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先生方の作品集

1910年 漱石木曜会の文人に会えた旅

作 桐山健一

  1964年春、大学構内はベトナム反戦集会で騒然としていた。早稲田は、そんな時期に授業料値上げを公表、火に油を注ぎ春から休講になる。
僕は蔦の絡まる図書館で、漱石の作品をむさぼり読んだ。
1909年(明治42年)作品『それから』は、内容がまるで今のことのように新鮮であった。芥川龍之介の批評によると、同年代の主人公、大助の生き方にあこがれていた。当時朝日新聞の校正係をしていた啄木は、1909年『断片』に「我は漱石氏の『それから』を毎日社にいて校正しながら、同じ人の他の作を読んだ時よりも、もっと熱心にあの作に取り扱われてある事項の成行きに注意するような経験を持っていた」と述べている。啄木は『それから』の日本最初の読者だった。1910年漱石は、木曜日を空けて、自宅で多くの青年文学者たちと懇談する日にしていた。誰いうともなく『木曜会』という漱石を交えた文学談義が始まっていた。

 芥川龍之介、小宮豊隆、寺田豊彦、鈴木三重吉、木下杢太郎、それから数度石川啄木等の、漱石の教え子や、彼を慕う青年たちが集まった。
鈴木三重吉等は、漱石背粘性の前で肘を突き酒の杯を傾けながら、まるで自分の家にいるような雰囲気だったという。漱石先生はこれらの青年たちの意見をニコニコしながら聴いていた。彼は時には、これらの意見に厳しい批評を加えて座がシーンとすることもあったという。僕は木曜会に出た彼らの作品を読んだ。ただ一人、木下杢太郎という人物については一度も作品を読んだことがなかった。先日、P・E・N仲間が「杢太郎は『五足の靴』の中で詩を書いている。彼は伊東市出身で木下杢太郎記念館がある」と言った。

 僕はたまたま4月4日自由な時間がとれた。僕は朝外に出ると、先日近くの桜が咲いたというのに、肌寒くイワシ雲が光を遮っている。僕は車窓から海を見る。根府川駅ではいつも青く光る海を見る。今日は霧で霞んでいる。
伊東駅に着くと午後1時30分、観光案内所に立ち寄る。あかりさんという細面の大きな目が輝いている女性が、伊東市の案内をしてくれる。僕は『木下杢太郎記念館』と『東海館』を地図で確かめる。

 『木下杢太郎記念館』は道路から海が見える古い木造の家にあった。
杢太郎(本名・・・大田正雄)は呉服や雑貨を扱う商家「米惣」の7人兄弟の末子として明治18年8月1日誕生した。杢太郎は『我々の通ってきた時代』で「文学、芸術に対する愛はやはり或る遺伝的の素質と境遇とにもとずく。
・・・東京或いは横浜から毎夏帰省する姉たちは薄暮の海岸で英語の歌を歌ってくれた。予のエキゾチズムはこの時育まれた。」と記している。杢太郎は13歳の時に上京し、一高を経て明治44年、東大医学部を卒業した。在学中から彼の文学熱は旺盛で、「明星」に参加し、与謝野寛・晶子、北原白秋、石川啄木らの詩人と交わり詩心を深める。杢太郎と漱石の出会いは、一高で漱石に英語の授業を受けたことから始まる。

 『木下杢太郎記念館』には、漱石から送られた手紙が展示されている。杢太郎が第一の戯曲集『和泉屋染物店』(1912年)に刊行し漱石に送った。漱石は『和泉屋染物店』を送ってくれたお礼とその本に対する批評を書いている。

 杢太郎は明治39年東京大学医学部に入学する。彼は若くから文学に惹かれていた。杢太郎は明治40年(1907)、22歳の時、与謝野寛、北原白秋、平野蔓里、吉井勇らと東京新詩社の雑誌『明星』に集い詩作を発表した。その年の夏、彼らは新詩社の九州旅行に意気揚々と出かけた。彼らは長崎、平戸、島原、天草と南蛮文化を探訪し、阿蘇に登り、柳川で遊ぶ。5人が交代で匿名執筆した紀行文は新聞連載され、日本耽美派文学の出発点となった。この時の紀行文『五足の靴』は、岩波文庫から出版されている。杢太郎はこの紀行文で『平戸』と『有馬城址』を書いている。

⇒ 『平戸

⇒ 『有馬城址

 芸術に多感な青年だった杢太郎は、九州旅行1908(明治41年)年に白秋らと新詩社を脱退し、「パンの会」を興す。
1909(明治42年)年白秋らと『スバル』創刊。杢太郎は絵の才能もあり、彼は一時画家になろうと思ったことがあった。彼の兄、大田圓三は土木技師であった。関東大震災で焼け落ちた橋約150を架設した。圓三は橋の実用と美観重んじていた。彼は弟、正雄(杢太郎)を通じ芥川龍之介、木村荘八ら芸術家たちを集め、「橋の会」を起こしその意見を聞いた。昭和23年まであった、東京都八重洲口付近の外濠を渡る八重州橋は杢太郎がデザインした。

