第7話 龍馬と栄馬

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第252回 幕末史研究会
日時 2017年5月28日(日)午後2時から4時 会場 武蔵野商工会館4階 講師 合田一道 氏 (作家) テーマ 北から見た幕末維新 会費 一般1500円大学生500円高校生以下無料 講義内容 明治維新は北辺の北海道をも揺るがした。最後の戦いとなった      箱館戦争の意味とは、朝廷がまっ先に北海道開拓に着手した理由とは。
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
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第7話 龍馬と栄馬

坂本龍馬は脱藩をする前、安田たまきの兄・藤田栄馬に共に脱藩しようと誘ったという。しかし、栄馬は脱藩しなかった。その理由は栄馬は長男だったからである。家の跡目を継ぐという役目があったのである。そして、もう一つ、龍馬のように国家とか政治といったものに興味が薄かったこともある。
栄馬のご子孫にうかがった話だが、栄馬は父から、「お前には美しい嫁をもらってやるから脱藩するな」とも言われて、説得されたと言う。
父は約束を破らず本当に美しい嫁をもらってやった。嫁は岡本槇★まき★という女性である。(写真A)
この槇の写真が高知市の栄馬のご子孫のお宅に保存されていた。額に入っていたので、複写させてもらうことにして、額の裏側を開くと、槇の写真の下にもう一枚の写真が入っていた。白地の着物に紋付の羽織を着た男性だった。栄馬のご子孫にこれは誰ですかと尋ねるたが、初めて見る写真なので、誰か判らないとの話であった。
後に、栄馬の孫(亀井とよさん)がこれが藤田栄馬であると証言してくれた。
写真Bが栄馬である。
明治になって撮影されたもので、茶人として趣味の世界で生きていた龍馬の親友の姿である。
幕末の土佐史を研究していると、土佐の若者が次々と脱藩し、動乱の時代を生きていく。土佐の若者全てが、龍馬に続くように活躍するように錯覚するが、それは正確ではない。栄馬のように平凡な生活を望む若者もいたのである。
学生運動の中心でヘルメットをかぶり、角材を振った学生もいれば、ノンポリもいたのである。
栄馬はさしづめ、ノンポリの典型であり、龍馬はヘルメット派の代表であり、暗殺されている。
栄馬は明治になって、高知の新興財閥・川崎幾三郎のもとで経済人として働き、趣味で陶器を焼き、茶道の宗匠として無味庵夏一と名のり、狂言などを演じる優雅な生活を楽しんでいる。
この栄馬と槇の間に生まれたのが楠猪である。(写真C)
楠猪も母親ゆずりで美しかった。この女性に一目惚れしたのが横山又吉であった。黄木★おうぼく★という号を持つこの男は高知で有名な暴れん坊であり、自由民権運動の中心にいた。
又吉は安政二年(一八五五)十一月十五日、高知城下旭村下島の医師。横山常吉の四男に生まれた。十一月十五日は龍馬を同じ誕生日である。
藩校致道館に学んだのち、陸軍士官学校へ入学。しかし、フランス語の学習が嫌いで中退し高知へ戻った。そして、板垣退助の立志社へ入り、たちまち政治青年の頭目となって活躍した。
明治十三年(一八八○)、又吉は高知新聞に入社し、坂崎紫瀾、植木枝盛らと共に痛烈な政府攻撃の論陣を張った。
こんな男が楠猪をくれと栄馬に迫った。当然栄馬は断った。
すると又吉は「娘をくれなければ、家に火をつけるぞ」と栄馬を脅かしたという。ご子孫に伝わる本当の話である。
この又吉は、後に高知商業学校の創立者となる男である。

 


第5話 背中にふさふさ-1

第5話 背中にふさふさ-1

小美濃 清明

西内清蔵(にしうちせいぞう)の的場(射撃場)で坂本龍馬が鉄砲の練習をしていたことがある。
一回目の江戸修行が終わって高知へ戻ってきた頃の話である。
坂本家がある本丁筋から少し歩いたところに西内清蔵の的場があった。
清蔵は文化十四年(一八一七)高知の小高坂村に生まれている。十八歳龍馬より年上である。
龍馬の兄・坂本権平が文化十一年生まれなので、同世代という年である。

