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先生方の作品集

目蓋が破れる

作:山田篤朗


風凍てる、という感じだな。
言葉が深海から浮き上がってきた。
早朝の寒さは格別だった。会社へ行くため、マンション自宅から外へ出た瞬間、耳が引きちぎれそうな風が襲った。最寄り駅の新百合ヶ丘から列車へと乗り込んだ途端、淳一郎の眼鏡が真白く曇って周りが全く見えなくなった。
だが山崎淳一郎の思いは、すぐさま現実の痛みに打ち消された。電車が大きく揺れ、人の波が淳一郎を襲い倒れそうになったからだ。
まだ眼鏡が曇り何も見えない淳一郎は、必死に体勢を立て直そうとしたが片足だけで立つという不自然な格好になった。
車内のあちらこちらで呻き声と、あからさまな罵声が聞こえた。
次の向ヶ丘遊園駅に到着する寸前、淳一郎の眼鏡の曇りが取れた。
その晴れたなかから生涯忘れることの出来ない女の顔が淳一郎の正面にあった。淳一郎は眼鏡が曇っているあいだに「あのころ」に戻ったかと思わず女から目を逸らした。
駅へ到着し学生がどっと降りた。淳一郎は逃げるように奥へ進もうとしたが、逆に車外へと押し出された。吸い込まれるように再び車内に乗り込むと再び女の前に立った。
 「久しぶりね、淳一郎が乗ってきたの、すぐに気がついたわ。もう眼鏡が曇るわね」
彼女のハスキーな声は変わっていなかった。ますます淳一郎は「あのころ」に戻ったのかと戸惑った。彼女から「久しぶり」といわれ、淳一郎は過去から現在へ引き戻された。淳一郎は激しい眩暈を起こした。
「久しぶりね」
淳一郎は彼女、田岡恵理に何とか言った。恵理は見上げるように淳一郎を見た。淳一郎は女の力強い目の力に一瞬ひるんだ。
「田岡さん、東京に戻ってきていたんだ」
「うん二年前に。淳一郎は今、何してんの」
「輸入文具の会社」
 淳一郎は卒業後、田川商会に入社した。10年前のことである。
田川商会は東京新橋にある、北欧・カナダ・イタリアなどの文房具を扱う貿易会社で、全社員五十名ほどの会社である。淳一郎は輸入文具の開拓や性能を検討する「新規開拓課」の北欧担当の係長補佐だった。
 電車が大きく揺れ二人の間が狭まった。淳一郎の鼻に甘い髪の匂いがした。
 「田岡さんは」
 「広告編集プロダクション、友人と二人ではじめたの」
 「そうなんだ」
 沈黙があった。
 「あたし、下北沢で降りるから。井の頭線の神泉に仕事場があるの。名刺、ある。あとで連絡するから」
 その強気な言い方に、昔と変わらないなと言おうとしたが止めた。
「ああ」
 電車が減速していった。淳一郎は言われるまま、上着の内ポケットから名刺入れを取り出した。その中から一枚抜いて恵理に渡した。それを見て恵理は呟いた。
「係長補佐なのね」
 恵理は名刺を本革の黒いハーフコートのポケットに突っ込むように入れた。そのまま手を出さずに黙った。
しばらくして下北沢駅到着間近のアナウンスが流れた。
淳一郎は少しホッとした。

「山崎係長補佐、山崎さんったら」
突然、頭上から淳一郎は自分の名前を呼ばれ、一気に躰が引き上げられるような思いがした。
 「ああ、高田さんか」
「ああ、じゃありませんよ、どうかしましたか」
日焼けして健康そうな顔が淳一郎を見下ろしていた。
同じ課の高田笑子、昨年入社。素直で仕事を覚えるのが早かった。たしか卒業旅行で去年の年末から正月にかけてグアムに行ったとか言っていたな。こんがり焼けて厭だと言っていた。あとダイエットしなきゃといっていたが、よく昼休みにケーキを食べているし。されに太ってはいないように見える。健康そうだ。明るくて、光が弾けている感じだ。
(光が弾けている、このフレーズは)
「山崎さん、どうしたんですか」
再び、声をかけられ、考えが中断した。淳一郎はあたりを見渡した。淳一郎は社内にある食堂で昼食を取っていた。しかし、さっきまで大勢いた社員がほとんどいない。
 「なに」
 「山崎さん、さっき、全然、会社会社していない顔ですよ。上の人に見られたら大変ですよ」
 笑子は自分の短い髪の後ろを軽く撫でた。先週、笑子は社内でも一、二位を争う腰辺りまでの長い髪をばっさりと切った。社内では失恋の噂が飛び交った。しかし笑子はそれを否定せず逆に「頭の薄い人にあげたのよ」と笑いの種にしている。それを淳一郎が聞いたとき、強い娘と思った。
 「なんだい、それは」
 しかし、それには答えず、
「高橋部長がお呼びですよ」
そういって笑子は立ち去った。
 会社会社していない顔か。淳一郎は苦笑いをした。
 恵理に遭ったせいだろう。


 「あなた方には時間があります。いや時間があるのは、この四年間しかない。ここで読書をするかしないかで、あなた方の未来に差が付くのです。本当ですよ。充実な四年間を心がけて下さい。では、まず、これからの一年間、頑張ってください」
 僕は「充実」という言葉に少し心が熱くなった。
周りを見渡しても石井教授の言葉に感動している者など居ないように見えた。 
 「日本文化論機廚旅峙曾了のベルが鳴った。
一番前に坐っていた僕は教授が、さっさと俯いて教壇を下りていく姿をみて少し失望した。教授は何も「あなた方」には期待していないことが判ったからだ。
 僕は立ち上がると階段教室の一番上の扉まで、階段を昇って行こうとした。
その階段教室の中央で、顔を伏せて眠っている学生がいた。イビキすら聞こえてくる。皆、彼のイビキに笑いながら、しかし起こそうともせずに教室を出ていく。しようもないな、と思いながら、その男に近づき肩を叩いた。すると男は大きく両手を挙げ、のびをした。顎髭、長髪、頬が痩けていた。
彼が周りの学生と雰囲気が違っていた。僕の顔を見ると「おはよう。ありがとう」。それが僕と彼との出会いだった。
「いや、どうも」
 僕は小さい声で言うと、その場から立ち去ろうとした。
 「伊勢昭介。日本文学科一年、よろしく」
 階段教室に響く声だった。
 「ああ、僕も、日本文学科一年、山崎淳一郎です。よろしく、そうだ、これから昼飯だろう。学食で一緒に喰わないか」
 僕は強い調子の昭介の言い方に圧されながら答えた。
 「ええ、いいですよ」
 
