第62話 谷干城の証言

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幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken
幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。

6、暗殺

第62話 谷干城の証言

谷干城(たにたてき)は天保八年(一八三七)二月十一日、土佐国高岡郡窪川村に生まれた。家は代々神道家、国学者の家系。この日、谷は京都におり、龍馬暗殺の報を受けてすぐに近江屋二階へ上っている。
谷は明治三十九年(一九○六)「坂本中岡暗殺事件」という講演の中で今井信郎の話に疑問を投げかけている。
今井は箱館で降伏し「刑部省口書」で自分は二階へ上っていないと証言していたが、明治三十三年(一九○○)五月の雑誌で自分が殺害したと語っており、二階へ上ったことになっている。それは矛盾の多い内容であった。
谷は自分が見た龍馬の疵と今井の証言の違いを細かく語っている。
〈坂本は非常な大傷で額の所を横に五寸程やられて居るから此一刀で倒れねばならんのであるが、後ろからやられて背中に袈裟に行っている。〉
谷は龍馬の額のところが五寸(15センチ)横に斬られていると証言している。これが致命傷になったと言っている。
〈そこで、坂本はどう云う事をしたかと云うと、どうも分らぬ。けれどもこれも想像が出来る。自分(龍馬)は刀を確かに取ったに違いない、刀を取ったがもう抜く間もないから鞘越しで受けた。それで後ろから袈裟にやられて、又重ねて斬って来たから、太刀折の所が六寸(18㎝)程、鞘越しに斬られている。身は三寸(9㎝)程刀が削れて鉛を切った様に削れている。それは受けたが、受け流した様な理屈になって、そしてその時横になぐられたのが額の傷であろうかと想像される。〉
谷干城は龍馬の鞘が六寸程切られていて、その刀が三寸程、削られていたのを目撃している。
これも重要な証言であり、龍馬の行動を解明する手掛かりとなる。
谷は幕末動乱を生き抜いた者として、今井が述べる暗殺は承服できなかった。
〈石川(中岡)が言ふには賊は二人であった。今井の言ふには四人であると斯う云ふてある。(中略)
然るに今の今井先生の全体其時の挙動と云ふものが如何にも面白い。どうも丁度芝居の讐討(かたきうち)でも見る様な景況で、どうしても事実とは考へられぬ。あとから作ったものと思はれる。〉
谷の語っていることは事実で今井の証言は後から作られたものなのである。
今井は坂本の顔を知らないので、〈早速気転を利かし、坂本さん暫くと言ふと、どつちが坂本か知らふが為に声を掛けた。さうすると入口に坐して居つた人がどなたですかと答へたので、それでこいつが坂本ぢゃなと斯う思ふて、矢庭抜いて斬付けた。〉という証言は谷を怒らせている。
〈殊に坂本は剣術は無逸の達人で、平生付けねらはれて居るのを承知のことなれば、少しも油断しない。それが顔と顔とを見合わせて話をしてそれから斬られる様な鈍い男ではない。是等が最も嘘の甚しい事柄で、決して斯う云ふ訳のものでない〉


