足利尊氏にみる武士道

足利尊氏にみる武士道

花見 正樹

つい最近の歴史番組で、歴史作家の方が足利尊氏に触れて「地元の足利市の人は、逆賊と言われた尊氏の不人気に肩身が狭い思いをしていた」と発言されていました。
確かに、後醍醐天皇を裏切った足利尊氏の悪名は、南朝に殉じて尊氏に敗れて自刃した楠木正成の潔い生き方と比べると仕方ありません。
しかも、勝てば官軍の倣いからみれば、北条一族に替わって朝廷政治に傾いた後醍醐天皇を追放して武家社会復活の室町幕府を築いたのは悪業とみるよりは功績とすべきとの考えもあって然るべきです。
それと、足利尊氏の生まれ故郷は足利ではなく、今の京都府綾部市で、私は尊氏が産湯を使った井戸の底も覗いていますしその井戸の水と同じ伏流水を使った地元酒造会社製造の大吟醸も頂いております。以上のごとく尊氏は京都府生まれ、足利市民が肩身を狭くする理由などどこにもありません。
では、綾部市民は肩身が狭いかというと、足利尊氏を生んだ土地として山﨑善也市長以下「綾部に尊氏あり」と、意気軒昂なのです。
足利尊氏は鎌倉時代末期から室町時代初期まで活躍した武人で、嘉元3年(1305)7月27日(88月18日)に丹波で生まれました。
幼名は又太郎、長じて高氏と名乗り、後醍醐天皇から名を授かれて尊氏となり、室町幕府初代征夷大将軍として在位20年に及びます。
父は足利貞氏、母は上杉清子、兄は高義、弟は直義と源淋(田摩御坊)です。
なお、足利高氏の高は、主家の北条高時の諱(いみな)の高を授けられたものです。
高時は、元弘3年(1333)に後醍醐天皇が伯耆の船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛して楠木正成と対峙したこともありますが、丹波国の篠村八幡宮(現京都府亀岡市)で倒幕を宣言して兵を集め、幕府に反旗を翻して六波羅探題を攻め滅ぼします。それに呼応した関東武士の新田義貞が鎌倉を攻めて北条幕府を壊滅します。
その北条滅亡の勲功第一とされた足利高氏は、後醍醐天皇の諱の尊治(たかはる)の一字を授かり、尊氏に改めますが、奇しくも尊氏は名付け親の二人、北条高時と後醍醐天皇を裏切ることになるのです。
足利尊氏、新田義貞、楠木正成などの活躍で王政復古を成し得た後醍醐天皇は、武士の台頭を防ぐために公家に厚く武家に薄い政治を行おうと建武の新政で独裁政治を敷きます。
しかし、これによって急速に人心を失った後醍醐天皇は、執権・北条高時の遺児・北条時行を奉じて蜂起した諏訪三郎等が鎌倉を落とした「中先代の乱」によって窮地に陥ったが、足利尊氏らの働きで20日天下の北条軍を撃破し乱を鎮圧します。
ところが、この乱を制圧した足利尊氏が、後醍醐天皇の武家に対する冷たい処置に反発していた尊氏は、鎌倉に留まって独自の武家政権の復活を図ります。
それに怒った後醍醐天皇は、尊氏討伐の軍を集めます。
その後醍醐天皇の動きを知った尊氏は、先手を打って少数の将兵を率いて上洛し、後醍醐天皇を比叡山へ追いやりますが、新田義貞や楠木正成らの後醍醐天皇側の軍に敗れ、一時は九州に逃げ落ちます。
しかし、後醍醐天皇から離れた多くの武士は尊氏の側に集りましたので、太宰府天満宮を拠点として軍団の建て直しを図った尊氏の元には次々と名だたる武将が集まり、たちまち大軍となりました。
尊氏率いる大軍は、湊川の戦いで新田義貞、楠木正成らを撃破して京都を制圧、後醍醐天皇は捕われの身になりました。
それでも後醍醐天皇は、手引きする者のおかげで無事に脱出し、吉野に籠もって南朝の創始を宣言します。
ここから南北朝の混迷時代が続きます。
一方、後醍醐天皇に反逆した足利尊氏は、新たに光明天皇を擁立して自らは征夷大将軍に任じて武家政権を開きます。
これが、15代のうち幕府所在地の京都を追われたのが7人、暗殺されたのが2人もいる戦国時代を生き抜いた波乱含みの室町幕府です。
さて、その後のことは省略で結論を急げば、主君・北条高時に牙を剝き、後醍醐天皇にも逆らった大逆罪の尊氏に「何の武士道ぞ!」という思いはあれど、腐敗した北条幕府を倒し、武士を弾圧して朝廷政治を推進した独裁者・後醍醐天皇を排除したのですから、武士からみれば足利尊氏こそ武士の中の武士、これが尊氏の行為を武士の鑑(かがみ)として尊氏の武士道を正当化する由縁です。


