月別アーカイブ: 2017年11月

自分なりの発声法-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

自分なりの発声法-1

音声障害といっても、私はまだ喋ることができる。この喋り声を歌声に持っていけばよいのだ。喋る声と歌う声の区別がない自然な発声法である。そうすれば喋れるかぎりは歌えるわけである。これなら何時間歌っても疲れることもないだろう。歌うことを禁止されていた六カ月
の間に、私は柴田先生から教わったあらゆることを復習し、参考にしてクロスピーの歌を聴いた。喋る声とまったく変わらない自然な発声。改まって咽喉の奥を開き、腹の底から声を出す
ように教えられていたころは、身体全部を楽器と考えて、いかに骨格を利用して声を響かせるか、ヴォリュームをもたせて遠くまで聞こえるようにするかに専念し、ほかに耳を貸す余裕すらなかった。
私は、喋り声をもとにして歌えば、声が疲れたり音声障害を引き起こしたりすることがなくなるのではないかと思うようになり、三年かかって取り組んだ声を元に戻し、自分自身の自然の発声を考え出そうとしはじめたのであった。咽喉は自然のままで頭蓋骨の共鳴を利用し、音
を前方に持っていき、胸の共鳴も利用して呼吸法で息を整える。つまり、自分の骨格に響かせ
て頭声 (頭にひびかせる声)と胸声(胸にひびかせる声)をうまく使い分ければよい。これが私の歌声の基本となり、苦しみを乗り越えて獲得した努力の結晶だと思っている。
私は歌えない時期に、自分の勉強法が間違っていたことを覚り、新しい発声法に目覚めた。
柴田先生が教えてくださったことはもちろん正しいのだが、私は自分で声をつくっていたことに気がついたのである。先生を尊敬し、先生に傾倒すると、学生は先生の模造品になるものである。私は心から先生を尊敬していたから、知らず知らずのうちに、先生と同じ声になりたいと願っていたのだ。今にして思えば、低音に魅力のあるバリトン歌手が高音を主にしたテノールに似せようと努力することは、初歩的な誤りであることがわかるが、青春の真っ只中にいて馬車馬のように走っていた音楽学生にはわからなかったのである。
在学中、音声障害を起こして歌えなくなって以来、発声に疑問をもちはじめていたころ、私はレコード吹き込みに熱中しはじめた。その当時はテープレコーダーが開発されていたらしいが、まだ一般には普及しておらず、銀座四丁目の辻を築地方面に向かって、次の角にあった「小野ピアノ店」には、二階に吹き込み用の部屋があって、三分間のSPレコードを作ることができた。初めは同級生のピアニストに伴奏をつけてもらって、何枚もレコードを作り、すり切れるまで聴いて勉強した。薄い金属の円盤に蝋(ろう)を塗った粗末なものだったから、三〇回くらいで完全にすり切れてしまう。それでもこりずに小遣いがたまると、また吹き込み所に行くのだった。私はのちに歌手デビュー後、国内レコード数社のほかフランスやアルゼンチンでも録音したが、初めてレコード吹き込みをしたのは、芸大在学中、ここにおいてだった。自分の声を客観的に聴きたくて、小遣いを節約して自費で録音したのである。私が高い費用を支払ってまで録音して勉強したのは、小学校のときに果たせなかったレコード吹き込みの夢をもち続けていたせいがあるかもしれない。
(注)
昭和二十五年、東京通信工業(ソニー)がテープレコーダーを発売。同三十一年ごろにはオープンリール・デッキが普及。


歌えない日々-4

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

歌えない日々-4

もちろん英語で歌われるから発音・発声が一体となっていて、日本語で歌う場合と異なるのだが、高音の 「ビューティフル・ドゥリーマー」と、低音で歌う同じ言葉の部分の粒がそろっているのだ。私はこのクロスピーの歌に憧れた。喋る声と歌う声が同じなのである。苦労して芸大でたたき込まれた発声法は、改めて身づくろいをしてからおもむろに声を出すという歌い方であった。だからこのときは目から鱗が落ちる思いで胸がときめいた。
この時期にはまた、こんな一幕もあった。暗い雨の日だったが、私はある流行歌手の歌声をラジオで聴いて、頭を殴られたように思った。喋り声をそのまま歌にしているからである。自然の発声だから言葉もよくわかり、細かい情感が出せることに気がついて、思ったらすぐ行動に移すたちなので、流行歌手の発声は参考になると思ったからである。
雨の中を同級生の部屋を訪れて私の考えていることを率直に伝えた。
ところが彼の反応は、ひどい剣幕で思いもよらない方向にいった。
「君を見損なった。いくらなんでも流行歌手と同じ発声はひどいぜ。ぼくらは何年もかけてやっとここまで到達したんだ。人に教える立場にこれからなろうという人間が、それはないだろう」。
私は「いや、ちょっとした迷いだったのさ」と言って引き下がった。私は間違ったことをしたと後悔していた。
相談する相手を間違えたのである。まして卒業演奏会を半年後に控えて、お互いにしのぎを削り合っている仲間の勉強に水を差すようなことをしたのだ。それにひきかえ、まだ曲目も決まっていない自分の惨めさ、哀れさをいやというほど思い知らされて、すごすごと雨の中を一人歩いて家路についたのだった。


