小倉百人一首に歴史を読む-4

小倉百人一首に歴史を読む-4

海野 弘

九三〇年、朱雀天皇となり、藤原時平が摂政となり、摂関政治が復活し、十一世紀に道長、頼道により黄金時代に達する。
摂関政治は、律令制が崩れ、貴族が「荘園」を所有した時代であった。平安文化は、荘園がもたらす莫大な富の上に花開いたのである。
一条天皇の時代(九八六-一〇一一)は平安文化の頂点ともいえる。『枕草子』『和泉式部日記』『源氏物語』などが書かれた。この時代の中心が藤原道長である。
道長は九九五年、右大臣、九九六年に左大臣となり、一〇〇〇年に娘の彰子が一条天皇の中宮となった。三条天皇の中宮も道長の娘研子(けんこ)である。一〇一六年、摂政となり、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ。一〇一七年、摂政を頼通に譲り、一〇一九年に出家し、法成寺(ほうじょうじ)に引退したが、地上の栄華の追求をやめることはなかった。
藤原頼通は一〇一七年に摂政となつたが、父道長は後見として強い発言力を持ちつづけた。したがって、一〇二七年の父の死以後、頼通の時代となる。それは一〇六七年に関白を引退するまで、四十年の長きにわたった。頼通は宇治に壮麗な平等院を建築し、藤原文化の最後のきらめきを放った。
しかし平等院がつくられた頃、東北の辺境で大反乱が起こつた。前九年の役、後三年の役と呼ばれる。貴族たちを地方の武士団の棟梁がおびやかしつつあった。

海野 弘

九三〇年、朱雀天皇となり、藤原時平が摂政となり、摂関政治が復活し、十一世紀に道長、頼道により黄金時代に達する。
摂関政治は、律令制が崩れ、貴族が「荘園」を所有した時代であった。平安文化は、荘園がもたらす莫大な富の上に花開いたのである。
一条天皇の時代(九八六-一〇一一)は平安文化の頂点ともいえる。『枕草子』『和泉式部日記』『源氏物語』などが書かれた。この時代の中心が藤原道長である。
道長は九九五年、右大臣、九九六年に左大臣となり、一〇〇〇年に娘の彰子が一条天皇の中宮となった。三条天皇の中宮も道長の娘研子(けんこ)である。一〇一六年、摂政となり、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ。一〇一七年、摂政を頼通に譲り、一〇一九年に出家し、法成寺(ほうじょうじ)に引退したが、地上の栄華の追求をやめることはなかった。
藤原頼通は一〇一七年に摂政となつたが、父道長は後見として強い発言力を持ちつづけた。したがって、一〇二七年の父の死以後、頼通の時代となる。それは一〇六七年に関白を引退するまで、四十年の長きにわたった。頼通は宇治に壮麗な平等院を建築し、藤原文化の最後のきらめきを放った。
しかし平等院がつくられた頃、東北の辺境で大反乱が起こつた。前九年の役、後三年の役と呼ばれる。貴族たちを地方の武士団の棟梁がおびやかしつつあった。

 

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