楠木正成にみる武士道

楠木正成にみる武士道

花見 正樹

楠木正成(くすのきまさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武士です。
生誕は永仁2年(1294年)で死没は延元元年(建武3年)5月25日(1336年7月4日)が定説になっています。
幼名は多聞丸、長じて兵衛尉から正成となっています、
官位は、従五位上、検非違使、左衛門少尉、河内国・和泉国・摂津国の守護、贈正一位などです。
生涯を後醍醐天皇に仕え、兄弟子供ら楠木一族を上げて後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献します。
建武の新政では、足利尊氏らと共に後醍醐天皇を助けますが、尊氏が北朝を奉じて反抗した後は、新田義貞、北畠顕家と共に
南朝側の武将として後醍醐天皇軍の一翼を担いますが、湊川の戦いで尊氏の大軍に敗れて自害して果てます。
単純にいえば、以上の通りですが、悪党と呼ばれる河内の土豪(大阪府南河内郡千早赤阪村)の家に生まれて、歴史の表舞台に登場し、死後は「大楠公」とも称されて忠臣の鑑とされ、かつては教科書にも登場していました。
「太平記」によると、正成は河内金剛山の西にある、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとあります。
楠木正成の初戦は、元亨2年(1322年)、北条高時の命により、摂津国の要衝淀川河口に居する渡辺党との闘いで、渡辺党を壊滅し、次いで紀伊国安田庄司の湯浅氏を討ち、さらに南大和の越智氏をも撃滅して連戦連勝の戦功を挙げています。
湯浅氏とは領地問題、越智氏は六波羅役人殺害で幕府に所領没収で対立、北条高時は斎藤利行らを派遣しますが、毎回、越智氏らのゲリラ戦法に敗れていました。
そのため、六波羅は正成を起用し、正成は越智氏を討つことに成功します。
無名だった楠木正成が、幕府が手こずっていた渡辺党、湯浅氏、越智氏を討幕したことで幕府内、六波羅、世間の間に強烈な印象を持たれ一躍有名になります。
その後、正成は幕府被官でありながら後醍醐天皇の倒幕計画に加担することになります。
正成は河内に戻り、赤坂城(下赤坂城)で挙兵します。
倒幕に集まった有力武将は正成を除くと少数で、大軍を擁する幕府軍は一日で決着がつくと考え、直ちに攻撃を開始します。
笠置山に籠もった後醍醐天皇の本陣はたちまち陥落、後醍醐天皇らは捕えられますが、赤坂城に籠もった正成軍は幕府軍と戦って、少数で多勢の幕府軍を再三再四撃破します。敵が山頂に近ずけば弓矢や大石で応戦し、城壁に吊るした偽の塀を切って落とすなどで敵を退け、敵が楯を用意して攻めれば熱湯をかけて追い払うなど奇策を用いて幕府軍を翻弄します。
しかし、難攻不落と思われた赤坂城も急造の山城ですから、食料や水の備蓄にも限度があり、長期戦には適しません。そこで、正成は夜陰に紛れて敵兵の死体を集めさせ、大きな穴を掘って死体と薪を積み、城諸共火を放って裏山伝いに全員で逃げます。
赤坂城が炎に包まれたのは元弘元年(1331年)10月21日の夜です。
翌朝、幕府軍が山に登ると、焼け落ちた大穴に見分けのつかない焼死体が数十体、正成以下の楠木軍が「もはやこれまで」と一族全員で死を選んだ、とみて意気洋々撤退、同年の11月はに関東へ凱旋します。
赤坂城および正成の旧領は、正成と因縁深い湯浅宗藤が幕府によって派遣され、城を守ることになります。
元弘2年(正慶元年・1332年)4月3日、正成軍は湯浅宗藤軍の兵糧運搬集団(約500人)を襲って蹴散らし、食料を奪って隠し、その集団に化けて武器を食料に見せかけて隘路に入って蜂起、、城外の軍勢も同時に木戸を破って雪崩れ込み、湯浅軍は成すすべもなく降参、正成は戦うことなく赤坂城を奪還しました。
楠木軍は湯浅氏の軍勢も自軍に引き入れ、勢いづいて和泉・河内を制圧、5月には摂津の住吉・天王寺に進攻し、正成の奇略も生かして六波羅探題軍を打ち破ります。
その状況を知った北条高時は9月下旬、30万以上の幕府軍を派遣します。
これを知った正成は、赤坂城の背後に千早城を築き、さらに、金剛山一帯に点々と要塞を築きます。
元弘3年(1333年)2月以降、幕府軍と正成軍は激しい戦いを繰り広げている間に、後醍醐天皇が隠岐を脱出します。
