『小倉百人一首』と美術-1

『小倉百人一首』と美術-1

海野 弘

すでにのべたように、藤原定家はその日記『明月記』の一二三五年五月二十七日に、嵯峨中院障子の色紙形に、天智天皇から家隆雅経までの歌人の歌各一首ずつを書いたと記している。これが『小倉百人一首』の原形だろうといわれる。頓阿(とんあ)一二八九~一三七二年の『井蛙抄(せいあしょう)』巻六には、京極殿(定家)が、「嵯峨の山荘の障子に、上古以来の歌仙百人のにせ絵を書て、各一首の歌を書きそへられたる…」と伝えている。
これによると、定家は、歌を書いただけでなく、似せ絵(肖像画)まで描いたようにもとれるが、定家が絵を描くとは聞いたことがない。ともかく頓阿の頃(十四世紀)になると、歌と歌人の肖像がセットになった(歌仙絵)が一般的になり、『小倉百人一首』もそうだったろうと考えられたのである。
そのような(歌仙絵)は、百人一首カルタに受け継がれて、現代でも親しまれている。興味深いのは、定家の書いた障子の色紙形がどのようなものだったかわからないが、かなり早くから、『小倉百人一首』は絵画と密接な関係があったということである。
『古今集』 のあたりで、仮名による(やまとうた)すなわち和歌が確立するが、その同時代である九世紀に、唐様、つまり中国的な絵画に村する(やまと絵)が成立してくることが注目される。そして、(やまとうた)と(やまと絵)は結びついた。

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