楠木正成の武士道


楠木正成(まさしげ)の武士道

花見 正樹

私は若い頃、南北朝に興味を持ち、北条幕府滅亡後に20日だけの鎌倉奪還を成し遂げて壊滅した亀壽丸(北条時行)の乱を短編小説「戦乱の谷間に」に書きましたが、この時代、これと絡んで楠木正成も歴史の舞台で活躍していたのです。
楠木正成は、大坂に近い千早赤阪村の山里に生まれ、幼名は多聞丸、金剛山一帯を本拠地として土豪として育ちます。
当時の鎌倉幕府は、執権の北条高時が遊興三昧で家臣からも民衆からも見放され、幕府の権威は失墜していました。
民衆は重税に苦しみ、家臣は何の恩賞もなく、国内の秩序は乱れるばかりで無法者の乱暴狼藉を取り締まるべき役人も略奪強姦が日常茶飯という有様です。
このような幕府の状態をみて好機到来とみた後醍醐天皇は、元弘元年(1331)に幕府打倒を目指して挙兵します。
しかし、幕閣内部は崩壊寸前でも幕府の軍事力を恐れる各地の豪族は、倒幕勢力に加わるのをためらい、後醍醐天皇の討幕軍に呼応する者が少なく、後醍醐天皇には幕府の捕吏の手が伸びます。
その時、徒党を組んで後醍醐天皇の元に駆けつけたのが、河内地方で悪党と呼ばれて恐れられていた土豪の楠木正成(37)党でした。
楠木一族は、地元特産品などを売って利益を上げる経済的な利権で幕府と利害関係で対立していたこともあり、後醍醐天皇側に立って幕府と戦う決意を固めて参集したのです。後醍醐天皇は楠木軍の到来を大いに歓迎しました。
後醍醐天皇に謁見した正成は、幕府軍と正面から戦っては勝てないが、策略をもって戦えば充分に勝機はある、と提言します。
後醍醐軍に参加した正成は、地元の山中に築いた赤坂城を拠点に、武具や装備の粗末な農民の地侍約5百を集めて挙兵します。
それを知った幕府は、討幕軍の芽を早く摘むべく万を超す討伐軍を赤坂城に差し向けます。
甲冑(かっちゅう)に身を固めた完全武装の幕府軍は、赤坂城に接近して楠木軍の装備のお粗末さや、城とは名ばかりの砦にしか過ぎない小さな山城に呆れ驚き、すぐさま雨嵐の如く矢を射かけるが、柵の裏に姿が見えるのは藁人形だから、身を隠した楠木軍に被害はない。
恩賞狙いの幕府軍の将兵は、重い甲冑姿のまま我れ勝ちに斜面を攻め登ります。
ところが、幕府の将兵が斜面を埋め尽したのを見て、楠木軍が前面に現れ、奇声を上げて二重に組まれていた城壁の丸太の外柵を切り落とし、大石を転がし、熱湯を柄杓で投げ掛けます。こうなると幕府軍に身を護る手段はなく、悲鳴を上げて丸太や大石に潰されながら斜面を転げ落ちる阿鼻叫喚の地獄絵の世界で死体累々、その数は千に近しといいわれます。
初戦に敗れた幕府軍は、山城を包囲して持久戦に持ち込み兵糧攻めにします。
その後20日間の攻防の末、京都で後醍醐天皇が捕らえられたとの間諜の急報と兵糧が尽きたこともあり、山城に火を放って、抜け道から脱出し行方をくらまします。
幕府軍は、燃え落ちた砦内に投げ込まれた自軍兵士の焼死体を、正成らが武士らしく自刃して果てたと見誤って意気揚々と引き上げます。
その翌年の元弘2年(1332)、正成は再び挙兵、幕府の拠点とする河内や和泉の守護を次々と攻略して味方につけ、摂津の天王寺を占拠して京への進出を図ります。
これに対して幕府側は、強力な部隊を差し向けますが、正成側は「戦わずして勝つ」策に出て、一時的に撤退します。
幕府軍はもぬけの殻の天王寺を戦わずに占拠しますが、夜になると何万という松明のかがり火に包囲され、今にも大軍で襲わんばかりの鬨の声が夜空に響きます。幕府軍の将兵は夜襲に備えて一睡も出来ません。
朝を迎えて偵察を出すと、敵の姿も松明も全く見当たらず、狐につままれたような表情で偵察の兵達が戻ります。
次の日も楠木軍は現れず、また夜になると無数のかがり火と時の声に囲まれて幕府軍は眠れません。こんな日が4日続くと、もう寝不足で精神的にも肉体的にも疲労の極に達した幕府軍の将兵は戦う気力も失せて天王寺から撤退しました。
正成は近隣の農民5千人に僅かな金品で協力を求め、火を焚いて声を上げさせたものでした。正成軍はこうして一人の兵をも失わずに幕府の精鋭部隊を追い払い、天王寺周辺にも拠点を築きます。
これに怒った幕府は、翌元弘3年(1333)2月、8万の大軍で楠木正成軍討伐に掛かります。
正成は、かつての赤坂城と同様の手で、千人の兵と共にさらに険難な山奥の千早城に篭り、大軍を迎え討ちます。
幕府軍は千早城の麓まで押し寄せたものの、正成の奇策を警戒し、かつての赤坂城同様に兵糧攻めを選びます。
ところが、山奥で8万の兵を抱えた幕府軍が先に兵糧の支援が続かずに餓えたのです。
なぜ幕府軍の兵糧が尽きたかというと、山の地形を知り尽くす地元住民との獲物山分けで協定した正成軍が補給部隊を山道で襲って食糧を奪っていたからです。奪った食料は地元住民と分け合って、間道から砦内にも運び込んでいましたから、楠木軍は食糧法府、幕府軍は険しい山中で雨や風に晒された上に飢餓状態に陥り、幕府軍からは落伍する兵が続出、そこを正成が指揮する楠木軍が夜襲しますから、餓えて体もままならぬ幕府軍は反撃も出来ずに総崩れになって撤退するしか道はありませんでした。
このたった約千人の楠木軍が、8万の幕府軍を破ったという大事件は、たちまち人の噂に乗って諸国の豪族に伝わります。
2年前の赤坂城に続くこの幕府の敗北で、これまで幕府の軍事力を恐れていた各地の豪族が次々と幕府に反旗を翻して蜂起し始め、ついには幕府内部も崩壊、足利尊氏、新田義貞らが幕府を見捨てて楠木軍に呼応して後醍醐天皇側に就きます。
生まれ故郷(現在の綾部市)の丹波で旗揚げした足利尊氏軍は京都を攻めて六波羅軍を倒し、新田義貞は江の島側から海辺沿いに鎌倉に攻め入って執権・北条高時を始めとする一族を集団自害に追い詰めて北条の鎌倉幕府を滅ぼします。