後醍醐天皇の活躍と、後醍醐天皇の皇子・護良(もりなが)親王と組んだ正成らの活躍に各地に倒幕の機運が各地に広がり、赤松円心らに次い、で5月には足利高氏(のち尊氏)が後醍醐側に寝返って六波羅を攻め落とします。
さらに、幕府から多額の献金を求められた新田義貞の反逆で、ついに鎌倉幕府は壊滅、北条一族は舘に火を放って自刃します。
こうして醍醐天皇が京に凱旋、建武の新政が始まり、戦功第一の正成は、記録所寄人、雑訴決断所奉行人、検非違使、河内・和泉の守護、河内守(国司)と重要な職務を兼ねた上に、河内の他にも土佐安芸の荘、出羽、常陸など多くの所領を与えられます。
正成は、建武の新政までは後醍醐天皇の絶大な信任を受けていたのです。
その後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛されたのを機に、護良親王側近の正成は建武政権の役職を辞しています。
さらに、足利尊氏が、鎌倉で後醍醐新政に離反して反抗ののろしを上げま、それを追討すべく派遣された新田義貞が箱根・竹ノ下の戦いで敗れて京へと逃げ戻り、これを追う尊氏は京へと迫り、それを迎え討つ後醍醐軍に楠木正成は、北畠顕家や新田義貞軍と合流します。
この合戦で、尊氏に一度は京都を制圧しますが、義貞、顕家、名和長年、千種忠顕らの総攻撃に加えて、正成の策略と奇襲によるって尊氏軍の大軍を撃退し京都奪還に成功、その後の戦いで、尊氏の軍を九州へと駆逐します。
この合戦後、尊氏に好意をもつ正成は、後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言しますが、一笑に付されて拒絶されます。
この時、正成は、尊氏と義貞の私憤が争いの元とみて、義貞の首を以て尊氏と和睦との説を提言します。
後醍醐天皇側近の公家達の意見を重視する天皇は、反旗を翻した護良親王側近の正成の意見を重用しなくなっていたのです。 そして、正成に最期の時が迫ります。
足利尊氏が九州を出て各地の有力武将を集めて大軍で再び京に迫まります。
それを迎え討った義貞軍が、大軍に一蹴されて兵庫に退却したという早馬が届くと、後醍醐天皇は直ちに正成を呼び出して、一刻も早く義貞軍と合流して尊氏軍を迎え撃つように命じます。
正成は冷静に、勢いづいた尊氏の大軍に対して、新田と楠木両軍を合わせた小勢では確実に負け戦になる、新田軍を京に呼び戻して総力を結集して淀川口で迎え討てば勝機はある、と進言します。
この正成の必勝の策も後醍醐天皇には容れられず、「即刻兵庫に急ぎ義貞軍に合流せよ」との命が降りました。
これは、後醍醐天皇が側近の古参の公卿・坊門清忠の意見を尊重したからです。
この絶望的な状況下で死を覚悟した正成は、息子の正行に「今生にて汝の顔を見るのも今日限り」と、再起を図るように言い含めて桜井の宿から河内へと息子を帰します。
湊川の戦いでは、多勢に無勢で正成と義貞の軍はたちまち敵軍に包み込まれて引き離され、あったため、正成は弟の正季(まさすえ)に「もはやこれまで」と言い、菊水の旗を翻して700余騎の軍勢で、足利軍の主力・足利直義の大軍に突撃して奮戦し、足利方の大軍を蹴散らして退却させ、直義をも敗走させます。
それを見た尊氏は、新手な軍を投入、吉良、高、上杉、石堂軍の総勢6千余騎が湊川の東に駆けつけて、楠木軍と戦うことになります。その後も3刻(6時間)の合戦で楠木軍は100騎にも満たない少数に激減、しかも全員が満身創痍、これ以上は無理とみた政面の合図で、楠木軍は囲いを破って疾駆して戦場を離脱、一軒の農家を見つけ無人なのを確かめてて馬を捨てて香駆け込み、正成は鎧を脱ぎ捨て、同行70余の部下に正成が死出の挨拶、弟の正季が兄の気持を代弁し「7度生まれ変わって朝敵を滅ぼさん」と述べて家に火を点け、正成と刺し違えて自害して果てます。続いて橋本、宇佐美、神宮寺、和田ら一族郎党が差し違えて炎の中に倒れ込みます。
やがて南北朝の争いが、足利尊氏が率いた北朝側の勝利に終わると、南朝側武将の正成は朝敵とされます。
しkし、永禄2年(1559年)に正成の子孫・楠木正虎の赦免嘆願が認められ、正親町天皇の勅免が出て正成は朝敵ではなくなります。楠木正成はその生涯を後醍醐天皇のために「義」を貫きます。
これもまた武士道の鑑として讃えるべきと私も信じます。


