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先生方の作品集

会津の旅

桐山 健一

 「未曾有の経済危機、多くの労働者が職をなくし路頭に迷う。 …経済危機は長年日本人の心をいたわってきた過疎地の温泉にも波及する。 …会津の温泉、芦ノ牧温泉の薄氷を踏む経営…。」
石川洋一は、週刊誌を折り畳みテーブルの上に置くと頭を上げる。彼は車窓に流れる淡い緑の森に目を移す。洋一は多くの温泉を旅した。しかし、この週刊誌に記された芦ノ牧温泉という名前は初めて見た。
「山間の渓流に沿った寂れた温泉」と記されている。あまり来客のないこの温泉は宣伝費もない。大手旅行者が原価ギリギリの価格でホテルと契約し、安価なパックツアーを設定している。洋一は始めての寂れた渓谷の地に哀愁を感じた。彼は旅を終えると、旅行社に電話して芦ノ牧温泉のパックツアーを問い合わせた。平日なら三日間、横浜駅前からの往復バス送り迎えの料金込みで二万円だという。洋一は手帳の日程表を見ると、年明けの4月2日が空いている。その日を予約した。

 4月2日早朝目覚めると、空はどんより曇っている。今年は4月だというのに、桜便りもまだ届かない。風は冷たく春の気配を感じない。洋一は集合場所の横浜駅前天理ビルに来た。平日だというのに、沢山のバスが道路脇に並んでいる。洋一がバスに乗ると満席ですでに38人の客が乗っていた。ほとんどが中高年、仲間同士の会話はどれもたわいないものばかり、ガイドの吉野美恵子と名乗る中年の女性が挨拶すると、中程に乗っている10人程の60代グループの男性が、卑猥な言葉でからかう。彼らはもうすでにビールでも飲んでいるのだろうアルコールの匂いが漂う。彼女は笑顔で答え、次々と途中で止まる店での土産品を宣伝する。洋一はいつの間にか眠っていた。

