パリ再び、初録音ー3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

パリ再び、初録音-3

 10日ほどしてから吹き込むことになったが、やはり不安は山ほどあった。アルゼンチンの吹き込みで、私は通訳が一人で右往左往したことを思い出し、大使館に頼んで二人の女子留学生をアルバイトで予約した。また、あのときのように、楽団員にそれぞれ勝手なことを言いだ
されては困ると思ったからである。あのオデオン・レコードのスタジオでは、蒜はまったく蜂の巣をつついたようになり、言葉がわからない悔しさをいやというほど味わったものだから。
ところが、パテ・マルコこ社での吹き込みは、まったくなんの波風も立たず、渡された譜面に全員が忠実に従っていた。しかし、スタジオで約四〇人のオーケストラがあってピアノがな
かったのにはびっくりした。今までは必ずピアノがあって、その昔を確かめながら音程を拾う」とに慣れていたから、初めは戸惑ったのだ。ところが編曲者は、私が四年前の忘れもしないT一月十四日に、日本人として初めてだといわれたオランピアの舞台で「ラ・メール」を歌っ
にとき、私の編曲と指揮をしてくれたクロード・ヴァゾーリ氏であった。
なんと今日録音する四曲も、全部彼の編曲になるものだと知って、私はまた一人味方が増えたようで心強かった。なぜなら、四年前、「ラ・メー~」と「マ・プティト・フォリー」の編曲の打ち合わせのため、私は小柄で目の優しい彼のアパルトマンまで行って家族全員とも会っていたし、オランピアの初舞台のときは目の前で棒を振ってくれていたので、私の歌い方をよく知っている人だったからである。アレンジャーである彼に尋ねると、今回はピアノの代わりにハープを使って、エレガントな編曲にしたのだという。まず、ひと通り私が歌ってみてから、
カラオケをとるやり方であった。あれから四〇年以1たっているから、現在の日本での録音事情は欧米並み、あるいはそれ以1かもしれないが、当時はこのカラオケ方式がいちばん新しいやり方であった。
四曲のなかでいちばん苦労したのは「枯葉」であった。前半のクープレ(語りの部分)はバラードで、語るように歌うから普通なら同時録音するところである。しかし、別どりのほうが音質がよいからという理由で、私の歌い方をシェフ(指揮者)がいちいち記号で書き込んだ指
揮譜どおりに何回も歌わせるのである。それを録音して、あとで歌を吹き込むのだから、これもたいへん不安なことであった。しかし、本番ではまったく驚くほど正確にぴしっと私の歌い方どおりのカラオケができ、私の不安はいっぺんに解消した。また、ここでフランス語で歌っ
たもののほかに、日本に帰ってから日本語でダビング (合成録音)しなければならないから心配したのだが、言葉が違っても曲想はまったく同じでよいことも再確認された。
二曲とり終わったところで休憩になり、トゥルニエ氏からシャルル・トレネが来ていることを知らされ、私はモニター室にトレネの顔が見
えたので、とんで行って彼に尋ねた。「なにか歌唱上のご注意をください。私の歌い方の悪いところを指摘してください」と懇願した。「こ
のままでパルフェ (完全) だ。あなたは日本の美しい海を思いながら歌ってください」と言われて物足りない思いだった。


パリ再び、初録音-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

パリ再び、初録音-2

 舞台から有名スターたちがちょっと挨拶するだけなのに、客席のほうは超満員で熱気に満ちていた。やがて舞台から戻ったペコーと、私は四年ぶりに再会し、今日のご招待のお礼を言う。
日本でも映画『青春の曲り角』 で人気の出た女優パスカル・プティと一緒に、私もジルベール・ペコーから呼ばれて舞台に上がり「南米からパリへ、ただいま到着した彼は、パリでこれから活躍する日本人です」 という紹介だった。わけのわからない客席は、それでも温かい柏手を送ってくれた。ペコーの計らいは、石坂範一郎氏の手紙によるものであったことを、私は舞台から戻って初めて知った。石坂氏は私が宿泊するホテルの名前を彼に知らせ、このたびパテ・マルコニ社で初めてレコードの吹き込みをするアシノをサポートしてほしい、と手紙に書いてくれたのである。
ペコーもパテ・マルコニの専属であったし、提携会社・東芝レコードの石坂氏からの手紙には重みがあったにちがいない。それにしても、ペコーの人柄と日本人に対する偏見のなさ、四年前に初めて彼の家で出会ったとき、寝間着のままでピアノに向かい、私のために 「メケ・メケ」と 「風船売り」 の伴奏をしてくれたときの彼とまったく変わらない態度に、私は感銘を受けた。楽屋でいただいたアペリティフがまわってきたせいか、目がしょぼしょぼしてきたので早めに退散し、ホテルに戻るといっペんに疲れが出てぐつすりと眠ってしまった。
フランスで初レコーディング パリに着いた翌日から、私はパテ・マルコこ社に電話をかけはじめた。担当のディレクター、トゥルニュ氏と会うためである。ところが、彼は外国に出張中で三日後に帰るとのこと、三日後にまた電話をかけると今度は休暇で休み、その次の日は土曜、日曜と続いたので、彼とシャンゼリゼの事務所で出会ったのは、パリに着いてから六日目だったと思う。
曲目の打ち合わせから始まり、アレンジャー(編曲者)の選択と希望も尋ねられたが、私はお任せすることにした。ただ曲目はスタンダードを二曲と考えて、1ラ・メール」と1枯葉」に決め、たまたま大流行中の1サラダ・ド・フリユイ(サラダのうた)」、あとはその年のサ
ン・レモ音楽祭の入賞曲「ロマンテイカ」を選び、さっそく自分のキイを提示してアレンジをお願いした。


パリ再び、初録音-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

5、パリ再び、初録音

芸能人「ゲラン・ガラ」にご招待-1

 昭和三十五年の世竺周旅行は、北米、南米の次は欧州フランスへ飛んだ。四月半ば、パリは初渡仏以来、四年ぶりである。懐かしいパリ、あのときとまったく変わらないパリの街に着いたとき、キザなようだが、パリに帰ってきた、という感激で陶が熱くなった。街角の古びたビこストロも、カフェの椅子でさ、ろも懐かしく、歩きなれた道を通ってホテルに入った。フロントで部屋の鍵を受け取るとき、一過の封書を渡されたが、気にしないで一刻も早くベッドで休みたいと思っていた。
ホノルル、ロサンゼルス、ニューヨーク、ブエノスアイレス、リオデジャネイロと旅をともにしてきた二つの旅行鞄を開けて衣装をロッカーにつるし、ホッとしたところでベッドに腰かけて先ほど渡された白い封筒を開けてみた。なんと! それはジルベール・ペコーからの手紙で、芸能人の「グラン・ガラ」(慈善大会)への招待状であった。場所はクリシーの角にある大劇場ゴーモン・パラス。しかも、日時は今日、夜六時から。私は呆然とした。少しでもベッドで休みたい。睡眠がほしい。でもグラン・ガラ
にも出席したい。大きく揺れ動く心の中で、四年前私にオランピア劇場出演をすすめてくれたジルベール・ペコーの笑顔があった。せっかくの共演の申し出を断って、インドでのリサイタルを優先して日本へ帰った、あのときのすまなさが切々とよみがえった。
その夜、結局少し遅れて私も「グラン・ガラ」に出席した。シャワーを浴びてから、タキシードのたたみ皺を伸ばすのに時間がかかったからである。ロールスロイスやジャガーなどの高級車が次々と楽屋口に到着して、有名映画人、シャンソン歌手たちが入っていく。私もペコーからの招待状を見せて楽屋口から入り、控え室でアペリティフをいただく。少し遅れて当時人気絶頂のブリジット・パルドーの顔も見えた。


リオで骨休め-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

リオで骨休め-2

 貧し気な集落に近づいていくのである。リオの山の上にはこの国の舞踊音楽サンバの学校があり、あの華やかなカ-ニバルの踊りは山の上で練習するとか聞いていたので、もっと上まで行かったが、もう車も登れないような地面になっていて、引き返すことにした。コパカバーホテルに戻って支配人に尋ねてみたところ、リオデジャネイロは高いところほど水の傾が、貧しい人がみな山の上に追いやられるのだという。山の1ではよく犯罪が起きて、観光被害にあうのだとも聞いて、背筋が寒くなった。そういえば、シャルル・トレネのシャン「リオの春」のなかでも美しい海と空が主題になっており、遠景に見える緑の山は眺めているだけのほうがよいのだということに気がついた。
リオデジャネイロは世界三大美港(夜景)の一つとされているだけに、空からの眺めはじつに素晴しく、トレネの名曲「リオの春」の美しいメロディーが、何回も私の心の中によみがぇってきて思わず口ずさんでしまう。到着したときの昼の海と違って、いま飛び立とうとする夕暮れの海もまた素晴らしく、数えきれないイルミネノンヨンがともされ、おとぎの世界にいるような気分だった。
リオデジャネイロ空港をあとにしてブラジリアで給油し、一路大西洋を横断して北半球の回へ向かうことになる。北半球の片隅に位置する国・日本で生まれた私にとって、地球裏側の国々で体験した貴重な経験は忘れることができない。
ここから一気にパリのオルリー空港へ直行する夜行便は、当時ジェット機が運航されていない時代だったから、18時間くらいかかったと記憶している。ファーストクラスは足が伸ばせてほとんど水平になって寝られたのでだいぶ助かったたものの、秋たけなわの南米から早春のヨーロッパへへ一日のうちに飛んでしまうのだから、少々体調がおかしくなっても不思議ではない。


リオで骨休め-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

リオで骨休め-1

 ブラジルはサンパウロにも一泊する予定だったが、アルゼンチンでのブエノスアイレス滞在が予定より延びたのでリオデジャネイロに直行した。東芝レコードの石坂範一郎氏からの紹介状を持ってレコード会社の人ともお会いしたが、ここで歌う気持ちはなかったので、前から憧れていたコパカバーナ海岸に宿をとって、美しい海岸線を見ながら、心はすでにパリへ向かっ
ているのだった。
ブラジルでも地球裏側ゆえのおかしな経験をいくつもした。リオは美しい緑の山々が手の届くような距離にあり、車で登ってみたいと思った。ポルトガル語の国なので、タクシー運転手の説明は理解できなかったが、こちらが話しかける英語はわかってくれた。
山へ登る途中に屋台の果物屋があって、新鮮なバナナやパイナップルなどが山と積まれているから、ぜひ味わってみろと言われ、ひと∥食べて驚いた。この果物がこんなに美味しいものとは思ってもみなかった。パイナップルは缶詰にされたもの、バナナははるばる運ばれてきたものしか食べたことのない私にとって、これは衝撃的であった。グローリア‥ラッソ(スペイン系のシャンソン歌手)の歌ったシャンソン、私のレパートリーでもある「山のアヴェ・マリア」のなかに、リオの山々は大国にいちばん近いところで、そこに住む人たちにお金は要らない、という歌詞が出てくるが、私も山道を登るにつれて、いわば理想郷が近づいてくると勘違いしていたのである。
この国は、私の知っている北半球の国とは逆で、高いほうへ行くほど環境が荒れていくのだ。


テレビ・ラジオの仕事ぞくぞく-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

テレビ・ラジオの仕事ぞくぞく-2

 それというのも、日本のテレビ局のように、あと何分、あと何秒という神経質なやり方でなく、いとも大ざっばなディレクターの指示であり、時間のほうは司会者にお任せです、というようなのんきなものであったから、出演するほうもプレッシャーを感じなかったのである。
テレビ局を出ると、中華料理店へ直行した。あと二日でアルゼンチンを離れるし、レコーディングとテレビ出演でお世話になったロペス氏を中心に、楽団の人たちもテレビ局の人も、皆さんを招待したかったのである。約20人ほどの宴会になり、だいぶ盛り上がったが、スペイン語の会話なのでなかなか溶け込めなかった。宴たけなわのころ、電話が入ったことを知らされ、私は稲塚氏に出てもらった。しばらくして、彼は苦笑しながら帰って来られた。「芦野さん、どうしますか、仕事がたくさん入ってきて、明日、隣の国チリで歌ってほしいとのことですよ。ずっとアルゼンチンで歌ってほしいとも言ってます」。私はびっくり仰天した。ほんとうなら、とび上がって喜ぶべきことかもしれないが、すでに明日の午後、ラジオ・エルムンドの公開放送が終わってから、ブラジル経由で憧れのパリへ向かって出発することになっていたからである。
私にとってはパリでのレコーディングが本命であり、そのための世界旅行だったつもりである。思いがけない人気が嬉しくないわけはないが、一方で、私はタンゴ歌手・藤沢嵐子さんの忠告を思い出していた。アルゼンチンで大成功を収めて高い評価を受け、帰国された「ランコ・フジサワ」の名はアルゼンチンではいまだに伝説として残っている。私が日本を発つ前に、嵐子さんから聞いた詰もしっかり頭に入れてきた。
「声野さん、あの国の人はすぐに燃え上がって熱狂するけど、金銭的にはよほどしっかりしていなければだめよ。私は何べんも興行でだまされた。熱狂的なファンのために歌っても、お金が入らないことで嫌な思いをしてきた」。そんな言葉も思い出されて、私はいい潮時と考え、翌日ラジオ・エルムンドとラジオ・リベルタールの公開放送を終えて、思い出の町ブエノスア
イレスを離れることにした。街はアルゼンチンの国花である淡紅色のセイボの花が満開の季節であり、初めて受けた南米の人たちの熱狂的な歓迎を深く心の奥にしまって、うしろ髪を引かれる思いでこの回を離れた。日立製作所の稲壕氏は、空港を離れるとき、いつまでも手を振ってくださった。


