70-良ぜん法師(りょうぜんほうし)

百人一首百彩-70

海野 弘
70-良ぜん法師(りょうぜんほうし)
後拾遺集 題しらず

淋しさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋のゆふぐれ
(淋しさを感じて、家を出てあたりを眺めると、どこも同じような秋の夕暮である)

そのまま読んでわかる、訳もいらないように見える歌だ。このように淡々と情景を詠んでいく自然な感じが清新な感じをもたらす。
師は生没不明。十一世紀なかば、後宋雀、後冷泉の時代に活躍した。叡山の僧であったと能国法師などと同じく、宗教活動よりは歌僧として上流貴族に招かれて歌会に出る方が多かった。和歌が社交となり、座の芸術の様相を帯びてきた。また、中宮、女御など女性が主宰する歌会が多くなった。座の変化をつけるため、また後宮という女性社会であるため、中性的な、僧体の人は都合がよかった。
平安後期には、熊野参りなどの宗教行事が流行し、精神生活の不安、末世思想などから、祈祷が盛んになり、生活と宗教が混じり合うようになった。
歌の世界でも聖俗の混合が行なわれ、歌法師たちが、いわば芸人としてもてはやされたのであった。

69-能因法師(のういんほうし)

 69-能因法師(のういんほうし)
後拾遺集 永承四年内裏歌合に詠める

  嵐吹く 三室(みむろ)の山の もみぢ葉は 龍田(たつた)の川の にしき成けり
〔嵐の吹く三室山の紅葉は、散り落ちて、龍田川の錦になった〕

 三室山は奈良県生駒山のことという。歌枕である。龍田川はそのふもとを流れる。嵐で散った紅葉が川を錦のように彩っている、という視覚的な歌で、在原業平の歌と似ている。
能因法師は生没不明。俗名は橘永憶(たちばなのながや)。藤原長能(ながとう)の歌道の弟子となつた。長能は道綱母の兄である。歌道の師弟関係が結ばれ、歌道の家がつくられていてはしりであるという。
能因は若くして出家し、摂津国古曾部に住み、歌僧として活躍した。深い信仰があったというより、むしろ僧体の方が自由に旅をして、歌作に専念するのに便利であったかららしい。だから歌には宗教色がない。
能因法師は、見たこともない奥州の白河の関の歌を都にいてつくつたという話があるが、これは伝説らしく、実際は二度ほど奥州に下っている。日本中を旅して、その風景を詠むというのもこの時代の新しい傾向なのだ。(歌枕)が確立されてくる。能因は、旅の風景を詠み、地方に都の和歌のつくり方を広めることに大きな役割を果たしたのではないだろうか。

68-三条院(さんじょういん)

百人一首百彩-68

海野 弘

68-三条院(さんじょういん)
後拾遺集 例ならずおはしまして、位などさらむと覚しめしける頃、月のあかかりけるを御覧じて

心にも あらで憂世(うきよ)にながらへば、戀しかるべき 夜半の月かな
〔こころにもなく、この憂き世に生きながらえていれば、この夜の、こうこうと照っている月を恋しく思い出すだろう〕

三条院は三条天皇(九七六-一〇一七)である。詞書によると、「例ならず」(身体の具合が悪く)、退位しょうか悩んでいた。その夜の月の明るさを見て詠んだ歌である。
権中納言走頼のところでのべたように、三条天皇は道長に退位を迫られていた。その時、つくつた歌らしい。
天皇をやめてしまって、なんのいいこともなくこのまま生きていくなら、今夜の美しい月のことを思い出すだろう。天皇としてこの月を見るのは、今夜で終わりなのだ。
三条天皇は眼病を患っており、失明して、月が見えなくなる、というおそれもこめられているという。三条は退位し、道長の孫が後一条天皇となり、道長の天下となる。

67-周防内侍(すおうのないし)

百人一首百彩-64

海野 弘

67-周防内侍(すおうのないし)
千載集 二月ばかり月のあかき夜、二条院にて人々あまたゐあかして、物語などし侍りけるに、内侍周防よりふして、枕をがなとしのびやかに言ふを聞きて、大納言患家是を枕にとて、かひなをみすの下よりさし入れて侍りければ詠み侍りける
たまくら

春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなくたたむ 名こそをしけれ
〔春の夜の夢にしかすぎない手枕のために、浮名が立ってしまうのは割が合いませんし、残念です〕

詞書によると、二月ごろ、月夜の晩に二条院に集まっておしゃべりをしていた。周防内侍は横になり、「枕がほしい」といった。すると大納言忠家が簾(みす)の下から手を入れて、これを枕に、といったのに答えたものだ。
そんな冗談のような手枕をしたりすれば、本当の恋でもないのに噂になってしまって、評判が悪くなるのはごめんですよ、というのである。
周防内侍は生没不明。後冷泉、白河、堀河に仕えたという。本名は平伸子。
二条院は後冷泉天皇の中宮章子である。大納言忠家は、藤原道長の孫で、歌人として知られ、そ
の家系は御子左家(みこひだりけ)と呼ばれ、藤原定家につながる。

前大僧正行尊

66-前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)
金葉集 大峯にておもひもかけずさくらの花の咲たりけるをみて詠める

もろともに 哀(あわれ)と思へ 山櫻 花より外(ほか)に しる人もなし
〔山桜よ、ともにあめれと思おうではないか。おまえを見ているのは、私一人しかいないが、私を知っているのも、おまえしかいないのだから〕

哀は、哀れだけでなく、親しく、なつかしく思うという意味でもある。大峯(奈良)に山ごもりしている時に人知れず咲いでいる桜を見て詠んだ歌という。
 前大僧正行尊(一〇五五-一一三五)は三条院の子孫で、参議源基平(もとひら)の三男。十二才で園城寺に入り      出家し、諸国行脚の旅をし、山伏修験の行者として知られる。一一二三年、延暦寺の座主(ざす)となった。
平安時代に密教の影響で、山に入って修行する修験道が盛んになった。大峯山鳩醍醐寺の聖宝にょって開かれ、修験道の中心となった。平安後期には貴族の帰依によJ密教の寺院がつくられ、祈祷が行なわれた。行尊は霊験あらたかな行者として都の注目を集めた。また歌人としても知られた。
彼についてはさまざまな不思議な話が伝えられている。歌と魔術とはどのように結びついているのだろうか。

65-相模(さがみ)

 65-相模(さがみ)
後拾遺集 永埜ハ年、椰鼻歌合に

うらみわび ほさぬ袖だに ある物を 恋にに朽ちなむ 名こそをしけれ
〔恋の悩みをうらんだり悲しんだりして、涙に濡れた袖を乾かす間もないのに、恋によって、名前も朽ちてしまうのは残念です〕

濡れたまま乾さないので、袖がぼろぼろになってしまうことと、恋の噂で名前もぼろぼろになることを重ねている。
相模は生没不明。源頼光(よりみつ)の娘ともいわれる。乙侍従の名で宮仕えし、大江公資(さんすけ)と結婚し、その住

地相模に下ったので、こう呼ばれる。公資と別れてから、一品宮祐子(いっばんみやゆうし)内親王に仕え、歌人として知られた。藤原定頼などともつきあいがあり、そのことはうかがわれる。恋をして、思いが詠まれている。
永承六年(一〇五一)は後冷泉天皇、恋の噂が多い。魅力的な女性であったようだ。この歌からもそれを悩み、また世間の噂にも悩むという、悲観的な女性の関白頼通の時代である。この年に東北で叛乱が起こつた。前九年の役である。藤原氏の摂関政治にかげりがあらわれる。相模の憂愁も時代の影であるかもしれない。

64ー権中納言定頼

百人一首百彩-64

海野 弘
64ー権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)
千載集 宇治にまかりて侍りける時詠める

朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれ渡る 瀬々のあじろ木
〔朝、日が昇ってくると、宇治の川霧も散り散りになってきて、あちこちの瀬に掛けられた網代木が見えてくる〕
ひお
網代木は魚をとるための竹の寵を留める杭である。宇治川では冬に氷魚をとるための網代をかける。風景をくつきりと見えるよケに描写している。
権中納言定頼(九九五-一〇四五)は藤原公任の子。小式部内侍のところでも登場した。軽薄でおっちょこちょい、憎めない才子であったという。さまざまなエピソードが伝えられているが、長和三年(一〇一三)、三条天皇の伴で春日神社に行った時、敦明(あつあきら)親王の従者をなぐつたので、五年間、行事の役をとりあげられたという。
一条天皇を継いだ三条天皇は、藤原氏の権力に最も苦しんだ天皇といわれる。道長から無視された。三条の子敦明親王の従者に走頼が乱暴したのも、藤原氏が三条天皇を軽視していたからだろう。
道長は三条に迫って退位させる。それによって皇女当子(まさこ)が斎宮の役を解かれ、都にもどってきたのである。そして道雅と当子のスキャンダルが三条に決定的な打撃を与えた。
三条と道長の権力抗争を背景に、道雅、走頼といった貴公子たちが踊っていたのである。

63ー左京大夫道雅

百人一首百彩-63

海野 弘

63ー左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)
後拾遺集 伊勢の斎言わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひける事を、おほやけもきこしめして、まもりめなどつけさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ詠み侍りける

今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
〔今はもう、思いを絶たないといけないのだが、そのことだけでも、人づてでなく、直接お伝えできたらいいのですが〕

詞書によると、伊勢の斎宮(さいぐう)であった人とひそかに逢っていたが、天皇にも知られて、守り女(番人)がつけられ、近寄れなくなってしまったことを嘆いた歌である。
天皇が即位すると、皇女を伊勢神宮奉仕に送る。その未婚の皇女を斎宮という。この話の斎宮は三条天皇の皇女当子(まさこ)であった。
左京大夫道雅は藤原道雅(九九二-一〇五四)で、儀同三司藤原伊周の子。儀同三司母の孫となる。
『栄花物語』には、道雅が三条天皇の皇女正子に通ったので、天皇は正子を尼にしたとある。
中の関白家といわれた伊周の家は道長との権力争いに敗れて衰えていき、道雅も世をすねたところがあったらしい。従三位右京大夫となつたが、悪三位とか荒三位といわれた。しかし晩年は、文人として静かに暮らしたようだ。

62ー清少納言

62ー清少納言(せいしょうなごん)
後拾遺集 大納言行成、物語などし侍りけるに、内の物いみにこもればとて、いそぎ帰りて、つとめて、鳥の声にもよほされてといひおこせて侍りければ、夜深かりける鳥の声は函谷関(かんこくかん)のことにやといひ達したりけるを、立帰り、是は逢坂の関に侍るとあれば詠み侍りける。

 

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よにあふさかの 関はゆるさじ
〔真夜中に、鶏のうそ鳴きでごまかそうとしても、逢坂の関は開かないでしょう〕

故事を知らないとわからない歌だ。詞書によると、藤原行成(ゆきなり)が訪ねてきて、おしゃべりをしていたが、内の物忌みがあるからと、いそいで帰ってしまった・。昨朝、鶏の声がしたので、夜明けと思って早帰りをしましたと言い訳の手紙が来た。それに対して、夜中の鶏の声というのは函谷関のことですか、と返事をすると、いや逢坂の関のことですといってきた。それに対する歌である。
「函谷関のこと」というのは、『史記』に出てくるもので、戟国時代、孟嘗君(もうこうくん)は三千人の食客を養っていたが、秦に捕われた時、鶏の鳴き声のうまい食客に鳴かせて、夜明けと思った関守に扉を開けさせ、脱出したという故事である。行成は、いやそうではなくて、あなたに逢いたいと思う逢坂の関のことですよ、と答えるが、作者は、鶏の声でだましても逢坂の関は開きません、と切り返す。
清少納言は生没不明。清原元締の娘。一条天皇の皇后定子(ていし)に仕え、その教養で男たちと競った。
紫式部には、したり顔で、さかしい (賢こぶっている)などといわれた。一〇〇〇年に定子が亡くなると、尼になったという。この歌をめぐる話は『枕草子』に出ている。

61-伊勢大府輔(いせのたいふ)

百人一首百彩-61

海野 弘

61-伊勢大府輔(いせのたいふ)
詞花集 一条院御時、ならの八重桜を人の奉(たてまつり)けるを、其の折御前に侍りければ、その花を
題にて歌詠めとおほせごとありければ

いにしへの 奈良の都の 八重樺 けふ九重(ここのえ)に 匂ひぬるかな
〔いにしえの 奈良の都の八重桜、今日は、宮中で美しく薫っています〕

九重は、王城の門が九重にめぐらしてあるという意味で、八重桜が九重(宮中)で咲いている、ということばの遊びである。
詞書によると、一条院(在位九人六-一〇一一)に桜花を奉った人がいて、帝は、それについて歌を詠めといった。その時の歌である。したがって、古くからの桜が宮中(九重)で、また一段と美しく
咲きほこつている、と桜を通して帝を請えているのである。          、
伊勢大輔(生没不明)は、神祇伯祭主大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の娘。伊勢神宮の神宮でをる大中臣家の歌人群の                                    し上、つし
一人である。頼基、能宣、輔親と代々つづいている。上東門院彰子(道長の中宮)に仕えた。和泉式部、紫式部、赤染衛門、小式部内侍と共に、(梨壷の五歌仙)として道長の時代を飾った。

60ー小式部内侍(こしきぷのないし)

百人一首百彩-60

海野 弘

60ー小式部内侍(こしきぷのないし)
金葉集 和泉式部、保昌にぐして丹後国に侍りけるころ、都に歌合のありけるに、小式部内侍歌詠みにとられて侍りけるを、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌いかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしけるや、使はまうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむ、などとカはぶれて立ちけるを、ひきとどめて詠める。

大江山 いくのの道の とほければ まだふみも見ず あまのはしだて
〔大江山に向かう幾野の道は遠いので、さらにその彼方の天の橋立は見たこともなく、そこからの手紙も来ません〕

一つの物語のような長い詞書がついている。和泉式部が藤原保昌(やすまさ)と再婚して、夫の赴任した丹後に行ってしまった。都に歌合があり、娘の小式部内侍(ないし)が呼ばれた。すると藤原公任の息子の定頼がやってきてたわむれた。彼は軽薄な才子といわれていた。歌はどうしました。丹後にいるお母さん
に頼みましたか。まだ歌はとどいていませんか、などとからかったのである。
それに対して、この歌を詠んでみせた。大江山の彼方の天の橋立 (丹後) は遠いので、行ったこともないし、歌なんか頼んでいませんよ、というのである。
幾野(生野) には(行く)が掛けられ、「ふみも見ず」は、文(手紙)も見ずと踏みもみず(行った
こともない)が掛けられている。私だって、母に頼まなくても歌が詠めますよ、と切り返している。
小式部内侍(九九九?-一〇二五)は、和泉式部と橘道貞の子。母とともに中宮彰子に仕えた。道長の子敦道(のりみち)をはじめ多くの男に愛されたが、母より先に亡くなった。

59ー赤染衛門(あかぞめえもん)

百人一首百彩-59

海野 弘

59ー赤染衛門(あかぞめえもん)
後拾遺集
なかの関白、少将に侍りける時、はらからなる人に物いひわたり侍りけり。たのめてこざりけるつとめて、女にかはりて詠める
さよふ
やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな
〔くずくずしていないで、寝てしまえばよかったのですが、いつか夜がふけてしまって、月がかたむいたのを見ることになってしまいました〕

中開自は藤原道隆で儀同三司母にも通っていた。この人が少将だった時、作者の姉妹のところに通ってきた。しかし、ある夜、約束して来なかったので、「つとめて」(早朝)に、彼女の代わりに作者がこの歌を詠んで送った、と詞書にある。
自分のことでなく、姉妹の代わりなので、本当に馬鹿な娘です。来ないのだから寝ればいいのに、朝まで起きていたようですよ、といったニュアンスである。
赤染衛門は生没不明。母は平兼盛と別れて赤染時用(ときもち)と結婚し、彼女が生まれたが、兼盛の子だったのではないか、といわれている。道長の妻倫子(りんし)に仕え、のちに文章博士大江匡衡(まさひら)の妻となつた。
非常に才女で学者や文人との広いつきあいをし、歌や文章も、他の人のために代作を引き受けるほどうまかった。道長の栄華の時代を見とどけた。『栄花物語』は彼女が書いたのではないか、といわれる。

58-大弐三位(だいにのさんみ)

