第14話 アームストロング砲が掘り出された

 

内容紹介
精巧に再現した直筆書簡等に触れて「真実の坂本龍馬像」を体感!

2017年11月15日に没後150年を迎える、幕末の志士・坂本龍馬。彼の駆け抜けた33年の濃密な生涯を、最新の知見と資料を集めた豪華書籍 に加え、
昨年12月に発見された書簡「福井藩士・中根雪江あての手紙」をはじめ、貴重な歴史資料のレプリカ10点が収録された受注生産豪華本(オリジナルDVD付) 。
龍馬ファン必携の非常の完全保存版。

NETで「坂本龍馬大鑑」と検索してみました。
すると、小美濃講師の名がズラリ・・・その一部を掲載します(村長)。

これぞ家宝!超豪華 完全受注生産版 坂本龍馬大鑑 〜没後150年目の真実〜 受注期間:2017年7月14日(金)〜9月15日(金)
「湿板写真家・林道雄所蔵」
質感まで忠実に再現した貴重な複製お宝に触れて
“坂本龍馬の実像”を体感する!

【監修・執筆者】小美濃清明
早稲田大学卒。作家。幕末史研究会会長。全国龍馬社中副会長。主な著書に「龍馬の遺言〔近代国家への道筋〕」(藤原書店)、「龍馬八十八話」(右文書院)、「坂本龍馬と刀剣」、「坂本龍馬・青春時代」(ともに新人物往来社)などがある。

坂本龍馬の辿った道を貴重な資料と共に辿る! 大政奉還から150年。そして坂本龍馬没後150年を迎える2017年。日本近代史上最大のヒーロー「坂本龍馬」の最新情報がわかる1冊。明治維新の裏の立役者として、あまりにも有名であるにもかかわらず、多くの謎を残している龍馬。本書では、ヒーロー伝説の再現と共に、今まで語られていなかった龍馬と海外との関わり等、いまだ確認されていないその一面に迫る。大河ドラマ『龍馬伝』監修や、龍馬研究を手掛けている有識者たちによる最新の知見を集めた「最新の龍馬像」をまとめた豪華書籍に加え、龍馬ゆかりの品々を忠実に再現した複製資料全10点+DVDを収蔵。
高知・長崎・鹿児島・京都・東京を中心に、広範囲なお宝資料収集を実施。また重要文化財に指定されている貴重な資料を含む「龍馬直筆の手紙」や関連資料を精密に複製・再現し、これまでにない〝坂本龍馬の実像〟を“読んで、触って、体感する”まったく新しい読書体験をすることができる豪華保存版です。

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「読んで」、「触れて」、「感じる」 龍馬という漢。精巧に再現した貴重な複製お宝で龍馬に“触れる”全く新しい歴史体験が味わえます。
大政奉還、明治維新の立役者龍馬がどんな人物だったのか?
新しい知見を集めた書籍と、貴重な複製書簡などでこれまでにない“龍馬の実像”を体感!
生き生きとした龍馬の足跡を感じられる全10点のお宝&DVDを収蔵。

手紙への裏書き(龍馬直筆) 桂小五郎から龍馬へ
複製お宝史料 手紙への裏書き(龍馬直筆) 桂小五郎から龍馬へ

薩長同盟成立後、桂小五郎の要請に応え、慶応2年2月5日、龍馬は寺田屋での襲撃で手を負傷しているにもかかわらず、
薩長同盟の書簡に、朱書きの裏書きをしている〈一部抜粋にて複製〉。(宮内庁書陵部蔵)

手紙(龍馬直筆) 龍馬から中根雪江宛
複製お宝史料 手紙(龍馬直筆) 龍馬から中根雪江宛

2016年新発見。慶応3年11月10日、暗殺の5日前。文章に新国家と書かれている。(個人蔵)

手紙(龍馬直筆) 龍馬から乙女姉へ
複製お宝史料 手紙(龍馬直筆) 龍馬から乙女姉へ

慶応2年12月4日。新婚旅行の報告。日本初の「新婚旅行」と言われている。寺田屋の遭難のあと、危険な京都を離れ、妻お龍と一緒に鹿児島で湯治しに行く龍馬。霧島山登山の様子を「イロハニ」の記号で説明している〈一部抜粋にて複製〉。(京都国立博物館蔵)

手紙(龍馬直筆) 龍馬から乙女姉へ
複製お宝史料 手紙(龍馬直筆) 龍馬から乙女姉へ

文久3年6月29日。「日本を今一度洗濯いたし申し候」という有名な言葉が登場。勝海舟の弟子になり、幕府の海軍操練所にいながらも幕藩体制への怒りが「日本の洗濯」という形で表現されている〈一部抜粋にて複製〉。(京都国立博物館蔵)
書状(龍馬直筆) 新政府綱領八策
複製お宝史料 書状(龍馬直筆) 新政府綱領八策

慶応3年11月。明治維新後の新政府設立のための綱領。船中八策を簡略化して書かれたような内容になっている。後半部分に「○○○」と名前を伏字にしてある箇所があり、誰の名が入るのか議論になっている。(下関市立歴史博物館蔵)
写真 坂本龍馬湿板写真

