照姫と森要蔵ー1


このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)が担当しています。

「戊辰・白河戦争」ものがたり

照姫と森要蔵ー1
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)
幕末の会津藩松平(保科)家は、子供がいずれも早世していたため、一族の上総国飯野藩(千葉県富津市)の保科家から、十歳の照姫を養女として入れました。やがて婿養子を迎えて会津藩を継がせるつもりでした。
しかし、翌年(一八四三)、おもいがけなく藩主容敬に女児(敏姫)が誕生。そのご、敏姫の婿養子として美濃国高須藩(岐阜県海津市)から松平容保を迎えます。このとき、照姫は十五歳、容保十三歳、敏姫四歳でした。
三人は会津藩の江戸屋敷で仲良く暮らします。
照姫は、書・茶道・礼法に通じた、才色兼備の女性に成長し、特に和歌に優れ、二歳年下の容保は手ほどきを受けていたといいます。
十八歳になった照姫は、豊前中津藩(大分県中津市)十万石の藩主・奥平昌服の正室として嫁ぎますが、五年後に離縁し、江戸の会津藩邸にもどりました。
その翌年に容保と敏姫が結婚。
容保が京都守護職を受けざるを得ない状況に追い込まれ火中の栗を拾うと、会津藩は悲劇の道をたどることになります。
鳥羽・伏見を幕開けとする戊辰戦争が勃発すると、藩士たちとともに照姫も江戸から会津に引き上げることになりました。その折、白河を通る時に詠んだ歌が残っています。
〝思ひきや わが身の上と しら河の 関路をやがて 越えぬべしとは〟
まさかこんな事態になるとは、思いもよらなかった・・・と、ようやく辿り着いた会津への玄関口しらかわで嘆いています。
照姫は、ひと月にもおよぶ鶴ヶ城の籠城戦で、十九歳で他界していた敏姫に代わって、山本八重(のち新島八重)や、山川咲子(のち大山捨松)や、高木時尾(のち斉藤一の妻)らを含む、六百人もの婦女子たちの先頭にたち、食事の用意や傷病者の手当て、防火活動などに携わり、士気を鼓舞して壮絶な抵抗を示しました。
戦後は、実家にもどり髪を切りおとして名を照桂院と改めました。
明治十七年、東京小石川の保科邸で五十五歳の生涯を閉じています。
明治二十六年、照姫の墓は、容保の墓とともに、東京から会津若松東山にある、松平家の墓所に改葬されました。

奈良の大神神社

奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)

宗像 信子

今回は開運村のお休み処に小林永周講師が「全国開運&心霊スポット」として紹介されている大神神社に行って参りました。
まさしく心霊スポットのような聖なる神社でした。
小林講師によると、
大神神社は、原始形態の神祀りの様式をとる日本最古の神社です。この三輪の地は古代大和の文化発祥の地とされ、大神神社は神が宿る聖なる山、三輪山をご神体としています。
ご祭神は国造りの神様である大国主神が自らの御魂を三輪山にお鎮めになり、大物主大神の名で祀られたのが大神神社の始まりとされています。
と解説されています。詳しい解説はぜひお休み処をご覧になって下さいませ。
とても広大な敷地にいくつもの神社があり、それぞれが意味を持つ立派な神社です。
まず写真の拝殿が中心にありますが、本殿はありません。それは背後にそびえる三輪山そのものがご神体だからです。拝殿の裏側には三ツ鳥居(三つの鳥居を組み合わせてできている鳥居)があり、そこから先は神職すら安易に入山できない禁足地になっています。
また拝殿から西側に山を登って行くと狭井(さい)神社があります。ここは三輪の神様の荒魂(あらみたま)を祀っています。力強いご神威から病気平癒の神と親しまれ、傍らには万病を癒す御神水が湧く「薬井戸」があります。若水をいただき、無病息災を祈りました。この神社への参道は「くすり道」と呼ばれ、道の脇には全国の製薬会社奉納の薬木・薬草・記念碑がありました。
湧水は甘くて美味しかったです。この大きな森の中のマイナスイオンをたっぷり吸い、若水を飲んだら何か心と体が生き返ったようでした。
どうぞ、皆様のぜひ奈良にいらしたらこの地まで足をのばして参拝してみてください。
 

 

