織田信長にみる武士道-3

織田信長にみる武士道-3

花見 正樹

この戦いの後、今川を離れた三河の松平元康は名も徳川家康と変えて独立します。
これからの信長は、家康と手を結んで「清州同盟」とし、今川に敵対します。
この軍事同盟によって、信長は美濃国攻略に専念し、家康も駿河の今川家に抵抗氏真らに対抗することが出来ました。
永禄4年(1561、信長は美濃を攻めて大勝利します。
永禄7年(1564)には、北近江の浅井長政と同盟を結び、信長は妹のお市を浅井長政に嫁がせています。
永禄8年(1565)、三好一族と松永久秀が将軍・足利義輝を暗殺、第14代将軍に輝の従弟の足利義栄を擁立します。
永禄11年(1568)秋、信長は大義名分として将軍家に足利義昭を奉って、強大な武力を背景に上洛を開始します。
信長は、足利義昭を第15代将軍に擁立、義昭から勧められた副将軍も断り、恩賞も望まずに尾張へ戻ります。
永禄12年(1569)1月、信長が尾張に戻った隙を狙った三好軍や美濃の斎藤軍が共謀して足利義昭の御所を襲います。
それを待っていたかのように信長は動き、明智光秀軍を義昭の御所に出向させて反乱軍を一掃します。
元亀元年(1570)、信長の上洛命令を無視した朝倉義景を攻め、徳川家康も浅井・朝倉連合軍を撃破します。
信長は、浅井父子と朝倉義景の3人の頭蓋骨を漆でかためて金箔を張った薄濃(はくだみ)にして酒宴に披露しています。
これは、戦った敵の勇気や覇気に敬意を表し酒に溶かして飲み込む、という中国の故事に倣ったものと言われます。
幕末においても薩摩藩などにおいては、討ち取った敵方の勇者豪傑の生肝を食する風習が残っていますが、これも同様の意味です。
元亀2年(1571)、信長は朝倉・浅井に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにして僧兵、浪人らの皆殺しを謀ります。
これを「禍根を後に遺さず」と勝利への正道とみるか、残虐非道の鬼畜の行状とみるかは、説の別れるところです。
この件に限らず、諸將が生き残りを賭けた殺し合いに明け暮れた戦国時代の武士道は、勝利への執念に満ち満ちて、勝ち抜き抜くことが武将の一義であって、江戸徳川幕府時代にみる太平の世の礼節を尊んだ武士道とは全く異なっていたのも止むを得ないことです。


織田信長にみる武士道-2

織田信長にみる武士道-2

花見 正樹

天文20年(1551)、信長の父・信秀が42歳で病死します。
信長が父の葬儀で焼香に立ち会ったときの服装と態度が記録に残っています。
髪を束ねただけのちゃせん髷で、袴なしの着流しに長柄の太刀と脇差を藁縄で腰にくくりつけた姿で信長は現われます。
香をわしづかみにして仏前に投げつけ、一瞥してその場を去ったとあり、誰もが眉をひそめたとあります。
この「大うつけ」ぶりで信長は周囲の敵を欺き続けて力をつけ、徐々に本当の姿を表してゆきます。
ただし、このだらしのない無秩序な性格もまた、信長の本当の姿であるのは間違いありません。
信長が家督を継ぐと、戦う集団として家臣の結束が固くなり、次々に周辺を従属させていきます。
それまでの尾張は織田一族が枝分かれしていましたが、信長が智勇と武力でたちまち統一して国主となります。

永禄3年(1560)5月、駿河の大名・今川義元が4万を超える大軍で上洛の途中、尾張を通ります。
それに抵抗する織田軍の総兵力は5千弱、とても今川軍を阻止できません。
当時人質だった三河国の松平元康(後の徳川家康)軍が先鋒となり、織田軍の城や砦を次々に殲滅させます。
しかし、信長は臆することなく今川の大軍に立ち向かいます。
敵の油断を突いて桶狭間において今川義元を襲い、白兵戦の末にこの強敵を倒しました。
記録では5月19日の正午過ぎ、家来の前で敦盛を舞った信長は、立ったまま湯漬けをかけて食べて出陣します。
熱田神宮に昆布と勝ち栗を備えて参拝した後、2千人の軍勢で、休憩中の今川陣中に強襲をかけます。
この桶狭間の戦いを、世間では奇跡の勝利といいますが、兵力ではるかに劣る織田軍であっても、総大将の信長が先陣を切って敵陣に飛び込み、刀を振るって今川の兵を斬りまくった鬼神のごとき働きが少数の部下を鼓舞して勝利に結びついたのです。
日頃から尾張の内戦で戦いに明け暮れた戦闘集団を率いる信長と、大軍に守られて貴族風に奢った今川義元の差が、明暗を分けたのも自然の理です。
この桶狭間の戦いで前の国主・今川義元を失った今川氏真は、全軍に銘じて本国の駿河に退却して戦いは終わります。
織田信長は、全軍に命じて、戦い破れて帰国の途につく今川軍の追討を止めさせて、静かに見守ります。
冷酷非道に見える信長にも、武士の情けはあったのです。


 織田信長にみる武士道-1


織田信長にみる武士道-1

花見 正樹

天文3年(1534)5月12日、信長(幼名・吉法師)は、尾張の戦国武将・織田信秀の嫡男として生まれました。
父・信秀は織田達勝傘下の3奉行の1人で豪肝勇猛、主家をも凌駕する勢いの城持ち奉行です。
信秀自分の住む城の他に、2歳の幼い吉法師のために那古野城をつくり、養育係に二人の家老を付けます。
信長の才能を見抜いた一番家老の林通勝は、幼い吉法師に英才教育を課し、武芸と学問をみっちり仕込みました。
信長の少年時代は、武芸、馬術、水泳、弓、鉄砲、鷹狩りと、めいっぱいの英才教育です。
信長は、13歳で元服して吉法師から三郎信長と名乗ります。
天文15年(1546)、14歳の吉法師は初陣を果たしました。隣国に侵入して火を放って民家を焼いただけとの説もあります。
天文16年の秋、父の織田信秀は美濃に侵入したところ、マムシの名がある斎藤道三に逆襲されて負け戦になりました。斎藤道三といえば主人を裏切って殺し、さらに美濃の国主・土岐氏をも謀殺してのし上がってきた海千山千の戦国大名です。
このマムシの道三を恐れた織田家家老が、道三の息女・濃姫と信長の政略結婚をまとめようと考えました。
天文18年(1549)春、美濃の国主・斉藤道三から信長に、国境に近い正徳寺での対面の申し出があります。道三は、織田信秀亡き後は、うつけ(バカ)者との評高き後継者の信長を殺せば尾張は手に入る、と考えたのです。
信長がうつけ者であるとの情報は、道三も聞いてはいましたが、自分の目でその程度を確かめたかったのです。
当日、道三は家来数人と早めに行き、村はずれのあばら家に潜んで信長一行の通過を眺めました。馬上の信長は食べ物を口に入れながら大声で家来と語らい、服装もまた思った以上に粗雑でした。噂通りのちゃんせん髷で半袴、腰に火打ち袋やひょうたんをぶら下げ、まるで山遊びにでも出かけるような態度です。
道三は家臣に、「噂以上のうつけじゃな」と、信長のうつけ振りに呆れたそうです。ところが、道三が何食わぬ顔で後から正徳寺に着くと、そこには、いつ着替えたのか正装の信長が待っていました。信長は髪もきちんと折り曲げて結び、柿色の長袴の腰に小刀を差し、堂々たる大名姿でした。
正式の挨拶があって盃を汲み交わし、二人の初対面は終わりますが、道三は家臣に語ります。
「以後、信長をうつけ者と呼ぶことは許さぬ。無念ではあるが、いずれ美濃はあの者に屈するであろう」
戦いでは容赦なく残虐な行為もした信長ですが、若い時から武士の心得として「礼節の心」は大切にしたようです。


