第2話 常通寺の仁王像

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第2話 常通寺の仁王像
坂本龍馬は子供の頃、近くの寺子屋に通っていた。

龍馬の生まれた高知城下の上(かみ)町から子供の足で通える寺子屋が四カ所あった。 楠山庄助塾、島崎三蔵塾、三橋栄十郎塾、萩原健洲塾である。

龍馬は楠山庄助塾に通っていた。安政三年(一八五六)頃、生徒は男子一〇〇名、女子二〇名と記録にある。男女共学である。

上町の本丁筋一丁目にあった坂本家から、北奉公人町を通って江ノ口川に掛かる常通寺橋を渡り、楠山庄助塾まで徒歩一〇分ぐらいである。 龍馬はこの道を往復していた。

常通寺橋を渡ると目の前に常通寺の大伽藍がある。山門があり中に入ると、鐘楼があり、弘法大師堂、観音堂、本堂がある大寺院である。しかし、明治三年(一八七〇)に廃寺となり、その跡には何も残っていない。ただ常通寺橋という橋の名にその名を残すばかりである。

現在は常通寺橋のたもとに高知私立第四小学校が建っている。

龍馬の寺子屋時代の話が残っている。

<毎日、龍馬が通る常通寺の山門には仁王像が左右にあった。龍馬はこの仁王様に紙を丸めて投げつけたり、石を投げたりしていたが、ついに竹竿で仁王様の腕を突いて堕してしまったという。僧は怒り、楠山塾へ来て楠山庄助にどなり込んだ。龍馬は庄助に呼び出され、頬を叩かれたという。〉

龍馬は腕白小僧だったと寺石正路(てらいしまさみち)は「南学史」の中に書いている。寺石は慶応四年(一六八)高知城下九反田に生まれている。龍馬暗殺の翌年である。明治十八年(一八八五)、寺石は東京大学予備門に合格し、南方熊楠、正岡子規、秋山真之らと知り合っている。しかし、健康を害(そこ)ない翌年中退し高知へ戻っている。

明治二十三年(一八九〇)四月から高知県尋常中学校の補欠教員となり、その後、海南学校(現・小津高校)の教師として三十数年わたって教鞭を執っている。
龍馬が生きた時代に生まれた寺石正路は、高知の歴史を詳しく調査している。

おそらくこの常通寺の仁王様と龍馬の話は実話として、高知に残っていたものであろう。かなり信憑性の高い話と思われる。

この楠山塾で龍馬は喧嘩をして退塾している。宮地佐一郎氏は『龍馬百話』(文春文庫)の中で
〈小高坂楠山塾の頃、学友の一人と口論となった。(中略)相手の少年が坂本家と違って上士であったので、遠慮して龍馬も退塾させたともいう〉と紹介している。

泣虫龍馬とは異った印象の少年龍馬である。


第1話 福岡宮内の写真

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「坂本龍馬と刀剣」をご愛読いただき、有難うございます。
読者の方から、面白いけど難しいとの声もあり、この辺で切り替えて、「坂本龍馬八十八話」をお届けします。
これは以前、日本文芸学院に連載していてハッカーの改ざんに遇い中断していました。
今回は、また振り出しに戻って第一話からスタートします。
難解な部分もあるかと思いますが、どうぞ、お気軽にお付き合いください。

小美濃 清明

はじめに

私は、龍馬という人物の史料を読み、追跡していくうちに新しい事実も分かってきた。また調査の過程で多くの方々にお世話になった。
龍馬、龍馬をめぐる人々、龍馬をご縁に知己となった方々について、雑談を八十八話としてまとめることにした。 これが宮地先生の『龍馬百話』という名著を念頭においての表題である。もとより、先生の著作の足もとにも及ばぬ内容である。
ただ先生にいただいたご縁がいくらかでも広がったことを先生にご報告したいと願ったからである。
平成二十二年四月六日 小美濃 清明

1、土佐で

第1話 福岡宮内の写真

坂本家は福岡家御領郷士であり、「福岡家御用日記」に龍馬脱藩に関する記述があった。

〈三月二十五日、御領郷士坂本権平弟龍馬儀昨夜以来行方知れず、諸所相尋ね候共不明由届出候事 三月二十七日、御領郷士坂本権平所蔵の刀紛失の旨届出候事〉

この「福岡家御用日記」は焼失しており、現存していない。平尾道雄著「龍馬のすべて」からの引用である。

福岡家は代々土佐藩家職で三○○○石を領していた。幕末期は福岡孝茂が当主で通称を宮内(くない)といった。維新後は九内とも書いている。 宮内は文政十年(一八二七)高知城下に生まれた。性格は闊達、明朗で雅量があり、政務に精通している家老だった。

