カテゴリー別アーカイブ: 百人一首百彩

和歌史と『小倉百人一首』ー1

和歌史と『小倉百人一首』ー1

海野 弘

以上のように、『小倉百人一首』 の時代を、奈良時代という序章にはじまり、平安時代はⅠ、弘仁・貞観時代(七九四-九世紀末)、Ⅱ 摂関時代(九世紀末-一〇八六年)、Ⅲ 院政時代(一〇八六-                       一二二一年)と大きく三つに分けて考えていこう。ではその時代区分に、和歌の流れはどのように対応しているだろうか。
奈良時代の終わりには『万葉集』がまとめられた。『小倉百人一首』 に入っている七人の奈良朝の
歌人は、安倍伸麿以外は『万葉集』にも入っている。
平安時代の前期、九〇五年には『古今集』が選ばれる。『万葉集』と『古今集』の間の百年は、和歌が低調で、漠詩文が盛んな時代であった。
古今集』の、紀貫之によるという「仮名序」は『万葉集』から『古今集』までの約百年に、いにえのことも和歌の心も知る人が少なくなった、とのべ、その間に知られている歌人として、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、宇治山の僧喜撰、小野小町、大伴黒主をあげている。後に彼らは(六仙)と呼ばれることになる。このうち、大伴黒主を除く五人は『小倉百人一首』 に登場する。(六仙)は、平安時代に入って最初に知られる歌人であるが、その経歴ははっきりしない。生没がはきりしているのは在原業平(八二五-八八〇)ぐらいで、文屋康秀、喜撰、小野小町などはっきりしない。遍昭は八九〇年没という。
(六歌仙)はだいたい九世紀の中頃に活動していたと考えられる。
つまり平安の第一期、弘仁・貞観時代に属する歌人である。

小倉百人一首に歴史を読む-5

小倉百人一首に歴史を読む-5

海野 弘

頼通が関白を引退すると、後三条天皇は藤原氏の勢力を押さえ、大江匡房などを重用した。その傾向は次の白河天皇でさらに強まり、一〇八大年、白河は堀河天皇に譲位して、自らは上皇となって政治を行なうことになった。(院政)のはじまりである。
平安期は、第三期である院政時代に入る。一二二一年町承久の乱までである。院政時代は保元・平治の乱の前後で二期に分ける。前期は白河、鳥羽院の時代、後期は、後白河、後鳥羽院の時代である。前期は武士と結んで藤原氏や寺社などの勢力に対抗したが、武士が強力となり、保元の乱(二五六)、平治の乱(二五九)で武家政権が成立したので、後期は旧貴族を集めて、武に対抗しようとした。
一二二一年の承久の乱は、後鳥羽上皇による鎌倉幕府への抵抗であったが敗れ、後鳥羽は隠岐、土御門は阿波に、順徳は佐渡へと、三上皇が配流された。鎌倉幕府の支配が確立された。王朝文化の決定的な終末であった。
藤原定家が『小倉百人一首』をまとめたのは一二三五年ごろとされる。承久の乱の嵐が吹き荒れ、それがやっと終わって」過ぎ去った(平安朝)をふりかえり、そのエッセンスをまとめようと思ったのではないだろうか。天智天皇から順徳院までに、「王朝」の歴史がすっぽり収まっているのだ。

 小倉百人一首に歴史を読む-4

小倉百人一首に歴史を読む-4

海野 弘

九三〇年、朱雀天皇となり、藤原時平が摂政となり、摂関政治が復活し、十一世紀に道長、頼道により黄金時代に達する。
摂関政治は、律令制が崩れ、貴族が「荘園」を所有した時代であった。平安文化は、荘園がもたらす莫大な富の上に花開いたのである。
一条天皇の時代(九八六-一〇一一)は平安文化の頂点ともいえる。『枕草子』『和泉式部日記』『源氏物語』などが書かれた。この時代の中心が藤原道長である。
道長は九九五年、右大臣、九九六年に左大臣となり、一〇〇〇年に娘の彰子が一条天皇の中宮となった。三条天皇の中宮も道長の娘研子(けんこ)である。一〇一六年、摂政となり、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ。一〇一七年、摂政を頼通に譲り、一〇一九年に出家し、法成寺(ほうじょうじ)に引退したが、地上の栄華の追求をやめることはなかった。
藤原頼通は一〇一七年に摂政となつたが、父道長は後見として強い発言力を持ちつづけた。したがって、一〇二七年の父の死以後、頼通の時代となる。それは一〇六七年に関白を引退するまで、四十年の長きにわたった。頼通は宇治に壮麗な平等院を建築し、藤原文化の最後のきらめきを放った。
しかし平等院がつくられた頃、東北の辺境で大反乱が起こつた。前九年の役、後三年の役と呼ばれる。貴族たちを地方の武士団の棟梁がおびやかしつつあった。