 ガイドの甲高い声で目覚めると、まもなくバスはハニー牧場に止まる。牧場とは名ばかりで、ここは野外テント村、夏には賑わうそうである。レストランに入ると、昼食を注文していない洋一は、ポツンと離れた窓際の席に座り、コーヒーを注文する。温かいコーヒーにこの地で採れる蜂蜜を注ぐ。一口、口にすると、その円やかな香りに心が安らぐ。いつも旅に出ると、コーヒーを口にする洋一は、味に関しては通である。
 彼はバスの出発まで付近を散歩する。野外の炊事場や演劇場、大きな池には大きな鯉が悠々と泳いでいる。森は肌寒くまだ春には遠い褐色の世界である。
バスがハニー牧場を出発して30分、工事が完成したばかりの甲子トンネルに入る。長いトンネルである。かなり走っているのに一台の車にも出会わない。彼は出口の見えない世界を走り続ける不気味ささえ感じる。遠くに光が見えた。バスが光の世界に入ると一面の銀世界である。川端康成の『雪国』の世界のように、全く違う新鮮な世界を見ているようである。中高年の客が青春を思い出したように仲間と語り始める。ガイドがマイクをとり語り始める。
 「二日前までは全く雪はなかったのに、昨日突然季節外れの大雪が降りました。年の初め『白銀の大内宿』と名づけてパック旅行を募集しました。多くの人が参加されましたが、全く雪のない春のような天気になり、がっかりしていました。皆さんはよいときに旅されました」
バスは眩い白銀の甲子峠をゆっくり走っている。前方に除雪車が道路際の雪を除雪している。甲子峠を下ると、雪の合間の黒い大地が顔を覗く。阿賀川の陸橋を渡ると、会津鉄道の線路と平行して走る。塔のへつり駅が見える。ガイドがマイクで話す。
「皆さん、右側を見てください。アッ、見えました。あの茅葺の駅は日本で唯一の湯野上温泉駅です」
その時、森の中から二両編成のメルヘンチックな電車が走ってくる。
「皆さん、ついていますね。会津鉄道の電車は一時間に一本、たまたま皆さんの旅に合わせてくれました」
洋一は旅の予約を入れた日のことを想い出していた。あの日は年の瀬で、翌年の春のイメージを抱き、4月2日には芦ノ牧温泉でも桜の蕾を見ることができると思っていた。芦ノ牧ホテルに着いた。渓流の真上に聳え立つ寂れたホテルである。屋上に岩盤浴と書かれた広告版が掲げられている。ホテルに入るとガイドが説明する。洋一たちが乗ってきたバスは、今日まで泊まっていた客を乗せて横浜に帰る。二日後の午後二時に、同じようにバスが洋一たちを迎えに来るという。ロビーにいた今日まで滞在していた客はゾロゾロバスに乗った。バスが出発するとホテルの支配人が挨拶する。ホテル内の案内と、近辺の交通機関や見所を説明する。洋一は301号室の部屋のカギを受け取り、従業員の女性に部屋まで案内される。このホテルは受付カウンターがあるところが九階で最上階にある。エレベーターで四階に降り、そこから迷路のような通路を渡り、三階へ降りる別のエレベーターに乗る。部屋は和室で広々とした八畳間である。
 彼は一人になると、渓流の真上にある、明るい出窓のある縁側の椅子に腰掛けて、目の前に開ける水墨画の世界に見とれる。眩い光は彼に心地よい疲労を生じる。洋一は目を閉じる。静寂の中にせせらぎの音が心に響く。
「チョロチョロチョロ・・・」
学生時代に知床半島を旅していた時、渓谷に流れる透明な水を見つめた景色が心に映った。大自然の中にいる旅人は、心のどこかに青春の色を想う。歳月は人を待たないが、自然はいつでもどこでも青春の時に連れ戻してくれる。せせらぎのシンフォニーが終わった時、洋一は宿の浴衣に着替え、大浴場に向った。
浴室に入るとまだ誰も入っていない。ここの温泉は硫黄泉ではない。硫黄の匂いもなく、温泉水はきれいな透明な水である。岩風呂のような天然の岩でできた湯船につかる。少し集めの温水が身体の中心に達すると、洋一の顔に汗粒があふれだす。彼は岩棚に腰掛け半身をさます。目を閉じると渓流のせせらぎの音が岸壁に反響して美しい響きになる。
突然ガヤガヤと人の声がこだまし、仲間で少しアルコールでも飲んだ余蘊あ雰囲気を醸し出す集団がドッと入ってくる。小太りの頭のはげた男が腹の出た血色のよい丸顔の男に、「会長、今夜の隠し芸は楽しみですね。」
と、意味ありげな笑いをしながら話しかける。情緒をなくした洋一は、浴室を後にする。久しぶりに畳の部屋で手足を伸ばし、座布団を枕に目を閉じるとせせらぎの調べを聴く。彼はいつの間にか深い眠りに落ちている。
 遠くで電話の音がする。眠りから覚めると窓の外は暗くなり、電話が鳴っている。洋一が電話を取ると、「お客様、夕食の用意ができました。四階の大広間に来てください」と言う。彼は羽織を羽織ると部屋を出た。通路に出ると寒い。歩いていると通路の曲がり角に石油ストーブが赤々と燃えている。大広間には室内のサンダルが重なって並べてある。奥を空けると皆の目がこちらを向く。洋一の席だけが一つポツンと空いている。席に着くと賄い婦がお膳の養鯉鍋に火をつける。
「何かお飲みになりますか?」
「赤ワインがあれば下さい」
お膳の上に並んでいるおかずはかなりある。ワインを口に含む。昼食を食べていない洋一の口には香りが心地よく鼻に抜けていく。賄い婦が来て、すでに炊けている鍋の蓋を取る。
「どうぞ召し上がってください」
「ありがとう」
「お客さんお一人ですか」
「そうだけど」
「珍しいです。お一人でここに旅される方って。皆さんお連れさんとご一緒なので」
「明日、磐越西線に乗って、どこか情緒のあるところを旅したいのだが、この沿線はどこがいいかな?」
「お客さん、喜多方に旅されたことありますか?」
「行ったことない」
「あそこは一度行かれた方がいいと思います」
「何か歴史的な遺跡でもあるの!」
「近年、町おこしに日本一のラーメン産地として売り出しました。閑散とした町に何十軒かのラーメン食堂があり、全国から人々が集まっています」
「どこかお薦めの店はあるの?」
「わたし二度行ってここのラーメン本当に旨いと思った店がある。坂内食堂というの」
「喜多方ってその他に何かあるの?」
江戸時代からの古い蔵が沢山あります。町では蔵の里って名付けている」
「ありがとう。明日は喜多方へ旅しよう」
「お客さん、汽車の本数が少ないから時間を調べておいて下さい。ここは9時20分発の会津若松行きのバスがあります」