この時、雑兵に身をやつした諏訪三郎が北条の遺児・亀寿丸を伴って鎌倉から脱出します。
この時の挿話が私の短編小説「戦乱の谷間に」です。お暇な折にご一読ください。
(http://kaiundou.jp/nichibungakuin/modules/pukiwiki/620.html)です。
戦いに勝った正成は、隠岐へ後醍醐天皇を迎えにあがり、天皇の都への凱旋への先駆けを務めます。
なお、正成は、自分が関係した戦いでは、敵も味方も関係なく双方の戦死者を弔っています。敵と言わずに敵は「寄手(よせて)、身内方は「身方(みかた)」として五輪の供養塔を建立し、法要を行なっています。
しかも、寄手塚の方が身方塚よりひとまわり大きいのですから、その人間の大きさが分かります。
この供養塔は、現在も千早赤阪村の村営墓地にあります。
こうして後醍醐天皇は、楠木正成ら武将の活躍で朝廷政治を復活させることが出来、「建武の新政」が発足します。
正成は、河内・和泉の守護に任命されますが、これは名もない土豪としては異例の出世でした。
ただ、後醍醐天皇は天皇主導の政治を急ぎすぎました。
脆弱な天皇支配の政権に強権が必要と考えた後醍醐天皇は、独裁政治を推し進め、強くなりすぎた武家勢力を弱め、公家の実質的な地位を図り、天皇復活の恩賞も何の功績もない公家に高く、功績のある武士を低く押さえました。
さらに、天皇政治の財政基盤を強固にする必要から、農民を含む庶民に対して鎌倉幕府時代より重い年貢や労役を課します。
これで一気に人心が離れ、武士も後醍醐天皇を見限りました。
まず足利尊氏が反旗を翻し、武家政権復活を叫んで挙兵すると、諸国の豪族や武士がそれに続き、人々もそれを支持します。
京へ攻め上った足利尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇側の有力武将が迎え討ち、激しい合戦になり、戦力で勝った天皇側に敗れた足利尊氏軍は敗走しますが、天皇側の将兵もそれに従って足利軍に参加する者が続出します。
正成は、辛うじて勝ちはしたが、天皇側の武士までが、後醍醐天皇から離れ、尊氏を慕ってその軍門に降ることに脅威と不安を感じます。
後醍醐天皇の新政権から、武士達の心が離れてゆくのを見た正成は、後醍醐天皇に「尊氏との和睦」を直言します。すると、それを聞いた公家達は、勝った朝廷側が敗けた尊氏ごときに和睦を求めるのはおかしいではないか、と正成の案を一蹴します。
延元元年(1336)4月末、九州に逃れて多くの武士や大衆の支持を得た足利尊氏が、移動するたびにその土地の豪族を併合して大軍となって京に向かって進軍を開始します。
総勢10万とも言われる尊氏軍を前に、天皇側の軍勢は、正成軍の700を入れても敵の数十分の一にしか過ぎません。
これでは万が一にも勝ち目はありません。正成は再度訴えます。
「足利の大軍にまともに戦っては勝てません。私は河内で兵を集めて淀の河口を塞ぎ、敵の水軍を止めます。帝は比叡山で僧兵を集め、京に尊氏軍を誘い込み、北から新田軍、南から我が楠木軍が敵を挟み撃ちにすれば勝てます」
しかし、天皇は、都から離れるのは朝廷の権威が落ちる、との公家たちの意見で正成の意見を却下します。
正成の戦いぶりを過信する後醍醐天皇は、兵庫の湊川で新田義貞軍と合流して「尊氏軍を壊滅せよ」と命じます。
しかし、正成の得意とする山岳戦を封じられては正成の奇策も通じません。この時点で正成は死を覚悟します。
失意の中、正成は天皇を諫める遺書を下人に届けさせ、息子には再起を命じて戦場を去らせ、自らは死を決して湊川に向かって出陣します。
5月25日、足利軍3万5千と湊川を挟んで対峙した楠木軍はわずか700、この彼我の差では戦いにもなりません。
だが、足利軍は楠木軍を無視し、海岸側に陣をひいた新田義貞軍を海から軍船で攻め、陸からも総攻撃します。これで新田軍は総崩れとなり、新田軍は楠木軍と合流することなく壊滅し、将・新田義貞も敗走して戦場からすがたを消します。
しかも、新田軍の将兵の多くはその場で足利軍に降って、今度は楠木軍に牙を剝く立場になるおです。
孤立した楠木軍は、激しく足利の大軍に挑みますが、足利軍は一向に戦おうとしません。戦力差は歴然ですから勝敗は半刻内もあれば決着がつくと誰しも思うのですが、尊氏は正成軍に対して戦力を小出しにして戦う真似をするだけで一向に攻撃する気配を見せず、それどころか自らが陣頭に立ち、自軍の武将に命じて、正成を翻意させようと試みます。
尊氏としては、3年前は北条氏打倒を誓って共に戦った親しい仲だけに、死なすのは忍びなかったのです。
、尊氏は、正成が天皇側から離脱さえしてくれれば戦いは中止すると申し入れるが、正成はそれを拒否します。
これによって、両軍の激突は避けられないものとなり、正成軍の鬼気迫る突撃によって両軍入り乱れての白兵戦が3刻(6時間)続き、満身創痍の正成が声を嗄らして生き残った家来を呼び集めると、その声を聞いた尊氏が戦闘の中断を命じます。
正成は、刀や槍を杖によろめき歩く72名の部下と共に、近くの主のいない民家へと粛々と入り、尊氏がそれを追う部下を制して戦闘は終わります。
正成の命で家来が家屋に火を放つと、正座した正成が死出の念仏を唱え、家来全員がそれに唱和しつつ次々に自刃します。
正成は弟の正季(まさすえ)と短刀で刺し違えて抱き合って絶命します。
享年42歳、歴史の表舞台に登場してわずか4年でその数奇な人生を閉じます。
足利尊氏は、正成を称して「誠に賢才武略の勇士」と言い、生涯その死を惜しんだといいます。
この楠木正成が貫いた義の一念こそ、武士道の神髄とも思えます・・合掌。