柏木総蔵にみる武士道

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柏木総蔵(左)と江川太郎左衛門英龍(右)

柏木総蔵にみる武士道

花見 正樹

私の幕末史は、まず伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)から始まります。
この江川英龍抜きでは幕末内乱は語れないのです。
徳川家の民政を代行する代官として相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領を任され、最終的には約26万石にも及ぶ広大な地域を任されています。
江川家の歴史は古く、千年以上も遡るとその祖が清和天皇の皇孫で臣籍降下した源経基(みなもとのつねもと)で、そこから分家した大和源氏の祖とされる源頼親(みなもとのよりちか)が初代であることまで確かめることが出来、幕末に名を馳せた「世直し大明神こと江川太郎左衛門英龍は36世孫になります。
平安時代、江川家の祖先は大和国(奈良県)に一大勢力を築き、大和守(やまとのかみ)を名乗り、現在でも直系ご子孫は「大和将軍四十X世孫」という印を持っているそうです。
と同時に、太郎左衛門を世襲名としました。したがって、英龍の父は太郎左衛門英毅(ひでたけ)、英龍の子も太郎左衛門英敏、太郎左衛門英武となります。
その江川家の旧姓は宇野、平安時代に奈良から伊豆に移住した折に江川と改姓しています。
その後、源頼朝の伊豆旗揚げに参加し、鎌倉・室町幕府に仕えて、イ伊豆ヤマキの豪族として勢力を伸ばします。
16代江川英親(ひでちか)は、突如として世に現れた日蓮に帰依し、江川家は今日に至るまで日蓮宗の熱烈な支持者になっています。
室町幕府崩壊後の江川家は。北条早雲の伊豆入りに呼応して、23代英住(ひでずみ)が早雲の重臣となり、以後、後北条氏に仕えて韮山の地で代官を任されました。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原攻め際、北条方代官の江川家28代英長が徳川家康の軍門に下って従来通りに韮山での代官および領地を安堵されます。
それ以降の江川家は、享保8年からの35年間を除いて幕末までの間、徳川家を代行して相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領の代官として民政に当たることになります。
伊豆を拠点とした江川家は、酒造り、農地の改良、新たな作物の栽培、人材の発掘など天領の発展に尽くします。
とくに、36代江川英龍は、江戸3剣聖の一人、斎藤弥九郎と並ぶ神道無念流の達人の上に海外事情に詳しい文化人で、洋学の導入、民政・海防の整備に実績を残し、日本で最初にパンの製造に成功した人物としても知られています。
さらに、幕末期の江川家は、伊豆韮山の屋敷だけでなく、江戸屋敷も解放して「江川太郎左衛門鉄砲調練所」として諸藩の武士の軍事調練にあて、各藩から預かった弟子の総数は4千人を上回ったとする説もあります。
万延元年(1860)に咸臨丸(木村摂津守喜毅提督)で渡米した江川家手代、江川塾関係者は、中浜万次郎、小野友五郎、肥田浜五郎、松岡磐吉、吉岡勇平、根津欽次郎、福沢諭吉(桂家推薦・木村喜毅従者、江川家とも縁あり)、齋藤留蔵(鼓手・江川家が木村喜毅に従者に委託)などです。
なお、江川英龍が解放した韮山の軍事訓練所は、通称「韮山塾」として世に知られ、日本の近代に欠かせない多くの人材を輩出したのです。佐久間象山は英龍の弟子で、その門下生に吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎などがいます。
黒田清隆、大山巌、久坂玄瑞らも名を連ねています。
また、江川家の手代として剣友の斉藤弥九郎、アメリカ帰りのジョン万次郎などがいて、武術、砲学、語学などの学習に加えて、大砲(青銅製)や小銃製造なども本格的に学べるとあって東西各藩から選ばれた人材が集まって大変な賑わいでした。
その江川英龍を補佐して東翻西走、超多忙な陰の人物がいます。
それが、表題の柏木総蔵(忠俊・文政7年3月25日(1824年4月24日)~明治11年(1878年)11月29日)です。
柏木家は代々、江川太郎左衛門家の手代を務めてきた家柄です。
総蔵は父・柏木平太郎の三男として生まれ、14歳のときに江川英龍の中小姓兼書役見習となり、4年後の18歳で手代(公事方に進んで江戸詰となり、英龍の秘書的存在となって陰で活躍し、英龍に替わって諸方との折衝に当たったり、砲術・航海術・蒸気船製造、医学の習得までも目的とする長崎遊学をして、江川家のために働いています。当然ながら韮山反射炉や品川台場の築造に従事したり、江戸屋敷でパン製造を行ったり、と英龍の手足となって働き、その温厚で寡黙な人柄と並外れた実行力は、英龍の子等をも支えます。
代官・江川家に尽す柏木総蔵の隠れた名声はその人望と共に誰もが認めるところです。
その柏木総蔵が鳥羽伏見の戦いが勃発した直後、38代江川英武の出席も得て手代番頭を招集し緊急会議を開きます。
各藩を巻き込む内乱が勃発した今、江川家はどうすべきか議論は沸騰、手代の大半は幕閣に参加した先代英龍の義を守って幕府に殉ずるべきである、との説が過半数を占め、若い英武が亡き父の片腕でもある総蔵に決を仰ぎます。
それまで、瞑目して夫々の意見を聞いていた総蔵が決然として言い放ちます。
「江川家は新政府側に付く。徳川家に恩義はあれど、将軍が敗走して謹慎蟄居された今、幕府に利あらず」
総蔵は断腸の思いで江川家存続の道を選び、それに猛反発して激怒する齋藤新九郎らと決別を宣言します。
「江川家は戦いには出ぬ。双方に江川家に学んだ將がいての戦場に人は出さぬ」
その上で総蔵は、幕閣や各地各藩の資金力や士気、武器、意欲、信念、改革への意気込みなどを分析し、彼我の差から天朝を表面にして官軍を装う薩長連合に義はなけれど勝利への執念あり、準備整わず足並みの揃わぬ幕府軍に粘り抜く力なし、と分析し勝敗の行方を読み、江川家への義を守って主家の没落を防ぐ策を選んだのです。
その背信行為に対して、当然ながら手代、手付から怒りが爆発します。それを宥めたのが若い江川家当主・英武です。
「総蔵の言は、父の言葉と思え、これが父の遺言です。私は異論はありません」
江川家はいかなる逆境にも耐えて「生き残る」、これが文字にない家訓として伝わるからこそ千年の歴史があるのです。
これに反発して江川家を去って幕府軍に合流した手代もいますが、江川家の方針は総蔵の決断で決まりました。
坦庵の死後、江川英敏・江川英武を補佐し、維新時にはこうして素早く朝廷に帰属して江川家を守り、芝新銭座の大小砲習練場(江川塾)の土地は、幕府瓦解と共に、総蔵が長崎遊学時から親しくする福沢諭吉に払い下げて慶應義塾の教場に提供します。


