ポルトガルから北スペインへ-4

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ポルトガルから北スペインへ-4

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

ポルトから今度は世界遺産に登録されているコインブラ大学があるコインブラを訪れました。
12世紀にポルトガル王国最初の首都がおかれた街で、現在はポルトガル第3の都市です。
丘の上にただずむ2013年に世界遺産となった大学は、名実ともにコインブラの街の中心です。
1290年にリスボンで創立された大学が、コインブラに移転されたことがコインブラ大学のはじまりだそうです。以来、コインブラの街は大学とともに発展してきたと言われています。
街全体を見下ろせる丘に建っていて、写真のように広々としたキャンパスです。
大学の中には入ることができませんでしたので建物の外側だけの見学でしたが、壁などには素晴らしい彫刻がされていました。

大学から石畳の急な坂道を下りて行くと、その両側には学生たちが下宿している古い建物のアパートがありました。なんだか中世の街にタイムスリップしたみたいでした。
坂を下り切ると海に面して商店街などがある可愛い街でした。

ポルトガルから北スペインへ-3

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ポルトガルから北スペインへ-3

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂

ポルトに宿泊して翌日来北スペインのサンティアゴへ出発しました。
途中国境を越えて左手に大西洋を見ながらでの行程は、今回の旅行の目的の一つであるコンポステーラ大聖堂を見学するためにです。
数年前にテレビの番組で巡礼者の最後の到着地であるこの大聖堂を映像が流れて、あまりの荘厳さに一度行ってみたいと思っていました。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂 (スペイン語: Catedral de Santiago de Compostela)はスペインのガリシア地方にある大聖堂で、ヨーロッパ三大聖地の一つ、サンティアゴ巡礼の終着点だそうです。
この大聖堂を調べてみると
サンティアゴ・デ・コンポステーラには、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸があるとされ、ローマ、エルサレムと並んでキリスト教の三大巡礼地に数えられている。
1000年以上の歴史を持つ聖地への道は、今も年間およそ10万人がフランスからピレネー山脈を越えてゆく。スペインに入ると、巡礼の拠点の街が見えてくる。そこには巡礼事務所があり、名前を登録し、巡礼者の証明となる手帳を受け取る。巡礼者の数が増えると共に、道沿いには無料の宿泊所が整備されてきた。11世紀の礼拝堂を修復した宿泊所などもあり、こちらの宿では中世さながらの「洗足の儀式」が行われる。巡礼者の足を水で清め、旅の無事を祈る。食事も用意される。これらは巡礼を支える人々の無償の奉仕で成り立っている。徒歩によるスペイン横断は、イベリア半島内でもおよそ 800kmの道程である。長い巡礼を続けることは、人々にとって信仰と向き合う貴重な時間となる。
大聖堂の5km手前にある「モンテ・デル・ゴソ(歓喜の丘)」。巡礼者はここで初めて美しい聖地の姿を眼にする。徒歩でおよそ1か月の道程。大聖堂に到着した巡礼者は、「栄光の門」と呼ばれた入り口に向かう。そこには幾千万もの巡礼者がもたれるように祈りを捧げてきた柱がある。手のくぼみのあとが歴史を物語っている。
とある。
この歓喜の丘には写真にあるように二人の巡礼者が大聖堂を見つけて感激している銅像がありました。

巡礼者はホタテ貝の殻をぶらさげています。
これは巡礼の時に道々で施しを受ける時に使ったそうです。日本では托鉢のお坊さんがお椀をもって歩くということと同じだと思いました。
私たちもまずこの歓喜の丘に行き、そこから大聖堂の塔を見て巡礼も何もしていないし、バスで来ていますが巡礼者の気分になりました。
次に大聖堂に行きましたが、本当にテレビで見た通り荘厳で威圧するように大きかったです。
中に入ると巡礼者が集まった大きな礼拝堂があり、そこには香炉を長い綱でぶら下げてありました。これは巡礼者の匂いを消すために焚かれたそうです。それほど巡礼者はただひたすらこの大聖堂を目指して歩いて来たということです。
ここで半日過ごし、またポルトガルへと戻りました。

ポルトガルから北スペインへ-2

このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ポルトガルから北スペインへ-2

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

バターリャ見学後、ポルトへ移動しました。
ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。だが、ローマ以前のケルト文化の名残であるシタデルも市外の中心にも残存している。ローマ時代の周辺をコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国が、ポルトガル王国となった。ポルトガルの名はこれに由来する。と書かれています。
1996年、「ポルト歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されています。そしてポルトはドウロ川沿いにあるポルトガル第二の商業都市で坂の多い美しい街でした。
まずポルトというとポートワイン(日本では赤玉ポートワイン)でしょう。ドウロ川上流流域で収穫されたブドウから作られるポートワインは一次発酵の途中でブランデーを加えたもので、芳醇な香り魅力。少し甘い赤ワイン、それから熟成された白ワインと写真をみて頂くとわかると思いますが、赤は濃く、白は少しクリーム色です。

