいろこのみにおはしましければ、よにある女のよしときこゆるには、あふにも、あはぬにも、文やり歌よみつつやりたまふ」
そして女性との贈答歌がぎつしりとつづいている。この歌もその一つだ。京極の御息所は、藤原時平(ときひら)の娘の褒子(やすこ)で、宇多天皇の寵を受けていた。元良親王は彼女とも恋愛をしていたが、「尊いでき
て」 (その事がわかってしまったので)、この歌をつかわしたという。まったく懲りない男なのである。またこんな歌を選んだ定家も面白い。

19-伊勢

百人一首百彩-19

海野 弘

19-伊勢(いせ)
新古今集 題不知(しらず)

難波(なにわ)がた 短き芦の ふしのまも 逢はで此の世を すぐしてよとや
〔難波潟に生える芦の、その節と節の問ほどの短い時さえも逢ってくださらないで、この世を過ごせというのでしょうか〕

節の間は短い時を意味する。節はよ(世)とも読む。〈此世)は短く、会わないでいるとすぐに過ぎてしまう。(難波潟)には、難い、むずかしい、の意がこめられている。
伊勢(八七七ごろ~九四二ごろ)は伊勢守藤原継蔭(つぎかげ)の娘で、宇多天皇の后、七条の宮温子(おんし、よしこ)に仕えた。
そして温子の弟藤原仲平と恋に落ちるが破れる。やがて字多天皇の子を生んだ。
字多天皇は菅原道立具を重用し、藤原氏に対抗させた。そして出家して法皇となった。第一皇子の敦仁(あつひと)親王が醍醐天皇となった。藤原氏の摂政を置かず、(延喜の聖代)と呼ばれ、天皇を中心の政権が一時、復活したかに見えた。
字多天皇が出家して、とりのこされた伊勢は、字多天皇の第四子の敦慶(あつよし)親王に誘惑され、一女
中務(なかつかさ)を生んだ。美しく、恋多き女であった伊勢は、小野小町がそうであったように、晩年に落ちぶれて、淋しく死んだという。
この歌にも」多くの男に言い寄られながら、やがて捨てられてしまう女の哀しみが漂っている。

18-藤原敏行朝臣

 百人一首百彩-18

海野 弘

18-藤原敏行朝臣(ふじわらのとしゆきあそん)
古今集
寛平の御時きさいの宮の歌合のうた

住の江の きしによる波 よるさへや 夢のかよひぢ 人めよくらむ
〔住の江の岸べに寄せる浪よ、私は昼間の人目を避けるだけでなく、夜に、夢の中であの人に会いにいく時でさえ、人目を避けようとするのだ〕

「住の江の きしによる波」は、夜を呼び出す序詞である。(住の江)は、大阪の住の江(住吉)で、その岸に寄る彼のように、寄ってほしい、寄りたいという意味もあるのだろう。
この歌を、男の作者が女の気持で詠んだ、という解釈もある。せめて夢の中では、人目を気にせず、もっとたびたびやってきてほしい、住の江の岸の浪が寄せるように、となる。
藤原敏行(生年不明-九〇一または九〇七)は三十六歌仙の一人。能書家であったという。妻は在原業平の妻の妹であった。蔵人などの官職を務めたが、歌人としても活躍tた。『古今集』に入った
「秋来ぬと 日にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」
は、よく知られている。
「寛平の御時きさいの宮の歌合」は、宇多天皇の時、天皇の母、皇大后班子(はんし)の主催した「寛平御時后宮歌合」のことである。

17-在原業平朝臣

百人一首百彩-17

海野 弘

17-在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)
古今集
二条の后(きさき)の春宮(とうぐう)のみやす所と申しける時に、御屏風に竜田川にもみぢながれたる
かたをかけりけるを題にてよめる
千早ぶる 神代もきかず 立田川 からくれなゐに 水くくるとは
〔不思議なことが起こつていた神代においても聞いたことがない。竜田川に紅葉が流れ、まるで、くくり染めで、からくれない(深紅色)に染めたように見える〕

