カテゴリー別アーカイブ: 百人一首百彩

19-伊勢

百人一首百彩-19

海野 弘

19-伊勢(いせ)
新古今集 題不知(しらず)

難波(なにわ)がた 短き芦の ふしのまも 逢はで此の世を すぐしてよとや
〔難波潟に生える芦の、その節と節の問ほどの短い時さえも逢ってくださらないで、この世を過ごせというのでしょうか〕

節の間は短い時を意味する。節はよ(世)とも読む。〈此世)は短く、会わないでいるとすぐに過ぎてしまう。(難波潟)には、難い、むずかしい、の意がこめられている。
伊勢(八七七ごろ~九四二ごろ)は伊勢守藤原継蔭(つぎかげ)の娘で、宇多天皇の后、七条の宮温子(おんし、よしこ)に仕えた。
そして温子の弟藤原仲平と恋に落ちるが破れる。やがて字多天皇の子を生んだ。
字多天皇は菅原道立具を重用し、藤原氏に対抗させた。そして出家して法皇となった。第一皇子の敦仁(あつひと)親王が醍醐天皇となった。藤原氏の摂政を置かず、(延喜の聖代)と呼ばれ、天皇を中心の政権が一時、復活したかに見えた。
字多天皇が出家して、とりのこされた伊勢は、字多天皇の第四子の敦慶(あつよし)親王に誘惑され、一女
中務(なかつかさ)を生んだ。美しく、恋多き女であった伊勢は、小野小町がそうであったように、晩年に落ちぶれて、淋しく死んだという。
この歌にも」多くの男に言い寄られながら、やがて捨てられてしまう女の哀しみが漂っている。

18-藤原敏行朝臣

 百人一首百彩-18

海野 弘

18-藤原敏行朝臣(ふじわらのとしゆきあそん)
古今集
寛平の御時きさいの宮の歌合のうた

住の江の きしによる波 よるさへや 夢のかよひぢ 人めよくらむ
〔住の江の岸べに寄せる浪よ、私は昼間の人目を避けるだけでなく、夜に、夢の中であの人に会いにいく時でさえ、人目を避けようとするのだ〕

「住の江の きしによる波」は、夜を呼び出す序詞である。(住の江)は、大阪の住の江(住吉)で、その岸に寄る彼のように、寄ってほしい、寄りたいという意味もあるのだろう。
この歌を、男の作者が女の気持で詠んだ、という解釈もある。せめて夢の中では、人目を気にせず、もっとたびたびやってきてほしい、住の江の岸の浪が寄せるように、となる。
藤原敏行(生年不明-九〇一または九〇七)は三十六歌仙の一人。能書家であったという。妻は在原業平の妻の妹であった。蔵人などの官職を務めたが、歌人としても活躍tた。『古今集』に入った
「秋来ぬと 日にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」
は、よく知られている。
「寛平の御時きさいの宮の歌合」は、宇多天皇の時、天皇の母、皇大后班子(はんし)の主催した「寛平御時后宮歌合」のことである。

17-在原業平朝臣

百人一首百彩-17

海野 弘

17-在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)
古今集
二条の后(きさき)の春宮(とうぐう)のみやす所と申しける時に、御屏風に竜田川にもみぢながれたる
かたをかけりけるを題にてよめる
千早ぶる 神代もきかず 立田川 からくれなゐに 水くくるとは
〔不思議なことが起こつていた神代においても聞いたことがない。竜田川に紅葉が流れ、まるで、くくり染めで、からくれない(深紅色)に染めたように見える〕

(千早ぶる)は神に掛かる枕詞で、荒れくるう、といっ.た意味がある。神代は、神々がまだ鎮められず、荒々しく暴れていた頃である。くくり染めは放り染めのことだ。川の水が紅葉で、見たこともないほど赤く染まっている。もっともそれは実際の風景ではなく、屏風絵に描かれたものだ。平安朝では、絵の中の風景、想像のイメージが歌われる。
、=Y
在原業平(八二五~八八〇)はすでにのべたように行平の異母弟である。恋多き男で、『伊勢物語』の主人公である。二条の后は、藤原高子(たかいこ)であるが、彼女が東宮の御息所といわれていた頃に、業平とロマンスがあったらしい。高子は十八歳の時、五節舞姫に選ばれて、天女のような美しさで注目
された。高子は叔父良房の世話になり、良房の娘で文徳(もんとく)天皇の女御明子(あきらけいこ)のもとにいたという。そこ
は染殿という良房の邸であった。
それらのことを考えると、この歌も、高子との禁じられた恋を暗示しているように読める。(くくる)は、染殿(そめどの)に掛けられ、このような深紅に染められた恋は、神代にもなかった、というのだ。

16-中納言行平


百人一首百彩-16

海野 弘
16-中納言行平(ちゆうなごんゆきひら)
古今集 題しらず

立わかれ いなばの山の みねにおふる まつとしきかば 今かへりこむ

〔今、お別れして、因幡(いなば)の国(鳥取)へ行きますが、そこの稲羽山の峯に生えている松のように、あなたが待つといってくれるなら、すぐに帰ってきましょう〕
在原行平(八一八-八九三)は平城天皇の孫であるが、臣籍に下り、在原の姓となつた。異母弟に業平(なりひら)がいる。行平は有能な官僚として、各地に赴任し、在原氏のために働いた。八五五年には因幡守に任ぜられ、任地に向かった。この歌はその時のあいさつの歌ではなかったか、といわれている。
遠国に赴くことへの不安と、なに、すぐに帰ってきますよ、という願望の混じったから元気がここもっているかのようだ。
ついに中納言になったが、八八七年、長い役人生活に疲れたのだろうか、役職を辞任し、隠居した。                  若い時、須磨に流され、二人の海女とのロマンスがあったといわれ、『源氏物語』 の須磨の巻のモデルとされる。これは伝説らしい。

15-光孝天皇

百人一首百彩-15

海野 弘
15-光孝天皇(こうこうてんのう)
古今集
仁和のみかど みこにおましましける時に 人にわかなたまひける御うた

君がため 春の野に出(い)でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ
〔君のために、春の野に出て、若菜を摘んだ。その時、雪が降りだし、私の袖にかかった〕

「仁和のみかど」は光孝天皇のことで、まだ皇子の時に、人に若菜を与えた時の歌という。あなたのため、雪の中で若菜を摘んできました、という素直な歌だ。若菜を食べると邪気をはらうといわれ、若菜摘みは年中行事になっていた。
光孝天皇(八三〇-八八七)は仁明天皇の子で、陽成天皇が十七歳で退位させられたので、藤原基経は、すでに五十五歳、貧乏暮らしをしていたこの人を天皇にしたのである。そして基経は関白となつた。思いがけなく天皇になったが、三年余で没した。
したがって、皇子である時代がずいぶん長かったのである。まさか晩年に天皇になるなどとは思ってもいなくて、あまり野心もなかったらしい。そんなことを考えると、このなにげない歌も面白い。自ら若菜を摘んだかどうかはわからないが、あなたのために、雪の中を摘んできました、という素直な言い方に人柄が感じられる。

14-河原左大臣


百人一首百彩-14

海野 弘
14-河原左大臣(かわらのさだいじん)
古今集 題しらず
たれゆえ  みだ
陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰故に 乱れそめにし 我ならなくに
〔陸奥の信夫(しのぶ=福島県)の「もじずり」のように、心がよじれ、乱れてしまったのは、だれのせいなのだろう〕

「しのぶもぢずり」は、はつきりしていない。忍草を布にすりつけて染めることだという。すりつけるので、もじれ(よじれ)、乱れる。それが東北の信夫の染物とされるようになる。「しのぶ」は忍草と忍ぶを掛けていて、(陸奥)(道の奥)に、かくれている、しのんでいる、が結びつく。「陸奥のしのぶもぢずり」は(乱れ)を呼び出す序詞で、乱れ染と乱れ初め、が掛けられている。「我ならなくに」がむずかしい。心を乱すのが、私なのか、あなたなのか、二つの読みができる。一般には、私があなたゆえに、心を乱した、と解釈されている。「我ならなくに」は、私ではないのに、つまり‥私が心を乱したのは、あなたのせいで、私のせいではないのに、となる。
心を乱したのが、あなたとすると、陸奥の乙女よ、だれのために心を乱したのだ、私のせいじゃ
ないよね、と、ちょっと軽い気分の歌となる。