百人一首百彩-58

海野 弘

58-大弐三位(だいにのさんみ)
後拾遺集 かれがれなるをとこの、おぼつかなくなどいひたりけるに詠める

有馬山 ゐなのささ原 風ふけば 出そよ人を 忘れやはする

〔有馬山の猪名の笹原にそよそよと風が吹きます。そのように、私の心を動かした人をどうして忘れることがあるでしょう〕

詞書によると、「かれがれ」(離れがち)の男が、あなたの気持がよくわからないので、などといっ
たことへの答えである。
有馬山は摂津(兵庫) の山。猪名の笹原は摂津の猪名川(尼崎あたり)の両岸の笹原で、有馬山と猪名の笹原は一緒に使われ、「そよ」を呼び出す。「そよ」は、それよ、そのことよ、の意味。風のそよぎも掛けられている。
訳しにくい歌だが、有馬山と猪名の笹原は、(あり)と(いな)を対比させ、来た叫、来なかったり、という意味かもしれない。そんな当てにならない人であるが、軋が炊いて、笹がざわざわすると、来たのではないかと心乱されて、忘れることはできない。
大弐三位は生没不明。藤原宣孝と紫式部の娘の賢子(けんし)。正三位大事大弐高階(たかしな)成章の妻となって、こう呼ばれる。
紫式部は情熱に流されることは少なかったようで、だからこそ『源氏物語』が書けたのかもしれない。娘は、母とちがって、かなり多くの恋をしたようだ。

57ー 紫式部

百人一首百彩-57

海野 弘

57ー 紫式部(むらききしきぷ)
新古今集 はやくよりわらはともだちに侍りける人の、としごろへてゆきあひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきほひてかへり侍りければ

めぐり逢いて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな
〔ひさしぶりにめぐり番って、はっきりその人かどうか見ようとしているうちに、月が雲に入って、見えなくなつてしまった〕

詞書によると、幼友だちと、ずいぶんひさしぶりに会ったが、七月十日ごろで、月が夜中に没してしまうので、ぼんやりしか見ずに、月の沈むのと競争するようにいそいで帰ってきてしまった、といゝつのである。

紫式部(九七人?1一〇一六?)は藤原為時の娘。藤原宣孝(のぶたか)と結婚し、賢子・(けんし・大弐三位・だいにのさんみ)を生んだ。夫の死後「源氏物語』を書いた。中宮上東門院彰子に仕えた。道長にいい寄られたこモもあるという。
この歌の幼友だちは男か女か、説が分かれている。男なら、恋が生まれそうで生まれなかったのだし、女なら、すっかり変わってしまって、声を掛けそこねて、なんとなくそのまま別れてしまったことになる。ちょっと微妙で、不思議な歌である。
和泉式部の歌が思いをまっすぐにぶつけるような激しさがあるのに、紫式部の歌は、月の夜の幻影のようなぼんやりした物語を想像させる。

56-和泉式部

百人一首百彩-56

海野 弘

56-和泉式部(いずみしきぶ)
後拾遺集 心地れいならず侍りけるころ 人のもとにつかはしける

あらぎらむ 此の世のほかの 思ひ出に 今一たびの 逢ふこともがな
軒-
〔私はこの世からいなくなります。その思い出のために、もう一度、お逢いしたいものです〕

「心地れいならず」、気分が悪かった時にいってやった歌という。
「あらざらむ」は、ああ、私は死にそうです、という感じだ。
和泉式部は、生没不明。冷泉帝皇后の昌子内親王に仕えた。和泉守となつた橘道貞と結婚したので和泉式部と呼ばれる。二人の間の娘が女流歌人となる小式部内侍である。
しかし情熱的で、豊かな文学的才能を持っていた彼女は、夫に満足できず、恋多き女.であった。
冷泉帝第三皇子為尊(ためたか)親王との交際が噂になり、夫から離縁される。だが親王は一〇〇一年に急逝する。
それから親王の弟の師(そち)の宮との恋がはじまる。『和泉式部日記』はその記録である。しかし師の宮もー〇〇七年に没した。その悲しみから多くの歌が生まれ、歌人として認められた。
その後、道長に召され、その娘の一条帝中宮彰子に仕えた。
この歌の中に沈んでいる愛と死への不安が胸をうつ。

55ー大納言公任(だいなごんきんとう)

 

百人一首百彩-55

海野 弘

55ー大納言公任(だいなごんきんとう)
拾遺集 大覚寺に人々あまたまかりたりけるにふるき滝を読み侍りける
なおきこ
瀧のおとは 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて 猶聞えけれ
〔滝は滴れてしまい、一水音も聞こえなくなつて、ずいぶん時がたつが、その名はまだ伝わっていて、今も話に聞こえてくる〕

大覚寺は、嵯峨天皇の山荘があったところで、そこの滝殿の見事さは語り伝えられてきた。水は流れていないのに、昔の滝の音がまるで聞こえてきそうだ、というのである。
大納言公任は藤原公任(九六六-一〇四一)で、藤原道長め全盛期に歌壇の指導者として活躍した。
この歌では嵯峨天皇の時代、古きよき時がノスタルジックに回顧される。古事、旧蹟などが最高の模範としてなつかしがられるようになる。
歌壇では栄光を得たが、道長の一族の繁栄に対して傍系であった彼は、官職における出世はうまくいかず、不満であった。晩年にはあきらめ、世を捨てて出家して小る。′
昔はよかった、と思い、後世に名を残したい、と思う気持がこの歌にこめられている。

54ー儀同三司母(ぎどうさんしのはは)

百人一首百彩-54

海野 弘

54ー儀同三司母(ぎどうさんしのはは)
新古今集 中開白かよひそめ侍りけるころ

忘れじの 行末(ゆくすえ)までは かたければ けふをかぎりの 命ともがな
〔ゆく末まで、ずっと忘れないといわれますが、ずっと先のことはわかりません。いっそ、今日で命が終わりなら、死ぬまで忘れないという約束が嘘になりませんね〕

儀同三司は、太政大臣、左大臣、右大臣と同じ儀礼であつかわれる准大臣のことで、儀同三司である藤原伊周(これちか)を生んだので、儀同三司母(?-九九六)といわれる。中開自は、夫の関白藤原道隆。
伊周の他に、隆家、定子(ていし・一条天皇皇后)を生んだ。
伊周、隆家は、藤原道長との権力争いに敗れたので、彼女の晩年はあまり幸せではなかった。
いつまでも愛しているよ、という男に、先のことはわからない。いっそ今日このまま死んでしまえば、あなたのいうとおりになりますね、というのは、ちょっと皮肉で、現実的な女性であったのだろう。
九九五年、夫道隆が亡くなった。息子の伊周はまだ若かったので、道隆の弟道兼が権力を握り、道兼の子道長へと移っていった。明日のことはわからない、いつまでも幸せはつづかない、いっそ
世界が今終わればいいのに、というこの歌のことばが響いてくる。

 

53ー右大将道綱母

百人一首百彩-53

海野 弘

53ー右大将道綱母(うだいしさつみちつなのはは)
拾遺集 入道摂政まかりたりけるに、かどをおそくあけければ、立ち煩(わずら)ひぬといひ入れて侍りければ

なげきつつ 独(ひとり)ぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる
〔来ない人を嘆きつつぎひとりで寝ている夜は、明けるまで、いかに長いものかを、あなたは知らないでしょう〕

詞書によると、入道摂政(藤原兼家)がやってきたが、門をなかなかあけてやらなかったので、外で立っているのにくたびれた、と文句をいった。それに対しての答えなのである。
右大将道綱母(九三六?-九九五)は『晴玲日記』 の作者である。摂政関白となり、花山天皇を引退
させ、一条天皇を立て、摂関政治を確立したといわれる兼家の子道綱を生んだ。浮気な兼家に悩み、
その思いを日記に書いている。
この詞では、しばらく待たせて門をあけたようであるが、『晴玲日記』では、門をあけてやらず、
兼家は他の女のところへ行ったとなっている。そうすると、この歌のニュアンスもちがって感じら
れる。
ともかく兼家との仲は二十年以上つづいたらしい。

52-藤原道信朝臣

百人一首百彩-52

海野 弘

52-藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん)
後拾遺集 女のもとより、雪ふり侍りける日、かへりてつかはしける