 食堂で昭介は「このラーメンまずいな」といいながら、勢い良く自分について喋りだした。
二浪で、この大学に入り現在コンビニで夜中バイト中、その疲れで講義が始まってすぐに寝てしまったのだという。
 「まぁ、最初だから、大したこと言っていないはずだしな」
 「ええ、まぁ」
 「充実な四年間」に感動した自分の胸の内は、この男の前ではいえない。何かばかにされるのではないかと思った。
 近くに住んでいると昭介は言い、僕は住所を書いた紙を渡された。
 「それにしても、いい女が居ない」
 昭介は辺りを見渡しながら言った。僕は苦笑いで返事をした。

 一週間経ったが、同じ日本文学科であるはずなのに、どの講義でも昭介と会うことはなかった。
少し気になり昭介がバイトしていると言っていたコンビニを覗いてみた。大学の近くだが、通り道ではない。しかしコンビニには昭介の姿はなかった。 
 ついでだ。
 昭介の住む下宿へ向かった。新築のアパートだった。
僕が住んでいるアパートよりも綺麗だということに少しだけ羨ましく思った。メモ書きには「203」とある。二階へ上がっていた。
扉に「伊勢昭介」と太字のマジックの殴り書きで書かれた紙がガムテープで貼り付けてある。しかしノックに応答はなかった。誰もいないようだった。


 笑子が淳一郎を意識するようになったのは先週月曜日の夜だった。来週の金曜日のための資料作りにくたびれて、立って帰るのが厭で、小田急線の各駅停車に乗って帰宅しようとしたときだった。自分のすぐ前の席に座る男が、山崎係長補佐だったのだ。
だが笑子は声を掛けられなかった。会社では穏やかな淳一郎の顔が世界の総てを拒絶しているような顔つきだったからだ。笑子は人の顔が、これほどまでに変わったのを見たことがなかった。
 これが本当の顔なのかしら。
そうだとしたら、どんな人生を送ると、あんな顔になるのだろう。
 さらに淳一郎が同じ駅で降りたのに、少し愕きながら家に戻った。
翌日、笑子は会社で淳一郎の顔を見たが、いつもの穏やかな顔つきと変わっていなかった。しかし淳一郎の「あの顔」を見たせいなのか、数日にわたって淳一郎のことを先輩社員にそれとなく聞き込んだ。
すると淳一郎の周りには見えない壁があって、啓進大学出身で10歳違いというぐらいで、淳一郎の過去や私生活について、誰も何も知らないことが判った。会社のなかでの評判は「仕事は出来るが、付き合いが極めて極めて悪い、会社の派閥から、すべて距離を置いている、それで出世しないのだ」。
仕事の手順の教え方は上手い。何の無駄もなく丁寧に教えている。笑子も入社して、その教え方に感心した覚えがある。
派閥のことなど判らないし興味がないが、少なくとも、総務の吉田課長補佐みたいに部署を越えて後輩社員を集めて飲み会を開くことはしないし、飲み会も一次会で帰ってしまうし、昼時もだいたい一人で食事をしていることが多い。
 あのぞっとした顔は、何だかブラックホールを思わせるような空虚そのものの顔だった、と笑子は思った。そして昼間の「会社会社していない顔」。何があったのだろう。
この数日、笑子は淳一郎のことばかり考えていた。隣席の羽村美弥子から「どうしたの」と問われて、それに気がついた。

 金曜日、笑子が新百合ヶ丘駅を降りたのは夜八時を回っていた。
今日はフィンランドの文房具会社が制作している数種類のデザイン・性能・安全性・マーケティングなどを検討する会議があった。ここで日本で発売するかどうかを決定する。このチームのマーケティングのサブ・リーダーに笑子は抜擢されていた。初めての大役だった。今までの残業での資料作りは、この日のためだった。
二時間の検討会議中「何かミスをしてはならない」と緊張で頭がふらふらした。笑子は疲労困憊、軽く社内の食堂で、打ち上げ会をしたあと、居酒屋で二次会だと騒いでいるチームメンバーに断って帰ってきた。
 外は木枯らしが吹き荒れていた。
寒い、疲れた。甘いもの、買おう。明日は一日中、寝てよう。
 家の近くにあるコンビニの中へ入った。
そこに係長補佐が立って、缶コーヒーや菓子パンを選んでいるのを発見した。顔は穏やかである。淳一郎もすぐに、笑子を見つけた。
 「やあ、高田さん、この辺にすんでいるんだ」
 「はい」
 「知らなかったな。今日は大変、御苦労さまでしたね。なかなか資料配付やモニター操作など段取りよかったよ」
 「有り難うございます」
 柔らかな口調で淳一郎が言った。
 「主役なのに、二次会は」
 「いや、主役は、リーダーの岡部さんですから。初めてなので、くたびれました。山崎さんは」
 笑子は知っていて訊いた。
 「どうも昔から飲み会とかは苦手でね。それにしても」
 「山崎さん、甘党なんですね」
 「ああ、酒は。今は、全然、飲まないから」
淳一郎が言いかけると、笑子は思わず誘った。
 「コンビニで立ち話もなんですから、喫茶店に行きませんか」
係長補佐は少し驚いた顔をした。
 「ああ、いいよ」

 駅前にある「ノベル」という名前の喫茶店に笑子は淳一郎と入った。笑子がいつも気になっていた店だった。店内は清潔な白が基調だった。笑子はココアとモンブランを、淳一郎はコーヒーを頼んだ。
しかし淳一郎の前に坐ったのはいいが、笑子は何も話題がなかった。今日の検討会議や、会社の友人たちについての当たり障りのない話をした。目の前の男は頷いているだけだった。淳一郎は今回のフィンランドの文房具会社に出張で行った話をしたが、しかし観光など全然出来なかったという話で終わってしまった。笑子は立ち話だけで終わらせれば良かったと後悔した。すぐ長い沈黙が続いた。
笑子は少しぬるくなったココアに手を取った。
 「日焼けも健康的で、それと髪を切った方が」
 突然の係長補佐の言葉は、思いがけないものだった。
 「光が弾けている感じですよ」