 歌えない日々-3

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

歌えない日々-3
そのころラジオではアメリカの音楽が毎日のように流れ、進駐軍放送にダイヤルを合わせるとオペラからポピュラーまで、いろいろな歌を聴くことができた。この米軍向けの番組には、魅力的なプログラムがいっぱい詰まっていた。私はしだいに世界のポピュラーに目を向けてい
くようになり、スペイン語で歌われるカンシオン、ポルトガルのファド、フランスのシャンソン、アルゼンチンのタンゴと耳をそばだてて聴いた。「ピョン・ザ・シバ】という英語の題名で、「ラ・メール」を聞いたことがあるのを、ずっとあとになってから思い出すことになるが、シャンソンという意識もなく、軽やかなソフトな歌として聞き流した。この「ラ・メール」が私のシャンソン・デビュー曲になろうとは、そのころは夢にも思っていなかった。
それらのなかで、とりわけ衝撃的だったのはビング・クロスピーの滑らかな歌声で、彼の歌う「夢見る人(夢路より)」や「懐かしのヴァージニア」にことさら惹かれた。クロスピーは一日に何回も出てきて、素晴らしい声を聴かせていた。私はビロードのように美しい彼の声に
魅せられ、毎日ラジオから耳を離さなかった。そのうち、クロスピーの声が喋り声そのままを歌声にしていることを発見して胸をときめかせた。

「夢路より」
訳 津川主一
曲 フォスター
夢路より帰りて 星の光仰げや
さわがしき真昼の わざも今は終わりぬ
夢見るは わが君
開かずや わが調べを

ビング・クロスピーの歌うこの歌は、涜れるような美しい自然の発声が心をとらえて離さず、四年前に初めて聴いた中山悌一先生の「紅いサラファン」以来の衝撃であったといってもよい。


歌えない日々-2

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

歌えない日々-2

柴田先生はテノールであるから、バリトンで声域の低い私が上手に先生のまねをして歌うことはできなかったが、なんとかして追いつきたく思って努力した。しかし、入学試験のときに歌ったのが二曲ともイタリア古典歌曲であったためか、一日も早く本格的なドイツ・リートを
勉強させてもらいたかったのに、なかなか先生からお許しが出なくていらだっていた。
そのうち、ドイツ・リートも習うようになったが、その発声とイタリア歌曲のベルカント唱法を両方ともあまり熱を入れすぎて勉強に励んだためなのか、なにが真因かは判然としないが、私の声帯に微妙な変化をきたして、ついに音声障害を引き起こしてしまった。
軽い症状は以前にも何度かあった。しかし、今度のはやや重い。ハイ・バリトンとテノールは紙一重の違いだから、高音さえ出れば貴重なテノール歌手が誕生したかもしれなかったが、私は失敗したのだ。
三年生の後半、深刻に悩んでいた冬のこと、先生は私を音声学の権威である楓田琴次先生のもとに連れていってくださったり、湯河原の別荘で静養させていただいたりした。楓田先生から当分歌うことを止められてからは、苦しい毎日であり、つらい経験であった。それでも私の
声はよくならず、無理をして歌い続けるとほんとうに声が出なくなるぞと言われもした。
こうした歌えない、苦しい六か月が続き、卒業試験もあと半年後に迫っていた。この、まさに卒業を間近に控えた大切なとき、今ごろになって悩み続けている自分はいっろうとつくづく情けなく思い、あの入学したときの輝くような喜びの日々が、なんなんだか遠いものになっていった。歌うことがあれほど好きで、明けても暮れてもピアノに向かっていた自分が、ドクターストップを受けて声のない日々を送り、悩み、苦しみ、悶えて、なにも目に入らない心境だった。
そんなとき、私の耳に入ってきて衝撃を与えたものがあった。