テレビ・ラジオの仕事ぞくぞく-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

テレビ・ラジオの仕事ぞくぞく-1

 ちょうどレコーディングが終わるころ、稲塚氏ご夫妻がスタジオに現れた。そして、日立製作所が用意した高級レストランでの慰労会のとき、今度新しくできたブエノスアイレスのテレビ局で私のワンマンショーをする打ち合わせをした。滞在日程の都合で、明後日、夜8時半からの30分、生放送で出演することになったので、ロペス氏を楽団に選定をした。テレビ局からも責任者が参加して意見を出したが、私はその場でプログラムを考えた。
スペイン語で会話することに慣れていなかったから、英語で挨拶をする。楽団で歌うには譜面の用意がなかったから、ピアノに向かって弾き語りでシャンソンを歌う。英語で解説しながら、シャルル・トレネの「ラ・メール」「リオの春」、そして日本でもそのころ流行していた「ドミノ」を歌うことにした。そのあとアルゼンチンの女性歌手に二2曲歌ってもらい、その間に日本から持ってきた紬(つむぎ)の着物に着替えて、今日吹き込んだタンゴの「カミニート」とフォルクローレの「サンフアン娘」を、吹き込んだときと同じ楽団に出演してもらって歌うことにした。
当日は午後4時ごろテレビ局に入り、たった一回のリハーサルで本番を迎えることになった。
日本ではたいてい三3回のリハーサルをすることに慣れていたからちょっと不安だったが、ロペス氏も大丈夫というので任せることにした。男性の司会者は英語もできる人だったから、打ち合わせもうまくいき、いよいよ本番を迎えることになる。
私はグランドピアノに向かって座り、日本の民謡をバラード風に流している。それをバックに司会者がスペイン語で、今夜なぜ特別番組かということを話し、私のプロフィールを紹介する。「セニョール・アシノ・ポルファボール」という声を聞いたら、私のピアノが「ラ・メール」のイントロに変わり、あとはいつものペースで歌うのだから気楽なものである。ピアノを
弾きながら歌う。これは私が芸大を卒業してから一年間奉職した学校で、授業中に必ず生徒たちにアルゼンチン ブエノスアイレスのテレビ出演(1960.4)歌ってあげていたので慣れていた。ただ解説を英語に変えるだけのことだった。「ドミノ」が終わると、司会者がとんできて、次に歌うアルゼンチンの人気女性歌手の紹介が始まる。
その間に、私はピアノを離れてスタジオの片隅で着替えるのだ。母が用意してくれた紺色の紬の着物に、白と紺の博多の角帯である。日立の稲塚氏夫人が慣れない手つきで付き人の役をやってくださり、恐縮しながら「カミニート」のイントロにのって再びスポットの中に入る。「サンフアン娘」 のほうは、レコーディングのときよりさらにリラックスして、楽団の皆さんが歌いながら踊りだしたので、大いに盛り上がり大成功だった。


アルゼンチンでタンゴの録音-2

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190505

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

アルゼンチンでタンゴの録音-2

 私はロペス氏と英語で話し合って、楽士たちの意見をなるべく受け入れるように頼んだ。「郷入れば郷に従、え」という諺があるから、私はこの国の人に任せようと思ったのである。ロぺス氏は、それじゃ私に任せてくれと言って大きな声で皆を制止し、楽士たちに譜面どおり弾かなくてもよいことを伝えた。
これは大成功だった。作られた音楽でなく、アルゼンチンで生まれたタンゴの響きがあった。
楽士たちはだれも譜面を見ないで弾きはじめ、「カミニート」は私の考えていたものよりずっと生き生きしてきたように思われた。最初はどうなることかと胸を痛めていたのに、吹き込みは約一時間で終わり、少し休んでから二曲目に入った。「ミ・サンファニーナ」、私のサンファ/娘というフォルクローレ(民謡)である。高橋忠雄先生のもとで練習していたときはとても難しくて、譜面をたどるのに苦労した曲である。やはりちょっと心配であった。ところが、どうしたことだろう。楽士たちは前曲同様、譜面も見ずに弾きはじめ、ヴァイオリンの背中をたたいたりして踊りながら演奏しはじめたのである。これはサンフアン地方に伝わる民謡で、踊りの歌だから、こうして演奏するのがほんとうのやり方なんだという。
「クエッカ、クジャーナ、恋の踊りだ、皆さん、それじゃ一番から歌うぜ」と私がスペイン語でどなると、楽士たちのかけ声がとびかい、踊りの音楽が始まる。練習を一、二回したあと、すぐ本番のテープが回され、盛り上がったところでOKが出た。ロペス氏がモニター室から大きく両手を広げて現れ、「ムイビエン、大成功」と言ってくれたので、ホッとして弧につままれたような気分だった。日本ではあれほど心配して、何度も何度も譜面を見直して勉強してきたが、ほんの短い時間で吹き込みを終わり、嬉しいような物足りないような気もした。フィリベルト氏は高齢のため、私の吹き込みに立ち会うことはできなかったが、ご自宅で直接私の歌を聴いてくださったことは、なによりもありがたいことであり、一生の思い出をつくつてくれた。


アルゼンチンでタンゴの録音-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

アルゼンチンでタンゴの録音-1

稲塚保氏ご夫妻のお取り計らいにより、津田正夫大使主催のレセプションが私のために開かれ、各国の人々の前で私はアルゼンチン・タンゴの名曲「カミニート」を歌った。お返しにブエノスアイレスの女優さんがシャンソンとしても有名な「ウマウアケニョ〈花祭り〉」の詩を朗読してくれたときは、涙が出るほど感動した。稲塚氏は私が会いたかった人、「カミニート」の作曲者フィリベルト氏にも合わせてくださった。アルゼンチン・タンゴ発祥の地ポッカの港町に「カミニート」という街角ができて、そこに住んでおられた高齢のフィリベルト氏は、ピアノに向かって私の「カミニート」に伴奏を付けてくださり、「ムイビエン、ムイビエン(素晴らしい)」を連発した。そして記念に「ラ・カンシオン」という歌の楽譜を下さったイリベルト氏のレッスンを受けたので、私は自信をもってオデオン・レコードのスタジオに入った。ディレクターのロペス氏は、中年の陽気な紳士で、日本のディレクターのようにきめ細かいやり方ではなかった。まず「カミニート」を吹き込むことになり、アレンジ・パートが配られて練習に入った。ヴァイオリンを弾く楽士の一人が私のそばに来て、譜面と違う弾き方をしてみせた。「おれはこう弾きたいが、よいか」と言っている、と通訳が伝える。私はロペス氏に任せる、と答えた。そのうち別の楽士がとんできて「おれはこう弾く」と主張する。
他の方からまた別な意見が出て、スタジオは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
稲塚氏は仕事の都合で吹き込みの現場には来られず、部下の方を代わりによこしてくれたが、まだ若い彼はスペイン語が堪能でなかった。若林氏も、まだ着任して日が浅く、どうしてよいわからぬ様子である。オデオン・レコードのロペス氏は英語がわかる人だったので助かった。


南米ブエノスアイレスへ-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

南米ブエノスアイレスへ-2

 支配人がやっと納得して急きょ別のホテルを探し、タクシーに荷物を載せて少し離れた、公園に近い静かな宿に着いた。それは森の中の館といった感じのすてきなホテルであり、こぢんまりしていたし、ドアマンも制服をつけて礼儀正しかった。ヨーロッパの田舎にあるような夢のような静かなホテルで、私はその日ぐつすりと眠り、翌日の仕事にべストを尽くすことができたのである。この間、ホテルに訪ねて来られたのは東芝の若林氏で、彼は本社から連絡があって私の滞在中、とくにレコード吹き込みに関してサポートするよう頼まれたとのことである。 そこへ現れたのが、昨夜出迎えてくれた日立の稲塚氏である。「私は日立の本社から、滞在中の面倒をみるように言われている」 というのである。ロビーでちょっとしたゴタゴタがあり、私は離れたテーブルで二人のやりとりを傍観していた。若林氏が納得できない表情で語気を強めたので、どうなることかと成り行きを心配していたが、結局、稲塚氏が私の面倒をみることになったのである。若林氏は単身赴任で若かったせいか、スペイン語の達者な稲塚氏ご夫妻にお任せすることで納得し、東芝側は私がオデオン・レコードで吹き込みをする当日だけ、ずっとスタジオについてくださった。お子さんのいない稲塚氏ご夫妻は、社交的で親切なお二人で、私を息子のように方々へ案内してくださった。

ブエノスアイレスではレコード吹き込みのはかにラジオの公開録音が三本、帰る前日にはテレビの生放送があり、それらは項を改めて後述しょう。相当きついスケジュールであったが、やっと納得するホテルに落ち着き幸運であった。ところが帰る間ぎわになってわかったことだが、このホテルはビジネスの人は泊まらないということである。そういえば妙に静かで、ロビーに人がいたこともなく、大声で話す客もいなかった。いわゆる高級な二人連れのホテルだったようである。知らないということはありがたいことで、私はこの静かなホテルに男一人で泊まり、ぐつすり眠って良い仕事ができたのである。

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4月ライヴスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。

日 時
開演時間 出 演
4月27日(土) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:中野宏美
4月28日(日) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:大美賀彰代
4月29日(月) 11時~/14時~ 小林美恵子    ピアノ:日野敦子

5月ライヴスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。

日 時
開演時間 出 演
5月2日(木) 11時~/14時~ あみ         ピアノ:今野勝晴
5月3日(金) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:江口純子
5月4日(土) 11時~/14時~ 小林美恵子    ピアノ:江口純子
5月5日(日) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:大美賀彰代
5月6日(月) 11時~/14時~ MIKAKO       ピアノ:日野敦子
5月11日(土) 11時~/14時~ 岩崎桃子      ピアノ:日野香織
5月12日(日) 11時~/14時~ 桜井ハルコ    ピアノ:大美賀彰代
5月18日(土) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:安藤伸彦
5月19日(日) 11時~/14時~ 秋山美保      ピアノ:大美賀彰代
5月25日(土) 14時~ 第3回 村上リサコンサート ~苦しみを乗り越えて~
5月26日(日) 14時~ のど自慢 vol.22

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日本シャンソン館
ゴールデンウィーク イベント
◆シャンソンライヴ◆
出演: 5月2日 あみ、今野勝晴
5月3日 原れい子、江口純子
5月4日 小林美恵子、江口純子
5月5日 山添恵子、大美賀彰代
5月6日 MIKAKO、日野敦子
時間:第1回公演/11:00~、第2回公演14:00~
会場:日本シャンソン館2Fシャンソニエ「ヴェルメイユ」
料金:入館料 大人1,000円、小人(中学生以下)500円
ライヴ料 500円
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◆野外ライヴ◆ (入館料のみでお聴きいただけます。)
出演: 5月4・5日 フレンチカフェ(Keiko&美鶴)
時間:第1回公演/12:00~、第2回公演15:00~
会場:日本シャンソン館中庭 「ル・ジャルダン」
料金:入館料 大人1,000円、小人(中学生以下)500円

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2019年5月3日(金)
原れい子
バースデイ・ライヴ
ピアノ:江口純子
時間:第1回公演/11:00~、第2回公演14:00~
会場:日本シャンソン館2Fシャンソニエ「ヴェルメイユ」
料金:入館料 大人1,000円、小人(中学生以下)500円
ライヴ料 500円
どなたでもお聴きいただけます。どうぞお出かけください♪

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2019年5月26日(日)
日本シャンソン館
新春シャンソン
のど自慢 vol.22
参加者募集中
ご案内:日本シャンソン館館長 羽鳥功二
ピアノ:大美賀彰代
司会:飯塚裕美
時間:14:00開演
参加費:一般4,000円/友の会会員価格3,000円
会場:日本シャンソン館2F シャンソニエ「ヴェルメイユ」
主催:日本シャンソン館
★どなたでもご参加いただけます。
★歌唱曲はシャンソンに限らせていただきます。
★楽譜をご持参ください(お一人一曲)。
★当日の午前中に譜面合わせを行います。
★最後まで思う存分歌って頂けます。
観覧料:入館料(1,000円)のみでお聴きいただけます♪

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2019年7月6日(土)・7日(日)
第57回 パリ祭
時間:16時15分開場 17時00分開演
会場:NHKホール
主催:パリ祭実行委員会、一般社団法人 日本シャンソン協会
後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本、
公益財団法人 日仏会館

チケットは好評発売中です♪
※日本シャンソン館ではS席のみ取り扱っております。A席、B席をご希望の方はチラシに記載されているチケットのお申込み先にお願い致します。

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2019年5月25日(土)
第3回
村上リサコンサート
~苦しみを乗り越えて~

出演:村上リサ、中上香代子(ピアノ)
【午前の部】開場;10:30 開演:11:00
【午後の部】開場;14:30 開演:15:00
会場:日本シャンソン館2Fシャンソニエ「ヴェルメイユ」
料金:3,500円(入館料込み)
主催:Office Risa


南米ブエノスアイレスへ-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

南米ブエノスアイレスへ-1

 日本からいちばん遠い国、ちょうど地球儀の裏側にあるアルゼンチンは、日本と逆の気候だから、四月といえば秋たけなわである。飛行機は途中ベネズエラのカラカスとパラグアイの首都アスンシオンで給油すると、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスには夜中の二時ごろ到着した。深夜のブエノスアイレス空港に着いたとき、日立製作所の稲塚保氏が出迎えてくださった。初めての外国で西も東もわからない私は、稲塚氏の指示に従ってホテルに直行し、すぐにもシャワーを浴びて寝ようとしたが、どうしたことかお湯が出ない。言葉もよく通じないし夜も更けていたので、その日は諦めてベッドに直行した。
翌朝、フロントの人と英語で交渉したら、あの部屋は工事中でお湯が出ないとのこと、少々腹が立ったので、すぐ別のホテルを紹介してもらって移ることにした。今度のホテルは新しいし、もちろんお湯が出ることを確かめて荷物を運び、オデオン・レコードに吹き込みの打ち合わせに出かけて、夜の食事を終わってから帰り、さて寝ようとするとどうも臭いのである。部屋全体が臭くてちょっと寝つかれそうもないので、さっそく支配人を呼んで交渉した。臭くない部屋に替わりたかったのである。
ところが、こういう返事が返ってきた。「新しいホテルなので消毒した。どの部屋も同じ条件である」というのである。そういえば、終戦後によくお世話になった、あのDDTという殺虫剤の臭いによく似ていた。仕事を明日に控えて、特別神経質になっていた私は、咽喉が心配であった。夜も十時を過ぎていたが、私は理由を話してさらにホテルを替わることにした。
「明日は大事なレコード吹き込みです。ぜひ最高のホテルを探してください。私はぐつすり眠りたい」 と嘆願した。


幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

初めてのアメリカ-4

ニューヨークでのエキサイティングな一週間は、猪熊ご夫妻のおかげで忘れ得ぬ思い出をいくつも残してくれた。作家の有吉佐和子さんと二人でペリー・コモのショーを見たり、ペギー・リーのレブロン・ショーをテレビのスタジオで見せてもらったりしたのも、猪熊ご夫妻のご配慮によるものだった。なかなか手には入らないメトロポリタン・オペラのチケットを買っておいて、ニューヨ-クでの思い出にと『マダム・バタフライ』の舞台を見せてくださった心温まるご親切は、忘れられない。主役はレナータ・テパルディ(マリア・カラスと双壁のプリマドンナ)で、レコードでしか聴いたことのない彼女のソプラノを実際に聴けると思うと胸が躍った。しかし、あまりに大柄な蝶々夫人が着物をまとって舞台に現れたときは、思わず苦笑してしまったが、肉声で、あのやわらかい、しかも芯のある声を実際に聴けたことはほんとうに嗜しかった。どんなに感謝しても感謝しきれない思いである。
ニューヨークからブエノスアイレスまでは、パン・アメリカンが昭和三十五年から初めて運航することになったジェット旅客機で飛ぶことになり、空港まで見送りに来られた猪熊ご夫妻に深くご礼を申し上げると、もう私の心は初めて見る南半球の国を想像して胸がときめくのであった。