 昭介を大学の正門で見かけたのは、一週間後だった。
昭介の傍らに気が強そうな、目鼻立ちがくっきりした女がいた。肩まである髪の毛の黒さが印象的だった。
僕の姿を見つけると、昭介は女をおどけながら僕に紹介した。
 「天才詩人の田岡恵理さま。今年の三月、なんとかっていう凄い賞を取ったんだって」
 女は恥ずかしそうに笑った。その賞の名前は知っていた。
それどころか、僕も応募していたのだ。しかし僕は最終選考で落ちていた。「田岡恵理」の名前も知っていた。敵わない感性のあると思った詩が掲載されていた。
 「淳一郎は詩とかなんか書いているだろう」
 昭介が訊いた。
 「俺、知ってるよ。お前の名前言ったら、恵理が山崎淳一郎って知っているっていうから、おっと思ったんだよ。詩の雑誌を見せてね、褒めてた。えっと、目蓋が破れる、暗く輝かしい未来は眩しく、凝視できない。なかなかだね」
 田岡恵理が自分を知っていて、さらに昭介が自分の詩の一節を覚えているのに感激した。
「ああ」
「いやはや凄いね。ここに未来を背負う詩人二人対面せりだね」
昭介は、暫くはしゃいだが、すぐに真顔になって、
「淳一郎、俺ら三人で同人誌、作らないか」
 僕は何も問題はなかった。大学に文芸同好会のようなものがあれば入ろうと思っていたが、残念ながら「文学」は無かったのだ。

「昭介は小説を書いているの」

 僕は恵理が「昭介」と呼んだことで、二人の関係を察知した。
 「山崎さん、もう一人、俳句を作っている子がいるの、幾つもの俳句で賞を取っている子よ、史学科で、日本史専攻。彼女も誘っているの。今度、四人で会いましょう」
 僕は心のなかに熱い塊を感じた。

 数日後、大学近くの古ぼけた喫茶店で、僕は昭介と恵理、そしてもう一人葛西真佐子という女性の三人と会う約束をした。
 何か緊張してしまい、三十分も早く着いた。
ひとり先客がいた。
腰まである髪の女性だった。色白で、少し幼さが残っている。
僕の顔を見ると、
 「山崎淳一郎さんですか。私、史学科一年の葛西真佐子といいます」
 はっきりした口調だった。僕には真佐子が眩しく見えた。
恵理が世紀末の感じを醸し出しているのに比べると、暗さはない。
僕は俳句について全く知らなかったので、どうやって話を切り出せばいいのか判らなかった。沈黙が続いた。
 そこへ昭介と恵理が現れた。
真佐子が大きな溜息をついたため、僕は思わず笑った。真佐子が明るく微笑んだ。
 同人誌計画の主導権は昭介が握った。
この二日かけて書いたのだという、「同人誌計画」と大きい題字のノートを見ながら昭介は説明を始めた。昭介は案外、計画的な人間らしい。
話し合いの結果、印刷は恵理の知り合いの紹介で印刷費は四万円前後出抑えられるとのこと。昭介は短編を、恵理と僕は詩五編、真佐子は俳句を三十句出すことになった。さらに四人全員がテーマ自由の短いエッセイ。編集後記は置かない。
目標は十一月の学園祭までに「創刊号」を出す。三百部で六百円程度。学園祭ではアニメ同好会・児童文学研究会・現代歴史研究会に各二十部置いて貰う。それは恵理が既に交渉していた。
 「ということは、逆算すると、九月半ば締め切りね」
 恵理が纏めるように言った。
ただ肝心の同人誌の題が、なかなか決まらなかった。昭介がふざけた題名を出すたびに恵理が却下した。それが僕には夫婦漫才のようで愉しかった。
 「俳句の季語に、青葉闇、というのがあるの、どうかしら」
 「アオバヤミ、それにしよ」
 真佐子の呟きに近い問いかけに、昭介が間髪入れず叫んだ。
ただ「青葉闇」は、俳句の雑誌のようなので、ローマ字にした。
それから四人は大学の講義へ出席したあと、大学近くの居酒屋で乾杯した。相当強そうと思っていた恵理が全く飲めずウーロン茶、真佐子が強くて焼酎ということが判り、僕は意外な感じだった。ただ真佐子の長い髪が表情を隠して読み取れないことがあって、言葉を選んだ。

毎日のように四人は集まった。
最初は文学同人誌などの話をしていたが、次第に四人は実家のことや人生について話すようになった。
真佐子と恵理の関係は、俳句と詩の関係と同じで、棲み分けているように思えた。お互い、核心には触れず、少し距離を置いて慎重に対応している感じだった。
僕は一つだけ四人に「あじさい」と題した新作の一行詩を見せた。
「それは 蒼空の 盗びと」
真佐子は「ぞくっとする詩ね」と褒めてくれた。
恵理は「あじさいは確かに泥棒よ」と言ってくれた。
それが二人の感性の違いなのだろうと思った。
飲み屋や大学で何枚もの写真を撮った。四人の後ろに何か影が映っていて皆で悲鳴を挙げたこともあった。
 僕は大学生活、このまま続いて欲しいことを願った。ビアスのアウル・クリークではないことを祈った。
 また真佐子の高校生の妹、英子も加わった。妹も高校で文芸部に入り、小説を書いているという。編集を手伝ってくれるとのことだった。ただ二回で来なくなった。あとで真佐子から聞くと昭介が生理的に嫌いとのことだった。
 五月の連休を終え、大学へ行くと、真佐子の髪型がショートヘアになっていた。雰囲気がまるで変わった。
 「似合うね」
 僕は本当に褒めたのだ。隠れていた顔の表情が顕れて、明るさを感じた。真佐子は何も言わずに微笑んだ。
 
梅雨時になって一つの事件が起きた。
昭介が恵理の処へ転がり込んで同棲を始めたのだ。
僕は引っ越しの手伝いをした。真佐子は用事があるということで来なかった。
翌日、大学の食堂で、真佐子と会ったとき、二人に遠慮しましょうと言った。それから自然に真佐子と、大学近くの喫茶店などで話をする機会が増えた。僕は単純に嬉しかった。いつも僕はコーヒーを、真佐子はロシアン・ティーを頼んだ。
しかし見せて貰った彼女の俳句に深い闇を感じていた。
 「新しき 暗さを知る 冬木立」。
 「四月馬鹿 生きる意味を 喪える」。
 「わが涙 その意味知るは 夜の蝉」。
 「蝉の穴の 深さ暗さに 囚わるる」。
 「青葉闇 闇の深さを 掴み取る」。
 「魂を 埋葬しにいく 春近し」
その句を作っている女性が、目の前にいる真佐子と結びつかなかった。
 僕は幾つかの詩を見せた。
 「この表現、いいわ」と褒めてくれた。しかし、自分が迷った語句に対して「もう少し、この表現変えたら」「この言い方は、安易よ」と見抜いた。僕は自分を理解してくれる者が身近にいて、そして真佐子がますます好きになった。僕は季語の勉強を始めた。
昼休み、大学の食堂でカレーライスを食べ終わった僕は、歳時記を読んでいた。すると、いつのまにか、真佐子が前に立っていた。 「詩人さんは、季語をどう思っているのかしら」
「山笑う、っていう表現は、いいね」
「その五文字に対して、詩人さんは、どう対抗できるかしら」
僕は、何も答えられなかった。
真佐子が「詩人さん」と呼ぶときには微かな皮肉と軽蔑が混じっていた。先日、最近話題の若手詩人に対して、ぽつりと言った。
「ちゃんとした日本語を、詩人さんは、使って欲しいわ」
 それを聞いて、僕は「詩人」に対して、何か恨みでもあるのかと思った。恵理の顔が浮かんだが、それは違うだろうと思い直した。ただ、真佐子に批判精神が隠されていること少し驚いた。恵理や昭介は、このことを知らないだろうと思い、僕は彼らよりも真佐子を知っていることに満足を感じていた。
 
