第87話 勝海舟の肖像画

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「坂本龍馬八十八話」

第87話  勝海舟の肖像画

 アメリカのバージニア州レキシントンに威臨丸に乗船していたジョン・ブルック大尉の孫にあたるジョージ・ブルック二世がご健在であった。
成臨丸子孫の会でこのブルック氏を訪ねるという企画が持ち上がっていた。
東京でそうした話が進行していた時、筆者はアメリカを旅行していた。
サンフランシスコで友人の作家、ロミュラス・ヒルズボロウ氏を訪ねていた。彼の家に宿泊していた時、メアアイランドは近いかと質問した。
「近い、車で20分位だ」という答えだった。案内してやるとすぐに車に乗る用意が始まった。
高速を走りながら、成臨丸の話をする。日本人96名、アメリカ人が11名。107名の乗組員が万延元年(1860)1月、江戸湾を出港し、37日間で太平洋を横断、サンフランシスコに入港した。
この話をヒルズボロウ氏は知っていた。しかし、船体修理のため、海軍基地があったメアアイランドに成臨丸が来ていたことを知らなかった。もと海軍基地だったが、現在は開放されていて、誰でも入れるという。
元海軍基地を歩きながら、修理ドックらしい場所も写真に撮り帰国した。
するとその話を威臨丸子孫の会でして欲しいと連絡があった。
来年、威臨丸子孫の会はアメリカ訪問を計画しているということだった。
成田から直行便でワシントンDCへ飛び、バージニア州レキシントンを訪ねて、その後サンフランシスコを訪れるという。メアアイランド海軍基地を見学する予定だという。
成臨丸子孫の会へ行きメアアイランドの話をした。
その後、話は進み、来年のアメリカ訪問をすることになった。サンフランシスコの案内はヒルズボロウ氏に決まった。
2005年10月6日、成田から出発し、ワシントンDCへ向かった。そして、昼すぎブルック家の前にバスは停止した。
雨にもかかわらず、ジョージ・ブルック二世は門の近くで傘もささず、直立不動の姿勢で迎えてくれた。
広間に日本に関連する展示物が並べられていた。皿、刀、絵画、人形、その中に勝海舟の肖像画があった。
Capt.Katz Lintaro
Japanese Navy
Painted by Karn
for Br00ks
艦長 勝麟太郎
日本海軍
力ーンが描きブルックへ贈る
と裏面に描かれていた。

海舟が小野友五郎、赤松大三郎と三人でサンフランシスコで撮った写真が残っている。そこに写っている海舟と同じ着物の肖像画であった。おそらく同じ日にカーンによって描かれたものと思われる。


