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百人一首とカルタ-1

百人一首とカルタ-1

海野 弘

百人一首は和歌のアンソロジーであったわけだが、今では正月の風物詩であるカルタ取りとして知られている。カルタは、十六世紀にポ~トガル人が日本にやってくるようになり、伝えられたカード・ゲーム(タロットやトランプ)が日本化されたもので、そのはしりは「天正かるた」と呼ばれる。トランプ・カードの日本版である。
江戸初期の「松浦屏風」(「婦女遊楽図屏風」)では、二人の女性がカード・ゲームに興じている。
カードの図柄は西洋風である。
「天正かるた」をさらに和風にしたのが「うんすんかるた」である。図柄も武将、布袋、大黒、達磨など日本的なものとなっている。
「天正カルタ」はトランプ・カードと同じ四十人枚であるが、「うんすんかるた」は七十五枚になっている。
「うんすんかるた」は江戸時代に大流行した。そして、さまざまなカルタがつくられた。それらは二種類に大きく分けられるようだ。
一つは、トランプ・天正かるた、うんすんかるた、そして花札に至る、ゲーム性、賭博性の高いカルタである。
もう一つは、歌がるた、いろはかるたなどで、ゲームの勝敗だけでなく、知識、教養、教育などに関わる。
歌がるたの代表である百人一首でいえば、1の句を読み上げると、それにつづく下の句の善かれた札をとる。したがって、その歌をおぼえなければならない。その暗記は、カルタ取りのためでもあるが、それによって和歌の+口典の知識が得られる。
いろはかるたは、日本語の音や字をおぼえるための(いろはうた)がカルタと結びついたものだ。
いろはうたをおぼえ、それを書けば、四十人のかな文字を知ることができる。そして、いろは四十人文字をそれぞれ頭文字とすることわざを学べる。(い)は、「犬も歩けば棒に当る」となる。いろはかるたは、いろは四十人文字をおぼゝえ、教訓を考える四十八のことわざを教える。遊びながら学ばせるわけである。
歌かるた、いろはかるたは、西洋から入ってきたカード・ゲームと日本のことば遊びとの結びつきによって生まれた。
西と東の文化の出会いである。それは西洋のトランプ・カードなどにはない、日本文化の発明といえるのではないだろうか。

小倉百人一首の世界-2 海野弘


   

定家の山荘は愛宕道の南側にあったらしい。
「結び置きし秋の嵯峨野の庵より 床は草葉の露に濡れつつ」
の歌があり、その風情を伝えている。
この山荘のそばに宇都宮入道蓮生(れんじょう)頼綱の別業(別邸)があり、親しくつき合った。
頼綱は関東の豪族であったが権力抗争を避けて京都に移り、出家して和歌など風流の道を楽しんでいたらしい。
定家の息子為家は頼綱の娘と結婚している。
定家は『明月記』 の嘉禎元年(一二三五)五月に、頼綱に頼まれて、嵯峨中院障子に色紙形を書いた、と記している。
なにを書いたかというと「古来ノ人ノ歌各一首、天智天皇自り以来、家隆雅経二及ブ」とある。
どうもこれが「小倉百人一首」の原型であるらしい。
しかし、今伝わっている「小倉百人一首」と同じであったかどうかはわからない。
天智天皇から家隆雅経までとあるが、「小倉百人一首」は、後鳥羽院・順徳院で終わっている。
『新勅撰集』でもこの二人をはずしたのだから、頼綱邸の障子の色紙でも入れなかったのかもしれない。
これらの問題についてはさまざまな説があり、まだ解決がついていない。「小倉百人一首」は定家の撰ではないという極端な説まである。それについては深入りしない。ここではさしあたって、「小倉百人一首」と呼ばれているのだから、定家が小倉山のふもとの山荘の障子のために、名歌を選んで色紙を書いたこと、そこには後鳥羽院、順徳院の歌は入っていなかったようだが、あらためて二人の歌を入れた「小倉百人一首」が後世に伝えられたらしい、とまとめておこう。

小倉百人一首の世界-1 海野弘

 