土佐藩の砲術家で、龍馬が入門した徳弘孝蔵と並び称せられた田所左右次(たどころそうじ)に清蔵は早くから入門していた。
嘉永六年(一八五三) ペリー来航の年である。臨時御用で岩国、長崎と西国を視察している。
ロシアのプチャーチンが来航したという情報で長崎へ行くが、ロシア船は退去して見ることはできなかったが、鋳造所などを見学して帰国している。
この旅行記を『砲術修行西国日記』としてまとめている。
清蔵は自邸の中の「山ノ端」に的場を作り、青少年に砲術を教えていた。その中に谷干城、坂本龍馬がいたという。
坂本龍馬が的場で射撃する時、着物を脱ぎ上半身裸で的をねらっていたという。その時龍馬の背中は体毛で覆われて、まるで馬のたて髪のようだったという。


 第6話 安田たまきの回想

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第6話 安田たまきの回想

小美濃 清明

高知市の桂浜を見下ろすように立っている坂本龍馬の銅像は、昭和三年(一九二八)五月二十七日に序幕されている。
この日は明治三十八年五月二十七日、東郷平八郎が率いる連合艦隊が日本海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した、海軍記念日であった。
この日、坂本龍馬の銅像を見た老婦人が朝日新聞記者・藤本尚則(ふじもとなおのり)のインタビューを受けていた。
老婦人の名は安田たまきという。たまきは脱藩するまでの坂本龍馬をよく知っていた。たまきは弘化二年(一八四五)十二月二十九日生まれだったので、昭和三年は八十三歳であった。昭和初期まで龍馬をよく知っている女性が高知に健在だったということになる。
たまきの兄・濱田栄馬は天保六年(一八三五)七月二日生まれで龍馬と同い年である。
兄・栄馬と龍馬は築屋敷の日根野道場へ剣術の稽古に通う仲間だったので、たまきは子供の頃から、坂本家に遊びに行っていたという。
龍馬の姉・乙女から長刀(なぎなた)の稽古をしないかと誘われたが、断ったという。乙女は「三十過ぎてから、男を持っていては自由に身が振れんと云って、嫁入り先から帰って来た程の変った人」とたまきは語っている。
龍馬は「当時の若侍の気風とは、何処か違う所があって、エラたがらず、威張らず、温和しい人で、それでいて見識の高い人でした」とたまきは印象を述べている。

たまきの回想で注目すべきところは、竜馬脱藩のあと、兄・坂本権平が栄馬を訪ねて来たところである。
権平は大切にしていた刀の詮議のため、栄馬に向って、
「栄馬、オンシの家へ刀を持って来ちょりやせんかネヤ」
と尋ねている。
「来ちゃアおらん」
と栄馬は答えると、
「それぢゃア、どうも龍馬がおととい家(うち)を出たきり帰って来んが、脱藩したらしい。人を雇うて詮議すると、須崎で、油紙に刀らしい物を包んで背中に負うた龍馬の姿を見た人があるそうじゃが、それから先のことは判らんキニのう」
と権平さんは語っていました。
とたまきは回想している。
この安田たまき証言が重要な意味を持ち、筆者の栄馬一族追跡調査が始まるのである。
栄馬の子、孫、曾孫、玄孫と調査は広がって、次々と新発見がつづいていく。
(1) 福岡宮内の写真で書いた写真も、曾孫の所持されるアルバムに貼られていた。

安田たまきは写真のように美しい老婦人であった。
若い時は姉・琴と共に美人姉妹といって高知で話題の女性だったようである。
山内容堂の側室にという声が掛ったそうである。たまきは当時・好(よし)という名前だったが、側室を断るために、急遽、安田家へ嫁いだそうである。そして、名前も好からたまきと改めたそうである。
安田たまきは昭和四年五月二十五日、死去しているので、死去する一年前の貴重な証言である。