初めてのアメリカ-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

初めてのアメリカ-3

私はフォスター歌曲集のなかから、お客様のリクエストに応えて歌い、大成功であった。このときのことを思い出すと、懐かしさと楽しさで八馬氏と私は大笑いする。なにしろ照明係は猪熊先生、マネージャーは棟方の巴里ちゃん、猪熊夫人が案内係という、まるで旅まわりの興行みたいだった。今にして思えばあれでよく金がもらえたものだと赤面している。巴里爾さんは鎌倉にお住まいで、演劇活動のかたわら棟方版画の鑑定という重要な役目を果たしておられたが、平成10年(1998)5月13日、私のパリ滞在中に亡くなられた。懐かしい友人をまた一人亡くしてしまった。
猪熊先生は、残念ながら文子夫人に先立たれたが、意外なほど明るくご立派に仕事を続けておられたのに、平成5年(1993)5月16日、腹痛を訴えてまもなく眠るように天国に召された。ミキモト画廊での最後の個展に伺ったとき、「私の描く顔がみんな家内の顔に似てきてね。ほら、あれも、これも」といって説明してくださったが、あの優しい素晴らしい奥様のもとへ、こんなにすぐに行かれるとは思ってもみなかった。
5月19日、目黒の行八坂教会で密葬が行われたが、まだどなたも見えない午前中に私は一人で先生の枢の前で賛美歌320番を歌った。聖堂にこだまして響く私の声と自分白身で弾くオルガンの響き、白いカーネーションを一本捧げて、一対一でお別れをしてきた。その日の午後は6月10日の私の40周年記念コンサートのリハーサルがあり、また、その当日には先生の本葬儀が青山斎場で行われるのだが、それには参列できないので、こんなふうに教会で一対一の会話を神様が与えてくださったのだと解釈して、感謝している。


初めてのアメリカ-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

初めてのアメリカ-2

 真夜中である。何時ごろだったかわからない。ふと目をあけると、目の前に大入道のような大男が現れた。ピストルのようなシルエットも見え、小さな電灯でこちらの様子をうかがっているではないか。決して夢ではない。胸は早鐘のように高嶋ったが、声は出なかった。だれかを呼んでも聞こえるはずもない。じつとしているより仕方がないと思って観念した。だが次の瞬間、男はなにかを枕元に置いて黙って立ち去った。ドアが完全に閉まるのを見てすぐに明かりをつけると、一枚の紙片が置いてあった。「あなたは二枚目のドアに鍵をかけていませんでした。今後ご注意ください。警備員」と書いてあった。先日、廊下で起きた事件以来、このホテルは警備を強化したということを翌朝初めて聞いた。
猪能先生は私のために一人の青年を紹介してくれた。ニューヨーク滞在中、出歩くときの相棒にしなきいと言ってくださった。名前は棟方巴里爾さん。ニューヨークの演劇学校に通っている、目の丸い人なつこい青年だった。世界に名の通っている、有名な棟方志功画伯のご長男だったが、気前がよくて外国人に志功の版画をチップ代わりにあげたりするのでヒヤヒヤしていた。私と気持ちがピッタリ合う青年で、グリニッジ・ヴィレッジや、ハーレムの入口あたりまで二人で冒険したりして楽しい思い出がいっぱいある。
ニューヨーク滞在中、猪熊氏ご夫妻のお取り計らいによって、私は二回小さなコンサートを開いた。アジア人留学生のためのチャリティが目的であった。伴奏は八馬啓さんのギターだっ
た。彼は関西財閥の八馬家の次男坊で、日本に帰ってから宝塚スターと結婚し、青年実業家として活躍しておられる。

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3月ライヴスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。
日 時
開演時間 出 演
3月30日(土) 11時~/14時~ 小林美恵子     ピアノ:江口純子
3月31日(日) 11時~/14時~ 山添恵子       ピアノ:日野敦子

4月ライヴスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。
日 時
開演時間 出 演
4月6日(土) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:日野香織
4月7日(日) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:江口純子
4月13日(土) 11時~/14時~ あみ         ピアノ:未定
4月14日(日) 11時~/14時~ MIKAKO       ピアノ:大美賀彰代
4月20日(土)  11時~/14時~ 小林美恵子    ピアノ:安藤伸彦
4月21日(日) 11時~/14時~ 岩崎桃子      ピアノ:松川裕
4月27日(土) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:中野宏美
4月28日(日) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:大美賀彰代
4月29日(月) 11時~/14時~ 小林美恵子     ピアノ:日野敦子

2019年4月7日(日)
山添恵子
バースデイ・ライヴ ピアノ:江口純子
時間:第1回公演/11:00~、第2回公演14:00~
会場:日本シャンソン館2Fシャンソニエ「ヴェルメイユ」
料金:入館料 大人1,000円、小人(中学生以下)500円
ライヴ料 500円

どなたでもお聴きいただけます。どうぞお出かけください♪

 

 


初めてのアメリカー1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

初めてのアメリカー1

 昭和35年(1960)3月末、世界旅行に旅立つ。初めてのアメリカ行きは胸が躍った。
ハワイのホテルに滞在したときは、プロレスラーの遠藤幸吉氏のエスコートで珍しいレストランで食事をし、ダイヤモンドヘッドへのドライヴは日本人学校校長の小林虎男氏の車を使わせてもらった。ロサンゼルスでは、凸版印刷の山田社長から差し向けられた車でビバリーヒルズ、ハリウッドの見学もしたが、観光と食べ歩きより、私の心はまだ見ぬニューヨークへ飛んでいた。
ニューヨークの空港では、デビュー以来お世話になっている画家の猪熊弦一郎氏ご夫妻が出迎えてくださった。ご夫妻は当時、町の静かな住宅街に女優M・ディートリヒの部屋と向かいあったところにアトリエを持って活躍されておられた。
ニューヨークでの一週間はすべてご夫妻の組んだスケジュールに従ったのである。まずホテルへ向かう車の中で、ニューヨークがどんなに恐ろしいところかを教わった。ペンシルヴァニ駅の近くにあるスタトラ・ヒルトン・ホテルに泊まることになっていたが、このホテルで一時間ほど前に日本人商社員が強盗にあったことを話された。廊下を歩いているとき、とつぜんストルを突きつけられて現金を奪われたということである。それからグリニッジ・ヴィレッジでは殺人事件があり、ハーレムでの誘拐事件では日本の商社が金を積んで社員を取り戻したという。
その夜遅くまで私のためのパーティーを開いてくださったあと、ご夫妻は「夜の一人歩きはいけません」とわざわざホテルの入口まで送ってくださった。とにかく恐ろしいところだから、絶対に一人で出歩かないこと、そう念を押されてホテルに帰り、先日この廊下で物騒な事件があったのだと確かめながら自分の部屋に入った。なるほど廊下は人影もなく静寂そのもので、ここでなにが起きても不思議ではないなと思いながら部屋のドアを開けた。ところが、その中にもう一枚の鉄のドアがある。つまり部屋に入るには、二度ドアを開けなければならないわけである。大都会の中の森の中に入ったような気持ちになり、私は初日の疲れがどっと出てぐっすり寝込んでしまった。


幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

念願の世界旅行-2

(注)
日立コンサートは服部良一ひきいる四〇人編成 のオーケストラをバックに、クラシックから日本 民謡まで世界のあらゆるジャンルの歌を楽しんで いただくもの。全国各地で開催。芦野宏は服部先 生に芸大卒業前から師事しており、このコンサー
トに真っ先の指名を受けた。ラジオの『シャンソ ン・アワー』『きらめくリズム』ほか、テレビで『花の星座』『歌の花びら』『歌のパラダイス』など多数の番組、労音・音協ほか全国各地のリサイタル、の過密スケジュールをぬって、ほぼ一〇年続く。なお、ファッションショー、日航PRキャラバンなど世界一周の帰国リサイタルは昭和三十五年九月に開催。
多彩なジャンルの歌のコンサートだけに、共演する歌手も多士済々、パリ祭などのコンサートとは違う趣だった。服部良一にはほかのコンサートやミュージカル、オリジナルの作曲もしてもらい、門下生で集う「釜めし会」など、芦野は晩年までお付き合いした。先生は平成五年に逝去(八五歳)された。

ところで不思議なことに、東芝レコード (東芝音工) の親会社も電機メーカーで同じような庭電器を扱っており、私だけがレコードは東芝でスポンサーは日立ということであった。高成長へと向かいはじめるころ、まだ少しおおらかな時代だったのだろうか。
(注)
当時のある新聞は「この夢のような三か月の世界漫遊は、乗り物、ホテルなどすべて一等、Aクラスという超豪華版。スケジュールと規模はまさに米国の富豪並みLと伝えた。


3月ライヴスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。
日 時
開演時間 出 演
3月16日(土)  11時~/14時~ 小林美恵子    ピアノ:大美賀彰代
3月17日(日) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:日野香織
3月21日(木) 11時~/14時~  原れい子      ピアノ:大美賀彰代
3月23日(土) 11時~/14時~ MIKAKO       ピアノ:大美賀彰代
3月24日(日) 14時~ 日本シャンソン館 のど自慢 vol.21
3月30日(土) 11時~/14時~ 小林美恵子     ピアノ:江口純子
3月31日(日) 11時~/14時~ 山添恵子       ピアノ:日野敦子

日本シャンソン館
4月ライヴスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。
日 時
開演時間 出 演
4月6日(土) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:日野香織
4月7日(日) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:江口純子
4月13日(土) 11時~/14時~ あみ         ピアノ:未定
4月14日(日) 11時~/14時~ MIKAKO       ピアノ:大美賀彰代
4月20日(土)  11時~/14時~ 小林美恵子    ピアノ:安藤伸彦
4月21日(日) 11時~/14時~ 岩崎桃子      ピアノ:松川裕
4月27日(土) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:中野宏美
4月28日(日) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:大美賀彰代
4月29日(月) 11時~/14時~ 小林美恵子     ピアノ:日野敦子

2019年4月7日(日)
山添恵子
バースデイ・ライヴ ピアノ:江口純子
時間:第1回公演/11:00~、第2回公演14:00~
会場:日本シャンソン館2Fシャンソニエ「ヴェルメイユ」
料金:入館料 大人1,000円、小人(中学生以下)500円
ライヴ料 500円

どなたでもお聴きいただけます。どうぞお出かけください♪

2019年3月24日(日)
日本シャンソン館
新春シャンソン
のど自慢 vol.21
参加者募集中
ご案内:日本シャンソン館館長 羽鳥功二
ピアノ:大美賀彰代
司会:飯塚裕美
時間:14:00開演
参加費:一般4,000円/友の会会員価格3,000円
会場:日本シャンソン館2F シャンソニエ「ヴェルメイユ」
主催:日本シャンソン館
★どなたでもご参加いただけます。
★歌唱曲はシャンソンに限らせていただきます。
★楽譜をご持参ください(お一人一曲)。
★当日の午前中に譜面合わせを行います。
★最後まで思う存分歌って頂けます。
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念願の世界旅行-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

4、世界一周と海外録音

念願の世界旅行-1

 ここ数年、目を追って仕事のほうはますます忙しくなり、一年三六五日のうち二五〇回以上のステージをこなしていた。こんなに忙しくては結婚もできないと母は嘆き、私もこのへんでもう一度外国旅行をして、頭を冷やしたいと思うようになっていた。東芝レコードの石坂範一郎氏に話すと、パリとブエノスアイレスでのレコーディングなど、素晴らしいアイデアをくださったので、たまたま日立コンサートの味岡果さんにも話してみたところ、日立製作所がスポンサーになって世界一周旅行の航空券を提供していただけることになり、話がうまく進んでトントン拍子に私の二度目の外遊が実現した。
世界一周といっても、ハワイを振り出しにアメリカをまわり、南米アルゼンチンで念願のタンゴを本場の楽団と一緒にレコーディングし、さらに大西洋を北へ上ってフランスへ直行し、パリのレコード会社で吹き込みをする計画である。東芝レコードの石坂範一郎氏はわがことのように喜んで、全面的にバックアップしてくださった。この昭和三十五年(一九六〇)、海外
でのレコーディングはポピュラー歌手としては、わが国でもパイオニアのほうだと思う。
旅行の費用は日立がファーストクラスの世界一周航空券と宿泊を保障してくれた。それは私が五六年から始まった日立コンサートのレギュラー歌手として活躍していたからである。日立日立コンサートで歌う(1956頃)の家庭電化製品は、当時「三種の神器」といわれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫などの売り上げが急上昇しているころで、宣伝費の一部を日立コあてており、服部良一先生と私がレギュラーとして契約していたのである。帰国してから、東京宝塚劇場を昼夜借り切って、『芦野宏・世界一周コンサート』として日立製品愛用者招待会を計画し、また地方公演も約束させられていた。

3月ライヴスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。
日 時
開演時間 出 演
3月9日(土) 11時~/14時~ あみ         ピアノ:今野勝晴
3月10日(日) 11時~/14時~ 岩崎桃子      ピアノ:安藤伸彦
3月16日(土)  11時~/14時~ 小林美恵子    ピアノ:大美賀彰代
3月17日(日) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:日野香織
3月21日(木) 11時~/14時~  原れい子      ピアノ:大美賀彰代
3月23日(土) 11時~/14時~ MIKAKO       ピアノ:大美賀彰代
3月24日(日) 14時~ 日本シャンソン館 のど自慢 vol.21
3月30日(土) 11時~/14時~ 小林美恵子     ピアノ:江口純子
3月31日(日) 11時~/14時~ 山添恵子       ピアノ:日野敦子

日本シャンソン館
4月ライヴスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。
日 時
開演時間 出 演
4月6日(土) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:日野香織
4月7日(日) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:江口純子
4月13日(土) 11時~/14時~ あみ         ピアノ:未定
4月14日(日) 11時~/14時~ MIKAKO       ピアノ:大美賀彰代
4月20日(土)  11時~/14時~ 小林美恵子    ピアノ:安藤伸彦
4月21日(日) 11時~/14時~ 岩崎桃子      ピアノ:松川裕
4月27日(土) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:中野宏美
4月28日(日) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:大美賀彰代
4月29日(月) 11時~/14時~ 小林美恵子     ピアノ:日野敦子

2019年4月7日(日)
山添恵子
バースデイ・ライヴ ピアノ:江口純子
時間:第1回公演/11:00~、第2回公演14:00~
会場:日本シャンソン館2Fシャンソニエ「ヴェルメイユ」
料金:入館料 大人1,000円、小人(中学生以下)500円
ライヴ料 500円

どなたでもお聴きいただけます。どうぞお出かけください♪

2019年3月24日(日)
日本シャンソン館
新春シャンソン
のど自慢 vol.21
参加者募集中
ご案内:日本シャンソン館館長 羽鳥功二
ピアノ:大美賀彰代
司会:飯塚裕美
時間:14:00開演
参加費:一般4,000円/友の会会員価格3,000円
会場:日本シャンソン館2F シャンソニエ「ヴェルメイユ」
主催:日本シャンソン館
★どなたでもご参加いただけます。
★歌唱曲はシャンソンに限らせていただきます。
★楽譜をご持参ください(お一人一曲)。
★当日の午前中に譜面合わせを行います。
★最後まで思う存分歌って頂けます。
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ジローとの再会ー6