少壮のころ、鹿餅雅澄に和漢の書を学んでいる。
天保十四年(一八四三)、近習御用に就任以来。藩政末期に至るまで同職ならびに奉行職を務めた。十三代藩主豊煕を助け。十四代豊惇が幼少で死去すると、十五代豊信(とよしげ・容堂)を補佐し、奉行として藩政を総轄した。下に吉田東洋が仕置役としており、十分に腕を振るわせるように配慮している。
文久二年(一八六二)吉田東洋暗殺の後、藩人事の更迭があり、宮内も一時免職となったが、重大時局に際し、再び登用されて旧職に復帰している。
元治、慶應年間は藩兵を率いて上京し、御所を警護している。維新後は明治二年(一八六九)刑法司主務、度支局大幹事を最後に引退している。明治三十九年十二月二十三日死去している。八十歳だった。

この福岡宮内の写真が東京で見つかった。

高知商業学校を創立した横山又吉・黄木(おうぼく)の孫にあたられる横山正意氏が所蔵されていた。横山氏にお会いして、福岡宮内の写真を複写させていただいた。
ロサンゼルスに創立された「LA龍馬会」の会長・飯沼星光氏と信子夫人をご案内して横山正意氏のお宅を訪ねた時のことである。横山氏が所蔵する古いアルバムを見ていた時、白い顎★あご★ひげを伸ばして、袴・羽織姿の老人の写真が貼ってあった。
「これ誰ですか」と筆者が問うと、「これは福岡宮内ですよ」

「どうして、ここにあるのですか」

「私の母は宮内の孫ですから」
といとも簡単に説明して下さった。

横山正意氏の祖父・横山又吉は自由民権運動家として有名であり、高知商業学校(現・市立高知商業高校の前身)の創立者でもある。
安政二年(一八五五)十月十五日、土佐郡杓田(しゃくだ)村下島(現・高知市南元町)に生まれているので、坂本龍馬より二十歳年下である。
アルバムの他に、孫文が日本に亡命した時、横山又吉が援助していたお礼に「博愛」と書いた孫文自筆の額もあった。 また福岡家に伝えられた古文書を貼り交ぜた風も所蔵されていた。

それらを拝見していると、幕末維新の史料がこのように伝えられて、東京にあることが不思議に思えた。まだ坂本龍馬に関係する史料も眠っているのだろうと思えてならなかった。

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第251回「幕末史研究会」のご案内

日時 2017年 4月22日(土)午後2時から4時

会場 武蔵野商工会館 四階

吉祥寺中央口より徒歩5分

講師 桐野作人氏 (歴史作家)

テーマ  西郷隆盛と『討幕』論      西郷隆盛は武力討幕論者だといわれるが、その実態は? 会費  一般1500円 大学生500円 高校生以下無料 申し込み方法

申し込み方法
4月20まで下記へ
FAX 0422-51-4727
spqh4349@adagio.ocn.ne.jp

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第1話 福岡宮内の写真

 

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読者の方から、面白いけど難しいとの声もあり、この辺で切り替えて、「坂本龍馬八十八話」をお届けします。
これは以前、日本文芸学院に連載していてハッカーの改ざんに遇い中断していました。
今回は、また振り出しに戻って第一話からスタートします。
難解な部分もあるかと思いますが、どうぞ、お気軽にお付き合いください。

小美濃 清明
はじめに

私は、龍馬という人物の史料を読み、追跡していくうちに新しい事実も分かってきた。また調査の過程で多くの方々にお世話になった。
龍馬、龍馬をめぐる人々、龍馬をご縁に知己となった方々について、雑談を八十八話としてまとめることにした。 これが宮地先生の『龍馬百話』という名著を念頭においての表題である。もとより、先生の著作の足もとにも及ばぬ内容である。
ただ先生にいただいたご縁がいくらかでも広がったことを先生にご報告したいと願ったからである。
平成二十二年四月六日 小美濃 清明

