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先生方の作品集

川島芳子・波乱万丈の生涯

山田賢二

 中国・清王朝の王女として生まれ日本人に養女となった川島芳子は、清朝復詳のため日本協力しましたが、戦後中国政府に捕らえら漢奸(※1)として刑死。「男装の麗人」とも「東洋のジャンヌーダルク」とも「東洋のマターハリ(※2)とも呼ばれました。
彼女の波乱に満ちた生涯について、岐阜県芸術文化会議での講演内容を掲載します。

 清朝王女から川島家の養女へ
 川島芳子は清王朝の名門、粛親王家の第四側室の長女、第十四王女として1904年に北京で生まれました。本名は愛親覚羅顕紆、別名金壁輝で、川島芳子という名前は日本で川島家の養女となったときつけられたものです。         
 芳子の養父である川島浪速は、信州松本藩土の子として生まれましたが、実は川島家の先祖は土岐氏の家臣で、戦国時代は一時いまの岐阜市又丸の城主でした。浪速は、清国が外国の侵略を受け滅亡に瀕していることを知り、アジア民族はみな白人系国家の奴隷になると憂い、これを救おうと考えました。
 外国語専門学校で中国語を学び、上海、旧満州へと渡り、陸軍の通訳として活躍。
清王朝に「日本軍だけは秩序ある軍隊」という印象を与え、日中友好の架け橋となりました。このため、粛親王も浪速に絶大な信頼を寄せ、「日本人と協力すれば東洋の平和は保たれるだろう」という願いのもと、9歳の娘顕斤を川島家の養女にしました。
 芳子は、松本で教育を受けましたが、1922年に実父の葬儀のために長期休学した後、復学が認められず、女学校を中退。17歳で断髪、男装となりますが、これは一説によれば養父である浪速に関係を迫られたためともいわれています。芳子はその後、旧満州へ渡り、河本大作満豪対策軍人に預けられ大連に来ました。私は幼少のころ、父の仕事の関係で川島家の別宅がある大連の聖徳街に住んでいて河本家の長女と親しかったので、昭和10年ころから芳子のことは話に聞いて知っていました。
 事実は小説よりも奇なりの一生 芳子は胞威の時、中国の旅順で蒙古族の将軍の息子と結婚しますが、すぐに離婚。あちこちのダンスホールで遊びまわり、芳子は生きながらにして伝説の女王として有名人になります。
 その後、上海で関東軍中佐との出会いから特務工作に関わるようになります。これが、「東洋のマたはり」ともいわれるゆえんです。1931年の「満州事変」においても、日本の関東軍の手引きによる清朝最後の皇帝溥儀や皇后の脱出に関与します。このころ、芳子をモデルにした小説『男装の麗人』が発表され、日本軍に協力する清朝王女として注目を集めます。関東軍の計画どおり旧満州国は建国され、溥儀が皇帝になり、川島浪速と芳子の夢は実現したかに見えましたが、旧満州国が清朝の復活でないという実情を知って失望します。その後、芳子は日本でさまざまなスキャンダルを巻き起こしました。
 相場師の伊東ハンニをスポンサーにつけてレコードや本を出したりしますが、やがて人気も衰えます。芳子は再び中国へ渡り、天津で中華料理店を開業しました。
 1945年、第二次世界大戦の日本敗戦とともに芳子は中国・国民党政府に逮捕され、漢奸として銃殺刑となりました。
  日本国籍があれば漢奸罪は免れたかもしれないのですが、川島浪速が芳子の帰化手続きをしていなかったため、日本人と認められませんでした。同様に中国で漢奸裁判にかけられた李香蘭こと山口淑子は、日本国籍が認められ釈放されました。実に悲劇的な運命です。執行後、芳子の死体写真が報道されましたが、顔の損傷が激しく、一方では替え玉説も報じられ、その後長く生存説がささやかれました。
 事態を重くみたGHQが調査を行いましたが、真相究明には至っていません。現在、中国には芳子の娘と自称する女性もいます。まさに、「事実は小説よりも奇なり」。
波乱万丈の生涯でした。

(※1)漢奸:漢民族(中国人)でありながら祖国を裏切って利敵行為をした人。
(※2)マタ・ハリ:パリを中心に活躍したオランダ人の踊り子で、高級娼婦。第1次大戦中スパイ容疑で逮捕され処刑される。女スパイの代名詞となった。


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