その後も総蔵は江川家と地元のために尽し、足柄県設置後は参事から権令、県令へと進み、学制頒布に伴う教員養成のため講習所を設置、現在の静岡県立韮山高等学校の基礎を築きます。
総蔵は、旧門人の木戸孝允(桂小五郎)らの勧めを断って終生新政府に出仕することなく、福澤諭吉、木村喜毅ら旧幕臣との交遊を深め、主家の江川家を援けて伊豆の民業育成に尽くします。
柏木総蔵もまた神道無念流を学んだ武人として江川家への「義」に生きた傑物の一人です。


太田道灌にみる武士道ー2

 


太田道灌にみる武士道ー2
(義に生きた漢(おとこ)

花見 正樹

東京都荒川区のJR日暮里駅東口広場には、騎馬姿の堂々たる大田道灌の銅像があります。
銅像の名称は「回転一枝」で、製作は橋本活道氏、企画推進は文芸評論家の村田一夫氏(開運道顧問)です。
ここ日暮里地区には道灌山の地名や小学校名が存在し、太田道灌の勢力拡大の勢いを示しいます。さらに、さいたま市岩槻区にも太田という地名があり、岩槻市の芳林寺にも道灌の騎馬像が建立されています。
さらに、そこから東にある千葉県柏市には太田道灌の名を冠した小字(こあざ)の地名が9ケ所も実在していて、太田道灌が境根原合戦でここまで勢力を拡大していたことも、道灌が人々に好かれていたこともよく分かります。
江戸城を築いたほどの太田道灌ですから一国一城の城持ち大名かと思うとさにあらず、相模国守護大名・扇谷(おうぎやち)上杉定正の家宰(筆頭重臣)です。家臣でありながら主君以上の力量や人気があり、いつでも主家を乗っ取って併合することも可能でしたが、道灌はあくまでも筆頭重臣として主君を支えます。
扇谷上杉家を代表する存在の道灌は、鎌倉公方4代の足利持氏と本家筋の山内上杉家が対立して激しい戦い永享)の乱)でも真っ先に駆けつけて山内上杉家に味方して持氏を滅ぼしています。さらに、その後の享徳3年(1453年)以降は、持氏の遺児である古河公方・足利成氏との長期の戦い(享徳の乱)でも本家・山内上杉家のために一命を賭して戦っています。
その戦功もあって道灌の名声と勢力は、主君・扇谷上杉定正や本家・顕定を遙かに超えるようになっていきます。
その後も戦いは起こりますが、道灌の軍はよく主家の危機を援けて連戦連勝、ますます道灌の名声は大きくなるばかりです。
文明9年(1477年)には、前年に反乱を起こした山内上杉家の重臣・長尾景春が主家と扇谷家同盟軍が籠る五十子陣を急襲、
定正と顕定は完敗で命からがら上野国へ敗走、長尾軍の追撃で上杉同盟軍は最大の危機に陥ります。それを知った道灌は軍を率いて両軍主力と主君の救出に向かって長尾軍を撃破、立ち直った定正も転戦して勝利を収め扇谷家本拠の河越城を守ることが出来ました。
その後、主家の扇谷上杉定政が本家・上杉顕定とが、古河公方との和睦を巡って対立、道灌の仲介で和睦はなりますが、道灌の勢力が主家を遙かに凌いだことで周囲の妬み警戒から周囲の讒言(ざんげん)を買います。
扇谷定正は、本家の策謀に煽られて、山内上杉家重臣・長尾景春反逆の例から道灌の裏切りを恐れて道灌誅殺を決意します。
文明18年(1486年)7月26日、道灌は主君の扇谷定正から、「戦勝を祝う」と相模の糟屋館に招かれ、いて暗殺されます。
死に瀕した道灌が、主命により仕方なく道灌を刺した刺客が詠んだ上の句に、苦しい息の下から上の句に応え、さらに血を吐くように呻いた一言が遺されています。
「当方滅亡!」
命がけで主家の安寧のために戦い続けた道灌が、ついに主家の扇谷・上杉定正を見放した瞬間です。
そのまま道灌は息絶えます。
長期に渉っての冷遇に耐え忍びつつ「義」に生きた太田道灌・・・55歳の人生でした。


安倍晋三総理にみる武士道

安倍晋三総理にみる武士道

花見 正樹