(千早ぶる)は神に掛かる枕詞で、荒れくるう、といっ.た意味がある。神代は、神々がまだ鎮められず、荒々しく暴れていた頃である。くくり染めは放り染めのことだ。川の水が紅葉で、見たこともないほど赤く染まっている。もっともそれは実際の風景ではなく、屏風絵に描かれたものだ。平安朝では、絵の中の風景、想像のイメージが歌われる。
、=Y
在原業平(八二五~八八〇)はすでにのべたように行平の異母弟である。恋多き男で、『伊勢物語』の主人公である。二条の后は、藤原高子(たかいこ)であるが、彼女が東宮の御息所といわれていた頃に、業平とロマンスがあったらしい。高子は十八歳の時、五節舞姫に選ばれて、天女のような美しさで注目
された。高子は叔父良房の世話になり、良房の娘で文徳(もんとく)天皇の女御明子(あきらけいこ)のもとにいたという。そこ
は染殿という良房の邸であった。
それらのことを考えると、この歌も、高子との禁じられた恋を暗示しているように読める。(くくる)は、染殿(そめどの)に掛けられ、このような深紅に染められた恋は、神代にもなかった、というのだ。

16-中納言行平


百人一首百彩-16

海野 弘
16-中納言行平(ちゆうなごんゆきひら)
古今集 題しらず

立わかれ いなばの山の みねにおふる まつとしきかば 今かへりこむ

〔今、お別れして、因幡(いなば)の国(鳥取)へ行きますが、そこの稲羽山の峯に生えている松のように、あなたが待つといってくれるなら、すぐに帰ってきましょう〕
在原行平(八一八-八九三)は平城天皇の孫であるが、臣籍に下り、在原の姓となつた。異母弟に業平(なりひら)がいる。行平は有能な官僚として、各地に赴任し、在原氏のために働いた。八五五年には因幡守に任ぜられ、任地に向かった。この歌はその時のあいさつの歌ではなかったか、といわれている。
遠国に赴くことへの不安と、なに、すぐに帰ってきますよ、という願望の混じったから元気がここもっているかのようだ。
ついに中納言になったが、八八七年、長い役人生活に疲れたのだろうか、役職を辞任し、隠居した。                  若い時、須磨に流され、二人の海女とのロマンスがあったといわれ、『源氏物語』 の須磨の巻のモデルとされる。これは伝説らしい。

15-光孝天皇

百人一首百彩-15

海野 弘
15-光孝天皇(こうこうてんのう)
古今集
仁和のみかど みこにおましましける時に 人にわかなたまひける御うた

君がため 春の野に出(い)でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ
〔君のために、春の野に出て、若菜を摘んだ。その時、雪が降りだし、私の袖にかかった〕

「仁和のみかど」は光孝天皇のことで、まだ皇子の時に、人に若菜を与えた時の歌という。あなたのため、雪の中で若菜を摘んできました、という素直な歌だ。若菜を食べると邪気をはらうといわれ、若菜摘みは年中行事になっていた。
光孝天皇(八三〇-八八七)は仁明天皇の子で、陽成天皇が十七歳で退位させられたので、藤原基経は、すでに五十五歳、貧乏暮らしをしていたこの人を天皇にしたのである。そして基経は関白となつた。思いがけなく天皇になったが、三年余で没した。
したがって、皇子である時代がずいぶん長かったのである。まさか晩年に天皇になるなどとは思ってもいなくて、あまり野心もなかったらしい。そんなことを考えると、このなにげない歌も面白い。自ら若菜を摘んだかどうかはわからないが、あなたのために、雪の中を摘んできました、という素直な言い方に人柄が感じられる。

14-河原左大臣


百人一首百彩-14

海野 弘
14-河原左大臣(かわらのさだいじん)
古今集 題しらず
たれゆえ  みだ
陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰故に 乱れそめにし 我ならなくに
〔陸奥の信夫(しのぶ=福島県)の「もじずり」のように、心がよじれ、乱れてしまったのは、だれのせいなのだろう〕

「しのぶもぢずり」は、はつきりしていない。忍草を布にすりつけて染めることだという。すりつけるので、もじれ(よじれ)、乱れる。それが東北の信夫の染物とされるようになる。「しのぶ」は忍草と忍ぶを掛けていて、(陸奥)(道の奥)に、かくれている、しのんでいる、が結びつく。「陸奥のしのぶもぢずり」は(乱れ)を呼び出す序詞で、乱れ染と乱れ初め、が掛けられている。「我ならなくに」がむずかしい。心を乱すのが、私なのか、あなたなのか、二つの読みができる。一般には、私があなたゆえに、心を乱した、と解釈されている。「我ならなくに」は、私ではないのに、つまり‥私が心を乱したのは、あなたのせいで、私のせいではないのに、となる。
心を乱したのが、あなたとすると、陸奥の乙女よ、だれのために心を乱したのだ、私のせいじゃ
ないよね、と、ちょっと軽い気分の歌となる。