第61話 田中顕助の証言

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6、暗殺

第61話 田中顕助の証言

田中顕助は天保十四年(一八四三)閏九月二十五日、土佐国高岡郡佐川村に生まれた。初めは浜田辰弥と名乗った。父は浜田金治で家老深尾家の家来だった。長州へ行き田中顕助と改めた。京に出て中岡新郎のもとで薩長同盟に尽力した。この日、京都・白川の土佐藩陸援隊に顕助はいた。
事件直後、近江屋二階の奥八畳間に駆けつけた顕助は『田中青山伯追懐録』で次のように語っている。
〈十五日の夜、自分が白川の陸援隊に居たが、菊屋峰吉の急報によって大いに驚き、直ちに白川邸を駈け出して、途中二本松の薩摩邸に道寄りし、吉井幸輔に知らした上、河原町に馳せ付けたところ、醤油屋の二階の一間には、下僕の藤助が横ざまに倒され、次の間に這入ると坂本と中岡が血に染んで倒れていたが、中にも中岡は十一箇所の創で、右手などは、皮だけ残って、ブラブラして縫い合わす事もできない状態であった。
何でも遣られた時、起き上がって窓を開けて見たが賊はモウ逃げた後であったと云う事である。
一方坂本は、眉間(みけん)を二太刀ほど深くやられて、脳漿(のうしょう)が飛び出して、早やこと切れていたが、坂本も斬られた後起上って「誠君……如何だ、俺は脳をやられたから、モウいかん」と言いつつ行燈の顕で自分の刀を見たと云う事である。
中岡はそのような重症を受けながらも精神は確かで、刺客の乱入の模様を語った。
何でも突然二人の男が二階へ駆け上がってきて、モノをも言わずに斬ったので僕(中岡)はかつて君(田中)から貰った信国の短刀で受けたが、何分仕込が迅速であったのと、手許に刀がなかった為、不覚を取った。
君らもこれから刀を肌身はなしてはいけない、坂本は左の手で刀を鞘のまま取って受けたが、トウトウ敵はないで、頭をやられた。
(中略)
後になってその短刀を見ると、敵の切先が、短刀の身へ斬込んで、刀がボロボロになっていたが、是を見ても余程勢よく斬りこんだものと思われる。
そして坂本が鞘で受けた時、その鞘が天井を突き破いていたにも目についた。〉(原文ママ)
田中顕助の証言で重要なところを抜き出してみる。
① 龍馬の眉間の二太刀、深くやられていたのを田中自身が見ている。
② 龍馬は脳漿が飛び出していた。
③ 龍馬は死亡していた。
④ 龍馬は斬られた後、起き上って「誠君……如何だ、俺は脳をやられたからモウいかん」と言いつつ行燈の光で自分の刀を見ていたと中岡が語ったのを田中は聞いた。
⑤ 龍馬は左の手で刀を鞘のまま取って受けたが、トウトウ敵はないで(薙いで)頭をやられたと中岡が証言したのを田中は聞いている。
⑥ 龍馬が鞘で受けた時、その鞘が天井が突き破いていたのを田中は見ている。
この①~⑥までの田中の証言は龍馬が暗殺された時、どのような動きをしたのか解明する手掛かりとなる。


第59話 近江屋の二階

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6、暗殺

第59話 近江屋の二階

近江屋の二階は四部屋あり、河原町通りに面した八畳間、次の六畳間、そしてもう一つの六畳間があり、その奥に暗殺現場となった八畳間がある。この四部屋が細長く並んだ、京都の町家の典型「うなぎの寝床」の形状である。
そして、暗殺現場となった八畳間の古写真が残っており、龍馬が背中を向けていたと考えられる床の間が写っている。
またこの部屋が裏庭に向かって低くなっていく傾斜した天井となっていることが分かる。
この八畳間には窓兼物干に出る出入口があり、隣家の屋根が確認できる。
この奥八畳間で慶応三年(一八六七)十一月十五日夜、坂本龍馬と中岡慎太郎は向き合って話をしていたと推定されている。
二人の間には冬の季節なので、暖をとる火鉢が置かれており、行燈もあったとされている。何か書類を見たり、筆を使って書くという時に必要だったと考えるのだろう。
龍馬の刀は床の間に置いてあり、中岡の刀は本人が遠くに置いていたと証言しているだけでどこに置いてあったかは分からない。
猫を描いてある風はどこに置いてあったか不明であり、置く位置によっては坂本、中岡、刺客二人の動き方、動作が変わってくる。
もう一つ重要なことは、天井板が破れていたことである。部屋のどこあたりの天井が破れていたか証言はない。
天井が低いということが、天井を破るということなるのだが、龍馬の体勢もその原因になっていると思われる。
龍馬暗殺現場を正確に再現するには、分からないことが多くある。確実なことと確実なことの間の空白は推定する方法をとっていく。
物証として存在するもの。