海野 弘

九三〇年、朱雀天皇となり、藤原時平が摂政となり、摂関政治が復活し、十一世紀に道長、頼道により黄金時代に達する。
摂関政治は、律令制が崩れ、貴族が「荘園」を所有した時代であった。平安文化は、荘園がもたらす莫大な富の上に花開いたのである。
一条天皇の時代(九八六-一〇一一)は平安文化の頂点ともいえる。『枕草子』『和泉式部日記』『源氏物語』などが書かれた。この時代の中心が藤原道長である。
道長は九九五年、右大臣、九九六年に左大臣となり、一〇〇〇年に娘の彰子が一条天皇の中宮となった。三条天皇の中宮も道長の娘研子(けんこ)である。一〇一六年、摂政となり、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ。一〇一七年、摂政を頼通に譲り、一〇一九年に出家し、法成寺(ほうじょうじ)に引退したが、地上の栄華の追求をやめることはなかった。
藤原頼通は一〇一七年に摂政となつたが、父道長は後見として強い発言力を持ちつづけた。したがって、一〇二七年の父の死以後、頼通の時代となる。それは一〇六七年に関白を引退するまで、四十年の長きにわたった。頼通は宇治に壮麗な平等院を建築し、藤原文化の最後のきらめきを放った。
しかし平等院がつくられた頃、東北の辺境で大反乱が起こつた。前九年の役、後三年の役と呼ばれる。貴族たちを地方の武士団の棟梁がおびやかしつつあった。

 

小倉百人一首に歴史を読む-3

小倉百人一首に歴史を読む-3

海野 弘

歌人たちも、社会や政治の変動に無縁ではいられなかった。権力者に翻弄される柿本人麿や大伴家持の悲劇はそれを物語っている。家持は、反政府勢力の大伴氏の陰謀に連座したとして、死後も汚名を受けなければならなかった。彼らの歌にもそれらの時代の陰影が漂よっているように思える。
七九四年、平安京に移った。源頼朝が全国に守護・地頭を置いた1185年までを平安時代としている。すでにのべたように、「小倉百人一首」 の大部分はここに収まっている。
平安時代は大きく三つに分けられる。第一期は九世紀末ぐらいまでで、天皇を中心とする律令制度がなんとか継続するが、しだいに藤原氏など有力貴族が勢力を増した時代である。文化史としては弘仁・貞観時代といわれる。最澄の天台宗・空海の真言宗が新しい平安仏教として開かれ、密教的な文化が開化する。天平時代の金銅仏に対して木造の仏像が中心となり、精神性が表現される。
第二期は摂関時代といわれ、藤原氏が摂政や関白として天皇を補佐し、権力を握った。藤原良房が八五八年、摂政となり、藤原基経が八八七年、関白となつたのにはじまるが、醍醐天皇(在位八九七-九三〇)の時、藤原氏と他の有力貴族の葛藤があり、中断する。菅原道真はその渦中にあった。

(注)「百人一首百彩」文・海野弘、画・武藤敏、右文書院刊。

 小倉百人一首に歴史を読む-2

小倉百人一首に歴史を読む-2

海野 弘

平安朝以前の歌人は、天智天皇、持続天皇、柿本人麿、山部赤人、猿丸大夫、中納言家持、安倍
仲麿の七人である。
天智天皇ではじまっているところが興味深い。大化の改新によって律令政治をはじめた。中国の
律令制度をとり入れ、豪族の連合のような固から統一的な国家への道を歩み出した。天智の死後、
後継者をめぐり、天智の弟、大海人皇子と天智の子大友皇子が争い、大海人は蜂起し、勝利する。
天皇家の内乱である壬申の乱(六七二) である。
大海人は天武天皇となった。天武が没すると、その妻が持統天皇になった。
大宝律令が出され、七一〇年、平城京に移った。正式にはこの時が奈良時代のはじめとなる。『古
事記』 『風土記』 『日本書紀』がまとめられた。
七八五年、大伴家持が没した。『万葉集』をまとめたのは彼ではないかといわれている。そして彼
の死は、奈良時代の終わりを告げていた。
天智の大化の改新、天武の壬申の乱の勝利によって、豪族の旧勢力が排除され、律令国家が成立
した。それは中国、朝鮮など大陸との関係が厳しくなり、日本も国家として自立しなければならな
い時であった。歴史がまとめられたこと、『万葉集』という日本の歌がまとめられたことは、そのあ
らわれであった。