河原左大臣は源融(みなもととおる=822~895)のことで嵯峨天皇の子で、臣籍に下り、源の姓となった。陽成天皇の後継を望んだが、摂政藤原基経にことわられた。京の東六条に豪華な河原院をつくり、陸奥塩釜の風景を写した庭園で知られた。
藤原氏に押さえられたうさを、そこで晴らしていたのだろうか。

13-陽成院


百人一首百彩-13

海野 弘

13-陽成院(ようぜいいん)
後撰集 釣殿のみこに遣はしける
筑波(つくば)ねの みねより落(おつ)る みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
〔筑波山の峯より落ちるみなの川のように、恋がつもりつもって、深い淵になつてしまった〕

筑波山には男体山(なんたいざん)と女体山の二つの峯があって、その間にみな(男女)の州が落ちているという。
そして男女が親しくなる歌垣で知られる。
陽成院(八六人-九四九).は第五十七代天皇で、清和天皇の第一子であった。清和天皇の母は藤原良房の女の明子(あきらけいこ)で、良房は摂政となり、藤原氏の摂関政治がはじまつた。良房の養子基経(もとつね)は、妹の高子(たかいこ)を清和天皇の女御とし、摂政を継いだ。二条の后といわれ、陽成を生んだ。在原業平とも浮名を流した二条の后はスキャンダラスな女性であった。
陽成は九歳で天皇となった。そして十七歳で退位させられた。それから八十二歳まで生きた。退位の理由は狂気であった。蛇に蛙を飲ませたり、女をしばって水に沈めたりしたという。だがそれも藤原氏の陰謀であったかもしれない。
この歌は「釣殿のみこに遣はしける」とある。光孝天皇皇女綏子(やすこ)で、陽成の後宮(こうきゆう)に入った。陽成の歌はこれしか知られていない。狂える王とされているが、この歌からはそれが感じられない。

12-僧正遍昭(そうじょうへんじょう)

百人一首百彩-12

海野 弘

ごせち
12-僧正遍昭(そうじょうへんじょう)
古今集 五節(ごせち)のまひひめをみてよめる

天津風(あまつかぜ)雲のかよひぢ 吹(ふき)とぢよ 乙女のすがた しばしとどめむ
〔天の風よ、雲の間の通い路を吹きとじてくれ」乙女たちの姿をもう少し見ていたいのだ〕
五節の舞姫は、陰暦十一月の豊明節会(とよあかりせちえ)の時の催物で、天武天皇の時にはじまったという。毎年、四人の舞姫が選ばれる。今年とれた新穀を天皇が食べる新嘗祭(にいなめさい)が夜にあり、翌朝になると豊明節会となり、舞姫が五節舞を、五度袖をかえして舞う。四人の舞姫は公卿の娘二人、受領の娘二人となっているが、しだいに衣裳が華美になり、莫大な費用がかかるようになつた。
この歌では舞姫が天女にたとえられ、舞がすむと天に帰っていくのだろう、とされている。
僧正遍昭(816~890)は良岑安世(よしみねのやすよ)の子、桓武天皇の孫で、良琴宗貞(むねさだ)といった。仁明(にんみょう)天皇に仕えたが、八五〇年に仁明が没し、深草山に葬られると、それを悼んで比叡山に入り、出家したという。美男子で、僧侶になっても、女性にもてたらしい。小野小町があこがれた、という伝説もある。
この歌にもそんな色気が感じられる。

11、小野篁(おののたかむら)

百人一首百彩-11

海野 弘

11-参議 篁(さんぎたかむら)
古今集 おきのくににながされける時に ふねにのりていでたつとて 京なる人のもとにつかはしける
はしける
和田(わた)の原 八十鳴(やそしま)かけて こぎ出(いで)ぬと 人にはつげよ あまのつり舟
〔私は今、たくさんの島の間を抜けて、大海に船出をするところだ。釣舟に乗った漁師たちよ、そのことを都の人に伝えてくれ〕