複製お宝史料 写真 坂本龍馬湿板写真

慶応2~3年撮影。当時の湿板写真を元に大型写真として再現。
(高知県立坂本龍馬記念館蔵)

俚謡(龍馬直筆) 紙本墨書
複製お宝史料 俚謡(龍馬直筆) 紙本墨書

稲荷町(遊廓街)から朝帰りした龍馬は、お龍に責められ、即興で俚謡を謡う。お龍への愛と遊びたい気持ちとを織り交ぜたこの俚謡を聞き、お龍も許してくれたといいます。龍馬の人間臭い面が垣間見られる史料。(下関市立歴史博物館蔵)

海戦図(龍馬直筆) 長幕海戦図
複製お宝史料 海戦図(龍馬直筆) 長幕海戦図

馬関海峡での長幕海戦図。丙寅丸を指揮した高杉晋作などの文字も見える。第二次長州征伐では亀山社中のユニオン号で長州藩を支援、長州藩の勝利に貢献した。龍馬はこの戦いについて、この戦況図付きで長文の手紙を兄・権平に書き送っている〈一部抜粋にて複製〉。(個人蔵)

記録帳 玄武館出席大概
複製お宝史料 記録帳 玄武館出席大概

「玄武館出席大概」は清河八郎が安政4、5年頃に北辰一刀流玄武館(千葉周作が開いた道場)に籍を置いていた309名の氏名を記録したもの。龍馬が山岡鉄舟(小野鉄太郎)に剣術を習っていたことを証明する史料〈一部抜粋にて複製〉。(清河八郎記念館蔵)

地図 龍馬が見ていたとされる世界地図
複製お宝史料 地図 龍馬が見ていたとされる世界地図

新製輿地全図。箕作省吾作。(国立国会図書館蔵)

【特別付録DVD】 約1年間に及ぶ本書取材の記録

龍馬の人生と明治維新のことを、末裔の方々や研究者たちが、すべて本企画のために分かりやすく振り返る。特別にインタビュー撮り下ろし

岡崎誠也(高知市長)、尾崎正直(高知県知事)、勝 康(勝海舟の子孫)、小曾根吉郎(小曾根乾堂の子孫)、西郷隆夫(西郷隆盛の子孫)、坂本匡弘(坂本家10代目)、橋本邦健(全国龍馬社中会長)、前田終止(霧島市長)、宮川禎一(京都国立博物館学芸部列品管理室長)、三吉治敬(三吉慎蔵の子孫)等(五十音順/敬称略)

【本書の内容】
第一章新国家をつくる第二章高知城下に生まれて第三章幕末東アジア情勢第四章剣術修行開眼第五章土佐藩の枠にとらわれず第六章脱藩決行第七章勝海舟に心奪われて ~アメリカ最新事情に触れる~第八章薩摩の志士たちと“日本の洗濯”へ第九章長崎の港を見つめて ~海援隊誕生~第十章運命の薩長同盟締結第十一章秘境竹島に夢をもとめて第十二章本懐全う~「新国家創造」に夢と愛を捧げた志士~第十三章新国家の財政計画

完全受注生産版『坂本龍馬大鑑』仕様
※商品デザインおよび写真はイメージです。実際の商品とは異なる場合があります。
※お宝および本書の内容は変更になる場合がございます。

以上、NETからの丸写しです(村長)。
2、江戸・横浜で

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第14話 アームストロング砲が掘り出された
土佐史談会へ行くと、内川清輔先生が「小津高校の校庭からアームストロング砲が出てきたそうです。行きませんか」と筆者を誘った。
勿論、行きます、と答えて、すぐ出かけた。

やっぱり、土佐藩にアームストロングはあったのか、と少し興奮気味に二人で歩いて高知県立小津高校へ向った。

高知城の北側に出て、改道館の門の前を歩いて行くうちに、段々と熱が冷めてきた。
「砲銃弾薬引渡調_」にあったアームストロング砲二挺は明治政府に引渡したはずである。もし掘り出されたものが本物なら、土佐藩はアームストロング砲を三挺所有していたことになる。

何故、一挺だけ埋めたのだろうか。疑問がいくつも湧きあがってくる。しばらくして、小津高校の校門をくぐり、校庭の片隅に砲身だけが鉄製の枠に載せられている前に立った。見た瞬間、大きいと思った。幕末の大砲のイメージより砲身が長いのである。砲身の筒先から中を覗いてみた。施条砲であった。二十本以上の条が螺旋(らせん)を描いており、砲身はスリムに出来ていた。

幕末期に佐賀藩はアームストロング砲を製造している。戊辰戦争の時、佐賀藩の大砲は現在、東京大学のキャンパスになっている本郷台から不忍池を越えて、上野寛永寺向けて発射されている。アームストロング砲だと伝えられている。

幕府の彰義隊を壊滅させたアームストロング砲は、加賀屋敷と加賀の支藩富山屋敷から発射されたという。 土佐藩が所有していたアームストロング砲はイギリスから輸入した砲だったのだろうか。それとも佐賀藩が製造したものだったのだろうか。

