坂本龍馬にみる武士道-6

坂本龍馬にみる武士道-6

花見 正樹

龍馬は、蝦夷地開拓や竹島の占拠なども計画しますが、海援隊の経済状態は苦しかったようです。
イロハ丸事件で共闘して紀州藩に圧勝した龍馬と後藤象二郎は、藩の夕顔丸船内で航海中に次なる策を練ります。
京都で開かれる将軍・徳川慶喜、島津久光、伊達宗城、松平春獄、山内容堂による会議に呼ばれた後藤象二郎に、龍馬が智恵を授けたのです。これが世に名高い「船中八策」です。
1、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事
2、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事
3、有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備ヘ官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事
4、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事
5、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事
6、海軍宜く拡張すべき事
7、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事
8、金銀物貨宜しく外国と平均の方を設くべき事。
家に二主なきごとく、国に二帝あるべからず。政刑唯一君に帰すべし。

この八策は、龍馬が師の勝海舟の使いで熊本の横井小楠宅で聞いた国是7条を改訂したものです。
この国是7策は藩を1国としての規律でしたが、龍馬はそれを日本の国として広げています。
龍馬は国の将来のために、この八策を日頃から練りに練っていたと考えられます。
この龍馬の私心を捨てて国の未来を思う心こそ、武士道の鑑(かがみ)として讃えられるべきものです。


坂本龍馬にみる武士道-5

坂本龍馬にみる武士道-5

花見 正樹

龍馬は、親類の武市半平太を死に追いやった後藤象二郎と手を結ぶにあたって、亀山社中を「海援隊」との名称に変えて藩からの援助を約束させました。
これによって、総員50名からなる海援隊が、自主自立の方針から、運輸や海外交易、開拓事業から軍事に至るまでの全てが、土佐藩を助けることとなり、それによって隊員の給料が藩によって保障されることになります。
その海援隊が使う船は、大洲藩から1航海500両の契約で借りたイロハ丸という蒸気船です。
ところが、そのイロハ丸が瀬戸内海沖で紀州藩の大型帆船{明光丸」と衝突して沈没してしまったのです。
さあ大変です。
龍馬はあの手この手を使って、紀州藩側が悪いと厳しく追求し、船舶に積荷の銃火器類や金塊・陶器などを加えた8万4千両弱の賠償金を請求し、最終的に7万両を約束させます。
近年、その沈没船が引き上げられ、龍馬の主張した積荷は全く見当たりませんでした。
龍馬が主張した沈没船内の積み荷は、最初からなかったのか、後世の何者かが密かに引き上げたのか、二つに一つです。
もしも、龍馬の主張が嘘だったとしたら、龍馬にペテン師的要素があり、騙された紀州藩も迂闊(うかつ)だったのです。
私は時折、龍馬は元来が町人郷士の出、龍馬の生き方そのものが精いっぱいの武士道だった気もします。


坂本龍馬にみる武士道-4

坂本龍馬にみる武士道-4

花見 正樹

寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、その傷の治療を兼ねて鹿児島の温泉で療養することになります。
この旅がお龍との新婚旅行となります。
龍馬が鹿児島にいる間に、幕府は第二次長州征伐を開始しますが、龍馬らも軍艦ユニオン号で長州に味方して参戦します。
この闘いは、龍馬の仲介でグラバーから長州に渡った大量の新式銃が威力を発揮して、長州軍は連戦連勝で進撃します。
幕府軍は将軍・徳川家茂の死もあり撤兵した(小倉口では交戦が続き和議が成立して戦いは終わります。
将軍・家茂の死後、一橋慶喜が第15代将軍に就任しますが、すぐ大久保一翁から政権奉還論が出されています。
尊攘派を弾圧して一時は幕府寄りの姿勢を見せた土佐藩が、時勢の変化と共に軍備の強化を急ぎ、武器弾薬の購入や薩摩や長州との交渉を龍馬に委託します。
藩政を任された後藤象二郎は、自分が断罪した武市半平太の従兄弟で敵役の龍馬と和睦を謀ります。
その条件として、龍馬らの脱藩を赦し、亀山社中を土佐藩のお抱え団体とすることで経済的な安定を約束します。
こうして龍馬は、自分を慕って集まった多くの仲間の生活を守ったのです。
龍馬はつねに自分のことよし周囲のために働く・・・これが龍馬の武士道の柱かも知れません。


