第78話 宮地佐一郎と亀井勝一郎

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第78話 宮地佐一郎と亀井勝一郎

「坂本龍馬手帳摘要」に慶応二年(一八六六)五月二十九日、坂本龍馬が寺内新左衛門(新宮
芝助)から借金をして、短刀合口拵(たんとうあいくちごしらえ)と研代を支払っている。ちょうど鹿児島から長崎へ向かう前日であった。
お龍との新婚旅行も最終日で鹿児島へ別れを告げる日が近づいていた。龍馬も身辺整理をして旅立つ支度をしている最中である。鹿児島の刀剣家のところへ短刀の他に「備前兼元無銘(ぴぜんかねもとむめい)」を研磨に頼んでいた。その支払いが合計で三両二束余であった。龍馬は金がなかったので、四両二分を寺内から借り、更に寺内から二両を借りている。合計六両三歩、借金をした。
ここに「備前兼元」と印刷されている。はて、と思った。旺文社文庫の『龍馬の手紙』を読んでいた時である。備前には兼元という刀鍛冶はいないのである。兼元は美濃国の名工である。
孫六兼元という刀鍛冶が兼元何人かの中で特に有名である。備前にいるのは兼光である。備前長船兼光といい、延文頃(南北朝。一三五六~一三六一)の名工である。
草書で「光」と「元」は書体が似かよっている。もしかして、「坂本龍馬手帳摘要」を読み違えたのだろうかと考えた。
その可能性もあると考えて、原本を読みたいと考えた。原本はどこにあるのか、光と元の読み違いか、それとも単純な誤植なのかを旺文社の編集部に問い合わせる手紙を送った。それが大変な事になってしまった。
旺文社が宮地佐一郎先生へ転送したのである。
そして、宮地先生から手紙が届いた。原本はないとのことだった。岩崎鏡川の「坂本龍馬関係文書」に掲載されているままであるとのことだった。そして、先生のご住所が筆者の住まいと近いと分かった。偶然である。
しばらくして宮地先生が自転車に乗って現れた。これが運命であり、筆者が龍馬研究に入る発端である。
しばらくして、今度は筆者の方から先生のお宅を訪問した。一階の茶室で真喜子夫人のお粉茶をいただきながら、話がはずんだ。
そして、三度目は先生と筆者の住まいの中間にある井の頭公園と決まった。池畔のベンチに腰かけながら話をしたり、近くの焼鳥屋で飲みながら、あるいは玉川上水辺りを歩きながら龍馬の話だった。


鎌倉への文学散歩で大彿次郎先生の墓へもご案内いただいた。
また函館では亀井勝一郎先生の文学碑へ今度は筆者がご案内した。高田屋嘉兵衛の銅像を見ながら坂を上っていくと、左に文学碑があった。

人生 邂逅し 開眼し 瞑目す。

宮地先生はその碑を撫でながら、「先生やって来ました、やって来ました」と話しかけていた。その姿は今でも忘れることができない。人とのつながりはこういうものでありたい。