1、土佐で

第1話 福岡宮内の写真

坂本家は福岡家御領郷士であり、「福岡家御用日記」に龍馬脱藩に関する記述があった。

〈三月二十五日、御領郷士坂本権平弟龍馬儀昨夜以来行方知れず、諸所相尋ね候共不明由届出候事 三月二十七日、御領郷士坂本権平所蔵の刀紛失の旨届出候事〉

この「福岡家御用日記」は焼失しており、現存していない。平尾道雄著「龍馬のすべて」からの引用である。

福岡家は代々土佐藩家職で三○○○石を領していた。幕末期は福岡孝茂が当主で通称を宮内(くない)といった。維新後は九内とも書いている。 宮内は文政十年(一八二七)高知城下に生まれた。性格は闊達、明朗で雅量があり、政務に精通している家老だった。

少壮のころ、鹿餅雅澄に和漢の書を学んでいる。
天保十四年(一八四三)、近習御用に就任以来。藩政末期に至るまで同職ならびに奉行職を務めた。十三代藩主豊煕を助け。十四代豊惇が幼少で死去すると、十五代豊信(とよしげ・容堂)を補佐し、奉行として藩政を総轄した。下に吉田東洋が仕置役としており、十分に腕を振るわせるように配慮している。
文久二年(一八六二)吉田東洋暗殺の後、藩人事の更迭があり、宮内も一時免職となったが、重大時局に際し、再び登用されて旧職に復帰している。
元治、慶應年間は藩兵を率いて上京し、御所を警護している。維新後は明治二年(一八六九)刑法司主務、度支局大幹事を最後に引退している。明治三十九年十二月二十三日死去している。八十歳だった。

この福岡宮内の写真が東京で見つかった。

高知商業学校を創立した横山又吉・黄木(おうぼく)の孫にあたられる横山正意氏が所蔵されていた。横山氏にお会いして、福岡宮内の写真を複写させていただいた。
ロサンゼルスに創立された「LA龍馬会」の会長・飯沼星光氏と信子夫人をご案内して横山正意氏のお宅を訪ねた時のことである。横山氏が所蔵する古いアルバムを見ていた時、白い顎★あご★ひげを伸ばして、袴・羽織姿の老人の写真が貼ってあった。
「これ誰ですか」と筆者が問うと、「これは福岡宮内ですよ」

「どうして、ここにあるのですか」

「私の母は宮内の孫ですから」
といとも簡単に説明して下さった。

横山正意氏の祖父・横山又吉は自由民権運動家として有名であり、高知商業学校(現・市立高知商業高校の前身)の創立者でもある。
安政二年(一八五五)十月十五日、土佐郡杓田(しゃくだ)村下島(現・高知市南元町)に生まれているので、坂本龍馬より二十歳年下である。
アルバムの他に、孫文が日本に亡命した時、横山又吉が援助していたお礼に「博愛」と書いた孫文自筆の額もあった。 また福岡家に伝えられた古文書を貼り交ぜた風も所蔵されていた。

それらを拝見していると、幕末維新の史料がこのように伝えられて、東京にあることが不思議に思えた。まだ坂本龍馬に関係する史料も眠っているのだろうと思えてならなかった。


龍馬と刀剣ー12

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龍馬と刀剣ー12

「メモ」は鹿児島で書かれたと推定され、龍馬の短刀合口拵は二振りと存在しないと考えれば、「メモ」の白鞘の短刀と『坂本龍馬手帳摘要』の合口拵の短刀は同一のものと結論できる。
そして、その短刀合口拵は写真(龍馬立像)で袴の紐に差されている短刀そのものと考えられるのである。
慶応二年頃、長崎で撮影したと伝えられる写真(龍馬立像)を詳細に調べてみる。龍馬は短刀を袴の紐に差している。通常、このような差し方をしないので、写真撮影の直前、帯に差している短刀を外し、袴の紐に差し直したと考えられる。帯に差していては、短刀の柄しか写らないのである。龍馬は短刀全体を写真に残そうと考えている。
そして、この写真にもうひとつ注目したいところがある。
龍馬は左足を右足の外側に移動させている。脚を交叉させているのである。このポーズをとると腰は自然に回転し、左側に差している短刀は腰と共に、写真に写りやすい位置に移動するのである。
龍馬は腰の短刀を鮮明に写そうと意識的にこのポーズをとっていると思われる。
この短刀合口拵は、龍馬にとって大事な意味を持った差料だったことが判る。
では、この短刀合口拵にどのような意味が込められていたのだろうか。『刀剣図考』からそれを探ってみる。
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龍馬と刀剣ー11