河原左大臣は源融(みなもととおる=822~895)のことで嵯峨天皇の子で、臣籍に下り、源の姓となった。陽成天皇の後継を望んだが、摂政藤原基経にことわられた。京の東六条に豪華な河原院をつくり、陸奥塩釜の風景を写した庭園で知られた。
藤原氏に押さえられたうさを、そこで晴らしていたのだろうか。

13-陽成院


百人一首百彩-13

海野 弘

13-陽成院(ようぜいいん)
後撰集 釣殿のみこに遣はしける
筑波(つくば)ねの みねより落(おつ)る みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
〔筑波山の峯より落ちるみなの川のように、恋がつもりつもって、深い淵になつてしまった〕

筑波山には男体山(なんたいざん)と女体山の二つの峯があって、その間にみな(男女)の州が落ちているという。
そして男女が親しくなる歌垣で知られる。
陽成院(八六人-九四九).は第五十七代天皇で、清和天皇の第一子であった。清和天皇の母は藤原良房の女の明子(あきらけいこ)で、良房は摂政となり、藤原氏の摂関政治がはじまつた。良房の養子基経(もとつね)は、妹の高子(たかいこ)を清和天皇の女御とし、摂政を継いだ。二条の后といわれ、陽成を生んだ。在原業平とも浮名を流した二条の后はスキャンダラスな女性であった。
陽成は九歳で天皇となった。そして十七歳で退位させられた。それから八十二歳まで生きた。退位の理由は狂気であった。蛇に蛙を飲ませたり、女をしばって水に沈めたりしたという。だがそれも藤原氏の陰謀であったかもしれない。
この歌は「釣殿のみこに遣はしける」とある。光孝天皇皇女綏子(やすこ)で、陽成の後宮(こうきゆう)に入った。陽成の歌はこれしか知られていない。狂える王とされているが、この歌からはそれが感じられない。

12-僧正遍昭(そうじょうへんじょう)

百人一首百彩-12

海野 弘

ごせち
12-僧正遍昭(そうじょうへんじょう)
古今集 五節(ごせち)のまひひめをみてよめる

天津風(あまつかぜ)雲のかよひぢ 吹(ふき)とぢよ 乙女のすがた しばしとどめむ
〔天の風よ、雲の間の通い路を吹きとじてくれ」乙女たちの姿をもう少し見ていたいのだ〕
五節の舞姫は、陰暦十一月の豊明節会(とよあかりせちえ)の時の催物で、天武天皇の時にはじまったという。毎年、四人の舞姫が選ばれる。今年とれた新穀を天皇が食べる新嘗祭(にいなめさい)が夜にあり、翌朝になると豊明節会となり、舞姫が五節舞を、五度袖をかえして舞う。四人の舞姫は公卿の娘二人、受領の娘二人となっているが、しだいに衣裳が華美になり、莫大な費用がかかるようになつた。
この歌では舞姫が天女にたとえられ、舞がすむと天に帰っていくのだろう、とされている。
僧正遍昭(816~890)は良岑安世(よしみねのやすよ)の子、桓武天皇の孫で、良琴宗貞(むねさだ)といった。仁明(にんみょう)天皇に仕えたが、八五〇年に仁明が没し、深草山に葬られると、それを悼んで比叡山に入り、出家したという。美男子で、僧侶になっても、女性にもてたらしい。小野小町があこがれた、という伝説もある。
この歌にもそんな色気が感じられる。

11、小野篁(おののたかむら)

百人一首百彩-11

海野 弘

11-参議 篁(さんぎたかむら)
古今集 おきのくににながされける時に ふねにのりていでたつとて 京なる人のもとにつかはしける
はしける
和田(わた)の原 八十鳴(やそしま)かけて こぎ出(いで)ぬと 人にはつげよ あまのつり舟
〔私は今、たくさんの島の間を抜けて、大海に船出をするところだ。釣舟に乗った漁師たちよ、そのことを都の人に伝えてくれ〕

小野篁(802~852)は小野岑(みねもり)の子で、漢詩文、書道にすぐれていた。承和元年(834)、遣唐副使に選ばれたが、大使藤原常嗣(つねつぐ)と対立し、承和五年(836)の出発の時、船に乗らなかった。
そのために官位を奪われ、隠岐島に流された、その時の歌であるという。
博学で、その漢詩文の見事さはよく知られていた。嵯峨(さが)天皇にその学識を認められ、重用された。
しかし反骨的なところがあり、当時、かなり腐敗していた遣唐使の制度を批判したため、隠岐島に流された。その流された日々につづった漢詩や和歌は都に伝えられて、仁明(にんみょう)天皇に許され、承和七年(840)、都に呼びもどされ、やがて参議(中納言の次)になつた。
この歌は、詠まれた事情や時がはっきりしている。自分は不当な罪で今、流されようとしている、漁師たちよ、そのことを都の人々に伝えてほしい、というのである。

10-蝉丸

百人一首百彩-10

海野 弘

10-蝉丸
後撰集 逢坂の関に庵室を造りて住侍りけるに行かふ人を見て

これやこの 行くも帰るも 別れては しるもしらぬも 逢坂(おうさか)の関
〔ああ、ここが、東へ行く人も西へ帰る人も、知っている人も知らない人も、別れてはまた逢うという逢坂の関なのだな〕

逢坂の関は近江と山城の国境で、大津から京都に行く途中である。
北に比叡山(ひえいざん)、南に音羽山(おとわやま)がある。
ぞうしき           だいご
・蝉丸も伝説の人だ。字多天皇の皇子敦実(あつざね)親王の雑色(雑役夫)だつたとも、醍醐天皇の第四皇子だったともいう。盲目で琵琶の名手であったという。その伝説がロマンをかきたて、世阿弥(ぜあみ)の能や近松門左衛門の人形浄瑠璃に作品化された。盲目の琵琶法師のイメージは、遍歴する旅芸人たちの祖として考えられるようになった。
また逢坂の関に庵室を造って住んだ、とあることから、蝉丸神社がつくられ、関を守る道祖神としても祀られた。
この歌は、「行くも帰るも」、「しるもしらぬも」「別れては……逢う」と反対のものを、ことばあそびのように、くりかえす面白さを持っていろ。めまぐるしい人の動きを、関の庵で、ちょっと離れて見ている、という世の中から一歩引いた、隠者のまなざしが感じられる。

9-小野小町(おののこまち)

 

百人一首百彩-9

         海野 弘

9-小野小町(おののこまち)
古今集 題しらず

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに
〔桜の花の色は、すぐに変わり色あせてしまう。私の身も、世の中の雑事の中で、移り変わり、老いてしまった〕

花は、人生の最も美しい時であり、容色のことでもある。美女といわれていた小町も、ちやほやされているうちに、花は散り、実を結ぶことはなかった。(ながめ)は長雨と眺めを掛けている。見ているだけで、恋もまとまらなかった。(ふる)は、古ると降る(長屑)を掛けている。
小野小町も生涯不明で、伝説化されている、絶世の美女が、男たちを振りつづけて、老いさらばえてしまった、という虚栄のむなしさの象徴のように語られている。
小野氏という古い一族の女で、小町は妹娘の意味らしい。やがて小野小町は巫女集団の女神のように信仰され、日本中に小町伝説を持ち歩く、遍歴する巫女たちがあらわれる。
『古今集』の仮名序で、紀貫之は、小野小町について「あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは、女の歌なればなるべし。」といっている。万
葉の女流歌人のおおらかさに対して、王朝におけ′る、男と女をはっきり区別する文化で、最初の女
らしさとそのメランコリーを表現した女流歌人だったのではないだろうか。

8 喜撰法師(きせんほうし)