上杉謙倍は武田信玄と14年間、お互いに好敵手として戦っていますが、 その信玄の死を知った謙信は「敵ながらもっとも優れた將だった」と人目も憚らず働巽したといいます。 その謙信と信玄は、お互いに通じ合うものを感じていたのは間違いなさそうです。
信玄の領地・甲斐の国は、海から遠く離れた山国で塩が取れず、それまでは東海の覇者・北条(氏康)氏から供給を受けていました。ところが、この頃は西の織田信長も勢力拡大を図っていて、北条も余力がありません。一説によると信玄の勢力を弱めたい、と願って塩の供給を拒絶したとも伝えられています。
それを知った越後の上杉謙信は、敵である信玄の窮状を間諜から聞き、自領で取れた多量の塩に書状を添えて送ります。
「我、公と争ふ所は弓箭にありて米塩にあらず。請、今より以往塩を我国に取られ候へ」
その後、越後の塩商人も決して暴利をむさぼることなく甲斐に塩を運んだそうです。
この例をとった新渡戸稲造は、ローマの將・カミラスの言葉を添えています。
「われらは金をもって戦わず。鉄をもって戦う」
ニーチェは「おのれの敵を誇れ。されば汝の敵の成功は汝自身の成功となる」
との言葉に重ねて新渡戸稲造は、武士の心情にも触れています。
この例からみて、「よき敵、よき友」と戦ってこそ勇気と名誉に価値があることに気づきます。
となれば、平時においても共に友人として価値ある人物のみを友としてこそ「仁」も「義」も知ることが出来るのです。
それに引き換え、一国の長である安倍晋三総理の人間関係の希薄さは哀れなほど惨めです。
森友学園の理事長で国粋主義仲間の籠池泰典氏などもその一例で、右翼仲間の旧友ながら今や友情の欠片も見えません。
これからも国会や検察を巻き込み、衆人監視の下で戦うのですが、これは聖戦など意義ある戦いではなく、限りなく醜い泥仕合です。
森友事件の闇は、これからが本番で、双方から汚い膿が流れ出します。
学園側からも財務省(総理側)からも死者はすでに2名づつ出ていますが、財務省の女性職員が一人自殺未遂ですから総理側がスキャンダルで一歩リードです。ただし、学園側の土砂搬入業者は殺されたのではないか? との疑いも出ています。
安倍総理が是非開校をと切望していた「瑞穂(みずほ)の国記念小学院(一部では安倍小学校と呼びます)」は、ついに籠池理事長が設置認可申請を取り下げた上で学園理事長も退任するそうです。
しかも、真相を語るどころか、メディアと右翼に対しては籠池氏の長男・佳茂氏が「全保守の皆さん、日本を愛する皆さん、安倍晋三総理以下、皆様方、森友学園の今後の行く末をどうぞよろしくお願いします」と頭を下げて幕引きを宣言して戦いを放棄しました。
これは、固唾を飲んで成り行きを見守っていた国民の期待は裏切りましたが、保身(命乞い)と考えると納得です。もはや経済的にも破たんしている籠池一家が生き伸びるには、この戦いから身を引く以外に道はありません。
したがって、この幕引き宣言は賢明だったとも言えます。
ただし、検察に武士の情けが通用するのか? これは疑問です。
さて、誰が見てもこの事件の本丸は安倍総理夫妻、それを疑う者など誰もいません。
怜悧で冷酷な安倍総理は、周囲の人間が総理を庇って自殺し始めたのにも動じず、盟友で親類の麻生財務相切りも厭いません。ここで、さらに自分の妻の証人喚問まで認めてまで保身を図ろうとするなら「武士道」の風上にも風下にも置けません。
国民にも国会議員にも「武士の情け」はあります。
安倍総理は、新渡戸稲造の「武士道」に学び、潔く真実を語って妻の分も謝罪して直ちに引退されることを勧めます。
それでもなお検察が追及するとは思えません。
安倍総理がなお私欲に拘って逃げ切りを図ると、やがて底なし沼に引きずり込まれて身動きがとれなくなります。
次の死者が出る前に真実を述べて引退を・・・です。