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龍馬と刀剣ー11

ここで視点を変えて、幕末期、志士達が拵(こしらえ)を作るという事にどのような意味合いがあったのかを考えてみたい。
現代人が刀剣趣味から刀剣の「拵」を作るのと、それは根本的に異なる点があると思う。志士たちは常に(死)というものを意識した日常にいたのである。(死)はあらゆるかたちで志士達の前に現れてくる。(死) に対する緊迫
感、恐怖感は常に志士達の中にあったはずである。そうした感情を少しでも減少させる事ができるのは身を守る(武器)であり、(武道)である。刀剣を身に帯びることで敵からの攻撃を防御でき、また攻撃を加えることができるのである。強力な使いやすい刀剣を帯びることは、志士たちの心の安定と密接な関係を持っていたはずである。そうした配慮から刀剣は選ばれ、「拵」は作られていたと思われる。
赤心報国(せきしんほうこく)、七生滅賊(しちしようめつぞく)といった文字が鐸(つば)、はばき、縁頭(ふちがしら)、切羽(せっぱ)、鞘(さや)など刀剣の部分品に刻まれているのをよく見かける。それは志士たちの政治思想を明確に反映したものであると共に、志士たちの精神を鼓舞させる(象徴)としての役割を刀剣が持っていたことを表わしている。
また刀剣はその美しさで、志士たちにひとときの心のやすらぎを与える魅力があったと思われる。
志士たちにとって刀剣は様々な意味を持つ、必要不可欠なものであったのである。
龍馬も幕末志士の一人として、刀剣に関しては他の志士たちと大きく変るものではなかったと思う。
龍馬が鹿児島で誂えた短刀合口拵は彼の思想を反映したものであったはずであり、そうしたものを二振りと作る時間を龍馬は持ち合せていなかったと思われる。
この短刀合口拵が完成してから暗殺されるまで、わずかに十七カ月半である。


龍馬と刀剣ー10


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龍馬と刀剣ー10

小美濃 清明

⑤ 『刀剣図考』の入手
龍馬が宿から取りよせた本、『刀剣図考』 は、天保十四年三月に第一集、同年九月に第二集、弘化二年に第三集が刊行され、三巻本となっている。
この「メモ」を龍馬が書いた時点--慶応年間から約二十年前に 『刀剣図考』は三巻本として成立している。この本を龍馬はどこから手に入れたのだろうか。
(薩摩)(長崎)(下関)この三カ所の中でこの本を最も入手しやすい都市はどこだろうか。
『刀剣図考』の著者・栗原信充は元治元年二月二十一日、薩摩藩士・木脇祐尚(きのわきすけなお
)と共に江戸を出発している。薩摩藩主・島津忠義の父で国父といわれた島津三郎(久光) の強い招常に応じ、薩摩藩を訪れているのである。
刀剣・甲胃の研究者であった信充は薩摩藩・甲胃製造所の指導者として迎えられた。
鹿児島に到った信充を島津久光は厚く適している。
薩摩を訪れる前、江戸・神田紅梅坂の信充のもとには、多くの薩摩藩士がその教えを受けていた。
こうした栗原信充と薩摩藩の関係を考えれば、信充の著書『刀剣図考』を最も手に入れやすい場所は(薩摩)(長崎)(下関)の中ではやはり(薩摩)である。
「メモ」は薩摩で書かれたと推定できる。
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第2590回幕末史研究会は、武蔵野商工会館の会場にて大盛況でした。
講師は中世史の第一人者・五味文彦東京大学名誉教授です。
テーマは「織田信長の政権構想」で軽妙洒脱ながらツボを外さないのは流石でした、
講演の内容の断片を少々、ここで語れば・・・
応仁元年(一四六七)五月に戦闘が開始されたときに、あちこちで大量の雑兵合戦のためにかき集められて、それが両陣営あわせて三十万以上もの大軍になり、その年以降洛中の大半が戦火で焼失されます。しかも、戦いは畿内近国へと波及し、それが、結果的に自立の拠点の形成し、城館・庵・館・陣・温泉などの発展に寄与したという説なども斬新で面白い話でした。
あるいは、学問と教育の広がり、手習い所(寺子屋)の広がりなど。啓蒙的な藩主の出現によって城下町が城郭ではなく町人地になって繁栄してゆき、都市の担い手が町人や職人、百姓などになって都市は成熟期を迎える、など、それはそれでよかたのですが、残念ながら幕末史との関連が何もなかったのは残念でした。せめて、信長の政権構想と朝廷との関係が、幕末に朝廷を担いでクーデターに成功した薩長との違いなどに触れてほしかったところです。
文・村長


