母を送る。

 

平成18年1月17日(水)12時29分、母・花見スイは103歳5ケ月の波乱の人生をおだやかに閉じました。
病院からの電話で、母が入院中の加須市大久保病院に着いて私が手を握ると、母は力なく握り返したまま息を引き取りました。
痛みも苦しみもない穏やかな表情で静かな中にも見事な大往生でした。
医師の書いた死亡診断書には理想の死である「老衰」とあります。
病気のデパートのような母が「なぜ?」と聞きますと医師の答えは明快でした。
心筋症も肺炎も肝臓ガンも死には至らず死因は、食事も水も喉を通らなくなって死に至る「老衰」だそうです。
この老衰こそが人間の理想的なの状態で、恍惚となった状態で死に至るそうです。
杖なしでも歩ける痴ほう症なしの要介護度1のまま、105歳と5ケ月での老衰死、これではお目出度くて涙も出ません。
確かに誰がどうみても赤飯炊いてのお祝いごとなのですが、私は母の寿命は105歳と思い込んでいただけに残念です。
しかし、つい3ケ月前までは杖なしでも歩ける要介護度1からの急な老衰死ですから、私には納得できません。
昨年の10月下旬、突然の尿感染症で39・1度の高熱で南栗橋の済生会病院に緊急入院、それが癒えて12月4日には療養型施設のある前述の大久保病院に転院するはずでした。ところがその転院日12月4日の朝、また39度を超える急の発熱で転院は取りやめ、それどころかほぼ危篤状態なのです。
主治医は慌てて原因究明に乗り出しました。
なにしろ、尿感染症は治っているのですから高熱の原因は他にあるのです。
そこで、肝臓ガンが発見され、そのために胆管閉塞で担汁の流れずに発熱に至ったと分かったのです。
主治医の言葉によると、このままだと母は確実に年内に亡くなります。
担管に管を広げるプラスチックパイプを挿入する手術をして溜まっている担汁を流せば発熱の原因は失せ一命はとりとめます。ただし108歳の高齢でもあり高熱で奪われた体に、口から管を入れる難手術に絶えるだけの体力が残っているのか疑問だと主治医はいいます。
しかも、私達兄弟の意思統一で母が苦しむような延命処置はしない、との話し合いが出来ています。
そこで、すぐ主治医からの紹介で実際にその手術を施行する内科医に会って説明を受けました。
その医師はきっぱり、「お任せください」です。そこで私の腹は決まりました。
形式として、家族の了解で万が一の時は医師に責任はない、との書類に捺印し、その日のうちに手術は行われました。
手術室から戻った母は痩せ衰えた蒼白な顔でぐったり死んだように眠り、声をかけても返事がありません。
その日は、なかば諦めましたが、翌日はこちらが驚くほどに元気を取り戻していました。
その後、再度の転院届けが認められて無事に12月20日に加須市の大久保病院に転院しました。
新天地に移って母は食欲を取り戻し、好物のカキイモ、ミカンを美味しそうに食べました。
そこで迎えたクリスマスでは、見舞に行った姪家族と一緒に車イスで、病院主催のパーティに出て皆さんと一緒に歌を歌いケーキを食べ、おおいに楽しそうだったと看護師さんからも聞きました。
その日を境に母は一日一日衰え、永眠する数日前からはお粥も喉を通らず水も飲めなくなっていました。
その様子で母の死期を悟った私は、母の亡くなる数日前に兄弟で予定した斎場を訪れ、大まかな打ち合わせをしました。
したがって、心準備が出来た上での母の穏やかな他界ですから、私自身も穏やかなのです。
なお、私が母の手術や危篤寸前の状態で病院や医師に提出した誓約書への署名捺印は5通、これもかなりの記録だと思います。
母が40代だった市川市国府台病院でのかなりの重症だった子宮ガン手術、松戸市一条病院での闘病時、南栗橋済生会病院入院時、同胆管手術、加須市大久保病院入院時、この5回の死の壁を見事に乗り切っての老衰死・・・私の手モミも多少は効果があったとしても母のすごさに言葉もありません。
と、通夜の挨拶で私が語りそうなことをここで書いてみました。
なお、火葬場が混雑していて葬儀が伸び、遺体は斎場の霊安室にあり、連日兄弟身内が交替で出入りして賑やかです。
葬儀は兄弟身内の家族葬で22日通夜、23日が本葬、喪主としてそれを終えたら一人で泣きます。

