第70話 桂浜の銅像

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幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
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幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。

「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

 第70話 桂浜の銅像

司馬遼太郎氏怯昭和六十三年五月、桂浜で行われた龍馬先生銅像建設発起人物故者追悼会に「メッセージ」を寄せている。
「銅像の龍馬さん、おめでとう。あなたは、この場所を気にいっておられるようですね。私もここが好きです。世界じゅうで、あなたが立つ場所はここしかないのではないかと、私はここに来るたびに思うのです。あなたもど存じのように、銅像という芸術様式は、ヨーロッパで興って完成しました。銅像の出来具合以上に、銅像がおかれる空間が大切なのです。その点日本の銅像は、ほとんど が、所を得ていないのです。
昭和初年、あなたの後輩たちは、あなたを誘って、この桂浜の巌頭に案内してきました。
この地が空間として美しいだけでなく、風景そのものがあなたの精神をことごとく象徴しています。
このメッセージの中程に次のような文章がある。
「あなたをここで仰ぐとき、志半ばで倒れたあなたを、無限に悲しみます。
あなたがここではじめて立ったとき、あなたの生前を知ってぃた老婦人が高知の町から一里の道を歩いてあなたのそばまできて
「これは龍馬さんぢゃ」
とつぶやいたといいます。彼女は、まぎれもないあなたを、もう一度見たのでした。」
この老夫人とは誰のことだろう。
昭和三年(一九二八)五月二十七日、龍馬像は除幕されている。高知に生前の坂轟馬を見知っている女性がこの時、何人いたのだろうか。               軒

この日、朝日新聞記者だった藤本尚則(ふじもとなおのり)のインタビューを受けていたのが第6話の安田たまきである。弘化二年(一八四五)十二月二十九日生まれのたまきは数え年で八十四歳である。司馬遼太郎氏が書いた老夫人は安田たまきのことと思われる。
龍馬は脱藩の前、たまきの兄・演田栄馬を訪ねてきて、兄・権平が来ても何も知らんと言ってくれと頼んで高知から出ていった。文久二年(一八六二)三月二十四日のことである。
安田たまきは兄と共に龍馬の言葉を聞いていた。その時わたしは十七歳でしたと、たまきは語っている。
たまきは昭和四年五月二十五日、午後六時、本籍地(高知県土佐郡潮江村四千七拾参番地イ号地)で死去している。
朝日新聞の藤本尚則のインタビューを受けた一年後である。貴重なインタビュー記事は龍馬研究家から注目されず、眠り続けていた。それは藤本尚則が『巨人頭山満翁』の執筆者であり、敬愛会という民族主義的団体を主宰していたからである。戦後の左翼系歴史学者からは完全に無視されている。しかし、藤本のインタビューによりたまきの魂が平成の時代まで伝えられ、多くのど子孫と巡り合わせて下さった。そこから多くの史実を知ることができ、貴重な史料も得ることができた。唯々、感謝である。


第69話 今井信郎の手紙

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「坂本龍馬八十八話」

6、暗殺

小美濃 清明

第69話 今井信郎の手紙

明治四十二年十二月十七日、今井信郎が大阪新報社・和田天華にあてた手紙がある。

その中で次のように自分達の立場を説明している。手紙の最後の部分だけを載せることにする。
「是、要スルニ幕府ハ攘夷因循兵力ノ微弱ナルヲ曝露シ、所謂志士ナル火事場盗賊ニ苦ルシメラレ、土崩瓦解セルモ、勤王愛国ノ念虜ハ毫モ衰弱シタルモノニ無レハ事実ノ上ニ顕然タリ。近藤勇、親見錦、芹沢鴨ノ如、立場ニ依テ其名ヲ異ニ致ス者ト信ジ候。実ニ玉石混交ノ時世、是(ぜ)か非か後世の史論ニ譲リ左ニ御回答仕候。
一、暗殺ニ非ズ、幕府ノ命令ニ依リ職務ヲ以、捕縛ニ向格闘シタルナリ。
二、新撰組ト関係ナシ。余ハ当時京都見廻リ組与力頭ナリシ。
三、彼レ曽テ伏見ニ於テ同心三名ヲ銃撃シ、逸走シタル問罪ノ為ナリ。
四、場所ハ京都鞘薬師角近江屋ト云_油店ノ二階ナリ。
以上
十二月十七日
遠州初倉村
今井信郎
大阪新報社
和田天華殿」
幕府の力が弱っていたところに、志士という火事場盗賊に苦しめられたのである。幕府は瓦解したが勤王愛国の念は少しも変っていない。
近藤勇、親見錦、芹沢鴨のように、その立場によってその評価は変ると信じている。実に玉石混交の時代だったのだ。是か非か、後世の史論に譲り、左のように回答いたします。
一、暗殺ではない。幕府の命令で職務を行い捕縛に向い格闘したのである。
二、新撰組と関係はない。私は京都見廻り組の与力頭でした。
三、彼(坂本龍馬)はかつて、伏見で三名の同心を銃撃し逃走した罪に問われていた。
四、場所は京都鞘薬師角の近江屋という_油店の二階でした。
と簡潔にまとめている。
今井は刑部省口書でも犯行を認めており、自分は一階にいたと話していた。しかし、明治三十三年の「近畿評論」では二階へ上ったことになっている。これは編集段階で改稿があたったようである。今井の責任ではないと思われる。
ただ、見廻組が実行犯としても、彼らに龍馬に関する情報を伝えた者が真犯人と考えられる。 7、遺風の中で