龍馬と刀剣ー9

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龍馬と刀剣ー9

坂本龍馬と刀剣 小美濃清明著・新人物往来社刊
④ 安全な地域の宿
(薩摩)(長崎)(下関)、この三カ所の中で最も安全な場所はどこであろうか。龍馬が 『刀剣図考』を読み、歴史上の有名武将の刀装を眺め、それを基に自分の差料を作ろうとする時間的、精神的余裕を持ち得たのはどこだろうか。
龍馬は「メモ」 の中に(宿)と書いている。下関・伊藤助太夫方・「自然堂」は龍馬の寓居であり(宿)という認識は龍馬にない。慶応三年三月六日、印藤享宛書簡で龍馬は助太夫を(家主)と書いている。下関は「メモ」の書かれた場所ではないと判る。

長崎・小曽根邸にお龍が居た時、慶応二年八月十三日、
森玄道、伊藤助太夫宛書簡に(浪士等長崎こ出てハ、此小曽根をかくれ家と致し居候ものも在レ之、既に私らもひそみ居候)と龍馬は書いている。
長崎も「メモ」に書かれている(のんびりとした日常生活の断片)とは異なる状況であった。長崎は「メモ」を書いた都市ではないと判る。残るのは「薩摩」である。

関ケ原合戦以後、島津氏は国境の守備を固めた。そのため、薩摩藩の国境を越えることは不可能であった。龍馬自身、脱藩の折、薩摩入国に失敗している。こうした頑強な守りは、一度藩内に入れば最も安全な地域となる。
龍馬は慶応二年三月十日から六月二日まで最も安全な場所にいたのである。だからこそ、お龍と共にのんびりと新婚旅行もできたのである。
「メモ」は薩摩で書かれたのではないかと推定できる。


第250回 幕末史研究会

記念となる節目の例会ですので素晴らしい講師をお迎えすること
になりました。中世の第一人者 五味文彦 先生です。
日時 3月25日(土) 午後2時から4時
会場 武蔵野商工会館 4階
吉祥寺駅中央口 から徒歩5分
吉祥寺第一ホテル近く
講師 五味 文彦 先生  東京大学教授
テーマ  「織田信長の政権構想」
信長の政権構想は朝廷との関係が要点となる。
幕末の龍馬・後藤象二郎・容堂たち土佐藩も長州藩、薩摩藩も朝廷との関係に
注意をはらっていた。
申し込み 3月24日まで80名
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken

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龍馬と刀剣ー8

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龍馬と刀剣ー8

才谷梅太郎の変名は慶応二年一月から確認できるので、才谷を名乗っていた期間すべてが伏見・寺田屋へ投宿する事は危険であったのである。こうした状況の中で、寺田屋へ長逗留することは考えられない。
危険な地域の中で、龍馬が短刀合口拵の製作を考え、「メモ」を書いていること自体、不自然なのである。
この「メモ」が書かれたときの状況(のんびりとした日常生活の断片)と、伏見の状況は全く異なっているのである。
また、お登勢は龍馬より六歳上であり、(是は学問ある女、尤(もっとも)、人物也)と龍馬自身が評価する女性である。そのお登勢へ「メモ」の中で、本の説明に図を描き、寸法を加え、表題を 『刀剣図考』 と図に書き込み、巻数を書き、太刀の絵が描いてあると本の内容を記している。説明が丁寧すぎるように思うのである。むしろ歳下の女性への気遣いが感じられる。
そして、もうひとつ、お登勢は寺田屋の女将である。その女将に(やどにてかりてある たんすのひきだし)と書くだろうかという疑問が残る。
こうした様々な理由から、このメモはお登勢宛とは考えにくいのである。残るのは妻お龍である。
③ 宛先はお龍とすると
龍馬が才谷梅太郎の変名を使った慶応二年~三年の間、
お龍はどこにいたのだろうか。
(1)伏見 慶応二年一月一日~二十四日
(この間、負傷した龍馬と行動)
(2)薩摩 慶応二年三月十日~六月二日
(3)長崎 慶応二年六月四日~慶応三年二月八日
(4)下関 慶応三年二月十日~
慶応二年一月一日から一月二十四日までの間で、龍馬は一月十九日に寺田屋へ一泊している。薩長同盟成立の直前であり、龍馬は多忙である。この「メモ」を書く状況にはない。(伏見)は除外できるので、(薩摩)(長崎)(下関)、この三カ所のどこかで「メモ」は書かれたことになる。