平成30年3月4日(日)快晴・・・それも雲一つない穏かな初夏のような暖かい大安吉日です。
この日、103歳5ケ月の大往生を遂げた母の納骨と50日祭を無事に済ませました。
1月22日(月)の通夜が関東地方では何十年ぶりという大雪に見舞われて一生忘れ得ない思い出となったのを、今日の晴天んはそれを補ってあまりある好日となりました。
わが国では葬儀といえば仏式が多く、神道での葬儀や納骨式は珍しいと思います。
我が家は神道ですが納骨に参列する機会も少ないため、施主ながら儀式もすっかり忘れていました。
通夜、葬儀以降、母の位牌と骨壺を朝晩拝んで暮らした日々もこれで終わりました。
納骨と50日祭を無事に終えて、何だか安心して荷が軽くなったような少し寂しいような妙な思いがしています。
本来、納骨蔡と五十日祭は別の祭儀ですが、最近では同時に執り行うケースが増えているようです。
神道では お墓のことを奥都城(おくつき)といい、その特徴は石柱の頭の部分が尖っていますあらすぐ分かります。
我が家は奥都城(おくつき)は都の字を使いますが、これは神官などを勤めた先祖がいる場合に使われ、一般信徒の家では奥津城と津を用います。ただし、これは地域差があるようで一貫性はないようです。
それにしても母の人徳なのか、今日も子や孫や曾孫や玄孫(やしゃご)ら配偶者を含めて47人の身内が墓前に集まり、和食屋での食事会も大いに盛り上がりました。
一族繁盛、健康長寿で・・・これも一族の長としての私の常套語になっています。
これをこのまま、開運村の関係者すべての人の合言葉にしたい思いです。

(注・以上の一文は、村長の一言から抜粋しました)

 

追悼・平尾昌晃さん。

 作曲家で元歌手の平尾昌晃さんが7月22日、肺炎のために死去しました。
享年79歳、若過ぎる死です。
若い頃の平尾さんは、ロカビリー全盛時代の超人気歌手でした。
一時期、肺疾患で入院生活を送り、その時から路線変更で歌手をしながら作曲家への道を歩み始めたのです。
平尾さんが世に送り出した曲は多数多くありますが、私の記憶にあるだけでも「グッド・バイ・マイ・ラ(アン・ルイス)」「よこはま・たそがれ(五木ひろし)」「瀬戸の花嫁(小柳ルミ子)」「霧の摩周湖(布施明)」「アメリカ橋(山川豊)」、それに、私と一緒に仕事をした頃、当時18歳だった畑中葉子さんとのデュエット曲「カナダからの手紙」などです。
フジTV事業局の企画で、平尾さんと私が一緒に仕事をしたのはお互いに40代のはじめ、大いに夢を語り合ったものです。
きっかけは、私がある会員制通販雑誌のモデル審査の仕事をしていたのと、フジTV「小川宏ショー」で、私の提唱する「心美人」と、当時から芸能人ご用達で著名な銀座整形外科の盛川院長の整形美人とのトークバトル番組の影響からです。
何度かの実践テストで、洋服や着物の販売にとって、商品以上にモデルが重要なことが明確になったのです。
通販雑誌の編集長のお気に入り超美人モデルを使うより、私が選んだ平均的な感じのいい女性の方が商品の売れ行きが遙かにいいという結果が出たのです。
しかも、着物や洋服だけでなく、身につけているバッグや時計、イヤリング、足元の草履や靴までも問い合わせが入るのです。 ただし、私は人相学ですから、日頃から柔和な「心美人」や、色彩感覚の良し悪しは本業が染色化学ですからOKですが、ファッションセンスは全くありません。商品の売れ行きがモデルによって左右されるとなると日頃からの着こなしなどファッションセンスも重油な要素になります。雑誌に載せる写真のために、商品を身につけてのモデル審査をしなければなりません。
ならば、ファッションセンス抜群で生きた洒落男そのままの平尾さんとのコンビでのモデル審査は?
このいい加減な企画が実行に移されて大成功、モデルさんの全員が華やかな中年イケメン平尾さんに笑顔で挨拶、ヤボな私には見向きもしません。それでも、人気絶頂の平尾さんと同額ギャラ(担当者談)ですから文句はありません。本当に楽しい仕事でした。
ともあれ、温かい人柄で気配りもよく、自然に身についた幅広い感性の上に努力で磨いた技が生きてのヒット曲の数々、平尾さんは偉大な作曲家でした。その死は本当に惜しまれます。
どうぞ穏やかにお休みください。心からご冥福をお祈り申し上げます。
花見 正樹

 

 

追悼 山中毅(つよし)さん!