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

ジローとの再会-6

 昭和二十三年の暮れに、自主リサイタルとして三度目の連続リサイタル『クリスマス・リサイタル(山菜ホール、イヴまでの一週間)開催。第一部「プチ・パパ・ノエル」ほかフランスのクリスマス・ソング、第二部「パパと踊ろうよ」などの新しいシャンソン、第三部「さくらんぼの実る頃」ほか古いシャンソン、それぞれ五曲ずつという構成。各部の間にアンサンブル・ミュゼット(浜中外代治、稲葉脚光、岡田博、神谷正行) の演奏をワンステージ設けた。

昭和三十四年十一月、芸術祭参加『秋のリサイタル』が催される(産経新聞評)
「芦野宏が『日本のうた』と『パリのうた』 の会を五日 (六H芸術祭参加公演)夜、産経ホールで開いた。会場は静かなシャンソン・ファンで満員。最後のアンコールが終わるまで、ひとりも席を立つものがなかった気持ちのいい催しだった。総体にゆったりとした歌いぶりで、音程もしっかりしており、東京混声合唱団や、東京メール・クワルテットを効果的に使い、視覚に変化を持たせるなど、演出に力を入れて頭脳的なプレーをみせ、ラストまで客をひきつけるうまさは、さすがにシャンソン界第一の実
力者とはいえそうだ。
浜辺の歌や椰子の実などの日本の歌曲から馬子唄、佐渡おけさなどの民謡も、よく計算した結果がており、コーラスのアンサンブルに助けられて、いわゆる芦野調を十分生かしている点、聞きごたえのあるものだった。平岡精二クインテットと共演し、語りの要素を生かした(ある青年のノートから)は、しっとりとした味わいがあり、間のとりかたもよ〈、後半の 「パリのうた」の数々とともに素直に客をムードへ引き込んでいくうまさがあった」(演出・葦原邦子)
このリサイタルの模様は十二月八日に日本テレビから放映された。その反響として、読売新聞十二月十四日『放送塔』を引用する。
「……日本のシャンソン界にも、これだけのレパートリーを持つ歌手がいるとは思わなかった。二時間という長時間、ともかくワンマン・ショーとしてあきさせないようにするには、どんなにむずかしいことか。適当なユーモアと仕草。先日好評だった『ペリー・コモ・ショー』と優に対抗できるのではあるまいか」

3月ライヴスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。
日 時
開演時間 出 演
3月2日(土) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:大美賀彰代
3月3日(日) 11時~/14時~ 唯文         ピアノ:大美賀彰代
3月9日(土) 11時~/14時~ あみ         ピアノ:今野勝晴
3月10日(日) 11時~/14時~ 岩崎桃子      ピアノ:安藤伸彦
3月16日(土)  11時~/14時~ 小林美恵子    ピアノ:大美賀彰代
3月17日(日) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:日野香織
3月21日(木) 11時~/14時~  原れい子      ピアノ:大美賀彰代
3月23日(土) 11時~/14時~ MIKAKO       ピアノ:大美賀彰代
3月24日(日) 14時~ 日本シャンソン館 のど自慢 vol.21
3月30日(土) 11時~/14時~ 小林美恵子     ピアノ:江口純子
3月31日(日) 11時~/14時~ 山添恵子       ピアノ:日野敦子

4月ライヴスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。
日 時
開演時間 出 演
4月6日(土) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:日野香織
4月7日(日) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:江口純子
4月13日(土) 11時~/14時~ あみ         ピアノ:未定
4月14日(日) 11時~/14時~ MIKAKO       ピアノ:大美賀彰代
4月20日(土)  11時~/14時~ 小林美恵子    ピアノ:安藤伸彦
4月21日(日) 11時~/14時~ 岩崎桃子      ピアノ:松川裕
4月27日(土) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:中野宏美
4月28日(日) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:大美賀彰代
4月29日(月) 11時~/14時~ 小林美恵子     ピアノ:日野敦子

2019年4月7日(日)
山添恵子
バースデイ・ライヴ ピアノ:江口純子
時間:第1回公演/11:00~、第2回公演14:00~
会場:日本シャンソン館2Fシャンソニエ「ヴェルメイユ」
料金:入館料 大人1,000円、小人(中学生以下)500円
ライヴ料 500円

どなたでもお聴きいただけます。どうぞお出かけください♪

2019年3月24日(日)
日本シャンソン館
新春シャンソン
のど自慢 vol.21
参加者募集中
ご案内:日本シャンソン館館長 羽鳥功二
ピアノ:大美賀彰代
司会:飯塚裕美
時間:14:00開演
参加費:一般4,000円/友の会会員価格3,000円
会場:日本シャンソン館2F シャンソニエ「ヴェルメイユ」
主催:日本シャンソン館
★どなたでもご参加いただけます。
★歌唱曲はシャンソンに限らせていただきます。
★楽譜をご持参ください(お一人一曲)。
★当日の午前中に譜面合わせを行います。
★最後まで思う存分歌って頂けます。
————————————————-
観覧料:入館料(1,000円)のみでお聴きいただけます♪


ジローとの再会-5

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

ジローとの再会-5

 東京労音運動史年表には、昭和三十三年「ポピュラー例会のテストケースとして、芦野宏シャンソン・リサイタル(特別例会)を日本青で大成功」とある。当時、労音の運営委員であった土橋政昭さんの感想を以下に引用する。
東京労音「芦野宏シャンソン・リサイタル」「労音が初めて企画したシャンソンの特別例会構成・薩摩忠、昭和三十三年六月)を聴いて『芦野宏シャンソン・リサイタル』は、近頃ほんとに心愉しい例会であった。
第一部、芦野氏の機知あふれるプロローグに続いて歌う(パリのうた)六曲は、シャルル・トレネの歌を中心にした明るい健康さと近代性をもったシャンソンの一面をのびのびと歌ってくれた。(日本のうた)では「プンプンポルカ」がやはり手馴れてうまい。第二部に入って (楽しいうた) はほとんど聴きなれた歌ばかりだが、「小さな汽車」が牧歌的な詩情をたたえて美しい。「風船売り」「ボンボン・キャラメル」の芦野氏は聴衆へのサービスで精一杯というところだが、風船やキャラメルをあげる場合、もう一工夫あってもよかったのではないか。でも聴衆はいちばん喜んでいたようだ。(好きなうた)では「小雨降る径」「メケ・メケ」が素直な感情がよく出ていたように感じた。アンコールで弾き語った「小さなひなげしのように」は照明もはえて劇的な雰囲気が素晴らしかった。
全体的に芦野氏の歌い方は、いかにも歌が好きで愉しんでるんだという感じで、その平凡だが品のいい明るい雰囲気は貴重なパーソナリティだと思う。シャルル・トレネがトウール・ド・シャン《歌の芸》を持った偉大な歌手であるように、芦野氏も今後十分に自己のパーソナリティを生かされんことを望む。音楽を通じて人間の心を豊かにし、結びつけてゆくのが労音の使命のひとつであるとすれば、こういう愉しめる特別例会を多く持つということは今後も大いに期待できるのではないか。会場の雰岡気とマッチして、バンドマスターの浜中外代治氏(アンサンブル・ミュゼット)の伴奏は、会場の女性陣になかなか好評であった。以後の例会が楽しみである」——–

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2月ライヴスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。

日 時
開演時間 出 演
2月17日(日) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:江口純子
2月23日(土) 11時~/14時~ 藍澤幸頼/瀧本真己 ピアノ:近藤正春
2月24日(日) 11時~/14時~ あみ         ピアノ:今野勝晴

詳細については再上部の「日本シャンソン館のご案内」をご覧ください。

 


ジローとの再会-4

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

ジローとの再会-4

 ところで、昭和三十二年に入ってからはしだいにテレビの仕事が多くなり、日立のスボンサーで日本テレビ制作のミュージカル仕立て連続もの 『東京ロメオ』(脚本・野上彰/音楽・服部良一、共演・中原美紗緒)の主役をすることになった。この模様はパリ祭の夜から毎日曜日の夜、三か月にわたって放映された。挿入歌に「東京の空の下隅田は流れる」などがある。地方公演が多いころで、早朝の一番機で羽田空港に着いてから、すぐにスタジオ入りし、収録後にまた九州へ飛び立つという殺人的スケジュールも平気でやってのけた。
昭和三十三年六月には、東京労音(昭和二十八年発足)がポピュラー例会を始めたので私はまたまた忙しくなった。
(注)
束京労許の前年、二度目の自主連続リサイタルは、昭和二十二年の四月中旬にパリ帰りの成果を披露するべ〈一週間の日程で開催。「観客席は若い女性が圧倒的に多い」(束京新聞)。トリオ・ヴォランのコーラスをバックにイヴェツト・ジローからのプレゼント曲「パリは花束」に始まり、スウインギーなものから、しみじみとしたもの、コミカルなもの、日仏の新曲も取り入れた。後半は「ミラボー橋」などの弾き語りで始め、歌い込んだ「ケベックの街にて」「リオの春」「ラ・メール」などシャルル・トレネ作品を主にした。
「銀座で都合五千人のファンを集めようというのだから、シャンソンもポピュラーになったものだ。……邦人作品集を聞いていると、まだまだ日本語で書かれた曲を歌いあげるという力に乏しい。・・・弾き語りで・・・趣向は悪くなかったが、話がスムーズに流れないので間のびしてしまい‥…・」(報知新聞)。
他方、「パリへ行く前の彼とはガラリと変わって心で歌おうと努力しているのがよみとれた。これは彼の進歩だ。
パリのすぐれたシャンソン歌手の歌をじかに聞くことにより、彼は客観的に自分の歌をふリかえってみたからだろう」(読売新聞)という評も。ピアノ・秋満義孝、ギター・鈴木康允、ベース・浅原哲夫。

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日本シャンソン館最新情報
2月ライヴスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。

日 時
開演時間 出 演
2月10日(日) 11時~/14時~ MIKAKO       ピアノ:日野敦子
2月11日(月)  11時~/14時~ 岩崎桃子     ピアノ:松川裕
2月16日(土)  11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:安藤伸彦
2月17日(日) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:江口純子
2月23日(土) 11時~/14時~ 藍澤幸頼/瀧本真己 ピアノ:近藤正春
2月24日(日) 11時~/14時~ あみ         ピアノ:今野勝晴

詳細については再上部の「日本シャンソン館のご案内」をご覧ください。


ジローとの再会ー3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

ジローとの再会-3

昭和三十一年十二月、パリからの帰途、カルカッタで以前から約束されていたコンサートを開いた。映画館を借り切ってのワンマンショーであった。私のショーの前に第一部として、インドの民族音楽、シタールの演奏と民族舞踊が行われ、私は無理やり客席中央に座らされて鑑賞させられた。正直いって退屈だった。同じフレーズのメロディーが何度も何度も繰り返されるし、踊りもみな同じように思えたが、隣の席に寄り添う主催者側の方は、真剣に英語で説明する。この国の人たちは、自分たちが世界一の歴史をもつ世界一すぐれた民族であると、心から思っているのだ。
第二部の 「芦野宏ワンマンショー」では、まだ駆け出しの歌手でレパートリーも少なかったから、デビュー前からのおはこも入れて世界歌めぐりとした。シャンソンは四曲くらいにし、イギリス、ドイツ、スペイン、アメリカ、日本の歌というプログラムであった
が、学校時代に習っていたドイツ語がこんなところで役に立ってくれた。
ペコーとはなぜか心の波長が合って、彼が日本へ来たときも、また私がそれから四年たってパリでレコード吹き込みのために
行ったときも、特別な好意をもって付き合ってくれた。ダイナミックでエネルギッシュな歌い方で 「ムッシュ十万ボルト」と愛称されるジルベール・ペコーの曲は、私には似合わないと思って最初は敬遠していた向きがあった。のちにNHKのテレビ番組『くらしの窓』で週に三日、
一日二、三曲ずつシャンソンを歌うようになったとき、ペコーの曲のリクエストが多く、「白い舟」「居ない人」「もしもお金
があったら」「私の仲間たち」「ふるさとへ帰ったら」など、私は訳詞のなかにし礼さんと組んで、どんどん新曲に取り組んでいって好評を得た。大晦日のNHK『紅白歌合戦』では、昭和三十二年に「メケ・メケ」を歌い、三十三年には「風船売り」を歌ってジルベール・ペコ一にメッセージを送った。

日本シャンソン館最新情報
2月ライヴスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。

日 時
開演時間 出 演
2月2日(土) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:日野香織
2月3日(日) 11時~/14時~ 小林美恵子     ピアノ:大美賀彰代
2月9日(土) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:日野香織
2月10日(日) 11時~/14時~ MIKAKO       ピアノ:日野敦子
2月11日(月)  11時~/14時~ 岩崎桃子     ピアノ:松川裕
2月16日(土)  11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:安藤伸彦
2月17日(日) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:江口純子
2月23日(土) 11時~/14時~ 藍澤幸頼/瀧本真己 ピアノ:近藤正春
2月24日(日) 11時~/14時~ あみ         ピアノ:今野勝晴

詳細については再上部の「日本シャンソン館のご案内」をご覧ください。

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ジローとの再会-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

ジローとの再会-2

ジローは心から優しく、善意の人である。その後、何回も日本を訪れ、日本で同じステージに上ったこともしばしばである。じつは、四二年前のそのとき、ジローが私たちにプレゼントレてくれたものがある。「パリは花束」という歌である。「私はこれをアシノを通して日本の皆さんにお贈りしたい。アシノはこれを日本語で歌ってくれるでしょう。そして私は次の機会に、フランス語で皆さんにお聞かせしましょう」というメッセージとともに。

「パリは花束」
詞 薩摩 忠
曲 マルク・エイラル
ブーケ・ドゥ・パリ
パリの街は 夢ひらく並木道に
いつもマロニエ散り
ひかり満ちる 花のモンスーリ
緑のプラタナス 鳩のすむノートルダム
鈴蘭の花の香り
幸を飾る花よ
行きずりの人の胸に
リラの門に