  洋一は部屋へ戻ると渓谷の闇を見下ろす縁側の椅子に座って目を閉じる。彼は静寂の中に優しいせせらぎの音を聴く。小さな幸せが心に満ちる。こんな状況の中で、彼は一日の疲れを肉体が感じていることに気付く。この部屋に来る途中、体内の疲れを癒す岩盤浴という看板のかかった部屋を通ったことを思い出す。彼はバスタオルを持つと部屋を出た。入室すると肝っ玉母ちゃんのような恰幅のいい笑顔の婦人が迎えてくれる。
「お客さんお酒は飲まれましたか?」
「ワインをグラス一杯飲んだ」
「どれくらい時間がたちますか?」
「一時間くらいかな!」
「血圧は高いですか?」
「いや、低血圧だ」
「じゃこの水飲んでください。そして下着を脱いで、この浴衣に着替えてください」
洋一はペットボトルの水を飲みながら話をする。
「アルコールはよくないのかな?」
「この岩盤の敷き詰めた部屋は湿度65%、音頭45℃です。部屋を閉め切りますので、お客さんが脱水症状や意識を失われると生命の危険があります。血圧が高くてアルコールを飲んでいる方はお断りしています」
「この岩盤はどこから運ばれたの?」
「玉川温泉の岩盤浴で使われている岩とか、この辺のラジウム等が含まれている岩盤です」

 洋一は脱衣所で着替えると岩盤浴の部屋に入る。ムッとして少し息苦しい。ゴザを敷きその上にバスタオルを敷き、最初は下向きに寝る。内臓が温まった感じになったとき、竹の枕で上向きに寝る。彼は肝っ玉母ちゃんから言われたように室内の時計を見て、20分を目途に寝ていようと思った。目をつむると室内のファンの音が耳に響く。体内の鼓動が心に響き、彼の内臓のあちこちを真空の筒に入れられて、温められているような心持になる。老廃物が分泌して皮膚細胞から溢れ出ていくような清潔な気分になったとき、汗がどっと溢れてきた。洋一は息苦しくなった。時計を見ると、30分を回っている。彼は起き上がると外に出た。少しめまいがする。肝っ玉母ちゃんはペットボトルに新しい水を入れて待っている。冷たい水は心地よく喉を通る。
「よく汗が出ましたか?」
「よく出たよ、何だか身体がスッキリした」
「この汗は汚れていませんので、今日はこのままお風呂に入らずにいて下さい。岩盤からの鉱物要素が肌によい刺激を与えてくれます」