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追悼 山中毅(つよし)さん!

2017年6月25日(日)、早大内・大隈ガーデンプレイスで「山中毅さんを偲ぶ会」を終えてきました。
早大卒の政財界、水泳&スポーツ関係者、友人など約150人ほどの賑やかな会でした。

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山中さんは、昨年11月、入院する前に這うようにして私に会いに来ました。
好きな酒にも寿司にも手をつけず、仲間が帰って二人だけになって語り尽してタクシーで帰りました。
その数日後に入院してから帰宅することなく、この2月に還らぬ人になりました。
山中さんが、最期に会いたかったのが私だった、と聞いて私の心は今も痛みます。
では、私と山中さんとの縁を振り返ってみます。
ここには、小林、太田、渡辺、山中、花見の5人が絡みます。
私の親友が小林永周さん。
その友人が故太田勝(まさる)さん。
太田さんの水泳部の後輩が故山中毅さん。
山中さんが唯一頭が上がらない人が、この平泳ぎのアジア・チャンピオンだった大田勝さんです。
その太田さんと山中さんの早大水泳部マネージャーが渡辺太郎さん。
私のフジテレビ出演時の担当ディレクターが小林さん。
太田さんはフジテレビ・プロ野球ニュースのディレクターでした。
太田勝、渡辺太郎さんと私の三人は、遊び仲間でもありました。
さらに、私は中央公論社の婦人公論連載執筆者で、渡辺さんは中央公論社社員、仕事仲間でもありました。
その上、 山中さんと私は、元中日ドラゴンスの中心打者だった江藤慎一氏と三人で、少年野球育成の会をやった仲です。
太田さん、小林さんと私の三人はゴルフ仲間でもありました。
こんなゴチャゴチャした人間関係ですから、いつの間にかお互いにツーカーです。
山中さんは、私より3歳下の1939年1月18日に石川県輪島市で生まれています。
1956年のメルボルンオリンピックには、石川県立輪島高3年生で出場しました。
その時は、400m自由形と1500m自由形の2種目で銀メダル、800mリレーで4位でした。
1957年に早稲田大学に入学、大學4年の1960年ローマ大会では、400m自由形と800mリレーの2種目で銀です。
1500m自由形は残念ながら4位入賞に終わっています。
1964年の東京大会では、400m自由形で6位入賞、3度のオリンピックで銀4、出場全種目入賞です。
1959年に日本スポーツ大賞、第一回小野梓記念スポーツ賞に輝いています。
さらに、1983年には「国際水泳殿堂」入りしています。
時々、なんで山中さんは、死を予感した時に私と会いたくなったのか不思議に思うことがあります。
男には男しか分からぬ友情がある、とか聞いたことがあります。
好漢、山中毅よ。安らかに眠れ・・・すぐには行かぬがいずれは再会になる。
その時はまた、語りあかそうぞ! 花見 正樹

月夜の天使   村山恵美子(故人) 