第77話宮地佐一郎と龍馬

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第77話宮地佐一郎と龍馬

『坂本龍馬全集』(光風社出版)を編集・解説した宮地佐一郎先生は平成十七年三月八日、亡く
なられた。八十歳だった。
いつも、「土佐を脱藩して東京へ出て来た」と笑って言われていた。
文学青年だった宮地先生は亀井勝一郎を訪ねてその門下生の一人となった。そして、同人雑誌「詩と真実」に歴史小説を発表していった。その中の短篇をまとめて『野中一族始末書』(審美社)を昭和三十八年一月に刊行した。
その数カ月後、一通の手紙が届いた。作家・大佛次郎(おきらぎじろう)からだった。
宮地佐一郎様
もっと早く手紙を差し上げるべきでしたが、御本をおしまいまで読んでからと思ひ失礼しました。私は老年ですし、いそがしいので、なかなか時間がなく昨日、拝見し終りました。近頃、清潔で優れたものと失礼ながら感心し、これから他にお書きになった時も、読むようにしようと思ひました。悪作がはやり持てる時代に、心のこもった良い作品に出会ったのを嬉しく思います。
御本のお礼までに申上げます。お世辞でなくて。                                                     大彿次郎
驚きのあまり「呼吸がとまる」思いであったと『大佛次郎私抄』(日本文芸社)に宮地先生は書いている。この出会いが龍馬へ近づいていく一歩となった。
その後『闘鶏絵図』(七曜社)『宮地家三代日記』(光風社書店)『菊酒』(同)と発表して直木賞候補作品となっている。しかし、受賞することはなかった。
一方、大佛次郎は朝日新聞に「天皇の世紀」を連載し、一五〇〇回を越えていた。
明治天皇の誕生から大逆事件までを書く大作はその頃、坂本龍馬が登場するところまで進んでいた。大佛次郎は高知県取材を宮地先生と共に行いたい希望を持っていた。
てるおか
朝日新聞東京本社学芸部長櫛田克巳、早稲田大学大学院生暉峻(てるおか)康人と共に高知へ向かったのは昭和四十三年十月のことであった。
この旅行は思い出深いものであったらしく、何度もその話は聞いている。そしてこの旅が宮地先生がフィクションからノンフィクションへ転向していく布石となった。
先生の死後、書斎の整理をしていて、大佛次郎と共に旅したアルバムが出てきた。その中に
大俳次郎が幸徳秋水の墓前に立つ写真があった。『天皇の世紀』はここまで書きつづける予定だったが未完に終わっている。今、残っている七八〇〇枚という『天皇の世紀』の原稿用紙は作家の執念を現している。
そして大佛次郎から受け継いだ情熱が宮地佐一郎の『坂本龍馬全集』に結晶していくのである。
宮地先生は岩崎鏡川が編集した『坂本龍馬関係文書』を使いやすいように編集を改め、新しく発見された手紙を加えて全一巻という大冊にまとめあげた。
偶然のことから筆者は宮地先生から二十数年にわたりご教示をいただくことになった。晩年、病床にあった宮地先生は誰ともお会いになることを望まなかった。唯一、筆者だけが身内と同様の扱いで病院のベットに眠る師を見ていた。
いつも眠い目が輝くのは龍馬の話であり、土佐の話であった。先生の死後、同じ道を後から一歩一歩、歩いていくのが筆者の残された人生と思っている。


第76話 小椋館長と龍馬

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第76話 小椋館長と龍馬

高知県立坂本龍馬記念館の初代館長は小椋克巳さんだった。昭和三年(一九二八)生まれで菟媛大学工学部卒の理系の方であった。高知放送アナウンサー、ニュースキャスターを歴任、昭和四十二年から四十三年、テレビ朝日の木島則夫モーニングショウの司会グループに入り有名だった。
平成三年高知県立坂本龍馬記念館開館と共に初代館長に就任された。
先ず初対面でその魅力的な声と声量に驚いた。宮地佐一郎先生に紹介していただき、高知を訪れると必ずお会いすることにしていた。坂本龍馬記念館はその初期において、大変な苦労の連続であった。傍らから見ていて、ハラハラすることの連続であった。
いつもお城の下あたりで、静かに二人だけで話をするようにしていた。小椋館長は食通で良いお店を選んでくれた。話題は常に龍馬であり、情報の交換だった。
アナウンサーとしての話の上手さが、この人の武器であり、魅力である。常に龍馬もこのように縮が卜しモ一かったのだろうなあと思いながら拝聴していた。
龍馬についてはこの記念館の館長になってから勉強を始めたので素人ですと、謙虚な姿勢を最後まで崩さなかった。
穏やかな人当りの良い印象を与えるのは放送界で鍛え抜かれている。しかし、厳しい面も中に秘めていた方と思っている。                        一
龍馬も実際に会った人の印象は穏やかな人という。そして、義理堅い人というのが小椋克巳館長の神髄である。