百人一首百彩-8

海野 弘

8 喜撰法師(きせんほうし)
古今集 題しらず

わが庵(いお)は 都(みやこ)のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり
〔私の庵は、都の巽(たつみ=南東) の宇治山にたっている。そんな暮らしを、人々は、世を憂しとして隠居しているといっている〕
しか
(しかぞ住む)は、鹿が住むではなく、然ぞ住む、つまり、このような暮らしをしている、という意味だ、とされているが、鹿のいるような田園に生きる、としてもいいだろう。宇治山と憂しが掛けられている。
喜撰法師は六歌仙に入っているが、生涯はわからない。山の仙人だったといわれている。猿丸大夫のような山人、役の行者のような山伏であったかもしれない。
百人一首の歌人は、王侯貴族、官吏、宮廷に仕える女人が中心だが、宮廷、都に属さない、山の人々、放浪者、歴史の外にいる人々が入れられている。歌の世界は、一般社会と、そこから排除されている人々をつないでいるらしい。
この歌も、王朝の栄華を求める生活とは別の′、隠居し、仙界に遊ぶ、というもう一つの生き方がある、といっているかのようだ。世捨人のように世間はいうが、この生き方が私にとっては自然なのだと喜撰はいう。すると定家のような宮廷人も、ふと、そうかもしれないと思ったりする。

7、安倍伸麿

百人一首百彩-7

海野 弘

7、安倍伸麿
古今集 もろこしにて月を見てよみける

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
〔大空の彼方を、はるかに凝視すると、ふるさとの春日の、三笠山から出てきた月が見える〕

仲麿は中国の唐に留学している。そこで月を見上げ、それを通して、月の出を見た故国の三笠山をしのんでいる。
_
安倍仲麿(仲麻呂) (六九人-七七〇)は十六歳で留学生として唐に渡った。玄宗皇帝に仕え、李白など唐の文人とも交遊した。七五三年、帰国の途についたが、嵐のため安南に流され、中国にもどり、その地で没した。
望郷の想いが切々と伝わってくる。彼の歌はこれ一首しか伝わっていない。どのような時に詠んだのだろケか。それはどのように日本に伝えられたのか。                 一
「ふりさけ見れば」は、頭をぐつとそらして見上げ、目を裂けるように大きく見開いて見よ、という感じだ。また、上天の月を反射板として、その下にあるはずの故国をイメージしている。「春日」は「微か」に通じ、月に、三笠山が微かに映っているとも読めるのではないだろうか。
以上の七人で奈良朝の歌人が終わる。ここまでは序章といえるだろう。そして平安朝に入ってゆく。百人一首の読み札は、安部伸麿となっている。

6、中納言家持

百人一首百彩-6

海野 弘

やかもち
6、中納言家持(やかもち)
新古今集 題しらず

鵠(かささぎ)の わたせるはしに おく霜の しろきをみれば 夜ぞ更けにける
〔鶴(かささぎ)が渡した橋に、霜が降り、白くなっているっそれを見ると、夜が更けたことを感じさせる〕

七夕伝説にちなんでいる。中国の伝説によると、七夕の夜、鶴が天の川に羽根を並べて橋をつくり、織女を牽牛のところへ渡したという。だから、橋に霜が下りて、鶴の羽根を並べたように白く見える、と訳した方がいいかもしれない。鶴は、からすの一種であるが、腹と肩羽が白で、他は黒だという。
だから、鶴が羽根を並べて橋をつくれば、白と黒になつたはずだ。この歌は、夜の黒と霜のしろ白が対比されている。また、七夕という夏の風物を冬の夜に配している。
大伴家持(716または718~785)は父の大伴旅人(たびと・665~731)とともに「万葉集」の代表的な歌人であった。地方官吏となったが、新興の藤原氏が大伴氏を排除しようとし、その政治的な陰謀によって、家持も官位を奪われ、死後も罪をきせられた。このすばらしい歌人は、滅びゆく一族の政治的生活を避けられず、晩年は歌を奪われてしまった。
だからこの歌を、鶴が夏に掛けた白い美しい橋が、冬の霜の橋に変わり、この世も、冬の寒い夜にさしかかっている、と読んでみたくなる。

5、猿丸大夫(さるまるだゆう) 古今集


百人一首百彩-5

海野 弘

5、猿丸大夫(さるまるだゆう) 古今集 これさだのみこの家の歌合(うたあわせ)のうた
なく
奥山に もみぢふみわけ 鳴鹿の こゑきく時ぞ 秋はかなしき

〔奥山の紅葉をふみ分けて、鳴く鹿の声を聞く時、秋の悲しさが迫ってくる〕

単純でわかりやすい歌のようだが、どこで切って読むかによって別な解釈になる。
五七で切るか五七五で切るか、である。五七で切れば、奥山に紅葉をふみ分けていくのは作者ということになる。
そこで鹿の声を聞くのである。五七五で切ると、紅葉をふみ分けてくるのは鹿で、作者は遠くでその声を聞いていることになる。
猿丸大夫もまったく生涯が不明で、実在したかどうかもわからない。この歌は『古今集』に、是貞(これさだ)のみ「この家の歌合のうた」として入っているが「よみ人しらず」となっている。定家はなぜかそれを猿丸大夫の作としている。是貞親王は光孝天皇の第二皇子で、この歌合は八九三年に開かれた。
猿丸大夫を伝説の山人、山伏と考えてみると、自ら奥山に紅葉をふみ分けて入っていくのも不思議ではない。秋の鹿は妻を求めて鳴き、恋の悲しみを感じさせるとされていた。

百人一首百彩-4

百人一首百彩-4

海野 弘

山部赤人(やまべのあかひと) 新古今集 題しらず

 
田子の浦に 打ち出て見れば 白妙の 富士の高嶺(たかね)に 雪はふりつつ

〔田子の浦(静岡県)に出て見ると、富士の高嶺にまっ白な雪がふりつもっている〕

現代語訳がいらないほどまっすぐな歌だ。雄大な風景が広がっている『万葉集』の原歌は「ふりける」になっている。
田子の浦から見ているのだから、降っているところは見えない。「ふりつつ」はおかしい。
「ふりける」なら、降ってつもった雪が見えている、とい                            l
ゝブことで納得できる。『新古今集』で「ふりつつ」としたのは、改悪である、といわれている。
見たものをそのままに歌う『万葉集』と、見ていないもの、見えないものも歌おうとする『新古今集』のちがいがあらわれている。
山部赤人についても生涯はわからない。人麿と並ぶ歌人といわれた。やはり宮廷御用の歌人だったらしい。流動の人麿、浄頸の赤人といわれたそうである。流れるような動きと浄(きよ)く頸(つよ)いの対比である。人麿は人間の激情を、赤人はのびやかな自然を詠んだ。
山部赤人は聖武天皇に従って紀伊・吉野に行っているので、八世紀半ばに活動している。駿河、下総、播磨などの地方も旅している。

 

3、柿本人麿


百人一首百彩-3

海野 弘

3、柿本人麿(かきのもとのひとまろ)拾遺集 題しらず

足曳(あしびき)の 山どりの尾のしだり尾の ながながし夜を 獨りかもねむ
28
〔ヤマドリの尾のように、たれさがって、ひきずっているように、長い長い夜を、ひとりで眠るしかないのだ〕
長い夜の孤独な想いは、なにをめぐつているのだろうか。『拾遺集』では(恋の部)に入れている。
愛する人が来ない夜のこととすればわかりよい。長い山どりの尾は、女の黒髪のイメージであるといった解釈もある。
しかし孤独な想いは、恋に限らなくてもいいかもしれない。たとえば罪を問われて地方に流されている、といったことも考えられる、さまざまなことを想像できる歌だ。
柿本人麿(人麻呂)の生涯はほとんどわからない。『万葉集』に入っている歌から推測できるだけである。それによると持統・文武朝(七~八世紀)に活動したらしい。身分の低い官吏で、歌の才能を認められて、天皇のお伴をし、それを讃える歌をつくつている。たとえば持統天皇の吉野行幸に従い、吉野離宮の歌をつくり、軽皇子(かるのみこ=のちの文武天皇)の狩りに従い、軽皇子の父草壁皇子をしのぶ歌をつくつた。一方、軽{奈良県橿原(かしはら)}にいた妻を亡くした悲しみ、石見{いわみ(いまの島根県西部)}の妻との別れの歌など、個人的な変の歌もある。歌の聖とされた人麿についてはさまざまな伝説がつくられた。孤独な夜の想いも、愛なのか、政治的陰謀をめぐるものなのかわからない。