坂本龍馬にみる武士道-3

坂本龍馬にみる武士道-3

花見 正樹

29歳の龍馬は、下関戦争の結果や幕府の卑屈な態度に「日本を今一度洗濯いたしたく」と怒りを露わにしています。
その後一時期、薩摩と会津が手を組んで、長州の倒幕勢力を倒すという政変があり、京都は幕府側が支配しました。
土佐藩も政変があり、土佐勤皇党は弾圧され、武市半平太も切腹させられます。
龍馬は再度の脱藩と、海舟のお供で長崎出張に同行して難を逃れています。
龍馬は、薩摩藩の定宿である京都伏見の船宿・寺田屋の女将お登勢と親しい間柄でした。
ある日、楢崎龍という女を連れ込んで「ここで働かせてくれ」とお登勢に頼みこみます。
侠気のあるお登勢は、二つ返事でそれを引き受け、龍馬の新たな恋人・お龍は寺田屋の女中として働くことになります。

勝海舟が軍艦奉行に昇進、龍馬も神戸海軍操練所で助手として働きますが、京都では新選組が寺田屋にて、京都に火を放つ計画で集結した勤皇攘夷派の過激分子を襲撃して激しい斬り合いでせん滅、京都の情勢は大きく変っていました。
さらに、禁門の変で長州藩は破れ、責任者の三家老が切腹して幕府軍に降伏します。
この禁門の変に海舟の門下生が参加したことで幕閣の不興を買い、海舟は江戸召還および軍艦奉行を罷免されます。
これによって神戸海軍操練所も廃止となりました。
31歳の龍馬は、薩摩藩の出費で「亀山社中」という航海術を活かした商業活動的な組織をつくります。
と、同時に、水と油の如く相容れない仲だった薩摩と長州両藩の和解を進めて薩長同盟の成立に貢献します。
龍馬32歳の慶応2年1月8日、桂小五郎と西郷隆盛の薩長両雄の歴史的会談が開かれました。
話し合いは難航しますが、龍馬の努力で薩長両藩は薩長同盟と呼ばれる盟約を結び、龍馬が盟約履行の保証人になります。
盟約成立直後、龍馬は投宿していた伏見寺田屋で龍馬は護衛の長府藩士・三吉慎蔵と共に、伏見奉行所の取り手に襲われ、入浴していたお龍の機転に救われて応戦、ケガをしながらも脱出します。
ただ、ここで役人の取調べに応じず京都奉行所の捕吏二人を殺害した罪により指名手配を受る身となります。
歴史に「もしも」はありませんが、龍馬がこの寺田屋で逮捕されていたら、親分の勝麟太郎改め海舟もが体を張って龍馬に救いの手を差し伸べたかどうか?
龍馬を通して勝海舟の武士道精神が試された一幕でもありました。
ここでの龍馬は、好いた女に助けられたとはいえ立派に戦っています。
敵に背中を見せて逃げたのも多勢に無勢、犬死が武士道ではありません。
女好きの龍馬が女によって救われた・・・これは武士道からみてどうか?
これを責めるのは、モテない男の嫉妬心、ここは目をつぶってそ知らぬふり、これは武士道に叶っています。

 

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 坂本龍馬にみる武士道-2

坂本龍馬にみる武士道-2

江戸では武市半平太らと築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿、桶町千葉道場での剣術修行に入ります。
24歳で「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられますが免状は剣術ではなく、佐那の得意なナギナタです。
従兄弟の武市半平太が江戸で土佐勤皇党を結成、国元の龍馬もこれに参加、藩の政策を尊王攘夷に向けて暴走します。
しかし、参政吉田東洋の公武合体論が藩の主流であり、勤王党は藩内の支持を得られず、龍馬は脱藩します。
28歳の龍馬は長州下関から九州に向かい、各地の動向を探りつつ、また江戸に向かい、小千葉道場に寄宿します。
龍馬は請われて千葉佐那と婚約しますが、実行はしませんでした。
女性にモテると同時に、女性にだらしない龍馬の面目躍如たるエピソードです。
本気で龍馬と結婚する気の佐那は、これで他の人と婚姻することもなく龍馬に操を立て、終生独身で過ごします。