第86話 フェアヘブン

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「坂本龍馬八十八話」

ニューヨークに住む友人にフェアヘブンに行ってみたいと言うと、連れていってあげるという。しかも車で。かなりの距離である。アメリカ人は驚くほど離れていても、いや近いところと言う。物差しが違うようである。
ジムは鉄道員だったが定年後、時間をもてあましており、毎日が日曜日であった。
助手席に座り地図を広げながら、ナビゲーター役となり、北上を開始する。
ニューヨーク、コネチカット、ロトドアイランド、マサチューセッツと四州を走り回ることになる。
運転しながらジムは何故にフェアヘブンへ行きたいのかと質問する。そこでジョン万次郎の一代記をアメリカ人にも分かりやすく説明する。こう書くといかにも筆者が英語の達人のように聞こえるが、実は下手である。
初めてアメリカを訪れたのは一九七一年であり、アメリカはベトナム戦争の真っ最中であった。もうなくなったパンナムが飛んでいた頃である。
迷彩服を着たアメリカ兵がパンナムでベトナムへ飛んでいく時代だった。それから数十年、アメリカへ旅行している。英語は下手だが、場数を踏んでおり、一人でどこへでも行く。ジョン万次郎の苦労にくらべれば、楽なものである。
フェアヘブンに着くと、ジムはB&Bという民宿を見つけると、筆者を下ろし、蛸輪返りでニューヨークに戻っていった。また迎えに来ると言って消えていった。初めての町で一人になる。ジョン万次郎の心境である。
B&Bはベッドと朝食という意味で普通の家がアルバイトに経営している。
早速、その家の自転車を借り、フェアヘブンの探訪に出かける。自転車でフェアヘブンの町の全休像を頭に入れ、翌日一日は早朝から走り回った。夜、レストランへ行くと天井から土佐清水市から贈られた大漁旗がたくさん下がっていた。
ジョン万次郎を救ったホイットフィールド船長の家、英語を教えてくれた女性教師の家、石造りの小学校を見て歩く。フェアヘブンにはホテルがなかった。小さな町であった。
ジムはそれを知っていて、B&Bを探してくれたのである。
その日の午後には対岸のニューベッドフォードの町へ行き、捕鯨博物館へ行った。鯨の全体骨格標本が展示されており、・大きさに圧倒される。万次郎が作った樽もこれと同じ形だろうかと、幕末に思いを馳せる。
次の日、ゆっくりとフェアヘブンの町を歩いてみる。木造だがしっかりとした家が並ぶ町並みは静かで落ち着いていた。
町で会う人も日本人には慣れていて、向こうから万次郎の話をしてくれた。ジムの車が迎えに来るのを待ちながら、海を見ていた。万次郎の望郷の念について考えてみた。やはり帰りたかったろうと思う。アメリカ社会に慣れたある日、突然にその思いは襲ってきたのではないだろうか。必死に生きている間は望郷の念など起きようがない。
鯨の尾だけの彫刻が緑の芝生の上に立っている。風もここちよく静かな午後だった。

ジムの迎えの車に乗ると、すぐさまニューヨークを目指して南下が始まった。
車の中で、フェアヘブンの町のことや、万次郎のことに、ジムから質問がでた。
そして、どうして万次郎に興味を持ったのかという質問に答えながら、坂本龍馬の話になる。
サムライに興味のあるジムは黙って聞いていた。
突然ジムは言った。この話面白い。鯨、ジョン万次郎、龍馬、ペリー来航。一大歴史ドラマだ。日米合作の映画を作ろう。ハリウッドへ売り込んだらいいぞ、と叫んでいた。


第85話 鬱陵島(ウルルンド)を訪ねて

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「坂本龍馬八十八話」
第85話 鬱陵島(ウルルンド)を訪ねて

 坂本龍馬が開拓を目指した竹島、現在の韓国・鬱陵島(うつりょうとう=ウルルンド)を訪ねてみようと考えた。
龍馬は慶応三年(一八六七)三月六日、印藤肇あて手紙の中に次のように書いている。
「良林及海中の品頬よきものを得バ
人をうつし万物の時を得るよろこび
諸国浪生らを命じて是が地を
開かすべしと、其余思千万ナリ。」
良い木材、海産物を得る開拓を目指していた龍馬は一度も竹島((鬱陸島)を見ていない。
成田空港から釜山(プサン)へ飛び、釜山から高速バスで浦項(ポハン) へ行く。浦項から高速フェリーで三時間でウルルンドに着く。
この島の面積は七三平方キロメートルで世田谷区と渋谷区を合わせた広さがある。
昔、この島は火山島で火口に土砂が堆積して平野ができている。龍馬は、
「壱里余より弐里もあらん平地ありしと也」
と手紙の中に書いている。
上陸してみると、広い平野があり、龍馬が持っていた情報と合致している。しかし、土砂が堆積した土地であり、肥沃ではないようである。龍馬が希望した稲・麦の作付けは無理のようである。
しかし、海産物に関しては豊富であり、ウルルンドの土産品売場では魚類・貝類・海草類の生もの、加工品が販売されていた。
フェリーが発着する桟橋は狭く、島全体は岩壁で囲まれており、良港はどこにもないようであった。
もし、いろは丸でこのウルルンドに到着しても、船を横にする場所はなかったと思われる。
沖に碇泊させ小舟で近づき上陸するようになったであろう。
冬は積雪もあり、かなり寒いということであり一年中の漁船の操業は無理と思われる。
龍馬の描いた開拓の夢は実現したであろうか。否であろう。
龍馬のいろは丸沈没という情報をうけて、岩崎弥太郎はこの島に上陸している。しかし、彼もこの島の開拓には乗り出していない。
吉田松陰もこの島の開拓に夢を描いたが、これも実現しなかった。
「元禄九年お引渡の事」という事実があった。松陰はその事実を認識しながらも、防衛という問題でこの島に注目していたのである。
しかし、龍馬も岩崎弥太郎も経済という視点からウルルンドを見ていたのであり、軍学者と経済人という違いが如実である。
このウルルンドに上陸してみて、観光地として栄えている島に最も良い産業は、やはり観光であろうと考えた。
「龍馬が行きたかった島」として宣伝すれば、かなり多くの日本人観光客が訪れるのではないだろうか。
日韓両国にとっても良いことと思われる。
これは竹島(韓国名、独島(トクト)問題の良い解決をもたらす糸口となるかもしれない。