土佐藩品川下屋敷と鮫洲抱屋敷(さめずかかえやしき)の研究調査で、品川商店街連合会の方々と知り合うことができた。
一度、高知へ行ってみたいという商店街の希望で、平成十六年、坂本龍馬記念館を訪問した。
その折も、小椋館長が自ら館内を案内し、その美声で展示物の説明をして下さった。
それが、五年後の品川龍馬会結成として実を結ぶことになる。
宮地佐一郎先生が平成十七年三月、亡くなられた時、親族だけの小さな葬式としたが、小椋館長は高知から東京へ来て下さった。
弔辞を読んで筆者が席に戻ると隣席に座っているのが、小椋館長だった。筆者が弔辞を読んでいる姿を写真に撮ってくださり、送ってくだざると言われた。
しかし、写真は送られてこなかった。それは小椋館長自身が亡くなられたからである。しかし、奥様のお話によると、その写真は用意されており、送る寸前だったという。やはり約束を守る人だったのである。
今度は筆者が高知に行くことになった。館長は自分の体調も悪いのを伏せて、宮地先生の葬儀に駆けつけて下さったのだった。
連続の葬儀参列となった。淋しかった。
お二人とも、龍馬は自分の血肉となっていた。通夜の折、小椋館長の唇に筆で水を含ませながら、ご苦労様でしたと呟いた。
今、坂本龍馬記念館は森健志郎館長に受け継がれて、第二段目ロケット噴射という状況である。


第75話 小渕総理とヒルズボロウさん

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第75話 小渕総理とヒルズボロウさん

ロミュラス・ヒルズボロウさんは武道修行でアメリカから日本へ来た。そして数年後、道場で吉川英治の『宮本武蔵』を読んでいた。その時、兄弟子が『竜馬がゆく』は面白いぞと薦めたという。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読み終えると、『坂本龍馬全集』を編集した宮地佐一郎先生を訪ねた。ぞして龍馬研究を始めたそうである。
ヒルズボロウ氏の日本語を覚えるスピードが驚異的である。わずか数年で文庫本を読んでいた。そして、行動力である。龍馬を研究してみようと思い立つと、宮地佐一郎先生を訪問したりである。
そして、日本人女性と結婚のあと、アメリカへ戻ったヒルズボロウ氏は苦心して『Ryoma』を出版した。その時、筆者に電話してきて、小渕恵三総理大臣に差し上げたいと話した。それからが大変だった。総理大臣に直接手渡したいという希望をなんとか実現してやりたいと、筆者はあらゆる手段を考えた。その過程を書いていると頁数が足りないので省略する。
総理が現れた。記者団の写真撮影が終ると記者全員が部屋の外に出る。そのあとはプライベートな時間となった。
龍馬ファンの小渕総理は英語で書かれた分厚い『Ryoma』を手にとり、嬉しそうに見ておられた。
小渕総理が一年生議員の時、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が「産経新聞」に始まった。
これを楽しみに読みつづけたという。               ひと
坂本龍馬のように生きたいと思い、そう行動したと小渕総理は言っておられた。他人の話はよく聞いて、よいところは吸収する。そして実行する。そうしていたら、いつの間にか総理大臣になってしまったと言って笑っておられた。
その頃、沖縄サミットを控えて、サミット会場の建物も建設中だった。小渕総理は龍馬という人物を世界の人々に知ってもらいたいと考えておられた。
そこで提案した。沖縄サミットで龍馬について小渕総理が英語でスピーチするという案だった。総理は早稲田の英文科出身である。準備は秘書室の方々と進めるということになった。それからがまた大変だった。ここも省略する。しかし実現しなかった。小渕総理が倒れたのだ。
目的達成いま一歩で倒れたのは龍馬と同じだった。
ヒルズボロウ氏は悲しみと困惑の声を電話で漏らしていた。沖縄サミット関催の時、アメリカから沖縄へ飛ぶと言って張りきっていた彼は悲痛だった。
そしてそれは小渕総理死すという報で極限へと向かった。
病状回復を願って千羽鶴を皆さんで折っていたが、その完成の日に訃報が届いた。その夜、王子の小渕総理私邸へ筆者は千羽鶴を届けた。
警備の警察官も千羽鶴の入ったバックを見て通行を許可してくれた。
「龍馬に惚れたのは何もお龍さんだけではない、この小渕もぞっこん惚れている」と官邸ホームページに書いた総理は龍馬と同じように無念の死を迎えた。
ヒルズボロウ氏の用意したサミット参加国首脳に配られるはずの『Ryoma』は永田町に積まれたままになった。