夏休み直前の昼過ぎに、真佐子から電話がかかってきた。
 「恵理さんから連絡があって、みんなで、明後日、ドライブしようって」
 「いいですね、アルバイトは休みですし」
 「よかった、休みで」
真佐子が珍しく喜びの声を挙げた。嬉しかった。
僕は既に新刊書店のアルバイトをはじめていた。新刊が少し割引されるからである。昭介からも頼まれていた。『谷崎潤一郎全集』。
「好きなんですか」
僕の「淳一郎」は、父が谷崎が好きだから、それに拠ったのだと母が話してくれたことがある。
「小説の勉強と、卒論の準備だよ」
至極まともな返事が返ってきた。
「準備、早いですね」
「いや、卒論は、いいのが書きたいからね。後世に残る作品を書きたい」
僕は昭介がいい加減でお調子者と思っていたので少し見直した。恵理との同棲が、良い方向に行っているように思えた。
「でもあんまり天気が良くないらしいですよ」
「雨天決行、雷雨も決行、だって」
「昭介さんらしいですね」
待ち合わせ時間などを決めると、僕は真佐子に訊いた。
 「真佐子さんは、実家へは」
 「実家へは帰らないわ。先輩から歴史の資料館の仕事を紹介されたの、週3日ぐらい」
「どんなことをするんですか」
 「江戸時代の文書を整理するの、二つの仕事があって、資料保存のために資料を中性紙の袋に入れることと、あとカード取って目録つくるの、どっちをやらせて貰うのか判らないんだけれど、本物に触りたいわ、あと古い文字が読めれば、もっといいんだけど」
 「面白そうですね」
 「私も、初めてだから、愉しみ」
 少し沈黙があった。
 「ねえ、これから歴史演習のレポート書くために博物館へ行くんだけれど、一緒に、どう」
 願ってもないことだった。
 「はい、大丈夫です、いきます」
 電話を切ったあと、僕は一人で「万歳」と右手を挙げて昭介のマネをした。

 郊外にある博物館の展示は、明治以前の漆器だった。あまり興味がなかった。
 しかし熱心に解説図録を読みながら展示の漆器を見ている真佐子に、僕は心が熱くなった。僕は彼女のあとに付いていった。さっさと視てしまうことは、興味がないことを示すだけで、それは嫌われる。しかし江戸の中期に作られた萩の図柄の蒔絵の漆器に、僕は心を奪われた。
こういう工芸品を創るというのも面白いな。僕は高校時代、美術部に入っていた。現代絵画に惹かれていた。言葉で表現するよりも、絵画などで表現したい思いがあった。言葉よりも絵画の方が、心に直接響くのではないかと思っていたのだ。だが高校3年の時に、ボードレールの『悪の華』を読んでから、言葉の美しさに刺激を受けて、詩を書き始めたのだ。しかし、このことは昭介、真佐子、恵理に話したことがない。特に、恵理は読書家で、僕の知らない詩人や小説家を列挙して、僕を圧倒し、何も僕は言えなくなってしまう。

博物館の外へ出ると日が暮れていた。アブラゼミが鳴いている。
 「今年初めての蝉ね、今年は暑いせいか早いわね」
 真佐子が呟いた。真佐子は僕に背中を向けて樹木を眺めていた。
俳句でも浮かんでいるのだろうか。
夕暮れが迫っていた。真佐子が振り向いた。思い詰めた顔だった。
 「淳一郎さん、私、あなたのことが好きよ」
 突然の告白に僕は驚いた。
振り返った真佐子の頬に涙が伝っていた。


「光が弾けている」という言葉に、笑子は何故か動揺した。
「髪を切ったのは、社内で言われているような、失恋でも何でもないんです、仕事で邪魔になってきちゃって。忙しいと髪洗うのが面倒でしょ、束ねるのも時間が掛かるし」
「最近、仕事が楽しくなってきているんだ」
「そうなんです、ようやく、仕事が楽しくなってきました、ようやく、最近、意外と数字に強いことに気がついて、はい」
「ようやく、か、」
課長補佐は苦笑いをした。
「はい、全然、話が違うんですが、山崎さんは、どうして、ここを選んだんですか」
「今もそうだけど、就職の氷河期って言われていた時期だから、どこでも入れば良かったんだ、幾つも受けたが、ようやく、何とか引っかかった」
「そうなんですか。よかった、私も、七社目でした」
「七社か、私は、もっと、落ちたよ」
「へぇ、ですね。意外です」
「そうかな」
「だって、総務の吉田さんは、幾つも受かったが、って、威張っているし」
「彼は私と違って、頭がいい」
「吉田さんは、要領がいいだけですよ」
「高田さん、意外と、辛口なんだね」
「吉田さんに言わないでくださいよ」
「大丈夫だよ、言わないよ」
「前から聞こうと思っていたんですが、山崎さんは、大学時代、何をしていたんですか」
「大学時代、僕は怪我をして、5年いた」
笑子は淳一郎が質問の意味を取り違えたと思った。
「え、大怪我したんですか」
「ああ、車の事故でね」
淳一郎が黙った。笑子は、何か山崎淳一郎のなかの地雷を踏んだと思い、しまったと感じた。
山崎さんの顔が、また見たこともない顔つきになっていたからだ。何か固い仮面が壊れ、なかから柔らかい、別の顔があらわれてきている。淳一郎の両目から涙が流れ出していた。
沈黙が続いた。私の顔を見ていない。何も見ていない。
何があったの。何が起きたの。
笑子は呆然と淳一郎の涙を見ていた。
 