第84話 L字の道路

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「坂本龍馬八十八話」

第84話 L字の道路

 京浜急行立会川駅の改札口を出て右に歩きだすとすぐに国道15号線にぶつかる。第一京浜である。そこを渡って右に歩くと品川区立浜川中学校がある。ここが土佐藩品川下屋敷の跡地である。
品川下屋敷は土佐藩が天保十三年(一八四二)に幕府に提出した「指出(さしだし)によると一万六千九百一坪とある。土佐藩の江戸で所有していた屋敷の中で最大のものである。その中心となっていた部分にこの浜川中学校は建っている。正門に沿って国道の歩道を歩いてゆくと、信号機がある。この信号機の交差点を右折して進むと、その道は行き止まりになる。右に曲がる道しかない。前進あるいは左折はできない道、不思議な道である。L字に曲がっている路を進むと、もとの第一京浜へ合流する。地図で確認すると、この道は立会川に直角に近い角度で接するように造られている。
L字という形からみて、この角が土佐藩の角を示していると思われる。
L字のもう一方を歩いてゆくと、来福寺と土佐藩品川下屋敷の境界にこの道があると分かる。
この屋敷は明暦三年(一六五九)一月、江戸本丸、二の丸も焼失した大火(明暦大火、あるいは振袖火事とも言われた)の後、土佐藩が御国元から海路送った木材の集積地として使われた土地に建てられている。
大火の後、江戸の道幅拡張、側溝などを定め、町屋の藁(わら)、萱葺(かやぶき)の屋根を禁止し、江戸の大改造をしている中で、大量の木材が必要となり、土佐の木材が江戸へ送り込まれたのである。土佐は森林資源漉が豊富であり、海路送り込んだ木材を蒜保管するために、広大な土地が必要になった。
一万六千九百一坪、東京ドームの約一・二倍となる面積を幕府から借りて使用した。
その後、土佐藩はこの地を拝領して下屋敷としたのである。
寛政年間(五八九~六〇一)に道中奉行が中心に作成した「東海道分間延絵図」には土佐藩品川下屋敷が描かれている。
東海道の浜川橋(涙橋)から細い道路が品川下屋敷の表門に向かって延びている。道の両側は松が植えられており、町屋は東海道沿いに点在するといった静かな場所である。
屋敷は水田に囲まれて、裏が小高い丘となっており、西隣りに来福寺が石段と共に描かれている。
大きな屋根の家屋が一軒、中ぐらいの屋根が五軒、蔵が九軒、確認できる。ペリー来航時、突貫工事で仮屋敷も建てられたと記録されているので、かなりの人員を収容できる屋敷だったと思われる。
L字の道路近くに大きな屋根の家屋が描かれているので、ここが主殿となる建物と思われる。東に向いたこの建物は水田を目の前にする景色の良い眺めである。
屋敷の塀は土塀ではなく木の柵のように描かれている幕末期には土塀になっていたか分からないが、案外、そのままだったのではないだろうか。