第74話 お龍と川田雪山-2

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第74話 お龍と川田雪山-2

お龍もあわてて道を間違えたので引き返して戻っている。そして、
「町の角で五六人の捕手にハタと行き遇って何者だと云ふから私はトボケタ顔をして、今寺田屋の前を通ると浪人が斬ったとか突たとか大騒ぎ、私や恐くって逃げて来た、あなたも行って御覧なさいと云ふと、ウム人違ひぢゃったと放しましたから、ヤレ嬉しやとは思ったが又追ッかけて来はせぬかと悟られぬ様に下駄をカラカラと鳴らして、懐ろ手でソロソロと行きました。」
とお龍は語っている。その語り口がお龍の人柄をよく現していて面白い。
この聞き書の筆記者川田雪山も、聞いたままを筆記してこの後日譚についての責任は一切僕が引き受けますと書いている。この川田雪山について少し書く。
川田雪山、明治十二年(一八七九)高知県生まれ。通称は瑞穂(みずほ)。号雪山は高知市の雪光山(国見山)から取られている。明治二十八年十七歳で大阪に出て、漢学者山本梅崖の塾で漢学を学んだ。同三十五年早稲田専門学校政治経済科に入学。中退。大正五年維新史料編纂会嘱託となり、同十一年維史史料編纂官補となる。同十二年司法省嘱託となり、昭和五年早稲田大学講師、同十年早稲田大学教授。同十五年内閣嘱託を兼任。同二十五年早稲田大学を定年退職。同二十六年一月死去 享年七十三。
雪山が残した最も大きな仕事は太平洋戦争終戦の詔勅を起草したことである。昭和天皇が玉音放送で読んだ詔勅は、「堪へ難キヲ堪へ 忍ヒ難キヲ忍ビ 以テ万世ノ為ニ 大平ヲ開カムト欲ス」
と書かれており、荘重、典雅、文格自ずから具わり、王者の辞たるに愧(は)じないと評価されている。
この川田が若き日にお龍をインタビューしているのである。二十歳の川田は誠実にお龍と対話し、彼女の心を開いたのである。内容は彼の言葉通り一切責任を取るという正確なものと思われる。


第74話 お龍と川田雪山-1

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第74話 お龍と川田雪山-1

坂本龍馬が寺田屋で伏見町奉行の役人に襲撃された時の話はよく知られている。
慶応二年(一八六六)一月二十三日夜の二時過ぎる頃、事件は起こった。
明六ツ(午前六時)から一日が始まり翌日の明六ツまでが一日である。龍馬は二十三日の二時と手紙に書いているが、現在では二十四日午前二時過ぎる頃である。
風呂に入っていたお龍が外の気配に気づき、階段を駆け上がり、龍馬へ知らせる場面は特にである。お龍が裸だったか、衣類をまとっていたかと龍馬ファンはにぎやかである。
龍馬はピストルで、三吉慎蔵は槍で奮戦し寺田屋を脱出する。そのあと、川の近くの材木置場に隠れて、三吉だけが伏見薩摩藩邸にたどり着く。早速、大山と吉井が小舟に丸に十字の旗を立てて、負傷していた龍馬を救出した。
一方お龍は、
「人の居る所は下駄を穿いてソロソロと知らぬ顔であるき、人の見えぬ処は下駄を脱いで一生懸命に走りました。処がひょっこり竹田街道へ出ましたので、コレは駄目かと思って又町へ引返し」と「千里駒後日譚」に発表している。これは川田雪山がお龍と会い聞き書きしたものを明治三十二年(一八九九)十一月「土陽新聞」に載せたものである。

 