小倉百人一首に歴史を読む-1

|小

倉百人一首に歴史を読む-1

海野 弘

「小倉百人一首」は天智天皇(六二六-六七一)から順徳院(一一九七⊥二四二)まで、ほぼ時代順に
並べられている。七世紀から十三世紀まで、奈良、平安、鎌倉時代にまたがっている。
百首の歌は、歌そのものとして楽しむこともできるが、その歌の作者の生涯、そして生きた時代
の中で読むとさらに興味深い。それぞれの歌において具体的に触れたいが、まず、大きな時代区分、
時代背景をざっと説明しておくことにしたい。
奈良朝の歌人は七人である。鎌倉時代に入ってから生まれたのは源実朝と順徳院の二人だ。あと
の九一人は平安朝の歌人となる。つまり、圧倒的に平安朝が中心となっている。だから、和歌の黄
金時代である平安朝を華やかに展開し、それに、はじまりと終末をつけたともいえる。
定家がどのように百首を選び、構成したかは想像するしかないが、百首を一つの世界と見れば、
王朝和歌の黄金時代をくりひろげつつ、それがどこからきたのかを示し、またその時代の終末のき
らめきを添えたように感じられる。

 百人一首とカルタ-3


百人一首とカルタ-3

海野 弘

貝合せは、はじめ、珍しい貝を出して争うというものであったが、それに和歌を添えるようになつた。
さらに、「貝覆(おお)い」というゲームがあらわれた。蛤などの二枚貝は、一対になっていて、他の貝とはぴったり合わない、そのことを利用したゲームで、一つの只の片方を地貝、もう片方を出貝(だしがい)とする。
百八十個の貝を地貝と出貝に分け、地貝を場に並べ、出貝を一枚ずつ出して、合う地貝を見つける。
「貝覆い」では答は一つしかないので、ゲーム性が高まっている。
「貝覆い」の貝には絵や和歌が措かれるようになる。
「源氏物語」「伊勢物語」「百人一首」などの場面や歌などである。
つまり、これらのゲームは、王朝の古典文化の記憶を伴なって発達してきたわけで、ゲームだけではなかったわけである。
このことは、日本的な特徴ともいえるが、西洋でも、見られるかもしれない。たとえばトランプ・カードにキング、クィーン、ジャックといった中世騎士物語のイメージが使われているのも、その名残なのだろう。
一つの貝を二つに切り離して、また合わせる遊びに和歌が結びつき、上の句と下の旬を分けて、また合わせるようになる。そこに西洋のカルタが入ってきて、厚紙や印刷技術の発達に伴ない、貝
をカードに変えて、歌かるたがつくり出されたのだろう。
歌かるたがいつできたかははっきりわからない。カードが日本化された天正年間(十六世紀末)以後のことだろう。今のところ、最古の 「百人一首かるた」とされるのは、滴翠(てきすい)美術館蔵の、道勝法親王筆と伝えるカルタである。道勝は一六二〇年に没しているので、その前ということになる。
江戸時代にはさまざまな歌かるたがつくられた。その中でもしだいに「小倉百人一首」 の歌かるたが人気を集めるようになった。元禄時代に、「小倉百人一首」が、女こどものための手習本に使われ、親しまれるようになつたことも一つの要因であったろう。
江戸時代には、一般の人々に教育が普及し、遊芸文化が花開いた。カルタの流行と、女性も読み書きを習うようにをったことは結びついていたのである。
明治に入ると、女子教育が進み、また「百人一首」カルタ競技もさらに盛り上がっていった。
西洋かるたに影響を受けつつ歌かるたがつくられた時、西洋かるたとは別物であることを強調するために、継松(ついまつ)と呼ばれたそうである。継松はたいまつのことだが、『伊勢物語』 で在原業平が、斎宮が皿に書いた上の句に、継松の燃えかすの墨で下の句を書き継いだ、という故事からきている。
上の句と下の句を合わせる遊びを(継松)といったのである。
百人一首はカルタとなり、東洋と西洋の文化の出会いによって新しい形を生み出し、現代に伝えられた。東西文化の継松であったわけだ。