佐賀藩が製造したアームストロング砲が土佐藩へ渡ってきたのだろうかと考えてみた。

そういえば、戊辰戦争の時、土佐藩は江戸の砂村下屋敷で左行秀が製造した小銃を宇都宮藩に貸していた。

平尾道雄著『子爵 谷千城傳』に次のように記述されている。

〈当時、諸藩いづれも窮乏して戦費の捻出に苦しみ、宇都宮藩の如きは兵士に使用せしむべき小銃すら其用意なく、僅(わず)かに薩摩藩の鹵獲せる敵の洋式銃を以て一時を糊塗して居たが、子(千城)は西の丸に於て同藩士懸勇記より之を聞き、鑄工行秀作る所の不用銃約五十挺を宇都宮藩に貸与した。〉 藩と藩の間で銃器の貸し借りはあったのである。土佐藩もアームストロング砲を佐賀藩から借りていたのだろうか。
この小津高校のアームストロング砲といわれた大砲は、後に写真を撮って、アメリカへ送った。筆者の友人のサンフランシスコ在住のロミュラス・ヒルズボロウ氏の友人で銃砲の専門家に鑑定を依頼した。 しばらくして、ヒルズボロウ氏から返信があった。小津高校の校庭から掘り出された大砲の砲身は、アームストロング社で製造したものではないという回答だった。

この大砲は幕末期よりも新しい時代に製造されたものと思われると手紙には書かれていた。

龍馬は高知の仁井田浜で十二ポンド軽砲を撃っている。


 


第13話 土佐藩のアームストロング砲

「坂本龍馬大鑑」
幕末史研究会・小美濃清明会長の執筆による超豪華本が出ます!

坂本龍馬~没後150年目の真実
A4版上製/192ページ●お宝資料&DVD封入●特製ケース入
発行:株式会社KADOKAWA
【通常価格16,200円(税込)】11月15日(金)発売

龍馬に関する最新の知見と資料を集め、まとめた貴重な複製お宝資料全10点&オリジナルDVDを収蔵。
[本書の内容]
第一章・新国家をつくる。第二章・高知城下に生まれて。第三章・幕末東アジア情勢。第四章・剣術修行開眼。第五章・土佐藩の枠にとらわれず。第六章・脱藩決行。第七章・勝海舟に心奪われて。第八章・薩摩の志士たちと”日本の洗濯”へ。第九章・
長崎の港を見つめて~海援隊誕生~。第十章・運命の薩長同盟締結。第十一章・秘境竹島に夢をもとめて。第十二章・本懐全う~「新国家創造」に捧げた志士~。第十三章・新国家の財政計画
+【特別付録DVD】約11年間に及ぶ本書取材の記録
※本書の内容は変更になる場合がございます。
本書は完全受注生産版ですので9月15日までに書店に予約を願います。
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第13話 土佐藩のアームストロング砲

土佐史談会は高知県立図書館の三階にある。平尾道雄先生が使用した書籍などが平尾道雄文庫として書棚に並んでいる。
古い雑誌や会誌「土佐史談」を見ていると、平尾先生の直筆のメモなどが出てくることもある。中には平尾先生の名前が書かれた薬袋が出てくることもある。
多くの研究者が収集した史料が室内に並んでいて、歴史の重みを感じる部屋である。全国に会員がおられ、問い合わせの電話も多い。

或る日、史料を読んでいたら、長岡の方から電話があり、「土佐藩にガトリング砲はありませんでしたか?」という質問があった。
内川清輔先生がどうだろうか? 少し調べてみようと話されていた。
しばらくして、土佐藩が明治になって政府に提出した「砲銃弾薬引渡調牒」の写しが存在しているのが分かった。
坂本龍馬が慶応三年九月二十四日、高知へ戻り、小銃千挺を土佐藩重役、渡辺弥久馬、本山只一郎に引渡した話は有名である。その小銃も含まれているはずの「砲銃弾薬引渡調牒」は興味深い史料である。
大砲  三○九挺
小銃  一三一二七挺
砲弾  六○八二一発
が保管倉庫別に記入され、大砲、小銃、弾薬ごとに記入されていた。これらは全て明治政府に引き渡されたのである。我々が見たのはその「写」であった。
しかし、ガトリング砲はなかった。長岡藩の河井継之助が戊辰戦争の時に使って有名となったこの砲は二挺輸入され、もう一挺が土佐藩へ渡ったのではないかという問い合わせだった。しかし、ガトリング砲は、記入されていなかった。
この調査の途中で「北ノ口南御蔵」に収蔵されていた八十七挺の大砲中にアームストロング砲二挺が含まれていることに記がついた。
土佐藩にもこの有名な砲が所有されていたのである。
アームストロング砲はイギリスのウィリアム・アームストロングが一八五五年に開発した大砲の一種である。
マーチン・ウォーレンドルフが発明した後装式ライフル砲を改良したもので、従来の砲より装填時間が短縮された。砲身は錬鉄製で、複数の筒を重ね合わせる層成砲身で鋳造砲に比べて軽量であった。このような特徴から同時代の大砲の中では優れた性能を持っていたと考えられている。
しかし、薩英戦争の時、戦闘に参加した二十一挺が合計三六五発、発射したうち二十八回発射不能となり、旗艦ユーリアラスに搭載されていたアームストロング砲が爆発して、砲員全員が死する事故が起こった。
その原因は巨大な膨張率を持つ火薬ガスの圧力が尾栓を破裂させたのである。
そのためイギリスでは信頼性が失われて、生産は中止されて、過渡期の兵器として消えていたのである。
廃棄されたアームストロング砲は、南北戦争中のアメリカへ輸出された。そして、南北戦争が終わると幕末の日本へ売却された。
江戸幕府もトーマス・グラバーを介して、三十五門発注したが、グラバーが引き渡しを拒絶したため、幕府の手にアームストロング砲は入らなかったという。
土佐藩のアームストロング砲は長崎のトーマス・グラバーから買い付けたものだろうか。龍馬や近藤長次郎が関係したものなのだろうか。