源頼朝にみる武士道

源頼朝にみる武士道

花見 正樹

源頼朝(みなもとのよりとも)は、久安3年4月8日(1147)に、清和天皇の流れを汲む河内源氏の頭領・源義朝(よしとも)の三男として生まれます。幼名・鬼武丸から鬼武者、頼朝と名は変わりますが、通称は三郎です。
父・義朝は清和天皇を祖とし、河内源氏の流れを汲む武士です。保元元年(1156)の保元の乱では、平清盛らと共に後白河天皇に従って戦って勝利しますが、平治元年(1159)の平治の乱では、後白河上皇の近臣であった藤原信頼の反乱軍に加わって、三条殿焼き討ちを決行しますが、官軍となった平清盛軍に敗れて謀殺され、長兄も次兄も処罰され、三男の頼朝も死罪でしたが、清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)の嘆願もあって死罪を免れます。
永暦元年(1160)3月に、14歳の頼朝は、伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流刑になります。
比較的自由な琉人生活の中で、源氏方に従ったために所領を失った武士らが従者となって頼朝のもとに集って来ます。
頼朝は、安達盛長、佐々木定綱四兄弟らと、地方武士として日々鍛錬を怠らず過ごし、やがて、監視役になるべき平家方の武將で伊豆の豪族・北条時政の長女・政子と親しくなります。
これを知った政子の父・時政は、政子を地侍の山木兼隆に嫁がせるが、政子はその婚礼の場から抜け出して頼朝のもとに走ります。
諦めた時政は、政子を頼朝の妻と認め、頼朝と政子の間に大姫が生まれます。
ただ、最近では、この山木兼隆の話は創作とされています。
治承4年(1180)4月、後白河法皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏系武士に発しま 頼朝にも、叔父の源行家経由で令旨が届きますが、政時の助言で「機至らず」と静観して動かずにいます。
政時の推測通り、戦いに利なく、以仁王は源頼政らと共に宇治の戦いで敗死します。
だが、勝ち誇った平氏は、令旨を受けた諸国の源氏系武士の追討を厳命、頼朝にも危機が迫ります。やむなく、挙兵し、伊豆国目代の山木兼隆の韮山目代屋敷を襲撃して兼隆を討ち、気勢を上げますが、相模国土肥郷へ向かった頼朝軍300騎は、そこで待ち伏せた平氏方の熊谷直実、伊東祐親ら三千余騎に包み込まれて敗北し、頼朝は土肥実平ら僅かな従者と共に箱根山中へ逃れます。
治承4年(1180)8月末、安房国平北郡に上陸した頼朝は、房総の豪族・上総広常、千葉常胤らの加勢を得て、9月に安房国から上総国、下総国と出て、千葉一族と合流し、さらに上総広常の大軍と合流、頼朝軍は進軍し、さらに武蔵国の豪族・葛西清重、足立遠元らの軍勢を加えて、かつて敵対していた畠山重忠や河越重頼らの軍も従属させてかつて父の義朝の支配地だった鎌倉へ入ります。
その後、着々と鎌倉を整備して新たな政治の拠点とし、平氏との決戦に備えます。
その秋、平維盛(たいらのこれもり)率いる平氏の追討軍が駿河国まで来ると、鎌倉勢も武田信義と北条時政ら頼朝軍2万で進軍し、富士川を挟んで対峙しますが、夜半、水鳥の飛び立つ音に驚き浮き足立った平維盛軍は慌て乱れて潰走し、頼朝軍は戦わずして勝利します。
その勢いで頼朝は上洛を目指しますが、味方の総意が得られず、やむなく黄瀬川まで兵を引きます。
この日、頼朝の異母弟である源義経主従が、頼朝軍に合流します。
これを機に、鎌倉に戻って、新たな政務を侍所を中心に行うことになります。
治承4年(1180)末にはまだ、平氏と源氏の優劣の差は全く見えていず、国内のあちこちで小競り合いが始まっていた。
四国伊予、近江、甲斐、信濃、美濃、尾張の源氏系武士、肥後の菊池隆直軍が挙兵して頼朝軍に投じ、平氏も福原を去って京都に都を戻して反撃に出ました。平氏は南都の寺社勢力を制圧し、近江源氏を倒しますが、平清盛が熱病で世を去ります。
その後、一進一退の攻防が続きますが、その均衡を破ったのが義経軍でした。
寿永2年(1183)春に挙兵した木曽の義仲が、平氏との戦いに連戦連勝し、ついに平氏を追い落として都を制圧します。
しかし、平氏に替わって都に入った義仲軍は、統率も乱れて乱暴狼藉や略奪で都人の反感を買います。後白河法皇もさすがに木曽軍に見切りをつけ、義仲に西国の平氏追討を命じ、代わって頼朝に上洛を要請します。
しかし、頼朝は上洛を断ります。頼朝は奥州の藤原秀衡らに鎌倉を攻められるのを恐れたのと、京にはもはや、数万騎の頼朝軍を賄うだけの余力がないことも知っていたのです。
その後、木曽軍が平氏追討で破れ、京に戻って、頼朝追討の命を望み、一度は断られますが、実力で後白河法皇を拘束して頼朝追討の宣旨を出させ、強制的に征東大将軍に任ぜさせて、源範頼と義経率いる頼朝軍と戦って自滅し、義仲は粟津の戦いで討たれます。
義仲を討った範頼と義経の軍は、平氏を追討すべく京を発ち、摂津国一ノ谷の戦いで平氏を破ります。
文治元年(1185)1月、鎌倉の範頼から、軍内部の不和や食料不足、帰還を望む武士達の窮状を訴える書状が届きます。
頼朝は、九州に逃れた安徳天皇や建礼門院の無事を願い、これ以上は軍を動かさず、九州の武士達から反感を買わぬようにと
気遣った返書が範頼に届きます。さらに、九州の武士には、範頼に従って協力を望む書状を届けています。
その範頼への書状をみた義経は、後白河法皇に親書で西国出陣を奏上して、その許可を得て讃岐国屋島に出陣し、ここでの戦いで平氏を海上へと追いやり、さらに、九州の武士から兵糧と多くの船を得た範頼が義経と力を合せ、豊後国へと渡ってから、3月24日の壇ノ浦の戦いへと進み、ここで平氏を滅亡させますが、同時に、幼い安徳天皇の命をも海の藻屑にして、頼朝の意に反した結果になっています。
文治元年(1185)4月、平氏追討で義経の補佐をした梶原景時から、義経を弾劾する書状が頼朝に届きますが、頼朝は無視します。
さらに、頼朝は幕府の内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東武士らの任官を認めず東国への帰還を禁じますが、同じく任官を受けた義経だけには咎めを与えませんでした。
その上、範頼の指揮権への越権行為、義経が配下の武士達に勝手な処罰など専横を訴える武士の報告、それらが入り、頼朝も仕方なく義経を代官から外し、武士達に義経の命には従ってはならなという命が出されました。
義経は、壇ノ浦の戦いで捕らえた平宗盛父子を伴って相模国まで意気揚々と凱旋し、腰越から鎌倉に入ろうとします。
しかし、頼朝は宗盛父子のみを鎌倉に入れ、義経の鎌倉入りを許しませんでした。鎌倉では主要な御家人数人が義経に謀反の疑いありと報告していて、その理由を聞くまでは義経を鎌倉にはいれられない、という雰囲気だったのです。
もちろん、その時の義経にはそんな気など全くありませんでした。
腰越に留まる義経からは、鎌倉入りの許しを請う書状(腰越状)が頼朝に届きます。だが、頼朝は、それを無視して、面会を終えた平宗盛親子を伴って京に戻るように義経に命じます。
頼朝としては、義経を京に戻すことで、鎌倉武士内部の軋轢を消し、義経の身の安全を図りたかったのです。
何故なら、義経を弾劾する数々の訴状をあわせると、いくら頼朝が頭領でも、義経を死罪から守ることは出来なかったのです。
しかし、これを機に義経は頼朝を深く恨んで、「鎌倉に怨みを成す関東武士は、義経につくべき」と言います。
この時、はじめて義経に、鎌倉に反旗を翻す謀反への感受が感情が湧いた、と私は思います。
後世に至り、判官贔屓の日本人気質からは、義経が善玉で頼朝が悪玉となっています。
しかし、頼朝の平家打倒の旗印には全国の反平家勢力が結集し、義経の打倒鎌倉には誰も応じなかった事実は無視できません。
頼朝には頼朝なりの賞と罰の論理があり、仁において武士道が存在するのは確かです。
それを理解できた時、義経だけでなく孤独だった頼朝にも情を寄せることが出来るのかも知れません。