百人一首とカルタ-2

百人一首とカルタ-2

海野 弘

歌かるた、いろはかるたに共通するのは、読み上げがあることだ。和歌やことわざが節をつけて読まれ、音楽的にも楽しい。読み手と取り手がいる。
このように、カルタは西洋から入ってきたが、日本では二つの流れに分かれたようである。トラ
ンプ・カード、花札の流れでは、ゲームは基本的に個人の勝負であり、閉鎖的で、カードは伏せられている。
歌かるた、いろはかるたの流れでは、読み上げというパフォーマンスが開かれた場をつくり、カードもすべてさらされている。
西洋のカードの輸入、天正かるた、うんすんかるた、という流れからは、歌かるた、いろはかるたの発生は見えてこない。
これまでいわれているのは、日本の伝統的な遊び〈合せもの〉などが西洋のカルタに結びついたという説である。左右二手に分かれて、それぞれが出したものの優劣を競う。絵合せ、歌合せ、鶯合せ、香合せ、貝合せなどがあった。
(合せもの)では、数字の大小といった勝負を決める客観的なルールがないので、優劣が決めにくい。美意識という主観的な評価にまかされるのである。それぞれが弁護をし、判者が判定する。
したがって、ゲームだけでなく、ゲームを通して美的教養を学ぶことになる。
また、公開の場で、オープンに討論されるので、みんなが参加することができる。
カード・ゲームの個人性、密室性と対比的である。

百人一首とカルタ-1

百人一首とカルタ-1

海野 弘

百人一首は和歌のアンソロジーであったわけだが、今では正月の風物詩であるカルタ取りとして知られている。カルタは、十六世紀にポ~トガル人が日本にやってくるようになり、伝えられたカード・ゲーム(タロットやトランプ)が日本化されたもので、そのはしりは「天正かるた」と呼ばれる。トランプ・カードの日本版である。
江戸初期の「松浦屏風」(「婦女遊楽図屏風」)では、二人の女性がカード・ゲームに興じている。
カードの図柄は西洋風である。
「天正かるた」をさらに和風にしたのが「うんすんかるた」である。図柄も武将、布袋、大黒、達磨など日本的なものとなっている。
「天正カルタ」はトランプ・カードと同じ四十人枚であるが、「うんすんかるた」は七十五枚になっている。
「うんすんかるた」は江戸時代に大流行した。そして、さまざまなカルタがつくられた。それらは二種類に大きく分けられるようだ。
一つは、トランプ・天正かるた、うんすんかるた、そして花札に至る、ゲーム性、賭博性の高いカルタである。
もう一つは、歌がるた、いろはかるたなどで、ゲームの勝敗だけでなく、知識、教養、教育などに関わる。
歌がるたの代表である百人一首でいえば、1の句を読み上げると、それにつづく下の句の善かれた札をとる。したがって、その歌をおぼえなければならない。その暗記は、カルタ取りのためでもあるが、それによって和歌の+口典の知識が得られる。
いろはかるたは、日本語の音や字をおぼえるための(いろはうた)がカルタと結びついたものだ。
いろはうたをおぼえ、それを書けば、四十人のかな文字を知ることができる。そして、いろは四十人文字をそれぞれ頭文字とすることわざを学べる。(い)は、「犬も歩けば棒に当る」となる。いろはかるたは、いろは四十人文字をおぼゝえ、教訓を考える四十八のことわざを教える。遊びながら学ばせるわけである。
歌かるた、いろはかるたは、西洋から入ってきたカード・ゲームと日本のことば遊びとの結びつきによって生まれた。
西と東の文化の出会いである。それは西洋のトランプ・カードなどにはない、日本文化の発明といえるのではないだろうか。

小倉百人一首の世界-2 海野弘


   