パリ滞在も終わりに近い11月末の寒い日曜日の午後だった。私はマルセル・カルネの愛弟子として有名だった俳優のローラン・ルザッフル、谷洋子ご夫妻に連れられて、ジルベール・ペコーの家を訪れた。午後三時の約束なのにペコーはまだ寝ていて、寝間着の上にガウンをはおってわれわれの前に現れたのである。
彼は朝のコーヒーを、われわれは午後のコーヒーを口にしながら、私はペコーの前で彼作曲の「メケ・メケ」と「風船売り」を歌った。すると、すかさず彼は立ち上がって私を抱き、ぜひ12月のオランピアに一緒に出てほしい。そして、私のオーケストラを提供しようと言う。
私も飛び上がって喜んだが、よく考えてみると、二月にインドのカルカッタで行われる私のコンサートに差し支えて、約束できないことがわかった。
しかし、そのときペコーの瞳の中に真剣な輝きを見たような気がしたのは、私の思いすごしだろうか。私がインドでの約束を大切にしたいと言ったとき、彼は「私にも東洋の血が入っている。残念だが、わかった」と言って大きな手で握手を求めてくれた。ペコ一には本当にインド人の血が流れているんだと、帰りの車の中でローランからも聞いたとき、彼の風貌にインド的なものを思い起こして納得した。
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日 時
開演時間 出 演
2月2日(土) 11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:日野香織
2月3日(日) 11時~/14時~ 小林美恵子     ピアノ:大美賀彰代
2月9日(土) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:日野香織
2月10日(日) 11時~/14時~ MIKAKO       ピアノ:日野敦子
2月11日(月)  11時~/14時~ 岩崎桃子     ピアノ:松川裕
2月16日(土)  11時~/14時~ 山添恵子      ピアノ:安藤伸彦
2月17日(日) 11時~/14時~ 原れい子      ピアノ:江口純子
2月23日(土) 11時~/14時~ 藍澤幸頼/瀧本真己 ピアノ:近藤正春
2月24日(日) 11時~/14時~ あみ         ピアノ:今野勝晴

詳細については再上部の「日本シャンソン館のご案内」をご覧ください。

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ジローとの再会-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

ジローとの再会-1

昭和三十年(一九五五)、イヴェット・ジローが初来日されて、日本でお会いしたとき、パリへ来たらぜひ電話をくださいと言われていた。昭和三十一年十一月二十七日にジローが私の泊まっていたホテル・ナポレオンに現れて、「さあアシノさん、あなたの食べたいものをご馳走しましょう」と言ってくれた。ほとんど二か月近く日本料理を食べていないし、そのころは初めてのパリで日本料理屋といえば「ぼたんや」のスキヤキ以外はなかったから、ふと思いつきで魚の塩焼きなんてありますかと尋ねてみた。まだ東京で一度お会いしただけの仲なのに、そんなわがままを言ってしまったのは、きっとよほど日本風のあっさりしたものに飢えていたからだろう。
ご主人のマルク・エランの運転する最新型の車に乗せられて、私はワグラム通りにあるプルニエ(魚料理店)に案内された。昼の食事はフランス人は時間をかけてたっぶり食べる。われわれは生牡蠣(なまがき)にレモンをかけて白ワインをあけた。ジローの声は、優しくて温かい。むかし電話の交換手をしていたころ、その声が気に入られてレコード歌手になったと、なにかの本に書いてあったが、まさに美しい喋り声である。そして、それがそのまま歌につながる、理想的な自然発声でシャンソン歌手として成功した人だと思う。
彼女は優しく、しかしちょっと困った表情で私に言った。「シェフに相談したら、塩焼きの魚はしたことがない。でも、やってみましょう」ということであった。さて、大きな皿に飾られて現れた舌びらめの塩焼きは、案の定、上出来ではなかった。フラン料理独特のムニエルにすればよかったと後悔したが、あとの祭りだった。舌びらめの身にこげ目がついたまま…崩れ、パセリとレモンを添えてあったけれど、決して上等の料理とはいえなかった。それでも私は、油っこいフランス料理に飽きていたから、さも美味しそうに不出来な魚料理を平らげた。
正直いって日本で食べる魚のほうがずっと美味しかった。


初めてのパリ-5

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-5

五回目の偶然は、つい先ごろ、平成十年五月十八日のことである。五月十五日に、私は滞仏中に「パリ日本文化会館」において1日本シャンソン館」主催のコンサートを終え、十七日の午後、パスカル・スヴランのコンサートに出かけた。スヴランはフランスのテレビ局フランス・ドゥ(アンテンヌ2の後身〉で「シャンス・オー・シャンソン(シャンソンにチャンスを)」
という長寿番組の司会と歌をずっと続けている歌手で、平成二年には私もその番組のなかで歌っている。われわれが思っているのと同じように、ピアフやモンタンの時代に花が咲いた良き時代のシャンソンをもっと人々に愛されるよう努力している人である。ウイークデーの午後四暗から四五分、スヴランの司会でいろいろなシャンソン歌手をゲストに迎えている。楽屋を訪
ねたとき、明日この番組でシャルル・トレネが八十五歳の誕生日を祝って出演するから、ぜひ見てほしいと言われたのだ。
私は十八日の午後四時、ホテルに帰って部屋のテレビの前でトレネと向かい合った。八十五歳とは思えぬ若さであった。相変わらずのファンテジスト(おもしろおかしいしぐさで見せる歌
手)である。お得意の「ブン」を歌って、早口言葉が疲れたといった表情をすると、ソワフ、ソワフ(のどが渇いた)と言って花瓶の水を飲みほすまねをして、司会者やスタジオにいる人たちの度肝をぬく。ちょっと太り気味で身体の動きは以前ほどすばやくはないが、声は十分に出ていた。昔懐かしい男声コーラス、コンパニョン・ドゥ・テ・シャンソンが一緒に出ていた。
当時のメンバーのまま、年齢を重ねて、みんな白髪のいいおじいちゃんになっていたが、「わが若かりし頃」をトレネと一緒に歌って、トレネの誕生日を祝っていた。
シャルル・トレネは私が最初に傾倒し、シャンソンにのめり込むきっかけをくれた人である。
奇しくも私はパリを去る前の日、テレビ番組から元気な八十五歳の彼の健在ぶりをじCくり拝見拝聴することができたのは、不思議な因縁だと思っている。    一


ヒトリデ過ゴスオ正月

 

明けましてお目でとうございます。
本年も日本シャンソン館共々宜しくお願いします。

日本シャンソン協会代表理事・羽鳥功二

ヒトリデ過ゴスオ正月

芦野 宏

ソラカラ
ナニカキコエテクルヨウナ
メデタイ オ正月

松カザリヤ オソナエモ
ミンナ ニギヤカナココロデ
黙ッテイル

オロシタル
キモノデハナイケドモ
ナルベク
シワガヨラナイヨウニ
キチント
襟元ニ気ヲツケテ
誰カヲ待ッテイルンダ
ダアレモ来ナイ オ正月

小鳥ヤ
深海魚ヤ
猫ダケガ
僕ノ応接間ノオ相手サ

ソレニ鳩時計モ
ダンロノ火モ
燃エテイルンダゼ
リリリリリントベルガナル
サット椅子カラ立上ガル
サテコソ待ッテル
オ客サマ

ネコヲ膝カラ「ニャン」ト捨テテ
玄関ノ戸ニ手ヲカケル
「ナーンダ 郵便カ」
ダアレモ来ナイ
ソレデモ僕ハ淋シクナインダ
ダレカガ キット ドコカデ
ボクヲ淋シク待ッテテクレルカモ
シレナイモノネ


初めてのパリ-4

明けましておめでとう+御座います。

本年も宜しくお願いします。

羽鳥 功二

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-4

 春のうららかな日だったので、トレネの作った「リオの春」を歌うことにした。私はフランス語で歌い、歌詞に出てくる〈ブラジル〉を〈日本〉に、〈リオ〉を〈東京〉に置き換えた。これは二コーラスあったので、二番は「シャルル・トレネはこの国で恋の唄を歌う」に替えて歌つた。
歌い終わると、案の定、トレネは大満足して私に握手を求めてきた。私はすかさず一年前に
オランピアのロビーで撮(うつ)したトレネと私の二人の写真を胸ポケットから出して見せた。例の私が沈んだ表情で写っているトレネとの唯一の写真であったが、彼はやっと思い出してくれて私の名前を初めて覚えてくれた。これが二回目の出会いである。
三回目にトレネと会ったのは、昭和三十五年、パテ・マルコニ社のスタジオで私が「ラ・メール」のレコード吹き込みをしたときである。詳しくは、後述の「フランスで初レコーディング」 の項でふれる。
そして四回目は、平成二年九月、私が労音時代から親交のある丹野稔氏のご紹介で就任した「江戸職人国際交流協会」の会長として、南仏の保養都市アメリ・レ・バンに桜の苗木二〇〇〇本を贈呈するため、その町を訪れたときのことである。案内する人が美しい海岸で車を停め、ここがシャルル・トレネが作った1ラ・メール」の海岸です、と教えてくれたことであった。
歌詞のとおり、入り江に囲まれた海辺には葦が茂り、たまたま小雨が降っていたので、まさにあの歌と同じ光景に出合うことができた。
しかも、この海岸はヴエルメイユ海岸といわれ、奇しくもその前々日にパリ市長であったシラク氏から授けられた勲章の名称が「メダル・ドゥ・ヴュルメイユ」という偶然にも重なった。
入り江の向かい側の岬に赤い屋根の建物が見え、トレネがかつて別荘として使っていたものだと聞いたとき、名曲「ラ・メール」の美しいメロディーのなかにトレネの風貌が浮かんできた。


初めてのパリ-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-3

私が咋日、この同じステージに立って歌った自分の「ラ・メール」と、ああこんなにも違うものだろうかと思うとまったく恥じ入った。そして彼がこの歌を終わって客が席を立っても、私はしばらく立ち上がることができないほどショックを受けた。
ひしひしと迫りくる劣等感、戦って完全に敗れた野良犬みたいに、私は街を歩きはじめた。
もう歌をやめたいとさえ思い、心が重かった。私はただトレネのイミテーションにすぎない、ただ彼の歌を上手にまねしている一人の東洋人にすぎないと思うと、足が重く、このままどこまでも歩いて消えてしまいたい気持ちであった。
ショックの大きさを、同行のカメラマン高田よし美さんはわかってくれた。でも、せっかく来たんだから記念に写真をと彼女に促され、またオランピアの方向に向かって歩きだした。オランピアにはもう客の姿もなく、閉館の準備をしていた。トレネの楽屋で自己紹介したあと、帰り支度を終えて入口のほうへ向かい彼が指定したロビーのポスター前で、私が彼と並んで高田さんがすばやく記念写真を撮らせてもらった。
シャルル・トレネとはそれから何度も会っているし、お話をしたこともあるが、二人でカメラに納まったのはこのときだけである。私は無理に笑っているが、その表情は明るくない。胸の奥にひどい挫折感を抱いている顔である。逆にトレネは、初日を大成功に終わって心からリラックスしているように見える。この日のショックはたいへん大きくて、鬱(うつ)の状態が二、三日續いた。しかし思い直して、トレネを聴くために、その後二回ほどオランピアに通っている。
シャルル・トレネの初来日は昭和三十四年(一九五九)の春で、フランスから大物のシャンソン歌手が来日することはダミア以来の大事件だった。まだ日本には大きなホールなどない時代で、千駄ヶ谷の体育館が初日の会場にあてられた。
その日、私はトレネのリサイタルの前座で歌うように主催者から言われて選曲に迷っていた。


初めてのパリ-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-2

十一月十五日、私が憧れのオランピアに出演した翌日、生まれて初めて聴くシャルル・トレネのリサイタルには圧倒された。長い間、憧れていた歌手のリサイタルに出合えて、期待以上のものがあったからだ。
初日の切符は、自分自身のことに紛れて買っておく余裕がなかったので、当日、早めに出かけて行列に加わった。人いきれと暖房、フランス独特の香水や体臭がむせ返るような超満員の客席であった。第一部は、例によって始めは手品や前座の漫才みたいなものであったが、トリはジェルメーヌ・モンテロの渋いシャンソンで終わった。
いよいよ第二部の開幕は夜の十一時で、トレネがブルーの背広にソフト帽をかぶり、胸に赤い花をつけて舞台に現れると、客席がいっせいに活気づいて彼の再起を祝った。ちょっとした自動車事故にあって入院しているという記事を新開で読んだことがある。客席がブラボー、ブラボーと叫ぶ。あちこちから口笛が鳴る。なにしろ久々のパリ公演であるうえに、退院以来初めてのステージなのだからファンの熱狂ぶりはたいへんなものであった。
甘く、渋い、そして低いささやきが歌になって流れると、客席は水を打ったように静まり返る。二十数曲のうち、その大半が私のレパートリーのなかにあるから、一節なりとも聴き逃すことはできない。「わが若かりし頃」「詩人の魂」「街角」「パリに帰りて」、そして新曲の「君を待ちながら」が私にとっては新鮮で、とくに胸に焼きついた。アンコール、アンコールの声に「ブン」を歌ったが、客席は立とうともしないで彼を引きとめる。何べんも何べんも幕前に出て頗を下げる彼に、客席が「ラ・メール」を要求する。そして彼はついに「ラ・メール」を歌いだすのであった。
彼が作詞作曲して創唱したこの歌は、シャンソンのなかの名曲として世界に君臨している。
もちろん、この私もこの歌に魅せられてシャンソンの世界に入ったといっても過言ではない。


初めてのパリ-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-1

昭和三十一年二九五六)九月には、私の夢であったパリ行きが実現した。九月七日には産経ホールで送別リサイタルが開かれ、希望と夢に胸をふくらませてパリヘ向かった。
機運が上昇しているときはすべてうまくいくもので、知人の紹介から思いもかけないスポンサーがつき、オール・ギャランティ (全面的な身元引受人)の形式をとってもらえたので堂々と外遊することができたのである。そのスボンサーとは映画監督のマルセル・カルネ氏から、パリに到着するとマスコミが私を(『天井桟敷の人々』ほか、フランス映画の巨匠)だった「日本のジルベール・ペコー」として新聞や雑誌に紹介してくれ、パリ・アンテールとユーロップ・ニュメロアンという放送局から私の歌が流れることになった。
なぜペコーなのかといえば、この年カルネ監督は彼を主役に映画『邁かなる国から来た男』を作ったばかりだったのだ。フランスはコネクションの国だとだれかが言っていたが、紹介者が大物だとこんなにうまくいくものかと、狐につままれた気分だった。
まずパリ・アンテールの 『五時のランデヴー』というラジオ番組では自分でピアノを弾きながら「枯葉」「リオの春」をフランス語で、そして 「さくらさくら」を日本語で歌った。そして、ユーロップ・ニュメロアンでは「フランスの日曜日」などを歌った。これらの出演などのあと、十一月十四日には思いもかけぬ幸運が訪れた。ユーロップ・ニ.ユメロアンのラジオ局が主催した公開録音で、あのシャンソンの殿堂オランピア劇場の舞台で歌えることになったからである。ラジオ番組のときのプロデューサーに気に入られたらしく、彼の推薦によるものらしい。そのときは、シャンソン「ビギヤール」の作者で歌手のジョルジュ・エルメールやギター弾き語りのロベール・リパ、自前の楽団でカンツォーネを歌うマリノ・マリーニも出演していた。詳細はプロローグに記したとおりである。