明けぬれば 暮るるものとは知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな
〔夜が明ければ、また日が暮れて、夜になり、また逢えるのがわかっていても、それでも朝になると、離れなければならないので、うらめしいことです〕
これただ
藤原道信(九七二-九九四)は太政大臣藤原為光の子。母は伊ヂの娘。名門の貴公子であるが、二十三歳で没した。若くして天才歌人といわれた。一条天皇初期に活躍し、美方、宣方、公任、相如などと交友があった。
一条天皇の初期は、退位した前帝の花山院の和歌サロンが中心で、実方、道信はそのメンバーであった。しかし、道信が早死にし、実方が陸奥で亡くなり、花山院の歌壇は失われていき、代わって藤原道長の後援する新しい歌壇がつくられる。藤原公任がその指導者であった。
そのような過渡期に、若くしてはかなくなった歌人のこの歌は、朝になればやがて夜になるが、その夜はもうこないかもしれない、という不安を暗示しているように思える。

51-藤原実方朝臣

百人一首百彩-51

海野 弘

51-藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん)
後拾遺集 女にはじめてつかはしける

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな もゆるおもひを
〔こんなにも思っていると、どうしてもいうことができません。ですから、私の燃ゆる思いをちっとも知らないでしょう〕
いぶき
(えやはいぶき)は、えやはいう、すなわち「いうことはできない」と伊吹山が掛けられている。
さしも草は、艾(もぐさ)で、ヨモギを乾かして、灸をすえる時に使う。この伊吹山は栃木県の山といわれ、もぐさの名産地として知られる。さしも草に、「さしも」(そんなにも)と「もゆる」を呼び出す。
女性にはじめて恋をして、はじめて手紙を書いた、という歌である。
藤原実方(?-九九八)は藤原定時の子、左大臣師尹(もろただ)の孫。一条天皇に仕えた。美男で色好みで、華やかな貴公子であったらしい。清少納言とも親しかったという。
伝説では藤原義孝の子・行成と宮中で争い、陸奥守として左遷させられたといい、その時、源重之がお伴をした。そして、実方はその地で没した。華やかにはじまり、さびしく終わった生涯であつた。

50-藤原義孝(ふじわらよしたか)

 

百人一首百彩-50

海野 弘
もと    つか
50-藤原義孝(ふじわらよしたか)
後拾遺集 女の許より帰りて遣はしける

君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
〔命もそれほど惜しいとは思っていませんでしたが、君を知るようになって、いつまでも長く生きたいと思うようになりました〕

さっき逢ってきた女に送った手紙の歌である。この時代の歌は、贈答歌といった社交的な場のためにつくられる。独詠より対話なのである。
藤原義孝(九五四-九七四)は藤原伊尹(これただ)の四男。九七四年、天然痘で、朝に兄の挙賢(たかかた・九五三~九七四)が亡くなり、夕に弟の義孝が亡くなつた。義孝は二十一歳であった。少年の頃から歌の才能を認められ、また仏教に帰依して、法華経を読んだ。早くから死号予期していたのだろうか。
これほど若くして死んだが、三十六歌仙に入っている。そしてこの歌を読むと、はかない生涯を覚悟しているかのような
君のために長く生きたい、ということばが痛切にひびりく義孝の子の行成(ゆきなり・九七二~一〇二七)は、三蹟の一人に入る名筆家となった。

49-大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)

 

 百人一首百彩-49

海野 弘

49-大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)
詞花集 題しらず

御垣守(みかきもり)衛士(えじ)のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ 物をこそ思へ
〔宮中の門を守る衛士の焚くかかり火は、夜は燃えて、昼は消えている。私の心も夜は燃え上るが、昼は消えそうになり、強気と弱気のくりかえしで、思い悩んでいるのだ〕

大中臣能宣(九二一-九九一)は伊勢神宮の神官であるが、歌人としても知られる。梨壷の五人の中に選ばれた。神官でありながらかなり多くの歌をつくつている。坊主の歌人もいるのだから、神主の歌人も不思議ではないかもしれない。
村上、冷泉、円融、花山、一条の時代、十世紀半ばから十一世紀はじめにかけて、「梨壷の五人」(大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城) のように、歌人が仕事として認められ、専門歌人があらわれる。それぞれ職業はあっても、宮廷に呼び出されて、かなりの時間を和歌に割くことが許される。和歌が一つの技術・学問として認知されるのだ。          も
大中臣能宣なども、専門歌人のはしりではなかったろうか。

48-源 重之(みなもとのしげゆき)

百人一首百彩-48

海野 弘

九いぜいいんとうぐう
48-源 重之(みなもとのしげゆき)
詞花集 冷泉院春宮と申しける時百首奉りけるに詠める

風をいたみ 岩う頂波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな
〔風が激しく波を岩にたたきつけているが、波だけが砕け散ってゆく。私の心も、相手にぶつかって、はねかえされてしまい、ますます思いがつのつてくる〕

源重之は生没不明。清和天皇の曾孫。父は源兼信。伯父の参議兼忠の養子となった。兼備は、陸奥にいたらしい。重之は地方官としてあちこち旅をしている。
冷泉天皇が東宮(とうぐう)であった時、帯刀先生(たてわきせんじょう=雷管備長)として仕えた。その時、百首を奉った中の一首らしい。下級役人であったが、歌人としては才能を認められていた。旅の歌人といわれ、東北から九州までを旅して、歌をのこしている。
くわしくはわからないが、重之の子が陸奥で殺されるという不幸があった。恵慶法師、大中臣能宜(おおなかとみのよしのぶ)、安法法師(あんぽうほうし)などが。そのことを悼む歌をつくつているので、彼らが親しい仲であったことがわかる。
村上天皇の後、冷泉、円融、花山と天皇が目まぐるしく変わり、藤原氏が権力争いをした不安定な時代であった。源重之は、そのような権力の岩にぶつかって、くだけ散ってしまう無力な自分を感じたのだろうか。

47-恵慶法師

百人一首百彩-47

海野 弘

47-恵慶法師(えぎょうほうし)
拾遺集 河原院にて、荒たる宿に秋来る、といふ心を人々詠み侍りけるに

八重葎(やえむぐら) しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね秋は来にけり
〔八重葎がしげってい鞄荒れた宿がさびしい眺めを見せている。だれも人はやってこないが、秋は来ているのだ〕
「八重葎」は、ヤエムグラというアカネに似た草であるとも、葎(雑草)が八重にしげっているのだともいわれる。河原院は、称原左大臣が営んだ壮警邸である。それはすっかり荒れ果て、やえむぐらがしげっているだけだ。この廃櫨にも秋は来ているがへそのさびしさは一層深い。はりま恵慶法師は生没、経歴もよくわからない。花山天皇(在位九八四~九八六)の頃の人で、播磨の国分寺にいたという。花山のお伴で熊野に行ったりしている。
源融(とおる)の河原院は、百年後には荒れ果て、融の曾孫の安法(あんぼう)法師が住んでいたという、そこに恵慶法師、源重之、大中臣能宣、清原元輔などが集まって歌を詠んだ。廃墟の美が賞される時代になっていた。

46-曾爾好忠

百人一首百彩-46

海野 弘

46-曾爾好忠(そねよしただ)
新古今集 題不知
こい
由良の戸を わたる舟人 梶(かじ)をたえ ゆくへもしらぬ 恋の道かな
〔由良の門(瀬戸)を渡っていく舟人が梶を失ったかのように、行方も知らず流されていく私の恋よ〕
l‥
由良の門は、一般には紀伊国(和歌山県由良港)が歌枕で知られるが、丹後国(京都府宮津の由良川)にもあり、好忠は丹後掾(じょう)であったから、こちらではないかといわれている。
はじめの三句で、海峡を行く舟という風景を見せ、そのイメージに、たよりない恋の行方を重ねてゆく。
曾根好忠は生没不明。経歴も不明だが天徳年間(九五七-六一)に丹後掾になつたらしい。そのため曾丹とあだ名された。『後撰集』から『拾遺集』にかけて活躍した歌人で、身分は低いが、歌の才能に強い自負を持ち、招かれていない歌合に出ようとして追い出された、といった奇行が伝えられている。その自信にふさわしく、長い間、歌人として活動し、多くの歌をのこしている。
この歌でもわかるが、非常に視覚性が強い、印象的な作品をつくつている。