第12話 脱藩の道

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第254回 幕末史研究会
日時2017年7月29日(土)午後2:00から4:00
会場 武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講師 鷹見本雄氏 たかみもとお 鷹見家11代当主
テーマ 編集者国木田独歩の後継者鷹見久太郎が果たした役割は
会費 一般 1500円 大学生 500円 高校生以下無料
講義内容 蘭学者鷹見泉石の曾孫鷹見久太郎はジャーナリストとなり、女性と子供のため月刊グラフィック誌を発刊した。日本
社会に与えた影響は、

申し込みは実施前日までに事務所まで
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken

第12話 脱藩の道

坂本権平が語った
「それじゃア、どうも龍馬がおととい家★うち★を出たきり帰って来んが、脱藩したらしい。人を雇うて詮議すると、須崎で、油紙に刀らしい物を包んで背中に負うた龍馬の姿を見た人があるそうぢゃが、それから先のことは判らんキニのう」
という言葉は安田たまきの記憶の中に残り昭和三年まで伝えられた。
「須崎で、油紙に刀らしい物を包んで背中に負うた龍馬の姿を見た人があるそうぢゃ」
これがキーワードとなる。
龍馬は何故、刀を油紙に包んで背負っているのだろう。
乙女から餞★はなむけ★としてもらった刀は「土佐勤王史」によれば〈備前忠広〉という。
佐賀藩抱工で「備前国近江大掾藤原忠広」という名工がいる。この忠広であれば高価な刀剣である。
この日、もしかして、雨が降っていたのではと推定した。雨で刀が濡れないように龍馬は〈備前忠広〉を油紙に包んで背中に負って、須崎の道を歩いていたのではないだろうか。
文久二年(一八六二)三月二十四日、この日の高知の天候が雨であれば安田たまきの証言は信憑性が高い話と考えられるのである。
高知の幕末の天候記録を調査した。
高知から南西へ十キロメートルほど離れた宇佐という村の真覚寺に井上静照という住職がおり、安政元年(一八五四)から明治元年(一八六八)に至る足かけ十五年にわたる日記があった。
文久二年三月廿四日
陰天八ツ頃蓮師の祥月の勤行する七ツー頃より雨ふり出ス夜中大雨波高し

同廿五日
雨日入頃雨やむ夜風少々吹く
と記録されていた。

龍馬が高知から姿を消した日、三月二十四日、七ツ頃(午後四時)から雨が降り始めて夜中大雨であり、波も高かったのである。
里程標によると、高知城下・本町から須崎村まで、十里二十四丁十三間三尺とある。約四十キロメートルである。
城下から朝倉、弘岡、高岡、戸波★へわ★、須崎と平坦な街道がつづいて行く。戸波と須崎の間に名古屋坂があるだけである。
龍馬は吉田東洋を斬って逃走した安岡嘉助、大石団蔵、那須信吾のように追手が掛かってはいないのである。
雨の中、街道を隣り港・須崎港のある須崎村に向かって歩いているだけである。まだ脱藩ではないのである。
歩きにくい山林や坂道を歩く必要はないのである。
龍馬は須崎の発生寺★ほっしょうじ★には頻繁に訪れていたという。
須崎市古市町の川村為三郎氏の祖母・雛★ひな★さんに話に
「私の十歳位の時(文久年間か)龍馬さんが私のうち(黒岩家)へ宿泊したことがあった。片時も刀を離さず用便の時は、私が小姓役のように刀を持って、便所の外で立されたことがあった。便所まで刀を持って行くとは、おかしいことだと思ったが、今にして思うと当時の志士がいつも危険にさらしていたかということが分ります。云々」
とある。
龍馬は須崎へは歩き慣れた道を行くといった感じで向かっているのである。

 


第11話 ニョイスニョイス

 

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第254回 幕末史研究会
日時2017年7月29日(土)午後2:00から4:00
会場 武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講師 鷹見本雄氏 たかみもとお 鷹見家11代当主
テーマ 編集者国木田独歩の後継者鷹見久太郎が果たした役割は
会費 一般 1500円 大学生 500円 高校生以下無料
講義内容 蘭学者鷹見泉石の曾孫鷹見久太郎はジャーナリストとなり、女性と子供のため月刊グラフィック誌を発刊した。日本社会に与えた影響は・・・