龍馬の差料吉行(京都国立博物館蔵)
龍馬の差料吉行の鞘(古写真のみ)
猫の風
掛軸
証言
中岡慎太郎が斬り込まれた後、生存していた間に話したこと。矛盾する点もあるが、死に臨んで偽証するとは思われないので、中岡から直接、襲撃の瞬間を聞いた、田中光顕、谷干城、林謙三の証言を確度の高い証言として使うことにする。
闘争の再現
剣道ではなく古流の剣術を真剣で行う訓練を実践しておられる方々に、再現していただいた。実技を行った方々の感じたことも参考とした。


第58話 龍馬はおらず

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第58話 龍馬はおらず
〈暗殺〉龍馬はおらず

慶応三年(一八六七)十一月十五日の坂本龍馬の昼間の行動を記録した記事がある。
〈(龍馬は)両三日来風気味で、他出もせざりしが、此日午後三時頃、隣家の酒屋に下宿して居る福岡(孝俤)を、訪問したが、不在のため、更に午後五時頃訪問したが、未だ帰らず、其時福岡(孝俤)の従者和田は、坂本に伺ひ先刻名刺を持つた使者が、坂本先生は御宅に来て居らぬかと、尋ねて来ましたと告げた。坂本は丁度其処に来て居た福岡(孝俤)の愛して居る、白拍子のおかよに、先生のお帰りは遅くなるべし。帰る迄、僕の宿之話においでと云ふて帰つた。午後三時頃中岡の訪問を受けたのである。〉
「雋傑坂本龍馬」(昭和二年十一月、坂本中岡両先生銅像建設会編纂発行)
〈慶応三年十一月十五日午後、坂本先生は隣家の酒屋に下宿せる福岡(孝俤)先生を二度訪問し、帰る際、自分の下宿へ行かぬかと誘はれ、行かんとせしを、福岡先生の従者和田に引止められ、同行せざりし為め、其夜の危難を免がれた、福岡子爵未亡人(本年七十七歳)より実話を拝聴〉
と解説されている。
この福岡孝俤婦人の証言と同じ、十一月十五日午後を証言した記録がある。
〈十月中此与頭佐々木唯三郎旅館へ呼寄候ニ付、私並、見廻組渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂準之助、土肥仲蔵、桜井大三郎六人罷越候処、唯三郎申聞候ニハ、土州藩坂本龍馬儀不審ノ筋レ之、先年於ニ伏見一捕縛ノ節、短筒ヲ放シ捕手ノ内、伏見奉行組同心二人打倒シ、其機ニ乗ジ逃去候処、当節河原町三条下ル町土州邸伺町家ニ旅宿罷在候ニ付、此度ハ不二取逃一様捕縛可レ致万一手ニ余リ候得ば、討取候様御指図有レ之ニ付、一同召連出張可レ致、尤龍馬儀旅宿二階ニ罷在同宿ノ者も有レ之候由ニ付、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂準之助ハ二階へ踏込、私並土肥仲蔵、桜井大三郎ハ台所辺見張居、助力いたし候者有レ之候ハバ、差図ニ応じ、可二相防旨ニテ、手筈相定メ、同日昼八ツ時比、一同龍馬旅宿へ立越候節、桂準之助儀ハ唯三郎ヨリ申付ヲ請、一ト足先へ立越偽言ヲ以在宅有無相探リ候処、留守中之趣ニ付、一同東山辺逍遥し、同夜五ツ時比再ビ罷越、佐々木唯三郎先へ立入、松代藩ト歟認有レ之偽名之手札差出、先生ニ面会相願度旨申入候処、執次ノ者二階え上リ候、跡より引続兼テノ手筈ノ通リ、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂準之助付入、佐々木唯三郎ハ二階上リ口罷在、私並、土肥仲蔵、桜井大三郎ハ其辺ニ見張候処、奥之間ニ罷在候家内者騒立候ニ付、取鎮メ、右二階上リ口へ立帰候処、吉太郎、安次郎、準之助下リ来リ、龍馬其外両人計合宿之者有レ之手ニ余リ候ニ付、龍馬ハ討留メ、外弐人之者切付疵為レ負候得共、生死ハ不二見留一旨申聞候ニ付、左候得ば致方無レ之ニ付、引取候様、唯三郎差図ニ付、立出銘々旅宿へ引取、其後之如末ハ一切不レ存、〉
この証言は箱館五稜郭の戦いの後、新政府軍に降伏した今井信郎が刑部省で口述したものである。