第68話 箱館降伏人の取調

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「坂本龍馬八十八話」

6、暗殺

小美濃 清明

第68話 箱館降伏人の取調

土佐は龍馬暗殺の犯人が箱館戦争に参加して降伏した兵の中にいると判断していた。そこで箱館戦争が終ったあと、降伏した兵を明治三年二月から九月までの期間に取調べている。
新政府の兵部省、刑部省がこの調査にあたり調書をとっていた。
(原朱)
刑部省口書
一橋家来
大石捨次郎倅
元新選組
大石鍬次郎口上
午三十弐才
(前略)
其節伊豆太郎ヨリ相尋候ニハ、於●二●京師●一●土州藩坂本龍馬殺害ニおよび候も私共之所業ニ可●レ●有●レ●之、其証ハ場所ニ新選組原田佐之助差料之刀鞘落シ有●レ●之、其上勇捕縛之節及●二●白状●一●之旨申聞候得共、右ハ兼々勇咄ニハ坂本龍馬討取候ものは見廻リ組今井信郎、高橋某等少人数ニ而、剛勇之龍馬刺留候義ハ感賞可●レ●致抔折々酒席ニ而組頭之もの等え噺候を脇聞いたし居候得共、右之通就縛候上は即坐ニ刎首可●レ●被●レ●致ト覚悟いたし候ニ付、右様ノ申訳ハいたし候も誓言●(虚カ)●と被●レ●存私所業之趣申答置候処、不●レ●図同月中兵部省へ御引渡ニ而。(下略)

(原朱)
兵部省口書
箱館降伏人元新選組
横倉甚五郎
午三十七歳
口書
(前略)
土州藩坂本龍馬討候義は一向不●レ●存候得共、同人討候者ハ先方ニテハ、新撰組ノ内ニテ打殺候様申居候間油断致ス間敷旨、勇方より隊中へ申通候事承候而已ニ御坐候。其余ハ一向不●レ●申候。(下略)
午二月
(原朱)
兵部省口書
箱館降伏人
元新選組相馬肇事
相馬主殿
年二十八才
口書
(前略)
一、坂本龍馬儀ハ私は一向知不●レ●申候得共、隊中へ廻文ヲ以テ右之者暗殺致候嫌疑相晴候趣、全見廻リ組ニテ暗殺致候由之趣初而承知仕候。(下略)
このように元新選組の隊士だった大石鍬次郎、横倉甚五郎、相馬主殿が取調をうけているが三人とも犯行を否定している。
特に大石は犯人を見廻組としている。


第67話 龍馬暗殺と御影踊

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6、暗殺

小美濃 清明

第67話 龍馬暗殺と御影踊

坂本龍馬が暗殺された十一月十五日から十一日過ぎた大坂で、土佐藩士が書いた日記がある。
「十一月廿六日 朝曇
今日の風説によれば於京師坂本龍馬浪人体之者に殺害に合候趣」
この日記は京攝在勤中并奥州征伐日記」であり筆者は宮地団四郎という。戊辰戦争が始まる前に京都へ来て、鳥羽伏見の戦いから会津若松まで従軍している一年間の日記である。筆者はこの日記に永年取り組んでいる。その発端はこの龍馬暗殺の風説を書き残していることに興味を持ったからである。
そして、この龍馬暗殺の風説の前に「御影踊」のことが書かれている。
「十一月廿三日 晴
「午前二時攝州兵庫沖に碇泊す。此処より橋船自力雇を以兵庫湊に着す。同町明石屋にて一泊す当驛着以来見物に出掛け申処先一番遊廓に至る。此際点手毎に灯燈を持ち男女老若に不限(かぎらず)大成(おおぜい)群集にて御影踊と唱へ甚賑々敷事にて此踊子紬承る処本月中旬の頃より此節に至り晝夜とも戸毎へ諸神佛の御守雨降り候趣(おもむき)、誠に不思議とは此事なるべし、多分乱世の全評ならんやと大にあやしみ申事、夫より右宿、赤石辰衛方に帰る」