古都を楽しんできました。

東寺と国宝五重塔

宗像 信子

 真言宗総本山の東寺(とうじ)は京都に着くと、一番最初に目に入る国宝五重塔を有するお寺です。
「あー京都に  来たんだ」という気持ちにさせてくれます。
世界遺産登録されている東寺は、唯一残る平安京の遺構で、創建は天長2年(825)です。
公式ホームページによると、創建からおよそ1200年、長い歴史を経て、平成6年(1994年)に世界遺産として登録されました。
東寺は平安遷都とともに建立された官寺(かんじ)、つまり国立の寺院です。その寺院を桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で新しい仏教、密教を学んで帰国した弘法大師空海に託しました。
ここに、日本ではじめての密教寺院が誕生します。
東寺を託された弘法大師空海は、密教の主尊(しゅそん)である大日如来を境内の中心に据え、広大な寺域に曼荼羅(まんだら)を表現しようとしたのかもしれません。
造営にあたって、弘法大師空海は、御影堂(みえいどう)の場所に住房を構えました。
御影堂では、いまも毎日、弘法大師空海がいらしたときと同じように、一の膳、二の膳、お茶をお出ししています。
パンフレットには「東寺に来られたら、まず御影堂にお参りください。次にお堂に上がり、ひととき弘法大師空海とお話しください」書かれています。
国宝の金堂は文明18年(1486)に焼失し、今のお堂は慶長8年に竣工、重要文化財の薬師如来と日光・月光菩薩が安置されています。
重文の講堂は延徳3年(1491)に再興された建物で、国宝や重文の21体の仏像が安置されています。このように、どこを観ても国宝、重文だらけで身が引き締まる思いでした。
ここで、私が体験した笑い話をひとつ・・・ここには食堂(じきどう)という建物があります。私が約30年ほど前に初めて東寺を訪れたときに、この食堂をレストランだと思い、思わず同行者に「このお寺にはレストランがあるのね」と言って、大いに笑われました。今でもその同行者はこのことを覚えていて、ことあるごとに笑い話として言われます。この食堂は現在、資料館のような役割をしています。

最後に、写真の国宝五重塔ですが、高さ55メートル、4度の消失と再建を経て、現在は五代目だそうです。ただ消失しても必ず同じ大きさで建て直したそうです。それは五重塔に限らず東寺の全敷地は創建当時と変わらないということです。
京都のお寺ではありますが、華やかさはなく、心が安らいで落ち着いてくるお寺でした。
京都にお立ち寄りの節はぜひ、お参りして下さいませ。

鎮魂稲荷山  安司弘子

ようこそ!! 信子&弘子(二人のプロフィールは「お世話人紹介」で・・・

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「戊辰・白河戦争」ものがたり

鎮魂稲荷山

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

【戊辰戦争と遊女】

明治二年正月十八日の白昼のこと。白河の遊女が殺されました。

幕末。徳川幕府の権威は失われ、慶応三年(一八六七)十月、将軍徳川慶喜はついに大政(政治権力)を奉還(天皇にお返しすること)しました。
二百六十年間も続いた幕藩体制が崩れたのです。
十二月には、武家政治を廃して再び王政にもどる、王政復古の大号令が発せられ、十六歳の天皇を中心とする新政府ができました。
そして慶応四年正月、とうとう旧幕府側と新政府側とが京都の鳥羽と伏見で衝突しました。これが戊辰戦争の狼煙となった「鳥羽伏見の戦い」で、錦の御旗を担いだ新政府軍が圧倒的な勝利を収めました。
《因みに戊辰とは干支(十干と十二支との組み合わせ)で、暦や時刻・方位などに用いられる数を表す語です。
ぼしん戦争が勃発した慶応四年・明治元年・一八六八年の干支は十干が戊(ぼ・つちのえ)十二支が辰(しん・たつ)でした。干支は六十を周期とします=還暦》

幕末の動乱はつづきます。新政府軍は慶喜を追い江戸に向って各地で戦い、勝利を重ね、各藩を従えて北上しました。
しかし、勝海舟と西郷隆盛との会談で江戸城は無血開城となり、慶喜の恭順で武力の矛先を失った新政府軍は収まりがつきません。そこで、京都守護職として幕府を支えた会津藩を朝敵として、更に戦線は北関東を歴戦し奥羽の関門白河にまで及んだのです。