箱館降伏人 元京都見廻組
今井信郎 口上
午三拾歳
と書かれている「刑部省口書」である。

今井信郎は後に自分が二階に上って坂本龍馬を斬ったという偽りの証言を始める。しかし、実際に二階へは上っていないので、その証言は矛盾が多く信用できない。


第57話 龍馬が差した長刀-2

 

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第57話 龍馬が差した長刀-2

現在、高知で小栗流剣術を学んでいる人はいないようである。調べてみたがすでに小栗流は明治・大正期あたりで断絶しているようである。
いつも思うのだが、テレビドラマや舞台で龍馬が小栗流道場で剣術を習う時、役者は皆、防具を付けている。小栗流は防具を使う剣術だったのだろうかと疑問がわく。
柳生新陰流は防具を使用しない古流である。小栗流は江戸時代初期に柳生流から分派した古流である。防具を使用しない古流の稽古がつづいていたと考えてもよいのではないだろうか。
現在の剣道は防具を使うが、幕末期に防具を使う流派が多くなり、明治になってそれらの部分を集合させて作られたのが現代の剣道である。
龍馬も防具を使う北辰一刀流に憧れて千葉貞吉道場に入門したのである。しかし、長刀目録しか残っていないのは、やはり、そこまでで修行を終わっているのではないだろうか。

龍馬は小栗流は免許皆伝となっており、三巻の免許状が残っていて京都国立博物館に収載されている。龍馬は脱藩前まで小栗流を修行しており、皆伝となっている。龍馬は剣術は小栗流だけで充分と考えていたのではないだろうか。
龍馬はペリー来航により砲術に興味を持った。佐久間象山塾、徳弘幸蔵塾と学んでいる。
しかし、剣術も必要と考えており、小栗流の稽古は最後まで、脱藩直前まで高知でつづけていたのである。


第57話 龍馬が差した長刀-1

 

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第57話 龍馬が差した長刀-1

坂本龍馬は長刀を好まず、短い刀を好んだと言われているが、初めは長い刀を差している。
しかも、長い刀の半分、はばきもとから半分というので、刀の真中までの刃の部分を引いたと記録されている。
ものを斬るために鋭く研ぎ上げている刃の部分を握る方から半分まで刃をつぶしているのである。
刃を引くといって、鋭い刃の部分を砥石で磨いて平らにしてしまうのである。刃が二ミリ三ミリぐらいの平らな形状に削られているのである。
何故、そのような形状にしていたのだろうか。
それは長い刀であるので、右手に刀の柄(つか)を握り、左手で刀の刃を握って、敵を突くという使い方をするためである。
龍馬は若い頃は長く、反りのない直刀を使っていたのである。
反りの強い刀は突きには使えない。反りのない刀の方が突くという動作には有効なのである。
長い刀を突きに使い場合、左手で刀身を握った方が、刀の先がぶれないので敵を必ず倒せるのである。
こうした若い頃の龍馬の差料を知ってみると、短い刀を差して歩くという合理的なものの考え方が、まだ龍馬の中に育まれていないと分かる。
龍馬が高知で修行していた小栗流は柳生新陰流から派生した流派である。
柳生新陰流の中に多くの技があるが、左手で、刀身を持つ技がある。
左手の親指と他四本の指の間に刀身を挟むという形になる。指は下に向かって真っ直ぐに下ろし、握らない形である。
龍馬も小栗流を習っている中で、そのような刀の持ち方を覚えたのかもしれない。