第73話 福岡宮内の曾孫

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

 第73話 福岡宮内の曾孫

近くの鈴ケ森刑場に行く、罪人が涙の別れをした橋なので涙橋という。
京浜急行鮫洲駅前には土佐藩十五代豊信(容堂)の墓もある。高知県にはご稼が深い品川である。ここに品川龍馬会(浦山嗣雄会長)も創立され、活動が活発である。
横山正意氏は福岡宮内の曾孫であり、渡田栄馬の曾孫であり、横山又吉(黄木)の孫でもある。
明治四十五年(一九一二)生まれで、現在九十八歳で東京にご健在である。往年の慶応ボーイでダンディな面影が残っている。
祖母・横山楠猪(くすい)に似ている顔立で、昔の話を語る時の楽しそうな笑顔が印象的である。
記憶力は驚くばかりで、戦前、英語の勉強でロサンゼルスに留学していた頃の話になると、すばらしい発音で正確なストリートの名を口にした。脳の中に地図が描かれているようであった。
家について語っていただいた中で、特に印象が強く残っている話は横山又吉と頭山満とうやまみつる)の話である。
頭山満は安政二年(一八五五)四月十二日、福岡藩士筒井亀策の三男として生まれた。幼名は乙次郎。後に母方の頭山家を継ぐことになり、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって頭山満と改める。
横山正意(まさもと)は福岡宮内(くない)の曾孫(ひまご)であり、■田栄馬の曾孫であり、横山又吉(黄木)の孫でもある。

明治九年(一八七六)に秋月の乱、萩の乱が起こると、頭山は旧福岡藩士の蜂起を画策し投獄された。獄中にあって西南戦争で尊敬する西郷隆盛と共に戦えなかった悔しい思いが後の玄洋社の原点となっている。
明治十一年(一八七八)、大久保利通が暗殺されると、頭山は高知に旅立つ。板垣退助が西郷隆盛につづいて決起すると期待したが板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張した。
これをきっかけに自由民権運動に参加した頭山は、板垣の立志社集会で初めて演説をして、植木枝盛・横山又吉らと交流を結ぶことになった。
高知から福岡に戻った頭山は明治十二年(一八七九)、自由民権運動を目的とした玄洋社を結成した。社員は六十一名で、誰もが例外なく西郷隆盛を敬慕する団体であった。
明治十七年(一八八四)十二月六日、朝鮮で金玉均が率いる独立党が朝鮮の近代化を図ろうしたクーデターを起した。清国軍が介入して、三日間で失敗に終った。しかしこれを甲申事変という。事変後、長崎へ亡命してきた金玉均に頭山は会い、支援金を渡している。
明治二十年(一八八七)頭山は九州日報の前身となる福陵新報を創刊し、不平等条約改正反対の論陣をはり、清国に対する敵愾心を露わにした。
幕末に結ばれた不平等条約を対等条約に改めようという政治課題が■条約改正■である。
しかし、政府が作る改正案はいまだに諸外国に屈した内容であったため、自由民権運動の流れを汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。
頭山は、その不平等条約改正反対運動のリーダー的存在であり、また民権主義を訴えるだけでは国家の存立は困難と考えて自由民権運動とは一線を画す手法をとるようになっていった。
一方、横山又吉は明治一三年(一八八〇)高知新聞社に入社、坂崎紫瀾、植木枝盛らと共に痛烈な政府批判の論陣を張り自由民権運動の中心となっていた。明治二十年(一八八七)十月、保安条例違反で逮捕投獄されたが、明治二十二年四月、高知市制が布かれ、一圓正興市長のもとで学務委員長め、教育界へと歩みを進めていった。明治三十二年(一八九九)高知商業学校を創立し、名校長として知られた。
横山正意によると昭和期になって、横山又吉と頭山満が再会する席があり、同席したという。若い頃、自由民権運動で共に若き血をたぎらせた二人だったが、並んで座に着いている二人をすぐ後で立って見ていたが、一言も言葉を交すことこはなかったという。
二人は時の過ぎゆく中で、全く異った思想の中に生きるようになっていたのである。
龍馬たちの次世代を生きた横山又吉と頭山満、幕末も激しかったが、明治、大正、昭和と生きたこの二人も激しい人生であったに違いない。
そして、晩年となっていても、普通の老人のように過去をなつかしがる心情は無く、最後まで現役だったので、ひと言も口を開かなかったと思われる。