御影踊に乱世の予感を感じた宮地団四郎はその三日後に坂本龍馬殺害の風説を聞いたことになる。団四郎は兵庫から大坂に移動してこの風説を耳にした。しかも犯人が浪人体の者という情報も付いている。そして、中岡慎太郎についての情報はない。まだ中岡慎太郎が生存しているうちに広がった情報だったのかもしれない。
団四郎たちは大坂で山内容堂の上洛を待っている。
「十二月八日六ツ半時伏見着す。夫より今日御隠居様(容堂)伏見御出立遊ばされ、七ツ下刻(午後四時)御着尾能●よく●、京師大佛御本陣妙法院の宮様へ御着遊ばされた。それより前哨隊は右同所智積院へ御割巳家相成着す」
と記述されている。山内容堂は九日の王政復古の前日に京都大佛の本陣とされた妙法院に入り、団四郎たち前哨隊は隣の智積院に宿をとった。
この前哨隊はこの後、土佐から来る迅衝隊に合併し、東征軍として江戸へ向うことになる部隊である。そして会津若松まで行くことになる。土佐軍はそこから引き返えすので、箱館戦争には参加していない。


第67話 龍馬暗殺と御影踊

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第267回 幕末史研究会
日時 2018年9月23日(日)午後2:00から4:00
会場 武蔵野商工会館 4階
講師 長松清潤師(宗教家)
テーマ 幕末外伝
講演内容 『藩論』『閑愁録』など第一次史料をもとに幕末のアナザストーりーをかたる。会費 一般1500円 大学生500円 高校生以下無料申し込み 前日まで
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
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「坂本龍馬八十八話」

 6、暗殺

小美濃 清明

第67話 龍馬暗殺と御影踊

坂本龍馬が暗殺された十一月十五日から十一日過ぎた大坂で、土佐藩士が書いた日記がある。
「十一月廿六日 朝曇
今日の風説によれば於京師坂本龍馬浪人体之者に殺害に合候趣」
この日記は京攝在勤中并奥州征伐日記」であり筆者は宮地団四郎という。戊辰戦争が始まる前に京都へ来て、鳥羽伏見の戦いから会津若松まで従軍している一年間の日記である。筆者はこの日記に永年取り組んでいる。その発端はこの龍馬暗殺の風説を書き残していることに興味を持ったからである。
そして、この龍馬暗殺の風説の前に「御影踊」のことが書かれている。
「十一月廿三日 晴
「午前二時攝州兵庫沖に碇泊す。此処より橋船自力雇を以兵庫湊に着す。同町明石屋にて一泊す当驛着以来見物に出掛け申処先一番遊廓に至る。此際点手毎に灯燈を持ち男女老若に不●かぎ●限●らす●大●おお●成●ぜい●群集にて御影踊と唱へ甚賑々敷事にて此踊子紬承る処本月中旬の頃より此節に至り晝夜とも戸毎へ諸神佛の御守雨降り候趣●おもむき●、誠に不思議とは此事なるべし、多分乱世の全評ならんやと大にあやしみ申事、夫より右宿、赤石辰衛方に帰る」

御影踊に乱世の予感を感じた宮地団四郎はその三日後に坂本龍馬殺害の風説を聞いたことになる。団四郎は兵庫から大坂に移動してこの風説を耳にした。しかも犯人が浪人体の者という情報も付いている。そして、中岡慎太郎についての情報はない。まだ中岡慎太郎が生存しているうちに広がった情報だったのかもしれない。
団四郎たちは大坂で山内容堂の上洛を待っている。
「十二月八日六ツ半時伏見着す。夫より今日御隠居様(容堂)伏見御出立遊ばされ、七ツ下刻(午後四時)御着尾能●よく●、京師大佛御本陣妙法院の宮様へ御着遊ばされた。それより前哨隊は右同所智積院へ御割巳家相成着す」
と記述されている。山内容堂は九日の王政復古の前日に京都大佛の本陣とされた妙法院に入り、団四郎たち前哨隊は隣の智積院に宿をとった。
この前哨隊はこの後、土佐から来る迅衝隊に合併し、東征軍として江戸へ向うことになる部隊である。そして会津若松まで行くことになる。土佐軍はそこから引き返えすので、箱館戦争には参加していない。