本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-4

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-4

演歌のクラウンとして 「北島三郎さん、水前寺清子さんをかかえている会社が、なぜ私に声をかけたのだろう」と思った。東芝との話し合いはクラウンからしてもらうことにし、伊藤社長の 「声野宏で新たにポピュラー路線を確立したい」とのたっての望みで、私は移籍することにした。
昭和五十三年から一〇年足らずの短い在籍であったが、多数のシングル盤やリサイタルのライヴ録音などを発売していただいた。そして昭和五十八年にはスタンダードなシャンソンをそろえ、タンゴやラテンも加えて、ファンの要望に応える、充実した二枚組LPを出していただいた。このLPは昭和六十三年にCD 『芦野宏の世界-私のシャンソン史-』 になり、今に続
く「ロングセラー」 となっている。
クラウンCD「芦野宏の世界一私のシャンソン史-」(1988)
(注)
CDが従来のアナログ・レコードにかわるべく、ソニーとフィリップスによって開発され、デジタル時代の開幕を告げたのは昭和五十七年 (一九八二)。
ペコー主演映画『遥かなる国から来た男』がパリで上映中だった。


本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-3

今になって、体がこんなに固くなってしまってから後悔しても仕方ないが、いくら歌の仕事が忙しくても、あのころからコーちゃんの忠告を守っていればよかったかなと思っている。コーちゃんは相手役というものに恵まれなかったが、それは彼女自身があまりにもずばぬけた個性をもちすぎていたからで、対等に相手役がつとまる日本人はついに現れなかった。

私が育った家庭は、親類縁者に一人も芸能人がいなかったせいか、私が好きな音楽の勉強をしても、それは芸大の教授になるのが目的だと思われていた。母は自らヴァイオリンやピアノを弾く女性だったから理解はあったものの、歌ったり踊ったりされるのは好まなかっただろうと思う。自分の心の中にも、そんな母の気持ちが住んでいたにちがいない。だからクラシックを捨てても、「あくまで歌ひとすじにゆかなければ」という思いがあったのは確かだ。
東芝レコードで、自分のやりたい曲を歌わせてもらえる立場にあったとき、私は昔の懐かしい歌を歌わせてもらうことにした。『懐かしの唱歌集』がそれである。第一集は長洲忠彦編曲・指揮の東芝レコーディング・オーケストラの伴奏で、第二集はA面を中村八大モダン・トリオ、B面を平岡精二クインテットの伴奏で、それぞれアレンジも彼らの若い感性に任せて私は歌った。幼いころ、母がピアノを弾きながら歌ってくれた「埴生の宿」や「庭の千草」などをレコードにしたかった気持ちがどこかにあったのだろう。これらの古い懐かしい曲の数々は、その後改めて東芝レコードでLP『ふるさとの歌』として録音され、売り出された。
菊池推城氏のマネージメントにより、私は東芝レコード時代、シャンソンだけでなく愛唱歌集など、ほんとうに良い仕事をさせていただき、今でもありがたく思っている。昭和五十二年には会社(東芝EMI、昭和四十八年改称)から長年のレコーディング活動に対してゴールデンディスク賞をいただいた。
たいへんお世話になった東芝EMIから離れて、クラウン・レコード(現・日本クラウン)に移籍するようになったのは、私の初代マネージャーとして活躍してくれた菊池維城氏と、大恩人である石坂範一郎氏が相次いで他界され、しだいにご緑が薄くなっていったからである。
ある日、伊藤さんという方から電話があった。「私は昔コロムビア・レコードにいて、芦野さんのお宅に伺ったことがあります。覚えていますか」というのである。若いころコロムビアで、私と越路吹雪さんのデュエット盤の制作などに携わっておられた方である。その方は今、クラウン・レコードの実力派社長として有名な伊藤正憲氏だったのである。


 本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-2

続いて出したシャンソンのLP『シャンソン・ヒット集』ぁたりからしだいに売れるようになり、やはり芦野宏にはシャンソンが似合うといわれるようになった。なかでも、すぎやまこういち氏が編曲して、担当ディレクターの渋谷森久氏が制作してくださった『パリの休日』には度肝をぬかれた。スタジオに入ると、なんと楽団が入りきれなくて廊下まであふれている。
通常のスタジオでは間に合わないくらいメンバーを集め、予算をふんだんに使って、素晴らしい音を作ってくださった。「パリ野郎」などは、パリのざわめきを取り入れたりしてじつに凝った演出である。また、『シャンソンのこころ』と題したLPも、小谷充氏の編曲がすてきで、しっとりとしたアットホームな味わいがファンからも大好評だった。
越路吹雪さんのレコードが売れはじめたのもこのころで、それまでは越路さんはステージの人で、レコード向きではないなどと東芝の内部でもささやかれていたものである。越路さんとは、私がデビューしてまもなく日劇の舞台でご一緒してから、昭和三十年か三十一年に日本コロムビアで 「モア・モア」をデュエットで吹き込みさせていただいた仲であった。彼女のように、語りの味を出せる歌手がほかにいないからということで、私が相手役に抜擢されたのであった。
越路さんも、ともに東芝レコード専属の第一号になったが、毎年レコード会社の出すカレンダーでは十二月のページで私と彼女は顔を合わせた。七夕さまみたいに、一年に一度しかお会いしませんねと、お互いに昔(~)を懐かしがったが、越路さんも私も仕事が忙しくて、前のように二人でデュエットすることがなく、東芝では一曲も吹き込まなかった。そのころ、コーち
ゃん (越路さん) は、私と会うたびに 「ねえ、ステージ・ダンスやりなさいよ」と言ってすすめてくださった。


本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-1

私の初めてのLPレコードは、それから二年ほどたって昭和三十二、三十三年に吹き込まれて発売された。ウエストミンスターという会社で、それまでLPはクラシックだけを扱っていたのだが、わが国としても初めてポピュラー(シャンソン)をLPとして出すことになったのである。
菊池維城氏はもともとクラシック音楽のマネージメントを専門にしていた人だったから、そのへんからこのLP吹き込みの話が持ち込まれたのではないかと思っている。編曲・指揮は片山光侵さん、ピアノは浜中外代治さんで、「メケ・メケ」「風船売り」「ラ・メール」「パリ祭」などを入れた。じつは、これが日本人のポピュラー歌手としては最初のLPレコードだったことはあとから聞いたことで、このあとも「初めて」の記録がい1っかあるが、とても光栄に思っている。

束芝のレコード事業部が束芝音楽工業〈昭和三↑五年設主として発足する前に、専属タレントを選考し、第一に候補に挙がったのが芦野宏だったと、あとで菊池推城氏から聞いた。東芝は以前からエンジェル・レコードのレーベルで、フランスのシャンソン歌手を紹介していたので、邦人では越路吹雪と芦野宏がほしかったのだということである。専属契紆は昭和三十四年に結んだ。
当時、石坂泰三氏完・東芝社長、経団連会長〉の甥にあたる石坂範一郎氏(元・東芝音工専務)が洋楽部門を担当しておられたが、石坂氏は外国語に堪能で、何度も海外旅行をされて直接欧米のレコード会社と交渉されていた方であった。私は石坂氏と会って、束芝レコードでの最初の一枚のLPをなににするかを相談した。
石坂氏は、すでにウエストミンスターからシャンソンのLPが二枚出ていることを考慮して、私の東芝での第一弾はカンツォーネのLPにしようと提案された。曲目は「ゴンドリエ」「コメ・プリマ」「ルナ・ロッサ」「ヴォラーレ」などで、タイトルはいろいろ二人で考えたすえ、『唄はゴンドラとともに』と決まり、まもなく期待をもって発売された。しかし、放送やコンサートなどで好評だったシャンソンを入れなかったので、思ったほどは売れなかった。


三社競作のSPレコード-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

三社競作のSPレコード-2

それで松井先生はわかってはくれたが、レコード吹き込みのほうは頑として譲歩しなかった。
結局、菊池氏が仲に立って、いずれもSP盤でマーキュリーから「小雨降る径」「ドミノ」、ビクターから「マドロスの唄」「パリの空の下」、コロムビアから「プンプンポルカ」「ばらのエレジー」と各社それぞれ二曲を昭和二十九年に録音、翌三十年二月に同時発売し、芦野宏はいずれの会社とも専属契約を結ばないということを宣言した。こうしたかたちで発売されたレコードは、どの会社もあまり力を入れなかったので、大して売れなかった。ただし、サトウハチロー作詞・高木東六作曲の1プンプンポルカ」だけは相当売れたらしく、漫才や落語のネタにまでなり、やがてNHK『みんなのうた』にも選定されて現在も歌われている。
ほかにコロムビアからは服部良一先生の作品などが発売された。
その「プンプンポルカ」は、こんなふうにして生まれた。私が学校を出てしばらくして、シャンソンを歌うようになってからまもなく、初めて地方の演奏旅行に行ったときのことである。
新聞社主催の『フランス文化とシャンソン』と題する催し物で、仏文学者・辰野隆先生の講演のあと、私がいくつかのシャンソンを歌うことになっていた。伴奏は高木東六先生で、まだ駆け出しの私としては、辰野、高木両先生の間に交じって出演できる喜びよりも、むしろ恐ろしさと緊張でブルブル震えていたような記憶しか残っていない。
帰りの車中で、高木先生と差し向かいの席をとった私は、思いがけない発言を先生からいただいて、旅の疲れなんかいっペんに吹き飛んでしまうほど興奮した。辰野先生が昨夜初めてシャンソンを聴いて、たいへんほめてくださったこと。そして高木先生も私のシャンソンから、なにか率直な呼びかけを感じられて、急に私のために新しい曲を作曲してくださるということだったのである。高木先生の待った鉛筆の太い芯が、五線紙に楽しい模様を描いていき、やがてこれが私の初めての日本の歌「プンプンポルカ」になったのである。


三社競作のSPレコード-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

三社競作のSPレコード-1

芸大在学中から始めて卒業後まで、自分の意思で自分の声を確かめるために歌った粗末なレコード吹き込みが、私の初めてのレコーディングであったとすれば、昭和二十九年(一九五四)、日劇『夏のおどり』に出演中、菊池マネージャーを通して申し込みを受けたレコード会社からの正式な要請は、商業ベースに乗せる最初のものになるはすのものであった。日劇で歌った「ラ・メール」と「フラメンコ・ド・パリ」がかなりな人気を呼んで、当時レコード各社
が「声野宏争奪戦」を繰り広げたといわれた。そのころ、仕事が急激に増えてきた私は、とても自分一人ではさばききれなかったので、すべてのことを菊池氏に一任してしまった。芸能人には必ずマネージャⅠというものが付いているが、個人ではとても難しいことを痛感させられたのもこのころである。
マーキュリー・レコードの風祭清隆氏から最初に吹き込みの申し込みを受けたが、高木東六先生も私を日本コロムビアに推薦中であった。そこへ日本ビクターでぜひというメッセージを、松井八郎先生から直接いただいたのである。私は率直に「じつはほかのレコード会社からも申し込みがあるので、だめです」と言って帰ってきた。ところが、このひと言が先生のプライドを傷つけ、逆鱗にふれてしまったのである。ジャズ・ピアニストで作曲家、越路吹雪の名伴奏としてトップにある「松井八郎」がビクターという超一流の会社を紹介したのに、あいつはこれを足蹴にした、というわけである。
学校を出てまもない、世間知らずの私であった。束宝関係の人から、先生が自分の顔をつぶ、れたといって怒っていると聞き、なぜなのかわからなかった。芸能界は正直にストレートに物を言えないところだといって慰めてくれる人もいたが、私はなにも悪いことをしていないのに……と残念だった。
そんな私を理解してくれたのが菊池維城氏だった。「とにかく謝りに行って、正直に自分の立場を芦野さんから話せばわかってくれますよ」と言ってくれた。私は松井先生の好物と聞いているブランデーを一本持って謝罪に行った。そして、ほかのレコード会社からぜひとも専属にと誘われている話もした。自分がほんとうに困った立場に置かれていることを話したのである。


三社競作のSPレコード-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

三社競作のSPレコード-1

芸大在学中から始めて卒業後まで、自分の意思で自分の声を確かめるために歌った粗末なレコード吹き込みが、私の初めてのレコーディングであったとすれば、昭和二十九年(一九五四)、日劇『夏のおどり』に出演中、菊池マネージャーを通して申し込みを受けたレコード会社からの正式な要請は、商業ベースに乗せる最初のものになるはすのものであった。日劇で歌った「ラ・メール」と「フラメンコ・ド・パリ」がかなりな人気を呼んで、当時レコード各社
が「声野宏争奪戦」を繰り広げたといわれた。そのころ、仕事が急激に増えてきた私は、とても自分一人ではさばききれなかったので、すべてのことを菊池氏に一任してしまった。芸能人には必ずマネージャⅠというものが付いているが、個人ではとても難しいことを痛感させられたのもこのころである。
マーキュリー・レコードの風祭清隆氏から最初に吹き込みの申し込みを受けたが、高木東六先生も私を日本コロムビアに推薦中であった。そこへ日本ビクターでぜひというメッセージを、松井八郎先生から直接いただいたのである。私は率直に「じつはほかのレコード会社からも申し込みがあるので、だめです」と言って帰ってきた。ところが、このひと言が先生のプライドを傷つけ、逆鱗にふれてしまったのである。ジャズ・ピアニストで作曲家、越路吹雪の名伴奏としてトップにある「松井八郎」がビクターという超一流の会社を紹介したのに、あいつはこれを足蹴にした、というわけである。
学校を出てまもない、世間知らずの私であった。束宝関係の人から、先生が自分の顔をつぶ、れたといって怒っていると聞き、なぜなのかわからなかった。芸能界は正直にストレートに物を言えないところだといって慰めてくれる人もいたが、私はなにも悪いことをしていないのに……と残念だった。
そんな私を理解してくれたのが菊池維城氏だった。「とにかく謝りに行って、正直に自分の立場を芦野さんから話せばわかってくれますよ」と言ってくれた。私は松井先生の好物と聞いているブランデーを一本持って謝罪に行った。そして、ほかのレコード会社からぜひとも専属にと誘われている話もした。自分がほんとうに困った立場に置かれていることを話したのである。