北条時政にみる武士道

北条時政にみる武士道

花見 正樹

北条時政は、平安時代末期の平氏一族の武将として伊豆守護の任にあった在庁官人説もある地元の豪族です。
北条氏は、第50代桓武(かんむ)天皇の末裔で、臣籍降下により平姓を賜った一族で、平将門、平清盛と同門の名家です。
時政の父は北条時方、母は伊豆掾伴為房の娘で、妻は伊東祐親の娘他となっていて子沢山、宗時、政子、時子、義時など15人がいます。
その伊豆の在地豪族でしかなかった時政に、天から降って湧いたような大きな転機が訪れます。
永暦元年(1160)3月、平治の乱で敗死した源義朝の嫡男・頼朝が、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)の嘆願などによって斬首を免れ、伊豆蛭が小島(ひるがこじま)に流刑となり、時政が監視役に任じられます。頼朝は13歳でした。
頼朝の伊豆国での流人生活は、監視役の北条時政の庇護の下、殆ど自由で、三浦半島から房総半島までを行き来していました。
やがて、時政の娘・政子が頼朝と恋仲にあるのを知った時政は、一時は反対しますが、二人の婚姻を認め、その時から、頼朝を留罪人としてではなく、北条一族への天下取りへの手駒と考えて暗躍します。
治承4年(1180)、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が栄華を極める平氏の追討を命ずる令旨を、諸国に隠棲する源氏一族に発します。当然ながら、伊豆国に琉人となって成長した頼朝の元にも、叔父の源行家を通じて密かに届けられます。
それを知った時政は、「いまだ機至らず」と、逸る頼朝を諫めて挙兵を断念させます。
案の定、時政の見込み通り、以仁王は、決起した源頼政らと共に宇治で敗死します。
しかし、勝ち誇った平氏軍は、以仁王の令旨を受けた諸国の源氏一族の掃討を企て、伊豆の頼朝にも追討の気配を見せます。
それをいち早く知った時政は、頼朝の危機を救うと同時に自分の野望への好機とみて、平氏一族ながら身内を招集して、頼朝の挙兵に協力します。
挙兵を決めた頼朝も、直ちに縁故のある坂東の豪族に平家討伐の挙兵を呼びかけます。
挙兵して最初の戦いは、治承4年(1180)8月の伊豆国目代・山木兼隆の韮山屋敷襲撃です。
、この戦いは、北条時政率いる頼朝軍の完勝でした。
伊豆を制圧した頼朝軍300騎は、三浦義澄、和田義盛軍と合流すべく相模国土肥郷へ向かって進みます。
しかし、三浦・和田軍と合流する前に、待ち伏せした平氏方大庭景親、熊谷直実、伊東祐親軍ら三千余騎に襲撃され、多勢に無勢で敗北して、頼朝は僅かな家来と箱根山中に逃げ、箱根権現社に匿われ、数日後に真鶴岬から船で安房国へ脱出します。これが石橋山の戦いです。
北条時政父子も他の伊豆国武士らと共に闘いますが、時政の嫡男・宗時が伊東祐親の軍勢に囲まれて戦死、時政は、頼朝と別れて甲斐に逃げます。
安房国に脱出した頼朝は、房総の豪族・上総広常と千葉常胤に加勢を求め、その大軍を率いて再び挙兵します。
さらに、武蔵の豪族・葛西清重と足立遠元軍の参加を得た上に、かつては敵対していた畠山重忠や河越重頼らの寝返りもあって、軍勢は強大になります。
一方、甲斐に逃れた北条時政は、甲斐の豪族・武田信義らの支援を得て2万の軍勢を率いて、頼朝軍との合流に向けて出発します。
同年10月、平維盛率いる平氏側追討軍と、甲斐から馳せ参じた時政と武田信義軍と合流した頼朝軍が富士川を挟んで対峙します。
この時、水鳥の飛び立つ音に浮き足立った平家軍が潰走し、頼朝軍は闘わずして勝利を収めます。
再挙兵した頼朝軍が、平家との闘いに勝利したとの報は全国を駆け巡り、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏の殆どが挙兵して頼朝の旗の下に集まり、全国各地は平氏と源氏の衝突で動乱状態となったのです。
平氏も、福原に移した都を京都に都を戻して反撃に転じ、近江源氏や南都の寺社勢力を制圧して軍勢の強化を図ります。
しかし、平家打倒の声は高く、養和元年(1181)には肥後国の菊池隆直、尾張国の源行家、美濃の美濃源氏一党なども挙兵し、頼朝軍に加勢します。
その動乱のさ中に、平清盛が熱病で世を去ります。
その後、一進一退の膠着状態が続き、頼朝から後白河法皇に「朝廷に対する謀反の心はなく、平氏と和睦しても構いません」との和睦案を出すが、清盛の後継者である平宗盛はこれを拒絶します。
それは、清盛の遺言に「わが墓前に頼朝の首を供えよ」とあるからです。
中略
平家を倒した功労者は二人、源義仲と源義経ですが、その二人共頼朝に倒されます。
木曽の中原一族を率いて戦った義仲軍は連戦連勝でしたが、頼朝に追われていた叔父の源義広・行家を匿ったことで頼朝に睨まれ、義仲の嫡子・義高を頼朝の長女・大姫の婿として鎌倉に差し出すことで和議を成立させますが、結局は頼朝軍に討たれます。
一方の義経も、壇ノ浦の戦いなどで抜群の働きをしますが、結局、謀反の疑いありとして頼朝の追討軍に追い詰められて自殺します。
頼朝はさらに、過去に義経を匿った藤原泰衡を反逆の罪に問い、朝廷の勅許を得られないままに奥州征伐を成し遂げます。
建久3年(1192)3月に後白河法皇が崩御、同年7月に頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、名実ともに鎌倉幕府が認められます。