45-謙徳公

百人一首百彩-45

海野 弘

45-謙徳公(けんとくこう)
拾遺集 物いひ侍りける女の、後につれなく侍(はべ)りて、さらにあはず侍りければ

哀(あわれ)とも いふべき人は おもほえで 身のいたづらに なりぬべきかな
〔哀れだと、いってくれる人はいるとは思えないから、私はむなしく死んでいくだけなのでしょう〕

詞書によると、つきあっていた女が、後に冷たくなり、逢えなくなったので、つくつた歌という。
ふられてしまったが、だれも同情してはくれないだろう。「身のいたづら」になる、というのは、寝こんでしまい、死にそうだ、というのだろうか。
これただ                 もろすけ
謙徳公は藤原伊デ(九二四-九七二) である。右大臣藤原師輔の子。天暦五年(九五一、撰和歌所がつくられたが、伊伊の宿所である昭陽舎(梨壷)に置かれ、伊伊はその別当となった。そして清原元輔など五人がその寄人(梨壷)に選ばれた。つまり伊伊は歌壇の取締役のようなものであった。
伊伊安子(あんし)は村上天皇の中宮となり、憲平(のりひら)親王(冷泉天皇)を生んだ。冷泉天皇の時、彼は摂政となった。和歌にくわしく、また政治家としても栄誉を極めた、幸運な人であった。
その人が、女にふられて、ひとりで死にそうだ、という歌を詠んでいるのはなんとなくおかしい。

44ー中納言朝忠

百人一首百彩-44

海野 弘

44ー中納言朝忠(ちゆうなごんあさただ)
拾遺集 天暦御時歌合に
逢ふことの 絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
〔もし逢わなかったら、人のことも自分のことも恨んだりすることもないだろうに〕

平兼盛、壬生忠見が歌合した天徳四年(九六〇)の歌合での歌である。この歌も、二つの解釈がある。
逢わなかったのか、逢ったのかでちがってくる。
前者なら、いっそ逢わないほうが、うらみっこなしでいいのではないか、となる。後者なら、いっそ逢わなければよかった、という後悔の歌となる。
中納言朝忠は藤原朝忠(九一〇-九六七)。父は三条右大臣藤原定方。笙の名手といわれ、華やかな宮廷生活を送り、多くの女性と浮名を流した。『大和物語』などにそのロマンスが伝えられている。
このような人であったから、逢わずにあきらめよう、としたとは考えられない。やはり逢ってから後の歌なのだろう。
天徳四年の歌合は、華やかな祝祭としての歌合の形式を確立したものといわれる。村上天皇の時代に女御、権門の室(貴族の夫人)による歌合が盛んに行なわれるようになり、天徳の歌合はそのピークであった。それは女性が文化に進出してきたことを示していた。
清少納言、紫式部などの女流文学の開花が村上天皇の時代(九四六-九六七)に準備されていた。
一方それは、宮廷文化がますます華美になり、時代から遊離していくことでもあった。

43-権中納言敦忠

 

百人一首百彩-43

海野 弘

43-権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)
拾遺集 題しらず

逢(あい)見ての 後(のち)の心に くらぶれば むかしは物を おもはぎりけり
〔人を愛するようになってからの心にくらべれば、昔はものを思わなかったな、としみじみ感じさせられる〕

これは「題しらず」となっているので、特定の相手ではなく、恋するようになつたこと一般という意味で訳してみた。
しかし、『拾遺集』より前の『拾遺抄』では同じ歌に「はじめて女のもとにまかりて、またの朝につかはしける」という詞書がついている。この場合は、特定の女性に向けて、呼びかけていることになる。すると、あなたにはじめて逢って、契りを交わしてからの心にくらべると、お逢いする前に抱いていた気持はたあいないもので、なにも思っていないようなものでした、といった意味になるだろう。                 √              一
権中納言敦忠は藤原敦忠(九〇六-九四三)で、藤原時平の三男。琵琶中納言といわれるほど琵琶の名手であった。しかし三十人歳で早死した。菅原道真の崇りであるといわれた。美男で才能に恵まれた人であったが、短い生涯であった。

42-清原元輔

百人一首百彩-42

海野 弘
はべ
清原元輔(きよはらのもとすけ)
後拾遺集 心変り侍りける女に人に代りて

契(ちぎ)りきな かたみに袖を しぼりつつ すゑの松山 なみこさじとは
〔末の松山を波が越すことは絶対ないように、私たちの仲も絶対だと、互いに涙に濡れた袖をしぼりながら約束しましたね〕

末の松山は宮城県多賀城あたりといわれている。海辺にあるが、いかなる波もそれを越すことがない、といわれた。(すゑの)は、さい果ての意味だろうか。もし披が越したら、この世も終わりということかもしれない。(すゑの松山)は、約束の裏切り、心変わりの歌に使われる。
「契りきな かたみに袖を しぼりつつ」は、袖をちぎれるほど、かたくしぼることと、かたくちぎる(約束する)ことを掛けた技巧的な句である。
清原元輔(九〇八-九九〇)は、代々、歌で知られる家柄で、清原深養父(ふかやぶ)の孫といわれ、清少納言の父である。九人六年に肥後守となった。歌の方では、九五一年、和歌所の寄人となり、梨壷(内裏 みなもとのしたごう 後宮五舎の一つ)の五人、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、源順、紀時文(きのときぶみ)、坂上望城(さかのうえのもちき)の一人として 『後撰集』をまとめた。
自分の内面に沈むよりは、場に合わせ、求められた題に合わせ、即興的に詠む歌にすぐれていた。

———

 

41-壬生忠見(みぶのただみ)

百人一首百彩-41

海野 弘

壬生忠見(みぶのただみ)
拾遺集 天暦御時歌合

恋すてふ わが名はまだき たちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
(恋をしていると、私の噂がもう立ってしまった。人に知れないように、こつそりと思いはじばかりであるのに)

前の平兼盛の歌と歌合で競ったもので、定家もどちらか決めかねたのか、両方を選び、並べている。兼盛の歌は「色に出でにけり」と視覚的だが、忠見の歌は、名は「立ちにけり」と聴覚的、言語的だ。もっとも「思ひそめ」(思い染め)と視覚性も加えられているし、前者には 「人のとふ」と聴覚性もあり、二つの歌はまるで一対のようにひびき合っていて、一緒に読み比べてみると、また面白さが増してくる。
壬生忠見は生没不明。壬生忠岑(ただみね)の子。下級官として、貧しい生活をしていたという。それだけに、天徳四年(九六〇)の歌合に招かれたことは大きな喜びだったろう。彼は摂津から田舎衣のまま駆けつけたという。その見すぼらしい姿のせいではないかもしれないが、負けてしまった。失望して病いに斃れ、死んでしまった、という伝説もある。
「恋すてふ」「わが名はまだき」「¥思ひそめ」などことばに対するるセンスがすばらしい。

40-平兼盛

百人一首百彩-40

海野 弘

40-平兼盛(たいらのかねもり)
拾遺集 天暦御時歌合(てんりやくのおんときのうたあわせ)

忍ぶれど 色に出にけり わが恋は 物やおもふと 人のとふまで
〔隠してはいるのだが、私の恋は顔色に出てしまっているのだろうか。なにか悩みがあるのかと人が聞くほどなのだから〕

天暦御時は、村上天皇の時代で、醍醐天皇の延喜とともに、宮廷文化が栄えた。醍醐の時、『古今集』、村上の時、『後撰集』がまとめられたのもそのあらわれである。
天暦御時歌合は、実際は、天徳四年(九六〇)に開かれたもので、この歌と次の壬生忠見の歌が合わせられ、この歌が勝っている。判者の藤原実頼は、迷ったが、天皇がこの歌を押しているらしいので勝ちにしたという。
平兼盛(?-九九一)は光孝天皇の子孫であるが、臣列に下り、平氏となった。晩年に駿河守となった。歌人としてもよく知られ、三十六歌仙の一人。
地方官としてあちこちに赴任したようだが、『大和物語』には、地方の娘に恋をしてふられる話などがある。この歌もそうだが、恋の歌が多く、すぐ好きになって、振られたりしている。この歌のように、すぐ惚れやすく、顔に出てしまう人だっ」たらしい。