2、持統天皇


百人一首百彩-2

海野 弘

2、持統天皇(じとうてんのう) 新古今集 題しらず

春すぎて 夏きにけらし白妙(しろたえ)の 衣(ころも)ほすてふ 天のかぐ山

〔寿が過ぎ、夏が来たようだ。天の香具山に白い衣を干すようになったという〕

夏の白い衣に着替えるために、それをひろげて空気にさらす。奈良の大和三山の一つ香具山の山腹に、そんな白い衣が干してあるのが見える。
『万葉集』では「衣ほしたり」となつていて、直接見た風景がうたわれているが、『新古今集』では「衣ほすてふ」(衣を干してあるということだ)と、間接的になっている。
持統天皇(六四五~七〇二)は天智天皇の第二皇女で、天武天皇の皇后であった。天智の没後、大海人皇子と大友皇子は皇位継承をめぐつて争う。壬申の乱に勝利した大海人は天武天皇となった。
天武の没後、皇后はその仕事を継ぎ、持統天皇となつた。六九四年、藤原京に移った。ここから香具山がまっ正面に見える。
「春すぎて 夏きにけらし」も、藤原京という新都に移ること、衣かえの時であり、新しい自分の世が来たのだ、というように読んでみたくなる。
ともかく、香具山に白い衣が干してある、と′いう非常に視覚的な歌である。

 1、天智天皇

百人一首百彩-1

海野 弘
1、天智天皇(てんじてんのう) 後撰集 題しらず

秋の田の かりほの庵(いお)の 苫(とま)をあらみ わがころも手は 露にぬれつつ

〔秋の田のそばの仮小屋に寝ていると、屋根を葺(ふ)く苫の目があらいので、露がもれてきて、私の袖を濡らす〕

天智天皇(六二六~六七二)は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)として、蘇我蝦夷(そがえみし)・入鹿(いるか)父子を倒し、大化改新を行い、律令国家を築いた。
六六七年、近江京に遷都し、六六鉢年、第三十八代天皇として即位した。しかし病いに倒れ、後を託すはずの弟の大海人王子(おおあmのおうじ=のちの天武天皇)とうまくいかず、多難なうちに没した。
この歌は、天智天皇の歌かどうかはっきりしないが、天智の歌として考えてみると、なかなか面白い。
大化改新を行なつて、新しい律令制度による国をつくつた。しかしそれはまだ仮小屋のようなもので、制度が整わず、そのあらい目から、いろいろな欠陥が入りこんできて、私を悩ませている。
そんなふうに読んでみたくなる。天智の理想や夢が現実の前に崩れてゆく悲しみが浮かんでくる。

『小倉百人一首』と美術-3


『小倉百人一首』と美術-3

海野 弘

一方、古い歌人が歌仙として崇拝されるようになる。それは『古今集』などで在原業平など六人をとりあげたことにはじまり、やがて六歌仙と称される。さらに藤原公任(九六六~一〇四一)が選んだ(三十六歌仙)が知られるようになる。
人丸、貫之、窮恒、伊勢、家持、赤人、業平、遍昭、猿丸、友則、素性、小町、兼輔、朝恩、敦忠、高光、公忠、忠琴、斎官女御、頼基、敏行、重之、宗干、信明、清正、順、興風、元輔、是則、元其、三条院女蔵人左近、仲文、能宣、忠見、兼盛、中務の三十六人で、そのほとんどは『小倉百人一首』に入っている。
これらの歌人の作品を集めた 『三十六人家集』が平安未からつくられる。そして鎌倉時代には、(歌仙絵)という、似せ絵(肖像) がつけられることになる。(歌仙絵)のはじまりははっきりしないが、平安末にはあらわれていたともいわれる。たとえば(歌合絵)と呼ばれる、二人の歌仙を組合せたものもあった。
歌仙の中でも柿本人麿は特に歌の神として崇拝され、人麿像がおびただしく描かれた。
(歌仙絵)は鎌倉時代以後も措かれ、扇絵や絵馬などになった。そして、桃山から江戸にはカルタ絵に受け継がれる。男は直衣、女は十二単衣などを着た歌人像は、平安・鎌倉の(歌仙絵)をもとにしているのである。
かな文字で描かれる和歌は、華麗を料紙を一彩る装飾として展開され、さらにその視覚的なイメージ風景が絵画や工芸意匠を呼びだし、文学と美術が総合されたアートの世界をつくり上げた。『小倉百人一首』は、その最も人気のあるテーマなのだ。私たちはそれを歌を読む喜び、絵を見る楽しみとして、ことばとイメージの間を自由に往来して、その世界に遊ぶことができるのだ。

『小倉百人一首』と美術-2


『小倉百人一首』と美術-2

海野 弘

平安期の和歌では(題詠)がよく行なわれた。ある題を出して、それにちなむ歌をつくるのである。(題詠)の流行には(やまと絵)が関係があった。
「倭絵が起つて屏風絵にそれが用ゐられるやうになるにつれ、それを題にすることが行はれた」(津田左右吉『文学に現はれたる国民思想の研究』岩波書店一九五一)
現実の風景ではなく、絵を見て歌を詠むのである。
「これは後にいふ紙絵や扇の絵の歌または絵物語と共に、絵画と文学との結合といふ平安期文芸の一特色となすものである。」 (前掲書)
風巻景次郎『中世の文学伝統』も、平安文化の絵画性に触れている。
「この頃の芸術全体の上の特色は絵画的要素の支配した点であった。絵画的ということは、彫刻や建築やらを一層視覚的快楽に奉仕させるようにをる。線条は繊細に、色彩は美麗になる。絵画には仏像画ばかりのところへ風景画が成立する。そして広大な空間を感じさせる画面が成立するようになる。文学の上では描写が成立して、読む中に、まざまざと視覚的映像をよびさますような技巧が生れる。」 (岩波文庫一九八五)
和歌は絵の中の風景を詠ずる。和歌は絵画的、視覚的になり、イメージを語り、屏風絵、障子絵と密接に結びつくものとなる。
このように、平安期には、屏風絵、障子絵さらに紙絵(絵巻など)を見て歌を詠むようになる。
室内的になるともいえる。そして歌そのものが、身近な風景を描写し、視覚的になる。『小倉百人一首』も障子絵という室内装飾と結びついてあらわれる。

『小倉百人一首』と美術-1

『小倉百人一首』と美術-1

海野 弘

すでにのべたように、藤原定家はその日記『明月記』の一二三五年五月二十七日に、嵯峨中院障子の色紙形に、天智天皇から家隆雅経までの歌人の歌各一首ずつを書いたと記している。これが『小倉百人一首』の原形だろうといわれる。頓阿(とんあ)一二八九~一三七二年の『井蛙抄(せいあしょう)』巻六には、京極殿(定家)が、「嵯峨の山荘の障子に、上古以来の歌仙百人のにせ絵を書て、各一首の歌を書きそへられたる…」と伝えている。
これによると、定家は、歌を書いただけでなく、似せ絵(肖像画)まで描いたようにもとれるが、定家が絵を描くとは聞いたことがない。ともかく頓阿の頃(十四世紀)になると、歌と歌人の肖像がセットになった(歌仙絵)が一般的になり、『小倉百人一首』もそうだったろうと考えられたのである。
そのような(歌仙絵)は、百人一首カルタに受け継がれて、現代でも親しまれている。興味深いのは、定家の書いた障子の色紙形がどのようなものだったかわからないが、かなり早くから、『小倉百人一首』は絵画と密接な関係があったということである。
『古今集』 のあたりで、仮名による(やまとうた)すなわち和歌が確立するが、その同時代である九世紀に、唐様、つまり中国的な絵画に村する(やまと絵)が成立してくることが注目される。そして、(やまとうた)と(やまと絵)は結びついた。