第83話羽田空港第四滑走路

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小美濃 清明

8、各地を訪ねて

第83話羽田空港第四滑走路

 現在、建設が進行している羽田空港第四滑走路(D滑走路)は二千五百メートルだそうである。土台の基礎部分は三千メートルあり、そのうちの一千メートルが多摩川の河口から流れ出る水の方向を変えてしまうので、その部分は橋梁とし流れが変わらないようにしたと建設の担当者から説明を受けた。
残り二千メートルは土台で埋め立てる従来の工法で造られている。
幕府が作成した「異国船進退之図」という地図がある。それによるとペリー提督が久里浜で国書を日本側に提出した次の日、一艘の軍艦が羽田村十二丁沖まで進入したと記録されている。
この軍艦はミシシッピ号であり、ペリー提督が乗っていた。
「ペリー艦隊 日本遠征記」には次のように書かれている。
(一八五三年七月十五日
(嘉永六年六月十日)
その日の午後のうちに、提督は提督旗をサスケハナ号からミシシッピ号に移した。それから江戸に向かってさらに約一〇海里進み、浦賀の停泊地から二〇海里ほど離れていると推測される地点に到達した。江戸の港か船積み場が首都の南側にはっきりと見えたが、首都そのものは見えなかった。
日本の首都は中国と同じように家屋が低いので、突き出た岬の背後にすっぽり隠されており、湾は岬の向こうで東に向かっていて、低い沖積地の海岸が湾を取り巻いていた。
見えた町はおそらく江戸の郊外の品川であろう。湾の西側には神奈川と川崎という人口集中した二つの町が見えた。
ペリー提督は船底の浅いミシシッピ号を旗艦として自ら乗り込み、江戸の町を見ようと考えたのである。
羽田沖まで入ると品川の町は見えるのである。最新鋭の蒸気軍艦ミシシッピ号の甲板で望遠鏡を持って立っているペリー提督の姿が浮かんでくる。
六月十日午後、この日、土佐藩はどのような対応をしたのだろうか。
<覚
一、品川御屋舗詰
惣頭取 山田八右衛門
〃  落合儀八郎
細井半之進 細井半十郎
安養寺善平 井家馬次
勝賀瀬専吉
一、品川御屋舗詰
足軽小頭 五人
足軽   五十人
小人   四十人
但為固御人数被差出候ハ六月七日之事也)
とあり、六月七日に最初の警備陣が品川下屋敷へ配置されている。
六月十日、土佐藩が品川にどれだけの人員を送り込んでいたか知る記録はない。
最新鋭のペリー艦隊が進入した場所に、一五七年後、日本の最新技術の滑走路が誕生したのである。


第82話長崎を歩いて

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小美濃 清明

8、各地を訪ねて

第82話長崎を歩いて

正覚寺下で電車を降りて歩き出す。崇福寺で石段を上り中国風寺院を見たあと、晧台寺(こうだいじ)に向って歩いていく。寺町の通りは仏具屋が多い。いつだったか東京の仏具屋にはない仏具があ化ので買って帰ったことがある。
 晧台寺には近藤長次郎の墓がある。
昨年、高知市民図書館で近藤長次郎の資料を見ている時、長次郎が自刃した時、身につけてに袴の布地があった。紫色の市松模様の袴地だった。持ってみると厚い絹地で立派なものだった。
長次郎が刀を差し、ピストルを右手に持っている写真の中に写っている袴とは大違いであった。たぶん、海外へ出るというので、新しく作ったものだろう。ずいぶん、派手な袴だというのが第一印象である。侍の袴というよりは、能舞台の上で見るようなきらびやかな袴である。しかし、この袴を身につけて長崎の町を歩いたら、そうとう目立つのではないだろうかとも考えたが、そうでないかもしれないと思った。中国系の衣装は華やかである。そうしたものに見なれた長崎の人々たちは気にも止めないかもしれない。
龍馬は長次郎自刃の時、「術数余(じゅつすうあま)りあって、至誠足らず、上杉氏之身を亡す所(ゆえん)なり」と書いている。龍馬にしては少し冷めた書き方である。
水通町の大里屋の長男が、努力して摘んだ海外留学である
階級制度の厳しかった土佐藩で苗字帯刀を許されることは異例中の異例である。
長次郎は海舟の門人として龍馬と共に働いている。越前藩士・村田巳三郎に龍馬が会いに行った時も一緒であった。
龍馬も年下の長次郎を何かと気遣いしていたようである。
亀山社中で才子と言われて、少し龍馬から離れているようなところが見えてきたのだろうか。
至誠が足りないと龍馬が書くような事柄が二人の間にもあったのかもしれない。
長次郎にすれば侍になりたいという夢を実現し、もう一段高いところへ登りたかったのかも知れない。
龍馬は階級をあまり意識せずに生きている男だったが、長次郎は常に階級を意識して生きたのだったと思われる。そうした意識が、至誠足らずと龍馬に印象づける行動を起こさせていると思われる。
幼馴染も次第に出世していくと、いつの間にか、ライバルとなり、それを超えていくことに熱中するのかも知れない。
龍馬とすれば、淋しいだろうが、他人の生き方をどうすることも出来ないのである。
「千里駒後日渾」にある、
「己が居たら殺しはせぬのぢゃ」
と残念がる籠馬も長次郎の成長と変化に複雑な思いがあったのではないだろうか。
近藤長次鮎の墓には「梅花書屋氏墓」と刻まれている。
墓石の筆跡は龍馬、高杉晋作、小曽根乾堂とも言われているが、特定されていないという。