真に勇気ある者は死に際しても平静である。

真に勇気ある者は死に際しても平静である。

花見 正樹

勇気を精神面で表現すれば、冷静沈着さ、すなわち、いざという時の落ち着きです。
そのために日頃から心を鍛えるために禅の修行などで、緊急時でも平静さを保てるように努力します。
平静さとは、緊急時における勇気の証拠であり、勇敢な行為の表現でもあります。
勇気ある者は、常に落ち着いていて、いざという時にも冷静に最善の判断ができます。
勇気ある者は戦場の修羅場でも、最悪の状態で死に瀕した破滅的状況でも心の平静さを保っているのです。
新渡戸稲造の「武士道」にも載っている逸話があります。
初期の江戸城を築城した太田道濯は文武両道の達人でしたが、北条早雲の陰謀によって。風呂から出たところを刺客の曽我兵庫に襲われ槍で急所を刺されます。
道濯が歌の道において達人であることを知る刺客は、止めを刺す前に上の句を発します。
「かかる時こそ生命の惜しからめ」
道灌は致命傷にもひるまず息絶え絶えながら下の句を続けます。
「かねてなき身と思い知らずば」
これは「小田原北条記・巻一」に記述されている逸話で、それを新渡戸稲造は引用したのです。
そのやりとりの意味は、「このような時、どんなに命が惜しいだろう」「前もって元から存在しない自分と悟っていなかったならば」と伝えられています。
真に勇気ある者は、死に臨んでも「余裕がある」一例ですが、天災人災でいつ災難に襲われるか分からない私達も学ぶべき価値があるはずです。