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第252回 幕末史研究会のご案内
日時 2017年5月28日(日)午後2時から4時
会場 武蔵野商工会館4階 講師・合田一道氏(作家)
テーマ 北から見た幕末維新
会費 一般1500円大学生500円高校生以下無料
講義内容
明治維新は北辺の北海道をも揺るがした。
最後の戦いとなった箱館戦争の意味とは。
朝廷がまっ先に北海道開拓に着手した理由とは。

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第4話 欄干に腰かける龍馬

現在の天神橋

第4話 欄干に腰かける龍馬

         小美濃 清明

 高知の夏は暑い。しかも湿気が高い。幕末期にこの季節を土佐の人々はどのようにして過ごしていたのだろうか。
テレビの旅番組で四万十川の沈下橋が紹介されることがある。欄干のない橋は洪水の時、流木が欄干に引っかからずに流れていくので、橋が破損することはなく、今は高知県の名所となつている.。
この沈下橋から夏休みの子供たちが川に飛び込む場面を、四万十川の清流とともに高知県の観光案内として放送している。
幕末期に沈下橋はなかったが、川は涼を求める若者たちが集う場所だったと思われる。
高知城下には鏡川と江ノロ川という川が流れている。鏡川は高知城の南側の外堀として、江ノロ川は北側の外堀としての役割を果たしていた。
この鏡川に大橋という木橋が架かっていた。この橋は現在、天神橋というコンクリートの橋に架けかえられている。しかし、大橋は繁華街の「大橋通り」という道路の名前に残っている。
この大橋の欄干に腰かけている龍馬を見たという話がある。
土佐史談会副会長・谷是(ただし)氏のご母堂・谷豊(とよ)さんからお聞きした話である。
高知市潮江天神町の谷家は長宗我部元親に仕えていた谷市左衛門が長岡郡介良(けら)村に居住していたと伝えられる。山内氏入国後、川島鵜右衛門と改名し、百姓となり帰農していた。
六代下って川島市兵衛の子が谷姓を復活させて、谷中庵三的(さんてき・一六三六~一七二四)となり、潮江・谷家の初代となった。
きよし
そこから八代目となる谷巌(いわお)の弟谷潔(きよし)の妻となるのが谷豊さんである。
この谷家には『家伝の灸』という背骨の両側に『はしご』をかけるように据える『はしご灸』が伝えられていた。
七代目谷民衛のもとに『はしご灸』の治療に通っていたのが第6話に登場する安田たまきである。
治療中に安田たまきは坂本龍馬の思い出を語っており、民衝から豊さんにその話が伝えられていた。
「夏のある日、安田たまき(当時は藤田好)が使いで大橋を渡っていると、龍馬から声をかけられた。ふり仰ぐと、龍馬が大橋の欄干に腰かけていた。」
という話である。夏の日、涼を求めて大橋にくる若者たちが多い。大橋の中央部分あたりは川風が吹き涼しいのである。若者たちが集まって通る女の子に声を掛けているというシーンである。龍馬が何歳ぐらいの時であろうか。欄干に腰かけるということから考えると若い時、今の高校生ぐらいの年齢であろうか。十六、七歳と考えると、江戸へ修行に行く前あたりになる。
安田たまきは龍馬より十歳年下であるから、六、七歳となる。その時、安田たまきが一人だったのか、友達と一緒だったのかは分からない。
夏の暑い日、高校生の龍馬が小学生の安田たまきに「どこへ行くんだい」と声を掛け、振り仰ぐと兄・栄馬の友達が笑いながら欄干の上から見下ろしている。
川風が吹く鏡川の上で二人が視線を交わす場面である。
土佐電鉄の「大橋通り」で下車して、高知城を背にして歩いて行くと、鏡川にぶつかる。白いコンクリートの橋が、現在の大橋(天神橋) である。正面に筆山(ひっさん)の緑濃い姿が見えて、麓に潮江(うしおえ)天満宮の森がある。
若き日の龍馬を想像しながら、大橋を渡るのも一興である。


第3話 相良屋の証言

 

