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先生方の作品集

黄色の西陽が照らす雨

作 篠原景

  暗闇のなかに、まるで震えのようにひそやかなざわめきが満ちている。そのざわめきのなかから、時折小さな魚(うお)が跳ね上がるようであるのが、男たちの歓声や揶揄の声、男たちをあしらう女の声で、いずれも魚が水に戻るように、満ちわたるざわめきのなかにすぐ紛れてしまう。聞こえてきた方角も、よくわからない。
 ざわめきの主は、茣蓙を片手に路上で春をひさぐ夜鷹たちと、夜鷹を買いに来た男たち、夜鷹と客の行為を見物してやろうとやって来た男たちである。
 (男なんてえのは、みイんな馬鹿だ。嫌になっちまう……)
 〈稲荷鮨〉と書かれた提灯と籠に入れた商売物の傍らに腰をおろし、おはまは溜息をついた。後二年もすれば五十になる体に、神無月の夜寒が染みていた。
 老中水野忠邦の失脚により、江戸中が悲鳴を上げた改革が終わりを告げたのは、昨年のことであった。
 忠邦は、世の中の「堅苦しくないもの」すべてが嫌いで憎かったらしい。あらゆるものが取り締まりの対象となった。芝居、絵草紙、節句飾りに菓子、着物。
 些細なことで、どれだけの人間が罪人として捕えられたか、分かったものではない。
 当然、路上で春をひさぐ女たちなど許されるはずもなく、忠邦の失脚後もしばらくは、江戸の町で夜鷹の姿を見ることはなかった。
 しかし、この手の商売が完全に消え去ってしまうということはないのだろう。ここ最近になって、今、おはまのいる東両国や、釆女ヶ原のあたりに夜鷹が現れ始めた。
 そのことは、たちまち評判となって、夜鷹を買おうという者のみならず、覗き目当ての冷やかし、冷やかしを相手にする食べ物屋までが出る騒ぎとなっている。
 おでんやら燗酒やらに、団子もあれば蕎麦も出ている。おはまが思うに、そこいらにいる物売りはいずれも、夜鷹に群がる馬鹿に群がる大馬鹿なのだが、悲しいかな、おはまもその一人だった。
 無論、好きでこんな寒空の下、しかもこんな馬鹿げた場所で、稲荷鮨なんぞを商っているわけではない。どこで伝手を見つけたのか、「とにかく儲かるんだよ」と商いに必要なもの一揃いを担いできたのは、昼間蕎麦屋で下働きをしている甥の利助だった。
 おはまの暮らす本所相生町に近い松井町で暮らす利助は、おはまの亡くなった姉の一人息子で、小さな頃から軽はずみなところがあり、不安の多い子供であった。その不安はもう十年以上も前になる姉の死後、はっきりとした形となり、利助は今や二十八にもなったと言うのに、一つの仕事が長続きしないでいる。取り得と言ったら、辛うじて他人様を騙したり脅したりするような仕事だけはしていないくらいのもので、もしかしたら、堅気を外れる知恵も度胸もないだけなのかもしれない、とは出来るだけ思わないようにしている。
 だがどういうわけか、そんな利助に女房になろうという女が現れ、もうすぐ子供まで生まれようというのである。
 そしてそれが、おはまがこの寒空の下、夜鷹に群がる男たちに心の内で悪態をついていなければならなくなった理由なのだった。
 もう産み月の女房の体調がよくない。ついていてやりたいから、夜の稲荷鮨の仕事だけ、おばさん代わっておくれ。あれやこれやの掛かりは取り戻したいし、休むにゃ惜しい仕事なんだ。頼む。
 甘ったれを並べ、小さく手を合わせる甥っ子を、おはまは叱り飛ばしても良いはずだった。
 しかし、おはまは五年前に仲が悪くもないが良くもなかった亭主を亡くし、亭主との間に子はない。今は干鰯問屋の楽隠居の家に飯炊き掃除に通って、一人で暮らすのに不自由ない金は得ているが、いつかはたった一人の身内である甥っ子の世話にならねばならない日がやってくる。
 いつかを思う気持ちがおはまを弱くしていた。
「よう、ばあさん。鮨じゃなくて、ばあさんはいくらだい?」
 つい物思いにふけっていたおはまが顔を上げると、看板提灯に照らされて、下卑た笑みを浮かべる若者が二人立っていた。
 元々夜鷹には、岡場所の女郎や地獄稼ぎがもはや出来なくなった容姿の女、すなわち老いを迎えた女や見た目で分かる病持ちなどが多かった。
 このところ戻ってきた夜鷹は、話題になるだけあって若く、見た目も悪くない女が多いが、若者たちはおはまに客を取らないのかとからかっているのだ。
「こんなところで食いもん売っているよりは儲かるぜ」
「おいなりと一緒に、わたしもつまんでおくれってな」
 おはまがそっぽを向くと、若者たちは気持ち良さそうに笑いながら離れていった。
 (男なんてえのは、みイんな馬鹿だ。嫌になっちまう……)
 おはまは胸の内で、先程と同じ言葉を呟いた。
 一見、馬鹿には見えない男もいる。おはまの死んだ亭主や、今、おはまが飯炊きに通っている隠居がそうだった。
 だが、足袋を縫う職人であったおはまの亭主の頭のなかには、足袋を縫うこと一つっきりしかなく、隠居の方は、かつては寝ても覚めても商い一筋だったというし、今は商いを離れた後に始めた下手な謡と骨董のことばかりを考えている。どちらも、飯の最中に汁碗を倒しても、こぼれる中身をぼうっと眺めているだけの男だ。
 着物の袖が取れたから何とかしてくれ、特別な客が来るから、客の好みに合わせた飯を仕度しろと、家の中のことであれば言われたことはいつでも何でもこなせなければならないおはま、いや、女からすれば、浮ついたことばかり考えている男も一つか二つのことしか頭にない男も大差ない。男なんてみイんな同じさ、という気持ちにもなる。そういえば水野忠邦も男だった。
 暗闇を揺らし、また女の嬌声が聞こえる。男たちの笑い声が続く。
 くしゃみをしたおはまが、大きく息を吸い込むと、胸に流れ込む冷たい空気には、妙に強い土のにおいがあった。その土のにおいまでもが不意に煩わしくなり、商売物を一つ口に放り込んだおはまは、酢飯を舌の上で転がした。