和歌史と『小倉百人一首』ー3

和歌史と『小倉百人一首』ー3

海野 弘

一一八八年に『千載集』が出された。藤原俊成、西行法師、寂蓮法師、慈円、道因法師、式子内親王、讃岐などが『小倉百人一首』に入った。
そして鎌倉時代に入り、『新古今集』(…〇五)が出た。『古今集』以後の吏朝和歌のまとめであつた。後鳥羽院、藤原良経、藤原雅経、藤原定家、源実朝きが『小倉百人盲』に入った。
三五年の『新勅攫集』からは藤原公経が入った。
そして三三五年ごろに『小倉百人二日』が選ばれたといわれる。
以上をまとめると、平安時代の第一期から第二期(摂関時代)への過渡期に『古今集』がまとめられ、第二期には『後撰集』『拾遺集』『後拾遺集』がまとめられ、撃二期(院政時代)は『千載集』にまとめられ、鎌倉時代に入って、『新古今集』によって、あらためて、『古今集』以後の時代の和歌がまとめられた、と見ることができるだろ、つ。
『万葉集』 と 『古今集』 『新古今集』 を‥対比してみると、思い、風景、出来事を直拙傍にうたった前者に対して、後者は知的、技巧的になっている。共同体から個人生活へ、野外から室内へ、ともいえる。平安期に、和歌が芸術として確立、整備された。単純化していえば、ものと結びついていたことばを独立させ、ことばそのものを自由に操作歌がまとめられた、と見ることができるだろう。『万葉集』と『古今集』『新古今集』を‥対比してみると、思い、風景、出来事を直拙傍にうたった前
者に対して、後者は知的、技巧的になっている。共同体から個人生活へ、野外から室内へ、ともいえる。平安期に、和歌が芸術として確立、整備された。単純化していえば、ものと結びついていたことばを独立させ、ことばそのものを自由に操作できるようにした。ことばをデザイン化したといっておこう。
与り
具体的にいえば、ことばを集め、分類し、インデックスをつくり、引用できるようにした。それによって、歌から歌がつくれるようになった。いわゆる本歌どりである。表現も、重層的、屈折的になり、比喩や、かけことばが使われるようになる。そのため、古い歌の知識や、ことばの技巧が必要となる。
逆にいえば、歌は、才能がなくても、学習すれば、だれでもつくれるものとなる。『小倉百人一首』はまさに、そのような、和歌のデザイン化時代が生み出したテキストではなかったろうか。

和歌史と『小倉百人一首』ー2

|

 和歌史と『小倉百人一首』ー2

海野 弘

九世紀末、第二期、摂関時代への過渡期である醍醐天皇の頃に、和歌のルネサンスがあり、天皇の命で紀貫之たちが『古今集』を選んだ。勅撰集のはじまりである。
「古今集」の撰者として、紀貫之の他に、紀友則、凡河内窮恒(おうしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)などがあげられている。
貫之、窮恒、忠岑が『小倉百人一首』に入っている。
その後、『後撰集』(九五一以後)、『拾遺集』(一〇〇七ごろ)が撰ばれた。『古今集』と合わせて三代集といわれる。
小倉百人一首』に登場する『後撰集』の歌人としては、壬生忠見、平兼盛、源順、清原元輔、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)、曽根好忠、藤原実方などがいる。
『拾遺集』からは、藤原公任、能国法師、和泉式部、小式部内侍らが『小倉百人一首』に入っている。
『後拾遺集』(一〇八六)は院政のはじまった年に選ぼれた。源経信、良邁法師、大江匡房などが『小倉百人一首』に入っている。
このあたりまでが、第二期、摂関時代の歌人といえるだろう。
第三期、院政時代には『金葉集』一一二七ごろ)、『詞花集』(一一五一ごろ)が出された。『金葉集』から源俊頼、藤原基俊、大僧正行尊など、『詞花集』から藤原顕輔、藤原清輔、相模、周防内侍、待賢門院堀河、紀伊、俊恵法師、藤原実定などが『小倉百人一首』に登場した。

和歌史と『小倉百人一首』ー1

和歌史と『小倉百人一首』ー1

海野 弘

以上のように、『小倉百人一首』 の時代を、奈良時代という序章にはじまり、平安時代はⅠ、弘仁・貞観時代(七九四-九世紀末)、Ⅱ 摂関時代(九世紀末-一〇八六年)、Ⅲ 院政時代(一〇八六-                       一二二一年)と大きく三つに分けて考えていこう。ではその時代区分に、和歌の流れはどのように対応しているだろうか。
奈良時代の終わりには『万葉集』がまとめられた。『小倉百人一首』 に入っている七人の奈良朝の
歌人は、安倍伸麿以外は『万葉集』にも入っている。
平安時代の前期、九〇五年には『古今集』が選ばれる。『万葉集』と『古今集』の間の百年は、和歌が低調で、漠詩文が盛んな時代であった。
古今集』の、紀貫之によるという「仮名序」は『万葉集』から『古今集』までの約百年に、いにえのことも和歌の心も知る人が少なくなった、とのべ、その間に知られている歌人として、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、宇治山の僧喜撰、小野小町、大伴黒主をあげている。後に彼らは(六仙)と呼ばれることになる。このうち、大伴黒主を除く五人は『小倉百人一首』 に登場する。(六仙)は、平安時代に入って最初に知られる歌人であるが、その経歴ははっきりしない。生没がはきりしているのは在原業平(八二五-八八〇)ぐらいで、文屋康秀、喜撰、小野小町などはっきりしない。遍昭は八九〇年没という。
(六歌仙)はだいたい九世紀の中頃に活動していたと考えられる。
つまり平安の第一期、弘仁・貞観時代に属する歌人である。

小倉百人一首に歴史を読む-5

小倉百人一首に歴史を読む-5

海野 弘

頼通が関白を引退すると、後三条天皇は藤原氏の勢力を押さえ、大江匡房などを重用した。その傾向は次の白河天皇でさらに強まり、一〇八大年、白河は堀河天皇に譲位して、自らは上皇となって政治を行なうことになった。(院政)のはじまりである。
平安期は、第三期である院政時代に入る。一二二一年町承久の乱までである。院政時代は保元・平治の乱の前後で二期に分ける。前期は白河、鳥羽院の時代、後期は、後白河、後鳥羽院の時代である。前期は武士と結んで藤原氏や寺社などの勢力に対抗したが、武士が強力となり、保元の乱(二五六)、平治の乱(二五九)で武家政権が成立したので、後期は旧貴族を集めて、武に対抗しようとした。
一二二一年の承久の乱は、後鳥羽上皇による鎌倉幕府への抵抗であったが敗れ、後鳥羽は隠岐、土御門は阿波に、順徳は佐渡へと、三上皇が配流された。鎌倉幕府の支配が確立された。王朝文化の決定的な終末であった。
藤原定家が『小倉百人一首』をまとめたのは一二三五年ごろとされる。承久の乱の嵐が吹き荒れ、それがやっと終わって」過ぎ去った(平安朝)をふりかえり、そのエッセンスをまとめようと思ったのではないだろうか。天智天皇から順徳院までに、「王朝」の歴史がすっぽり収まっているのだ。

 小倉百人一首に歴史を読む-4

小倉百人一首に歴史を読む-4

海野 弘

九三〇年、朱雀天皇となり、藤原時平が摂政となり、摂関政治が復活し、十一世紀に道長、頼道により黄金時代に達する。
摂関政治は、律令制が崩れ、貴族が「荘園」を所有した時代であった。平安文化は、荘園がもたらす莫大な富の上に花開いたのである。
一条天皇の時代(九八六-一〇一一)は平安文化の頂点ともいえる。『枕草子』『和泉式部日記』『源氏物語』などが書かれた。この時代の中心が藤原道長である。
道長は九九五年、右大臣、九九六年に左大臣となり、一〇〇〇年に娘の彰子が一条天皇の中宮となった。三条天皇の中宮も道長の娘研子(けんこ)である。一〇一六年、摂政となり、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ。一〇一七年、摂政を頼通に譲り、一〇一九年に出家し、法成寺(ほうじょうじ)に引退したが、地上の栄華の追求をやめることはなかった。
藤原頼通は一〇一七年に摂政となつたが、父道長は後見として強い発言力を持ちつづけた。したがって、一〇二七年の父の死以後、頼通の時代となる。それは一〇六七年に関白を引退するまで、四十年の長きにわたった。頼通は宇治に壮麗な平等院を建築し、藤原文化の最後のきらめきを放った。
しかし平等院がつくられた頃、東北の辺境で大反乱が起こつた。前九年の役、後三年の役と呼ばれる。貴族たちを地方の武士団の棟梁がおびやかしつつあった。