39ー参議等(ひとし)

百人一首百彩-39

海野 弘
39-参議等(さんぎひとし)
後撰集 人につかはしける

浅茅生(あさじゆう)の をののしの原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき
〔この篠竹の茂った荒れ果てた野に、私は自分の想いをかくして、ひそんでいたが、その想いはあふれ出して、あなたに会いに行きたくなる〕

〈浅茅生〉は、小野の枕詞。〈しの原〉は、忍ぶを呼び出す。〈忍ぶ〉は、篠原に隠れることと想いを耐えしのぶことの両方を意味する。
参議等(880~951?)は源等(みなもとのひとし)。嵯峨天皇の曾孫で、嵯峨源氏である。九四七年に参議となった。娘は、やはり『小倉百人一首』に入っている権中納言敦忠の室となつた。
平安朝は藤原氏全盛であつたが、天皇家から源姓を与えられて臣列に下った源氏も、それに次で勢力を持った。藤原氏の首座を揺るがすことはできなかったが、学問、文学、芸能などでは源氏はユニークな活動をした。『小倉百人一首』にも源融(とおる=
河原左大臣)、源宗干、源等、源重之、源経信、源俊頼、源兼昌、源実朝と、藤原氏に次ぐ源氏が入っている。

39-参議等(さんぎひとし)

百人一首百彩-39

海野 弘
39-参議等(さんぎひとし)
後撰集 人につかはしける

浅茅生(あさじゆう)の をののしの原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき
〔この篠竹の茂った荒れ果てた野に、私は自分の想いをかくして、ひそんでいたが、その想いはあふれ出して、あなたに会いに行きたくなる〕

〈浅茅生〉は、小野の枕詞。〈しの原〉は、忍ぶを呼び出す。〈忍ぶ〉は、篠原に隠れることと想いを耐えしのぶことの両方を意味する。
参議等(880~951?)は源等(みなもとのひとし)。嵯峨天皇の曾孫で、嵯峨源氏である。九四七年に参議となった。娘は、やはり『小倉百人一首』に入っている権中納言敦忠の室となつた。
平安朝は藤原氏全盛であつたが、天皇家から源姓を与えられて臣列に下った源氏も、それに次で勢力を持った。藤原氏の首座を揺るがすことはできなかったが、学問、文学、芸能などでは源氏はユニークな活動をした。『小倉百人一首』にも源融(とおる=
河原左大臣)、源宗干、源等、源重之、源経信、源俊頼、源兼昌、源実朝と、藤原氏に次ぐ源氏が入っている。

38ー右近

百人一首百彩-38

海野 弘

38ー右近(うこん)
拾遺集 題しらず
忘らるる 身をばおもはず 誓(ちかい)てし 人の命の をしくも有るかな

〔忘れられてしまう自分の身も考えずに、愛を誓ったが、やはり捨てられてしまった。そんな人の命なのであるが、惜しいと思う気持がある〕
愛の誓いを裏切った、不実な男への想いである。「人の命の をしくもあるかな」は、誓いを破ると、神の罰を受けることになるが、あんな男でも、それはかわいそうだと裏切った男の命をなお気づかっている様子が伝わってくる。
右近は生没不明。藤原季縄(すえなわ)右近少将の娘と伝えられる。『大和物語』にも登曝し、『小倉百人一首』に入っている権中納言敦忠と親しかったという。
醍醐天皇の中宮穏子(おんし=藤原基経の娘)の女房で、いくつかのロマンスが伝えられている。
この歌は、誓いを破った男に送った歌と見れば、うらみをさらりとのべたものと解釈できるが、去ってしまった男をしのびながら自分の気持を見つめ、まだのこつている男への思いを、相手に伝えるつもりはなくて詠んだとも思える。相手に言ってやったのか、自分にいっているのか。私は後の方と思いたい。

37ー文屋朝康

百人一首百彩-37

海野 弘

37ー文屋朝康(ぶんやのあさやす)
後撰集 延喜御時、歌めしければ

白露(しらつゆ)に 風の吹きしく 秋ののは つらぬきとめぬ 玉ぞちりける
〔白露に風が吹きつけている。秋の野は、糸を通して、とめていない玉が風で散乱していくように見える〕

「延喜御時」というと醍醐天皇の時で、九〇一年から九〇五年である。九〇五年に『古今集』がまとめられているが、そこには入らず、九五一年の 『後撰集』 に入った。
文屋朝康は生没不明。文屋康秀の子といわれる。『古今集』には是貞親王家歌合の時(八九三)とある「秋の野に置く白露は玉なれやつらぬきかくる蜘昧の糸すぢ」が選ばれている。秋の野の白露を玉にたとえ、それを糸に通した玉飾りをイメージするところは、二つの歌に共通している。
彼は、この頃かなり知られた歌人だったと思われるが、『古今集』に一首、『後撰集』に二首の、全部で三首しか伝わっていない。いずれも、しやれたイメージが特徴で、もっと読んでみたいと思
わせる。

36-清原深養父

百人一首百彩-36

海野 弘

36-清原深養父(きよはらのふかやぶ)
古今集 月のおもしろかりける夜、あか月がたによめる

夏の夜は まだよひながら 明(あけ)ぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ
(夏の夜は まだ宵だと思っているうちに、もう明けはじめた。とても美しかった月はどこに行ったのか、雲のどこかにかくれているのか)

月はまだ落ちずに、そのあたりでうろうろしているのではないか、といった感じである。
清原深養父は生没不明。やはり『小倉百人一首』 に入っている清原元輔の祖父とも父ともいわれる。
琴の名手で、藤原兼輔邸で奏したのを、紀貫之が歌で讃えている。
藤原氏全盛の時代に、清原氏はあまり出世できず、歌や琴などの余技で藤原氏の芸術的保護を受けていたという文化状況が見える。もし、元輔が彼の子なら、元輔の子が清少納言だから、親子三代が「百人一首」に入っていることになる。
大原の近くに補陀落寺(ふだらくじ)を建てて隠居したといわれる。

35-紀貫之

百人一首百彩-34

         海野 弘
35-紀貫之(きのつらゆき)
古今集 はつせにまうづるごとに、やどりける人の家に、ひさしくやどらで、程へて後にいたり

ければ、かの家のあるじ、かくさだかになんやどりはあると、いひいだして得りければ、そこにたてりける梅の花ををりてよめる。
ふるさと
人はいさ 心もしらず 古郷は 花ぞむかしの 香ににほひける
〔人の心はわからないけれど、ふるさとの花は昔のままに、春のにおいを薫らせている〕

初瀬は、奈良県桜井市の初瀬、長谷寺1長い詞書がついていて、一篇の歌物語になっている。平安朝には長谷寺の詣りが盛んであった。その時のなじみの宿にしばらくぶりに訪ねると、主人が、この宿はこんなにしっかりと、昔のままにありますよ、と皮肉をいったので、宿の前に立っている梅の枝を折ってこの歌を詠んだ。
紀貫之(八六人ごろ-九四六)は友則、窮恒などとともに『古今集』 の撰者となり、「仮名序」を著、最終的にまとめたといわれる、この時代の代表的歌人である。藤原走方、藤原兼輔などの和歌のサロンに参加し、平安和歌の主流(古今調)をつくり上げた。
変わっていく人、変わらない自然という対比は、貴之の得意とする歌の世界だった。

34-藤原興風

百人一首百彩-34

海野 弘
34-藤原興風(ふじわらのおきかぜ)
古今集 題しらず
たかさご
誰(たれ)をかも しる人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
〔これからだれを親しい友としたらいいのだろうか。むかしの友はもういなくなり、高砂の松だけが昔のままだが、友にはならない〕

高砂の松は、兵庫県高砂市の松といわれる。住吉の松とともに、松の名所とされる。
さがみのじょう  みちなり
藤原興風は生没不明。相模捺藤原道成の子。下級役人で三十六歌仙の一人。貫之や窮恒の同時代の歌人。
じょう       うば
後に、世阿弥は能冨岡砂』をつくり、住吉の松(尉) と高砂の松(姥) の老夫婦を登場させた。
(高砂)は長寿のめでたいしるしとなる。
しかしこの歌では、すでに老齢にさしかかった作者が、亡くなった友をしのびつつ、とりのこさ
れた淋しさをうたっている。古い友人はいなくなってしまい、だれと親しく話したらいいのか、高砂の松では話し相手にならない。