小野篁(802~852)は小野岑(みねもり)の子で、漢詩文、書道にすぐれていた。承和元年(834)、遣唐副使に選ばれたが、大使藤原常嗣(つねつぐ)と対立し、承和五年(836)の出発の時、船に乗らなかった。
そのために官位を奪われ、隠岐島に流された、その時の歌であるという。
博学で、その漢詩文の見事さはよく知られていた。嵯峨(さが)天皇にその学識を認められ、重用された。
しかし反骨的なところがあり、当時、かなり腐敗していた遣唐使の制度を批判したため、隠岐島に流された。その流された日々につづった漢詩や和歌は都に伝えられて、仁明(にんみょう)天皇に許され、承和七年(840)、都に呼びもどされ、やがて参議(中納言の次)になつた。
この歌は、詠まれた事情や時がはっきりしている。自分は不当な罪で今、流されようとしている、漁師たちよ、そのことを都の人々に伝えてほしい、というのである。

10-蝉丸

百人一首百彩-10

海野 弘

10-蝉丸
後撰集 逢坂の関に庵室を造りて住侍りけるに行かふ人を見て

これやこの 行くも帰るも 別れては しるもしらぬも 逢坂(おうさか)の関
〔ああ、ここが、東へ行く人も西へ帰る人も、知っている人も知らない人も、別れてはまた逢うという逢坂の関なのだな〕

逢坂の関は近江と山城の国境で、大津から京都に行く途中である。
北に比叡山(ひえいざん)、南に音羽山(おとわやま)がある。
ぞうしき           だいご
・蝉丸も伝説の人だ。字多天皇の皇子敦実(あつざね)親王の雑色(雑役夫)だつたとも、醍醐天皇の第四皇子だったともいう。盲目で琵琶の名手であったという。その伝説がロマンをかきたて、世阿弥(ぜあみ)の能や近松門左衛門の人形浄瑠璃に作品化された。盲目の琵琶法師のイメージは、遍歴する旅芸人たちの祖として考えられるようになった。
また逢坂の関に庵室を造って住んだ、とあることから、蝉丸神社がつくられ、関を守る道祖神としても祀られた。
この歌は、「行くも帰るも」、「しるもしらぬも」「別れては……逢う」と反対のものを、ことばあそびのように、くりかえす面白さを持っていろ。めまぐるしい人の動きを、関の庵で、ちょっと離れて見ている、という世の中から一歩引いた、隠者のまなざしが感じられる。

9-小野小町(おののこまち)

 

百人一首百彩-9

         海野 弘

9-小野小町(おののこまち)
古今集 題しらず

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに
〔桜の花の色は、すぐに変わり色あせてしまう。私の身も、世の中の雑事の中で、移り変わり、老いてしまった〕

花は、人生の最も美しい時であり、容色のことでもある。美女といわれていた小町も、ちやほやされているうちに、花は散り、実を結ぶことはなかった。(ながめ)は長雨と眺めを掛けている。見ているだけで、恋もまとまらなかった。(ふる)は、古ると降る(長屑)を掛けている。
小野小町も生涯不明で、伝説化されている、絶世の美女が、男たちを振りつづけて、老いさらばえてしまった、という虚栄のむなしさの象徴のように語られている。
小野氏という古い一族の女で、小町は妹娘の意味らしい。やがて小野小町は巫女集団の女神のように信仰され、日本中に小町伝説を持ち歩く、遍歴する巫女たちがあらわれる。
『古今集』の仮名序で、紀貫之は、小野小町について「あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは、女の歌なればなるべし。」といっている。万
葉の女流歌人のおおらかさに対して、王朝におけ′る、男と女をはっきり区別する文化で、最初の女
らしさとそのメランコリーを表現した女流歌人だったのではないだろうか。

8 喜撰法師(きせんほうし)

百人一首百彩-8

海野 弘

8 喜撰法師(きせんほうし)
古今集 題しらず

わが庵(いお)は 都(みやこ)のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり
〔私の庵は、都の巽(たつみ=南東) の宇治山にたっている。そんな暮らしを、人々は、世を憂しとして隠居しているといっている〕
しか
(しかぞ住む)は、鹿が住むではなく、然ぞ住む、つまり、このような暮らしをしている、という意味だ、とされているが、鹿のいるような田園に生きる、としてもいいだろう。宇治山と憂しが掛けられている。
喜撰法師は六歌仙に入っているが、生涯はわからない。山の仙人だったといわれている。猿丸大夫のような山人、役の行者のような山伏であったかもしれない。
百人一首の歌人は、王侯貴族、官吏、宮廷に仕える女人が中心だが、宮廷、都に属さない、山の人々、放浪者、歴史の外にいる人々が入れられている。歌の世界は、一般社会と、そこから排除されている人々をつないでいるらしい。
この歌も、王朝の栄華を求める生活とは別の′、隠居し、仙界に遊ぶ、というもう一つの生き方がある、といっているかのようだ。世捨人のように世間はいうが、この生き方が私にとっては自然なのだと喜撰はいう。すると定家のような宮廷人も、ふと、そうかもしれないと思ったりする。