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第3話 相良屋の証言

坂本家は高知城下の上町(かみまち)にあった。上町は北から、北奉公人町(きたほうこうにんまち)、本町(ほんちょう)、水道町(すいどうちょう、通町(とおりちょう)、南奉公人町(みなみほうこうにんまち)、の五つの道路が東西に貫いている。
この町は下級武士、商人、職人、医者などが一緒に住む庶民の町だった。この町の様子が一目瞭然と分る資料が残っている。安芸市立歴史民俗資料館が所蔵する「上町分町家名附牒(かみまちぶんまちやなつけちょう)」である。
上町の町家、つまり上町の町人の名前が地図帳のように並んでいる資料である。下級武士(郷士)の名前は記入されていない。
坂本家のあった本町一丁目南側には
久村屋半兵衛
(  空白    )
相良屋八郎右衛門
(  空白    )
掛川屋権右衛門扣
(  空白    )
壷屋佐五兵衛
と町家が並んでいて、三つの空白がある。この空白のどれかが、郷士坂本家の屋敷である。
土佐史談会の広田博氏と内川清輔の調査により、坂本家は二百十一坪で、久村屋と相良屋の間と分った。

高知の郷士史家・松村厳は文久二年(一八六二)生まれで昭和十六年(一九四一)に死去している。文久二年と言えば坂本龍馬脱藩の年である。龍馬と同年代に生まれて、昭和まで生きた松村が貴重な証言を記録していた。
「坂本龍馬」(『土佐史談』第六十八号、昭和十四年九月刊)に次のように書いている。
〈題して「坂本龍馬」といえども坂本一代の事を叙するに非(あら)ずして、特に自分の聞知せる所を叙するに過ぎず。聞知といえど、皆、縁故者の言である。〉
縁故者から直接聞いた実話をまとめた文章と書いている。
〈坂本龍馬は本丁一丁目南側に生れて、相良(さがら)屋と相隣して居た。異相ありて、満身に黒子(ほくろ)九十二ありと称し、其乳母これを隠くし兼★かね★て居た。相良屋は耳垂(たぶ)の大なるを以て、坂本の黒子とならび称せられ、町中の一話柄となれり。
坂本は郷士にて、御用人格なり。長男を権平と云い、初の名は佐吉、坂本は次男にて、その弟なり。少時常に唐へ行きたいと申居(もうしお)れり、言う意は洋行したきなり。
相良屋は村越元三郎といふて、明治中、菜園場に陶器店を営で居り、余のために語る所なり。〉
相良屋は村越元三郎で坂本家は隣りであったと証言していた。そして龍馬はほくろが九十二個あり、町中の話のたねになっていたと語っている。
そして、ここが重要である。龍馬は子供の頃から洋行したいと言っていたと証言している。
龍馬は黒船来航前から、勝海舟に会う前から、海外に興味を持っていたのである。
龍馬の異国への視線は、十九歳の時、ペリー来航に遭遇したことにより具体的な形となる。勝海舟の門下生となり、咸臨丸アメリカ渡航について話を海舟から聞くことになる。


第2話 常通寺の仁王像

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第2話 常通寺の仁王像
坂本龍馬は子供の頃、近くの寺子屋に通っていた。

龍馬の生まれた高知城下の上(かみ)町から子供の足で通える寺子屋が四カ所あった。 楠山庄助塾、島崎三蔵塾、三橋栄十郎塾、萩原健洲塾である。

龍馬は楠山庄助塾に通っていた。安政三年(一八五六)頃、生徒は男子一〇〇名、女子二〇名と記録にある。男女共学である。

上町の本丁筋一丁目にあった坂本家から、北奉公人町を通って江ノ口川に掛かる常通寺橋を渡り、楠山庄助塾まで徒歩一〇分ぐらいである。 龍馬はこの道を往復していた。

常通寺橋を渡ると目の前に常通寺の大伽藍がある。山門があり中に入ると、鐘楼があり、弘法大師堂、観音堂、本堂がある大寺院である。しかし、明治三年(一八七〇)に廃寺となり、その跡には何も残っていない。ただ常通寺橋という橋の名にその名を残すばかりである。