第72話 品川龍馬会

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第72話 品川龍馬会

嘉永六年(一八五三)六月、ペリー艦隊は浦賀に来航した。六月三日から十二日まで、この十日間で日本は大きく変わっていった。
九日、久里浜で国書を日本側に渡すと、ペリー艦隊は十日に退去すると日本側は考えていた。
ところが、十日、逆に江戸湾深く進入した。ペリー提督は自ら江戸の町を見ようと、サスケハナという旗艦を底の浅いミシシッピに変更して乗り込んだ。
羽田村沖、十二丁(約一三〇〇メートル)まで近づいて品川の町まで目撃している。そして水深を測量して引き返している。
二度目の来航、翌年一月にはもっと深く進入している。マストの先から江戸を見たと報告しているので品川沖から三田、芝辺りまでを見たと思われる。
ペリー提督は日本側が交渉に応じないのにしびれを切らし、「脅迫を実行する」として軍艦を江戸城に近づけたのである。
ワシントン大統領の誕生日(洋暦二月二十二日、日本暦一月二十五日)に祝砲を一二六発、発射した。空砲だがすごい轟音だった。またボートにも大砲を積み込み、発射させた。浅瀬でも大砲を江戸城に近づけることができることを日本側に見せつけた。これで日本側も交渉に応じると決定した。
こうしたペリー艦隊が動き回った江戸湾に、土佐藩の浜川砲台が造られた。二度目の来航の時である。
品川下屋敷(品川区東大井三丁目)に一万六千坪という広大な屋敷を土佐藩は持っていた。
東京ドームの一・二倍の広さである。
そしてもう一つ鮫洲抱屋敷(かかえやしき)を土佐藩は所有していた。
この抱屋敷は江戸湾に面した八百六十九坪の小さい屋敷だったが、この中に砲台を建設した。
ここに坂本龍馬がいた。佐久間象山塾で大砲の撃ちかたを習った若者たちがこの浜川砲台に配属されている。
指揮官は第顎話で登場している寺田左右馬という人物である。大砲八門を配備した浜川砲台はわずか言の突貢工事で造られた。浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ連絡道路が立会川商店街となっている。
龍馬は一兵士として大砲を操作している。数え歳二十であった。
京浜急行立会川駅の改札口を出て右に行くとすぐに品川下屋敷跡である。左に行けば鮫洲抱屋敷跡である。旧東海道に面したこの屋敷は浜川橋(涙橋)のたもとにある。


第71話 LA龍馬会

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 第71話 LA龍馬会

二〇〇六年、アメリカのロサンゼルスに龍馬会ができた。高知県人が南カリフォルニアに移民をして百年を迎えたのが二〇〇九年である。
龍馬の師・勝海舟は万延元年(一八六〇) アメリカのサンフランシスコへ成臨丸で訪れている。ペリー来航から六年後である。 つぶさに見たアメリカという国を海舟は龍馬に伝えている。龍馬はアメリカを訪ねてみたいと考えていたと思われる。そして、土佐の漁師の万次郎という少年がアメリカ東海岸のフェアヘブンで教育を受け日本へ帰国している。「漂巽紀略(ひょうそんきりやく)」(河田小龍著)に万次郎のアメリカ合衆国の紹介記事が載っている。
龍馬は海舟の弟子であり、航海術を習っている。太平洋を越えてみたいと思っていただろう。
そして、世界の海援隊をやりたいとも言.っていたという。そして、そうした夢がかなえられなかったことは誰でもが知っている。
龍馬の夢は同じ土佐の仲間、岩崎弥太郎が実現した。三菱の旗は世界に翻っている。
坂本龍馬と岩崎弥太郎は長崎で二人だけで酒を飲みながら語り合っていた。その夢が、三菱のマークとなって全米の道路を走っている。
そうした歴史を踏まえてロサンゼルスに龍馬会が発足した。会長の飯沼星光氏は高知県出身である。ご先祖は土佐藩士・飯沼権七直政であり、槍の名人だったという。高輪円真寺に墓がある。星光氏のご母堂は自由民権運動で活躍した横山又吉(真木)の親戚である。又吉は高知商業学校(現・高知商業高等学校)の創立者としても有名である。
飯沼信子夫人は静岡県出身、日系二世の飯沼星光氏と結婚後に渡米。国際的に活躍したり日米の架け橋となった日本人、野口英世のメリー夫人や、高峰譲吉、松平忠厚、彫塑家の川村吾蔵、薬学界の長井長義らの偉業を後世に残す作品を発表している文筆家である。  も
『アメリカ暮らし照る日量る日』(淡交社)『野口英世の妻』『高峰譲吉とその妻』(新人物往来社)『長井長義とテレーゼ』 (日本薬学会)などが出版されている。
この飯沼ご夫妻によってLA龍馬会は活発活動を始めている。龍馬の志をアメリカへ広げていく最前線にいるお二人である。
先日、来日された時、品川駅から近い高輪の日蓮宗・円真寺へ飯沼ど夫妻と共に墓参させていただいた。
その折、お話しいただいたことが興味深かった。
先祖の飯沼権七直政は土佐藩品川下屋敷詰だったという。しかし、品川下屋敷には住まず近くに一軒の住居を構えていたという。
品川下屋敷内に住居が少ないのは東海道分間延絵図からも分かる。蔵は九軒建っているが住居は五軒しか、描かれていない。
幕末期までこの下屋敷は住居として使われる建物が、少なかったようである。
品川下屋敷詰の藩士たちの中には、近くに住居を持っている者も多かったのかもしれない。