第66話 呂鞘と下駄

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6、暗殺

第66話 呂鞘と下駄

犯人の遺留品は呂()鞘と下駄といわれている。
鞘の塗は各種あって色も様々である。特に多いものは黒色である。登城用の大小は黒呂色塗の鞘が使われる。うるしで光沢がある表面が平らな塗りが呂色塗である。表面がザラザラしている仕上がりの塗は石目地塗である。その他に青貝を細かく砕いたものを混ぜたり、棕櫚★しゅろ★を細かく砕いて混ぜたりもする。
表面を松の木の皮のように塗る松皮塗、雨が降っているように見える時雨塗、氷が砕けているように見える氷砕文塗もある。
金を混ぜて輝くような派手な塗もある。
犯人の遺した鞘は、黒の呂色鞘といえば、全く特色がない鞘であり、最も多い鞘である。そこから誰の鞘と特定することは困難であると思われる。
その鞘に付けてある下緒★さげお★に特別の色のものが使用されて判別できたということであれば信憑性が高いと思われる。

下駄。遺留品の下駄に瓢の焼印が押してあったという。そうしたものを犯人がわざわざ履いて来ることが不審である。そして、それを遺留品として遺していくことが更にありえないことである。
これは犯人を特定することを攪乱★かくらん★させるために用意されたもので、初めから置いていくつもりで犯人が持参したものである。
犯人が鞘を落としていくことは考えられない。抜身の刀を持って引き上げていくようなことは幕末とはいえ、ありえない。この鞘は初めから遺留品として犯人が持参したものであろう。犯人は暗殺に使用した刀を鞘におさめて、普通に帰っていったと思われる。
犯人は龍馬と中岡の顔を知らないと言う。どちらか分からずに斬っているという説がある。
それはない。犯人はすぐに龍馬と判って斬っている。
それは床の間の刀を握った者がその家の主★あるじ★である。来訪者が床の間に刀を置くことはないのである。これは侍ならば誰でも分かる常識である。


第65話 中岡慎太郎の闘争

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第65話 中岡慎太郎の闘争

中岡慎太郎は近江屋二階で刺客に襲われた時、大刀は近くになく、腰に差していた短刀で闘っている。  田中顕助の証言によれば全身十一箇所を斬られており、右手などは皮だけ残ってブラブラして縫い合わす事もできない状態だったという。  中岡を襲った刺客は龍馬を襲った刺客より腕が数段低い。十一箇所の傷を負わせながら、中岡にとどめを差すこともできなかった。中岡は二日間生きて、襲われた状況を喋っている。  龍馬を襲った刺客はわずか数秒で仕事を終わり、中岡と自分の仲間の闘いを見ていたのである。  中岡を倒せない仲間の不甲斐なさに、しびれをきらし「もうよいよい」と言って闘争を中止させたのである。  中岡は傷つき倒れていて気絶している。龍馬を斬ってしまえば、早く引き上げることである。刺客たちは現場から消えた。  中岡は龍馬が隣りの六畳間で一階へ「医者を呼べ」と叫んだ声で息を吹きかえした。  中岡は龍馬を八畳間の中に捜すが見つけられず、隣りの六畳間で吉行を鞘から抜いて行燈の光で見つめる龍馬を目撃する。  龍馬は「俺は脳をやられたから、モウいかん」と言ってその声が止まった。  中岡は龍馬の死の後、倒れていた八畳から物干へ出る。十一箇所斬られた体を左手一本で隣家の屋根まで這って行き、助けを求めていた。しかし、誰もおらずそこで意識がなくなり動けなくなる。  救助に駆けつけた人々によって、襲撃された八畳間に戻されている。  意識の回復した中岡は襲われた時の状況を説明している。田中顕助、谷干城、林謙三、それらの人々は中岡の言葉を記憶していて、後に文章にしている。  この中岡の証言によってその夜の状況が分かるのである。しかし、矛盾したところも各々にあり、それは中岡の混乱もあり、聞いた者の記憶違いもあると思われる。