第81話下田・宝福寺を訪ねて

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明けましてお目出とうございます。
本年も宜しくお願いします。
2019年元旦 小美濃清明

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8、各地を訪ねて

第81話下田・宝福寺を訪ねて

 坂本龍馬の脱藩を許してもらったのが下田の宝福寺である。
文久三年(一八六三)一月十六日、勝海舟は宝福寺に滞在していた山内容堂を訪ねて、坂本龍馬の脱藩を許してもうらうよう礼儀をつくして懇願する。
容堂は海舟が飲み干した大杯を見て、それを許したという。そのあと、海舟が願う赦免の証しとして白扇に瓢箪(ひょうたん)を描き、
歳酔 三百六十回
鯨海酔侯
と書いて渡した。龍馬が脱藩を許された瞬間である。
今、宝福寺にはその謁見の間が修理されて公開されている。そこには朱色の三段重ねの大杯が展示されている。
この宝福寺住職・竹岡幸徳氏が会長となり伊豆龍馬会が発足した。
下田のみならず伊豆半島全域での活性化をめざし、龍馬会を運営していくとのことである。
こうした姿勢に賛同する方々が集まり始めて活動に勢いがついてきた。
先頃、宝福寺に木造の坂本龍馬像ができあがり設置された。
伊豆のログハウスを作る名人・土屋宗一郎氏が、カナダから輸入した樹齢2100年の杉で作つたという。台座から三メートルはあるという大きなものである。
太い丸太を輸入して雨ざらしにして十年間放置したという。
八本が腐食して使いものにならなかったそうである。中に一本だけ全く腐食しなかった丸太
のった。この丸太で龍馬像を彫ったという。一木作(いちぼくつくり)の龍馬像は荒々しい一刀彫で作られている。円空仏のような印象である。
この龍馬優には魂がある。その魂ゆえに腐食しなかったのである。そして、土屋氏によって龍馬の魂が込められて誕生した。
土屋氏はこれを無償で宝福寺へ寄贈したという。
私は、一生懸命にやる人を応援したい。地域の為にやれることはないかと常に考えています。お金じゃないんですよ。
今、巷では龍馬、龍馬と騒がれています。下田田の人たちが壷懸命にその龍馬に乗っかって、何とか観光に繋げたいと頑張っているでしょう。
私はただそれを純粋に応援したいと思っただけです。観光客の方が、この木像を見上げて、少しでも笑顔になってくれればそれでいいんです。」
下田の宝福寺には坂本龍馬の木像がある。龍馬脱藩を許した容堂。愛弟子の自由を願った海舟。日本を洗たくすると云った龍馬。
この三人の思いが、現代の我々へも伝わるのである。
幕末に近代国家への飛躍を願い、それぞれに全力を尽くした三人の思いがこの木像に込められている。
日本が今一度、あの幕末の息吹をとり戻すことを願った坂本龍馬像である。