第70話 桂浜の銅像

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

 第70話 桂浜の銅像

司馬遼太郎氏怯昭和六十三年五月、桂浜で行われた龍馬先生銅像建設発起人物故者追悼会に「メッセージ」を寄せている。
「銅像の龍馬さん、おめでとう。あなたは、この場所を気にいっておられるようですね。私もここが好きです。世界じゅうで、あなたが立つ場所はここしかないのではないかと、私はここに来るたびに思うのです。あなたもど存じのように、銅像という芸術様式は、ヨーロッパで興って完成しました。銅像の出来具合以上に、銅像がおかれる空間が大切なのです。その点日本の銅像は、ほとんど が、所を得ていないのです。
昭和初年、あなたの後輩たちは、あなたを誘って、この桂浜の巌頭に案内してきました。
この地が空間として美しいだけでなく、風景そのものがあなたの精神をことごとく象徴しています。
このメッセージの中程に次のような文章がある。
「あなたをここで仰ぐとき、志半ばで倒れたあなたを、無限に悲しみます。
あなたがここではじめて立ったとき、あなたの生前を知ってぃた老婦人が高知の町から一里の道を歩いてあなたのそばまできて
「これは龍馬さんぢゃ」
とつぶやいたといいます。彼女は、まぎれもないあなたを、もう一度見たのでした。」
この老夫人とは誰のことだろう。
昭和三年(一九二八)五月二十七日、龍馬像は除幕されている。高知に生前の坂轟馬を見知っている女性がこの時、何人いたのだろうか。               軒

この日、朝日新聞記者だった藤本尚則(ふじもとなおのり)のインタビューを受けていたのが第6話の安田たまきである。弘化二年(一八四五)十二月二十九日生まれのたまきは数え年で八十四歳である。司馬遼太郎氏が書いた老夫人は安田たまきのことと思われる。
龍馬は脱藩の前、たまきの兄・演田栄馬を訪ねてきて、兄・権平が来ても何も知らんと言ってくれと頼んで高知から出ていった。文久二年(一八六二)三月二十四日のことである。
安田たまきは兄と共に龍馬の言葉を聞いていた。その時わたしは十七歳でしたと、たまきは語っている。
たまきは昭和四年五月二十五日、午後六時、本籍地(高知県土佐郡潮江村四千七拾参番地イ号地)で死去している。
朝日新聞の藤本尚則のインタビューを受けた一年後である。貴重なインタビュー記事は龍馬研究家から注目されず、眠り続けていた。それは藤本尚則が『巨人頭山満翁』の執筆者であり、敬愛会という民族主義的団体を主宰していたからである。戦後の左翼系歴史学者からは完全に無視されている。しかし、藤本のインタビューによりたまきの魂が平成の時代まで伝えられ、多くのど子孫と巡り合わせて下さった。そこから多くの史実を知ることができ、貴重な史料も得ることができた。唯々、感謝である。