海野 弘

九三〇年、朱雀天皇となり、藤原時平が摂政となり、摂関政治が復活し、十一世紀に道長、頼道により黄金時代に達する。
摂関政治は、律令制が崩れ、貴族が「荘園」を所有した時代であった。平安文化は、荘園がもたらす莫大な富の上に花開いたのである。
一条天皇の時代(九八六-一〇一一)は平安文化の頂点ともいえる。『枕草子』『和泉式部日記』『源氏物語』などが書かれた。この時代の中心が藤原道長である。
道長は九九五年、右大臣、九九六年に左大臣となり、一〇〇〇年に娘の彰子が一条天皇の中宮となった。三条天皇の中宮も道長の娘研子(けんこ)である。一〇一六年、摂政となり、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ。一〇一七年、摂政を頼通に譲り、一〇一九年に出家し、法成寺(ほうじょうじ)に引退したが、地上の栄華の追求をやめることはなかった。
藤原頼通は一〇一七年に摂政となつたが、父道長は後見として強い発言力を持ちつづけた。したがって、一〇二七年の父の死以後、頼通の時代となる。それは一〇六七年に関白を引退するまで、四十年の長きにわたった。頼通は宇治に壮麗な平等院を建築し、藤原文化の最後のきらめきを放った。
しかし平等院がつくられた頃、東北の辺境で大反乱が起こつた。前九年の役、後三年の役と呼ばれる。貴族たちを地方の武士団の棟梁がおびやかしつつあった。

 

小倉百人一首に歴史を読む-3

小倉百人一首に歴史を読む-3

海野 弘

歌人たちも、社会や政治の変動に無縁ではいられなかった。権力者に翻弄される柿本人麿や大伴家持の悲劇はそれを物語っている。家持は、反政府勢力の大伴氏の陰謀に連座したとして、死後も汚名を受けなければならなかった。彼らの歌にもそれらの時代の陰影が漂よっているように思える。
七九四年、平安京に移った。源頼朝が全国に守護・地頭を置いた1185年までを平安時代としている。すでにのべたように、「小倉百人一首」 の大部分はここに収まっている。
平安時代は大きく三つに分けられる。第一期は九世紀末ぐらいまでで、天皇を中心とする律令制度がなんとか継続するが、しだいに藤原氏など有力貴族が勢力を増した時代である。文化史としては弘仁・貞観時代といわれる。最澄の天台宗・空海の真言宗が新しい平安仏教として開かれ、密教的な文化が開化する。天平時代の金銅仏に対して木造の仏像が中心となり、精神性が表現される。
第二期は摂関時代といわれ、藤原氏が摂政や関白として天皇を補佐し、権力を握った。藤原良房が八五八年、摂政となり、藤原基経が八八七年、関白となつたのにはじまるが、醍醐天皇(在位八九七-九三〇)の時、藤原氏と他の有力貴族の葛藤があり、中断する。菅原道真はその渦中にあった。

(注)「百人一首百彩」文・海野弘、画・武藤敏、右文書院刊。

 小倉百人一首に歴史を読む-2

小倉百人一首に歴史を読む-2

海野 弘

平安朝以前の歌人は、天智天皇、持続天皇、柿本人麿、山部赤人、猿丸大夫、中納言家持、安倍
仲麿の七人である。
天智天皇ではじまっているところが興味深い。大化の改新によって律令政治をはじめた。中国の
律令制度をとり入れ、豪族の連合のような固から統一的な国家への道を歩み出した。天智の死後、
後継者をめぐり、天智の弟、大海人皇子と天智の子大友皇子が争い、大海人は蜂起し、勝利する。
天皇家の内乱である壬申の乱(六七二) である。
大海人は天武天皇となった。天武が没すると、その妻が持統天皇になった。
大宝律令が出され、七一〇年、平城京に移った。正式にはこの時が奈良時代のはじめとなる。『古
事記』 『風土記』 『日本書紀』がまとめられた。
七八五年、大伴家持が没した。『万葉集』をまとめたのは彼ではないかといわれている。そして彼
の死は、奈良時代の終わりを告げていた。
天智の大化の改新、天武の壬申の乱の勝利によって、豪族の旧勢力が排除され、律令国家が成立
した。それは中国、朝鮮など大陸との関係が厳しくなり、日本も国家として自立しなければならな
い時であった。歴史がまとめられたこと、『万葉集』という日本の歌がまとめられたことは、そのあ
らわれであった。

小倉百人一首に歴史を読む-1

|小

倉百人一首に歴史を読む-1

海野 弘

「小倉百人一首」は天智天皇(六二六-六七一)から順徳院(一一九七⊥二四二)まで、ほぼ時代順に
並べられている。七世紀から十三世紀まで、奈良、平安、鎌倉時代にまたがっている。
百首の歌は、歌そのものとして楽しむこともできるが、その歌の作者の生涯、そして生きた時代
の中で読むとさらに興味深い。それぞれの歌において具体的に触れたいが、まず、大きな時代区分、
時代背景をざっと説明しておくことにしたい。
奈良朝の歌人は七人である。鎌倉時代に入ってから生まれたのは源実朝と順徳院の二人だ。あと
の九一人は平安朝の歌人となる。つまり、圧倒的に平安朝が中心となっている。だから、和歌の黄
金時代である平安朝を華やかに展開し、それに、はじまりと終末をつけたともいえる。
定家がどのように百首を選び、構成したかは想像するしかないが、百首を一つの世界と見れば、
王朝和歌の黄金時代をくりひろげつつ、それがどこからきたのかを示し、またその時代の終末のき
らめきを添えたように感じられる。

 百人一首とカルタ-3


百人一首とカルタ-3

海野 弘

貝合せは、はじめ、珍しい貝を出して争うというものであったが、それに和歌を添えるようになつた。
さらに、「貝覆(おお)い」というゲームがあらわれた。蛤などの二枚貝は、一対になっていて、他の貝とはぴったり合わない、そのことを利用したゲームで、一つの只の片方を地貝、もう片方を出貝(だしがい)とする。
百八十個の貝を地貝と出貝に分け、地貝を場に並べ、出貝を一枚ずつ出して、合う地貝を見つける。
「貝覆い」では答は一つしかないので、ゲーム性が高まっている。
「貝覆い」の貝には絵や和歌が措かれるようになる。
「源氏物語」「伊勢物語」「百人一首」などの場面や歌などである。
つまり、これらのゲームは、王朝の古典文化の記憶を伴なって発達してきたわけで、ゲームだけではなかったわけである。
このことは、日本的な特徴ともいえるが、西洋でも、見られるかもしれない。たとえばトランプ・カードにキング、クィーン、ジャックといった中世騎士物語のイメージが使われているのも、その名残なのだろう。
一つの貝を二つに切り離して、また合わせる遊びに和歌が結びつき、上の句と下の旬を分けて、また合わせるようになる。そこに西洋のカルタが入ってきて、厚紙や印刷技術の発達に伴ない、貝
をカードに変えて、歌かるたがつくり出されたのだろう。
歌かるたがいつできたかははっきりわからない。カードが日本化された天正年間(十六世紀末)以後のことだろう。今のところ、最古の 「百人一首かるた」とされるのは、滴翠(てきすい)美術館蔵の、道勝法親王筆と伝えるカルタである。道勝は一六二〇年に没しているので、その前ということになる。
江戸時代にはさまざまな歌かるたがつくられた。その中でもしだいに「小倉百人一首」 の歌かるたが人気を集めるようになった。元禄時代に、「小倉百人一首」が、女こどものための手習本に使われ、親しまれるようになつたことも一つの要因であったろう。
江戸時代には、一般の人々に教育が普及し、遊芸文化が花開いた。カルタの流行と、女性も読み書きを習うようにをったことは結びついていたのである。
明治に入ると、女子教育が進み、また「百人一首」カルタ競技もさらに盛り上がっていった。
西洋かるたに影響を受けつつ歌かるたがつくられた時、西洋かるたとは別物であることを強調するために、継松(ついまつ)と呼ばれたそうである。継松はたいまつのことだが、『伊勢物語』 で在原業平が、斎宮が皿に書いた上の句に、継松の燃えかすの墨で下の句を書き継いだ、という故事からきている。
上の句と下の句を合わせる遊びを(継松)といったのである。
百人一首はカルタとなり、東洋と西洋の文化の出会いによって新しい形を生み出し、現代に伝えられた。東西文化の継松であったわけだ。

