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先生方の作品集

新しき明日を信じた啄木

桐山 健一

      「新しき明日の来るのを信ずといふ
                 自分の言葉に嘘はけれど



 40年前、貧しく働きながら大学で学んでいた僕は、この詩を口ずさみ幾度力づけられたか。僕が拙い詩を紡ぎ始めたのは、大隈講堂で詩人の黒田三郎氏の講演を聴いたことがきっかけとなった。
黒田氏が最初に発した言葉が、この詩だった。詳しい内容は忘れたが、この詩の引用から始まる『詩と人生』という講演に非常に感動したことだけは今でも鮮明に想い出す。当時僕は漱石文学を研究していた。仲間は教授が話す漱石先生という言葉を真似ていた。僕も漱石を語るとき、おこがましくも漱石先生と話していた。

 明治42年、漱石先生は朝日新聞に『それから』を連載した。僕らは漱石先生が当時の時代背景をこれだけリアルに正確に表現したことに驚嘆した。調べて行くと、漱石先生は普段小説を書く時は一気に書き上げたという。しかし『それから』が創作された当時の書簡を調べるとちょっと違っていた。
漱石の『日記』より(明治42年)

「5月31日、晴。小説『それから』を書き出す。
6月1日、小説約一回分しか書けず。久内清孝ビックルズを送り来る。
7月16日、『それから』朝日に載る。
7月18日、晴。暑さますます劇(はげし)、豊隆、東洋城とまる。…小説なかなか進まず。しかしこれが本職と思うと、いつまでかかっても構わない気がする。暑くても何でも自分は本職に力(つと)めているのだから不愉快の事なし。『それから』5月末日に起稿今63、4回目なり。その間事故にて書かざりし事あり。また近来隔日に独逸語をやるのと、木曜を丸潰しにするのとで捗取(はかど)らぬなり。
8月9日、9時半驟雨一過。小説『それから』ようやく結末に近づく。
8月14日、『それから』の第100回を半分ほど書いてからまた書き直す。『それから』を書き直したのはこれで二返目なり。夜天の川を見る。」
漱石先生の『それから』の創作過程は、今までの作品に見られない慎重さで、多くの知識人読者を意識した内容を包括している。作者は明治42年の社会状況をさりげなく主人公の代助や友人の平岡に語らせている。

 「…日本ほど借金をこしらえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君いくつになったら返せると思うか。そりゃ外債ぐらいは返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、とうてい立ち行かない国だ。それでいて、一等国をもって任じている。…あらゆる方面に向って、奥行きをけずって、一等国に間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。…その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見たまえ。こう西洋の圧迫を受けている国民は頭に余裕がないからろくな仕事はできない。ことごとく切りつめた教育で、そうして目の回るほどこき使われるから、そろって神経衰弱になっちまう。話してみたまえ、たいてい馬鹿だから。自分のことと、自分の今日の、ただいまのことよりほかに、なにも考えてやしない。 …のみならず、道徳の敗退もいっしょに来ている。…」(『それから』より代助が語る)
 
 「平岡はそれから、幸徳秋水という社会主義の人を政府がどんあに恐れているかということを話した。幸徳秋水の家の前と後ろに巡査が二・三人ずつ昼夜張り番をしている。一時はテントを張って、その中からねらっていた。秋水が外出すると巡査が後をつける、…新宿警察署では秋水一人のために日々100円使っている。…」(『それから』平岡が語る)

 『それから』が掲載された翌年、明治43年(1910年)6月2日に起きた大逆事件(天皇暗殺被疑事件)が起こる。治安警察のデッチ上げで、幸徳秋水ら社会主義者や文学者達が全国で、その数は数百名に上がった。翌年幸徳秋水ら12名が死刑になった。当時23歳の啄木は、朝日新聞の校正係りをしていた。啄木は大逆事件で強い衝撃をうけ『時代閉塞の現状』を書いている。
「…我々青年を異繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行きわたっている。…」
僕は35年前、ウイーンへ旅した。シェンブルン宮殿を見学した時、ウイーンのカフェは

 300年の歴史があると聞き、ガイドに古いカフェに連れて行ってもらった。入ったとたん香ばしいコーヒーの香りが漂い、絵画が壁に並んでいる。ジプシーの弾くウインナーワルツは心地よく耳に響いた。ガイドが店のオーナーと何か親権に語り合っている。彼女に内容を聞いて驚いた。このカフェは1910年にヒトラーやレーニンが来ていたという。ヒトラーはウイーンの絵の学校を受験して落ち、社会に目を向け始めた。レーニンはロシア革命に失敗してウイーンに逃れていた。ガイドとオーナーの話は、彼ら青年達はその頃ここで一緒にコーヒーを飲みながら話していたんではないかという。僕はこの時、心にことば(詩)が降りてきた。