月夜の天使
村山 恵美子

東の空から大きな満月が昇りくる。山の頂からぼんやりと頭を出し、西に沈んだ太陽の明かりを映し薄紅色に染まり、やがて白色に変わる。白く変わる時を今か今かと待っている者たちがいる。
あの白くぽっかり浮かんだ月は天空の出入り口。そこから、蔓で編まれた縄ばしごがスルスルと下ろされ、背中に小さな羽を付けた飛び方も下手な幼い天使たちが、キャッキャとはしゃぎながら舞い降り一目散に我が家へと飛ぶ。
それはこの世に生まれ、わずかな時間しか生きられなかった子供達だ。病で逝った子、事故で逝った子、魔の手に命を消された子……まだまだこの世にいたかった子供たちが、愛情を求め、月が夜空にある間、母のベッドにそっともぐり込み、つかの間ぬくもりを感じ、羽を休め、また天に昇る。
天使たちには決まりがあった。一つは、決して母を起こしてはいけないこと。もう一つは、月が夜空にある間に戻れなければ、この世からもあの世からも存在は抹消されてしまうことだった。2度と母の元に行くことができなくなってしまうのだ。
明るくなると戻れなくなる子供達はタイムリミットが迫り、1人また1人と急いで戻ってくる。
「あいつ来たか?」
「まだだよ」
「またかよ。こないだも遅かったよなあ」
「仕方ないよ。あいつまだ赤ん坊だから」
オサムとケンが目を凝らし下を覗き心配していた。……来た! 下界に小さな天使がよちよち歩きで現れた。羽をパタパタしても力が足りないのか飛び立つ事ができずに、悲しそうな顔で途方に暮れて見上げ泣いている。
「しゃーないなぁ。行ってくるか」
「うん」
慣れたお兄ちゃん天使二人が、急降下して泣き虫の飛べない天使を迎えに行った。
「ほら、早くしろよ。みんな消えちゃうだろ。もう連れてきてやんねーぞ!」
「だって……」だってじゃねーよとケンが抱きかかえ飛び立った。時間がない。慣れているとは言っても、どっちも子供だ。抱っこして飛びきれるほど力はない。一緒に降りたオサムが、重量挙げのように万歳をして「ふぅーーん!」下から持ち上げ、力の限り羽ばたく。千切れた数枚の羽が遠ざかる下界に落ちて行った。
「もう泣くな。また連れてきてやるよ」
涙を拭いてやるケンに、しがみつく小さい天使はしゃくり上げながらコクッとうなずいた。

薄紅色の満月が白色に変わる夜。あどけない天使たちが飛び、母の温もりに抱かれて眠っている。起こさぬように気付かれぬように「おかあさん」と、そっと心の中で呼びかけながら……。

松岡隆一画伯、追悼の辞

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秋田県鹿角市の著名画家・松岡隆一画伯が、この十月にご逝去されていたことを知りました。
 私と松岡画伯とは深い因縁があり、私の人生にも少なからず影響を及ぼしています。
 松岡画伯の絵には、私の魂を揺さぶる霊的な力が漲っていて、心が洗われる思いがします。
 哀しく切ない出来事で心からご冥福を祈りながらも胸が痛むばかりです。
 その胸の痛みの原因は、画伯との約束を未だに果たしていないことにあります。
 その約束反故とは、このHP内・花見正樹作品集にある「縄文幻想」の上梓です。
 ここには、第一章から第十章までの扉画として画伯が三軌会美術展出展のニ百号の大作が勢ぞろいという圧巻です。
 これは、私の三大贅沢の一つで、挿し絵作家・村上豊画伯挿し絵、ッシャンソン歌手・芦野宏画伯の挿し絵に並ぶ著作です。
 しかも、他のお二人が絡んだ著書は全国書店発売なのに、「縄文幻想」だけは未だに陽の目を見ていません。これでは松岡画伯に、あの世で近く再会するにしても謝罪だけでは済みません。ここは20年以上もお蔵入りだった「縄文幻想」に新たな情報を加えて、是が非でも出版に踏み切らねば顔が立ちません。
 と、先日、画伯のご遺族と改めて約束したところです。
 松岡画伯の次女が私の事務所で短期間働いていたことがあります。その娘さんがサンミュージュックに移籍して、新人歌手・松田聖子の後援会を立ち上げたこととほぼ同時に、ソニーミュージックから私に「松田聖子売り出しキャンペーン」への協力依頼が入りました。そこで、スタッフの協力の元に、「松田聖子とあなたの相性」というスフトを作成し、聖子のレコード購入者に相性データのプレゼントをする企画を実施し大成功をおさめました。
 その後、松岡画伯の次女の結婚式に招かれサンミュージックの社長や松岡家とのご縁も深まり、鹿角にも通うことになりました。
 その鹿角市には、縄文時代に祭祀に用いられた日本一の環状列石(ストンサークル)が二基あり、毎年夏の二日間だけの「縄文祭り}が行われ、私もゲストに招かれ、イベントの審査員などもやらされていました。そこの古代歴史記念館の館長・大里勝蔵氏とはとくに親しく交流していましたが最近体調不良と聞き心配しているところです。当然ながら、この館長も松岡画伯共々小説には主役級脇役として登場して頂いております。
 以上、あれやこれやのご縁で当時の市長とも交流が続き、皆さまに「縄文幻想」を読んで頂いておりました。そんなさ中での松岡画伯の死は私にとって大きなショックですが、これによって「縄文幻想」出版の覚悟が決まりました。
 これが実現したら松岡画伯の御霊も安堵できると信じて、心からご冥福をお祈り申し上げます。