私が推薦する特選の1冊です・・・右文書院代表・三武 義彦
百人一首百彩

序章

小倉百人一首の世界-1
海野弘

百人一首は、一人一首ずつ百人の歌人の歌を集めたアンソロジーである。藤原定家が選んだという「小倉百人一首」がそのはじめで、その後、さまざまな百人一首があらわれたが、これが最も親しまれている。
なぜ「小倉百人一首」がこれほど親しまれるのだろう。一つには、鎌倉時代初期につくられ、それまでの王朝文化の中で一つの完成を見た古典的和歌のエッセンスが集約されているからである。
和歌が一般に普及していくようになり、「小倉百人一首」は格好なテキストとして役立つようになつた。
もう一つには、近世に「小倉百人一首」はカルタと結びつき、正月の遊びとなり、ゲームとしての面白さを獲得し、残ったためである。ゲームとして暗記されることで、さらに親しまれることになり、現代に魅力を伝えるようになつた。
では、「小倉百人一首」はどのようにつくられたものなのだろうか。
選者とされる藤原定家は、平安朝に花開いた王朝和歌の最後を見とどけた歌人・歌学者といわれた。「百人一首」はそのまとめであったかもしれない。
定家(サダイエ・テイカ)は、平安王朝の歌人藤原俊成の子であり、若くして、新風をもたらす歌人として知られていた。やがて後鳥羽院が和歌に関心を持つようになり、定家のパトロンとなり、「新古今集」の撰者に彼を任じた。
やがて後鳥羽院は和歌を離れたが、その子順徳天皇が代わってパトロンとなつた。
鎌倉幕府を倒そうとした後鳥羽院は承久の乱(一二二一)に敗れて隠岐に流された。
定家は後堀河天皇の命により『新勅撰集』(一二三五)をまとめた。しかし政治的配慮から、後鳥羽院、順徳院の歌をはずさなければならなかった。
藤原定家は、その日記『明月記』に「紅旗征戎ハ吾ガ事二非ズ」と書いたことで知られる。自分は文人であり、旗を立てて賊を討つといった軍人の仕事には関係がない、というのである。彼がこう書いたのは一一八〇年、まだ十九歳であった。
彼は芸術の純粋な世界に寵り、政治などの俗世に関わらない、と宣言した。しかしその若い想いは次々と裏切られていく。和歌も政治や社会に翻弄されてゆくのである。
時代は平安から鎌倉へと移ってゆく。『新勅撰集』 では政治的な圧力で、後鳥羽院、順徳院の歌を入れられなかった。
「小倉百人一首」は、そのような時に成立したといわれる。小倉というのは小倉山のことである。京
都の西、保津川のほとりにある。川の向かい側は嵐山だ。小倉山の東のふもとに二尊院があり、その前に愛宕道がのびている。その北に厭離庵という尼寺がある。このあたりは嵯峨といわれるが、晩年の定家は嵯峨の山荘に籠ることが多くなる。といっても隠居したわけではなく、さまざまな人晩年の定家は嵯峨の山荘に寵ることが多くなる。といっても隠居したわけではなく、さまざまな人が訪れ、歌会を開き、歌人としての名声は確立していた。

「百人一首百彩」へのご挨拶

 

「百人一首百彩」へのご挨拶

三武 義彦

4月に入って新学期、百年近い右文書院の歴史は、スタートが「国文学出版」で、近年は高校の国語教科書専門の出版社として歴史を刻んで来ただけに、新学期となると今でも胸躍る思いがします。とくに、私自身が、小美濃講師、花見村長と若い時からの古文書研究会仲間で古典文学が好きですから、竹取物語、源氏物語、土佐日記、万葉集、平家物語、宇治拾遺物語、奥の細道、伊勢物語、徒然草、枕草子、百人一首などを手を変え品を変えて出版もし、自分も学ぶことになります。とくに、小倉百人一首を独特の文章と画風で仕上げた、文・海野弘、画・武藤敏の名コンビ作「百人一首百彩」には、その精緻な書画の迫力に圧倒されました。
ここ暫くは「連歌集・竹林の風」にお休み頂き、古典文学の傑作を新鮮に変えた「百人一首百彩」をお届けします。
ご案内は、文が海野弘さん、絵画が武藤敏さん、お二人共数多くの著作を持つ著名な作家です。

 

 

はじめに

武藤 敏(画家)

子供の頃、正月になりますとが百人一首のかるた取りをいたしました。
雪に閉ざされた山奥の小さな村々では、それが唯一の遊びであり楽しみでした。
こたつの上にひらがな十四文字の取り札を並べ、私はなぜかいつも読み手になり、絵のついた読み札を手にしていました。
束帯(そくたい)、衣冠(いかん)、狩衣(かりぎぬ)などといわれる様々な衣装を着た男の人達、袈裟(けさ)をまとったお坊さんなど。そしてきらびやかな十二単衣を羽織ったお姫さまが出てくると、どきどきしました。
いつの頃からでしょうか。この百人一首の読み札の雅(みや)びともいわれる世界を作品にしてみたいと常々考えておりましたが、十年程前にパリを訪れた友人から和紙を大量にプレゼントされたのを機に、制作を始めました。
私は、この百人一首の選者といわれる藤原定家についても、百人一首そのものに村しても、浅薄な知識しかありませんが、おおよそ八百年もの前から綿々と伝えられている百人一首の世界と、子供の頃のときめきの気持を、少しでも表現できればと、願いを込めて制作いたしました。多くの方々にみていただければ幸いに存じます。
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武藤 敏(むとう・びん)
1962年・武蔵野美術大学抽科卒、「夢土画廊」(銀座)にて個展、以後、新聞・雑誌、書籍・ポスターなどにイラストレーションを発表。196う年「中央画廊」(銀座)にて個展、1973年「紀伊国屋画廊」(新宿)にて企画展(おんな展第一回)、1974年・一年半渡欧、1975年 「真木画廊」にて画廊企画、同世代の版画展招待作品「三幸ギャラリー」(赤坂)にて企画展、1976年「紀伊国屋画廊」(新宿)にて企画展(おんな展第二回)、1977年渡欧、1978年郡上八幡にて作品展(郷土文化誌「郡上」主催)、1980年「かなめ屋画廊」(銀座)にて企画展
1982年「81美術館」(銀座)にて企画展、パリに移住、1983年・ギャラリー「MEDIANE-ELKO」(パリ)にて企画展、「紀伊国屋画廊」(新宿)にて企画展、1985年ギャラリー「カシーヌ」(毎日新聞社内)にて企画展。1986年「GALERIER22」(西ドイツ)にて企画展、SpACEDEIPHSALONPETITFORMT」(パリ)招待出品、1987年セネガル共和国ダカールにて企画展、1988年フランス領マルチニック島にて企画展(フランス教育省主催)、1989年ギャラリー「ACCUEILETRENCONTRES」にて企画展、1991年郡上八幡にて作品展、1996年小田急ハルク美術画廊にて個展、2000年郡上八幡にて作品展、「新岐阜百貨店美術画廊」にて個展