龍馬は江戸にいる間に、幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽、幕府軍艦奉行並・勝海舟に会っています。
龍馬は、開国論者の勝海舟に世界情勢と海軍の必要性を説かれた心服して攘夷論を捨て、海舟に弟子入りします。
ここで、良案に触れれば自説に固執しない龍馬の心の柔軟性が読みとれます。
海舟のとりなしで土佐藩主・山内容堂によって龍馬の脱藩罪は赦されます。
龍馬は海舟のに弟子入りして師のために奔走し、土佐藩出身の仲間を海舟の海軍操練所に集めます。
龍馬は土佐勤皇党で仲間だった平井収二郎の妹加尾と恋仲になり、姉の乙女にも手紙で加尾について触れています。
これでは、千葉佐那という婚約者?があまりにも哀れです。
まさか、龍馬は長刀免許欲しさに佐那に取り入っただけ・・・そんな卑怯な男とは思えません。
だとすると、龍馬はその時その時、本気で女性に惚れてしまうタイプだったのかも知れません。
所詮は町人郷士、男女関係についてはその程度の男だったのかも知れません。
これはもう、武士道以前のモラルの問題です。


坂本龍馬にみる武士道-1

坂本龍馬にみる武士道-1

花見 正樹

この同じ歴史の館で「坂本龍馬」コーナーを担当する友人の小美濃清明講師は間違いなく龍馬研究の第一人者です。
ここで私が坂本龍馬について書くのは少々気がひけますが、これも成り行き、遠慮しても仕方ありません。。
私も「小説・坂本龍馬異聞」を上梓しているのですから坂本龍馬に興味があるのは確かです。
私は若い頃、「龍馬とおりょう」という短編小説を雑誌に載せたことがあります。
後年、坂本龍馬本家のご子孫にお聞きした「お龍認めず」の私見には驚きました。
私の「坂本龍馬異聞」でも、お龍の末路は悲惨でただただ哀れですが、死してまだ評価されないのです。
ところで、私の龍馬評が他の人と違うのは、龍馬は幕府方にも好意的だった、からです。
龍馬は幕府は不要としましたが、あの時すでに幕閣内でも幕府を解体しての公武合体論が出ていました。
したがって、武力討幕をしなくても島津も毛利も鍋島も岩倉も参政できたのです。
ただ、その場合、大久保一蔵、西郷吉之助などの下士が参政できた保証は何もありません。
やはり、彼らにとっては武力クーデターが必要だった。
それには一番の障害が、公武合体政治の頭領に「徳川慶喜もあり」とした坂本龍馬だったのです。
したがって、坂本龍馬暗殺は、武力討幕側の邪魔者排除工作とみることも出来ます。
だとすると、龍馬が考えていた案は、日本の将来には役立っても、西郷、大久保の名コンビには嫌われたことになります。

龍馬は裕福な土佐藩郷士・坂本家の次男として生まれ、兄と3人の姉がいました。
幼少時は、軟弱、甘えっ子で塾もいじめられて退塾、姉の乙女に文武両道を仕込まれます。
12歳で母が死去、父の後妻に養育されます。
13歳の頃、後妻の前夫の実家に出入して外国の品や知識に触れ海外雄飛の夢を持ちます。
14歳で日根野道場に入門して剣術を熱心に稽古して学び、19歳で小栗流和兵法事目録を得ます。
この頃の龍馬は、前向きで積極的な性格に変っています。
19歳の龍馬は剣術修行のため江戸に自費遊学を許され、北辰一刀流千葉道場、千葉定吉に入門します。
ここで、貞吉の娘・千葉佐那と知り合い恋に落ちます。
姉の乙女にべったりだった龍馬は女性との接触に慣れていて、佐那とはすぐ馴染んだものと推測できます。龍馬の江戸修行中にアメリカのペリー率いる黒船艦隊が浦賀沖に来航、龍馬も品川の土佐藩下屋敷警備を命じられます。
20歳の龍馬は「異国人の首を打ち取る」との手紙を乙女姉に書き送っています。
龍馬は剣術修行と併せて佐久間象山塾に入学して、砲術、漢学、蘭学も学びます。
土佐に帰国した龍馬は日根野道場の師範代を務め、国際情勢や海運、オランダ語も学びます。
子供の頃は泣き虫だった龍馬も徐々に逞しくなり、男らしく武士らしくなりつつありました。
21歳の時に父が他界、兄が家督を継いだのを機に、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して許されます。
いよいよ独り立ちしての武者修行の旅が始ります。