頼朝の鎌倉幕府開設の陰の立役者である義父の北条時政は多忙でした。
時政は、京の治安維持、平氏残党の捜索逮捕、義経問題の処理、朝廷との政治折衝、など頼朝の政治的行動の多くの部分を多岐に渡って引き受けていました。その施策は実直で誠実との評価で全体として好評でした。
時政は京都守護を4ケ月間だけ勤め、鎌倉に帰還してからは、表舞台から姿を消します。
しかし、時政は眠っていたわけではありません。
頼朝の死後は、時政は積極的に頼朝派を弾圧してゆきます。
頼朝の嫡子・頼家が跡を継ぎますが、頼朝在世中に抑えていた不満が噴出、それまで御家人統制を任されていた頼朝ご贔屓の侍所別当・梶原景時を弾劾して失脚させ、鎌倉から追放します。
この時、時政は弾劾の連判状に署名していませんが、景時が失脚して広大な支配地を得るのは時政だけに、誰もが時政が仕掛けた事件とみています。
建仁3年(1203)9月には、時政は、頼家と共に時政暗殺を企てたとされる比企能員を自邸に招いて謀殺し、頼家の将軍職を廃して伊豆国修善寺へ追放します。
時政は、頼家の弟の実朝(13歳)を3代将軍に擁立して、初代執権として幕府の実権を掌握します。
こうして、頼朝在世中には裏方に徹していた時政が表舞台に姿を現し、幼い実朝に替わって政務を行ったのです。
しかも、小豪族だった北条家は、どこの豪族にも対抗し得る強大な軍事力をも擁するようになっていたのです。
さらに時政は、牧の方と共謀して幼い将軍・実朝をも殺害しようと図るが、娘の政子や義時らに策を見破られ、結城朝光や三浦義村らを遣わして、時政邸にいた将軍・実朝を救出して義時邸に迎え入れます。
この事件で、今まで時政側についていた御家人達の大半が、義時に味方したことで時政の陰謀は完全に失敗し、時政は幕府内で完全に孤立して、その立場を失います。孤立した時政は出家しますが鎌倉から追放され、伊豆国の北条で隠居し、建保3年(1215)1月6日に、長年過ごした伊豆で死去します。享年78歳でした。
娘の政子可愛さと天下取りに加担して、自分が属する平家一門を壊滅させた罪を負って、源氏を滅ぼし平家の世を取り戻そうと図った北条時政は、まさしく平家一門の本筋である平清盛と同じ桓武天皇の流れで、武士道からは遠い存在えすが気になります。。
その時政の野望は政子に引き継がれ、時政の死後4年を経て、将軍・実朝が身内の公暁に殺されるに及んで達せられます。
完全に滅びたとされる平氏の天下が、そこから甦るのです。
北条時政の執念は、その名は晩節を汚したことで悪名だけが歴史に残ったとしても「凄い!」のです。
これは是非、アンチ「武士道」として書いておきたいと思ったのです。
私は、きっとどこかで時政の裏表がある生き様が好きなのかも知れません。


中原兼遠と木曽義仲にみる武士道

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中原兼遠と木曽義仲にみる武士道

花見 正樹

中原兼遠(なかはらのかねとお)は、平安時代末期の信濃の国の木曽地方に本拠をもつ皇別豪族です。
皇別とは皇室につながる家系ということで、中原家は第3代・安寧(あんねい)天皇につながる名家で、兼遠の父・兼経は正六位下・右馬少允に任じられて朝廷に仕えたが、左遷されて信濃国佐久郡の牧長となり、兼遠の代に木曽谷に移り住み平穏に過ごしていました。
その木曽谷の平和を脅かす事件が起こります。
ことの起こりは、久寿2年(1155)8月の大蔵合戦と呼ばれる、源氏一族が敵味方に分かれて闘う内輪揉めの騒乱にあります。
この時、源義朝の長男の悪源太義平が、義朝の弟・源義賢を養子に迎えていた河越重隆を義賢諸共攻め滅ぼします。
その、戦いの舞台になった川越重隆の屋敷が「大蔵の舘」だったことから、この事変を「大蔵合戦」ともいいます。
この「大蔵合戦」で甥の源義平に討たれた源義賢の遺児・駒王丸(2歳)を誅殺する役が斉藤実盛に命じられました。
実盛は、駒王丸を憐れみ殺すに忍びなく、親しい間柄の中原兼遠に駒王丸を託します。
「ぜひ、父を失ったこの子を一軍の將に!」
「必ず・・・」
斉藤実盛から駒王丸を託された中原兼遠は、力強く頷きます。
これだけで男同士の信義が結ばれ、駒王丸は木曽源氏の頭領になるべく育てられます。
兼遠の子供には、樋口兼光、今井兼平、巴御前、落合兼行などの歴史に残る勇士がいます。
駒王丸は兼遠一族の庇護のもとで兼遠の子供達と共に武芸や馬術、学問などを学んで成長し、木曾義仲と名乗る立派な武将に育ちます。
当時は、平家が全盛期を迎えていました。
清盛は、仁安2年(1167)に太政大臣にまで登りつめ、承安元年(1171)に娘の徳子を高倉天皇の妻に入内させた清盛は、知行国支配と日宋貿易を手にして財を築き、一族で公家10数名、殿上人30数名を占めて一大勢力を築いて、「平家にあらずんば人に非ず」とばかりに我が世の春を謳歌し、平家一族は栄華を極めていました。
これに不満を持つ者は多く、朝廷内部での反平家陰謀があり、治承元年(1177)には、藤原成親、平康頼、西光、俊寛らの多数の近臣が反逆を企てた罪で処罰され、後白河法皇も事件への関与を疑われています。
その翌年の治承2年(1178)11月、清盛の娘・中宮徳子が、高倉天皇の子・言仁(ときひと)親王を産みます。
清盛は、直ちに幼児の立太子を宣言し、当然ながら後白河法皇らの猛反発に遇います。
治承3年(1179)秋、近衛家問題にかこつけて清盛は兵を率いて京へ乱入、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、関白・基房を解任した上で配流し、さらに近臣40名近くを解官し、天下を乗っ取ります。
治承4年(1180)2月、高倉天皇が退位、清盛の娘・中宮徳子の産んだ言仁親王が3歳で即位し、第81代・安徳天皇になります。
それら一連の出来事が、隠忍していた源氏一族や反平家武士、反平家側公家の怒りを買っていました。
義仲27歳のこの治承4年の安徳天皇即位後、高倉天皇の兄宮・以仁王(もちひとおう)と源頼政が、平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏や豪族に蜂起を促す令旨を発します。義仲を頭領にして中原一族も挙兵を準備しますが、その前に、らの策謀が平氏側に洩れ、追討軍に攻められ、準備不足の以仁王と頼政軍は、宇治平等院の戦いに敗れ、二人は敗死し、反乱軍は早々と鎮圧されます。
しかし、これを契機に木曽軍をはじめ、諸国の反平氏勢力が一気に挙兵して、全国的な勢いで平家打倒の治承・寿永の乱が始まります。
治承4年9月、義仲は兵を率いて北信から上野へと転戦し、平家打倒に立ち上った源氏方武士の救援や助力で戦い、約2ケ月で木曽に戻ります。
木曽軍が本格的に挙兵するのは、治承5年(1181)6月です。
この年、息子、娘らの晴れ姿を見た中原兼遠は、病の身に笑みを浮かべ静かに息を引き取ります。
小県郡において、木曾、佐久、上州源氏など約3千騎を集めて挙兵した義仲軍は、越後から攻め込んできた平家側軍勢を横田河原の戦いで破ります。
木曽の源義仲は養父の期待に応えて、強く逞しい一軍の將に育っていたのです。
そのまま義仲軍は越後から北陸道へと進み、越中の倶利伽羅峠では、平維盛率いる約10万の平氏北陸追討軍を破ります。
続く篠原の戦いにも勝った義仲軍は、破竹の勢いで京都を目指して軍を進めます。
都では防御し難しとみた平氏一族は、幼い安徳天皇を擁して西へ逃げます。
だが、入京した木曽軍の評判は悪かった。数年続きの飢饉による飢餓と平氏の乱暴狼藉で荒廃した都の治安は回復するどころか、木曽軍の食料調達と宿舎の強奪で、治安はますます悪くなったのです。
ここから義仲の運命は下り坂に入り、留まることなく坂道を滑落して、巴ら中原一族と共に、身内のはずの頼朝軍に討たれます。
中原兼遠の子・樋口兼光、今井兼平、巴御前、落合兼行等は、義仲と運命を共にして勇猛果敢に戦って死んでゆきます。
義仲は死して歴史の表舞台からは外れますが、養父・中原兼遠共々、武士(もののふ)の道に恥じない人生でした。