 翌朝は小雨だった。四人は大学前で待ち合わせをしていた。昭介が遅れてきた。
「時間よ、早く」
言ったのは、恵理ではなく真佐子だった。珍しいこともあると僕は思った。車はレンタカーで白のボックスカー、恵理が運転、昭介が助手席。昭介の後ろに真佐子。その隣に僕。本当は昭介の運転だったのだが、深夜のバイトであまり寝ていないので、免許取得三ヶ月の恵理が運転することになった。行先は横須賀。昭介が迷彩服を買いたいと言いだし、この計画が成立したのである。昭介はCDを持ってきた。「サザンオールスターズ」のベスト盤だった。
「淳一郎、詩のほう、どう」
 車が動き出して、すぐに昭介が訊いた。
 「なかなか、詩、五編は、難しいですね」
 いつのまにか、昭介に敬語を使っていた。二浪で歳が二つ上と言うこともあるが、恵理との同棲が、何か「大人」を感じさせていた。 同棲する以前よりも、昭介の態度や雰囲気も少し変わった感じがした。ただ時折、妙にはしゃいで「子供」を感じさせた。
 「詩のストックは、無いの」
 「無いんですよ」
 実際は、だいぶ書き貯めている。しかし初めての同人誌で「創刊号」であり気負いがあった。それに他の三人、特に真佐子に感心されたい作品を書きたいという重圧があった。
 真佐子が「あじさい」の詩は載せるべきよと言った。
「昭介さんは」
 「俺は私小説を書いている」
 「どんなことが主題なんですか」
 「それは内緒、読んでからのお楽しみだよ」
 「どのぐらい書き上げているんですか」
 「もう、ほとんど出来ている」
 「早いですね」
 同人誌の計画の時もそうだが、卒論の件もそうだが、昭介が実は相当しっかりしているのに驚いた。
 「いや、昭介はパソコンが出来ないから、英子さんに土下座して、大枚払って入力して貰ってるのよ」
 恵理が笑いながら言った。
 「おい、ばらすなよ」
 「恵理さんは読んだんですか」
 「それが英子さんに、随分な口止め料払ってて、英子さんが読ませてくれないのよ」
 三人の会話のあいだ、真佐子は会話に加わらず俯いて、いつも持ち歩いている小さなノートに、俳句を書き付けていた。
  
「えー、もうすぐ鶴見大橋です。そして生麦事件のあったところを通ります」
 恵理が珍しく明るく言った。真佐子が顔を上げた。僕と目が合うと微笑んだ。真佐子は僕の手の上に自分の手を重ねた。
 「生麦、生米、生卵」
 昭介がたどたどしく早口言葉を言った。その言い方が何か可笑しく三人ともに笑った。
 真佐子は僕の手の甲を撫ではじめた。小さな幸福に包まれた。
しかし鶴見川を渡ったとき、突然、車が完全に横を向きながら滑り出した。
 恵理の悲鳴。その声を聴いた直後、僕の躰に強い衝撃を受けた。真佐子の姿を確認しようとしたとき、意識を失った。


博物館の前で、僕は真佐子の告白と涙に戸惑った。真佐子は駆け寄ると、僕に抱きついてきた。真佐子は僕の唇に自分の唇を強く押しつけた。生暖かい唇と歯がぶつかった。
僕のアパートに黙って真佐子はついてきた。そして部屋に入ると無言のまま僕らはキスを重ねた。真佐子は黙って服を脱いでいった。僕も服を脱いだ。僕は抱き寄せ、柔らかな乳房を愛撫した。左の乳房の下に黒いほくろが双子のように二つあった。真佐子はベッドに横たわった。その肢体は眩しかった。僕は躰を重ねた。真佐子の身体の奥が火照っていた。

僕たちは昼過ぎまで同じベッドの中で寝ていた。眼が覚めると、真佐子の寝顔があった。穏やかな、幸福に包まれているように見えた。僕は思わず彼女の頬に触れた。そして僕は彼女を抱き寄せた。

「こういう句を作ったの」
僕は真佐子からノートを渡された。
「この俳句も、今度の同人誌に載せようと思うの」
優しい感じがしている彼女の雰囲気とは違い、彼女の字は、鋭く尖ったような文字だった。
一方、気が強いと思っていた恵理の文字は、小さく自信がなさそうだった。見た感じと文字の違いに、僕は一人秘かにおもしろがっていた。
「五月晴 闇を埋葬しに行く」
「懐かれて 光を転がす こころかな」
きぬぎぬの 君と別れて ひかり弾ける」
僕は、その明るさに何か救いを感じた。僕は嬉しく感じた。
「私の句って、暗いって、評判だから、こういうのもあっていいかなって」
「光弾ける、って、いいな。新境地かな」
「そうなるといいわ」
真佐子は独りごちた。

その日、僕たちは戯れた。愛し合った。終わったあと、真佐子は僕の手を愛撫していた。真佐子は僕の手が好きだと言った。手のフェチなのかもと笑った。
「明日、行きたくないな、このまま、一緒にいたい」
「私も、一緒に過ごしたい」
 しかし午後八時頃、真佐子には恵理から、僕には昭介から携帯メールに「あした、よろしく」と送ってきた。
 「断れないね」
「うん」
 僕は恵理と昭介を恨んだ。それを言うと、真佐子は、「そう言うこといっちゃ駄目よ」とたしなめられた。

10
雨が降り続いていた。顔に冷たい雨が当たっている。僕は自分の躰が道に抛り出されていることに気がついた。
躰は全く動かない。目が開かない。ガソリンの匂いが強く鼻の奥に突き刺さった。音は何も聞こえない。
 「真佐子さん」
 僕は思わず叫んだ。しかし返答がない。
 「真佐子さん」
 僕は彼女の名前を連呼した。真佐子は死んだのだという直感が働いた。ところが、そのときだった。はっきりした口調だった。
「淳一郎さん、大丈夫よ、私は」
 それは確かに真佐子の声だった。そして僕は再び意識を失った。

 僕は三日ほど意識を失っていたらしい。両親が目覚めた僕の顔を見て泣いていた。両足を骨折、むちうちで、首を動かすことが出来なかった。僕はいつも天井を見ていた。医師は「生きていたのが奇蹟だ」といった。その言葉を聞いて、僕は三人が死んだと確信した。しかし僕には何かすべてが現実離れしていた。
 