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織田信長にみる武士道-5


織田信長にみる武士道-5

花見 正樹

天正3年(1575)4月、武田勝頼は2万の軍勢で徳川に寝返った奥平貞昌の長篠城を攻めます。
しかし、武田軍が長篠城を攻略出来ずにいる間に信長が3万、徳川軍が8千の兵で合流し、反撃します。
5月21日、設楽原(しだらがはら)に防御柵を巡らせた3万8千の織田・徳川連合軍と、2万の武田騎馬軍団の戦いが始まります。これが世にいう長篠の戦いで、1千丁以上の火縄銃での織田・徳川連合軍の圧勝でした。
これを機に甲斐の武田家は滅亡に向かいます。
7月、正親町天皇から信長に官位が与えられますが信長がこれを固辞し、家臣への授与を願い出ます。
天皇が信長の申し出を認め、明智光秀、丹羽長秀ら10人ほどに官位と高位の姓が与えられました。

8月、長篠の戦いに勝った勢いで信長軍は越前に侵入し、内部分裂していた越後の国の大名や一揆衆を掃討します。
越前国を一度は織田領とした上で、越前八郡の全てを重臣の柴田勝家に与えました。
天正3年(1575)秋、信長は権大納言、さらに、右近衛大将という征夷大将軍に匹敵する官職に叙任します。
信長はこの就任にあたって公卿を動員し、御所内にて将軍就任式の儀礼を執り行います。
これ以後、信長は人々から「上様」と呼ばれることになります。
当時、将軍・足利義昭が未だに近衛中将でいたから、近衛大将の信長は、将軍より上位ということになります。
これを機に信長は、嫡男の信忠に織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国を譲ります。
ただし、織田政権の政治・全軍を総括する立場にあるのは、あくまでも信長です。

天正4年(1576)1月、琵琶湖湖岸(現在の滋賀県近江八幡市安土町)に安土城の築城を開始します。
安土城は天正7年(1579)に完成しますが、その姿は五層七重の豪華な城でした。
信長は安土城に移り住み、ここを拠点にして天下統一を目ざします。
4月、本願寺の反乱があり明智光秀を大将とした3万の大軍が出動、数か所に分散して敵に備え砦を築きます。
ところが伏兵の襲撃で織田軍は千人以上の戦死者を出す大敗を喫し、7千人が天王寺砦に立て籠もります。
本願寺軍は1万5千の兵でこれを包囲して攻勢を強め、織田軍は窮地に陥ります。
これを知った信長は、自らが3千の兵を率いて、天王寺砦を包囲する敵の大軍に襲いかかります。
白刃を振るう信長自身も負傷するという激しい戦闘になりますが、織田軍は信長の出陣で士気が高まり圧勝します。
信長は、戦いの最前線に立って雑兵とも斬り合いました。その姿は、まさに鬼神と人は言います。

天正6年(1578)4月、信長は突然、右大臣・右近衛大将の官職を辞します。
7月、毛利軍が上月城を攻略します。
11月、信長は、水軍の将・九鬼嘉隆の推奨する鉄甲船を採用し、これで毛利水軍を撃破し完勝します。
天正7年(1579)5月15日、信長は明智光秀に3日間、安土城を訪れた徳川家康の接待役を命じます。
その最中に、備中高松城攻めの羽柴秀吉より援軍の依頼があり、信長は直ちに光秀に援軍を命じます。
光秀の接待に不満をもった信長が、光秀の役を解いたのか、秀吉の危機を救いたかったのか真相は分かりません。