定家の山荘は愛宕道の南側にあったらしい。
「結び置きし秋の嵯峨野の庵より 床は草葉の露に濡れつつ」
の歌があり、その風情を伝えている。
この山荘のそばに宇都宮入道蓮生(れんじょう)頼綱の別業(別邸)があり、親しくつき合った。
頼綱は関東の豪族であったが権力抗争を避けて京都に移り、出家して和歌など風流の道を楽しんでいたらしい。
定家の息子為家は頼綱の娘と結婚している。
定家は『明月記』 の嘉禎元年(一二三五)五月に、頼綱に頼まれて、嵯峨中院障子に色紙形を書いた、と記している。
なにを書いたかというと「古来ノ人ノ歌各一首、天智天皇自り以来、家隆雅経二及ブ」とある。
どうもこれが「小倉百人一首」の原型であるらしい。
しかし、今伝わっている「小倉百人一首」と同じであったかどうかはわからない。
天智天皇から家隆雅経までとあるが、「小倉百人一首」は、後鳥羽院・順徳院で終わっている。
『新勅撰集』でもこの二人をはずしたのだから、頼綱邸の障子の色紙でも入れなかったのかもしれない。
これらの問題についてはさまざまな説があり、まだ解決がついていない。「小倉百人一首」は定家の撰ではないという極端な説まである。それについては深入りしない。ここではさしあたって、「小倉百人一首」と呼ばれているのだから、定家が小倉山のふもとの山荘の障子のために、名歌を選んで色紙を書いたこと、そこには後鳥羽院、順徳院の歌は入っていなかったようだが、あらためて二人の歌を入れた「小倉百人一首」が後世に伝えられたらしい、とまとめておこう。

小倉百人一首の世界-1 海野弘

 

私が推薦する特選の1冊です・・・右文書院代表・三武 義彦
百人一首百彩

序章

小倉百人一首の世界-1
海野弘

百人一首は、一人一首ずつ百人の歌人の歌を集めたアンソロジーである。藤原定家が選んだという「小倉百人一首」がそのはじめで、その後、さまざまな百人一首があらわれたが、これが最も親しまれている。
なぜ「小倉百人一首」がこれほど親しまれるのだろう。一つには、鎌倉時代初期につくられ、それまでの王朝文化の中で一つの完成を見た古典的和歌のエッセンスが集約されているからである。
和歌が一般に普及していくようになり、「小倉百人一首」は格好なテキストとして役立つようになつた。
もう一つには、近世に「小倉百人一首」はカルタと結びつき、正月の遊びとなり、ゲームとしての面白さを獲得し、残ったためである。ゲームとして暗記されることで、さらに親しまれることになり、現代に魅力を伝えるようになつた。
では、「小倉百人一首」はどのようにつくられたものなのだろうか。
選者とされる藤原定家は、平安朝に花開いた王朝和歌の最後を見とどけた歌人・歌学者といわれた。「百人一首」はそのまとめであったかもしれない。
定家(サダイエ・テイカ)は、平安王朝の歌人藤原俊成の子であり、若くして、新風をもたらす歌人として知られていた。やがて後鳥羽院が和歌に関心を持つようになり、定家のパトロンとなり、「新古今集」の撰者に彼を任じた。
やがて後鳥羽院は和歌を離れたが、その子順徳天皇が代わってパトロンとなつた。
鎌倉幕府を倒そうとした後鳥羽院は承久の乱(一二二一)に敗れて隠岐に流された。
定家は後堀河天皇の命により『新勅撰集』(一二三五)をまとめた。しかし政治的配慮から、後鳥羽院、順徳院の歌をはずさなければならなかった。
藤原定家は、その日記『明月記』に「紅旗征戎ハ吾ガ事二非ズ」と書いたことで知られる。自分は文人であり、旗を立てて賊を討つといった軍人の仕事には関係がない、というのである。彼がこう書いたのは一一八〇年、まだ十九歳であった。
彼は芸術の純粋な世界に寵り、政治などの俗世に関わらない、と宣言した。しかしその若い想いは次々と裏切られていく。和歌も政治や社会に翻弄されてゆくのである。
時代は平安から鎌倉へと移ってゆく。『新勅撰集』 では政治的な圧力で、後鳥羽院、順徳院の歌を入れられなかった。
「小倉百人一首」は、そのような時に成立したといわれる。小倉というのは小倉山のことである。京
都の西、保津川のほとりにある。川の向かい側は嵐山だ。小倉山の東のふもとに二尊院があり、その前に愛宕道がのびている。その北に厭離庵という尼寺がある。このあたりは嵯峨といわれるが、晩年の定家は嵯峨の山荘に籠ることが多くなる。といっても隠居したわけではなく、さまざまな人晩年の定家は嵯峨の山荘に寵ることが多くなる。といっても隠居したわけではなく、さまざまな人が訪れ、歌会を開き、歌人としての名声は確立していた。