          1910年ウイーンの春


     眩しい光が緑の森にキラメク
     樫の木漏れ日の先に大観覧車が回っている
     美術学校を落ち傷心を抱えたヒトラーは
     観覧車からウイーンの街を見ている

     
     第一革命に失敗したレーニンハ
     フィンランド亡命から温かいウイーンに来た
     痩せたジプシーが弾くウインナーワルツ
     シェンブール宮殿の灯が見える小さなカフェ
     青年達のイデアの世界が展がる

     「トロッキー君プラウダの
     血の日曜日の祖国を見たいのかい」
     「レーニン同志の予想通り
     奴等は惨たらしい血のせいさんをした」
     「トロッキー君これからが本当の革命だよ」

     「ヒトラー君 世界エスペラント大会は
     画期的な出来事だよ」
     「エドワード 君にはシェンブール宮殿の
     歴史の輝きがわかるかい
     今あの中にいる連中には力がない
     マルクス主義は卑しいジューや
     無知な農民を利用して革命の果実を得る
     やつらの宣伝さ」
 

     暮れ行くウイーンの小さなカフェは
     革命に希望をかけたレーニンや
     貧しかった日のヒトラーの野望
     イデアを掲げた青年達が
     二十世紀の歴史を刻み始める

     
                      プラウダ…正義と真理の世界   
                      ジュー …ユダヤ人と卑下した呼び方



  1910年(明治43年)は、僕の心に深く刻まれる。1910年は漱石43歳、啄木23歳、レーニン40歳、ヒトラー21歳である。世界が激動に流される前である。奇しくも、僕は東京とウイーンに安らぎの一時を過ごしている青年達を見つけた。歴史に残るこれらの人々は文学と政治と分野は違うが、当時の社会の世相を真剣に考えている。
「啄木と漱石との出会いは1906年の6月、渋民村で代用職員をしていた啄木が、農繁期休暇を利用して上京し『我輩は猫である』を読んだのが最初であると思われます。夏目氏は驚くべき文才を持っている。しかし、『偉大』がない」(啄木日記より)

…啄木は漱石に違和感を感じながらも強い関心を持ちつづけていました。1909年10月頃に書いた『断片』に“我は漱石氏の『それから』を毎日社にいて校正しながら、同じ人の他の作を読んだ時よりも、もっと熱心にあの作に取り扱われてある事項の成行きに注意するような経験を持っていた”という言葉があります。朝日新聞の校正係だった啄木は、『それから』の日本最初の読者だったわけです。
… “7月1日、島村苳三来、高須賀淳平来、石川啄木来、7月5日、草平来、石川啄木来(スモークを借りに)(1910年漱石日記)”」
(2001年12月8日仙台、日本近代文学会東北支部 講演『漱石と啄木』伊豆利彦氏より抜粋)

 僕は漱石先生が当時始めた木曜会に啄木が出ているか調べたが、名前は見当たらなかった。伊豆氏の講演文献から貴重な彼らの出会いを知った。かつて見学した盛岡の啄木記念館の学芸員、山本玲子氏からも貴重な話をお聞きした。「明治44年啄木が没する一年前、小石川の啄木邸へ忙しい漱石の代わり、妻の鏡子は結核で伏せている啄木を見舞っている。その時、胃病の漱石がいつも愛飲しているセイロガンを持参した」という。僕は四年前初めて啄木記念館を訪ねた。この旅は貧しかった青春時代に、新しき明日を信じさせてくれた、僕の心の中の啄木に会いたいという、素直な気持ちで出発した。僕はこの旅をできるだけ啄木が肌で感じた旅にしたいと思った。

 僕は東京から各駅停車で森岡まで旅することにした。学生時代に戻ったように、心のときめきを覚えながら汽車の時刻表を調べた。東京⇒宇都宮⇒黒磯⇒郡山⇒福島⇒仙台⇒一関⇒森岡。森岡までは、これらの駅で乗り継いでいくのである。時刻表を繰りながら、僕は少々心細くなった。これほど長くの各駅停車の旅は、学生時代以来である。9月7日早朝まだ空に星影が見える頃家を出た。早朝の汽車は人影疎らで、みんな頭を垂れて眠っている。東京を出ると、僕はいつの間にか眠っていた。眩しい光に目覚めると次は宇都宮だった。車窓の景色はどんどん変わっていく。山や森や褐色の稲穂の田園風景が広がる。乗降する人々の方言も変わってくる。ドッと人が降り、人が乗ってくる。車内放送で十分止まるという、仙台だった。