百人一首とカルタ-2

百人一首とカルタ-2

海野 弘

歌かるた、いろはかるたに共通するのは、読み上げがあることだ。和歌やことわざが節をつけて読まれ、音楽的にも楽しい。読み手と取り手がいる。
このように、カルタは西洋から入ってきたが、日本では二つの流れに分かれたようである。トラ
ンプ・カード、花札の流れでは、ゲームは基本的に個人の勝負であり、閉鎖的で、カードは伏せられている。
歌かるた、いろはかるたの流れでは、読み上げというパフォーマンスが開かれた場をつくり、カードもすべてさらされている。
西洋のカードの輸入、天正かるた、うんすんかるた、という流れからは、歌かるた、いろはかるたの発生は見えてこない。
これまでいわれているのは、日本の伝統的な遊び〈合せもの〉などが西洋のカルタに結びついたという説である。左右二手に分かれて、それぞれが出したものの優劣を競う。絵合せ、歌合せ、鶯合せ、香合せ、貝合せなどがあった。
(合せもの)では、数字の大小といった勝負を決める客観的なルールがないので、優劣が決めにくい。美意識という主観的な評価にまかされるのである。それぞれが弁護をし、判者が判定する。
したがって、ゲームだけでなく、ゲームを通して美的教養を学ぶことになる。
また、公開の場で、オープンに討論されるので、みんなが参加することができる。
カード・ゲームの個人性、密室性と対比的である。

百人一首とカルタ-1

百人一首とカルタ-1

海野 弘

百人一首は和歌のアンソロジーであったわけだが、今では正月の風物詩であるカルタ取りとして知られている。カルタは、十六世紀にポ~トガル人が日本にやってくるようになり、伝えられたカード・ゲーム(タロットやトランプ)が日本化されたもので、そのはしりは「天正かるた」と呼ばれる。トランプ・カードの日本版である。
江戸初期の「松浦屏風」(「婦女遊楽図屏風」)では、二人の女性がカード・ゲームに興じている。
カードの図柄は西洋風である。
「天正かるた」をさらに和風にしたのが「うんすんかるた」である。図柄も武将、布袋、大黒、達磨など日本的なものとなっている。
「天正カルタ」はトランプ・カードと同じ四十人枚であるが、「うんすんかるた」は七十五枚になっている。
「うんすんかるた」は江戸時代に大流行した。そして、さまざまなカルタがつくられた。それらは二種類に大きく分けられるようだ。
一つは、トランプ・天正かるた、うんすんかるた、そして花札に至る、ゲーム性、賭博性の高いカルタである。
もう一つは、歌がるた、いろはかるたなどで、ゲームの勝敗だけでなく、知識、教養、教育などに関わる。
歌がるたの代表である百人一首でいえば、1の句を読み上げると、それにつづく下の句の善かれた札をとる。したがって、その歌をおぼえなければならない。その暗記は、カルタ取りのためでもあるが、それによって和歌の+口典の知識が得られる。
いろはかるたは、日本語の音や字をおぼえるための(いろはうた)がカルタと結びついたものだ。
いろはうたをおぼえ、それを書けば、四十人のかな文字を知ることができる。そして、いろは四十人文字をそれぞれ頭文字とすることわざを学べる。(い)は、「犬も歩けば棒に当る」となる。いろはかるたは、いろは四十人文字をおぼゝえ、教訓を考える四十八のことわざを教える。遊びながら学ばせるわけである。
歌かるた、いろはかるたは、西洋から入ってきたカード・ゲームと日本のことば遊びとの結びつきによって生まれた。
西と東の文化の出会いである。それは西洋のトランプ・カードなどにはない、日本文化の発明といえるのではないだろうか。

小倉百人一首の世界-2 海野弘


   

定家の山荘は愛宕道の南側にあったらしい。
「結び置きし秋の嵯峨野の庵より 床は草葉の露に濡れつつ」
の歌があり、その風情を伝えている。
この山荘のそばに宇都宮入道蓮生(れんじょう)頼綱の別業(別邸)があり、親しくつき合った。
頼綱は関東の豪族であったが権力抗争を避けて京都に移り、出家して和歌など風流の道を楽しんでいたらしい。
定家の息子為家は頼綱の娘と結婚している。
定家は『明月記』 の嘉禎元年(一二三五)五月に、頼綱に頼まれて、嵯峨中院障子に色紙形を書いた、と記している。
なにを書いたかというと「古来ノ人ノ歌各一首、天智天皇自り以来、家隆雅経二及ブ」とある。
どうもこれが「小倉百人一首」の原型であるらしい。
しかし、今伝わっている「小倉百人一首」と同じであったかどうかはわからない。
天智天皇から家隆雅経までとあるが、「小倉百人一首」は、後鳥羽院・順徳院で終わっている。
『新勅撰集』でもこの二人をはずしたのだから、頼綱邸の障子の色紙でも入れなかったのかもしれない。
これらの問題についてはさまざまな説があり、まだ解決がついていない。「小倉百人一首」は定家の撰ではないという極端な説まである。それについては深入りしない。ここではさしあたって、「小倉百人一首」と呼ばれているのだから、定家が小倉山のふもとの山荘の障子のために、名歌を選んで色紙を書いたこと、そこには後鳥羽院、順徳院の歌は入っていなかったようだが、あらためて二人の歌を入れた「小倉百人一首」が後世に伝えられたらしい、とまとめておこう。

小倉百人一首の世界-1 海野弘

 

私が推薦する特選の1冊です・・・右文書院代表・三武 義彦
百人一首百彩

序章

小倉百人一首の世界-1
海野弘

百人一首は、一人一首ずつ百人の歌人の歌を集めたアンソロジーである。藤原定家が選んだという「小倉百人一首」がそのはじめで、その後、さまざまな百人一首があらわれたが、これが最も親しまれている。
なぜ「小倉百人一首」がこれほど親しまれるのだろう。一つには、鎌倉時代初期につくられ、それまでの王朝文化の中で一つの完成を見た古典的和歌のエッセンスが集約されているからである。
和歌が一般に普及していくようになり、「小倉百人一首」は格好なテキストとして役立つようになつた。
もう一つには、近世に「小倉百人一首」はカルタと結びつき、正月の遊びとなり、ゲームとしての面白さを獲得し、残ったためである。ゲームとして暗記されることで、さらに親しまれることになり、現代に魅力を伝えるようになつた。
では、「小倉百人一首」はどのようにつくられたものなのだろうか。
選者とされる藤原定家は、平安朝に花開いた王朝和歌の最後を見とどけた歌人・歌学者といわれた。「百人一首」はそのまとめであったかもしれない。
定家(サダイエ・テイカ)は、平安王朝の歌人藤原俊成の子であり、若くして、新風をもたらす歌人として知られていた。やがて後鳥羽院が和歌に関心を持つようになり、定家のパトロンとなり、「新古今集」の撰者に彼を任じた。
やがて後鳥羽院は和歌を離れたが、その子順徳天皇が代わってパトロンとなつた。
鎌倉幕府を倒そうとした後鳥羽院は承久の乱(一二二一)に敗れて隠岐に流された。
定家は後堀河天皇の命により『新勅撰集』(一二三五)をまとめた。しかし政治的配慮から、後鳥羽院、順徳院の歌をはずさなければならなかった。
藤原定家は、その日記『明月記』に「紅旗征戎ハ吾ガ事二非ズ」と書いたことで知られる。自分は文人であり、旗を立てて賊を討つといった軍人の仕事には関係がない、というのである。彼がこう書いたのは一一八〇年、まだ十九歳であった。
彼は芸術の純粋な世界に寵り、政治などの俗世に関わらない、と宣言した。しかしその若い想いは次々と裏切られていく。和歌も政治や社会に翻弄されてゆくのである。
時代は平安から鎌倉へと移ってゆく。『新勅撰集』 では政治的な圧力で、後鳥羽院、順徳院の歌を入れられなかった。
「小倉百人一首」は、そのような時に成立したといわれる。小倉というのは小倉山のことである。京
都の西、保津川のほとりにある。川の向かい側は嵐山だ。小倉山の東のふもとに二尊院があり、その前に愛宕道がのびている。その北に厭離庵という尼寺がある。このあたりは嵯峨といわれるが、晩年の定家は嵯峨の山荘に籠ることが多くなる。といっても隠居したわけではなく、さまざまな人晩年の定家は嵯峨の山荘に寵ることが多くなる。といっても隠居したわけではなく、さまざまな人が訪れ、歌会を開き、歌人としての名声は確立していた。

「百人一首百彩」へのご挨拶

 