5月29日、信長も中国遠征の準備のためもあって上洛して本能寺に逗留します。
6月2日、本能寺の信長を、秀吉への援軍に行くはずの明智光秀の大軍が襲撃、信長は戦った末に自刃します。
火を放たれた本能寺は織田軍の武器弾薬庫でもあったことから信長の死体は爆砕されて消失しました。
享年満48歳、人生50年と謡い天下統一を目前にしての無念な死であったことと思われます。
信長は、將としては天下統一を目指し、一人の武士としても自分の信念を貫き通しました。


織田信長にみる武士道-4

織田信長にみる武士道-4

花見 正樹

元亀3年(1572)10月、信長が足利義昭に送った17条の詰問文により、二人の関係の悪化は決定的になります。
武田軍が徳川領に侵入、信長も3千の援軍を送るが、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗します。
三河攻めの武田信玄が4月12日に病死、武田軍は甲斐に戻りますが、信玄の死は暫く伏せられていました。
信玄の死を知った信長は、再び二条御所に立て籠もって抵抗する足利義昭を破って追放、これで室町幕府は消滅します。
天正元年(1573)、三好三人衆の残党後、3万人の軍勢で越前に侵攻し朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃します。
信長は小谷城を攻略、浅井久政・長政父子を自害に追い込み、長政に嫁いでいた妹・お市とその娘らを引き取ります。
天正2年(1574)3月、信長は従三位参議に叙任されるために上洛します。
このとき信長は、正親町天皇に対して「香木の切り取り」を要請、天皇に勅命を出させれ了承させています。
天正3年(1575)3月、信長は石山本願寺に10万の大軍で押し寄せ、その周辺を焼き討ちにし皆殺しを図ります。
「なかぬなら 殺してしまへ ホトトギス」という歌は、詠み人知らずですが信長の性格をよく表しています。
こんな話もあります。美濃の山中に足の悪い男が街道沿いで物乞いをしているのを何度か目にした信長は、これを憐れみ、上洛の途上に近隣の村人を集め「この者に小屋を与え、飢えないようにせよ」と応分の金品を与えて要請したので、人々はみな感涙したといいます。

ポルトガルの宣教師フロイスは、信長の人となりをよく観察しています。
「信長は名誉心に富み、正義感が強く厳格であったが人情味と慈愛を示すこともあった。何事に貪欲でなく決断力に富み、老練でせっかち、激昂はするが、平素は温厚だった。酒を飲まず食を節し、きわめて率直で尊大であった。
彼は忍耐強く理性と明晰な判断力を有し、神仏や迷信的慣習を嫌った。
霊魂、来世などはないとした。彼はきわめて清潔で丹念で、対談でも遷延や長い前置きを嫌い、身分の卑賎な家来とも親しく話した。彼が格別愛好したのは茶の湯の器、囲碁、良馬、刀剣、鷹狩り、相撲だった。とくに相撲が好きで、身分の上下なく褌一つの裸体での相撲で、百姓でも強い者は家来に取り立てることもあった。彼がきわめて優秀な人物であり、非凡で賢明な統治者であったのは間違いない」
このように述べていますので、これだと、礼節を守り武技を磨く「武士道」の範疇(はんちゅう)から外れていません。
信長は、竹を割ったようなすっきりした面と、執念深く陰湿な性格と二面性があったような気がします。