 僕はこれだけ文学や絵に造詣の深い杢太郎が、本職医学の分野でフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与されているのをみて驚いた。杢太郎は当時としてはまれに見る語学の達人で、数ヶ国語を話せる国際人であった。彼の晩年は太平洋戦争だった。彼は1942年(昭和17年)『木下杢太郎選集』刊行、1943年『百花譜』と名付けた植物写生刊行、『日本吉利支丹史鈔』刊行をした。彼は1945年10月15日逝去、敗戦後の日本を顧みることなく世を去った。僕は心に哀愁を帯びて『木下杢太郎記念館』を後にした。

 伊藤で古い歴史を持つ温泉宿、東海館を訪ねた。東海館は下町の面影を残す道路に面して、レトロな建物である。入館して入場料を払うと、川崎紀子さんというガイドが館内を案内してくれる。彼女は知的な女性で、この東海館で生じた歴史年代を、当時の日本の歴史現象と対比しながら分かりやすく解説する。
 東海館は昭和3年に材木商の稲葉安太郎氏によって創業された。当時、伊東は温泉を湯治客に利用されていた。稲葉氏は文化施設を兼ね備えた大衆旅館を作ることで、多くの客を呼べると東海館を建てた。
 東海館は昭和13年の伊東線開通により、湯治客から団体客の変化に合わせて館内を増改築した。川崎さんの案内で入った部屋の天井は桐で、今でも木目が美しい。
 当時、この桐天井だけで家一軒が建つと言われた。欅の階段は今も黒光りしている。三階はかつてのダンスホールである。今は、舞台に変わった跡の部屋が残っている内庭には梛の木がある。
梛の葉は縦に切れないので、夫婦の愛の絆のお守りとして大切にされている。館内の各部屋の特徴は、一つ一つ個性を持っている。当時、評判の棟梁が各階を分担し、望楼は昭和24年に建築された。その頃、周辺は低層建築のため、望楼からの眺望は素晴らしく、天城山がよく見えたといわれている。
 平成9年東海館の長い歴史に幕を閉じ、平成13年伊東の新たな観光名所として生まれ変わった。川崎さんは東海館の案内を終えると「今日は時間があるので伊東大川下流にある、日本初様式帆船建造の地に案内しましょう」と外に出る。
 街中はひっそりして、人に出会わない。大川橋に出ると銀座通りだと指差す商店街はほとんどシャッターが降りている。
なぎさ橋に来ると按針碑がある。三浦按針は本名ウイリアム・アダムズでイギリスの航海士。彼は1600年オランダ船リーフデ号で豊後に漂着した。徳川家康の外交顧問となり、相模国三浦郡に領地を与えられ、三浦按針と名のった。
 川崎さんは階段を降り、川岸のかつての造船所跡で、今は記念プレートがある場所に案内する。アダムズは川の河口を利用して船のドッグを造り、120トンのサン・ヴェナ・ベンツーラ号80トンの船を建造した。
 その頃メキシコからこの近くに来た船が座礁し、祖国へ帰れなくなった人達がいた。彼らにサン・ヴェナ・ベンツーラ号を貸与した。この船は無事メキシコまで航海した。
家康は80トンの船でこの近海の船旅を楽しんだという。
 川崎さんは案内を終えると、「和田寿老人の湯」の温泉銭湯まで案内してくれた。僕は川崎さんに感謝の言葉を述べて別れた。

 夕方の銭湯は混んでいる。多くの人が仕事を終えてそのままここに立ち寄っている。
彼らの話を聴いていると、古き良き僕らの青春時代を思いだす。僕は伊東に子供の頃からいるというYさんに、この近くで美味しいコーヒーを飲ませてくれる喫茶店はないかと尋ねる。彼は「ヤマモトコーヒー」と即答する。
 僕は人通りのない銀座通りに、褐色の木目が目立つレトロな喫茶店に入る。ベートーヴェンの『月光』が流れている。香ばしいコーヒーの香りが漂う。僕は店員のAさんと語り合う。Aさんのお父さんはかつてオーケストラでクラリネット奏者だった。その影響で彼も若い頃ピアノを弾いていた。ショパンの『別れの曲』が流れる。彼はショパンが『別れの曲』を創作した頃のエピソードを語る。
僕は少し冷めたコーヒーを口にすると、名残惜しい名曲喫茶を後にした。


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