 龍馬と刀剣ー7

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龍馬と刀剣ー7
坂本龍馬と刀剣 小美濃清明著・新人物往来社刊

「メモ」にある(白鞘の短刀)と『坂本龍馬手帳摘要』に記されている(短刀合口掠)は同一の短刀ではないだろうか。
短刀が同一であることを証明するには「メモ」が鹿児島で善かれたことを立証しなければならない。
「メモ」を項目ごとに細かく検討してみることにする。

宮地氏は、宛先をお龍か寺田屋お登勢と推定されたが、その説をさらにすすめて、そのどちらが真の宛先であったか推理してみる。

① 差出人・才谷梅太郎
才谷梅太郎の変名を使用した時期に関しては『坂本龍馬全集』の中で宮地氏が、慶応二年一月三日、久保松太郎宛・書簡の解説で次のように書かれている。
(「才谷梅太郎」という変名は、慶応三年春下関「自然堂」時代より、使いはじめたと言われているが、実際は一年早い此頃からと判断したい。)
この久保宛の書簡には才谷梅太郎の署名がある。慶応二年」月から暗殺された慶応三年十一月まで、才谷の変名は使用されていた。
龍馬がお龍と共に薩摩藩内に滞在したのは慶応二年三月十日から六月二日であるから、才谷梅太郎の変名使用期間の中に入る。鹿児島滞在中の「メモ」に才谷の変名が使われたとしても矛盾はない。
「メモ」は鹿児島で書かれた可能性を持っている。

② 宛先・ごく親しい女性
この「メモ」がお登勢宛とした場合、寺田屋は伏見の船宿であるから、龍馬は伏見、もしくは伏見の近くに居ることになる。寺田屋に長逗留をして、外出先の何処かからこ
の「メモ」を書いたことになる。
伏見は京都から大坂への中継地であり、現在は京都の一部に入るが、当時は別の町である。この伏見から船で大坂へ出るのが当時の一般的な順路であった。多くの旅人は船待ちの都合で伏見に宿泊する。
龍馬も出京の度にこの伏見を通っている。しかし、慶応二年一月二十三日、寺田屋で負傷した後、伏見は龍馬にとって最も危険な地域よなる。


 龍馬と刀剣ー6

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龍馬と刀剣ー6

龍馬は短刀合口拵(あいくちこしらえ)を誂えていた。慶応二年五月二十九日、龍馬は海援隊士・寺内新左衛門から借金をして、研代、拵え代を払っている。当時、海援隊士は龍馬を含めて、月給三両二分であったと言われているので、約一カ月分の給料をそれに注ぎ込んだことになる。
この頃の龍馬の行動を表にしてみる (表1)。
龍馬は薩長同盟成立の翌日(正確には二十四日未明)、伏見・寺田屋で幕更に襲撃され負傷し、約一カ月、京都・薩摩藩邸で療養した後、お龍、西郷隆盛、小松帯刀、吉井幸輔等と共に薩摩藩船・三邦丸で鹿児島へ赴いている。そして、約三カ月、薩摩藩内に滞在し、この間にお龍と共に塩浸(ひたし)温泉、霧島山へ遊んでいる。
五月二十九日は鹿児島を離れるにあたり、西郷へ別れの挨拶に訪れた日である。そして、その日は、刀・無銘備前兼元の研磨、短刀の研磨、合口掠が仕上り受け取った日でもあったのである。
翌日、六月」打、龍馬とお龍は桜島丸(ユニオン号)に乗船、二日に鹿児島港を出航している。

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第250回 幕末史研究会

記念となる節目の例会ですので素晴らしい講師をお迎えすること
になりました。中世の第一人者 五味文彦 先生です。
日時 3月25日(土) 午後2時から4時
会場 武蔵野商工会館 4階
吉祥寺駅中央口 から徒歩5分
吉祥寺第一ホテル近く
講師 五味 文彦 先生  東京大学教授
テーマ  「織田信長の政権構想」
信長の政権構想は朝廷との関係が要点となる。
幕末の龍馬・後藤象二郎・容堂たち土佐藩も長州藩、薩摩藩も朝廷との関係に
注意をはらっていた。
申し込み 2月20日から3月24日まで80名
幕末史研究会
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