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先生方の作品集

「新撰組」と島田魁

山田賢二

―岐阜・大垣―

 京都の祇園祭が近づいてくると「夏が来たなァ・・・」という実感に包まれてくる。
やがて商店のあちこちに祭の提灯がともされ「コンコンチキチン」のお囃子の音に伴われた出鉾巡行が京の町を練り歩く。
祭り見物に出掛けてきた群衆が鉾が動くたびに“どどっと”揺れて、浴衣姿の男女が身体をくっつけ合わせたように流れていくにも夏の微笑ましい風景である。

 さてこの祇園祭で忘れてはならない日がある。それは元治元年六月六日(旧暦)京は三条小橋、河原町東入ル北側に、旅籠を営んでいた池田屋で起きた事件のことである。
この旅籠に長州藩士をはじめ諸国脱藩の浪士たちが総勢三十余名集まった。このことを事前に探知した、近藤勇の率いる新撰組十五名が、宵宮の六月五日戌の刻(午後八時)、間口三間半ばかりの入口の潜り戸をけってどっと斬り込んだ。

 一隊の十五名は土方歳三が指揮し三条縄手の四国屋へ行ったが、ここに居ないと分かると韋駄天のごとく池田屋に殺到した。土方組の中に加わっていて四国屋から池田屋へ疾風のごとく駆けていく、ひときわ上背の目立った大男がいた。暑いのに誠と書かれた浅黄地にだんだら染の袖印のついた羽織を風のごとく翻がえして走りに走る。人々はその殺気立った顔と「どけッ どけッ」と怒鳴る勢いに押されて、右往左往しながら道をあけた。新撰組の中でも怪力で聞こえた島田魁であった。島田魁は記録には大垣脱藩と書かれているが、大垣藩士島田才の養子になる前は近藤姓を名乗り、加納や雄総に住んでいた。

 世に言う池田屋騒動は勤皇派の宮部鼎造(肥後)をはじめ七人即死、手負二十数名、新撰組は深手二人(一人は後に死亡)という始末で、客室を全部あつめても六十畳くらいの、頭のつかえそうな低い天井と、廊下は三尺あるかなしの狭い旅館内に血しぶきが壁をぬらし、肉片は至るところに散らばるという大惨事となった。

 余談になるが私は小学生の頃(昭和十五年)にこの池田屋の後身となった佐々木屋旅館へ泊ったことがある。構造から中の造作は池田屋の当時をそのまま残しているということだった。柱には刀創がざっくりと残り、壁は上塗りがしてあるが削れば血のりがべったりとついた跡があると宿の主人が説明していた。浴室の湯につかっていると相客の大人が「坊や幽霊が出てくるぞ」とおどかされた。

 子母澤寛の小説「新撰組始末記」はきわめて豊富な資料を駆使し、池田屋事件はそれを参考にしたが、島田魁のその後についてはその孫に当る塩津敦子さん(敦賀市在住)や、岸光夫氏(魁の姉の孫に当り岐阜市に在住)から取材するところが多かった。

 島田魁は純粋に徳川家の再興と幕府への忠誠を誓った最後のサムライだった。しかし幕軍に従って鳥羽、伏見で戦った新撰組も敗走に敗走を重ね、近藤勇は捕えられて流山で処刑された。それでも屈せず土方らとともに石巻より艦で函館に上陸、五稜郭にたてこもって押し寄せる政府軍と戦ったが遂に土方歳三は戦死、魁も捕えられて名古屋の徳川慶勝公お預けとなった。隊士の殆んどが処刑されているのに魁が刑を免れたのは土方の温情か慶勝の配慮かそのあたりは謎となっている。明治六年愛知県令でお預けを解かれてからはいったん美濃へ帰り義兄や姉たちの世話になったが、間もなく妻のいる京都へ帰り剣術の道場を開いたが、明治十九年頃から西本願寺の夜警係を勤めるようになり、傍ら念仏三昧、近藤、土方と多くの隊士たちの菩堤を葬うことで余生を送った。元新撰組という名が新政府の評判となり官位や爵位の話があったが全部辞退した生き方こそ、最後のサムライにふさわしかった。


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