冬の北海道-4

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

冬の北海道-4

これは雪の北海道を巡演しているとき、公演地を確認しながら地図を広げて見ているうちに、ふと思いつき書きとめた詩である。地図を広げると大きなハンカチのように見える図形の北海道は、私に青春のいろいろな思い出をもたらしてくれた。
たあいもない、お粗末なものだが、私はこれを舞台から客席に向かい歌詞の一部を即興で歌った。楽団が適当に伴奏を付けてくれた。地名は帯広になったり釧路になったり小樽になったり、公演する地名を入れ替えるのである。プログラムには載せないでおいたから記録にはないのだが、私の古い日記帳のメモが思い出させてくれた。
なにしろ鈍行の列車を乗り継いで巡演するのだから、たいへんというより退屈なのである。
読書にも飽きてトランプ、花札をやりだすメンバーもいたが、、そのうちマージャンを車中でやることを覚え、四人掛けの椅子の中央にだれかが作ってきた二つ折りの板を置き、ゲームをしながら旅を続けるようになった。
目的地に到着すると中断して、続きは旅館のほうでやる。夜の公演が終わると、またその続きを夜中までやる。こんなふうにして、私の地方公演はマージャンとともに移動する習慣がついてしまった。知らず知らずのうちに、この私自身も見よう見まねでルールを覚え、マージャンの腕を磨くようになった。でも、いまだに点数は数えられないという素人である。
三社競作のSPレコード 芸大在学中から始めて卒業後まで、自分の意思で自分の声を確かめるために歌った粗末なレコード吹き込みが、私の初めてのレコーディングであったとすれば、昭和二十九年(一九五四)、日劇『夏のおどり』に出演中、菊池マネージャーを通して申し込みを受けたレコード会社からの正式な要請は、商業ベースに乗せる最初のものになるはすのものであった。日劇で歌った「ラ・メール」と「フラメンコ・ド・パリ」がかなりな人気を呼んで、当時レコード各社
が「声野宏争奪戦」を繰り広げたといわれた。そのころ、仕事が急激に増えてきた私は、とても自分一人ではさばききれなかったので、すべてのことを菊池氏に一任してしまった。芸能人には必ずマネージャⅠというものが付いているが、個人ではとても難しいことを痛感させられたのもこのころである。


冬の北海道-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

冬の北海道-3

北海道をくまなく旅して感じたことは、人情が浮く、心からもてなしてくれることである。
もちろん、日本全国どこへ行っても厚い歓待の心で迎えられたが、北海道だけはひと味違っている。本州と海を隔てるだけでこんなに違うものだろうか。大都会の札幌でも、本州にいちばん近い函館でも、ひとたび海を渡ると人情が違ってくるのだ。
沖縄は那覇で数回、奄美の名瀬でも二回ほどコンサートを持ったが、南の島で受ける聴衆の反応は大きく燃え上がってあとを引かない。ところが、北国の人たちの反応は大げさでないのに、ずしんと心に響くのだ。そして、いつまでも心に残る。
北海道は初夏のラベンダー畑を見たり、夏の涼しい旅をしたこともある。春のマロニエも美しい。しかし、やっぱり北海道は冬がいちばんよい。一面の銀世界のなかで、心が洗われるような感動をおぼえ、地元の人たちとストーブを囲みながら話し合っているとき、なにか不思議と心の世界が見えてくるような気がする。

「雪の北海道」

北海道はハンカチだ
すずらん包んでひろげたら
ほのかなゆめが広がった
網走あたりは雪どけで
横丁の露地はどろだらけ
それでもすてきな北海道

北海道はハンカチだ
今年も冬がやってきて
雪がチラチラ降り出すと
十勝平野は銀世界
白一色のキャンバスに
すてきな夢を描きたい


冬の北海道-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

冬の北海道-2

冬の北海道は寒い寒いと文句を言いながら、それでも三回ほどアンコールに応えてコンサート旅行をした。寒くてもなんでも、地元の熱烈な会員から要望されると、私たち歌手は弱いのである。直接、手紙をいただくこともあるが、事務所を通して束になったファンレターを見せられ、私の心は動いた。
北海道も日本海を南に下って奥尻島あたりまで来ると、だいぶ気温も上がって冬でもストーブを置かないところがある。初めて雪の北海道を旅したとき、一〇日日あたりに江差という町でコンサートがあった。二月の中旬だからいちばん寒い季節であるのに、会場には暖房設備がなかった。ストーブがどこにも見当たらず、楽屋に大きな火鉢が一個、舞台にはピアノの足元
に小さな練炭火鉢が一個、置いてあるだけである。ちょっとびっくりしたが、このへんは北海道ではいちばん温暖なところだということであった。あれは四〇年くらい前の出来事だったか
ら、現在はまったく違ってきていることであろう。
その後も北海道へは季節を問わず、何十回となく訪れている。とある小さな町でコンサートを開催したときのこと、練習が終わって本番まで約二時間の休みがあったので街へ出てみた。
ちょっとコーヒーでもと思って探したが、この街には喫茶店というものがなく、食堂はうどん屋さんだけしかなかった。楽屋に戻ると手作りの甘酒が出されたりして、心温まる休息をとることができた。
遠くはるばる東京から訪れる私たちは、どこへ行っても歓待された。コンサートが終わって地元の有志と座談会がもたれ、それが労音の機関誌に載るのだが、出席者の熱気にあふれた表情、発言、態度、シャンソンというものを初めてじかに聴いた感動の波動みたいなものが私の胸にも伝わって、「どんなに苦労しても、また来てあげよう」という気持ちになってしまう。
労音会員の熱意が、私の心を動かし、全国津々浦々、渡し船でしか行かれない孤島までも歌いに行った経験は、私にとって忘れることのできない大きな財産なのである。


 冬の北海道-1

 

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

冬の北海道-1

夏の九州公演が終わると、数年後の二月、いちばん寒いときに北海道の仕事がきた。寒いのが苦手な私は二の足を踏んだが、菊池音楽事務所の専務であった安井直康氏のたっての要請で引き受けることにした。「北海道は完全暖房だから室内が暖かくて、うすら寒い東京よりはずっと快適ですよ」という甘言にのせられて、二月の初めから約二週間にわたる労音のコンサー
トが始まった。
最初の振り出しは岩見沢であった。函館本線で札幌から一時間足らずのところにあり、素朴な北国の街であったが、ここは雪が深くて最初の出発から驚きの連続であった。寒いことは覚悟のうえだったが、雪の深さには閉口した。雪のために車道が狭くなり、すぐ近くの会場までたどり着くのにたいへんな苦労をしなければならなかったからである。
日程が進んで旭川から宗谷本線に乗り換え、士別・名寄の方面に向かうと寒さは一段と厳しくなり、もちろん雪景色には変わりないのだが、雪の質が函館あたりとはまったく違ってくる。
積雪量は少ないのだが、気温が零下二〇度くらいまで下がるので空気が乾燥しているような感じがする。士別の会場には大きを円筒形の石炭ストーブがあり、超満員の客の人いきれでいくらか寒さは緩和されていたが、宿に帰ると、水道の蛇口が凍結して風呂にも入れない状態であった。水のほしい人は台所にある汲み置きの水を飲むより仕方なかった。
旅館ではいつも私は単独の一人部屋に決まっていたから、床の間付きの八畳間が与えられ、楽団の皆さんはだいたい二人ないし三人が一緒の部屋であった。その夜、士別の気温は零下一四度ということだったが、部屋の中央に中型の「だるまストーブ」が一つ置かれていた。一晩じゅう焚き続けているにもかかわらず、部屋は一向に暖まらず、ストーブの周囲、約一メート
ルくらいが暖かいだけである。だから、ストーブのほうを向けば顔は暖かいが、背中はスース
ーと寒い。ストーブに背を向ければ鼻の先が冷たくて、マスクをし毛布を頭からかぶって寝るよりほかなかった。
そんなわけで、北海道は東京より暖かいと言われて旅に出た私は、東京の事務所で留守番をしている安井氏をうらんで電話をかけたこともあった。そんなとき、いつも行動をともにして
苦労を分かち合ったのは、田中宏和さんであった。しかし、寒いからといって、これ以上どう
することもできず、文句を言いながら旅を続けなければならなかった。北海道も北の果てまで行ったが、稚内あたりに来ると、逆に名寄や士別より寒くないから不思議だ.


夏の九州-4

 

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-4

初めての九州旅行は最後が鹿児島であった。案内された旅館は「滴洲館」という名で、風通
しのよい部屋に通されたが、なぜ 「南洲館」 にしなかったのかなと、変な疑問をもちなから私
は名所旧跡を訪ねて歩いた。西郷南洲ゆかりの地である。桜島は目の前にあつて、手の届きそ
うな距離だった。島津庭園も深く印象に残り、やはりここまで来ればはるばるやってきたとい
う感慨がひとしおである。どこか異国情緒が漂っている。そうだ沖純にいちばん近い距離にあ
る、本州の南端なのだと思ったら、詩のなかにあの沖縄のメロディーが浮かんできた。

「南国薩摩の白餅」
詞 芦野 宏
曲 松井八郎


赤い爽竹桃の花影で
誰を待つやら待たすやら
南国薩摩の白餅
海の入陽が眼に恥みる

碧い海だよ 恋の海
遠く呼んでも 戻りやせぬ
南国薩摩の白餅
潮の息吹がなつかしい

可愛いエクボの 黒眼がち
恋を知るやら 知らぬやら
南国薩摩の白餅
紅いたすきが 眼にまぶし

長い旅だよ ここまでは
風の便りも 届きやせぬ
南国薩摩の白絣
遠いあの日の 夢を見て

一回目の夏の九州旅行で最終日を迎え、ホッとした気持ちがあったのだろうか、私は夜のコンサートが始まる前、海の見える丘の上で沖の夕陽を見ながら、一気にこの歌を書き上げた。
手元にあった楽譜の裏に鉛筆で走り書きしだものだが、帰京してから松井八郎先生のお宅に参上して、二人で創り上げた創作シリーズの第一作になった。


夏の九州-3

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-3

全国労音の例会でポピュラーのソロ歌手として年間最多出演の記録をもったこともある私は、久の九州公演、真冬の北海道の公演では何回もアンコールに応えている。なぜ夏は九州で、冬は北海道なのかよくわからなかったが、マネージャーの話によると、労音はもともとタラシソ/音楽で出発した団体なので、初めて取り上げるポピュラー例会を会場の空いている季節にもっていったらしい。
夏はだれでも涼しいところへ行きたいのが人情である。東京の日本劇場で『夏のおどり』のゲストとして一か月公演を終えて九月に入ったとき、記録的な猛暑が二、三日続いたことがある。日劇の地下の楽屋で冷房づけになり、地上に出ると、炎熱と排気ガスの洪水だった。夏の泉京はいやだ、少しでも涼しいところへ逃げたい、といつも思っていた。
だから翌年、初めて夏の九州一周の仕事を受けるときは、相当の覚悟を決めて出かけた。まず福岡から出発して久留米、熊本、八代と南下して鹿児島まで巡演するわけだが、そのとき夏の九州が快適であることを体験した。意外なことに東京よりずっと過ごしやすいことに気がついた。温度は少々高くても、湿度が低いのである。冷房や車の排気ガスで汚れた東京の空気より、どんなにおいしかったことか。しかし冷房の設備が整っている会場は数えるほどしかなく、冷房機はあっても完全冷房ではないから、むしろ扇風機のほうが活躍していた。
思い出に残る会場は、熊本市のSデパートのホールである。今でこそデパートは完全冷房であるが、そのころのホールは扇風機だけであった。陽が落ちて少し涼しくなったころから開演するのだが、照明のスポットが当たるから舞台の上は三〇度をはるかに超している。ピアノは浜中外代治さん。やせ型でひょろひょろっとした背の高い青年だったから、見た目には涼しげに映った。ベースの稲葉国光さんは体格もよく、太り気味だったから見るからに暑そうであった。
地方公演で予算がない場合はこの二人だけの伴奏で歌ったこともある。宣伝ビラには、「芦野宏来る、伴奏は浜中外代治とオーケストラ」と書かれていたことがあり、稲葉さんがでかい男だったから二人でも伴奏はオーケストラかと大笑いしたことであった。
その稲葉さんが立ってウッドベースを弾くと、床面にその体形そのままに汗の模様ができる。
暑いから水はガブガブ飲む。汗は滝のごとく流れて舞台の床に地図のようなシミができるのである。ネクタイなどはしていられないから半袖の白い開襟シャツ一枚でステージに出る。これ以上ぬぐことはできないが、一回のステージでシャツはずぶ濡れになる。楽屋に戻って扇風機で乾かし、また後半のステージに出るのだ。
私は中央に立って歌っているのだが、あまり大きな口をあけて歌うことはできない。なぜなら窓を開け放っているので、外から虫が飛んでくるのだ。蚊ぐらいなら我慢できるが、私の嫌いな蛾がスポットの当たっている私のまわりに集まってくるからだ。口をあけて大きな声で歌っているとき、蛾が口に飛び込んだ経験があって以来、用心して口は小さめにしてマイクに近づいて歌うことにしていた。
しかし、こちらでの初めてのシャンソン・リサイタルは大好評で、翌年もまた同じ会場で歌うことになった。相変わらず設備関係はまったく前年と同じで、私たちは大汗をかきながらアンコールに応えた。昭和三十四年と三十五年の夏だったと思う。その後、このデパートは火災にあったことが新聞で報じられ、あのホールも焼失したことを知った。


夏の九州-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-2

高知は四国のなかでもいちばん遠くて、今でこそ直行便が何本も飛んでいて不便も感じないが、そのころは東海道本線で岡山まで行き、宇野行きに乗り換えて、そこから高松まで連絡船に乗り、四国に着いてから海岸沿いに徳島まで出て、四国山脈を越えなければならなかった。八月の暑い日だったが、私たち一行は二日がかりで高知にたどり着いたことがある。まだジーゼルも走っていない時代で、トンネルをくぐるたびに煙が窓から流れ込んだが、冷房のきかない車両だったから、目的地に着いたら風呂に入って全身を洗わなければ、鼻の穴まで真っ黒にすすけている有様だった。しかし途中、トンネルを出るとき私たちはいっせいに歓声をあげた。目の前に有名な「大歩危(おおぼけ)」、「小歩危(こぼけ)」の名勝が広がって、清列な谷川が流れていたからである。なかなか見ることのできない絶景を見せてもらったわけである。
夕方になって、私たちは会場に案内されたが、それは体育館であった。ところが、どこを探してもピアノがない。私の伴奏はピアノ、ベース、ギター、アコーディオンの四人だった。仕方がないのでピアノ抜きでやろうと思ったのだが、開演三〇分前になってやっとアップライトのピアノが運ばれてきた。主催者側がピアノのことを忘れていたらしい。
こんなふうだから、体育館に集まった人たちもシャンソンを聴くのは初めての人ばかりであったが、反応と柏手は非常に大きかった。なにより終わってから素朴な旅館で供された新鮮な海の幸と、地元の人たちの温かい歓迎の気持ちが嬉しくて、それまでの苦労はいっペんに消えてしまった。         一
旅といえば、現在のようにスピードだけを追いかけて汽車弁当の楽しみも忘れてしまうのは、ほんとうに残念である。私は四〇年の間に、日本全国、津々浦々ほとんどの場所で歌っている。
~から駅弁の味も今となっては遠い思い出として残っているだけになってしまった。


