中山悌-との出会い

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

中山悌-との出会い

昭和二十一年(1946)十一月の未、中間試験の終わったころだったが、長野県上田市の公会堂で中山悌一独唱会が開かれた。
上田城跡の隣にあるその建物は、古びた木造の二階建てでゴザを敷いた二階が会場である。
聴衆は自分の履き物をそれぞれ持って階段を上っていく。
「走らないで下さい」と大きな紙に書いて貼ってあるのは、建物が揺れると天井が抜けたりして危険だからである。実際、急いで歩くとユサユサ揺れたりする不気味な会場だった。
戦後まもないころ、音楽芸術に飢えていた人々が集まり、私はいちばん前に座って固唾(かたず)をのんで聴き入り、本物の芸術にふれた思いだった。その感動はいまだに忘れることができない。
初めて聴く本格的な声楽、全身に電流が走ったようだった。曲目はシューベルトやブラームスの歌曲で、比較的ポピュラーな曲が多かったが、朗々と歌い上げて聴衆を圧倒した。アンコールにはロシア民謡の「紅いサラファン」を日本語で歌われた。完壁な発声と発音はすべて素晴らしく、ぞくぞくするような感動をおぼえた。高音から低音まで粒がそろっている。しかも歌詞によって、すなわち口のあけ方によって音色が変わらず、淡々として無理のない、ほとばしるような声、これこそ芸術だと思った。これこそ私の探し求めていた世界だった。
中山先生の前座に、上野を卒業したばかりの新人歌手としてオペラのアリアを歌った桑原瑛子さんは、同じ小学校の一年上級で、しかもたいへんな美人。私と同じように学芸会で毎年歌わせられていたが、彼女は学芸会のスターだった。私も四年生のときレコード吹き込みの申し出にあったが、同じころ桑原さんも申し込みを受けたようで、NHKのラジオからは彼女の歌声が流れていたのを思い出す。その桑原さんが立派に上野を卒業され、注目の新人として上田に来る。私は胸をときめかせて、その日を待っていたのだった。
終演後、高嶋る胸をおさえて楽屋を訪ね、桑原さんから中山先生を紹介してもらった。そして上京したら入門させていただくことを約束され、私は小躍り七た。
(注)音楽、美術関係の話で「上野」とは東京音楽学校、東京美術学校のこと、昭和二十四年五月に東京芸術大学音楽学部、美術学部となる。通称「芸大」のこと。


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