「心身の鍛錬」も武士道の根源です。

「心身の鍛錬」も武士道の根源です。

花見 正樹

勇気だけで武士道を全うできると考えると、誤った義理のために命を落とす場合があり得ます。
義理は、しばしば偽善と知りながらも従来のしがらみから抜け出せずに、本意ではない行動をとらざるを得なくします。
「武士道」を正しく理解すれば、いざという時に鋭敏な感性が果敢な勇気を呼び覚まし、理性と忍耐力で窮地を脱して義理掛けによる犬死の愚を免れることも出来ます。
孔子の論語の中に、「義をみてせざるは勇なきなり」という一言があります。
勇気は、義によって発動される。これでなければ、武士道による徳行の価値はありません。
孔子は論語の中で、命題をあきらかにする方法で勇気の意義を示しています。
この格言を肯定的に受け止めると、「勇気とは正しいことをすることである」となり、正しくないことにまで命を投げ出すのは「勇気」の本意ではないことになるのです。
武士道では、「大義の勇」と「匹夫の勇」を区別しています。
勇猛果敢、忍耐強さ、豪胆などを含む「勇気」こそがいざという時に真の正義を守るものとなるのです。
武士道に関する武士の家庭教育は、母からも容易におしえられています。
幼な子が転んだり争いごとで怪我の痛さに耐えかねて泣いた時、母は「これくらいで泣くなんて何という臆病者ですか! 戦さ場で腕を切られたり、切腹を命じられたらどうするのです? いちいち泣くのですか?」と子を叱ります。
歌舞伎の[先代萩]の中で、まだいたいけな幼君・千松が、小鳥が餌を突くのを見てひもじさに「われも早う飯が食べたいわい」と口にすると、実母の政岡が我が子の餓えに悲しんで心の中では泣きながら強く叱る場面があります。
「小鳥を羨むなど何とはしたない。小さうても侍ぢや」
こうして、幼少期から忍耐の精神と勇敢さは教育されてゆきます。
時には、親の所業は残酷ともみえますが、このような苛烈な手段も子供達の胆力の錬磨には必要だったのです。
食物を与えられなかったり、朝食前に冬の寒い中を薄着に素足で寺小屋に通い、素読の稽古をしたり、しばしば、少人数で集まって、処刑場、墓場などをめぐることもありました。
さらに、斬首が公衆の前で行われる時は、幼い少年にもその光景を見せ、真夜中、そのさらし首に自分の印をつけた布を巻いて来るという度胸試しも行われています。
ともあれ「胆を練る」ことが武士には必要なことで、その反面、人に対する優しさも育てないと真の武士にはなれません。
これらは現代では無用なのでしょうか?
新渡戸稲造が触れていない現代でも、この胆力鍛錬は、いざという時に役立つのは間違いありません。
形は変わりますが、私は若い時から渓流釣りで夜中から山奥での独り歩きには慣れていて、物音に対する警戒心や恐怖心が他人とは少々違うような気もします。それがいいのか悪いのか、これから結論がでるような気がします。


「正義」こそ武士道の根源を為すものである。

「正義」こそ武士道の根源を為すものである。

花見 正樹

新渡戸稲造の武士道が世に出たのは幕末の戦乱が収まった明治33年(1900)のことです。
いくら維新とか美辞麗句で飾ろうとも、あの錦の御旗の偽造から始まる悪らつな陰謀が軍事的策略として罷り通る戦乱の中においては、「勝てば官軍」、これだけが唯一無二の真実であって、いくら敗軍の将が「義」を叫ぼうと負け犬の遠吠えなど、勝ち組からみれば痛くも痒くもなく、勝利の美酒からみれば負け犬の喚く「正義」などゴマメの歯ぎしり程度にしか感じないはずです。
戦争とは残酷なもので、いくら武士道の義を主張しようと、優れた武器と訓練された軍隊と勝つための策謀に長けた戦争指導者がいて、天の声というべき大義名分をでっち上げて官を標榜して表となして勝ち進み、正義を叫ぶ負け組を裏とし賊とし悪しき者として排斥すれば、必然的に勝ち組が「正義」を声高く誇ることになります。
しかし、歴史は時代と共に変遷し、その仮面を剥がされて醜い素顔を晒すこともあり、勝者といえども油断は出来ません。
新渡戸稲造は、世の中が「嘘と策謀」のまかり通る醜い時代だからこそ、素直で正直な男らしい徳行としての{正義」がもっとも光り輝く珠玉として人々の尊敬と羨望を得て絶大な賞賛を勝ち得る、と断言します。
正義は、勇敢というもう一つの徳行と並んで武士道の双璧にほかならず、この二つがあればこそ命を賭ける価値があるのです。
新渡戸稲造のいう「正義の道理」は、世論が期待する漠然とした義務感などではなく、もっと純粋かつ単純な自己への無条件の絶対命令であり、父母、家族、尊敬する目上の者、大きくは自己を含む社会全般に負う「義」に対して、自分自身が要求し、かつ命じている義務感そのものです。
私達は、この武士道における正義のためなら、いつの世でも命を投げ出すことを惜しまないのです。