「百人一首百彩」へのご挨拶

三武 義彦

4月に入って新学期、百年近い右文書院の歴史は、スタートが「国文学出版」で、近年は高校の国語教科書専門の出版社として歴史を刻んで来ただけに、新学期となると今でも胸躍る思いがします。とくに、私自身が、小美濃講師、花見村長と若い時からの古文書研究会仲間で古典文学が好きですから、竹取物語、源氏物語、土佐日記、万葉集、平家物語、宇治拾遺物語、奥の細道、伊勢物語、徒然草、枕草子、百人一首などを手を変え品を変えて出版もし、自分も学ぶことになります。とくに、小倉百人一首を独特の文章と画風で仕上げた、文・海野弘、画・武藤敏の名コンビ作「百人一首百彩」には、その精緻な書画の迫力に圧倒されました。
ここ暫くは「連歌集・竹林の風」にお休み頂き、古典文学の傑作を新鮮に変えた「百人一首百彩」をお届けします。
ご案内は、文が海野弘さん、絵画が武藤敏さん、お二人共数多くの著作を持つ著名な作家です。

 

 

はじめに

武藤 敏(画家)

子供の頃、正月になりますとが百人一首のかるた取りをいたしました。
雪に閉ざされた山奥の小さな村々では、それが唯一の遊びであり楽しみでした。
こたつの上にひらがな十四文字の取り札を並べ、私はなぜかいつも読み手になり、絵のついた読み札を手にしていました。
束帯(そくたい)、衣冠(いかん)、狩衣(かりぎぬ)などといわれる様々な衣装を着た男の人達、袈裟(けさ)をまとったお坊さんなど。そしてきらびやかな十二単衣を羽織ったお姫さまが出てくると、どきどきしました。
いつの頃からでしょうか。この百人一首の読み札の雅(みや)びともいわれる世界を作品にしてみたいと常々考えておりましたが、十年程前にパリを訪れた友人から和紙を大量にプレゼントされたのを機に、制作を始めました。
私は、この百人一首の選者といわれる藤原定家についても、百人一首そのものに村しても、浅薄な知識しかありませんが、おおよそ八百年もの前から綿々と伝えられている百人一首の世界と、子供の頃のときめきの気持を、少しでも表現できればと、願いを込めて制作いたしました。多くの方々にみていただければ幸いに存じます。
----------
武藤 敏(むとう・びん)
1962年・武蔵野美術大学抽科卒、「夢土画廊」(銀座)にて個展、以後、新聞・雑誌、書籍・ポスターなどにイラストレーションを発表。196う年「中央画廊」(銀座)にて個展、1973年「紀伊国屋画廊」(新宿)にて企画展(おんな展第一回)、1974年・一年半渡欧、1975年 「真木画廊」にて画廊企画、同世代の版画展招待作品「三幸ギャラリー」(赤坂)にて企画展、1976年「紀伊国屋画廊」(新宿)にて企画展(おんな展第二回)、1977年渡欧、1978年郡上八幡にて作品展(郷土文化誌「郡上」主催)、1980年「かなめ屋画廊」(銀座)にて企画展
1982年「81美術館」(銀座)にて企画展、パリに移住、1983年・ギャラリー「MEDIANE-ELKO」(パリ)にて企画展、「紀伊国屋画廊」(新宿)にて企画展、1985年ギャラリー「カシーヌ」(毎日新聞社内)にて企画展。1986年「GALERIER22」(西ドイツ)にて企画展、SpACEDEIPHSALONPETITFORMT」(パリ)招待出品、1987年セネガル共和国ダカールにて企画展、1988年フランス領マルチニック島にて企画展(フランス教育省主催)、1989年ギャラリー「ACCUEILETRENCONTRES」にて企画展、1991年郡上八幡にて作品展、1996年小田急ハルク美術画廊にて個展、2000年郡上八幡にて作品展、「新岐阜百貨店美術画廊」にて個展

「うまれたよ」

                  うまれたよ                        ♪   ♪   umaretayo ♪  ♪                

(一)

うまれた うまれた うまれたよ
はじめて はじめて でてきたよ
おおきな うちゅうに うまれたよ
ちいさな あかちゃん うまれたよ
おなかの なかから でてきたよ
おなかの なかから でてきたよ
まわりは はじめて みるものばかり
まわりは はじめて きくものばかり
どれだけ おおきく なるのかな
どれだけ おおきく なるのかな

    おおきな おおきな  おおきな うちゅうで
ちいさな ちいさな  ちいさな じけん
それでも うちゅうは かわったよ
きのうの うちゅうと かわったよ
うまれた うまれた おめでとう
かわいい かわいい いのちだよ

(二)

うまれた うまれた うまれたよ
 はじめて はじめて でてきたよ
おおきな うちゅうに うまれたよ
 ちいさな あかちゃん うまれたよ
カラを やぶって でてきたよ
カラを やぶって でてきたよ
まわりは はじめて かぐものばかり
 まわりは はじめて しるものばかり
どれだけ やさしく なるのかな
どれだけ やさしく なるのかな
  おおきな おおきな  おおきな うちゅうで
   ちいさな ちいさな    ちいさなじけん
  それでも うちゅうは うごいたよ
  みらいに むかって うごいたよ
うまれた うまれた おめでとう
  いとしい いとしい いのちだよ         作詞:ふうま・しのぶ   作曲:比留川靖子                                                        演奏:小泉 幸丸    歌:梶木 現
                            写真:水戸信一(西瓜と落花生)

詩と音楽  「再 会」  

エメラルドにきらめく川面
青い空にそびえる教会
淡い緑の早春の土手
一足ごとに足裏に
少年の頃の優しい感触が伝わる

想い出が川からよみがえる
毎日がこの美しい自然と
おぼろげながら浮かぶ腕白小僧の
一点の悩みもない日々だった

年をとらない故郷に再会して
何年も心をすりむいて歳取った僕は
清流に見惚れていた

作詞:石川洋志   作曲:比留川靖子   演奏: 小泉幸丸   歌: 岩間和子

♫ 歌入り      saikai(uta)

♫ カラオケ  saikai(karaoke)

 

 

詩と音楽 星野富弘著「風の旅」から

                しおん・ねこじゃらし・たんぽぽ (詩 星野富弘)

    「しおん」    01 shion     

ほんとうのことなら 多くの言葉はいらない                                                        野の草が 風にゆれるように                                                                  小さなしぐさにも 輝きがある

    「ねこじゃらし」        02 nekojarashi

思い出の向こう側から                                                                 一人の少年が走ってくる                                                                     あれは白い運動ぐつを                                                                     初めて買ってもらった日の                                                                 私かも知れない                                                                             白い布に草の汁を飛び散らせながら                                                              あんなにも                                                                                       あんなにも 嬉しそうに                                                                     今に向かって走ってくる

   「たんぽぽ」       03 tanpopo

いつだったか                                                                       きみたちが空を飛んで行くのを見たよ                                                                風に吹かれて                                                                        ただ一つのものを持って 旅する姿が                                                             うれしくてならなかったよ                                                              人間だって どうしても必要なものは                                                           ただ一つ                                                                       私も 余分なものを捨てれば                                                             空が飛べるような気がしたよ

作曲:比留川靖子/  歌・演奏・録音: 梶木 現 / CD録音制作: 小泉幸丸

 

詩と音楽「森の演奏会」

♪ morinoennsoukai   森の演奏会

綿雲から太陽が顔を出す
光のタクトで冷えた褐色の
大地に春の鼓動を流す

ちぎれた綿雲は青い空のきらめきに
ヘ長調のセレナードを
描き梢を過ぎる
風のメロディに小鳥たちは                                       ミ音の合唱をする

演奏会に招待された
森の生き物たちは

ひとときの春の輝きと
風の起こす小さな季節の
陽だまりに
躍動する

作詩:桐山健一 作曲:比留川靖子  歌:梶木現

♪♪ MUSIC ⇒ morinoennsoukai

詩と音楽 「便 り」

04 tayori    便 り
「心の旅」 より

「便りのないのは元気な証拠」
母がいつも口にしていた言葉

木漏れ日に
虹のひとひらが舞った日
母からの便り
「季節の変わり目身体をいたわりなさい」

温かくなった僕の心を
きらめく虹のかけらで包んで
秋の彩りをおくった

作詩:桐山健一  作曲:比留川靖子  歌:梶木 現