この二種類のワインを「サンデマン」(怪傑ゾロのシルエットで有名)というワイン工場で試飲をさせて頂きました。
赤は重く、甘くてどちらかというとデザートワインかなと思いました。白ワインはクリーム色がかっているようにさらっという感じではなく、まったりと舌と喉を通って行きました。私の好みは白ワインでした。

このあとは市内観光です。
まずドン・ルイス1世橋という1886年にエッフェルの弟子によって作られた珍しい二重構造の橋を見学しました。やはり作りはエッフェル塔を横にしたような橋でしたが、渡る時につなぎ目から下のドウロ川が見えて、高所恐怖症の娘と手をつないで恐る恐る渡りました。ようやく反対側にたどりついて、後ろを振り向いたらツアーの仲間がだれ一人いません。慌ててわき目もふらず走るように戻りました。
集合場所には仲間がそろっていて、皆さんはどこまで行っても同じ景色だからと途中で戻ったそうです。私たち二人の恐怖はなんだったんでしょう!

次にサン・フランシスコ教会にいきました。
サン・フランシスコ教会 (Igreja de São Francisco)は、ポルトガル・ポルトにある重要なゴシック様式の教会。バロック様式の内部装飾で知られている。教会は市内の歴史地区にあり、ユネスコの世界遺産に登録されているます。
後はポルト駅を見学して今日の観光は終了しました。

 

ポルトガルから北スペインへー1

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ポルトガルから北スペインへ-1

+    宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 急に思い立って長女と二人で旅に出ました。
夫と次女は長期旅行が苦手なのでお留守番をお願いして・・・といつものパターンです。
旅行の準備はいつも前日、時間ぎりぎりに出発ロビーへ!
ロビーの窓から眺めると、自分たちの荷物が機内に運ばれるのが見え、やっと余裕が出てワインでもという気分になりました。
成田を出発してヒースロー空港での3時間半の乗り継ぎ時間を含めて16時間余というフライトでようやくポルトガルの首都。人口約50万人のリスボンの空港着・・・機内での適度?な飲酒が効いて足元は少々ふらつきますが体調は絶好調です。

予約したホテルに荷物を置いて長旅の疲れを熱いシャワで流して直ちに行動開始、まず、ホテル前で同行二人でパチリ。多分、この写真を見た人は、「もしかして姉妹?」と思われるかもしれませんが、そう思っても口に出してほしくないのです。私は気分がよくても娘が極端に不快な顔をするからです。
さて、路面の行きかう石畳の情緒ある街並みのリスボンを離れて、自然そのままの美しい景観を眺めながら私たちがバスで向かったのはリスボンから120キロ離れた小都市・バターリャです。バターリャとはポルトガル語で「戦い」の意味ですが、ここに建つ世界遺産にも登録されたバターリャ修道院は、史上有名なアルジュバロータの戦いでポルトガルの独立を守った勝利を記念し神に感謝して作られた、別名を『勝利のサンタ-マリア修道院』といいますが、現在は平和のシンボルとなっています。
延べ15人の建築家によって14世紀から150年かけて建てられたゴシック建築の傑作とされるバターリャ修道院は、息を呑むような装飾と建築技術をみせて、まさしく芸術的建造物です。しかも、これでもまだ未完なのだそうです。

と、ここまではほぼリアルタイムで開運村本部に国際メールですが、続きは次週、1日(金)帰国ですから間に合います。

慶応義塾発祥の地

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

慶応義塾発祥の地

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

開運道花見サロンのある築地界隈は、歴史的に見てたくさんの遺構遺跡がある地です。花見サロンに行くたびにここを歴史的人物がどれほど歩いたのかと思うと胸がドキドキします。
サロンから築地本願寺の左後ろに見える、聖路加国際病院のすぐそばに慶応義塾発祥の地を刻んだ碑があります。
写真のような碑と説明文の掲示があり、その横には説明の碑があります。
写真ではよくわからないのですが、碑文には、『慶應義塾の起源は1858年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由 来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当たる。この地はまた1771年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで日本近代文化発祥の地として記念すべき場所である。』
とあります。 なるほど、そうだったのかと納得しました。
この地のそばに桂川甫周の屋敷跡があり、その甫周の家が蘭学のサロンでした。
江戸に出てきた福沢諭吉先生が蘭学を学ぶためにこのサロンに入り浸っていたことは有名です。
そのことは甫周の娘、今泉みねが回想した「名ごりの夢」(平凡社発行東洋文庫)という本があり、その中の「福沢先生のお背中」という文章で面白く語られています。
これからは道のあちこちに建っている歴史的説明の碑があったら気を付けてみるようにしようと思います。
なお、桂川甫周に嫁いだのが私の親族、我が祖と福沢諭吉は咸臨丸絡みの身内同様の仲、不思議なご縁を感じながらも親しみを感じる探訪記でした。