7、安倍伸麿

百人一首百彩-7

海野 弘

7、安倍伸麿
古今集 もろこしにて月を見てよみける

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
〔大空の彼方を、はるかに凝視すると、ふるさとの春日の、三笠山から出てきた月が見える〕

仲麿は中国の唐に留学している。そこで月を見上げ、それを通して、月の出を見た故国の三笠山をしのんでいる。
_
安倍仲麿(仲麻呂) (六九人-七七〇)は十六歳で留学生として唐に渡った。玄宗皇帝に仕え、李白など唐の文人とも交遊した。七五三年、帰国の途についたが、嵐のため安南に流され、中国にもどり、その地で没した。
望郷の想いが切々と伝わってくる。彼の歌はこれ一首しか伝わっていない。どのような時に詠んだのだろケか。それはどのように日本に伝えられたのか。                 一
「ふりさけ見れば」は、頭をぐつとそらして見上げ、目を裂けるように大きく見開いて見よ、という感じだ。また、上天の月を反射板として、その下にあるはずの故国をイメージしている。「春日」は「微か」に通じ、月に、三笠山が微かに映っているとも読めるのではないだろうか。
以上の七人で奈良朝の歌人が終わる。ここまでは序章といえるだろう。そして平安朝に入ってゆく。百人一首の読み札は、安部伸麿となっている。

6、中納言家持

百人一首百彩-6

海野 弘

やかもち
6、中納言家持(やかもち)
新古今集 題しらず

鵠(かささぎ)の わたせるはしに おく霜の しろきをみれば 夜ぞ更けにける
〔鶴(かささぎ)が渡した橋に、霜が降り、白くなっているっそれを見ると、夜が更けたことを感じさせる〕

七夕伝説にちなんでいる。中国の伝説によると、七夕の夜、鶴が天の川に羽根を並べて橋をつくり、織女を牽牛のところへ渡したという。だから、橋に霜が下りて、鶴の羽根を並べたように白く見える、と訳した方がいいかもしれない。鶴は、からすの一種であるが、腹と肩羽が白で、他は黒だという。
だから、鶴が羽根を並べて橋をつくれば、白と黒になつたはずだ。この歌は、夜の黒と霜のしろ白が対比されている。また、七夕という夏の風物を冬の夜に配している。
大伴家持(716または718~785)は父の大伴旅人(たびと・665~731)とともに「万葉集」の代表的な歌人であった。地方官吏となったが、新興の藤原氏が大伴氏を排除しようとし、その政治的な陰謀によって、家持も官位を奪われ、死後も罪をきせられた。このすばらしい歌人は、滅びゆく一族の政治的生活を避けられず、晩年は歌を奪われてしまった。
だからこの歌を、鶴が夏に掛けた白い美しい橋が、冬の霜の橋に変わり、この世も、冬の寒い夜にさしかかっている、と読んでみたくなる。

5、猿丸大夫(さるまるだゆう) 古今集


百人一首百彩-5

海野 弘

5、猿丸大夫(さるまるだゆう) 古今集 これさだのみこの家の歌合(うたあわせ)のうた
なく
奥山に もみぢふみわけ 鳴鹿の こゑきく時ぞ 秋はかなしき

〔奥山の紅葉をふみ分けて、鳴く鹿の声を聞く時、秋の悲しさが迫ってくる〕

単純でわかりやすい歌のようだが、どこで切って読むかによって別な解釈になる。
五七で切るか五七五で切るか、である。五七で切れば、奥山に紅葉をふみ分けていくのは作者ということになる。
そこで鹿の声を聞くのである。五七五で切ると、紅葉をふみ分けてくるのは鹿で、作者は遠くでその声を聞いていることになる。
猿丸大夫もまったく生涯が不明で、実在したかどうかもわからない。この歌は『古今集』に、是貞(これさだ)のみ「この家の歌合のうた」として入っているが「よみ人しらず」となっている。定家はなぜかそれを猿丸大夫の作としている。是貞親王は光孝天皇の第二皇子で、この歌合は八九三年に開かれた。
猿丸大夫を伝説の山人、山伏と考えてみると、自ら奥山に紅葉をふみ分けて入っていくのも不思議ではない。秋の鹿は妻を求めて鳴き、恋の悲しみを感じさせるとされていた。