第64話 龍馬の体勢と天井の破れ

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第64話 龍馬の体勢と天井の破れ

龍馬の差料吉行の鞘の疵(きず)と天井が破れているという事実を組み合わせると、吉行の鞘はコジリ(鞘の先端部分)が上を向いている状態だったと思われる。
龍馬と中岡は座って話をしていたので、頭部は低い位置にある。
刺客は立って八畳間に突入しているので、高い位置から龍馬と中岡の頭部へ攻撃を加えることができた。
一の太刀(第一攻撃)で龍馬の額に斬りかかる。これは浅い疵であったろう。
二の太刀(第二攻撃)龍馬は背面の床の間に置いてある刀掛に吉行を掛けていた。その吉行を左手で取りにいく。右手は柄を握ることになる。
刺客は背を向けて吉行を取りにいく龍馬の背中に攻撃を加える。右肩から左の脇腹へ袈裟がけに斬り下げた。
三の太刀(第三攻撃)龍馬の頭部めがけて斬り下げる刺客の刀を龍馬は吉行の鞘の中央部分で受けとめる。刺客の刀は一瞬止まるが、龍馬は左手で下緒の辺を握り、右手で柄を握って中腰から立ち上がる。吉行の鞘は上に向かって移動していく天井を突き破る。
刺客の刀は下へ向かって斬り下げる。
龍馬の頭部(眉間)に大きな傷をつけて刺客は龍馬に致命傷と与えることになる。
鞘の疵から推定すると刺客は左へ滑るように斬り振るい龍馬の眉間を右から左へ斬り裂いていたのかもしれない。
刺客の刀は鋭利で吉行の鞘を六寸(18センチ)、吉行の刃を三寸(9センチ)削っていたと谷干城は証言している。
日本刀は鋭利で日本刀の刃も削ってしまうのである。甲割りとか鉄砲斬りという日本刀が存在した。誇張でなく鉄を斬り裂くのである。
龍馬は刺客の刀で眉間を斬られて暗殺された。犯人は■〈暗殺〉当日の昼間でみたように佐々木唯三郎たちと思われる。しかし、佐々木たちは誰からの情報で実行したのだろうか。大名、公家の中で龍馬が画策する徳川政権の温存に反対する者も多くいた。
こうした中から佐々木唯三郎たちへ龍馬の居場所をリークする者がいたかもしれない。佐々木たちは情報を得れば素速く行動するはずである。


第63話 林謙三の証言

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第63話 林謙三の証言

林謙三は天保十四年(一八四三)備後国御調郡向島西村、林金十郎宗清の四男として生まれた。名清康、通称は勇吉・謙三。
万延元年(一八六○)長崎に至り英学を修め、のち英国軍艦に乗り組み、二年間海軍学を学ぶ。慶応二年(一八六六)薩摩藩の要請で同藩海軍の養成に従事した。
慶応三年十一月十五日、龍馬が林にあてた手紙により上京して来ることになった。
〈本年十一月十一日、坂本龍馬余ニ至急面談セント文通セリ。余ハ翌十五日三十石ニ乗リ出京、十六日未明に伏見ニ著船、直ニ入京其旅宿ニ到ルヤ寂トシテ余ノ来訪ヲ怪ムモノノ如シ。又処々に血痕ノ足跡を認ム。余ハ坂本氏ノ安否を正サント、覚へズ階上ニ突進シ、氏ノ室ニ入ルヤ氏ハ抜刀ノマゝ流血淋漓ノ中ニ斃ル。眼ヲ地室に転ズレバ石川清之助半死半生ノ間ニ苦悶セリ。又隣室ヲ望ムニ従僕声ヲ放テ煩悶シツツアリ。其脊部ニ大傷ヲ見ル。既ニ絶命ニ近シ。余ハ愕然為ス所ヲ知ラズ。主人ヲ呼デ其故ヲ問フ。主人ハ只戦慄シテ答フル能ハズ。僅ニ龍馬氏同志ノ士白峰駿馬ノ旅宿ヲ告ゲ、曰ク願クハ氏ニ就テ聞ケト。余ハ馳テ白峰ヲ旅宿ニ尋ネ同行シ。再ビ来リテ石川清之助ニ就キ概略ヲ質セシニ、曰ク我ハ龍馬ト対話中、従僕三枚ノ名刺ヲ持参シ、此人々面話を求ムトテ跪テ龍馬ノ手ニ渡サントスル瞬間暴徒三名先ヲ争ヒ、抜刀ノマゝ、従僕ニ尾シ階上ニ突入シ、一声叫デ従僕ノ脊ニ一刀ヲ加へ、又龍馬ト我ニ同時ニ斬付ケタリ。龍馬ハ其背面ナル刀掛ノ刀ヲ取リシモ、鞘ヲ払フノ遑ナク暫ク其儘防闘セリ。余モ亦刀ヲ取ル能ハズ差添ニテ防ギ、且ツ一人ト刺シ違ヘント欲セシモ、忽チ更ニ脳部ニ一刀ヲ受ケ、人事ヲ省セザルニ至レリ。良★やや★久フシテ龍馬ガ主人ニ医ヲ命ズル発声ヲ聞キ、復活シ仰ギ見ルニ龍馬其席ニ在ラズ。燈火ヲ携ヘ隣室ニ安座シ、刀ヲ抜テ余年ナク之ヲ検スルヲ見ル。其安否ヲ問ヘバ彼曰ク、我既ニ脳ヲ斬レタリ、助命ノ望ナシト、一言シ伏シテ復ビ声ナシト。此石川ノ言ニ依リ、当時ノ状況ヲ知ルヲ得タリ。従僕ハ其日正午ノ頃死シ、石川ハ翌日死セリ。〉
林謙三は明治期になって安保清康となっている。「男爵安保清康自叙伝」に記載。
龍馬は燈火を持って隣室に座り、刀(吉行)を抜いてじっと見つめている。そして、脳を斬られたので助かる見込みなしとひと言、言って再び声は発しなかったとある。