私の短編小説「戦乱の谷間に」です。お暇な折にご一読ください。
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大石内蔵助良雄にみる武士道

大石内蔵助良雄にみる武士道

花見 正樹

大石良雄こと通称・内蔵助(くらのすけ)は江戸時代前期の武士で、播磨国赤穂藩の筆頭家老です。
今では誰でも「赤穂事件」で知られますが、この事件を世間に広めたのはこれを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎の仮名手本忠臣蔵だったことも歴史上の事実です。
大石一族は、近江・三上山の百足退治で有名な藤原秀郷(ひでさと)の末裔である小山氏の系列です。
一族は代々近江国守護のもと栗太郡大石庄(現・滋賀県大津市大石)の役所にいたため、大石姓を名乗るようになりました。
その後、大石家は応仁の乱に巻き込まれて没落し、遠縁の小山氏が大石家を再興、大石良信の代には豊臣秀次に仕えたが秀次の切腹後、良信の次男・大石良勝(良雄の曽祖父)が浪々の身から播州赤穂の浅野家に仕官し、大坂夏の陣での戦功から家老に取り立てられ、代を継いで大石内蔵助良雄につながるのです。
良雄は延宝7年(1679)に21歳で赤穂藩の筆頭家老になり、貞享4年(1686)には但馬豊岡藩家老・石束毎公の娘・りく(18歳)と結婚し、以後、長男・松之丞(後の主税良金)、長女・くう、次男・吉之進(吉千代)、次女・るり、と5人の子を得ています。
元禄14年(1701)3月14日、良雄の主君・浅野長矩は、江戸へ下向する東山天皇の勅使の接待役を幕府より命じられていたが、その接待指南役・高家肝煎・吉良上野介義央に対して、儀式が始まる直前に松之大廊下において刃傷におよびます。
傷は眉間を切っただけで命に別状はなかったが、朝廷との儀式を台無しにされた将軍・徳川綱吉の怒りに触れ、大名としては異例の即日切腹で赤穂浅野家を改易断絶処分にし、一方の吉良上野介には何の咎めもなかったのです。
幕府の意向は「喧嘩両成敗」ではあるが、吉良上野介が抜刀しなかったために、この事件は「喧嘩」とは認められず、吉良側には咎めがないと判断し、一方的な処置になったものです。
しかし、主君・浅野内匠頭のみ切腹に処せられ御家断絶に処せられ浪々の身になる浅野家家臣達は当然ながら反発します。
筆頭家老・大石内蔵助は、主君の弟・浅野大学を擁しての浅野家再興の道も考え、籠城抗戦を訴える藩士達を抑え、幕府の申し入れ通りに赤穂城を明け渡す事にします。
しかし、その浅野大学の閉門が決まって播州浅野家再興の道が閉ざされると、大石内蔵助は方針を一転して吉良邸に討ち入る事を表明します。その後のことは省略しますが、大石は江戸に下るとすぐ仲間を招集し討ち入りの手筈を整えます。
元禄15年12月14日 (1703年1月30日)、吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首級を討ちとります。
この時討ち入りに参加した大石以下47名は、吉良の首を泉岳寺に眠る主君・浅野内匠頭の墓前に供えて敵討の奉告をします。
この泉岳寺への引き上げの途上、伝令役として隊を離れた足軽の寺坂吉右衛門を除く四十六人は、幕府の命に従って各藩預けとなった後、全員が切腹して果てます。
従来は、肉親や親族が殺害されたための敵討だったのが、前代未聞の主君の仇討ちではあったが、義に基づいた快挙であるとしてこの赤穂事件は、武士道の鑑として現代もなお語り継がれています。
なお、この義挙?を指揮した大石良雄を、南北朝時代の忠臣・楠木正成(くすのぎまさしげ)に再来とする記述を見たことがありますので次回の「武士道」は楠木正成を予定しています。


真田信繁(幸村)の武士道

真田信繁(幸村)の武士道

花見 正樹

真田信繁と本名で聞くとピンと来ない人でも、真田幸村といえば誰でも分かります。
信繁は、真田昌幸(武藤喜兵衛)の次男として生まれました。、永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)との説もありますが死没した日ははっきりしています。
その死は、慶長20年5月7日(1615年6月3日)の大坂夏の陣での奮戦での討ち死にとして語り継がれています。
その墓所はそれぞれ縁の深い、長野市の長国寺、京都市の妙心寺塔頭養徳院、宮城県白石市の田村家墓所、秋田県由利本荘市の妙慶寺の4ケ所にまたがっています。
信繁は、戦国大名・真田昌幸の次男(長男は信之)として生まれ、通称は左衛門佐で、源二郎、源次郎の名も用い、幸村の名は後世になって伝えられています。
真田氏は、信濃国小県郡の土豪で、一族は甲斐国・武田晴信(信玄)に帰属し、越後の上杉謙信との抗争などで活躍し、信繁の父・昌幸は、武田家の足軽大将として武田庶流・武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで長兄と次兄が戦死したため、真田氏を継いで真田昌幸の名に戻っていて、信繁も真田氏の一員として育っています。
天正7年(1579年)には武田・上杉が和睦し越後との抗争は収束したが、一方で相模の後北条氏との同盟が破綻します。
そんな時、天正10年(1582年)春、織田・徳川連合軍との戦闘で武田氏が滅亡、真田氏は織田信長に恭順します。
真田氏は上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡などの所領を安堵、信繁は人質として、関東管領として厩橋城に入った滝川一益のもとに送られます。その数か月後の起きた本能寺の変により信長が横死すると、空白になった甲斐の国・武田遺領を巡って、上杉氏・後北条氏、徳川氏三者の勢力争いが始ります。
滝川一益も軍を率いて関東を離れますが、その際に信繁も同行し、木曾福島城で信繁を木曾義昌に引渡します。その後、信繁はひとじちのまま越後に送られます。
その頃、真田一族は上杉氏に帰属して、天正13年(1585年)の第一次上田合戦において徳川氏と戦って勝利しています。
織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると信繁の父・真田昌幸はこれに帰属し、大名として処遇されます。
その後、信繁は人質として大坂に移りますが、そこで豊臣家臣の大谷吉継の娘を妻に迎えます。
天正17年(1589年)12月に秀吉の小田原征伐が号令されると、翌年、真田昌幸・信幸は前田利家・上杉景勝らと共に松井田城・箕輪城攻めにかかります。
一方の信繁は、大谷吉継の陣に入り、石田三成の指揮下で忍城を攻めます。
文禄3年(1594年)11月、信繁は、岳父・大谷吉継の縁もあって従五位下左衛門佐に叙任され、さらに豊臣姓を下賜されています。その上、信繁は秀吉の馬廻衆として、父・真田昌幸とは別に1万9000石という高い知行を与えられ、大坂・伏見に立派な屋敷を与えられるなど独立した大名として遇されます。
秀吉の死後、その信繁に、兄との別離という悲しい事件が起こります。
慶長5年(1600年)、徳川家康が、同じ五大老の一人だった会津の上杉景勝を討伐すべく兵を起こして動きます。
すると、それに乗じて留守を預かる五奉行の一人・石田三成が挙兵し、急ぎ戻った徳川軍と関ヶ原で対峙します。
この戦いで信繁と父・信幸は秀吉の恩義から西軍に加勢し、兄の真田信之は妻が家康の家臣・本多忠勝の娘(小松殿)であることから、東軍について兄弟がここから敵味方に袂を分かつことになります。
徳川家康の三男・徳川秀忠軍は、中山道制圧を目指して3万8千の大軍で、真田昌幸・信繁親子が籠る上田城を攻めます。
ところが、真田昌幸・信繁親子の巧みな軍略に攻めあぐねた徳川秀忠軍は、ついに上田城を落とせず、家康の命で急ぎ上洛するが、天下分け目の関ケ原の大戦に遅れるという失態を犯しています。
西軍が破れたことによって、真田昌幸・信繁親子は本来なら死罪を命じられるところだが、信之とその義父・本多忠勝の取り成しによって高野山配流で済みますが、父・昌幸は蟄居中に死去、信繁は出家します。
慶長19年(1614年)になって、鐘に刻んだ「国家安康」の文字を巡って、豊臣家壊滅を狙う家康の無法な言い掛りに端を発した方広寺事件から悪化した徳川氏と豊臣氏との争いが始ります。
軍勢で大きく劣る豊臣軍は、全国の浪人を集める策に出て、出家した九度山の信繁の元にも使者が訪れます。
それに呼応した信繁は、真田を慕う旧臣や足軽を集めて嫡男大助幸昌と共に大坂城に入ります。
信繁の軍は、鎧を赤で統一して「真田の赤備え」といあわれ、敵に恐れられる存在になります。
その暮れの大坂冬の陣では、信繁ら浪人組は籠城案に反対し、京都を支配下に抑え、近江国瀬田の瀬田橋付近で徳川軍を迎え撃つ策を主張しますが、豊臣家古参の大野治長らに反対され、軍議は籠城策で決定します。
籠城が決まった直後から信繁は、大阪城の一角に出城を築き、そこを真田丸と名付けて真田軍の拠点にします。
この真田丸の築造現場を見た大野治長ら豊臣方武将は、これを築いた信繁が徳川方に寝返ることを疑って警戒していたという逸話があります。
しかし、そんな噂を吹き飛ばすように、大阪冬の陣の戦闘での真田信繁軍の活躍は目覚ましく、ことごとく寄せ手の大軍を撃退し、その武名を天下に轟かせます。
冬の陣の講和後、この真田丸は堀埋め立ての案と共に取り壊されてますが、それを一番望んだのが家康でした。
堀を埋められ真田丸を取り壊され、浪人に去られて戦力激減の豊臣方に再戦の力はありません。
やがて、準備万端で再び大阪城を攻めた徳川家康軍の前に、豊臣軍は善戦空しく敗れ去ります。
夏の陣で武名を馳せた真田信繁の元には、徳川家康から寝返りを条件に「信濃一国を与える」とありましたが、信繁は敢然とこれを断り、わずか数千の将兵で数万の徳川軍と渡り合い、散々に敵を苦しめて見事に散ります。
この真田信繁の活躍は、黒田長政によって作成された「大坂夏の陣図屏風」でも知られ、版画の錦絵、江戸中期の文集「真田三代記」、江戸時代後期の島津家伝承「薩藩旧記」にある「真田は日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、などと記されています。夏の陣で本陣まで攻め込まれた家康が「切腹での自決まで考えた」という説は、家康本陣を守った藤堂高虎の一代記「高山公実録」にも「御旗本大崩れ」と記されていて事実だったようです。
いずれにしても、豊臣秀吉の恩顧に応えて義の一念を貫いて敢然と散った真田信繁(幸村)の見事さこそ武士道の鑑というべきです。