老年の寂蓼(せきりょう)が迫ってくる。高砂の松を、古い松一般と見るか、具体的な地にある松と見るか、二説がある。
私は、実際の高砂の地の松林が見えてくるように読んでみたい。

33-紀友則

百人一首百彩-33

海野 弘

33-紀友則(きのとものり)
古今集 さくらの花のちるのをよめる
久方(ひさかた)の光のどけき 春の日に しづ心(ごころ)なく 花のちるらむ
〔のどかな日の光にあふれた春の日なのに、なぜそんなに落ち着かずに、さくらの花は散っていくのだろうか〕

紀友則は生没不明。紀貫之とは親戚といわれる。四十すぎまでほとんど出世できず、藤原時平にそれを嘆く歌を詠んでみせた。時平は彼の歌の才能を認めていた。そのおかげで、紀貫之、凡河内窮恒、壬生忠琴と共に『古今集』の撰者になつた。しかしその時は、かなり老齢であったらしく、
その完成を待たずに没した。『古今集』には、貫之と忠琴の、友則をしのぶ歌が入っている。
友則は、冒今集』までの、古典的で優雅な気品を漂わせる。この歌も『古今集』らしさを感じさせる。
その一方で、窮恒、忠琴、貴之などと同じく、下級役人として、うだつのあがらない悲哀も秘めている。
この歌も、こんなにすばらしい春の日なのに、心落ち着かず散っていく桜に自己投入しているのである。

32-春道列樹

百人一首百彩-31

海野 弘

32-春道列樹(はるみちのつらき)
古今集
しがの山ごえにてよめる

山川に風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ もみぢなりけり
〔山川に、風が掛けた柵(しがらみ)ができている。それは流れていかずに引っかかっている紅葉であった〕

「しがの山ごえ」は京都から志賀への山ごえの道で、『万葉集』 にも出てくる古道だ。天智天皇のつくつた大津京に向かい、途中に志賀寺(崇福寺)があった。平安時代には志賀寺参りが盛んだったという。
春道列樹(?-九二〇)は九一〇年、文章生となり、九二〇年、壱岐守(いきのかみ)となったが、赴任する前に亡くなったという。紀貫之などと同時代であるが、あまり多くの歌はのこつていない。
この歌は、山川に、紅葉がひつかかって、柵のようになっているという絵画的な世界をうたい、それを「風のかけたる」と見立てるのが工夫である。
平安後期には志賀寺はなくなつていた。この歌のころには廃墟になっていたろうか。

31-坂上是則

百人一首百彩-31

海野 弘

坂上是則(さかのうえのこれのり)
古今集
やまとのくににまかれりける時に、雪のふりけるをみてよめる

朝ぼらけ 有明(ありあけ)の月と みるまでに よしののさとに ふれるしら雪
〔朝になり、あたりが明るくなりかけた時に、有明の月が光っているように見えたが、吉野の里に雪が白々と降り積もっていたのであった。〕

あっさりした、素直に風景を詠んだ歌だ。大和国の吉野の里を訪れた時の歌という

坂上是則は生没不明。坂上田村麻呂(たむらまろ)の子孫ともいわれる。下級官であったが、趣味人、才人で、それが認められて、宮廷文化人の仲間入りをした。三十六歌仙の一人である。
彼は京都の清水寺の別当でもあった。この寺は坂上田村麻呂に起源を持っていて、代々坂上家が別当をつとめてきた。したがって彼も田村麻呂の後裔(こうえい)と見られるのである。
この歌は『古今集』の「冬歌」に入っている。冬の風景を淡々と詠んでいる。そこには、やまとうたのこまやかな男女の情感というよりも、漢詩文の風景描写が感じられるような気がする。

30- 壬生忠岑(みぷのただみね)

百人一首百彩-30

海野 弘

壬生忠岑(みぷのただみね)
古今集 題しらず
有明(ありあけ)の つれなく見えし 別(わかれ)より あかつきばかり うき物はなし
〔夜が明けかけ有明の月が出て、それが一際つらく見える別れをしたことがある。それ以来、暁ほど憂うつに思えるものはない〕

壬生忠岑は生没不明。藤原定国の随身だったといわれる。窮恒と同じ下級官で、歌で認められるようになった。藤原定国や藤原時平などに歌の才能をかわれ、字多、醍醐の宮廷歌人となつた。「是貞親王家歌合」「寛平后宮歌合」などに参加している。
忠岑の歌は、繊細で、イメージ豊かで、物語を感じさせる。この歌でも「あかつきばかり うき物はなし」がすばらしい句だ。そして有明の月、暁のシーンが視覚的で、別れた女性の姿はその彼方にかすんでいる。
この歌について古くから論議がある。なにがつれないのか。藤原定家などは、つれないのは有明の月と見た。二人は別れたくなかったが、有明の月が出て、朝になつたので、別れなければならなかった。だから月がつれなく見えた。
ところがこの歌は『古今集』の「恋歌二こに入っている。「逢はずして帰る恋」の歌を集めた巻である。するとこの歌は、逢えずに待っていて、暁になつてしまったということになり、つれないのは、逢えなかった女ということになる。どちらなのだろう。

29-凡河内窮恒

百人一首百彩-29

海野 弘
凡河内窮恒(おおしこうちのみつね)
古今集 しらぎくの花をよめる

心あてに をらばやをらむ はつしもの 置まどはせる 白菊の花
〔あてずっぼうに折ってみるしかない。初霜が一面に降りて、まっ白になったので、どれが本物の白菊の花なのかわからなくなったから〕
あまりに技巧的、観念の遊び、とこの歌に批判的な人もいる。だが、「をらばやをらむ」「置まどはせる」などのことばは印象的だ。
凡河内窮恒は生没不明。下級の地方官で、甲斐、丹波、和泉などに赴任している。しかし歌の才能を認められ、宇多天皇、醍醐天皇などに保護され、宮廷歌人としてあつかわれるようになつた。
与えられた題や、その場の気分に合わせて、即興でつくるのがうまかったらしい。そのような、こ
とばをあつかう機知を、この歌も感じさせる。
そして紀貫之、紀友則、壬生忠写らと『古今集』 の撰者に選ばれている。
彼が宮廷歌人として認められたのは、藤原兼輔のサロンに、紀貫之の紹介で出入りするようになってかららしい。    む
宮廷歌人になったけれど、彼の位は下級官僚にとどまった。逆にいえば、身分が低くても、歌などの一芸に秀でていれば、宮廷に受け入れられるようになづた。

百人一首百彩-28

百人一首百彩-28

海野 弘

源 宗干朝臣(みなもとのむねゆきあそん)
古今集 冬の歌とてよめる
山里は 冬ぞ淋しさ まさりける 人めも草も かれぬと思へば
〔山里の淋しさは、冬に一層つのってくる。人も訪れず、草も枯れてしまうから〕

枯れる(かれる)は、離れる、枯れる、が掛けられている。読んだままにわかるような歌である。
源宗干(?-九三九)は、光孝天皇の孫。陽成天皇が急に退位したので、子沢山で貧乏な光孝天皇が藤原基経の力で即位した。天皇は何十人も皇子がいたので臣籍にして源姓にした。走省(そがみ)皇子も源姓になったが、やがて呼びもどされ、源姓を離れ、宇多天皇になつた。宗干は天皇の甥に当たるこ
とになるが、源姓にとどまり、地方官としてあちこちをまわった。父の兄弟が天皇になったのに、
なぜ自分は不遇なのか、と彼は不満だったようだ。彼の歌にはその気分が漂っている。
『小倉百人一/首』には冬の歌が少ないが、宗干は、その冬の歌で選ばれている。彼の気分はいつも
一-
冬なのだ。山里の冬はさびしい。人もやって来ず、革も枯れている。私はそんな冬の山里にいるのだ。

百人一首百彩-27

海野 弘

27、中納言兼輔(ちゆうなごんかねすけ)
新古今集 題不知

みかの原 わきてながるるいづみ川 いつみきとてか 恋しかるらむ
〔みかの原に湧いて流れる泉川よ、いつ見たのかはつきりおぼえていないのに、どうしてこんなに恋しいのか〕