 沈むまでまだ間がある陽が、西の空で、黄色く柔らかな光を放っている。しかし頭上の空は低く重く、一雨くるかもしれなかった。
 今日、おはまはいつもより早く、浅草福井町にある隠居の家を出た。隠居に、骨董集めの仲間と語り明かすから、酒と肴の仕度が整ったら早めに帰るようにと言われたのだ。
 通りに出て空を見渡したとき、柔らかな西陽は見た次の瞬間に忘れたが、頭上の雲はいやに不吉なものとして心に留まった。
 今、頬に触れる風は、水仕事を終えた手があたったような、底冷えする冷たさがある。この上、雨に濡れでもしたら大事(おおごと)だ。
 隠居の家へ傘を借りに戻ろうかと思わないでもなかった。だが、おはまの気配を骨董仲間のそれと間違えた隠居が飛び出してきて、おはまに露骨に冷たい目を向けるに違いないのを考えると、自然、足は冬枯れの江戸の町を家へと急いでいた。
 家に帰れば、今日はうんとゆっくり出来るのだ。同じ長屋に住む研ぎ屋の女房おつぎと、女同士、日頃たまったうっぷんを晴らすのもいいだろう。
 稲荷鮨売りの仕事は、利助の女房が無事子供を産んだので、お役御免となっていた。
 生まれた子供は利助の望んでいた男の子で、これで利助も父親らしくしっかりすると思ったのだが、利助は相変わらずで、高輪のあたりに凄い武芸者がいるらしい、おいらも強くなりてえなどと、とんちんかんなことばかり言っている。
 (そうだ、話したいことは山ほどある……)と、おはまは心のなかで呟く。おはまは利助のことや隠居のこと、それから夜の東両国に佃煮にして売るほどいた馬鹿な男たちのことを、おつぎは飲んだくれで家を空けがちな亭主のことなどを、溜息混じりに思いっきり話すのだ。
 より一層気が急いて、足を早めたおはまだったが、ふと、もし今日に限って、飲んだくれの亭主が早く家に帰っていたりして、おつぎに相手をしてもらえなかったときのことを考えた。ひどく淋しいような気持ちになった。おつぎは独り身ではないのだと思った。
 そんな考え事をしている最中、つい足を止めたのは、一体どうしてだったのか、おはま自身も思い出せない。ゆっくりとであるが増してくる淋しさのなかで、聞いたことのない鳥の声を聞いたような気がしたからだったかもしれない。
 足をとめて横を見ると、そこは最近建て替えが始まった家の前で、若い大工が一人、一心不乱に鉋がけをしていた。
 浅黒い顔に、しっかりと横一文字に結んだ唇。額にはこの寒さの中だというのに汗が浮かんでいる。二つの目は、手許からまったく逸れない。
 たくしあげられ露わになった腕は太く、よくひきしまっており、落としぎみの腰の上、上半身が規則的に動くのに合わせ、鉋屑が、しゅるり しゅるり、と舞う。
 大工の周りを立ち昇る汗と木のにおい、鉋がけの動きの影のひそやかな息遣いが、おはまのところまで届くような気さえした。
 仕事に向かう若い男、親子ほども年の離れた若い男の美しさ、ひたむきさに、どういうわけか身がすくみ、喉元を押さえつけられたようになったおはまは、誰かの目にとまらぬように、急いでその場を立ち去った。立ち去ったが、たった今見たばかりの男の姿が、どうしても眼前から消えない。
 鉋を握っていた節くれだった手に、耳の後ろから首にかけてを触れられた気がした。汗のにおいを、ずっと近くで嗅いでいた気がした。
 おはまは自分の手を見た。老いた女の手だ。
 走り出したおはまが、足の向くままに隅田川の川縁まで辿り着いたとき、雷鳴が轟いて雨が降り始めた。たちまち勢いを増す雨だった。
 しかし、激しい雨にたたきつけられながらも、おはまは枯れ草の岸辺から、豪然たる川の流れ、雨を眺めたまま動かなかった。この雨にあの大工が濡れていたら可哀想だと思ったが、同じ雨に濡れているならば、この上ない幸せのような気がした。
 死んだ亭主もあんな目をして足袋を縫っていたかしらと記憶を辿ったが、朧だった。
 (男なんてえのは、みイんな……)
 うねる川面は暗い灰色に沈み込んでいるが、降り注ぐ雨粒は、西の空に残る黄色い陽の光に照らされて、一粒一粒が白く輝いている。対岸の景色も煙ってはいるが、西の空を映して明るい。
 こんなに綺麗な雨を見たのは、いつ以来のことだろう、ひょっとしたら、まだ娘だった頃以来ではないかと、おはまは思いを馳せていた。
 そして同時に頭の片隅で、もしあの大工に一晩相手をしてもらえるなら、あたしは、死んだ亭主とこれまで貯めてきて、箪笥に工夫して隠している金、全部を差し出したっていいのになどということも、淡く考えていた。
 濡れながら、おはまはゆっくりと、目を閉じた。

                    了

参考 永井義男『江戸のフーゾク万華鏡』(日本文芸社 2009年)


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