第62話 谷干城の証言

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6、暗殺

第62話 谷干城の証言

谷干城(たにたてき)は天保八年(一八三七)二月十一日、土佐国高岡郡窪川村に生まれた。家は代々神道家、国学者の家系。この日、谷は京都におり、龍馬暗殺の報を受けてすぐに近江屋二階へ上っている。
谷は明治三十九年(一九○六)「坂本中岡暗殺事件」という講演の中で今井信郎の話に疑問を投げかけている。
今井は箱館で降伏し「刑部省口書」で自分は二階へ上っていないと証言していたが、明治三十三年(一九○○)五月の雑誌で自分が殺害したと語っており、二階へ上ったことになっている。それは矛盾の多い内容であった。
谷は自分が見た龍馬の疵と今井の証言の違いを細かく語っている。
〈坂本は非常な大傷で額の所を横に五寸程やられて居るから此一刀で倒れねばならんのであるが、後ろからやられて背中に袈裟に行っている。〉
谷は龍馬の額のところが五寸(15センチ)横に斬られていると証言している。これが致命傷になったと言っている。
〈そこで、坂本はどう云う事をしたかと云うと、どうも分らぬ。けれどもこれも想像が出来る。自分(龍馬)は刀を確かに取ったに違いない、刀を取ったがもう抜く間もないから鞘越しで受けた。それで後ろから袈裟にやられて、又重ねて斬って来たから、太刀折の所が六寸(18㎝)程、鞘越しに斬られている。身は三寸(9㎝)程刀が削れて鉛を切った様に削れている。それは受けたが、受け流した様な理屈になって、そしてその時横になぐられたのが額の傷であろうかと想像される。〉
谷干城は龍馬の鞘が六寸程切られていて、その刀が三寸程、削られていたのを目撃している。
これも重要な証言であり、龍馬の行動を解明する手掛かりとなる。
谷は幕末動乱を生き抜いた者として、今井が述べる暗殺は承服できなかった。
〈石川(中岡)が言ふには賊は二人であった。今井の言ふには四人であると斯う云ふてある。(中略)
然るに今の今井先生の全体其時の挙動と云ふものが如何にも面白い。どうも丁度芝居の讐討(かたきうち)でも見る様な景況で、どうしても事実とは考へられぬ。あとから作ったものと思はれる。〉
谷の語っていることは事実で今井の証言は後から作られたものなのである。
今井は坂本の顔を知らないので、〈早速気転を利かし、坂本さん暫くと言ふと、どつちが坂本か知らふが為に声を掛けた。さうすると入口に坐して居つた人がどなたですかと答へたので、それでこいつが坂本ぢゃなと斯う思ふて、矢庭抜いて斬付けた。〉という証言は谷を怒らせている。
〈殊に坂本は剣術は無逸の達人で、平生付けねらはれて居るのを承知のことなれば、少しも油断しない。それが顔と顔とを見合わせて話をしてそれから斬られる様な鈍い男ではない。是等が最も嘘の甚しい事柄で、決して斯う云ふ訳のものでない〉