織田信長にみる武士道-3

織田信長にみる武士道-3

花見 正樹

この戦いの後、今川を離れた三河の松平元康は名も徳川家康と変えて独立します。
これからの信長は、家康と手を結んで「清州同盟」とし、今川に敵対します。
この軍事同盟によって、信長は美濃国攻略に専念し、家康も駿河の今川家に抵抗氏真らに対抗することが出来ました。
永禄4年(1561、信長は美濃を攻めて大勝利します。
永禄7年(1564)には、北近江の浅井長政と同盟を結び、信長は妹のお市を浅井長政に嫁がせています。
永禄8年(1565)、三好一族と松永久秀が将軍・足利義輝を暗殺、第14代将軍に輝の従弟の足利義栄を擁立します。
永禄11年(1568)秋、信長は大義名分として将軍家に足利義昭を奉って、強大な武力を背景に上洛を開始します。
信長は、足利義昭を第15代将軍に擁立、義昭から勧められた副将軍も断り、恩賞も望まずに尾張へ戻ります。
永禄12年(1569)1月、信長が尾張に戻った隙を狙った三好軍や美濃の斎藤軍が共謀して足利義昭の御所を襲います。
それを待っていたかのように信長は動き、明智光秀軍を義昭の御所に出向させて反乱軍を一掃します。
元亀元年(1570)、信長の上洛命令を無視した朝倉義景を攻め、徳川家康も浅井・朝倉連合軍を撃破します。
信長は、浅井父子と朝倉義景の3人の頭蓋骨を漆でかためて金箔を張った薄濃(はくだみ)にして酒宴に披露しています。
これは、戦った敵の勇気や覇気に敬意を表し酒に溶かして飲み込む、という中国の故事に倣ったものと言われます。
幕末においても薩摩藩などにおいては、討ち取った敵方の勇者豪傑の生肝を食する風習が残っていますが、これも同様の意味です。
元亀2年(1571)、信長は朝倉・浅井に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにして僧兵、浪人らの皆殺しを謀ります。
これを「禍根を後に遺さず」と勝利への正道とみるか、残虐非道の鬼畜の行状とみるかは、説の別れるところです。
この件に限らず、諸將が生き残りを賭けた殺し合いに明け暮れた戦国時代の武士道は、勝利への執念に満ち満ちて、勝ち抜き抜くことが武将の一義であって、江戸徳川幕府時代にみる太平の世の礼節を尊んだ武士道とは全く異なっていたのも止むを得ないことです。


織田信長にみる武士道-2

織田信長にみる武士道-2

花見 正樹

天文20年(1551)、信長の父・信秀が42歳で病死します。
信長が父の葬儀で焼香に立ち会ったときの服装と態度が記録に残っています。
髪を束ねただけのちゃせん髷で、袴なしの着流しに長柄の太刀と脇差を藁縄で腰にくくりつけた姿で信長は現われます。
香をわしづかみにして仏前に投げつけ、一瞥してその場を去ったとあり、誰もが眉をひそめたとあります。
この「大うつけ」ぶりで信長は周囲の敵を欺き続けて力をつけ、徐々に本当の姿を表してゆきます。
ただし、このだらしのない無秩序な性格もまた、信長の本当の姿であるのは間違いありません。
信長が家督を継ぐと、戦う集団として家臣の結束が固くなり、次々に周辺を従属させていきます。
それまでの尾張は織田一族が枝分かれしていましたが、信長が智勇と武力でたちまち統一して国主となります。

永禄3年(1560)5月、駿河の大名・今川義元が4万を超える大軍で上洛の途中、尾張を通ります。
それに抵抗する織田軍の総兵力は5千弱、とても今川軍を阻止できません。
当時人質だった三河国の松平元康(後の徳川家康)軍が先鋒となり、織田軍の城や砦を次々に殲滅させます。
しかし、信長は臆することなく今川の大軍に立ち向かいます。
敵の油断を突いて桶狭間において今川義元を襲い、白兵戦の末にこの強敵を倒しました。
記録では5月19日の正午過ぎ、家来の前で敦盛を舞った信長は、立ったまま湯漬けをかけて食べて出陣します。
熱田神宮に昆布と勝ち栗を備えて参拝した後、2千人の軍勢で、休憩中の今川陣中に強襲をかけます。
この桶狭間の戦いを、世間では奇跡の勝利といいますが、兵力ではるかに劣る織田軍であっても、総大将の信長が先陣を切って敵陣に飛び込み、刀を振るって今川の兵を斬りまくった鬼神のごとき働きが少数の部下を鼓舞して勝利に結びついたのです。
日頃から尾張の内戦で戦いに明け暮れた戦闘集団を率いる信長と、大軍に守られて貴族風に奢った今川義元の差が、明暗を分けたのも自然の理です。
この桶狭間の戦いで前の国主・今川義元を失った今川氏真は、全軍に銘じて本国の駿河に退却して戦いは終わります。
織田信長は、全軍に命じて、戦い破れて帰国の途につく今川軍の追討を止めさせて、静かに見守ります。
冷酷非道に見える信長にも、武士の情けはあったのです。