 洋一は部屋に帰り布団に入る。せせらぎの音色が心地よい。彼はいつの間にか夢の世界にいた。眩しい陽光に映える緑の大地を車窓から見ている。
ポーと汽笛を鳴らしSLは止まる。洋一は白樺の樹でできた駅を出て歩く。小川が流れている。
チョロチョロ・・・ 
せせらぎの音色を聴いている。彼は夢ともうつつとも気付かない川のせせらぎに目覚める。渓谷は朝の目覚めを終え、山鳥の声が響く。時計を見ると五時、彼は起き上がると心身が軽く快適な気持ちである。タオルを持つと大浴場に向った。岩風呂は誰もいない。川のせせらぎが心に響く。洋一は目を瞑るとベートーヴェンの『田園』を聴いているような自然の息吹を心で感じる。湯舟で身体を動かすといつもより軽快で、青春の頃に戻ったような愉快な気持ちになる。汗が顔に吹き出てきた。彼は岩棚に腰掛け半身をさます。
 突然、洋一の心は今日の予定を描く。彼は浴場を出ると、九階の受付に行った。磐越西線の時刻表を調べる。平日の各駅停車の本数は一時間に一本あるかないかである。駅での待ち時間が長くなる。それでも喜多方で四時間の自由時間が取れる予定を立てた。
温泉神社前には9時20分発のバスが来る。洋一がここに来るともう十数人の旅行客が待っていた。一組の子供がいる家族客の他は皆年配者である。雪の残るこの近辺はまだ寒い。
 バスは川に沿って近隣の村々を走る。車窓に写る景色は褐色の中に雪の残る山村である。会津若松駅では春休みも重なり若者達も多い。洋一が喜多方駅を出て街を歩き出した時、彼の頭に全く似通った景色が蘇った。かつて旅した播州赤穂である。駅を出ると白壁の蔵のある道が真っ直ぐ延びる。車が走っていなければかれは江戸時代に戻ったような気持ちになる。初春の陽光が眩しい。それでもそよ風は冬の名残を残し冷たい。
彼はホテルで聞いた坂内食堂に向って歩き出す。洋一は三つ目の信号を右折する。表示も何もない小道にくると草取りをしているお婆さんに出会う。道を聞くと丁寧に教えてくれる。昔の田舎食堂のようなたたずまいの坂内食堂がある。洋一は戸を開けて驚く。昼前だというのに客の熱気で圧倒される。席はほとんど満席、一歩入ると「いらっしゃいませ」と威勢のよい声が響く。白い割烹着姿の青年が注文を聞く。奥の席でカップルが立ち上がる。洋一はその席に座る。かれこれ20分ほどたった時ラーメンがきた。ギラギラした油はない。レンゲで一口汁を口に含む。洋一は何とも言えないその円やかな味に魅了された。
 彼は坂内食堂を出る時、子供の頃の純粋な喜びに満ちていた。彼は『喜多方 蔵の里』に来た。昔の茅葺の蔵が道を挟んで沢山見える。蔵を構えた一軒の家に入る。土間には厩、京都ではかつておくどさんと言った、薪で飯を炊く炊事場、その対面には古い農機具がある。黒光りの土間に腰をかける。洋一は目を閉じると、子供の頃、疎開先のおばあちゃんがいつも黒光りする土間を拭いている姿が映った。彼は蔵を出て眩しい陽光の下、駅に向って歩き出す。白壁の蔵の喫茶店『ぬりの里』が洋一を招く。一歩中に入ると、青年たちがたむろする香ばしいコーヒーの薫りにむせる。窓から一筋の光が舞う席に座る。スラッとした少女のような婦人が立っている。
「何になさいますか?」
「一番美味しいコーヒーを下さい」
「トワルトコトジャにしましよう」
洋一は一口トワルトコトジャを口に含む。40年振りに青春に戻ったような心持ちになる。
「かつて『田園』でこんなコーヒーを飲みました」
「そうですね!あの頃歌声喫茶もあり、私も青春を楽しみました」
「奥さんも60代・・・!」
彼女は恥ずかしそうに、優しい目許に皺を寄せて微笑する。

つづく


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