第56話 京都国立博物館の吉行

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幕末史研究会
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第264回幕末史研究会
日時2018年6月30日(土)午後2時から4時
会場武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講師小美濃清明(幕末史研究家)
テーマ 幕末の刀剣
講義内容 日本刀剣史の中で幕末期の刀はどのような特徴が顕著なのだろうか、他の時期の刀剣と比較して検討する。
実物を展示してわかりやすく解説していく。
代表的な幕末期の刀鍛冶についても解説します。
会費 一般1500円 大学生1000円 中学生以下無料
申し込み 6月28日まで事務所へFaxまたは Eメールで。
Eメール・spqh4349@adagio.ocn.ne.jp
FAX・0422 51 4727

「坂本龍馬八十八話」
5、刀剣

小美濃 清明

第56話 京都国立博物館の吉行

龍馬は兄権平から家伝の刀剣を拝領している。陸奥守吉行という刀工が作った刃渡り、二尺二寸の刀剣である。
この刀は現在、京都国立博物館にある。
龍馬は脱藩したあと、慶応二年十二月、兄権平に次のような手紙を書いている。
〈国家難にのぞむの際ニハ必ず、家宝の甲★かぶと★を分チ、又ハ宝刀をわかちなど致し候事。
何卒おぼしめしニ相叶候品、何なりとも遣わされそうらえば、死候時もなお御側ニこれ在りと思いこれ在り候。〉
兄権平は弟の気持ちをよく理解して、坂本家の蔵刀の中から一振を選んで、龍馬に贈っている。それが陸奥守吉行である。
龍馬はこの刀が気に入って、京都に行く時は常にこの吉行を腰に差していたようである。
友人の毛利恭助が京都でこの吉行をみて、しきりに欲しがったが、私は兄からのたまわりものだから、譲るわけにいかないと言って断ったと、手紙に書いている。
龍馬は名刀であることを確認するために、京都の刀剣家に見てもらうために、歩き回っている。それも一人でなく、何人もの刀剣家を訪ねているのである。そして、
刀剣家が皆、粟田口忠綱ぐらいの目利(めきき)をした
と書いている。
目利きとは鑑定である。粟田口忠綱を大坂の名工で、一竿子忠綱ともいう刀鍛冶である。刃文が似ているのである。龍馬はそれが嬉しくて、京都の刀剣家の間にみせびらかすように歩いているのである。
慶応三年六月二十四日、兄権平にあてた手紙に書いているので、その日のことか、その少し前のことであろう。
この頃、龍馬は大政奉還にむけて下工作をやっている時期である。岩倉具視を訪ねたのも六月二十五日で、この手紙を書いた翌日である。
刀剣を鑑賞する趣味とはどんな趣味なのだろうか。
刀はその姿、合体の形を見る。反りの強い刀もあれば、直刀もある。
次に刀には刃文★はもん★がある。その刃文の形を鑑賞する。波のように動きのある形。山の峰のような形、小川の流れのような形。これを絵画を見るように鑑賞する。
刀には肌というものがある。柾目肌、板目肌、木目肌、梨地肌などがあり、それを鑑賞する。
刀は鉄で作られている。鋼の美しさを鑑賞する。
次に刀の刃文には沸え、においというものがあり、それを鑑賞する。
静かに刀を鞘から抜いて、その刀の美しい姿、刃文、肌、鋼の輝きを鑑賞していると、一刻、時を忘れるのである。そこが、刀剣趣味の醍醐味を味わっていたのであろう。美しい宝石を見ているのと同じなのである。日本刀は鉄のダイアモンドとも言う。
江戸時代、武家の表道具といわれた日本刀は武士階級の教養の一つであり、龍馬はこうした美術品鑑賞でも一流だったと思われる。


第54話 肥前の鐔

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テーマ 幕末の刀剣
講義内容 日本刀剣史の中で幕末期の刀はどのような特徴が顕著なのだろうか、他の時期の刀剣と比較して検討する。
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「坂本龍馬八十八話」
5、刀剣