第80話 札幌・坂本家を訪ねて

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8、各地を訪ねて

第80話 札幌・坂本家を訪ねて

平成十二年、札幌の坂本家を宮地佐一郎先生、北海道龍馬会の萱場利通氏、寺井敏氏と共に訪ねたことがあった。
故坂本直行画伯の未亡人、鶴夫人が出迎えて下さり、一階で直行画伯の思い出話に花が咲いた。
′その後、二階の部屋にご案内いただき、坂本家に伝えられた数々の品を拝見させていただくことになった。
宮地先生は『坂本龍馬全集』を編集する過程でそれらを拝見していたが、久しぶりに目にする品々だった。宮地先生はそれらの品を手にとられてなつかしそうに見て
南州と署名された西郷隆盛の書があった。
その横に公文菊倦(くもんきくせん)が描いた坂本龍馬肖像の掛軸がある。
lしの有名な能馬肖像は公文菊億の描いた肖像画の中でも特に好評を博したものである。
このシリーズで、中岡慎太郎、武市瑞山、山内容堂、桂小五郎などがあった。それらは極めて保存がよく、今、描いたように美しかった。
次に坂本龍馬の手紙を拝見した。『坂本龍馬全集』で写真版で見ている紙がいくつも広げられた。
宮地先生はそれらを一通ずつ、丁寧に手にとり読んでおられた。実物を手にする時、有数十年の時を超えて、行間から龍馬の息遣いが伝わってくる。
手紙には龍馬の命が込められており、読む人の心に波動となって響いてくる。
宮地先生はいつも首を縦に小さく振りながら読む癖がある。
こうして直筆の手紙を手にしながら、『坂本龍馬全集』を編集されたのである。
部屋いっぱいに広げた品々は古い長持に収納された。やはり本物の持つ迫力である。一同満足して一階に降りた。
そして玄関から外へ出て写真を撮り、円山墓地へ供える草花を鶴夫人が摘んでいる姿を見ていた。
それから円山墓地へ向かう車中でも楽しい話でいっぱいだった。鶴夫人は孫の中に名前に馬の字をつけた男の子が増えたと笑って話されていた。
龍馬が目指した北海道開拓の夢がこうしてご子孫たちによって実現していることを龍馬は楽しそうに見ているに違いない。   坂本家九代目のご当主は坂本登(のぼる)氏で、直行画伯と鶴人のご長男である。現在は東京在住で親しくさせていただいている。
初めてお会いした時は印象的であり、よく記憶している。龍馬会での宴席の時、横で黙って盃を口に運んでおっれた。その方が坂本登氏と分かった時、龍馬を感じたのである。龍馬も物静かであったと伝えられている。


第79話 山内豊秋氏と埋忠明壽(うめただみょうじゆ)

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小美濃 清明

第79話 山内豊秋氏と埋忠明壽(うめただみょうじゆ)

 山内豊秋氏に東京龍馬会でど講演していただいたことがあった。
豊秋氏は山内家十八代のご当主で明治四十五年(一九一二)六月十九日生まれである。山内容堂の曾孫にあたる。陸軍大学を卒業され、終戦時は陸軍中佐であった。
宮地佐一郎先生は郷士のご子孫なので常に「お殿様」と呼んでおられた。
ある時、作家の安岡幸太郎氏と高知空港で立ち話をしている時、豊秋氏が近くを通られて二人に声を掛けて下さったそうである。
二人は最敬礼で見送ったとのことである。
安岡氏も郷士のど子孫である。吉田東洋を斬った安岡嘉助はご祖先になる。
その日のど講演は豊秋氏ど自身の話だった。陸軍大学校を卒業され陸軍参謀になった頃から戦後、通商産業省で石油関係のお仕事をされていた頃までをお話しされていた。
石油関係の調査のため中近東ヘビ出張された話の時、出張費が充分にもらえなかったので護り刀を売って出張費を捻出したという話をされた。
ご講演のあと、懇親会があり、丁度、豊秋氏の近くに宮地先生と共に座ることになったので、懇親会の中ごろになって豊秋氏に尋ねた。
「お売りなった刀は何ですか」
豊秋氏はさらりと答えた。