現在は常通寺橋のたもとに高知私立第四小学校が建っている。

龍馬の寺子屋時代の話が残っている。

<毎日、龍馬が通る常通寺の山門には仁王像が左右にあった。龍馬はこの仁王様に紙を丸めて投げつけたり、石を投げたりしていたが、ついに竹竿で仁王様の腕を突いて堕してしまったという。僧は怒り、楠山塾へ来て楠山庄助にどなり込んだ。龍馬は庄助に呼び出され、頬を叩かれたという。〉

龍馬は腕白小僧だったと寺石正路(てらいしまさみち)は「南学史」の中に書いている。寺石は慶応四年(一六八)高知城下九反田に生まれている。龍馬暗殺の翌年である。明治十八年(一八八五)、寺石は東京大学予備門に合格し、南方熊楠、正岡子規、秋山真之らと知り合っている。しかし、健康を害(そこ)ない翌年中退し高知へ戻っている。

明治二十三年(一八九〇)四月から高知県尋常中学校の補欠教員となり、その後、海南学校(現・小津高校)の教師として三十数年わたって教鞭を執っている。
龍馬が生きた時代に生まれた寺石正路は、高知の歴史を詳しく調査している。

おそらくこの常通寺の仁王様と龍馬の話は実話として、高知に残っていたものであろう。かなり信憑性の高い話と思われる。

この楠山塾で龍馬は喧嘩をして退塾している。宮地佐一郎氏は『龍馬百話』(文春文庫)の中で
〈小高坂楠山塾の頃、学友の一人と口論となった。(中略)相手の少年が坂本家と違って上士であったので、遠慮して龍馬も退塾させたともいう〉と紹介している。

泣虫龍馬とは異った印象の少年龍馬である。


第1話 福岡宮内の写真

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「坂本龍馬と刀剣」をご愛読いただき、有難うございます。
読者の方から、面白いけど難しいとの声もあり、この辺で切り替えて、「坂本龍馬八十八話」をお届けします。
これは以前、日本文芸学院に連載していてハッカーの改ざんに遇い中断していました。
今回は、また振り出しに戻って第一話からスタートします。
難解な部分もあるかと思いますが、どうぞ、お気軽にお付き合いください。

小美濃 清明

はじめに

私は、龍馬という人物の史料を読み、追跡していくうちに新しい事実も分かってきた。また調査の過程で多くの方々にお世話になった。
龍馬、龍馬をめぐる人々、龍馬をご縁に知己となった方々について、雑談を八十八話としてまとめることにした。 これが宮地先生の『龍馬百話』という名著を念頭においての表題である。もとより、先生の著作の足もとにも及ばぬ内容である。
ただ先生にいただいたご縁がいくらかでも広がったことを先生にご報告したいと願ったからである。
平成二十二年四月六日 小美濃 清明

1、土佐で

第1話 福岡宮内の写真

坂本家は福岡家御領郷士であり、「福岡家御用日記」に龍馬脱藩に関する記述があった。

〈三月二十五日、御領郷士坂本権平弟龍馬儀昨夜以来行方知れず、諸所相尋ね候共不明由届出候事 三月二十七日、御領郷士坂本権平所蔵の刀紛失の旨届出候事〉

この「福岡家御用日記」は焼失しており、現存していない。平尾道雄著「龍馬のすべて」からの引用である。

福岡家は代々土佐藩家職で三○○○石を領していた。幕末期は福岡孝茂が当主で通称を宮内(くない)といった。維新後は九内とも書いている。 宮内は文政十年(一八二七)高知城下に生まれた。性格は闊達、明朗で雅量があり、政務に精通している家老だった。

少壮のころ、鹿餅雅澄に和漢の書を学んでいる。
天保十四年(一八四三)、近習御用に就任以来。藩政末期に至るまで同職ならびに奉行職を務めた。十三代藩主豊煕を助け。十四代豊惇が幼少で死去すると、十五代豊信(とよしげ・容堂)を補佐し、奉行として藩政を総轄した。下に吉田東洋が仕置役としており、十分に腕を振るわせるように配慮している。
文久二年(一八六二)吉田東洋暗殺の後、藩人事の更迭があり、宮内も一時免職となったが、重大時局に際し、再び登用されて旧職に復帰している。
元治、慶應年間は藩兵を率いて上京し、御所を警護している。維新後は明治二年(一八六九)刑法司主務、度支局大幹事を最後に引退している。明治三十九年十二月二十三日死去している。八十歳だった。