申し込みは実施前日までに事務所まで
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第11話 ニョイスニョイス

ニョイスニョイス

『維新土佐勤王史』の冒頭に土佐勤王党血盟者姓名簿が載っており、百九十二人の名がある。一番目が武市半平太、二番目が大石弥太郎、三番目が島村衛吉、七番目が河野萬壽彌、九番目が坂本龍馬、十一番目が川原塚茂太郎である。
最後の所に吉田東洋を暗殺した大石団蔵、安岡嘉助、那須信吾と累を避けんが為に除いたと書かれている。
そして、その後に滅銘簿以外の勤王党同志人名録という名簿がある。
〈故に其の血盟書の名簿に列すると否とは固(もと)より敢て其の間に軽重する所なきなり〉
と書かれている。
その名簿を見て、龍馬に関係した人物をあげてみる。
清岡道之助  望月亀弥太
樋口真吉   沢村惣之丞
岡田以蔵   岡本謙三郎
中島作太郎  新宮馬之助
岡内俊太郎  小南五郎右衛門
近藤長次郎  本山只一郎
那須俊平   佐々木三四郎
掛橋和泉
と並んでいる。
この名簿に「如意助」と姓がない名が書かれている。そして欄外に(刀鍛冶氏詮★うじのり★)と説明がある。
如意助は小松如意介といい、安芸郡井ノ口村の刀鍛冶で刀工銘は(正宣★まさのぶ★)である。『維新土佐勤王史』の編集者が土佐の刀工・中島氏詮と間違えているのである。如意介は明治二十一年九月十三日に死去して墓は大阪市生玉町齢延寺にあったが、今は無縁佛となり廃されてない。
この如意介は坂本権平の刀を造った左行秀の弟子である。
中島氏詮は文政二年(一八一九)六月七日、土佐国安芸郡田野浦町に生まれた。阿波国海部の刀匠海部氏善が祖で慶安の頃、土佐国田野に移住して中島氏を称し、代々刀鍛冶を業としたその八代目が氏詮である。
氏詮は清岡道之助と交流し、野根山二十三士屯集の際は井ノ口村の刀匠小松如意助と共に田野新町の濱口文兵衛から船を求めて、清岡たちを脱藩させる準備をしていたと記録されている。
如意介は左行秀の作風を受け継いで、美しい無地肌風の鉄に濡れた刀文を焼いている。如意介の作品は少なくないが、筆者の蔵刀として一振如意介があるので中心を載せることとする。
如意介は人柄が良く可愛がられて、
「ニョイスニョイス」と呼ばれていたと記されている。
しかも水通町に住む左行秀の弟子である。坂本龍馬と面識もあったと思われる人物である。龍馬も「ニョイスニョイス」と呼びかけていたかもしれない。


第10話 高村退五事件

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第254回 幕末史研究会のご案内です。

日時 2017年7月29日(土)午後2:00から4:00
会場 武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講師 鷹見本雄 氏 鷹見家11代当主
テーマ 編集者国木田独歩の後継者鷹見久太郎が果たした役割は
会費 一般 1500円 大学生500円 高校生以下 無料
講義内容  蘭学者鷹見泉石の曾孫鷹見久太郎はジャーナリストとなり
女性と子供のための月刊グラフイック誌を発刊した。日本
社会に与えた影響は、
申し込み 実施日前日までに事務所へ
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken
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第10話 高村退五事件

