小倉百人一首の世界-1 海野弘

 

私が推薦する特選の1冊です・・・右文書院代表・三武 義彦
百人一首百彩

序章

小倉百人一首の世界-1
海野弘

百人一首は、一人一首ずつ百人の歌人の歌を集めたアンソロジーである。藤原定家が選んだという「小倉百人一首」がそのはじめで、その後、さまざまな百人一首があらわれたが、これが最も親しまれている。
なぜ「小倉百人一首」がこれほど親しまれるのだろう。一つには、鎌倉時代初期につくられ、それまでの王朝文化の中で一つの完成を見た古典的和歌のエッセンスが集約されているからである。
和歌が一般に普及していくようになり、「小倉百人一首」は格好なテキストとして役立つようになつた。
もう一つには、近世に「小倉百人一首」はカルタと結びつき、正月の遊びとなり、ゲームとしての面白さを獲得し、残ったためである。ゲームとして暗記されることで、さらに親しまれることになり、現代に魅力を伝えるようになつた。
では、「小倉百人一首」はどのようにつくられたものなのだろうか。
選者とされる藤原定家は、平安朝に花開いた王朝和歌の最後を見とどけた歌人・歌学者といわれた。「百人一首」はそのまとめであったかもしれない。
定家(サダイエ・テイカ)は、平安王朝の歌人藤原俊成の子であり、若くして、新風をもたらす歌人として知られていた。やがて後鳥羽院が和歌に関心を持つようになり、定家のパトロンとなり、「新古今集」の撰者に彼を任じた。
やがて後鳥羽院は和歌を離れたが、その子順徳天皇が代わってパトロンとなつた。
鎌倉幕府を倒そうとした後鳥羽院は承久の乱(一二二一)に敗れて隠岐に流された。
定家は後堀河天皇の命により『新勅撰集』(一二三五)をまとめた。しかし政治的配慮から、後鳥羽院、順徳院の歌をはずさなければならなかった。
藤原定家は、その日記『明月記』に「紅旗征戎ハ吾ガ事二非ズ」と書いたことで知られる。自分は文人であり、旗を立てて賊を討つといった軍人の仕事には関係がない、というのである。彼がこう書いたのは一一八〇年、まだ十九歳であった。
彼は芸術の純粋な世界に寵り、政治などの俗世に関わらない、と宣言した。しかしその若い想いは次々と裏切られていく。和歌も政治や社会に翻弄されてゆくのである。
時代は平安から鎌倉へと移ってゆく。『新勅撰集』 では政治的な圧力で、後鳥羽院、順徳院の歌を入れられなかった。
「小倉百人一首」は、そのような時に成立したといわれる。小倉というのは小倉山のことである。京
都の西、保津川のほとりにある。川の向かい側は嵐山だ。小倉山の東のふもとに二尊院があり、その前に愛宕道がのびている。その北に厭離庵という尼寺がある。このあたりは嵯峨といわれるが、晩年の定家は嵯峨の山荘に籠ることが多くなる。といっても隠居したわけではなく、さまざまな人晩年の定家は嵯峨の山荘に寵ることが多くなる。といっても隠居したわけではなく、さまざまな人が訪れ、歌会を開き、歌人としての名声は確立していた。

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