この福岡宮内の写真が東京で見つかった。

高知商業学校を創立した横山又吉・黄木(おうぼく)の孫にあたられる横山正意氏が所蔵されていた。横山氏にお会いして、福岡宮内の写真を複写させていただいた。
ロサンゼルスに創立された「LA龍馬会」の会長・飯沼星光氏と信子夫人をご案内して横山正意氏のお宅を訪ねた時のことである。横山氏が所蔵する古いアルバムを見ていた時、白い顎★あご★ひげを伸ばして、袴・羽織姿の老人の写真が貼ってあった。
「これ誰ですか」と筆者が問うと、「これは福岡宮内ですよ」

「どうして、ここにあるのですか」

「私の母は宮内の孫ですから」
といとも簡単に説明して下さった。

横山正意氏の祖父・横山又吉は自由民権運動家として有名であり、高知商業学校(現・市立高知商業高校の前身)の創立者でもある。
安政二年(一八五五)十月十五日、土佐郡杓田(しゃくだ)村下島(現・高知市南元町)に生まれているので、坂本龍馬より二十歳年下である。
アルバムの他に、孫文が日本に亡命した時、横山又吉が援助していたお礼に「博愛」と書いた孫文自筆の額もあった。 また福岡家に伝えられた古文書を貼り交ぜた風も所蔵されていた。

それらを拝見していると、幕末維新の史料がこのように伝えられて、東京にあることが不思議に思えた。まだ坂本龍馬に関係する史料も眠っているのだろうと思えてならなかった。

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第251回「幕末史研究会」のご案内

日時 2017年 4月22日(土)午後2時から4時

会場 武蔵野商工会館 四階

吉祥寺中央口より徒歩5分

講師 桐野作人氏 (歴史作家)

テーマ  西郷隆盛と『討幕』論      西郷隆盛は武力討幕論者だといわれるが、その実態は? 会費  一般1500円 大学生500円 高校生以下無料 申し込み方法

申し込み方法
4月20まで下記へ
FAX 0422-51-4727
spqh4349@adagio.ocn.ne.jp

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龍馬と刀剣ー12

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龍馬と刀剣ー12

「メモ」は鹿児島で書かれたと推定され、龍馬の短刀合口拵は二振りと存在しないと考えれば、「メモ」の白鞘の短刀と『坂本龍馬手帳摘要』の合口拵の短刀は同一のものと結論できる。
そして、その短刀合口拵は写真(龍馬立像)で袴の紐に差されている短刀そのものと考えられるのである。
慶応二年頃、長崎で撮影したと伝えられる写真(龍馬立像)を詳細に調べてみる。龍馬は短刀を袴の紐に差している。通常、このような差し方をしないので、写真撮影の直前、帯に差している短刀を外し、袴の紐に差し直したと考えられる。帯に差していては、短刀の柄しか写らないのである。龍馬は短刀全体を写真に残そうと考えている。
そして、この写真にもうひとつ注目したいところがある。
龍馬は左足を右足の外側に移動させている。脚を交叉させているのである。このポーズをとると腰は自然に回転し、左側に差している短刀は腰と共に、写真に写りやすい位置に移動するのである。
龍馬は腰の短刀を鮮明に写そうと意識的にこのポーズをとっていると思われる。
この短刀合口拵は、龍馬にとって大事な意味を持った差料だったことが判る。
では、この短刀合口拵にどのような意味が込められていたのだろうか。『刀剣図考』からそれを探ってみる。
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龍馬と刀剣ー11

