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先生方の作品集

小説のすすめ」 

大河内昭爾

<序にかえて −本との出会い−>

 国立大学共通一次の試験がはじまってもう何年になるように思うが、第一回の現代国語の問題に「芸術の一回性」ということばがあって、そこに傍線が施されていた記憶がある。問題が傍線のところの解釈を求めていたのかどうか忘れたが、平素、文学や芸術について、そんなに立ち入って考えたことなどない一般の受験生にとって、容易に応答できることばとは思えない。古語の解釈のようにことばのおきかえだけですむ問題ではないからである。

 「芸術の一回性」ということばと、禅や茶道の世界でよく使われる「一期一会」ということばを結びつけて考えるのは、一種の連想でしかないかもしれないか、私はある新聞社の「茶華道学術講座」という、お茶とお花の先生とそのお弟子さんたちを対象とする文化講座で、お茶でもお花でもない、文学における作家と素材との出会い、つまり作家と題材、ひいては作品とのかかわり方を、一期一会ということばをひきあいに出してしゃべったことがある。ところが、講演のあと、いかにも気品のある老婦人が講師の控室にみえて、次のようなことを語ってくださった。

 若くして夫を亡くし、小さい子供をかかえて途方にくれたときに、わたしを物心両面にわたって支えてくれたのが茶道でした。近所のお嬢さん方を教えることで子供を育てましたが、幼い子供にとっては、教室にあたる部屋へ入ることも、その時間廊下を走ることも小言のタネだっただけに、自分と母親をへだてる「お茶」への恨みを、茶碗を庭石へたたきつけるようなことで晴らそうとしたことさえあります。茶道のもっともらしい形式やしぐさは、青年になってからも反発の対象でしかなかったようです。

 だんだん戦争がはけしくなって、その一人息子にも召集令状がきました。出発前日、夜おそくまで語りあってそれぞれ床に入りましたが、もちろん二人ともなかなか寝つけず、わたしはとうとうがまんできず、心を静めようと起き出して、一人茶室へ入りました。ところが息子がちゃんと服装をととのえて、「お母さん、ぼくにも」といって茶室に入ってきたのです。わたしはそれこそ心をこめてお茶をたてました。それまでお茶をみむきもしなかった息子が、思いがけず一通りの作法をもってそれをうけてくれたのです。本当に心の通いあった時間でした。息子は戦争へかり出されてとうとう帰ってきませんでしたが、あの夜のことこそ一期一会ということばの重さ、深さに通じるものだったのでしょうか。

 私は、淡々とした口調のその話を、戦死した息子さんも一世一代の最後の親孝行をした上に、自分も死んでゆくとき、それを大きな心の支えにしたにちがいないと思いながら耳を傾けていた。しすて自分の吐いたかっこうだけのことばの真実のすがたを、しみじみとうけとめていた。考えてみれば、出陣前夜、母ひとり、子ひとりの母子が、深夜茶室にむきあって、母の想いのたけをこめた茶を喫する情景こそ、まさに一期一会というべきであろう。戦争に散った子にとっても、それはなすすべもなく見送った母にとっても、一碗の茶をなかにしてむかいあいながら心を通じあったこの時間は短くして、かつ永遠のものであった。

 一期一会は茶の世界でよく使われることばであるが、華道でも花のいのちのみじかい美しい一瞬をいかに表現するか、その花とそれを素材として扱う作者との一回しかない出会いをとらえて一期一会と称するようである。

 加藤周一氏の「文学とは何か」では、芸術の一回性について、人間の経験を抽象的に三区分することで説明している。つまり文学的経験(芸術的経験)と科学的経験を、日常的経験をはさんで、その両極において考察していた。

 日常的経験とは毎日慣習的にくりかえしている日々の生活体験であり、科学的経験は実験をくりかえすことによって一つの共通原理をみつけ出すことに特性をもつものであり、客観的に計算化されるものである。しかも日常経験と科学的経験に共通するのは「くりかえし」ということであろう。
それにひきかえ芸術的経験の特色を強調していえば、くりかえしや習慣性のないこと、多くの芸術の課題になるのは、そのくりかえしのきかぬ一回かぎりの性格による。
 恋愛は一組の男性にむかって、他にまだいい女性がいくらでもいるではないかと強調したところで、その限りではなんの効果もないのはそのせいであり、恋愛経験のくりかえしが次の恋愛の成功を約束しないのも同様である。
 旅は日常性からの脱出に意義があり、旅先に日常をもちこむ愚は誰しも避けたがることだ。病気、あるいは死の問題は生の危機として存在し、病気によって人は日常的行動からきりはなされ、死に直面して生に執着する。生死の問題によってわれわれは人間の存在の意義を反省し、日常的次元を超える問題を意識する。つまり生死の状況に対して日常は無力であり、当然習慣的に対処することは不可能である。
 