「百人一首百彩」へのご挨拶

 

「百人一首百彩」へのご挨拶

三武 義彦

4月に入って新学期、百年近い右文書院の歴史は、スタートが「国文学出版」で、近年は高校の国語教科書専門の出版社として歴史を刻んで来ただけに、新学期となると今でも胸躍る思いがします。とくに、私自身が、小美濃講師、花見村長と若い時からの古文書研究会仲間で古典文学が好きですから、竹取物語、源氏物語、土佐日記、万葉集、平家物語、宇治拾遺物語、奥の細道、伊勢物語、徒然草、枕草子、百人一首などを手を変え品を変えて出版もし、自分も学ぶことになります。とくに、小倉百人一首を独特の文章と画風で仕上げた、文・海野弘、画・武藤敏の名コンビ作「百人一首百彩」には、その精緻な書画の迫力に圧倒されました。
ここ暫くは「連歌集・竹林の風」にお休み頂き、古典文学の傑作を新鮮に変えた「百人一首百彩」をお届けします。
ご案内は、文が海野弘さん、絵画が武藤敏さん、お二人共数多くの著作を持つ著名な作家です。

 

 

はじめに

武藤 敏(画家)

子供の頃、正月になりますとが百人一首のかるた取りをいたしました。
雪に閉ざされた山奥の小さな村々では、それが唯一の遊びであり楽しみでした。
こたつの上にひらがな十四文字の取り札を並べ、私はなぜかいつも読み手になり、絵のついた読み札を手にしていました。
束帯(そくたい)、衣冠(いかん)、狩衣(かりぎぬ)などといわれる様々な衣装を着た男の人達、袈裟(けさ)をまとったお坊さんなど。そしてきらびやかな十二単衣を羽織ったお姫さまが出てくると、どきどきしました。
いつの頃からでしょうか。この百人一首の読み札の雅(みや)びともいわれる世界を作品にしてみたいと常々考えておりましたが、十年程前にパリを訪れた友人から和紙を大量にプレゼントされたのを機に、制作を始めました。
私は、この百人一首の選者といわれる藤原定家についても、百人一首そのものに村しても、浅薄な知識しかありませんが、おおよそ八百年もの前から綿々と伝えられている百人一首の世界と、子供の頃のときめきの気持を、少しでも表現できればと、願いを込めて制作いたしました。多くの方々にみていただければ幸いに存じます。
----------
武藤 敏(むとう・びん)
1962年・武蔵野美術大学抽科卒、「夢土画廊」(銀座)にて個展、以後、新聞・雑誌、書籍・ポスターなどにイラストレーションを発表。196う年「中央画廊」(銀座)にて個展、1973年「紀伊国屋画廊」(新宿)にて企画展(おんな展第一回)、1974年・一年半渡欧、1975年 「真木画廊」にて画廊企画、同世代の版画展招待作品「三幸ギャラリー」(赤坂)にて企画展、1976年「紀伊国屋画廊」(新宿)にて企画展(おんな展第二回)、1977年渡欧、1978年郡上八幡にて作品展(郷土文化誌「郡上」主催)、1980年「かなめ屋画廊」(銀座)にて企画展
1982年「81美術館」(銀座)にて企画展、パリに移住、1983年・ギャラリー「MEDIANE-ELKO」(パリ)にて企画展、「紀伊国屋画廊」(新宿)にて企画展、1985年ギャラリー「カシーヌ」(毎日新聞社内)にて企画展。1986年「GALERIER22」(西ドイツ)にて企画展、SpACEDEIPHSALONPETITFORMT」(パリ)招待出品、1987年セネガル共和国ダカールにて企画展、1988年フランス領マルチニック島にて企画展(フランス教育省主催)、1989年ギャラリー「ACCUEILETRENCONTRES」にて企画展、1991年郡上八幡にて作品展、1996年小田急ハルク美術画廊にて個展、2000年郡上八幡にて作品展、「新岐阜百貨店美術画廊」にて個展

「うまれたよ」

                  うまれたよ                        ♪   ♪   umaretayo ♪  ♪                

(一)