 彼らと知り合ってから、たった三ヶ月足らずだった。
何という時間だ。
この時間の短さと濃さは、光が弾けていた。
もしも、この事故がなければ、どうだったのだろう。
光はだんだん薄れていっただろう。
それとも、起こるべくして起きたのだろうか。
しかし、行かないという選択をして、真佐子といたあの時間を延長していれば、昭介と恵理のメールを断っていれば、生きていた。
それとも、人生は道が決められているのか。
僕のなかで、人生の選択に対する悔恨と、昭介と真佐子を喪ったという悲劇が、ざらついたやすりのように、少しずつ、しかし確実に、僕の生きる力を削り取っていった。

三ヶ月後の真夜中、真佐子が僕の病室を訪れた。真佐子は枕元に立った。
 「怪我、なかったの」
 僕は訊いた。彼女は微笑んで答えなかった。
僕は夢か幽霊と思った。
真佐子は僕の手を取って握った。
あの柔らかな暖かい手。
真佐子は顔を近づけ、僕の唇に自分の唇を合わせた。
僕は真佐子の頬に手を遣った。涙で濡れていた。僕は真佐子を抱き寄せた。
 真佐子は「生きようね」といった。

 「三人は、どうしたんですか」
 十月、リハビリから戻ってきた僕は、ちょうど部屋の前を通りかかった担当医師に尋ねた。ようやく聞く覚悟が出来た。
医師は無言で部屋に入るよう促した。ベッドの縁に坐った僕の目を見ながら言った。
 「伊勢昭介君と、葛西真佐子さんは、ここへ運ばれたときには即死状態でした」
 「即死ですか、苦しまなかったんですね」
 僕は呻いた。医師は黙って頷いた。
 あの夜の真佐子は幽霊だったのか。
しかし現実の手、現実の頬、まだ僕の手には感触が残っている。
 「田岡恵理さんは、先週の月曜日に、地元へ戻り、引き続き治療しています」
 「恵理さんは、助かったんですね」
 「はい、あなたと同じように、車から投げ出されて、両脚を複雑骨折しましたが」
 「そうですか」
 「田岡さんから伝言がありました。二人の分まで生きよう、と。私も、それを望んでいます」
 「判りました」
 僕は医師が出ていった部屋の静けさに耐えられなかった。
 「何故、生き残ったのか、俺は」
 僕は手にしていた松葉杖を窓に向かって投げつけた。
しかし筋力の衰えている僕の力では、杖は床に転がるだけだった。それでも、その音に気がついた看護士が駆けつけた。
  

11
 どうして声を掛けてしまったのかしら。
背を向けていれば、彼の顔を見ることも声を聴くこともなかったのに。何故、過去の扉を自分から開こうとしたの。閉ざされた過去の扉は開けてはならないのに。過去は私には必要ない。
「どうしたの、足が痛むの」
 突然、恵理は川原美波に声を掛けられ我に返った。
 「大丈夫よ。たまには私も考えごとするのよ」
 恵理は美波に答えた。美波は恵理の仕事上のパートナーである。
あの時の事故で、少し不自由になった左足が、時々血行障害になり痺れて動かなくなるのだ。マッサージをすれば直る。美波の前で一度動けなくなり立ち上がれず心配させたことがあった。
「木枯らし吹いて」
美波は何度も同じフレーズを繰り返した。
 「今夜、寒いから飲まない。おでんが、今夜はいいわね」
 「ごめん、美波、私、今日、疲れているみたいだから」
 「いいのよ。無理しなくても」
 「ごめん、今度ね」
 恵理は美波に拝むように手を合わせた。

 恵理は小田急線町田駅を降りた。かすかに足を引きずっている。
更にバスで十分ほどに恵理の住むマンションがある。 
途中で恵理はバスから降りてすぐにあるコンビニでパスタを買った。少しでも歩くためだった。
「ただいま」
 恵理が玄関で声を掛けた。しかし誰も返事はない。声を掛けるのは、伊勢昭介の幽霊が、ここにいてくれているのではないかと思っているからだ。朝は「行ってきます」と言っている。もう習慣になっている。部屋は冷え切っていた。
家のあかりと暖房をつけると、すぐにケトルに水を入れて点火した。コンビニのパスタをレンジで更に熱くする。
 恵理のワンルームの両壁には棚が据えてあり、広告関係の本や雑誌で溢れている。部屋の中央に置かれた大きな机の上や床には、仕事関係の資料が散乱している。
何も「生活」を感じさせるモノはなかった。
ただ窓側にベッドがあり、くしゃくしゃになった布団がある。これが唯一つの生活者の痕跡だった。
部屋の隅に小さなテーブルが置かれている。そこに同じ大きさの二つの写真楯があり、一つの写真には、髭面の男が微笑んでいる。
もう一つは男女二人づつの姿が写し出されている。
そのうちの一人に今朝遭った。
「今朝、山崎淳一郎に遭ったわよ、私を視て、びっくりしてた。幽霊視たって感じ。元気そうだった。輸入文房具の会社に勤めているって。未だ詩を書いているのか、聞くの忘れちゃったけど。でも、もう連絡しないけど」
ポケットから「山崎淳一郎」の名刺を写真楯の前に置いた。
もう一つの写真は、この写真を見るのは久しぶりだった。
この一月ぐらい見ていないかも知れない。恵理は写真の昭介に「久しぶり」と呟いた。
 あの事故で私はあなたの「死」を見た。潰れた顔、血の海。妙に折れ曲がった両足。目を瞑ると、私はあの時のあなたの壊れた姿が浮かぶ。しかし一月前の夜、私は、あなたを見なかった。
二ヶ月前に仕事で一緒になったイラストレーターの金沢俊一に誘われた夜からだ。俊一には、出会った翌日、大学時代に起きた事故の話をしている。伊勢啓介の話もした。全てを話した。
どうして、この人に話しちゃったのだろう。
私は俊一に抱かれたあと、あなたの幻影に魘されなかった。
私は次の朝の光を恩寵のように受け取った。私は、ようやく解放されたのだと実感した。それから俊一と毎日会っているが、一度もあなたはいなかった。
事故がなかったら、あなたが生きていたら、私たちは、どういう人生を送っていただろう。生きていたとしても、あなたは小説を書いていなかっただろう。そんなに上手くなかったね。でも、私は別れなかっただろう。いまでも一緒に暮らしていたに違いない。
恵理は転院が決まった夜のことを思い出した。
 真夜中、私は淳一郎の病室に行った。別れを告げるつもりだった。
 淳一郎は「真佐子、真佐子」と何度も魘されていた。辛かった。
私も何度、あなたの名前を叫んだことか。そのたびに看護士が来て、私に鎮静剤を打ち、私を混迷の闇へと連れていった。その世界は住み良かった。そのまま居たかった。何故なら正気に返ると、私は総てを思い出してしまうからだった。
 私は淳一郎の停まらない小さな叫びを、私の唇で塞いだ。淳一郎は私を抱き寄せた。私は淳一郎が、あなたの代わりになるかも知れないと一瞬思った。淳一郎の「真佐子」という言葉に私は、ここへいては駄目と思った。二人で傷を舐めあうだけの関係は、愛ではないはずだ。
 ケトルの笛の音が恵理を現実に戻した。