高村退五事件

坂本龍馬の差料は「吉行(よしゆき)」である。「陸奥守(むつのかみ)吉行」とも銘を切る。この吉行には兄がいた。兄も刀鍛冶だった。「吉國(よしくに)」と銘を切る。「上野守(こうずけのかみ)吉国」とも銘を切る。
高知市在住の土佐史談会会員の某氏から、「吉国」と銘がある長脇差を見せていただいた。ご自慢の愛刀とのことだった。身中の広い立派な脇差だった。
そして、この脇差は高村退五(たかむらたいご)の差料だったと説明を受けた。柄(つか)には高村家の家紋の桜の目貫がついていた。
高村退五というと有名な事件があった。寛政九年(一七九七)二月六日の夜、高知城大川淵に住む上士・馬廻二百石の井上左馬之進の屋敷で同輩・森久米之進、大塚庄兵衛、長尾貞之進、長尾貞五郎が集まり宴席を開いた。偶然、来訪した長岡郡廿枝(はたえだ)の郷士・高村退五も同席することになった。
その宴席で井上が刀剣の善し悪し(よしあし)を話して、自分の佩刀を誇った。そして、最近手に入れた名刀を見せた。
高村は郷士とはいえ耕田数十町を持ち、文武に優れた人物で、刀剣の目利きに長じていた。井上は高村に鑑定を求めた。
井上は気に入った刀だったが、高村はこの刀を酷評した。
激怒した井上は高村を斬り、同席した四人も井上と共に抜刀して高村を斬殺した。
土佐藩庁は四月四日、井上左馬之進に対し、「沙汰に及ばず、以後きっと相嗜(あいたし)なむべき」旨を伝え、同席した四人には「向後厚く相心得よ」と戒告しただけで終わった。
一方、高村家に対しては不届きとして家督断絶とした。
この処分に対して郷士の間に不満の声が広がり始め、高知城下へ郷士が集まりだした。
土佐藩庁はその事態に気付き、五月二十六日、井上左馬之進に対して「屹度遠慮(きっとえんりょ)」を宣告し、二十八日、馬廻の家格を小姓組に格下げし、知行二百石を没収して、新規に五人扶持切符五十石とした。
そして、郷士に対しては五月二十九日、「風聞演説(ふうぶんえんぜつ)を相控(あいひか)え穏成取りはからう可べき事に候。心得違い之無(これな)き様」と諭告した。
つまり、「静かにせよ」と脅したのである。
郷士の不満はおさまらない。
六月七日、再度、諭告が発せられた。
「郷士に対して差別はなく、打捨てという作法もない。藩庁の判断もいろいろあるので、郷士が差別だと思い込んではならない」
藩庁は郷士に冷静になるよう伝えている。
しかし、郷士の不満は治まらなかった。
ついに、六月二十二日、十代藩主・山内豊策★とよかず★が高知城内に主な家臣を集めて直書を布告した。
「今回の件について書付などを差出す郷士がいることを聞いている。この度のことについては我は考慮しているので、今まで通り、忠勤に励むように」
結局、土佐藩は上層部を更迭せざるを得なかった。六月二十八日
〈奉行職〉福岡外記 柴田織部
〈仕置役〉松下長兵衛 尾池弾蔵 中山団七
〈大目付〉高屋九兵衛 原彦左衛門 仙石弥大夫
など藩重役が職を退いて収拾をはかった。
四年後、享和九年(一八○一)九月二十一日、井上左馬之進は仁淀川以西へ追放となって事件は終結した。
高村は今、高知県南国市祈年山に眠っている。墓には
〈高村退五墓〉と前面に刻まれ、側面に〈寛政九 丁巳二月六日 二十八歳〉とある。


第9話上土と下士-2

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第9話上土と下士-2
安政元年(一八五四)六月に帰国し、しばらくして徳弘孝蔵の西洋式砲術塾に入門している。
そして、桂浜に近い仁井田浜で大砲の実射訓練を受けた記録がある。
安政二年(一八五五)十一月六、七日に実施された訓練には二十九名が参加している。
佐野郷右衛門、橋本三千弥(藩士橋本和太郎世倖)、栗尾源八、猪野儀太郎、奥宮貞之助、猪野半平(郷士)、深尾包五郎(家老山内昇之助嫡男)、桐間廉衛(家老桐間蔵人次男)、酒井
永馬(藩士酒井利右衛門世停)、桐間安之助(家老桐間蔵人四男)、深尾八弥(家老深尾家一族
カ)、新谷孫蔵(郷士)、本山左近右衛門、林馬寿之助(藩士)、学石主税(藩中老)、横山恭助、
和田弾蔵(郷士)、探尾丹波(雲)、山内下総(雲)、山内左織(家老)、山内昇之助(家老)、
桐間蔵人(室)、桐間将監(薯桐間蔵人嫡男)、誓良馬(郷士御用人望権平実弟)、坂
ママ
本権平(郷士御周人)、伊与木辰五郎(郷士)、佐々木竹之進(家老柴田備後家来)、川村参平(家
老桐間蔵人家来)
上土と下士が同じグループで大砲を撃っているのである。しかも家老が五人、その中に下士
が加わったという編成である。
幕末期に誉と、圭と下士の間に階級差別が減少したのだろうか。臨戦態勢に彗た軍事
訓練は上土・下士の階級を無視する形で行われたのだろうか。
私の高知の友人に長宗我部遺臣の子孫がいる。しかし、この人のご先祖は馬廻役であったと
いう。何度も確かめたが馬廻役であり上土であったという。
長宗我部遺臣は下士という制度の中にも例外はあったということになる。