うまれた うまれた うまれたよ
はじめて はじめて でてきたよ
おおきな うちゅうに うまれたよ
ちいさな あかちゃん うまれたよ
おなかの なかから でてきたよ
おなかの なかから でてきたよ
まわりは はじめて みるものばかり
まわりは はじめて きくものばかり
どれだけ おおきく なるのかな
どれだけ おおきく なるのかな

    おおきな おおきな  おおきな うちゅうで
ちいさな ちいさな  ちいさな じけん
それでも うちゅうは かわったよ
きのうの うちゅうと かわったよ
うまれた うまれた おめでとう
かわいい かわいい いのちだよ

(二)

うまれた うまれた うまれたよ
 はじめて はじめて でてきたよ
おおきな うちゅうに うまれたよ
 ちいさな あかちゃん うまれたよ
カラを やぶって でてきたよ
カラを やぶって でてきたよ
まわりは はじめて かぐものばかり
 まわりは はじめて しるものばかり
どれだけ やさしく なるのかな
どれだけ やさしく なるのかな
  おおきな おおきな  おおきな うちゅうで
   ちいさな ちいさな    ちいさなじけん
  それでも うちゅうは うごいたよ
  みらいに むかって うごいたよ
うまれた うまれた おめでとう
  いとしい いとしい いのちだよ         作詞:ふうま・しのぶ   作曲:比留川靖子                                                        演奏:小泉 幸丸    歌:梶木 現
                            写真:水戸信一(西瓜と落花生)

詩と音楽  「再 会」  

エメラルドにきらめく川面
青い空にそびえる教会
淡い緑の早春の土手
一足ごとに足裏に
少年の頃の優しい感触が伝わる

想い出が川からよみがえる
毎日がこの美しい自然と
おぼろげながら浮かぶ腕白小僧の
一点の悩みもない日々だった

年をとらない故郷に再会して
何年も心をすりむいて歳取った僕は
清流に見惚れていた

作詞:石川洋志   作曲:比留川靖子   演奏: 小泉幸丸   歌: 岩間和子

♫ 歌入り      saikai(uta)

♫ カラオケ  saikai(karaoke)

 

 

詩と音楽 星野富弘著「風の旅」から

                しおん・ねこじゃらし・たんぽぽ (詩 星野富弘)

    「しおん」    01 shion     

ほんとうのことなら 多くの言葉はいらない                                                        野の草が 風にゆれるように                                                                  小さなしぐさにも 輝きがある

    「ねこじゃらし」        02 nekojarashi

思い出の向こう側から                                                                 一人の少年が走ってくる                                                                     あれは白い運動ぐつを                                                                     初めて買ってもらった日の                                                                 私かも知れない                                                                             白い布に草の汁を飛び散らせながら                                                              あんなにも                                                                                       あんなにも 嬉しそうに                                                                     今に向かって走ってくる

   「たんぽぽ」       03 tanpopo

いつだったか                                                                       きみたちが空を飛んで行くのを見たよ                                                                風に吹かれて                                                                        ただ一つのものを持って 旅する姿が                                                             うれしくてならなかったよ                                                              人間だって どうしても必要なものは                                                           ただ一つ                                                                       私も 余分なものを捨てれば                                                             空が飛べるような気がしたよ

作曲:比留川靖子/  歌・演奏・録音: 梶木 現 / CD録音制作: 小泉幸丸

 

詩と音楽「森の演奏会」

♪ morinoennsoukai   森の演奏会

綿雲から太陽が顔を出す
光のタクトで冷えた褐色の
大地に春の鼓動を流す

ちぎれた綿雲は青い空のきらめきに
ヘ長調のセレナードを
描き梢を過ぎる
風のメロディに小鳥たちは                                       ミ音の合唱をする

演奏会に招待された
森の生き物たちは

ひとときの春の輝きと
風の起こす小さな季節の
陽だまりに
躍動する

作詩:桐山健一 作曲:比留川靖子  歌:梶木現

♪♪ MUSIC ⇒ morinoennsoukai

詩と音楽 「便 り」

04 tayori    便 り
「心の旅」 より

「便りのないのは元気な証拠」
母がいつも口にしていた言葉

木漏れ日に
虹のひとひらが舞った日
母からの便り
「季節の変わり目身体をいたわりなさい」

温かくなった僕の心を
きらめく虹のかけらで包んで
秋の彩りをおくった

作詩:桐山健一  作曲:比留川靖子  歌:梶木 現