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龍馬と刀剣ー11

ここで視点を変えて、幕末期、志士達が拵(こしらえ)を作るという事にどのような意味合いがあったのかを考えてみたい。
現代人が刀剣趣味から刀剣の「拵」を作るのと、それは根本的に異なる点があると思う。志士たちは常に(死)というものを意識した日常にいたのである。(死)はあらゆるかたちで志士達の前に現れてくる。(死) に対する緊迫
感、恐怖感は常に志士達の中にあったはずである。そうした感情を少しでも減少させる事ができるのは身を守る(武器)であり、(武道)である。刀剣を身に帯びることで敵からの攻撃を防御でき、また攻撃を加えることができるのである。強力な使いやすい刀剣を帯びることは、志士たちの心の安定と密接な関係を持っていたはずである。そうした配慮から刀剣は選ばれ、「拵」は作られていたと思われる。
赤心報国(せきしんほうこく)、七生滅賊(しちしようめつぞく)といった文字が鐸(つば)、はばき、縁頭(ふちがしら)、切羽(せっぱ)、鞘(さや)など刀剣の部分品に刻まれているのをよく見かける。それは志士たちの政治思想を明確に反映したものであると共に、志士たちの精神を鼓舞させる(象徴)としての役割を刀剣が持っていたことを表わしている。
また刀剣はその美しさで、志士たちにひとときの心のやすらぎを与える魅力があったと思われる。
志士たちにとって刀剣は様々な意味を持つ、必要不可欠なものであったのである。
龍馬も幕末志士の一人として、刀剣に関しては他の志士たちと大きく変るものではなかったと思う。
龍馬が鹿児島で誂えた短刀合口拵は彼の思想を反映したものであったはずであり、そうしたものを二振りと作る時間を龍馬は持ち合せていなかったと思われる。
この短刀合口拵が完成してから暗殺されるまで、わずかに十七カ月半である。


龍馬と刀剣ー10


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龍馬と刀剣ー10

小美濃 清明

⑤ 『刀剣図考』の入手
龍馬が宿から取りよせた本、『刀剣図考』 は、天保十四年三月に第一集、同年九月に第二集、弘化二年に第三集が刊行され、三巻本となっている。
この「メモ」を龍馬が書いた時点--慶応年間から約二十年前に 『刀剣図考』は三巻本として成立している。この本を龍馬はどこから手に入れたのだろうか。
(薩摩)(長崎)(下関)この三カ所の中でこの本を最も入手しやすい都市はどこだろうか。
『刀剣図考』の著者・栗原信充は元治元年二月二十一日、薩摩藩士・木脇祐尚(きのわきすけなお
)と共に江戸を出発している。薩摩藩主・島津忠義の父で国父といわれた島津三郎(久光) の強い招常に応じ、薩摩藩を訪れているのである。
刀剣・甲胃の研究者であった信充は薩摩藩・甲胃製造所の指導者として迎えられた。
鹿児島に到った信充を島津久光は厚く適している。
薩摩を訪れる前、江戸・神田紅梅坂の信充のもとには、多くの薩摩藩士がその教えを受けていた。
こうした栗原信充と薩摩藩の関係を考えれば、信充の著書『刀剣図考』を最も手に入れやすい場所は(薩摩)(長崎)(下関)の中ではやはり(薩摩)である。
「メモ」は薩摩で書かれたと推定できる。
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第2590回幕末史研究会は、武蔵野商工会館の会場にて大盛況でした。
講師は中世史の第一人者・五味文彦東京大学名誉教授です。
テーマは「織田信長の政権構想」で軽妙洒脱ながらツボを外さないのは流石でした、
講演の内容の断片を少々、ここで語れば・・・
応仁元年(一四六七)五月に戦闘が開始されたときに、あちこちで大量の雑兵合戦のためにかき集められて、それが両陣営あわせて三十万以上もの大軍になり、その年以降洛中の大半が戦火で焼失されます。しかも、戦いは畿内近国へと波及し、それが、結果的に自立の拠点の形成し、城館・庵・館・陣・温泉などの発展に寄与したという説なども斬新で面白い話でした。
あるいは、学問と教育の広がり、手習い所(寺子屋)の広がりなど。啓蒙的な藩主の出現によって城下町が城郭ではなく町人地になって繁栄してゆき、都市の担い手が町人や職人、百姓などになって都市は成熟期を迎える、など、それはそれでよかたのですが、残念ながら幕末史との関連が何もなかったのは残念でした。せめて、信長の政権構想と朝廷との関係が、幕末に朝廷を担いでクーデターに成功した薩長との違いなどに触れてほしかったところです。
文・村長