この時白河城は空き城でした。
慶応元年(一八六五)、幕府老中だった白河藩主阿部正外は、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ四か国の強力な兵庫開港要求に対し、直接交渉を担当しましたが、朝廷の勅許を得られないままに緊急事態と判断して開港に踏み切りました。
これが朝廷の怒りに触れ、その責任を負わされた正外は老中職を処分、官位召し上げ、更に国元謹慎となりました。
翌二年、正外に代わり正静が白河藩十万石を継いだものの、慶応三年には棚倉に国替えを命じられ、白河を去ってゆきました。
そして、白河は幕府の直轄となり、大政奉還後は新政府が管理していました。
そんな状況下の慶応四年閏四月九日、新政府軍の奥羽鎮撫総督参謀として、白河城に入ったのは長州藩の世良修蔵でした。白河城に在城している東北諸藩に早く会津を攻撃せよと促すためでした。
白河での夜々、世良参謀が贔屓にしたのが、本町の旅籠内池屋の遊女茂吉でした。茂吉は越後三条の生まれで本名はしげといい、幼いころに内池屋に養女として抱えられ、茂吉の妓名で客に侍る身の上でした。
世良は諸藩が動かないので、総督府を早く白河に移そうと四月十八日に総督府のある仙台に向けて白河を立ちました。
途中、福島城下の旅籠「金澤屋」に泊りましたが、その際大山参謀に宛てた密書に「奥羽は皆敵と見て武力で討伐すべき」と書いてあるのが露見してしまいました。
会津藩に同情し、救済を求める仙台藩や米沢藩を烈しく刎ねつけた世良は、仇敵の如くに怨まれていました。そのため密書の件を知った仙台藩士らによって惨殺されてしまったのです。

さて、世良と馴染んだ遊女茂吉にも悲運が待っていました。素直な性格で皆に愛された茂吉が殺されたのは、世良が去って一年も過ぎてからの事でした。
殺害したのは、かつて白河で世良を附け狙った刺客で、戦後になっても戦争を挑発したとして恨みを持ち続ける、敗残藩の浪人だったと云います。
遊女は斬られた時人形を抱いて眠っていました。
遊女の言い伝えは別にもあり、女石(旧奥州街道・仙台に向かう分岐点)の脇道に供養碑が建てられ、坂田屋のしげとして紹介されております。
犯人は旧会津藩士で、旧藩士もまた、追いかけてきた伎夫にこの分岐路で殺害されたとしています。
しかし、第三のしげもおります。
「待つ間なく 人の出入りや 花盛り」。
告麗舎という俳号を持つ本町の旅籠湊屋の妓女しげは、町の俳句の同人で、句を詠む教養人でした。知的で美しく人気を集める湊屋のしげが、西軍参謀世良修蔵の目に止まり見初められたのかもしれません。
「遊女しげ殺害事件」は、世良憎しの風潮と、「しげ」という名の遊女が何人もいたことから、ストーリーがもつれていったのではないでしょうか。

 パリ? ニューヨーク? ここはどこ?


ようこそ!! 信子&弘子(二人のプロフィールは「お世話人紹介」で・・・

パリ? ニューヨーク? ここはどこ?

宗像 信子
今回このコーナーを安司弘子さんと一緒に担当することになりました宗像信子です。
早速ですが、私は今どこにいるのでしょうか?
パリのセーヌ河畔?
ニューヨークのハドソン川のほとり?
本当はそうありたいのですが、残念ながら東京のお台場です。
お台場のビュースポットから自由の女神とレインボーブリッジを眺めました。
そしてこのレインボーブリッジの左奥には、開運道スクールがあります。
もちろんここからは見えませんが、遠く目を凝らすと築地方面にパワースポット開運道の気が見えるような気がします。
このお台場にある自由の女神はフランス政府からレプリカの建立が認められ、フランスのクーベルタン鋳造所で制作されたブロンズ製で2000年に設置された像です。
ニューヨークにある自由の女神は、フランスがアメリカ独立100周年(1876年)を記念して贈ったものですが、実際に設置されたのは1886年です。
そしてセーヌ川を見下ろす自由の女神は、アメリカに贈る女神像を制作するための試作模型の石膏型を使って制作されました。
アメリカの四分の一の大きさです。
これはパリ在住のアメリカ人の寄付によって、フランス革命100周年を記念して制作
され、1889年パリ万博の際にこの場所に建てられました。
これら二つの自由の女神像は大西洋をはさんで向かい合うように立っています。
なんだかロマンチックまお話ですね。