武田信玄(晴信)にみる武士道

武田信玄(晴信)にみる武士道

花見 正樹

上杉謙信といえば武田信玄・・・まるでセットのように語られます。
甲斐の武田信玄は、越後の上杉謙信と並び称され「甲斐の虎、越後の龍」などとも呼ばれます。
戦国時代(室町時代後期)の大永元年(1521)11月3日に生まれ、元亀4年(1573)4月12日に53歳で没しています。
天文5年(1536)に16歳で元服して、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の一字を賜り、「晴信」と改めます。
元服後に、今川義元の斡旋で左大臣・三条公頼の娘・三条夫人を継室として迎えています。
晴信の元服直後の出陣は、天文5年11月、父・信虎が攻めあぐねていた信濃国佐久郡海ノ口城主平賀源心との戦闘で、困難を極めた攻城戦で、晴信は家臣の将兵を鼓舞し自らが率先して城内に攻め込み、この城を一夜にして落城させたと言われます。
それからは家臣の信頼を集め、天文10年には父・信虎の駿河追放によって、晴信は武田家第19代の家督を継いでいます。
晴信は家督継承と同時に、それまで父・信虎が同盟していた駿河の今川氏、上野国および扇谷の上杉氏、信濃諏の訪氏と離反、
信濃諏訪領への侵攻を開始します。
天文11年(1542)には諏訪氏庶流の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始して、和睦後に諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を掌握します。
その後、破竹の勢いで信濃国長窪城主・大井貞隆、上伊那・高遠城に侵攻して高遠頼継、福与城主・藤沢頼親を倒します。
晴信は、ただ戦うだけでなく、父・信虎時代に対立していた後北条氏と和睦し、その後も今川氏と後北条氏の対立を仲裁して、両家に恩を売り、甲相駿三国同盟へと西方の不安をなくします。
晴信は、今川・北条との関係が安定したことで信濃侵攻を本格化させます。
天文16年(1547)には志賀城の笠原清繁を攻め、さらに小田井原で上杉・笠原連合軍と戦って大勝します。
晴信は、領国支配にも配慮し甲州法度之次第(信玄家法)を定めます。
天文17年(1548)2月には宿敵・信濃国北部に勢力を誇る宿敵の葛尾城・村上義清と上田原で激突して、晴信は初めて敗れ、重臣・板垣信方、甘利虎泰ら多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負って甲府・湯村温泉で1ケ月の湯治をしたといいます。
この機に乗じて小笠原長時が諏訪に侵入、それを傷癒えた晴信が塩尻峠に迎え撃ち、小笠原軍を撃破して撃退します。
この恨みを晴らすべく晴信は小笠原領に侵攻しますが、小笠原長時は林城を放棄して村上義清のもとへ遁走します。
勢いに乗った晴信は、村上義清の支城である砥石城を攻めますが、武田軍はまたも大敗を喫します。
しかし、天文20年(1551)4月、武田に与した真田幸隆の戦略で砥石城が落城、これによって武田軍が優勢になり、天文22年(1553)の戦いで村上軍を撃破、村上義清は主城の葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃亡します。こうして晴信は北信を除き信濃をもほぼ平定します。
ただ、これによって眠っていた「越後の龍」を目覚めさせてしまいます。
その天文22年(1553)4月、村上義清や北信豪族の要望で立ち上った景虎(上杉謙信)は信濃に出兵します。
以来、甲越対決の端緒となる戦いがはじまるのです。
このときは景虎方が武田領内深く侵攻するも晴信は決戦を避け、景虎もまた軍を積極的に動かすことなく両軍ともに撤退して戦いを避けます。
その後、景虎の支援を受けた武田側の大井信広が謀反を起こし、直ちに晴信はこれを鎮圧、小競り合いが始ります。
晴信は信濃進出に際して、駿河今川氏と相模北条氏の関係改善を進めて和睦しており、安心して長尾景虎と対峙することが出来ます。
その後、信玄は北信侵攻を続けますが、謙信の上洛もあり、大きな戦闘にはなりませんでしたが、永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いが一連の戦いの中で最大の激戦となり、武田軍は副将・武田信繁や諸角虎定、山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身も負傷する始末です。
この第四次川中島合戦を契機に武田軍の信濃侵攻は一段落します。
武田信玄は方向転換で、西上野侵攻を開始します。
だが、上杉旧臣の長野業正の抵抗で結果ははかばかしくありません。それも、長野業正が永禄4年(1561)に死去すると、に武田軍は長野軍を激しく攻め、永禄9年(1556)9月、ついに箕輪城は陥落し武田軍は上野国まで進出します。
元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ちに際して、信玄は信長を「天魔ノ化身」と非難罵倒し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させるべく図り、信長への敵意を顕わにします。
さらに正親町天皇の弟宮で天台座主の覚恕(かくじょ)法親王も甲斐へ亡命、仏法の再興を信玄に懇願します。
信玄は覚恕を保護すると共に、元亀3年(1572)10月に信玄は、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発して、諏訪から伊那を経て遠江に向かいます。
この先は、三方ヶ原の戦いで徳川軍に大勝、さらに進軍中に体調を崩し、急遽甲斐に引き上げる途上・信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)の三河街道上で死去します。
信玄の勝頼や家臣への遺言が遺されています。
「我が死を3年間秘し、遺骸を諏訪湖に沈める事、信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」
勝頼はこの遺言を守ろうとしたが、信玄の死は全国に知れ渡り、織田信長との決戦が近づくのですが、信頼が越後の上杉謙信を頼った形跡はありません。信玄の死を知った謙信は「よき友を喪った」と号泣したと聞きます。
信玄の一生は、国土と領民の安泰のために信ずる道を進む、この武士道には納得せざるを得ません。