百人一首百彩-4

百人一首百彩-4

海野 弘

山部赤人(やまべのあかひと) 新古今集 題しらず

 
田子の浦に 打ち出て見れば 白妙の 富士の高嶺(たかね)に 雪はふりつつ

〔田子の浦(静岡県)に出て見ると、富士の高嶺にまっ白な雪がふりつもっている〕

現代語訳がいらないほどまっすぐな歌だ。雄大な風景が広がっている『万葉集』の原歌は「ふりける」になっている。
田子の浦から見ているのだから、降っているところは見えない。「ふりつつ」はおかしい。
「ふりける」なら、降ってつもった雪が見えている、とい                            l
ゝブことで納得できる。『新古今集』で「ふりつつ」としたのは、改悪である、といわれている。
見たものをそのままに歌う『万葉集』と、見ていないもの、見えないものも歌おうとする『新古今集』のちがいがあらわれている。
山部赤人についても生涯はわからない。人麿と並ぶ歌人といわれた。やはり宮廷御用の歌人だったらしい。流動の人麿、浄頸の赤人といわれたそうである。流れるような動きと浄(きよ)く頸(つよ)いの対比である。人麿は人間の激情を、赤人はのびやかな自然を詠んだ。
山部赤人は聖武天皇に従って紀伊・吉野に行っているので、八世紀半ばに活動している。駿河、下総、播磨などの地方も旅している。

 

3、柿本人麿


百人一首百彩-3

海野 弘

3、柿本人麿(かきのもとのひとまろ)拾遺集 題しらず

足曳(あしびき)の 山どりの尾のしだり尾の ながながし夜を 獨りかもねむ
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〔ヤマドリの尾のように、たれさがって、ひきずっているように、長い長い夜を、ひとりで眠るしかないのだ〕
長い夜の孤独な想いは、なにをめぐつているのだろうか。『拾遺集』では(恋の部)に入れている。
愛する人が来ない夜のこととすればわかりよい。長い山どりの尾は、女の黒髪のイメージであるといった解釈もある。
しかし孤独な想いは、恋に限らなくてもいいかもしれない。たとえば罪を問われて地方に流されている、といったことも考えられる、さまざまなことを想像できる歌だ。
柿本人麿(人麻呂)の生涯はほとんどわからない。『万葉集』に入っている歌から推測できるだけである。それによると持統・文武朝(七~八世紀)に活動したらしい。身分の低い官吏で、歌の才能を認められて、天皇のお伴をし、それを讃える歌をつくつている。たとえば持統天皇の吉野行幸に従い、吉野離宮の歌をつくり、軽皇子(かるのみこ=のちの文武天皇)の狩りに従い、軽皇子の父草壁皇子をしのぶ歌をつくつた。一方、軽{奈良県橿原(かしはら)}にいた妻を亡くした悲しみ、石見{いわみ(いまの島根県西部)}の妻との別れの歌など、個人的な変の歌もある。歌の聖とされた人麿についてはさまざまな伝説がつくられた。孤独な夜の想いも、愛なのか、政治的陰謀をめぐるものなのかわからない。

2、持統天皇


百人一首百彩-2

海野 弘

2、持統天皇(じとうてんのう) 新古今集 題しらず

春すぎて 夏きにけらし白妙(しろたえ)の 衣(ころも)ほすてふ 天のかぐ山

〔寿が過ぎ、夏が来たようだ。天の香具山に白い衣を干すようになったという〕

夏の白い衣に着替えるために、それをひろげて空気にさらす。奈良の大和三山の一つ香具山の山腹に、そんな白い衣が干してあるのが見える。
『万葉集』では「衣ほしたり」となつていて、直接見た風景がうたわれているが、『新古今集』では「衣ほすてふ」(衣を干してあるということだ)と、間接的になっている。
持統天皇(六四五~七〇二)は天智天皇の第二皇女で、天武天皇の皇后であった。天智の没後、大海人皇子と大友皇子は皇位継承をめぐつて争う。壬申の乱に勝利した大海人は天武天皇となった。
天武の没後、皇后はその仕事を継ぎ、持統天皇となつた。六九四年、藤原京に移った。ここから香具山がまっ正面に見える。
「春すぎて 夏きにけらし」も、藤原京という新都に移ること、衣かえの時であり、新しい自分の世が来たのだ、というように読んでみたくなる。
ともかく、香具山に白い衣が干してある、と′いう非常に視覚的な歌である。