 僕は汽車を降り自動販売機で缶コーヒーを買う。苦いコーヒーを一口呑むと僕の心はもうかなり旅したという。ゆっくり車窓が流れる。田園風景が広がる。一ノ関駅で最後の接続列車に乗ると、フッと心が安らぐ。僕は啄木の心と重ね合わせた。僕はボンヤリ車窓に流れる田園風景を見ている。夕陽が窓に射す。ふと隣を見ると大きな瞳が夕陽にキラメク細面の少女が車窓を見ている。僕は啄木の妻、節子をイメージした。僕はいつの間にか、直美という少女といろんなことについて語り合っていた。彼女は県立産業技術短期大学でデザインを勉強していた。中学時代から吹奏楽でクラリネットを演奏していて、今地域の楽団員もやっている。彼女は自分でデザインした入場券をくれた。彼女は柴波駅で降りた。別れ際、僕は持ち歩いていた漱石の『それから』を記念にあげた。闇の中に閃光がきらめき、豪雨がきた。


今日もまた胸に痛みあり/死ぬならば/ふるさとに行きて死なむと思ふ


啄木のこんな心境を想っていた時、汽車は盛岡駅に着いた。僕は駅の食堂で夕食をすませた時、疲れ果てていた。夜8時にホテルに着くと、シャワーを浴びてすぐ床についた。夢の世界にいた僕はドアのノックの音で目覚めた。チェックアウトの10時を過ぎていた。9月8日は、昨夜の雨が嘘のように秋晴れの涼しい風が吹いている。一番線の銀河鉄道に乗車する。人影まばらな車内のワンボックスに一人で足を伸ばして座る。汽車が盛岡駅を出ると、岩手山の裾野はのどかな秋の光を浴びて、萌黄の稲穂に彩られた田園の原風景が拡がる。窓を開けると淋しい秋の風が頬をよぎる。透明な光の中を赤トンボが飛んでいる。渋民村は岩手山の麓の、萌黄に彩られた稲穂の中にあった。僕の心に啄木の詩が流れる。


「かにかくに/渋民村は/恋しかり/おもひでの山/おもひでの川」

駅員に啄木記念館への道程を聞くと、歩くと50分はかかるという、タクシーに乗った方がよいという。僕は渋民駅に着き、家路につく啄木の心を想い、歩くことにした。萌黄色の小道を歩くこと10分、北上川にかかる船田橋にたどり着く。それから国道四号線に沿って歩き始める。もう何十分歩いたか定かでない、汗が吹き出て、肩の荷物がズシリと重く感じる。僕は百年前の啄木を想った。この道は車など走っていなかった。緑に消える畦道を歩く、瞼に浮かぶ啄木が僕を励ましてくれる。立ち止まり、荷物を肩から下ろし、岩手山を眺めた。綿雲が山頂をよぎっている。


「ふるさとの/山にむかひて/言うことなし/ふるさとの山は/ありがたきかな」


を思った。啄木の眼には、この山は郷愁だったのだと、僕は汗を拭きながら心身で感じる。汗だくになって、啄木記念館に着いた時、時計は1時半を回っている。細面で優しい眼の受付譲が、館内の説明をしてくれる。館内を見学して、恥ずかしいことだが、初めて啄木の本名を知った。啄木の本名は石川一。「啄木とは汚れていく世への警告の詩人という意である」と評されている。
この記念館は「啄木の詩『家』に描いた理想の“我が家”を、生誕百年を記念して建設された」とある。「場所は鉄道から遠からぬ、心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。西洋風の木造のさっぱりしたひと構え、高からずとも、さてはまた何の飾りもなくとも、…ゆったりとした椅子と机の書斎、その隣にいつも乳飲み子を眠らせる妻の部屋…」一回りして啄木の書斎でゆったりした椅子に座り、しみじみと啄木の星屑のようにふる詩を想った。


「友がみな/われよりえらく/見ゆる日よ/花を買ひきて/妻としたしむ」


 文学に理想を追い求めていた啄木は、いつも新しき「明日」がくることを信じていた。故郷・渋民村から始まる漂流の人生は「明日」を追い求めてさまよった26年の短い啄木の生き様を、僕に伝えてくれる。啄木が四年間通学し、自らも一年間代用教員として働いた渋民尋常小学校が記念館の隣に保存されている。僕はミシミシときしむ、黒光りしている木造校舎を歩いている。障子で仕切られた職員室がある。五、六人が座れる囲炉裏がある。20になったばかりの、新任の啄木先生が目を輝かせ、子供たちのこと、教育のことを雄弁に語っている姿が目に映る。僕はギシギシ音がする階段を二階に上がる。二年二組の表札が掛かる教室に入る。啄木が始めて教壇に立った教室である。粗末な木版の黒板、二人座りの子供机、啄木が愛用したリードオルガン、どの光景も息づいている。椅子に座り、目を閉じる。静かな教室にカッコウの声がこだまする。
遠くの方で「僕がいた、哀しい時に後戻りしてはいけない・・・」
僕の心に啄木の声が響く。
                                                                                                     完                


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