75-藤原基俊ふじわらのもととし)

百人一首百彩-75

海野 弘
そうず     ゆいま え  こうじ  せい
 75-藤原基俊ふじわらのもととし)
千載集 僧都(そうず)光覚、維摩会(ゆいまえ)の講師(こうじ)の請(せい)を申しけるを、たびたびもれにければ、法性寺入道前太政大臣(ほっしょうにゅうどうさきのだじょうだいじん)に恨み申しけるを、しめぢが原と侍りけれど、又その年ももれにければ遣(つかわ)しける。

契(ちぎ)りおきし させもが露を 命にて あはれことしの 秋もいぬめり
〔「させもぐさ」とおっしゃったことばをお約束と信じていましたのに、今年の秋もまたむなしく過ぎました〕

詞書によると、基俊の子である僧都光覚が維摩会(維摩経の法会。興福寺で毎年十月に開かれる)の講師になりたいと願っていたが、たびたび落ちていた。そこで基俊が法性寺入道前太政大臣(藤原忠通)にうらみをいうと、「しめぢが原」といった。
これは『新古今集』の古歌「なほ頼めしめぢが原のさせも草われ世の中にならむ限りは」による。
標茅(しめじ)が原は下野国のもぐさの名産地。「しめぢが原」といったのは、「なほ頼め」(頼りにしてくれ)という約束と信じたのに、させも草に降りた露のようなはかないことばで、今年も落ちてしまい、秋が去っていきました。
藤原基俊(?-二四二)は右大臣藤原俊家の子。道長の曾孫であり、名門であるが、出世には恵まれなかった。
しかし歌の才能が認められ、俊頼とともに院政期歌壇の主な歌人の一人となった。