 1、天智天皇

百人一首百彩-1

海野 弘
1、天智天皇(てんじてんのう) 後撰集 題しらず

秋の田の かりほの庵(いお)の 苫(とま)をあらみ わがころも手は 露にぬれつつ

〔秋の田のそばの仮小屋に寝ていると、屋根を葺(ふ)く苫の目があらいので、露がもれてきて、私の袖を濡らす〕

天智天皇(六二六~六七二)は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)として、蘇我蝦夷(そがえみし)・入鹿(いるか)父子を倒し、大化改新を行い、律令国家を築いた。
六六七年、近江京に遷都し、六六鉢年、第三十八代天皇として即位した。しかし病いに倒れ、後を託すはずの弟の大海人王子(おおあmのおうじ=のちの天武天皇)とうまくいかず、多難なうちに没した。
この歌は、天智天皇の歌かどうかはっきりしないが、天智の歌として考えてみると、なかなか面白い。
大化改新を行なつて、新しい律令制度による国をつくつた。しかしそれはまだ仮小屋のようなもので、制度が整わず、そのあらい目から、いろいろな欠陥が入りこんできて、私を悩ませている。
そんなふうに読んでみたくなる。天智の理想や夢が現実の前に崩れてゆく悲しみが浮かんでくる。

『小倉百人一首』と美術-3


『小倉百人一首』と美術-3

海野 弘

一方、古い歌人が歌仙として崇拝されるようになる。それは『古今集』などで在原業平など六人をとりあげたことにはじまり、やがて六歌仙と称される。さらに藤原公任(九六六~一〇四一)が選んだ(三十六歌仙)が知られるようになる。
人丸、貫之、窮恒、伊勢、家持、赤人、業平、遍昭、猿丸、友則、素性、小町、兼輔、朝恩、敦忠、高光、公忠、忠琴、斎官女御、頼基、敏行、重之、宗干、信明、清正、順、興風、元輔、是則、元其、三条院女蔵人左近、仲文、能宣、忠見、兼盛、中務の三十六人で、そのほとんどは『小倉百人一首』に入っている。
これらの歌人の作品を集めた 『三十六人家集』が平安未からつくられる。そして鎌倉時代には、(歌仙絵)という、似せ絵(肖像) がつけられることになる。(歌仙絵)のはじまりははっきりしないが、平安末にはあらわれていたともいわれる。たとえば(歌合絵)と呼ばれる、二人の歌仙を組合せたものもあった。
歌仙の中でも柿本人麿は特に歌の神として崇拝され、人麿像がおびただしく描かれた。
(歌仙絵)は鎌倉時代以後も措かれ、扇絵や絵馬などになった。そして、桃山から江戸にはカルタ絵に受け継がれる。男は直衣、女は十二単衣などを着た歌人像は、平安・鎌倉の(歌仙絵)をもとにしているのである。
かな文字で描かれる和歌は、華麗を料紙を一彩る装飾として展開され、さらにその視覚的なイメージ風景が絵画や工芸意匠を呼びだし、文学と美術が総合されたアートの世界をつくり上げた。『小倉百人一首』は、その最も人気のあるテーマなのだ。私たちはそれを歌を読む喜び、絵を見る楽しみとして、ことばとイメージの間を自由に往来して、その世界に遊ぶことができるのだ。

『小倉百人一首』と美術-2


『小倉百人一首』と美術-2

海野 弘

平安期の和歌では(題詠)がよく行なわれた。ある題を出して、それにちなむ歌をつくるのである。(題詠)の流行には(やまと絵)が関係があった。
「倭絵が起つて屏風絵にそれが用ゐられるやうになるにつれ、それを題にすることが行はれた」(津田左右吉『文学に現はれたる国民思想の研究』岩波書店一九五一)
現実の風景ではなく、絵を見て歌を詠むのである。
「これは後にいふ紙絵や扇の絵の歌または絵物語と共に、絵画と文学との結合といふ平安期文芸の一特色となすものである。」 (前掲書)
風巻景次郎『中世の文学伝統』も、平安文化の絵画性に触れている。
「この頃の芸術全体の上の特色は絵画的要素の支配した点であった。絵画的ということは、彫刻や建築やらを一層視覚的快楽に奉仕させるようにをる。線条は繊細に、色彩は美麗になる。絵画には仏像画ばかりのところへ風景画が成立する。そして広大な空間を感じさせる画面が成立するようになる。文学の上では描写が成立して、読む中に、まざまざと視覚的映像をよびさますような技巧が生れる。」 (岩波文庫一九八五)
和歌は絵の中の風景を詠ずる。和歌は絵画的、視覚的になり、イメージを語り、屏風絵、障子絵と密接に結びつくものとなる。
このように、平安期には、屏風絵、障子絵さらに紙絵(絵巻など)を見て歌を詠むようになる。
室内的になるともいえる。そして歌そのものが、身近な風景を描写し、視覚的になる。『小倉百人一首』も障子絵という室内装飾と結びついてあらわれる。