孔子にみる武士道


孔子にみる武士道

                               花見 正樹

 新渡戸稲造の「武士道」を熟読すると、氏が孔子の教えに傾倒し過ぎるのに戸惑います。
なにしろ、武士道そのものが「孔子の教え」とも説いています。
「武士道の源泉は孔子の教えにあり」
これが、新渡戸稲造の「武士道」の骨子です。
ここまで断言されると、どうしても、孔子そのものと武士道を合せてみる必要に迫られます。
では、新渡戸稲造は、なぜ、そこまで孔子と武士道を結び付けたかを考えてみます。
神道や朝廷、主君や郷土に対しての愛国心や忠誠心、絶対的な服従の心は一体どこから出ているのか?
とくに、命をも惜しまない主君への忠誠心など、そこまで徹底するにはどのような教育がなされたのか?
それらを考えるカギが、新渡戸稲造説の通り、全て孔子にあるのかも知れません。
これらが、宗教の力ではないのは確かです。
なぜなら、日本古来の神道は、中世のキリスト教やアラーの神と違って、信仰上の何の約束事も規定しなかったからです。
武士道の源泉が神道にないとすると、一体どこから仁と義と忠に厚い武士道なるものが形作られたのか、気になります。
なぜ、道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となっている、と新渡戸稲造は断言できたのか?
新渡戸説を肯定した上で、孔子を見つめ直すと、確かにその骨格が見えてきます。
孔子はまず、五つの倫理的な関係を述べています。
すなわち、治める者と治められる者との上下差を君臣として孔子は区別し、礼を尽くすように孔子は説きます。
しかし、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係は、孔子以前から日本人として認知していますので、孔子の教えは確認にすぎません。
冷静沈着で才能豊かな孔子の政治向きで道徳的な格言の数々は、支配階級である武士にとって都合のいいものだった、とも言えます。
さらに、孔子の保守的な語調が、日本の武人統治者にとって、必要不可欠のものとしてピタリと適合したのです。
それだけではありません。孔子についで、弟子の孟子がさらに武士道に大きな権威を及ぼしています。
孟子のいう民衆にも主権を与えるかのような人道的な理論は、思いやりのある武人にはことのほか好まれます。
しかし、この理論は既存の秩序を乱す危険もありますので、為政者からは破壊的な考え方として疎んじられてきました。
しかし、心ある武士の心の中にしっかりと住み着いていたのです。
こうして、孔子と孟子の書物は人々に、議論の余地のある最高の教科書になってゆきました。
武士道に目覚めた人々は、この二人の儒学者の古典を読み解くことで、さらにその意を強くしたのです。

孔子は、紀元前552年9月、古代中国春秋時代の魯の国の昌平郷辺境の村(現在の山東省曲阜(きょくふ)市)の軍人の次男として生まれました。父は70歳を超えていて、母は16歳の身分の低い巫女でした。
その父は、孔子が3歳のときに逝き、若い母も病没、孔子は親類や村人に育てられて成長します。
孔子の履歴を大雑把に列記してみます。

孔子が3歳の時に父が逝き、母とともに曲阜(きょくふ)に移住したが、17歳の時に母も病没、苦学して礼学を修め、やがて礼学の大家となって弟子も増え、一時は弟子3千人とまでいわれています。
孔子の学問は、地方の郷党に学んでいて誰か特定の師について学んではいない。それでいてずば抜けて何でも知っていた。
紀元前534年、19歳のとき、孔子は宋の幵官(けんかん) 氏と結婚し、翌年、子の鯉(り) (字は伯魚)が生まれます。
紀元前525年、28歳のとき、孔子は魯に仕官して、倉庫を管理する委吏になり、次に牧場を管理する乗田という役につきます。
紀元前518年、35歳のとき、孔子がはじめて弟子をとった記録が残っています。この年、孔子は周の都の洛陽に遊学します。
紀元前517年、36歳のとき、身辺多忙で居住地を変えたりしたが魯に戻って弟子をとり教育することに励みます。
紀元前505年、48歳のとき、季桓子に仕えていた陽虎が反旗を翻して魯の実権を握り、孔子を招聘するが、実現しません。
紀元前502年、51歳のとき、陽虎は三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こすが、三桓氏連合軍に敗れて隣国の斉に追放されます。
紀元前501年、52歳のとき、宋・晋を転々とした後、孔子は晋の趙鞅に召抱えられ、定公に中都の宰に取り立てられます。
紀元前500年、53歳のとき、定公は斉の景公と和議の会見時に、斉の舞楽隊が武器を隠し持つのを見破ります。
この功績で孔子は最高裁判官である大司寇に就任、さらに外交官も兼ねることになります。
紀元前498年、55歳のとき、孔子を裏切って弟子を奪った弟子の少正卯を誅殺します。
孔子が提案した軍事作戦の城壁破壊作戦がほぼ成功、一部は失敗に終わります。
紀元前497年、56歳のとき、国政に失望して官を辞し、弟子とともに諸国遍歴の旅に出ます。
紀元前484年、69歳のとき、魯に帰国します。
紀元前483年、70歳のとき、孔子は斉の簡公を討伐するよう哀公に進軍を提言しますが実現しません。
紀元前481年、72歳のとき、斉の簡公が宰相の田恒に弑殺されたのを機に、再び斉への進軍を勧めますが哀公は聞き入れません。
紀元前479年、74歳、不遇の中で死去、曲阜(きょくふ)の城北の泗水(いすい)のほとりに葬られました。