 恋愛も旅も生死の問題も、はじめてのように常に新鮮なおどろきとして経験させられる故に、われわれにとって容易に見すごせることがらではない。俳優の森繁久弥氏はある著名な外国の劇作家に、演劇とはアラームだと一言でいわれたとテレビで語っていた。このおどろきや発見は習慣的な事柄とちがってあらたな体験として、恋愛においてはそれを日記に書きとめようとし、詩や歌や手紙によって訴えようとする。それははかなく消えてゆくよろこびや不安を何らかの手段で明瞭にし、定着させようとするからで、旅においてわれわれが写真や手紙や記録を残したがり、書きたがるのと同様である。新鮮な経験はつねに何らかの表現を求めるものであろう。それが芸術表現の本質であり、文学とはそれをことばで表現したものにほかならない。

 しかし日常的経験といえども、毎日のくりかえしはかわりばえのしない経験の反復にみえて、そうではない。過ぎ去った一日は決してもどってこない。同じ一日は決してもどってこない。同じ一日はあり得ない。『方丈記』の書き出しではないが、「行く河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」ということであって、一見平凡な事態が、自覚する限りにおいてはかけがえのない姿としてたちあらわれるものである。それを自覚した人間が、その深い自覚のもとにおいて、たとえば過ぎ去ってゆく一日を表現し得たとしたら、それはそのまま文学と称し得るであろう。しかし人は大方、今日と明日の区別をそんなにも重く意識しない。年末に至って一年の速さをかこち、年老いて人生の短さをなげき、肉親を失っていまさら死にゆくものの再びかえらぬことに愕然とするのである。

 過ぎ去っていくものを一つの感傷として、情緒としてふりかえる心の状態と、あるがままの人生の相として観ずることには大きなへだたりがあるにちがいないが、『方丈記』の冒頭の一行にしろ見すごさないためには、そのことばに感応する自分の内面の鋭敏なアンテナが必要であろう。大方は現代語に訳しおわったとき、それを理解したと思うだけである。

 小説作品一つとっても、同じ作品がある人には単なるよみものとして忘れ去られ、ある人にはその人の人生に大きな意味を有する場合も生じる。たとえば私はかつて大原富枝氏の長篇『婉という女』について、作者と作品との出会いという主題で論じたことがある。

 一九六〇年度毎日出版文化賞および同年度野間文芸賞を受賞した『婉という女』は、土佐藩執政野中兼山の娘の生涯を描いている。次の一説は兼山の政敵のため四十年もの長きにわたって幽閉されていた婉が、幕府から赦免の沙汰がおりてはじめて外に出、「幼い日からわたしたちを捉えていた不思議な音で、風の音とも松籟ともちがう。流れの音だと教えられていた」ものの正体をようやく見た瞬間の息のつまるような新鮮な感動を描いたものである。

 「朝日はわたしたち姉妹の背後から草丘のはざまを裂いて、流れの半ばから向こう岸にかけて照っていた。日向と陰とでは、川はまったく別の生きものに見えた。日向の流れは珠を砕いたようにきらめき、碧や黄や紅に泡だってこの世のものならず美しく、玄妙であった。

 わたくしたちは短い叫びをあげ、言葉もなくこの妖しくも美しいものの姿に魅せられていた。―この寸時も定まった形を持たず、一刻も停滞ることのないものの姿を、わたくしはかつて想像することができなかった。

 川が人の生命を奪うこともあると聞いたことがある。流れがこのように魅惑に充ちたものであるなら、死を含むことはできないであろう。川がこんなにも壮烈なものならばその暴力もまた不思議ではなかった。感動がわたくしの胸を衝きあげてくる。刻々に姿を変え、色を替えて流れる水の不思議さは、わたくしに、これが外の世界だ、自由な外の世界の象徴だ、と思わせた。外の世界ではすべてがこのように、わたくしの四十年の想像とは似もつかぬ形と生命をもってそこに在るのであろう。」