みか      そうらく            きづがわ               み
甕(みか)の原は京都府相楽郡にある。「いづみ川」は木津川である。「いづみ川」と「いつ見き」が掛けられている。「みか」は「みき」にひびいている。
「いつみき」については諸説ある。いつ見たのかわからない、というのは、一度も会ったことはないのに、の意味だというのが一説、いや、一度は契りをかわしたが、それからずっと会っていないのだ、というのが一説。
どちらともいえるようなあいまいさが、新古今の魅力かもしれない。私の想像では、小さな甕を両手で肩にのせて、そこから水を流れ出させている泉の女神が浮かんでくる。泉の女神、:ンフへ
のあこがれをうたった、とヤっのは、あまりにロマンティックな解釈だろうか。
藤原兼輔(八七七-九三三)は左大臣藤原冬嗣(ふゆつぐ)の曾孫。九二七年に中納言となり、鴨川の堤に邸があったので、堤中納言と呼ばれた。25の藤原走方と従兄弟で、走方の娘を妻とした。定方とともに和歌サロンのパトロンであった。

26、貞信公

百人一首百彩-26

海野 弘

26、貞信公(ていしんこう)
拾遺集 亭子院、大井河に御幸ありて、行幸もありぬべき所なりとおほせ給ふに、ことのよし奏せむと申して
ひと    みゆき
小倉山(おぐらやま) みねのもみぢ葉 心あらば いま一たびの 御幸またなむ
〔小倉山の峯の紅葉に心があるなら、もう一度行幸があるまで、散るのを待っていよう〕

亭子院(ていじいん=宇多上皇)が大井河に行った時、紅葉がすばらしいから、もう一度行幸があってもいいほどだ、といった。
そのことを醍醐天皇に奉上しようというのでつくつた歌である。御幸は上皇や皇族、行幸は天皇に使われる。
大井河(大堰川)は嵯峨野の小倉山と嵐山の間を流れている。
この歌は、字多上皇が九〇七年に大井河に多くの文人を連れて行った時のものではないか、といわれている。
ただひら
貞信公は藤原忠平(ただひら・八八〇-九四九)のことである。関白藤原基経の四男で、時平、仲平の異母弟。
九三六年、太政大臣となり、醍醐天皇が譲位し、宋雀天皇となると、摂政となり、さらに関白となった。
忠平は字多の信任を受け、時平は醍醐の信任を受けたので、二つのグループが対立していた。
そんな事情からこの歌を読むと、宇多上皇が、この見事な紅葉を醍醐も見にくればいいのに、といったのに対し、時平がいるよゝつでもある。では私が天皇に申し上げて、行幸してもらいましょう、と勝手にいっている。

25、三條右大臣

百人一首百彩-25

海野 弘

25、三條右大臣(さんじょうのうだいじん)
後撰集 女のもとにつかはしける

名にしおはば 逢坂山(おうさかやま)の さねかづら 人にしられで くるよしも哉(がな)

〔(さねかずら)は、草木の中にかくれ、そのつるをのばしていきます。そのつるをたぐつて、人目につかずにしのんでこれないだろうか。逢坂山のさねかずらよ、その名にふさわしいかくれ道を教えてほしいものだ〕
(さねかづら)(真葛) は美男葛ともいう、つる草。(さね)には(さ寝)(共寝) の意味が掛けら
れている。つる草をたぐる、で(来る)の意もある。
三条右大臣(八七三-九三二)は藤原走方(さだかた)で京の三条に邸があった。内大臣藤原高藤(たかふじ)の次男。姉の
胤子は、字多天皇の女御で、醍醐天皇の母である。娘は、醍醐天皇の女御であり、息子の朝恩(ああさただ)も『小倉百人一首』に入っている。定方や藤原兼輔などは和歌のサロンをつくり、紀貴之・大河内窮恒などを後援していたようであり、歌物語である『大和物語』は、このサロンの周辺でつくられたもののよ、つだ。
『小倉百人一首』は、平安時代に形成された和歌のネットワークを示しているともいえるだろう。
ほとんどの歌人は互いに知っていて、歌の詠まれた背景や人間関係についてもよくわかっていたのだ。そのネットワークはまきに(さねかづら)のつるのようにつながり、もつれあっていたのであ

24-菅家

百人一首百彩-24

海野 弘

24-菅家(かんけ)
古今集
朱雀院(すざくいん)のならにおはしましたりける時に、たむけ山にてよみける
たむけやま
此(この)たびは ぬさもとりあへず手向山 もみぢのにしき 神のまにまに

〔今度の旅は、幣(ぬさ)も持たずに出ました。山には紅葉の錦が美しく、幣を捧げる必要がないほどです。神の気持におまかせしましょう〕
幣は錦や絹を細く切ったもので、袋に入れて持ってゆき、旅の途中で、神社などに手向けてゆく。
今度の旅(たびに旅と度が掛けられている) はあわただしく、幣も用意せずに立ってきた。しかし紅葉が見事で、幣などいらないほどである。この自然の幣にまかせて、神の恵みにひたることにしよう、というのである。宋雀院は、出家して上皇となった宇多である。菅家は菅原道真で、八九人年、上皇が奈良から士口野に行った旅に同行した時の歌らしい。
菅原道真(八四五-九〇三)は文章博士として、その文才をうたわれた。宇多天皇に登用され、藤原氏を押さえようとした。宇多が譲位すると、醍醐天皇の補佐役となった。そのため右大臣藤原時平の陰謀で、謀反の疑いにより、九〇一年、大事府に流され、九〇三年、その地で没した。その怨霊におびえた京都は、道真を天満天神として北野に祀った。
彼の死後、藤原氏の勢力は復活し、後期の摂関政治が確立される。
この歌は流される前の、まだ宇多上皇とその子、醍醐天皇の宮廷が花開いていた時のにぎわいを薫らせている。

23-大江千里

百人一首百彩-23

海野 弘
23ー大江千里(おおえのちさと)
古今集 これさだのみこの家の歌合によめる

月見れば 千々(ちぢ)に物こそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど

〔月を見ると、千々に(とめどなく)、ものごとが悲しく思える。秋は私一人のものというわけではないのだが〕

ち(千)と一つが対比されている。作者は、(千々)に、自分の名の千里を意識していたろうか。
おおえのおとんど 大江千里は生没不明。参議大江音人(八二-八七七)の子である。大江音人は、在原行平・業平の兄弟で、千里は甥であるという説もあるが、はつきりしない。音人は文章生として漢文にくわしく、千里も学者として知られた。大江家は学者の家系となり、やはり『小倉百人一首』 に入った大まさふさ江匡房に受け継がれてゆく。
千里の弟は千古(ちふる)で、『後撰集』に入った歌人であった。千里は地方官として伊予に赴任したらしく、また弟千古へのこまやかな思いを歌に詠んでいる。
八九四年、字多天皇の勅で、『自民文集』 の漢詩の詩句を題とした和歌をつくり、『句題和歌』をまとめて献上している。漢詩の和様化に大きな役割を果たした。この歌も、中国の月の詩のモデルがあるのかもしれないが、それを巧みに、日本的な月への想い、秋の哀れへといいかえている。

22-文屋康秀

 

百人一首百彩-22

海野 弘

22-文屋康秀(ふんやのやすひで)
古今集 これさだのみこの家の歌合のうた
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ
〔それが吹くと、秋の草木がしおれてしまうから、山風を嵐というのだな〕

(むべ)は、なるほどの意。なぜ山風を嵐というのか。草木を枯らすからであり、また山と風を組み合わせると嵐の字になるからだ。かなの日本的な意味と漢字のつくり(字形)の両面から、「むべ」(なるほど)なのである。
文屋康秀は、六歌仙の一人であるが、生没不明で、生涯もほとんどわからない。三河や山城の地方官で、小野小町を三河に誘っている。『古今集』 の序では、「言葉巧みにてそのさま身におはず、いはば商人(あきびと)のよき衣着たらむが如し」と評された。表面的なことばのあそびが巧みだが、深みがない、ということだろうか。
しかし歌の才能は認められていて、業平が「ちはやぶる」と詠んだ二条の后の歌会にも、業平、素性とともに出ている。
この歌は、是貞親王の濠の歌合の時のものとある。是貞親王は光孝天皇の第二皇子で、宇多天皇の見であった。この歌合は寛平五年(八九三)にあったという。