夏の九州-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-1

あのころは名古屋まで行く仕事でさえ、ほとんど夜行列車であった。夜十一時四十八分の特急列車「いずも」が東京駅を出発するまで、時間をつぶすのに苦労した。八重洲口に近いシャンソン喫茶「ルフラン」も十一時で閉店になってしまうし、アルコールを一滴もたしなまない私は、バーやクラブに馴染みの店を持たない。
夜行寝台列車は早朝六時五十分ごろ名古屋に着いてしまうから、さっそく旅館に入り、わいていれば朝風呂を浴びて朝食をとる。マネージャーは九時ごろから楽譜を持って会場に先乗りして楽団と打ち合わせをする。少し遅れて楽屋入りする私も、音合わせがあるのでゆっくりはしていられない。開演時間より一時間前から客入れをするので、舞台稽古や衣装合わせ、照明との色合わせなどで時間はけっこう必要だ。開演午後二時として、一時までの間に昼食をとり支度を整える。
そろそろ楽屋にファンが押しかけはじめるころである。当時は、東京物理学校(現・東京理科大)を卒業したばかりの、菊池音楽事務所で私の担当である若い田中宏和さんが事務局長となって「芦の会」という後援会組織を作っていた。いわゆるファンクラブであるが、当初、全国にわずかながら支部があり、この会員にかぎり、優先的に楽屋訪問もできるというような、暗黙の特典があったので、「芦の会」の入会者もしだいに増えていった。
名古屋の公演といっても私の場合は一日だけだから、翌日はまた別の会場に移動する。主催者が同じだと、京都、大阪、神戸、姫路と順序よく移動できるのだが、とつぜん北海道や九州に飛んだりすることもある。もちろん、すでに飛行機は利用できたが、あのころはすべてプロペラ機でジェット機の倍以上時間がかかるし、なによりよく揺れるから、体調の悪いときは酔ったりするので困った。若かったし、やる気もあったから乗り越えることができたが、いま思えばよくやってきたものだと、われながら感無
量である。同時に、今では味わうことのできない経験をさせていただいたことに感謝するとともに、なかなか見ることのできない景観や、土地の名物料理、そのほか諸々の懐かしい思い出は宝物だと思い、心からありがたいと思っっている。


夏の九州-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-1

あのころは名古屋まで行く仕事でさえ、ほとんど夜行列車であった。夜十一時四十八分の特急列車「いずも」が東京駅を出発するまで、時間をつぶすのに苦労した。八重洲口に近いシャンソン喫茶「ルフラン」も十一時で閉店になってしまうし、アルコールを一滴もたしなまない私は、バーやクラブに馴染みの店を持たない。
夜行寝台列車は早朝六時五十分ごろ名古屋に着いてしまうから、さっそく旅館に入り、わいていれば朝風呂を浴びて朝食をとる。マネージャーは九時ごろから楽譜を持って会場に先乗りして楽団と打ち合わせをする。少し遅れて楽屋入りする私も、音合わせがあるのでゆっくりはしていられない。開演時間より一時間前から客入れをするので、舞台稽古や衣装合わせ、照明との色合わせなどで時間はけっこう必要だ。開演午後二時として、一時までの間に昼食をとり支度を整える。
そろそろ楽屋にファンが押しかけはじめるころである。当時は、東京物理学校(現・東京理科大)を卒業したばかりの、菊池音楽事務所で私の担当である若い田中宏和さんが事務局長となって「芦の会」という後援会組織を作っていた。いわゆるファンクラブであるが、当初、全国にわずかながら支部があり、この会員にかぎり、優先的に楽屋訪問もできるというような、暗黙の特典があったので、「芦の会」の入会者もしだいに増えていった。


大阪労音から全国各地の労音へ

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

大阪労音から全国各地の労音へ

 

ラ・メール 心をゆするしらべ
母の愛のように わが胸に歌うよ
(訳 薩摩 忠)

これは私のシャンソン・デビュー曲「ラ・メール」という歌の一節だが、菊池推城氏と約束して海の底に沈めた貴重な過去の経験から立ちのぼる、不思議な力がわき上がってくるような気がして、私は一日三回、三〇日間、初出演の日劇『夏のおどり』の舞台でこの歌を一生懸命歌い続けた。幸い、大好評であった。
その後、昭和三十年代に連続一〇回のNHK『紅白歌合戦』出場を果たしたのは、シャンソン界ではただ一人であり、この菊池維城氏と力を合わせてこそできたことであった。

2、旅から旅へ

大阪労音から全国各地の労音へ

大阪勤労者音楽協議会、略して大阪労音は昭和二十四年(一九四九)全国に先駆けて発足した音楽鑑賞団体である。例会は初期の数年クラシックのみであった。それが二十八年からポピュラー例会も組むようになり、私は初めの年の第五回『アルゼンチンの夕』 に出演した。そして三十一年三月には 『シャンソン・フェスティバル芦野宏・中原美紗緒』が四日間、三十二年には三月の 『芦野宏シャンソン・リサイタル』 が予定されると会員が急に増えて、予定の九ステージが十ニステージになり、連日、満席の盛況が続き、日曜日に昼夜二回と決まっていると「とつぜん前日になって明日三回歌ってほしいといわれ、びっくりしたことがあった。なんと会員の急増が三〇〇〇名を記録したというのだ。同年十月二十三、二十四日には『芦野宏とアンサンプル・ミュゼット』があり、会員から再演の要望が多く、しだいに公演回数が増えていった。
(注)
当時のスケジュールの一例を記述すると、大阪に次いで各地でもポピュラー例会が始まり、昭和三十一年の続きで大津、愛媛(松山)など、三十二年大阪(三月、十月)、仙台、北九州(小倉)、宇和島、愛媛(松山)など、三十三年名古屋、敦賀、東京、沼津、横浜、神戸など。三十四年の一年だけで一月に小田原で二日、二月に名古屋、三月に岐阜、岡崎、半甲五月に名古屋、六月に郡山二日、熊谷、そして大阪で六月未から七月に二二日間(昼夜二、三回もあり)、松本をはさみ、下旬に九州各地でと一か月以上連続でコンサートを続けている。同年の続きで八月に字都苧岡山各二日、十月に東京五日、京都六日、十一月に福島二日など、とある。
労音が最盛期に向かうころだったようだ。私も、ますます忙しくなっていた。それもなんとか乗り切って頑張れたのは、若さのせいと自分流の自然な発声法がようやく身についてきたからではないかと思っている。なにしろ大阪でのように二五曲ずつのワンマンショーを一日三回やったことがあり、司会者も前座の歌手もないリサイタルだから、客を入れ替える時間だけが楽屋で休める貴重な休憩であった。

 


NHK『紅白歌合戦』連続出場-5

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

NHK『紅白歌合戦』連続出場-5

芸能界にデビューして日劇の舞台を踏むとき、私にもマネージャーというものが必要になり、そのころぼつぼつ仕事を持ってきてくれた菊池音楽事務所に籍を置くことにした。社長の菊池維城氏は東大出身のクラシックマニアで主としてクラシックのコンサートをマネージメントしていたが、佐藤美子さん、高木東六先生(作曲家、ピアニスト)、葦原邦子さん(宝塚出身のシャンソン歌手)らのお世話をしている人で、業界では変わり種といわれていたが、温厚で誠実な人柄を信頼してお願いするこ
とにした。
その菊池氏の提案により、私は年齢を偽ることになる。
大正生まれと昭和生まれとでは、まったく世間の印象が違う。新人として出発するんだから、昭和にしましょう。昭和元年は大正十五年でややこしいから、昭和二年でいきましょう、ということになり、芸能年齢は三歳若く今日に至っている。東大出のユニークなマネージャーだった菊池氏を私は全面的に信頼していた。
「芦野さん、私も大嫌いな軍隊生活の一年間は密封しましょう。蝋で固めて海の底に沈めてしまいましょう」。それ以来、私は塀の中の生活をいっさい口にしないことにし、三歳若返った気持ちで歌い続けてきた。

ラ・メール 心をゆするしらべ
母の愛のように わが胸に歌うよ
(訳 薩摩 忠)
葦原邦子さんと私(日本女子大学、1956頃)葦原さんとの想い出は数限りなくある。ヤマハホールでのリサイタルで演出をお願いしたこと
もあるし、他のホールで共演したこともある。
これは「小さなひなげしのように」の舞台で、葦原さんの語りと私の弾き語りの場面である。
このステージのために飯田深雪先生が真紅のひなげしの花を作ってくださり、ピアノの上に置いて歌うのが習いとなった。
宝塚時代は「アニキ」というニックネームだったそうだが、私にとってもアニキのような存在だった。舞台化粧のやり方からステージでの動き方まで指導していただき、ほんとうにお世話になったものである。


Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

日比谷の巴里祭とデビユー秘話-1

昭和三十一年(一九五六) にさかのぼって七月十四日には、相原音楽事務所の社長さんから頼まれ、日比谷の野外音楽堂で 『巴里祭シャンソンの夕』 と銘打ってワンマンショーを開き、夜の星空の下でシャンソンを一人で歌った。ファンの要望に応えるため、翌十五日にもアンコール巴里祭として山菜ホールに会場を移して催した。聴衆は合わせて数千人ともいわれ、こん
なふうによく客が入ったので、昭和三十六年まで続けた。相原事務所では巴里祭以外のコンサートも催してくれたが、石井音楽事務所がその年に設立され、昭和三十八年から『パリ祭』としてシャンソン界あげての祭典を企画して、複数の歌手を出演させるようになったので、私もそちらに参加して、昭和三十九年から相原さんの企画は辞退することになった。
(注)
芦野天下のパリ祭(内外タイムス、昭和三十一年七月十四日)
「ことしのパリ祭は、渡仏を九月にひかえて、いまや人気上昇の一途をたどる芦野宏にすっかりさらわれてしまいそうだ。せんだって行われた五日間連続リサイタルの余勢をかって十四、十五の両日、パリ祭シャンソンの夕が開かれる。初日は『パリ祭』『パリの屋根の下』等ごくポピュラーなシャンソン、翌日は『和製シャンソン』中心で、作詞に野上彰、作曲に宅孝二、寺島尚彦等の協力を得ている。…・:
都内の主なプレイガイドを一巡して前売り景気をさぐつてみると、予想どおり芦野の野外リサイタルが一番切符の出が小いようだ。一夜シャンソンをじっくり楽しもうというようなアベック組が多いとのこと」東京の空の下シャンソンは流れる(アサヒ芸能新聞、昭和三十一年七月十四日)
「後楽園遊園地では、NDC(日本デザイナークラブ)ほかの主催で『野外大巴里祭』がはなばなし く開かれた。……祭りの委員長は早川雪洲さんで、祭主は石黒敬七さん、演出はピアニストで作曲家の高木束六さんの面々である。正面入口には巨大なエッフェル塔が建ち、会場からはふんだんにシャンソ ンが流れ、この夜のために集まった約三千人近い人々が雰囲気をもりあげた。……同じ時刻、銀座の山菜ホールでは、シャンソン評論家・産原英了氏を中心に『ベル・エポックのシャンソン』研究会が開か
れ、座席をぎっしりうめた聴衆は、最新版のLPレコードを産原さんの解説でしんみりと聞きいっていた」


NHK『紅白歌合戦』連続出場-3

 

幸福を売る男

       芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

 

マネージャーや付き人は用事のないかぎり廊下に出ていて、声がかからなければ部屋に入ってこない。なにしろ今をときめく日本の大スターが一堂に集まるのだから、たいへんなのである。いつもテレビでしか見たことのないスターたちを目の当たりにすると、意外なことが発見される。もっと大きな方かと思っていたのに、三橋美智也さん、橋幸夫さん、三波春夫さんた
ちは意外と小柄なのでびっくりした。和田アキ子さんや小林幸子さんはテレビで見ても背が高いことがわかるが、美空ひばりさんは小柄である。ひばりさんは黙っているときは、お高く止まっているようで取っつきにくいが、一度喋りだすと、まったく気さくな、気のおけないお人柄が見えてくる。
紅白のとき、ほかのショーと違うことは、本番を終わった歌手たちが動員されて応援団にまわされることである。これはその時によって違うが、必ずなにかさせられるから覚悟していなければならない。私がシャンソン界から一〇年連続で出演していたころを思い出しながら、今の紅白をお茶の間で見ていると、根本的にはその意図するところは変わっていないようである。
年に一度のお祭り騒ぎということであろう。紅白が終わって帰りの車の中で除夜の鐘を聴き、家に帰って温かいお風呂に入り、ホッとしたあの気持ちを今でも昨日のことのように思い出すのである。
昭和三十八年(一九六三) に出演したときの映像がNHKに保存されていて、再放映もされ
たが、当時お若かったクレージーキャッツの谷啓さんが子供役となり、私の歌う「パパと踊ろ
うよ」 のなかでおもしろおかしくお相手をしてくださっている。これは日本シャンソン館のビ
デオルームで上映されている『声野宏・シャンソンと共に歩む』のなかにも収録され、どなたにも見ていただけるようになっている。                      、


NHK『紅白歌合戦』連続出場-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

NHK『紅白歌合戦』連続出場-2

ところで、NHK『紅白歌合戦』に出場するということは、一流の歌手と認められたことを意味して、たいへん光栄に思うとともに、知名度がさらに高まることであり、翌年の正月番組からは前年以上におびただしい出演依頼が殺到して悲鳴をあげた。この年(昭和三十一年)の暮れ、続いて紅白の出演が決まったことを、私は外遊先のインドで知った。初めてのパリ訪問の帰途、カルカッタでコンサートをして、それが終わって楽屋へ戻ったとき、兄から一過の電報を受け取った。菊池維城さん(マネージャ⊥からで†紅白出演、決まりました。相手は越路吹雪さん、オメデトウ」とあった。
この二回目の紅白出演で、私は憧れの大先輩・越路吹雪さんと対抗出演することになったのだ。歌ったのは二人ともシャンソンで、越路さんは「哀れなジャン」、私は「ドミノた である。
この年のトリ(最後を飾る出演者)は笠置シズ子さんの 「ヘイ・ヘイ・ブギ」 であった。笠置さんはこのあと紅白には出ていない。
(注)
昭和三十二年(一九五七)、第八回NHK『紅白歌合戟』芦野宏は三度日の出演、再び江利チエミと対 抗、ジルベール・ペコーの「メケ・メケ」を歌った。二回目出演の美空ひばりはトリで「長崎の蝶々さん」を歌っている。男性側のトリは三橋美智也。
昭和三十三年、帰国した石井好子の対抗者として、ペコーの 「風船売り」を歌う。
昭和三十四年、出場五回目の芦野は四回目の中原美紗緒を相手に、世界のヒット・カンツォーネ「チャオ・チャオ・バンビーナ」を歌ったD美空ひばりは相変わらず紅白のトリを取っていた。司会は紅組が中村メイコにかわり、白組は続投中の高橋圭三。
紅白歌合戦の舞台裏はいつもたいへんな混雑であった。紅組の楽屋は衣装などが大きいから、もっとたいへんだろうと想像しているが、白組のほうもマネージャーと付き人が一人ずついるから部屋はごった返している。化粧前(鏡台のこと)は年功序列で奥のほうから詰めてくるわけで、入口にいちばん近いところは若手になる。先輩に対する挨拶はとくに厳しくて、お茶一杯でも、まず先輩が先に手をつけてからである。だれがこうしろと教えるわけでもないし、注意するわけでもないのに、みな心得ていてルール、マナーは暗黙のうちに守られているのだった。