 このおどろきの新鮮さは、彼女たちのそれまでの言語に絶する重く暗い生涯と対比されて、私たちにもいきいきと伝わってくる。しかし、川の流れの一つを日常私たちはこんなにもみずみずしい感覚でうけとるとはいえない。見なれたものを私たちはいつでもさして心にとめないで見すごしている。旅に出ると私たちは風物の新鮮さを心して見る。しかし通勤途上の風景についてあらためて問われても、今朝見たものすら答えることができない。それはただ過ぎ去るものだからだ。

 過ぎ去るものをただ過ぎ去るものとして見すごす限り、私たちに出会いはない。人にしろ、風景にしろ、それから本にしろ、私たちの前を多く過ぎ去ってゆく。しかしすべてが過ぎ去ってゆくのではない。前にかかげた川の流れの描写のすばらしさは、人と自然との出会いが一回かぎりのものとして描かれているからである。『婉という女』が傑作であり偶然のように見える。しかしそうではあるまい。偶然の出会いは多く見過ごされてしまうだけだ。かけがえのない出会いは、それぞれが一個の運命なのである。運命は偶然によってもたらされるように見えながら、決してそうではない。その人の生き方のたしかな手さぐりに、いつか自然にたぐり寄せられてくるものである。

 『婉の幽囚を描くとき、私は自分の青春の日の十年にわたる療養生活を思った。このことは作家と作品とのあいだに通いあう一つの秘密な営みであったと思う』と作者自身語っている。しかし病床十年が婉という女に関心を抱かせた最初ではない。作者は婉と同じ土佐の人である。幼少にかげる暗い物語と記憶していたに違いない。語り伝えられた物語があったにしろ、それだけでは作品が成り立つわけではなかった。

 昭和五年十八歳のとき高知女子師範の教室で喀血して絶対安静の生活に入った作者は、昭和十六年生家の没落を機に上京、十九年帰郷した折、野中家の資料を求めて県立図書館にゆく。そこで資料の乏しいのを館長にかこったとき、館長が起って渋紙に紐をかけた包みをもってきた。それが婉の自筆の手紙二十六通であった。「信書の秘密を犯す思い」を幾度も味わいながらそれを作者は書きうつした。その翌年、高知市は空襲にあい手紙は焼失して、作者が作品の「あとがき」でのべるように、「この婉の自筆の手紙を見ることができたということが私と婉との決定的な結びつきになった」のである。そして書き写された書簡は、唯一の所有者たる大原氏にのみ、明け暮れその深い思いを語りかけるようになる。しかし作品が誕生するにはそれからまた十五年もの歳月を必要としたのである。

 執筆期間はわずか半年にしろ、十八歳の喀血をもつてはじまった十年におよぶ幽閉にひとしい療養生活、そして戦中戦後の時代そのものが窮乏のさなか、再発に悩む死と隣りあった生活を経て、『婉という女』を書きあげたとき、作者もすでに婉同様四十歳をこしていた。過去に材をとる歴史小説であるが、作者には歴史小説を書く意識はまったくなかったという。作者はまぎれもなく、自分を描いたのである。十年臥床の恨みが、幽閉四十年の婉の情念にこめられて、作品ははげしいいのちを与えられた。

 「三十歳代のとき、どうしても書けなかった作品をやつと書きあげたとき、私は四十歳を超えていた。四十三歳で幽獄を出た婉の生涯を書くためには、私もまた四十年の女の生涯を生きてみなければならなかった、ということであろう。(略)この作品を書くことで、私もいわば四十数年の女の生命を生き直したのである。」と、作者は「私の取材ノート」に書きしるしている。婉がはじめて見た川の流れに心を奪われるためには、自然との隔離を必要とした。川の流れの新鮮さを謳うにも、十年の病床から起って大地をふみしめるよろこびが賭けられている。近代文明のために自然を失ってみて、ようやく私たちが自然の尊さを知ったように、出会うということはいつでも犠牲を強いるものなのであろう。作者は青春を失ってはじめて婉のこころをつかんだのである。婉のこころをつかむことによって、はじめてかけがえのない青春をとりものしたのである。


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