「埋忠明寿(うめただみょうじゆ)です」
そのひと言で分かった。
自宅に帰ってすぐに「日本刀分類目録」(春陽堂)を見た。この目録は明治三十年十二月以降国宝に指定された刀剣と昭和八年七月以降に重要美術品に認定された刀剣、合わせて一六〇〇余振を昭和十九年三月末日現在で収録したものである。
昭和八年七月二十五日
侯爵 山内豊景
脇指 山城国西陣住人埋忠明壽作六十一歳
元和四年五月十一日
一尺三寸分
と記録されていた。
山内家の指定品は十四振あり、その中の一振だった。
山内豊景氏は豊秋氏の父上である。

代々、山内家に伝えられた伝家の名刀であった。それを売却し出張費としたのである。
戦後の混乱を脱出し高度成長へ向かう時、やはり石油株国家戦略の根幹をなすものだった。そうした大事な中近東出張に充分な出張費も出ない日本国の状況の中で、黙って伝来の埋忠明壽の脇指を売ったのである。
豊秋氏は軍人らしく姿勢のよい、静かなお人柄だった。
高知の山内神社に山内容堂の銅像が完成した。除幕式の日、豊秋氏は座って盃を持った銅像の容堂に、日本酒を注いでいる写真がある。十五代豊信(とよしげ)と十八代豊秋氏、この写真を拝見しているとやはり殿様だと思ってしまう。
龍馬は脱藩を許してもらったが容堂に一度も会うことはなかった。


第78話 宮地佐一郎と亀井勝一郎

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第78話 宮地佐一郎と亀井勝一郎

「坂本龍馬手帳摘要」に慶応二年(一八六六)五月二十九日、坂本龍馬が寺内新左衛門(新宮
芝助)から借金をして、短刀合口拵(たんとうあいくちごしらえ)と研代を支払っている。ちょうど鹿児島から長崎へ向かう前日であった。
お龍との新婚旅行も最終日で鹿児島へ別れを告げる日が近づいていた。龍馬も身辺整理をして旅立つ支度をしている最中である。鹿児島の刀剣家のところへ短刀の他に「備前兼元無銘(ぴぜんかねもとむめい)」を研磨に頼んでいた。その支払いが合計で三両二束余であった。龍馬は金がなかったので、四両二分を寺内から借り、更に寺内から二両を借りている。合計六両三歩、借金をした。
ここに「備前兼元」と印刷されている。はて、と思った。旺文社文庫の『龍馬の手紙』を読んでいた時である。備前には兼元という刀鍛冶はいないのである。兼元は美濃国の名工である。
孫六兼元という刀鍛冶が兼元何人かの中で特に有名である。備前にいるのは兼光である。備前長船兼光といい、延文頃(南北朝。一三五六~一三六一)の名工である。
草書で「光」と「元」は書体が似かよっている。もしかして、「坂本龍馬手帳摘要」を読み違えたのだろうかと考えた。
その可能性もあると考えて、原本を読みたいと考えた。原本はどこにあるのか、光と元の読み違いか、それとも単純な誤植なのかを旺文社の編集部に問い合わせる手紙を送った。それが大変な事になってしまった。
旺文社が宮地佐一郎先生へ転送したのである。
そして、宮地先生から手紙が届いた。原本はないとのことだった。岩崎鏡川の「坂本龍馬関係文書」に掲載されているままであるとのことだった。そして、先生のご住所が筆者の住まいと近いと分かった。偶然である。
しばらくして宮地先生が自転車に乗って現れた。これが運命であり、筆者が龍馬研究に入る発端である。
しばらくして、今度は筆者の方から先生のお宅を訪問した。一階の茶室で真喜子夫人のお粉茶をいただきながら、話がはずんだ。
そして、三度目は先生と筆者の住まいの中間にある井の頭公園と決まった。池畔のベンチに腰かけながら話をしたり、近くの焼鳥屋で飲みながら、あるいは玉川上水辺りを歩きながら龍馬の話だった。


鎌倉への文学散歩で大彿次郎先生の墓へもご案内いただいた。
また函館では亀井勝一郎先生の文学碑へ今度は筆者がご案内した。高田屋嘉兵衛の銅像を見ながら坂を上っていくと、左に文学碑があった。

人生 邂逅し 開眼し 瞑目す。

宮地先生はその碑を撫でながら、「先生やって来ました、やって来ました」と話しかけていた。その姿は今でも忘れることができない。人とのつながりはこういうものでありたい。