上杉謙信(景虎)にみる武士道

上杉謙信(景虎)にみる武士道

花見 正樹

上杉景虎は、戦国時代(安土桃山時代)の著名な武将で「越後の虎」とも「越後の龍」とも呼ばれていました。
享禄3年(1530)1月21日に生まれ天正6年(1578)3月13日に49歳で没しています。
幼名・長尾虎千代から景虎、上杉政虎、輝虎、謙信、と名を変えていて、さらに別名として平三、宗心(臨済宗名)などがあり、謙信の名は、出家してからの法号名です。
長尾氏は、本家・上杉家の下で越後国の守護代を務めたいた名家です。
景虎は、兄・晴景の養子となって長尾の家督を継ぎ、次いで関東管領上杉憲政から家督を譲られ、上杉政虎と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職である関東管領を引き継ぎます。
その後、将軍・足利義輝より輝の字を譲り受けて、上杉輝虎とも名乗ります。
以後、謙信と称します。
謙信の初陣は15歳、その後、生涯で70回以上も戦場に出ていて、敗けたのは2回だけで、その1回は、川中島の甲斐との戦いで上杉軍が疲労困憊していた隙を、北条氏康の大軍に襲われたもので、戦って敗けたのは1回だけです。
それに比べて、武田信玄は49回の戦闘で11回、織田信長は23回戦って9回敗けたとされていますので、景虎の強さが際立っているように思えるのです。
謙信は、長期に渉って内紛の続いた越後の国を統一し、産業を興して国を繁栄させ、他国への援助も惜しまず、周辺地域の秩序回復のために力を尽し、生涯を戦いに明け暮れています。
この上杉謙信は義に篤く、私欲のためには戦わず、大義名分のない戦いには全く関心を示しません。
それだけに領地拡大のためには手段を選ばないrd私欲のためにがなく義に篤いく戦いには大義名分を重視していました。川中島の戦いは村上義清や小笠原長時の、関東出兵は関東管領上杉憲政を助けるための戦いであり、己の利益を追求するものではありませんでした、こうした謙信の姿勢が、領土拡大のためにあらゆる手を使った他の戦国大名から見ればあまりにも無欲過ぎて不気味に感じて怖かったと思えます。
上杉謙信自身が自らを「毘沙門天」と称して正義のために戦った上に、深田で鍛えた半農半士の越後軍団の強さも抜群でした。
上杉謙信は幼少時から兵学を学び、城攻めや野戦時の戦い方を学んだのも強みです。
その博識と抜きんでた戦闘力を以て揺るぎない地歩を築いていたのです。
こうして様々な角度から見た時、義と仁に篤い上杉謙信自身の生き方が武士道そのものに思えてくるのです。


坂本龍馬にみる武士道-7

坂本龍馬にみる武士道-7

花見 正樹

慶応3年(1867)11月15日、龍馬が暗殺された当時は新選組犯人説が有力でした。
その後、下総流山から拉致された新選組局長・近藤勇は、龍馬暗殺を疑われて斬首されています。
ところが明治3年になって、箱館戦争で捕虜になっていた元幕府見廻組・今井信郎が犯行を自供します。
与頭・佐々木只三郎ら6人が坂本と中岡を襲撃、その中に自分もいたと述べたのです。
現在ではこれが定説になっていますが、この時点での生存者は今井信郎ただ一人ですので、未だに謎は残ります。
刑を軽くするための司法取引ではなかったか、という人もいますし、売名行為だと断定する人もいます。
しかも、今井自身が最初は外での見張り役と自供、後に、実は「二階に行き龍馬を斬った」と証言を変えています。
薩摩藩、土佐藩の黒幕説も今もなお疑われています。
坂本龍馬は死亡時に、32口径のS&Wモデル1/25連発銃を懐中にしていたことも分かっています。
風邪をひいて厚い綿入れ半纏を着ていて動作が鈍り、すぐには拳銃を出せなかったと考えられます。拳銃をとりだしたとしても撃鉄を起こす動作がありますので、選び抜かれた手練れの暗殺者の鋭い剣風には間に合いません。
切りかかられてから、本能的に刀掛けから刀を取り上げ、とっさに次の攻撃を鞘で受けますが反撃は出来ませんでした。
拳銃も刀も使う間がなかったのは、刺客の攻撃が早かったのか、顔見知りだったのか、二つに一つです。
これが、柳生十兵衛や宮本武蔵だったら? 残念ながら龍馬はそこまでの剣術使いではありません。
熱狂的な龍馬ファンの間では、龍馬が剣豪であるかのような表現を聞きますが、龍馬が剣術の試合で勝った記録はどこにもありません。龍馬の千葉定吉道場での免許は、婚約者(不履行)の千葉佐那の裏書のある長刀(なぎなた)免許です。もっとも、当時の武士が、女子が学ぶ長刀の免許を得るなど考えられませんから、常識に捉われない龍馬はやっぱり「凄い」のです。
龍馬は、同じ日本人同士の殺し合いを極力避けたかったのは間違いありません。
大政奉還から公武一体での「新国家構想」こそ好漢・坂本龍馬の貫き通した「武士道」の意地だったのです。
この項終わり。
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龍馬暗殺5日前の手紙をみて

