小倉百人一首の世界-2 海野弘


   

定家の山荘は愛宕道の南側にあったらしい。
「結び置きし秋の嵯峨野の庵より 床は草葉の露に濡れつつ」
の歌があり、その風情を伝えている。
この山荘のそばに宇都宮入道蓮生(れんじょう)頼綱の別業(別邸)があり、親しくつき合った。
頼綱は関東の豪族であったが権力抗争を避けて京都に移り、出家して和歌など風流の道を楽しんでいたらしい。
定家の息子為家は頼綱の娘と結婚している。
定家は『明月記』 の嘉禎元年(一二三五)五月に、頼綱に頼まれて、嵯峨中院障子に色紙形を書いた、と記している。
なにを書いたかというと「古来ノ人ノ歌各一首、天智天皇自り以来、家隆雅経二及ブ」とある。
どうもこれが「小倉百人一首」の原型であるらしい。
しかし、今伝わっている「小倉百人一首」と同じであったかどうかはわからない。
天智天皇から家隆雅経までとあるが、「小倉百人一首」は、後鳥羽院・順徳院で終わっている。
『新勅撰集』でもこの二人をはずしたのだから、頼綱邸の障子の色紙でも入れなかったのかもしれない。
これらの問題についてはさまざまな説があり、まだ解決がついていない。「小倉百人一首」は定家の撰ではないという極端な説まである。それについては深入りしない。ここではさしあたって、「小倉百人一首」と呼ばれているのだから、定家が小倉山のふもとの山荘の障子のために、名歌を選んで色紙を書いたこと、そこには後鳥羽院、順徳院の歌は入っていなかったようだが、あらためて二人の歌を入れた「小倉百人一首」が後世に伝えられたらしい、とまとめておこう。

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