恵理は食事を終えると、俊一へメールを打っていた。

「いま食事終了。相変わらずのコンビニ料理。今日は寒い。厭」
そこまで打ったところで、俊一から電話がかかってきた。
「いま、メールしようとしていたのよ」
「ああそうか、声の方がいいよ、今日は、寒いね、厭になる」
「ええ」

 恵理はメールの内容と同じなので、くすっと笑った。
 「恵理さん、来週の日曜日、何か用事ある」
 「来週。ちょっと、待って、ないはずよ」
 「あの、ね、俺の実家に行きませんか、親にあって欲しいんだ」
 「え」
 「電話でいう事じゃないかも知れないけど。今週は月末で、編集の仕事で、なかなか、会う時間がとれないんだ。ただ」
 恵理は遮るように言った。
 「行きましょう」
 「あ、ありがとう、嬉しいな」
 「俊一さんの地元、群馬だったわね。もう紅葉は終わった」
 「もう無いとおもうよ」
 「白根山に池があって、ブルーが綺麗だって」
「そう、いいよ、いいよ、いきましょう」
「温泉にも行きたい」
 「どこでも、いきますよ」

12
 恵理が退院したと知って、僕は会いたかったなと思った。もう会うことはないだろうと思ったからだ。
 翌日の午後、僕を真佐子の妹、英子が尋ねてきた。
 「お姉さんが死んで、僕が生き残って」
 僕は真佐子に似た英子を正視できなかった。
 「姉の死は、残念でした」
 声が凍えていた。
 「恵理さん、退院したそうですね」
 「ああ。僕は会えなかったけど」
 「恵理さんに見せたかったのがあるんです。これ、見て下さい」
 そう言ってショルダーバッグからB4の紙を取り出した。
 「伊勢さんが書いた小説です」
 それは僕たちの同人誌「青葉闇」に掲載されるはずの作品だった。「これだけ」
 「はい」
「全部書いていたって聞いていたけど」
「事故が起きる前日に、来週渡すからって、言われました、だから」
 題名は「きぬぎぬのわかれ ―ゆめのあとさき―」とあった。僕は読み始めた。

高野亜沙子が帰ったあと河合洋介はヴェランダから明けていく真夏の空を眺めていた。暗闇から徐々に藍色になり朱が入っていく。
洋介の耳元で先ほどの亜沙子のかすれた声が甦った。
洋介、百人一首って、知ってる。昔の歌を集めたやつだろう。
洋介は文学に関心がなかった。亜沙子は洋介を少し嗤った。
仕事バカは、困るわね。もう少し藝術とかね、知っておいてよ。
文学は知らなくても大丈夫だろう。そりゃそうだけど。でも知らないよりはいいわ。そのほうが人生は楽しい。楽しいか。ええ、もうすぐ夜が明けるでしょ。ああ。
すると亜沙子はゆっくりと歌いだした。
あけぬれば暮るるものとは知りながら、なほ恨めしき、朝ぼらけかな。
それは今まで聴いたことのないような亜沙子の口調だった。洋介は亜沙子の知らない一面を知って少し驚いた。
どういう内容なんだい。こういうのは自分で調べて、宿題。そんな。絶対よ。私ね、小さい頃、家で、正月になると、百人一首のカルタをしたの。なかなか風流だね。
洋介は少し皮肉のように言った。しかし亜沙子はそれを無視したように話を続けた。
祖母が趣味で短歌作っていたのよ。そのとき、百人一首、教えてもらって、全部覚えて、祖母に褒められた。褒められるのがうれしくって覚えたわ。今は、どうだろう。40も覚えていないけど。そうなのか、へぇ。
そういえば洋介は亜沙子の過去を詳しく知らない。
亜沙子の小さいときって、どうだった。今の話を聞いていると、なんだか、正月なんか楽しそうで、いいな。
俺は母一人だった。正月なんてつまらなかった。母はスーバーのパートか何かで、正月も関係なく、いなかった。正月料理は、母親がパートで貰ってきたモノばかりだった。
私んちは、祖母と両親と妹がいて。妹がいるのか。ええ、凛子っていうだけど、この5年、連絡とっていないけど。全然?ええ、大学卒業して、しばらくしたら、引越ししていて行方不明。何処にいるかわからない。妹さんは、どんな性格。どんなって。そうね、おとなしい性格。私とは違うかな。何処の大学?青洲大学。なんだ、俺と同じだ。何学部。あ、そうだっけ。史学科、洋介さんは商学部でしょう。そう。
間違いない。高野凛子。洋介は凛子の乳房の下にある二つ並ぶ米粒ほどの黒子を想い出した。洋介は偶然に驚いた。体が震えた。
いくつ。えーと、私よりも三つ下だから、27歳ね。俺より五歳下か。そうか。それじゃ在学は重なっていないな。
洋介は二年浪人していた。ぎこちなく洋介はアリバイを説明した。
洋介は自分の動悸の音が聞こえないかと思いベッドから出て、椅子に腰掛けてテーブルの上にあるライターを手にとった。
黄色い炎が揺らめく。
ライターの火を見た途端、洋介はあのときを思い出した。凛子は俺の裏切りにより自殺未遂をした。俺を憎んでいる。

 小説は、ここで終わっていた。
僕は作品の或る部分を何度も読み返した。
「乳房の下にある二つ並ぶ米粒ほどの黒子」
これは真佐子だ。僕は昭介と真佐子が裸で絡み合う姿を思い浮かべた。事故の直前に「俺は私小説を書いている」という昭介の肉声が、僕の頭の中で激しく反響した。一瞬にして、昭介に対する憎悪と怒りが心に絡みつき、僕の楽しかった思い出の養分を吸い取った。
 僕は英子を前にして泣き喚きながら、紙を破り捨てた。
英子は呆気にとられていた。英子に僕は、
「これは真佐子だ」
僕は真佐子が好きだったと呟いた。僕は、この文章が事実なのか疑った。しかし昭介は、この世にいない。答は判らない。
 「恵理さんには、絶対言ってはならないよ」
 英子に言った。
昭介と真佐子が楽しく語り合う姿。本当に僕は、そう言う姿を視たことがあっただろうか。いや記憶を探っても、二人だけで話していることはなかったはずだ。
見事に隠蔽していたのか。それとも僕が何も見えなかったのか。
僕は真佐子を全て知っていると思っていた。
すべてのカードには、真佐子の顔が在った。しかし、いま、全てが裏返しとなり、「黒いカード」となった。
それを一枚一枚、めくっても、真佐子の顔はなかった。
全てに対して、疑心暗鬼そして裏切りという悪魔が、一気に僕の心を破壊した。
しかし、それでも、その後、僕は普通に生活していった。
僕は目の前で、恋人と友人を喪ったと言う事実に眼を瞑った。僕は恋人と友人が寝たという事実に眼を瞑った。過去の眼を閉じたのだ。僕は過去のない人間として生きていった。