第9話上土と下士-1

第9話上土と下士-1

関ケ原合戦は慶長五年(一六〇〇)、徳川家康が率いる東軍が西軍の島津義弘、毛利輝元ら
に勝利した。
西軍であった土佐国の長宗我部氏は滅びた。そして掛川六万石から山内一豊が土佐国の領主
となって進駐した。
山内家臣団は土佐藩の上土となり、長宗我部遺臣であった半農の一領具足たちは、そのまま土佐国内に残り、土佐藩の下士となった。そのため、二百六十年間、上土と下士という二重構造がつづき、常に乳轢を生じさせる原因となっていると土佐史の解説書には書かれている。
そして、上土の下士に対する差別は、服装、儀礼、習慣にいたるまで徹底しており、それにより多くの事件が発生したとされている。
坂本龍馬に関連してよく知られるのは井口村永福寺門前事件である。
ますなが
文久元年(一八六一)三月四日の夜、上土の小姓組山田広衛は同伴の茶道方益永繁斎と、友人宅の節句酒に酔って通行中、暗夜のために山田に触れた下士の郷士中平忠次郎を無礼討ちにした。
忠次郎と同行していた少年宇賀(うが)喜久馬は、小高坂に住む忠次郎の実兄池田寅之進に急報した。
寅之進は現場に急行して、江ノロ川のどんどんと呼ばれていた堰のあたりで、水を飲んでいた山田広衛を討ち、益永繁斎をも斬り伏せた。
この刃傷事件はすぐ高知城下に広がり、下士は池田家に集まり、上土は山田家へ集合した。
上土側は池田寅之進の身柄引き渡しを要求したが、下士側は拒絶した。双方がにらみ合う状態がつづいたが、結局、下士側の池田寅之進と宇賀喜久馬の二人が切腹してこの事件は落着した。
事件の発端は宇賀喜久馬が美少年であり、それを連れ歩いていたのが山田広衛の感にざわったためと言われている。
この喜久馬の切腹の折、首を斬り落としたのは兄の宇賀利正である。利正の息子が有名な物理学者となる寺田寅彦である。
利正はこの事件についてひとことも語らず、寺田寅彦も随筆には書いていない。
利正は二十五歳であり、喜久馬は十九歳であったと作家・安岡章太郎氏は『流離讃』の中で書いている。宇知見利正、喜久馬、寺田寅彦は安岡家系譜に名が記述されている一族の人々である。
しかし、土佐郷土史でこの事件を扱ったものは利正を十六歳とし、喜久馬を十三歳としている。               安岡氏は(この事件を世間に流布させた人たちが、その悲劇性を強調しようとするあまりに、主人公たちの年齢を実際よりもずっと若く引き下げてしまったものであろうが、その理由を追
求する気持も、私にはない。)と書いている。
歴史の記述には往々にして、そのような傾向がみられ、坂本龍馬を調べて、資料を読んでいると時折、ハテと首をかしげる事がある。
この上士と下士の差別という問題も、どう考えればよいのかという資料がある。
坂本龍馬は嘉永六年(一八五三)剣術修行で江戸へ行き、ペリー来航に遭遇している。その折、藩の臨時御用で警備陣に加えられ、その後、佐久間象山塾へ入門し、大砲操練を習っている。

 


第8話 お琴の手習本

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第8話 お琴の手習本

小美濃 清明

坂本龍馬の親友だった濱田栄馬は、小栗流の剣術を教える日根野道場へ一緒に通う仲であった。
父親同士が親しかったので、子供同士も仲が良かったのである。
栄馬の曾祖父と祖父が上土と下士の乱轢(あつれき)から発生した事件で斬殺されたあと、濱田姓を藤田姓に変えていた。
藤田姓は龍馬が脱藩したあと、濱田姓に戻している。
龍馬と栄馬が親しくしていた頃は藤田姓なので、この章は藤田姓でこの一家のことを書く。
藤田栄馬には二人の妹がいた。長女の琴(こと)、次女の好(よし)である。この好は後に安田家へ嫁いで名前をたまきと改めている。
琴が書道を学ぶ時に使用した「手習本」がご子孫に伝えられて、現存している。
「源氏物語」と草書で表紙に善かれており、裏表紙に「婦知多琴女蔵(ふじたことじよぞう)」と楷書(かいしょ)で書かれている。その横に後
代に書き加えられたと思われる「昔、藤田で後に溝田となりました」という小さな文字がある。
そして朱筆で「嘉永うしのとしの九月」と草書体で善かれている。

嘉永丑年(うしのとし)は六年(一八五三) である。
この手習本は琴の伯父・森本藤蔵が書いたものであり、「源氏物語五十四帖」 の「桐壷」から「夢浮橋(ゆめのうきはし)」まで各一首ずつの和歌が抜き書きされている。
すま  あかし
「須磨(すま)」「明石(あかし)」が見開き二頁となっているので見てみよう。

うきめかる伊勢をの海士(あま)を思ひやれ
もしほたるてふ須磨の浦にて

秋の夜の月げの駒よ我が恋ふる
雲井にかけれ時のまも見む
とある。
「明石」の歌には「月毛」と書かれている「毛」の横に平仮名で「げ」と読みが振られている。
「我」の横には「わが」とあり、「時」の横には「と記」と読みが書かれている。
森本藤蔵が十六歳の琴の読みやすいようにルビを振ってくれているのである。
流麗な書体で書く書かれたこの手習本は藤蔵の国学の素養の高さを感じさせるものである。土佐藩の下士(郷士)階級の中に、これだけの人物がいたという事実は注目に値する。
坂本龍馬も和歌を詠んでおり、国学の素養を身につけている。郷士というと上土の下にあり、上土に較べて教育も劣ると考えられがちだが、決してそのようなことはないのである。郷士階級の教育は上土と全く変わらないのである。
この琴は、この手習本が書かれた嘉永六年の翌年の、五月十三日夜、自害している。
琴は美しく、嫁に欲しいという話が多かったそうである。自害の理由は分からないという。
高知の豪商から琴の遺体でも嫁にもらいたいという話があったそうである。
琴の自害を龍馬は知らない。江戸修行から龍馬が高知へ戻ったのは六月二十三日であり、一カ月と十日後である。
作家・津本陽氏は『龍馬』(角川書店)の中で琴を龍馬の恋人としたが、手紙や伝承が残っているわけではない。