小美濃 清

第54話 肥前の鐔

はるい
姪・春猪(はるい)にあてた手紙に龍馬は次のように書いている。
(この鐸、肥前より送りくれ候ものにて、余程品よろしくと段々申もの御座候。江戸などにてハ古道具やなど欲しがりし申候なり。何卒御養子の腰に止り候よふ、希入れ候〉
慶応二年(六六六)、秋ころと推定される手紙である。春猪の夫となった養子・坂本清二郎の差料に使われるようにと願いながら、春猪に鐸を贈ったのである。
肥前の国で作られた鐸は、代表的なものをあげると、南蛮(なんばん)、若芝(じゃくし)、矢上(やがみ)などがある。
いずれも、土地柄を反映して異国情緒が漂う作風である。
南蛮はその名のとおり、南蛮文化をうけた長崎で造られた鐸であり、写真①のように全体が網目のように透かされている。竜を浮きあがらせるように彫刻されているものが多い。
普通の鐸が鉄(銅、鋼などの合金も使用する場合もある)を彫刻して図柄を浮きあがらせる技法だが、若芝は中国の特殊技法である薬液による腐蝕の工法で、山水風景、竹、雲竜などを浮かびあがらせる作風である。写真②のように彫りが浅い仕上がりの鐸であり、中国風の雰囲
気の図柄である。
矢上は長崎市内の地名で、そこに住んでいた光広という鐸工が初代から三代までいた。
じすかし
作風は群猿図を細密な肉彫りにして、地透にする工法で、俗に「矢上の千匹猿」といわれて
いる。
龍馬が春猪に贈った鐸はこの三流派の鐸のどれかだろうと思う。
江戸の古道具屋が欲しがる程、品質のよいものだと龍馬は書いている。龍馬は子供の頃から坂本家の所有する刀剣や鐸を見る機会があった。また坂本家の裏門がある水通町には鐸を作る
職人も住んでいた。
武具類について詳しい知識を持っていたので、江戸の古道具屋も欲しがる位の品質が上等なものと鑑定しているのである。
春猪は兄・権平の娘なので、龍馬からすれば姪であるが、歳が近いので、妹のような存在である。
その春猪が養子をもらい結婚したので、叔父として、姪と養子がうまく暮らしていけるよう気遣いをみせているのである。そうした気配りから自分もよいと思った肥前の鐸を土佐に送ったのである。
龍馬はこの時、長崎におらず、(たぶん下関であろうか、)その地で「肥前より送りくれ候もの」と書いているので、龍馬はこの鐸をもらったものであろうと思われる。
鐸は季節によって付け替えたり、儀式によっても付け替える。現代の背広につけるネクタイのようなものであり、気分によっても取り替えることもある。いつも同じものではないのである。

ちょっといいネクタイを姪の夫にプレゼントしたといった感じの話なのである。


第55話 左行秀という刀工-2

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「坂本龍馬八十八話」
5、刀剣

小美濃 清明

第55話 左行秀という刀工-2
(第54話 肥前の鐔、が後になります)