13
 あの女と再会するまで、私は眼を瞑っていた。
しかし昔書いた詩のように、過去を観たために、目蓋が破れたのだ。そこには輝く暗い未来など無かった。
「山崎さん」
 笑子はどうして良いか判らなかった。男が子供のように泣いていた。周りの客や店員が淳一郎と笑子を見ている。
最初、笑子は恥ずかしくて逃げ出したかった。
だが、それ以上に、この涙の理由が知りたかった。それは単に車の事故ではないような気がしたからだ。
 「山崎さん」
再度、声を掛けると係長補佐は笑子を初めて見るような眼で見た。
 「大丈夫ですか」
 淳一郎は周りを見渡した。そして頬が濡れているのに気がつき、手で拭った。
「ああ、大丈夫だ。泣いていたのか」
その声は余りにも弱々しかった。
 「ええ、山崎さん。これから私のところへ来ませんか」
 「え」
 「涙の理由が是非、知りたいんです、山崎さんを知りたいんです」
 淳一郎の前で、光が弾けた。
 笑子は淳一郎の手首を取った。
その掴まれ方は、何か懐かしかった。
「いやいや、ここで話すよ、高田さん、時間、大丈夫」
 「はい」
 「私には、大学時代、3人の親友がいた。そのうちの一人に先日、偶然会って、凍っていた過去が一気に溶け出し、溢れ出したんだ。高田さんが私を会社会社していない顔って言ったとき、私の心を見事に見抜いた、ほんと驚いたよ」
 「車の事故って、何だったんですか」
 「最初から話さないと」
「最初から話してください」
「判った、大学の一年の初めに、講義中に大きないびきをかいている奴がいてね、そいつに声をかけて、起こしたんだ。そいつの名は伊勢昭介、初めて大学で話しかけた男だった、直観で生涯の友になると思ったんだ、それが始まりだった、それから」
 淳一郎は、ゆっくりと目の前で起きている出来事のように、話を始めた。
  

01
 しかし午後10時に喫茶店の閉店時間が来た。淳一郎の話は、伊勢昭介、田岡恵理、葛西真佐子が同人誌を作るまでの話で終わってしまった。淳一郎は笑子に、明日、話そうと言った。
 「明日じゃ厭です、山崎さん、気が変わるかも知れないし」
淳一郎は少し黙った。
「では、ファミリーレストランではどう」
 「また泣き出すと、困りますから、ウチヘ来てください」
 淳一郎は一瞬、困った顔をしたが、
 「では、私の処へ来てくれないか」
 「はい」

 淳一郎が住むマンションは、ちょうど笑子の住むところから五分もかからないところにあった。
 「どうぞ」
 淳一郎の部屋に通された笑子は、部屋に殆ど最小限の物しか置かれていないことに少し驚いた。
 キッチンと十二畳ほどの居間がある。
その床は木地。窓は一ヶ所、カーテンは薄い蒼、それはまるでホテルの一室のようだった。
壁には何も飾っていない。窓側に白い蒲団が掛かったシングル・ベッド。その横にパソコンが置かれた机と椅子。その脇に「田川商会」の薄い緑色の袋が綺麗に並んだ大きな棚。その隣にもう一つ棚があり、テレビとオーディオデッキとCDの棚。
部屋の中央に、何も置かれていない硝子のテーブルを挟んで、茶色の二人掛けソファーが二つ。笑子は、部屋の全てを拒んだような空気に、以前、電車内で視た、淳一郎の姿を想い出した。
淳一郎は暖房をつけながら言った。
「コート、貸して、掛けるよ、それと座って」
コートを脱いで笑子が渡すと、入口近くにあるハンガー掛けにかけた。笑子はソファーに座った。戻ってくるなり、淳一郎が言った。
「この部屋は、ただ寝るところ、殺風景だろ」
 笑子は何も答えられなかった。
「何もないんだ」
 「え」
 「さっき言った昭介、恵理、真佐子の思い出が、ここには何もないんだ」
 「写真もないんですか」
「ああ、そうなんだ、そう思ってた。高田君、ロシアン・ティー、飲む」
 「ロシアン・ティーって、紅茶にイチゴのジャムと、お酒かなにかを入れるんですね」
「そうだよ、まぁ私のは、アルコールなしの、正式のではないけど、躰が温まる」
「それをお願いします、あの、笑子って呼んでください」
 「笑子さん、ソファーに座ってください」
 淳一郎は碧いケトルに水を入れた。ガス台の上に載せ点火した。そのあいだに、淳一郎は冷蔵庫から、紅茶の缶と大きなガラス瓶を取り出した。ガラス瓶に半分ほど黒ずんだ赤のジャムが入っていた。紅茶を白のティーポットに入れ、ジャムをスプーンで白のカップに入れた。ケトルが鋭い音を立てた。紅茶を注ぐ。
淳一郎がカップとスプーンを持ってきた。
「かき混ぜてもいいし、最後に残して、スプーンですくってもいい」
「かき混ぜます」
一口、笑子は口にした。
 「おいしいですね」
「よかった」
「山崎さん、話のつづきをお願いします」
「ああ、同人誌を創るって決まった直後に、昭介と恵理が同棲を始めたんだ・・・」

 
02
話し終わった淳一郎に笑子は言った。
「もう一杯、ロシアン・ティーを戴いていいですか」
 「ああ」
 淳一郎は笑子からカップを受け取ると、キッチンに立った。紅茶の葉を新しく代えた。カップにジャムを入れ、紅茶を注いだ。
「はい」
笑子は黙って受け取った。
「ほんと、おいしい」
カップをテーブルに置くと、笑子は淳一郎の横に座った。
笑子は淳一郎を躰を寄せて啜り泣き出した。
淳一郎は「ありがとう」と呟いた。
そのまま二人は寄り添うように眠った。

                     (完)


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