龍馬暗殺5日前の手紙をみて

花見 正樹

平成29年1月、坂本龍馬が暗殺される5日前の書状が発見された、とのニュースには驚きました。
今までは、その数日前に書いた手紙の草稿が”幻の手紙”とされていたのです。
数年前、NHKのバラエティ番組で龍馬が書いた死の一週間ほど前の土佐藩重役・後藤象二郎宛ての手紙の草稿が一般主婦への街頭インタビューから発見されました。その手紙の草稿は主婦の父が古物商から千円で買ったもので、即千五百万の値が付き、今では1億円以上の値が付いているそうです。その草稿の内容は、「越行(えつゆき)の記(き)」と題され、大政奉還後の新政府の人事や財政の構想などが書かれており、福井藩の財政再建の立役者・三岡八郎(後の由利公正)を新政府の財政担当者に推し、三井と語り合ったないようなども書かれています。
この後藤への書簡の中で龍馬は、新政府の財政を任せられるのは三岡をおいてほかにはいないと後藤象二郎に断じています。

まさか、この書簡の後で、龍馬暗殺5日前の手紙が見つかるとは・・・
書簡は、慶応3年(1867)11月15日に暗殺された龍馬の死の5日前の11月10日付けで、京都・福井藩邸内に滞在中の福井藩重臣・中根雪江宛てのもので、本文中に龍馬の署名もあり「実物に間違いなし」と専門家が鑑定しています。
この手紙の中で龍馬は初めて「新国家」という言葉を使っています。
書状は縦約16センチ、横約92センチの和紙に毛筆で、封紙に龍馬の偽名・才谷楳太郎(うめたろう)とあります。
龍馬は、ここでも福井藩の重役・中根雪江に、三岡八郎を新政府に出仕させるよう求め、一日先になれば「新国家の御家計(財政)御成立」が一日先になるとせかしています。
この書簡を鑑定した鑑定した専門家の一人京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は、龍馬のほかの手紙では「新国家」の文字を見たことがなく、龍馬がいかに最後まで新政府の樹立に専心したことがわかる重要な資料、と書簡の内覧会で話していました。
手紙を包んでいた封紙の表面には、「坂本先生暗殺直前の手紙であり、他人に見せてはいけない」という意味の朱書きされた和紙の付箋(ふせん)がのり付けされていたそうで、専門家は、龍馬の暗殺後に手紙の存在を知られると、あらぬ疑いをかけられる恐れがあると判断した中根か他の重役の配慮ではないか? との説もあります。
しかも、封紙と手紙は中根家ではない他の家老の家に伝わっていたというのですから、三岡の上京を一カ月も先延ばしして、龍馬の催促を無視した藩上層部が、龍馬暗殺への関与を疑われないように龍馬の手紙を握りつぶして隠匿したとも思えます。
では、龍馬の手紙の原文からどうぞ!

一筆啓上仕候、此度越前老侯 御上京相被成候段千万の兵を得たる心中に御座候、先生ニも諸事御尽力御察申上候、然るに先頃御直ニ申上置キ三岡八郎兄の御上京御出仕の一件ハ急を用する事に存候得ハ、何卒早々御裁可あるへく奉願候、三岡兄の御上京が一日先に相成候得ハ新国家の御家計御成立が一日先に相成候と奉存候、唯此所一向ニ御尽力奉願候
誠恐謹言  十一月十日 龍馬
中根先生  左右

追白
今日永井玄蕃頭方ニ罷出候得とも御面会相不叶候、談したき天下の議論数々在之候ニテ明日又罷出候所存ニ御座候得ハ大兄御同行相叶候ハヽ実ニ大幸の事ニ奉存候
再拝

龍馬の手紙の現代語訳です。

一筆啓上差し上げます。
このたび越前の老侯(松平春嶽)が御上京に成られたことは千万の兵を得たような心持ちでございます。
先生(中根雪江)にも諸事御尽力くださったこととお察し申し上げます。
しかしながら先頃直接申し上げておきました三岡八郎兄の御上京、御出仕の一件は急を要する事と思っておりますので何卒早々に(福井藩の)御裁可が下りますよう願い奉ります。
三岡兄の御上京が一日先になったならば新国家の御家計(財政)の御成立が一日先になってしまうと考えられます。
唯、ここの所にひたすら御尽力をお願いいたします。
誠恐謹言  十一月十日  龍馬
中根先生  左右