第7話 龍馬と栄馬

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第252回 幕末史研究会
日時 2017年5月28日(日)午後2時から4時 会場 武蔵野商工会館4階 講師 合田一道 氏 (作家) テーマ 北から見た幕末維新 会費 一般1500円大学生500円高校生以下無料 講義内容 明治維新は北辺の北海道をも揺るがした。最後の戦いとなった      箱館戦争の意味とは、朝廷がまっ先に北海道開拓に着手した理由とは。
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
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第7話 龍馬と栄馬

坂本龍馬は脱藩をする前、安田たまきの兄・藤田栄馬に共に脱藩しようと誘ったという。しかし、栄馬は脱藩しなかった。その理由は栄馬は長男だったからである。家の跡目を継ぐという役目があったのである。そして、もう一つ、龍馬のように国家とか政治といったものに興味が薄かったこともある。
栄馬のご子孫にうかがった話だが、栄馬は父から、「お前には美しい嫁をもらってやるから脱藩するな」とも言われて、説得されたと言う。
父は約束を破らず本当に美しい嫁をもらってやった。嫁は岡本槇★まき★という女性である。(写真A)
この槇の写真が高知市の栄馬のご子孫のお宅に保存されていた。額に入っていたので、複写させてもらうことにして、額の裏側を開くと、槇の写真の下にもう一枚の写真が入っていた。白地の着物に紋付の羽織を着た男性だった。栄馬のご子孫にこれは誰ですかと尋ねるたが、初めて見る写真なので、誰か判らないとの話であった。
後に、栄馬の孫(亀井とよさん)がこれが藤田栄馬であると証言してくれた。
写真Bが栄馬である。
明治になって撮影されたもので、茶人として趣味の世界で生きていた龍馬の親友の姿である。
幕末の土佐史を研究していると、土佐の若者が次々と脱藩し、動乱の時代を生きていく。土佐の若者全てが、龍馬に続くように活躍するように錯覚するが、それは正確ではない。栄馬のように平凡な生活を望む若者もいたのである。
学生運動の中心でヘルメットをかぶり、角材を振った学生もいれば、ノンポリもいたのである。
栄馬はさしづめ、ノンポリの典型であり、龍馬はヘルメット派の代表であり、暗殺されている。
栄馬は明治になって、高知の新興財閥・川崎幾三郎のもとで経済人として働き、趣味で陶器を焼き、茶道の宗匠として無味庵夏一と名のり、狂言などを演じる優雅な生活を楽しんでいる。
この栄馬と槇の間に生まれたのが楠猪である。(写真C)
楠猪も母親ゆずりで美しかった。この女性に一目惚れしたのが横山又吉であった。黄木★おうぼく★という号を持つこの男は高知で有名な暴れん坊であり、自由民権運動の中心にいた。
又吉は安政二年(一八五五)十一月十五日、高知城下旭村下島の医師。横山常吉の四男に生まれた。十一月十五日は龍馬を同じ誕生日である。
藩校致道館に学んだのち、陸軍士官学校へ入学。しかし、フランス語の学習が嫌いで中退し高知へ戻った。そして、板垣退助の立志社へ入り、たちまち政治青年の頭目となって活躍した。
明治十三年(一八八○)、又吉は高知新聞に入社し、坂崎紫瀾、植木枝盛らと共に痛烈な政府攻撃の論陣を張った。
こんな男が楠猪をくれと栄馬に迫った。当然栄馬は断った。
すると又吉は「娘をくれなければ、家に火をつけるぞ」と栄馬を脅かしたという。ご子孫に伝わる本当の話である。
この又吉は、後に高知商業学校の創立者となる男である。

 


第5話 背中にふさふさ-1

第5話 背中にふさふさ-1

小美濃 清明

西内清蔵(にしうちせいぞう)の的場(射撃場)で坂本龍馬が鉄砲の練習をしていたことがある。
一回目の江戸修行が終わって高知へ戻ってきた頃の話である。
坂本家がある本丁筋から少し歩いたところに西内清蔵の的場があった。
清蔵は文化十四年(一八一七)高知の小高坂村に生まれている。十八歳龍馬より年上である。
龍馬の兄・坂本権平が文化十一年生まれなので、同世代という年である。

土佐藩の砲術家で、龍馬が入門した徳弘孝蔵と並び称せられた田所左右次(たどころそうじ)に清蔵は早くから入門していた。
嘉永六年(一八五三) ペリー来航の年である。臨時御用で岩国、長崎と西国を視察している。
ロシアのプチャーチンが来航したという情報で長崎へ行くが、ロシア船は退去して見ることはできなかったが、鋳造所などを見学して帰国している。
この旅行記を『砲術修行西国日記』としてまとめている。
清蔵は自邸の中の「山ノ端」に的場を作り、青少年に砲術を教えていた。その中に谷干城、坂本龍馬がいたという。
坂本龍馬が的場で射撃する時、着物を脱ぎ上半身裸で的をねらっていたという。その時龍馬の背中は体毛で覆われて、まるで馬のたて髪のようだったという。