この左行秀が坂本龍馬の兄権平の注文で作った刀が高知に実在している。
吉日東洋が安岡嘉助、大石団蔵、那須信吾らに襲われた時、東洋は左行秀二尺七寸という長
刀を差しており、応戦したという。
おおしまやま一しだいさん
左行秀は抱工となり、水通町から浦戸湾に面する大島山(五台山) の山麓に屋敷を移して刀
を作っていたが、万延元年(一八六〇) に江戸へ出府するよう藩命が下り、江戸の砂村下屋敷
に移り住んでいる。
第55話 左行秀という刀工
この砂村(現・江東区砂町)下屋敷の一画に鉄砲製造工場が建設され、鉄砲が製造されてい
る。
土佐藩は輸入銃をモデルとして日本製の西洋銃を造る計画を実施した。芸製造の中心に左
行秀を配置したのである。
行秀は優れた技術を駆使して西洋銃を製造していた。その工場には常時、若い職工達が集め
られて鉄砲を製造していた。
ここに近藤長次郎が出府してきて、同居している。長次郎の生活は行秀が援助しており、パ・
トロンとなっている。
行秀は鉄砲鍛冶としても知られており、勝海舟とも面識があったという。
近藤長次郎の略歴を書いた河田小龍の「藤陰略話」には次のように記されている。
〈左ノ藤右衛門ハ名ハ行秀、筑前の鍛工ニシテ名手ノ聞ヘアルヨリ、水通丁三丁目鍛冶七
兵衛卜云ヘルモノ之ヲ請ジ己ガ家二住マシメ其術ヲ学ビ居シガ、後藩こ挙ゲラレ士籍トナリ、
のち
東武沙村二住メリ。其水通ニアリシ頃長次郎近隣ナレバ、日々彼ノ鍛場こ遊ビ懇切ナリシ)
とあり、勝海舟の門下生に長次郎がなる背景を書いている。
長次郎と海舟を会わせたのも左行秀の可能性がある。
龍馬が文久二年(天六二)土佐藩を脱藩して江戸へやって来るのはその年の夏から秋にか
けての頃とされている。
「勝海舟日記」 の文久三年正月元日には、
ちょ、つ‥しろ・フ
(龍馬、殖次郎(長次郎)、十(重)太郎ほか一人を大坂へ到らしめ、京師に帰す。)
とあ態-
坂本龍馬、近藤長次郎、千葉重太郎が海舟の命令で行動している。すでに龍馬、長次郎は門
下生になっているのである。
龍馬は江戸に出て来た時、砂村下屋敷の中にあった行秀の工場に隠れていた可能性はないの
だろうか心
土佐藩上屋敷は鍛冶門内にある。千葉定吉道場は鍛冶門外にある。脱藩した龍馬が上屋敷の
目の前の道場に出入りするのは少し危険のような気がする。
砂村下屋敷であれば、江戸城下から遠い距離であり、長次郎、海舟の接点も考えられるので
ある。


第55話 左行秀という刀工-1

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「坂本龍馬八十八話」
5、刀剣

小美濃 清

第55話 左行秀という刀工-1
(第54話 肥前の鐔、が後になります)

高知城下の坂本家屋敷の裏門は水通町という通りに面していた。この通りは中央を小さな川が流れており、水の通る町だったので水通町と云っていた。川は城下の飲用水となる上水道として使用されていたので、川を見守る役人が配置されていた。
この水通町の西側にさまざまな業種の職人が住んでいたので、職人街を形成していた。
草屋、畳屋、紺屋、仕立屋、樽屋、寵屋、傘屋、髪結、左官、乗物師(駕籠)、と軒が並んでいる。
その中に鍛冶四人、研師一人、鞘師一人、と二丁目に住んでいる。
塗師(ぬし)一人、白銀師(しろがねし)一人、鐸師(つばし)一人が水通町一丁目。
この水通町には武士の表道具(刀剣)の関係職人が集団で住んでいた。刀が錆びた場合、研師が必要となる。鞘が割れたり、古くなった場合、鞠師が必要となる。
鞘を新しく作った場合、鞘に漆を塗る塗師が必要となる。刀の切羽(せっぱ)や鈍(さばき)は白銀師がつくり、鐸は鐸師が作る。武士にとって、必要な職人の集団である。龍馬はこうした刀剣職人(職方)の集団に囲まれて育ったのである。

水通町二丁目と三丁目の間の横丁に大里屋(おおりや)という餅菓子屋があった。ここが亀山社中で活躍する近藤長次郎の実家である。この長次郎をわが子のように可愛がって士分まで育てあげたのが刀鍛冶の左行秀(さのゆきひで)である。
行秀は筑前(福岡県) で生まれて、江戸で刀鍛冶の修行をして、名工となり土佐藩抱工の関田勝広の食客として土佐に入国し、水通町に住んでいた。
この行秀は土佐の酒好き職人の中で下戸だった。酒がまったく飲めなかったのである。
長次郎と知り合ったのも 〝まんじゅう″がとり持った緑だったと思われる。
土佐藩抱工の関田勝広が死去した後、左行秀が土佐藩抱工となった。
その時、土佐藩は刀鍛冶兼鉄砲鍛冶として抱工として上士の末席に加えられている。