追白  今日永井玄蕃頭(幕府内で大政奉還を推進していた永井尚志)方へ訪ねていったのですが御面会は叶いませんでした。
(永井殿と)談じたい天下の議論が数々在りますので明日また訪ねたいと考えているところですので大兄も御同行が叶いますならば実に大幸に存じます。
再拝
以上は、高知県他マスコミ等を通じて入手した資料を集めて載せたものです。
この龍馬暗殺5日前の手紙によって、私が抱いていた疑問も次々に解けてゆきます。
私は、龍馬と肝胆照らす幕府内大政奉還派の旗頭は大久保忠寛とばかり思っていました。
ところが龍馬の指名は永井尚志です。
ならば、永井尚志、木村喜毅、大久保忠寛、阿部正弘、勝海舟、小栗忠順なども同じです。
ここでハッキリしたことは、龍馬と幕府重役は同じ理想を求めて話し合っていたことです。
拙著「坂本龍馬異聞」は、幕府に好意的な龍馬の姿を書いていますが、これが事実だったのです、
龍馬の理想は倒幕ではあったが、武力討幕でも徳川家断罪でもなく、新国家の建設だったのです。
龍馬の新国家構想の人事ではただ一人、頂点になる人の名が空欄になっていました。
龍馬の考えた理想の首相は、徳川慶喜か福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)だったと見られています。
ここに、薩長討幕派に疎まれた一因があり、武力討幕派からは邪魔な存在になったのです。
幕府からみれば龍馬は必要な人物、薩長からは排除抹殺すべき人物、この手紙はそれを裏付けています。
この5日後に武力討幕派の旗頭・中岡慎太郎と会って、激論も口論もないとしたら二人の本音はどこにあったのか?
龍馬が海援隊として武器商売で利益を得た金で、中岡率いる陸援隊を援助していた仲です。
龍馬が公武合体派、中岡が武力倒幕派として対立しても友は友、お互いを理解していたとも思えます。
私がそれよりも注目するのは、大政奉還・公武合体派で内戦を回避すべく動いた永井尚志の動向です。
この永井が、鳥羽伏見の開戦以降、旧幕府軍を率いて榎本・土方らと共に函館で新政府軍と死力を尽くして戦うのです。
龍馬が暗殺されて以降、龍馬の意志を継ぐ者は現れませんでした。
この龍馬が策した幕府側を加えての新国家構想は潰され、龍馬の夢は歪められた形で新政府に引き継がれます。
龍馬は、この新国家構想でも堂々と武士道を貫き、日本人同士の争いを避けた人事案を提唱しています。
だが、それがゆえに武力討幕派からの指令で闇に葬られた、と考えられます。
仮に実行犯は京都見廻り組・佐々木只三郎一派だとしても黒幕は間違いなく別に存在します。
さて、ここまでは私も龍馬ファンと同じ目線で龍馬を見てきました。
ここからは私見です。
しかし、龍馬が長崎の武器商人グラバーを通じて、大量の武器弾薬を薩摩藩経由で長州に斡旋した事実は隠せません。
その上、薩摩と長州の武力討幕派の同盟に一役買って、討幕を煽っています。
いわば、死の商人の一翼を担い、武力討幕の火薬庫に火を点けた上で「戦争は止めろ!」と叫んだ形なのです。
これでは、本気で徳川幕府と戦う気になって軍備を固めて士気を高めた薩長軍を抑えることなど出来ません。
しかも、薩長が軍備を整えて戦闘準備に燃えている最中に、龍馬は旧幕府要人と新国家の人事や財政の相談に夢中なのです。
龍馬は、薩長の軍事行動寸前に後藤象二郎から山内容堂を通じて、大政奉還という奥の手で戦火に水を掛けます。
この大政奉還案は、すでに数年前から大久保忠寛らから筆頭老中・阿部正弘に献策されていて、幕府内からの意見でもあったので、永井は龍馬を通じて土佐藩から提出させた。そう考えるのも、龍馬と永井の異様な接近をこの手紙に見たからです。
こうなると、武力討幕側としては「龍馬を消せ」ぐらいのことは言いたくなるのは当然の理です。
案の定、大政奉還1ケ月後に龍馬は暗殺されました。
龍馬の言動は正論ながら認められなかった・・・この龍馬暗殺5日前の手紙をみて、私はこう思いました。
龍馬の武士道は眩しいほど真っ正直で、多少ひねくれた策士には何とも煙たく映るのです。
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  坂本龍馬にみる武士道-7

高知県桂浜の旧坂本龍馬記念館にて。
刀剣は龍馬と全く同じ陸奥守吉行です。
寄贈は龍馬研究の第一人者・小美濃清明氏。

坂本龍馬にみる武士道-7

花見 正樹

龍馬は、新式銃千挺を船で土佐に運んで、お龍とも5年ぶりに再会しますが、これが最後の別れとなりました。
龍馬の助言を得た後藤象二郎は建白書の形式にして、自分の策として山内容堂公に提出します。
これを元に土佐藩は薩摩との薩土芸盟約を成立させ、芸州藩を加えて大政奉還建白書を出しました。
その後、薩摩が武力討伐に傾いたために薩土両藩の主張が食い違い、薩土盟約は解消します。
山内容堂からの大政奉還建建白書は、老中・板倉勝静経由で将軍・徳川慶喜に手渡されます。
徳川慶喜は二条城において諸藩重臣に大政奉還について諮問して、直ちに明治天皇に上奏します。
こうして慶応3年(1867)15日に勅許が下されて大政奉還が成立しました。
この大政奉還成立によって、その前日14日に薩摩と長州に出されていた討幕の密勅は無効になりました。
しかし、あくまでも武力討幕を謀る薩長連合は、密勅の無効を無視して戦の準備を進めます。

11月15日、底冷えのする寒い日、龍馬は京都河原町蛸薬師で醤油商・近江屋新助宅の母屋の二階にいました。
龍馬は風邪気味で、土佐陸援隊の中岡慎太郎と酒を飲んでいて複数の刺客に襲われます。
刺客は十津川郷士と名乗る男達数人、龍馬はほぼ即死、中岡は翌々日に死亡します。
この二人の暗殺には謎も多く、真相は未だに闇の中です。
最近、龍馬が殺害される5日前に、越前藩の重臣・中根雪江に宛てて龍馬が書いた手紙が発見され話題になっています。
その手紙を読むと、龍馬が描いた新国家構想が見えてきます。
龍馬の頭の中には武力討幕など全くなく、その手紙の中でも幕府要人である永井尚志との会見を望んでいたのも分かります。
龍馬は大政奉還後の新国家構想に、徳川慶喜総代をも考えていた節があるのです。
龍馬には姑息な欺瞞策など全くあり得ず、武士道に背く言動などゴマ粒ほどもなかったのです。
次回は、龍馬が死の5日前に書いた手紙について触れます。


坂本龍馬にみる武士道-6

坂本龍馬にみる武士道-6

花見 正樹

龍馬は、蝦夷地開拓や竹島の占拠なども計画しますが、海援隊の経済状態は苦しかったようです。
イロハ丸事件で共闘して紀州藩に圧勝した龍馬と後藤象二郎は、藩の夕顔丸船内で航海中に次なる策を練ります。
京都で開かれる将軍・徳川慶喜、島津久光、伊達宗城、松平春獄、山内容堂による会議に呼ばれた後藤象二郎に、龍馬が智恵を授けたのです。これが世に名高い「船中八策」です。
1、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事
2、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事
3、有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備ヘ官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事
4、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事
5、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事
6、海軍宜く拡張すべき事
7、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事
8、金銀物貨宜しく外国と平均の方を設くべき事。
家に二主なきごとく、国に二帝あるべからず。政刑唯一君に帰すべし。

この八策は、龍馬が師の勝海舟の使いで熊本の横井小楠宅で聞いた国是7条を改訂したものです。
この国是7策は藩を1国としての規律でしたが、龍馬はそれを日本の国として広げています。
龍馬は国の将来のために、この八策を日頃から練りに練っていたと考えられます。
この龍馬の私心を捨てて国の未来を思う心こそ、武士道の鑑(かがみ)として讃えられるべきものです。