前漢の史家・司馬遷(しばせん)は、その功績を讃え「王に匹敵する」と評しています。
孔子が世に出た頃は、各地の有力な諸侯や国が領域国家の形成へと向かってしのぎを削り、農民や兵の予備軍を含む人口の増加や領地の拡大にやっきとなって争い、実力主義が横行して、旧来の都市国家を形成する同系種族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつありました。そのなかにあって、孔子は、周の国本来の秩序ある国家への復古を理想として、身分制秩序の回復と再編を目指します。その先には義と仁による仁道政治があります。3千人におよぶ孔子の弟子たちは、孔子の教えを思想として教団を作り、それぞれが戦国時代に儒家として、諸子百家として自立して一家をなしました。
その中から選ばれた「孔子門下10哲」と師・孔子との語録をまとめたものが「論語」です。
身の丈2メートルを超え、文武両道に優れながらよき主に恵まれなかった孔子の一生は、不遇ではありましたが、歴史から顧みれば多くの学者を輩出した門下生から見ても、その統率のきいた指導力は、一国の宰相と同格かそれ以上とみられます。
ある人は孔子を「義の人」と言い、ある人は「仁の人」とみます。
その全てをみて新渡戸稲造は、孔子の教えこそ武士道である、と断じたものと思われます。


諏訪三郎盛高にみる武士道


諏訪三郎盛高にみる武士道

花見 正樹

私の若い頃に書いた「戦乱の谷間」にという短編小説は、鎌倉の北条幕府壊滅後の挿話です。
その中に登場する主要人物は3人、その内の一人が諏訪三郎盛高です。
古典文学集「太平記巻第十」に登場するのは2人、亀寿丸こと北条時行と、今回の主人公・諏訪三郎盛高です。
小説の中のもう一人の人物については、思い入れもあって、そのん人の居城だった長野県の池田町の山城跡まで登ったことがあります。
ここでは、木曽義仲四天王の一人・樋口次郎の末裔には触れませんが、今でもその人物は目に浮かびます。
さて、諏訪三郎盛高ですが、この人は、北条幕府執権北条高時の弟・北条四郎左近入道泰家に仕えた北条方屈指の武将です。
北条幕府の滅びるのは、足利尊氏が裏切って朝廷側につき、六波羅を滅ぼしたのが主因ですが、北条幕府の栄華と奢りは幕府内の腐敗を呼んでいましたから自業自得、いずれは滅びる命運だったのです。
鎌倉に攻め入った新田軍の猛攻に、郎党の殆どを失った諏訪三郎盛高は、泰家の最期のお伴にと泰家の屋敷に戻ります。
すると泰家が意外なことを言います。
「わが北条が亡ぶは、兄・相模入道(高時)殿の不徳ゆえ止むを得ぬが、それでも一門には善行を積む者もいて再興の機もあろう。お前に相模殿の次男・亀寿丸殿を任せる。時が来たら再興の志を果たせ」
「兄の万寿殿は?」
「相模入道殿が、五大院右衛門宗繁(むねしげ)に預けられたと聞いたから心配ない」
盛高は「死を定むるは易く、謀(はかりごと)は難し」と思ったが、主君の命には逆らえず涙を抑えて亀寿丸のいる葛西谷の隠れ家に馬を走らせます。
女房衆とそこにいた亀寿の母・二位殿の御局は盛高を見て安堵したように「これからは?」と嬉しげです。
ここで盛高は亀寿を「落ち延びさせる」と口から出かかるのを抑えます。敵にそれが伝わったら追っ手が迫ります。
そこで、亀寿も死んだことにすべく嘘をつきます。
「大殿(高時)が、亀寿殿もともに冥途へと言いますので、お迎えに参りました。万寿殿はすでに敵に殺されました」
すると御局や乳母、女房達が亀寿を囲んで放しません。
「そんな酷いことを! 敵の手で死ぬなら諦めますが、亀寿を連れて行くなら私どもを殺してからにしてください」
と涙ながらに訴えます。
盛高も涙ぐみますが気を取り直して、「武士の家に生まれた以上覚悟も必定、大殿がお待ちです。御免!」と、力づくで亀寿を奪って抱き抱えて外へ走り出て馬の鞍に乗せ、自分はその後ろに跨って馬を走らせます。背後から泣き声が追い、振り向くと亀寿の乳母がはだしで必死で追ってくる姿が見えます。乳母は、馬が見えなかなっても倒れては起き、懸命に追いますが、力尽きて倒れ、這うようにして近くの家の井戸に身を投げてその一生を終えます。
その後、三郎盛高は亀寿共々、下人姿に身をやつして信濃へ落ちてゆきます。
この時の亀寿の年齢は、太平記でも定かではなく、史書でも5~10歳とまちまちです。
私は、その2年後に鎌倉討伐軍を率いて戦う北条時行を考えて、鎌倉落ちを10歳としました。

私の小説「戦乱の谷間に」は、この逃避行時の険しい落ち武者狩りとの争いと、その2年後の鎌倉攻めに触れています。
三郎盛高は、一族の諏訪上社前大祝・諏訪頼重の協力を得て、亀寿丸を信州南部、八ヶ岳山麓に匿って北条再起を図ります。
諏訪三郎盛高、諏訪頼重に呼応して祢津・滋野氏ら諏訪一族や関東武士が揃って蜂起したのは、建武2年(1335)の6月、鎌倉を一気に奪い返したのが7月。これを「中先代の乱」といいます。
わずか20日間の天下で、強大な足利軍の対大軍に包み込まれて、殆どが戦死しますが再び天下を取り戻したのは間違いのない史実です。
この主君の命にしたがって、命を投げ出した諏訪神社の一族、諏訪三郎盛高の義に生きた姿に「武士道」を感じるのです。
さて、表題の「諏訪三郎盛高にみる武士道」は、ここまでです。

しばし、時間がある方は、オマケの下記雑文にも御目通しを・・・

では、この戦いを主導したのは?
歴史書が語る諏訪三郎盛高だったのか?
幼いながら亀寿丸こと北条時行だったのか?
私が「戦乱の谷間」を書き上げて数年後、親しい友人の小林永周講師(開運・心霊スポット担当)から意外なことを聞きました。
「北条時行の墓が東北にある」というのです。
そういえば、北条泰家の領地が奥州にあるのは聞いたことがあります。
そこで調べました。
なんと、この「中先代の乱」の首謀者は、諏訪三郎盛高の主人で執権・北条高時の弟・北条泰家、らしいのです。
私が不勉強で、これを見逃していたのです。したがって、私の短編小説「戦乱の谷間」は没、書き直しです。
では、南朝元弘3年(1333)の北条一族滅亡時に、菩提寺である東勝寺に集まって自刃した800人超とも言われる主従の焼死体の中には、執権代理まで務めた北条四郎左近入道泰家はその場にいなかった・・・厳しい敵の目を欺いてどうやって生き延びたのか?

