百人一首とカルタ-3


百人一首とカルタ-3

海野 弘

貝合せは、はじめ、珍しい貝を出して争うというものであったが、それに和歌を添えるようになつた。
さらに、「貝覆(おお)い」というゲームがあらわれた。蛤などの二枚貝は、一対になっていて、他の貝とはぴったり合わない、そのことを利用したゲームで、一つの只の片方を地貝、もう片方を出貝(だしがい)とする。
百八十個の貝を地貝と出貝に分け、地貝を場に並べ、出貝を一枚ずつ出して、合う地貝を見つける。
「貝覆い」では答は一つしかないので、ゲーム性が高まっている。
「貝覆い」の貝には絵や和歌が措かれるようになる。
「源氏物語」「伊勢物語」「百人一首」などの場面や歌などである。
つまり、これらのゲームは、王朝の古典文化の記憶を伴なって発達してきたわけで、ゲームだけではなかったわけである。
このことは、日本的な特徴ともいえるが、西洋でも、見られるかもしれない。たとえばトランプ・カードにキング、クィーン、ジャックといった中世騎士物語のイメージが使われているのも、その名残なのだろう。
一つの貝を二つに切り離して、また合わせる遊びに和歌が結びつき、上の句と下の旬を分けて、また合わせるようになる。そこに西洋のカルタが入ってきて、厚紙や印刷技術の発達に伴ない、貝
をカードに変えて、歌かるたがつくり出されたのだろう。
歌かるたがいつできたかははっきりわからない。カードが日本化された天正年間(十六世紀末)以後のことだろう。今のところ、最古の 「百人一首かるた」とされるのは、滴翠(てきすい)美術館蔵の、道勝法親王筆と伝えるカルタである。道勝は一六二〇年に没しているので、その前ということになる。
江戸時代にはさまざまな歌かるたがつくられた。その中でもしだいに「小倉百人一首」 の歌かるたが人気を集めるようになった。元禄時代に、「小倉百人一首」が、女こどものための手習本に使われ、親しまれるようになつたことも一つの要因であったろう。
江戸時代には、一般の人々に教育が普及し、遊芸文化が花開いた。カルタの流行と、女性も読み書きを習うようにをったことは結びついていたのである。
明治に入ると、女子教育が進み、また「百人一首」カルタ競技もさらに盛り上がっていった。
西洋かるたに影響を受けつつ歌かるたがつくられた時、西洋かるたとは別物であることを強調するために、継松(ついまつ)と呼ばれたそうである。継松はたいまつのことだが、『伊勢物語』 で在原業平が、斎宮が皿に書いた上の句に、継松の燃えかすの墨で下の句を書き継いだ、という故事からきている。
上の句と下の句を合わせる遊びを(継松)といったのである。
百人一首はカルタとなり、東洋と西洋の文化の出会いによって新しい形を生み出し、現代に伝えられた。東西文化の継松であったわけだ。

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