『小倉百人一首』と美術-1

『小倉百人一首』と美術-1

海野 弘

すでにのべたように、藤原定家はその日記『明月記』の一二三五年五月二十七日に、嵯峨中院障子の色紙形に、天智天皇から家隆雅経までの歌人の歌各一首ずつを書いたと記している。これが『小倉百人一首』の原形だろうといわれる。頓阿(とんあ)一二八九~一三七二年の『井蛙抄(せいあしょう)』巻六には、京極殿(定家)が、「嵯峨の山荘の障子に、上古以来の歌仙百人のにせ絵を書て、各一首の歌を書きそへられたる…」と伝えている。
これによると、定家は、歌を書いただけでなく、似せ絵(肖像画)まで描いたようにもとれるが、定家が絵を描くとは聞いたことがない。ともかく頓阿の頃(十四世紀)になると、歌と歌人の肖像がセットになった(歌仙絵)が一般的になり、『小倉百人一首』もそうだったろうと考えられたのである。
そのような(歌仙絵)は、百人一首カルタに受け継がれて、現代でも親しまれている。興味深いのは、定家の書いた障子の色紙形がどのようなものだったかわからないが、かなり早くから、『小倉百人一首』は絵画と密接な関係があったということである。
『古今集』 のあたりで、仮名による(やまとうた)すなわち和歌が確立するが、その同時代である九世紀に、唐様、つまり中国的な絵画に村する(やまと絵)が成立してくることが注目される。そして、(やまとうた)と(やまと絵)は結びついた。

和歌史と『小倉百人一首』ー3

和歌史と『小倉百人一首』ー3

海野 弘

一一八八年に『千載集』が出された。藤原俊成、西行法師、寂蓮法師、慈円、道因法師、式子内親王、讃岐などが『小倉百人一首』に入った。
そして鎌倉時代に入り、『新古今集』(…〇五)が出た。『古今集』以後の吏朝和歌のまとめであつた。後鳥羽院、藤原良経、藤原雅経、藤原定家、源実朝きが『小倉百人盲』に入った。
三五年の『新勅攫集』からは藤原公経が入った。
そして三三五年ごろに『小倉百人二日』が選ばれたといわれる。
以上をまとめると、平安時代の第一期から第二期(摂関時代)への過渡期に『古今集』がまとめられ、第二期には『後撰集』『拾遺集』『後拾遺集』がまとめられ、撃二期(院政時代)は『千載集』にまとめられ、鎌倉時代に入って、『新古今集』によって、あらためて、『古今集』以後の時代の和歌がまとめられた、と見ることができるだろ、つ。
『万葉集』 と 『古今集』 『新古今集』 を‥対比してみると、思い、風景、出来事を直拙傍にうたった前者に対して、後者は知的、技巧的になっている。共同体から個人生活へ、野外から室内へ、ともいえる。平安期に、和歌が芸術として確立、整備された。単純化していえば、ものと結びついていたことばを独立させ、ことばそのものを自由に操作歌がまとめられた、と見ることができるだろう。『万葉集』と『古今集』『新古今集』を‥対比してみると、思い、風景、出来事を直拙傍にうたった前
者に対して、後者は知的、技巧的になっている。共同体から個人生活へ、野外から室内へ、ともいえる。平安期に、和歌が芸術として確立、整備された。単純化していえば、ものと結びついていたことばを独立させ、ことばそのものを自由に操作できるようにした。ことばをデザイン化したといっておこう。
与り
具体的にいえば、ことばを集め、分類し、インデックスをつくり、引用できるようにした。それによって、歌から歌がつくれるようになった。いわゆる本歌どりである。表現も、重層的、屈折的になり、比喩や、かけことばが使われるようになる。そのため、古い歌の知識や、ことばの技巧が必要となる。
逆にいえば、歌は、才能がなくても、学習すれば、だれでもつくれるものとなる。『小倉百人一首』はまさに、そのような、和歌のデザイン化時代が生み出したテキストではなかったろうか。