亀寿丸を家来の諏訪三郎盛高に託した後、北条泰家は、戦い破れて血だらけで戻った腹心の部下二十余人を呼び寄せます。
「わしは奥州に落ちて、一度は天下を取り戻してから見事に死んで見せる。そこで、ここは奥州の出身の南部太郎と伊達六郎の二名を道案内に連れて行く。他の者は見事に自害して館に火をかけよ。わしが率先して自害したように誰かわしの甲冑を着せ」
部下二十余人は「御定に従います」と言い、主人の命に従います。
主人に選ばれた南部太郎と伊達六郎は、敵の死者から新田家の家紋である大中黒の笠符(かさじるし)をつけた甲冑や笠を奪い、新田方の雑兵に身をやつし、泰家本人は血の付いた衣類で身を包み重傷を装って、これも新田方の雑兵に化けた力持ちの中間に吊り輿を担がせ、手負いの新田側武士が郷里に急ぎ帰ると装って、堂々と敵陣の中を武蔵まで落ち伸び、そこからまた変装して奥州にと旅立ちます。
主人が去ってすぐ、残った二十余人の武士は、戦いの場に戻って触れ回ったのです。
「主君、左近入道様ははや御自害あそばされた。家来衆はみな御供申せ。早くせんと屋敷が燃え落ちるぞ」
かくして、館に火をかけ、次々に腹を切ったのは三百余人、みな炎に包まれて自害します。
腹の座った泰家は、領地の奥州糠部郡(岩手県北部?)で英気を養ったのち、別人に化けて京に上り、名を変えて西園寺家に仕え、鎌倉の新幕府打倒の人集めを始めます。そして、建武2年の6月に奥州、武蔵、信州に触れを回して謀反を起こし、自らが亀寿丸こと北条時行や部下の諏訪三郎盛高を補佐して、新田義貞が守る鎌倉に攻め入り、一気に天下を取り戻します。
その天下を覆すのは、足利尊氏率いる大軍で、激しい戦いは数日で終わり、北条泰家、三郎盛高は討ち死に、諏訪頼重は自刃、北条時行はいずこにか逃れた、とされます。なお、敗軍の将兵は、死していても顔の皮まで剥がされたとあり、戦いの結末はいつも残酷です。


安部貞任と源義家にみる武士道


安部貞任と源義家にみる武士道

花見 正樹

安倍貞任(あべ のさだとう)は、平安時代中期の奥州安倍一族の武将で、六尺をゆうに超す2メートル近い巨漢だったようです。
父の安倍頼時は、奥州六郡を支配する豪族の頭領で、貞任は、砦とも城ともいえる厨川柵(くりやがわのさく)の守護を任されています。
それゆえに、通称は安倍厨川次郎貞任と呼ばれていました。厨川柵は、岩手県盛岡市の西に位置し、栗谷川とも記されていて、10メートルを超す断崖絶壁の自然の要塞の地に砦が築かれ、見るからに難攻不落の構えを見せていたようです。
その支配範囲は広範囲で、現在の盛岡市天昌寺町付近を中心に南は紫波町方面までの距離で円を描くほど広かった様子です。
貞任の妹聟に、藤原経清がいて、その子・藤原清衡が、安倍家滅亡のあと、奥州藤原氏を名乗ることになります。
当時は、京都の朝廷から送り込まれた奥州討伐の藤原登任(なりとう)軍と小競り合いを長年にわたって戦い続け、ついに奥羽鎮圧軍が安倍軍に壊滅的な敗北を喫します。
この悲観的な状況に苛立った朝廷側が奥州討伐軍の後任に陸奥守として選んだのが源頼義です。
源頼義が、息子の八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人を引き連れて奥州の騒乱平定に、鎮守府将軍として奥州入りしたのは永承6年(1051年)のことでした。それまでの陸奥守であった藤原登任(のぶとう)が奥州六郡を支配する安倍一族と戦って敗れたための後任としての赴任でした。
頼義一行が陸奥守として陸奥の政庁・多賀城に着任すると、その無敵の武名のを恐れた安倍一族の首領の安倍頼時(頼良より改名)が、早くも恭順の意を示して降伏します。
しかも、その翌年には、後冷泉天皇の祖母・上東門院・藤原彰子の病気快癒祈願で大赦が行われ、安倍一族の朝廷への反逆罪も赦されます。
これで両軍とも完全に戦いを止め、奥州に平和な時代が戻りました。
こうして、頼義の陸奥守在任中は何事もなく過ぎ、任期満了の天喜4年(1056年)には、安倍頼時の主催で惜別の饗応も受け、一族揃って無事に帰路に着きます。
その帰路のことでした。
阿久利川河畔にて野営の陣を敷いての一夜、夜陰に乗じて小人数の暴徒が陣を襲って乱暴狼藉におよび重軽症者が出たのです。
この阿久利川事件を境に状況は一変します。
これに「犯人は頼時の嫡男・貞任」と讒言をしたのが安倍側と思われていた陸奥権守の藤原説貞(ときさだ)の子・藤原光貞でした。
この言葉を真に受けた源頼義は、頼時に貞任を引き渡すように求めます。頼時は当然「濡れ衣である」と断じて拒否した上に、いつでも戦えるように軍備を整え、頼義の軍と対峙します。
怒った頼義は軍勢を衣川の関へと進め、いよいよ戦いが始り一進一退の攻防が続きます。
やがて朝廷からも頼時追討の宣旨が下り、戦いは激しさを増します。
この間のあれこれは省略・・・
戦いのさ中、安倍頼時が戦死し、貞任が跡を継いで安倍一族の首領となり、ますます猛攻を仕掛けてきます。
そのうち頼家軍は、安倍軍に惨敗します。
冬が近づいた寒い季節、頼義は貞任討伐を焦って、将兵約2千で安倍軍の拠点とする河崎柵に攻め込みます。ところが、対する貞任軍は精兵4千人を隠していて、一気に迎え討ち包み込んで相手を殲滅する策に出ます。
この歴史に残る黄海(きのみ)の戦いで、安倍軍に散々に打ち破られ死者累々の大敗で、大将の頼義も危ういところでしたが、わが子・義家の活躍で九死に一生を得てほうほうの態で脱出します。
黄海の戦いで受けた損害は甚大であったが、数年の準備期間を経て軍備を整え、頼家は軍を七つに分け、敵から寝返った将兵も交えて総勢1万3千の大軍で、再び安倍軍討伐に向って総攻撃を開始した。
その後は、頼義軍が優位に戦って・・・いきなり衣川です。

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古今著聞集「衣のたて」原文より。

伊予守源頼義の朝臣、貞任・宗任らを攻むる間、陸奥に十二年の春秋を送りけり。鎮守府を発ちて、秋田の城に移りけるに、雪、はだれに降りて、 軍の男どもの鎧みな白妙になりにけり。 衣川の館、岸高く川ありければ、盾をいただきて甲に重ね、筏を組みて攻め戦ふに、貞任ら耐へずして、つひに城の後ろより逃れ落ちけるを、一男八幡太郎義家、衣川に追ひたて攻め伏せて、
きたなくも、後ろをば見するものかな。しばし引き返せ。もの言はむ。」
と言はれたりければ、貞任見返りたりけるに、
衣のたてはほころびにけり
と言へりけり。貞任くつばみをやすらへ、しころを振り向けて、
年を経し糸の乱れの苦しさに
と付けたりけり。そのとき義家、はげたる矢をさしはづして帰りにけり。さばかりの戦ひの中に、やさしかりけることかな。
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義家が衣川の館(たち)に、着衣の縦糸のほつれをかけて「衣のたちはほころびにけり」と詠んでいます。
それに対して貞任は、身内の裏切りを察して、「年を経し糸の乱れの苦しさに」と詠み返します。
これは、「何年も同じ衣を着ていると糸も弱るように、組織も統率が乱れる」とされます。