「義」と「勇」は武士道の双璧である。

「義」と「勇」は武士道の双璧である。

花見 正樹

新渡戸稲造の武士道では、武士の規範の中でもっとも厳しい教えとして義の観念について触れています。
林子平の言葉を借りて、義を決断する力と定義して次のように述べている。
「勇は義の相手にて裁断の事也。死すべき場にて死し、討つべき場にて討つ事也」
さらに、真木和泉守の言葉を借りていう。
「士の重んずることは節義なり。節義はたとへてけはば人の体に骨ある如し。骨がなければ首も正しく上に在ることを得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。
節義あれば、武骨不調法にても武士たるだけのことには事かかぬなり」と。
孟子は「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」といった。
孟子によれば、義とは、人が失われた楽園を再び手中にするために必ず通過しなければならぬ、直なる、狭い道である。
封建制の末期、長く続いた泰平が武士階級の生活に余暇をもたらした。あらゆる種類の遊興や、上品な技芸のたしなみを生んだこの時代でさえ、義士というよび名は、学問や技芸の道をきわめたことを意味するいかなる名前よりもすぐれたものと考えられた。四十七人の忠臣は、私たちが受けた大衆教育では義のために死を恐れぬ四十七人の義士として知られている。
義を貫くには、義のために命を惜しまぬ覚悟があらねばならぬ。そのためにgは死を恐れぬ勇気もまた必要になる。これらがあってこその武士道なのだ。


武士道の源泉をさぐる

武士道の源泉をさぐる

花見 正樹

武士道には、仏教と神道の陰が大きく影響しています。
新渡戸稲造は、仏教が武士道に与えたもについて、次のように語っています。
仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、穏やかな服従、危険や災難に際しての禁欲的な平静心、生への侮蔑と死への親近感などを列挙します。
新渡戸稲造は、柳生宗矩が、弟子の一人に自分の技を全て教えたあと、こう伝えます。
「私の指南はこれまで。あとは禅の教えに譲らねばならぬ」
禅とは、沈思黙考によって言語表現を超えた思考領域で、禅を究めることは仏の道を探求することでもある。その方法は黙想にあり、のめざすところは世の中の全てに横たわっている原理で、これは絶対である」
その上で「絶対」と、自分自身を調和させることが出来れば、禅の教えるところは死生観を超えたものpになり、この「絶対」を認識した時点から世俗的な事柄から自己を脱落させ、いざという時の心構えができるもの、とします。
以上から、武士道に仏教が与え阿多ものは大きいのですが、仏教が武士道に与えられなかったものは、神道が十分に与えています。例えば、仏教では教え足りない主君に対する忠誠心や、父母への孝心、先祖への崇敬などは神道の教義によって教えらます。
以上から、武士道には仏教と神道の影響が大きく投影されているのは間違いありません。


義について考える   花見正樹

義について考える

花見 正樹

新渡戸稲造の著書「武士道の第三章において「義」についての著述があります。
そこには、「義」とは武士道の光り輝く最高の柱であり、「勇」と並ぶ武士道の双璧である、と書かれています。
確かに、義と勇は、武士として男として最も誇り高きものであるように感じます。
ここからは、新渡戸稲造の語りです。

私たちは、武士の規範の中で尤も厳しい教えを明らかにしなければならない。武士にとって不正な行いほど忌まわしいものはない。義に拘るのは狭きにすぎるかも知れない。
林子平は、次のように述べている。
「勇は義の相手にて裁断の事也。道理に任せて決定して猶予せざる心をいふ也。死すべき場にて死し、討つべき場にて討つ事也」
また真木和泉守は、こう言っている。
「武士の重んずることは節義なり。節義はたとへていけば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ることを得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」
孟子は言う。
「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」
さらに・・・
「その路をすてて由らず。哀しいかな。その心を放ちて求むるを知らず。哀しいかな。人鶏犬(けいけん)の放つことあれば、すなわちこれを求むるを知るも、心を放つことあるも求むるを知らず」と。
そして、孟子に遅れること三百年にしてイエス・キリストが現れて語る。
「義とはそれを見失いし者が見出すべき義の道そのものなり」と。
私たちはそれと同じく「鏡の中のごとくおぼろげ」ながら、その対象とすべきものをここに認めることができるではないか。
孟子によれば、義とは、人が失われた楽園を取り戻すために必ず通過しなければならぬ、直(すぐ)なる、狭い道である。
封建制が長く続いた泰平の世に、武士階級の余暇に、あらゆる娯楽や遊興や技芸のたしなみを生んだこの時代でさえ、義士という言葉の響きは、学問や技芸の道を究めた以上に、優れたものと考えられた。
四十七人の忠臣は、これぞ義士なり、として誰にでも知られている。

以上の新渡戸稲造の義に対する考え方から、武士道とは「命を賭して義を貫く」とも解釈できます。
この考え方は現代でも生きていて、私達はいざとなれば、義のために死ねるような気がします。
これは、私自身が要人警護専門の警備会社顧問として、ボデイガードの最前線を体験しているからかも知れません。