義家は、河内源氏出身で七歳で元服、若年時から武勇に秀でて強弓を引き、藤原道長の四天王となり、八幡太郎義家と呼ばれていました。
これは、元服したのが石清水八幡宮だったからという説もあります。
その後、貞任は敗死しますが、この時の連歌は、命がけの戦いでの中だけに凄い余裕です。
どちらも立派な武士(もののふ)として、これからも語り継がれることでしょう。


厩戸皇子(聖徳太子)にみる武士道


厩戸皇子(聖徳太子)にみる武士道

花見 正樹

武士(もののふ)という概念でいえば、王族・貴族の下で働く戦闘を業とする身分の低い家来を武士といいます。
その戦闘集団を律するのが武士道と考えれば、用明天皇の第二皇子である厩戸皇子(うまやどのみこ)を武士の座に加えるのはあまりにも失礼な気もします。
しかも、武士道を書いた新渡戸稲造先生が5千円札で、厩戸王(聖徳太子)は、昭和5年の超高額紙幣百円に登場して以来、千円、五千円、一万円紙幣と7度にわたって紙幣の肖像画になり、五百円の収入印紙にもなってお金の代名詞、格が違います。
なのに、武士道全集の第八巻に、物部守屋大連(ものべのもりやおおむらじ)との戦いに、蘇我馬子軍の武将として活躍したことが載っているのですから、皇族でありながら武士(もののふ)とみられても仕方ありません。この戦闘は、日本書紀の巻二十一にも載っています。
なにしろ厩戸皇子(聖徳太子)といえば、574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)に生まれ、622年4月8日(推古天皇30年2月22日)に逝去しますが、その業績は立派なもので、さまざまな偉業も成し遂げています。
ただし、この業績は厩戸皇子としてではなく、聖徳太子の実績です。

日本で初めての女帝・推古天皇(すいこてんのう)の摂政で天皇を補佐して国政を取り仕切った。
「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」をつくり、能力があれば身分に関係なく出世できる道を開いた。
日本で最初の成文法「十七条の憲法」を制定した。
日本の将来を考え、国威を示すために遣隋使(けんずいし)」を中国に派遣した。
世界最古の木造建築「法隆寺(ほうりゅうじ)」を建てます。
一度に10人の陳情を聞き分けて明確に解答した。
日本書紀では、聖徳太子に「兼知未然」、予知能力があったと記されている。
聖徳太子は京都千年の繫栄を予言、自分の死後二百年内に皇族がここに都を作ると述べた。
聖徳太子は、当時全盛の中国の煬帝に「日出ずる国の天子より、日没する国の天子に書を贈る」として激怒させた。

かくも突出した偉人・聖徳太子も現代の冷徹怜悧な歴史学者には敵いません。
「聖徳太子は存在しない」と、無情にも教科書からもその名が消えることになりました。
学説では、聖徳太子が実在した史料は皆無、「厩戸王の死後に創られた伝説」となったのです。
その主論は、
1、推古王朝は、摂政一人では何も出来ず、身内の蘇我一族の力を借りた共同体で運営とされていた。
2、冠位十二階制定は、多くの協力者の意見を取り入れた合作である。
3、憲法十七条は、厩戸王(聖徳太子)死後になって作成された。
4、遣隋使は、厩戸王(聖徳太子)が派遣した小野妹子ら以前から、派遣されていた。

それにしても変ですね。拾遺和歌集には聖徳太子作と称する次の歌が載っています、
「しなてるや 片岡山に飯に飢ゑて 臥せる旅人あはれ親なし」
人情味溢れる歌ですが、どなたかの偽作でしょうか?
厩戸皇子は、推古天皇のもとで叔父の蘇我馬子ら一族と協力して政治を行いつつ、国際的には遣隋使を派遣して中国の文化や制度を学び、冠位十二階や十七条憲法を定めて国政の安定を図り、天皇中心の中央集権国家体制を確立します。
その厩戸皇子が命がけで戦ったのは14歳の伸び盛りでした。
遣隋使や僧侶の持ち込んだ中国伝来の仏教を国政に取り入れて、神道とともに厚く信仰し興隆につとめようとした蘇我馬子と、それに反対して仏像を片っ端から破壊したのが強大な軍事力を抱える物部守屋大連だったから大変です。
大連(おおむらじ)とは、古墳時代からヤマト王朝の軍事担当役職で、軍を率いて外部の敵と戦うのが仕事ですから、いわば武士のはしりで、武士(もののふ)という呼称も、「物部の歩」からとったとする説もあるぐらい強大な力を誇っていて、戦いでは蘇我一族は勝ち目はなかったのです。
それが、仏教問題と皇位継承が絡んで激しく対立し、厩戸皇子などの活躍でついに守屋一族は攻め滅ぼされます。
用明天皇2年(586年)、前年に敏達天皇崩御に次ぎ、その父・橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこと)が用明天皇として即位していたが、突然死去、その後の皇位を巡って仏教崇仏派の蘇我馬子と仏教排除派の物部守屋が激しく対立します。
その皇位を巡る争いが戦いになると、すかさず蘇我馬子は、守屋が次期天皇に推す穴穂部皇子(あなほべのみこ)を殺し、諸豪族や諸皇子を集めて守屋討伐の戦いを挑みます。
14歳の厩戸皇子も自分の家来を率いてこの軍に加わります。
蘇我軍は、河内国渋川郡の守屋屋敷を攻めますが、さすがに軍事役が主業である物部一族の将兵は精強で手強く、いくら攻めても頑強に抵抗して蘇我軍を撃退します。
これを見た厩戸皇子が決戦を挑む決心をし、白膠(ぬるで)の木を切って小刀で仏像を彫り、勝利すれば各地に仏塔を建てて仏教を広めると誓い、軍を鼓舞して守部砦に攻め込みます。その勢いに圧されて守部軍は散りじりになって山に逃げます。
その隠れ場所を突き止めた厩戸皇子は、部下の迹見赤檮(とみのいちい)に祈りを籠めた矢を与えて、大木の茂みに隠れた守部を射るよう命じ、矢は見事に守部を射抜きます。こうして栄華を誇った守部一族は壊滅します。
その後、厩戸皇子は戦いに際して祈った誓願を守り、難波に四天王寺を建立しました。
蘇我一族が推した推古天皇の御世は36年の長きに渉り、厩戸皇子は推古30年に斑鳩(いかるが)の里で数奇な生涯を終えます。
行年49歳、その半生を政務を執り行う摂政として君臨した厩戸皇子は、聖徳太子の名を借りずとも強い信念を秘めて武士道を貫いた偉大な人物とみて、ここに取上げました。
(実は、私が大好きだったのにご縁が薄かった聖徳太子の肖像画入り紙幣を懐かしんでの個人的回想です)