Welcome Guest 
メインメニュー
サイト内検索
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
[ リロード ]   [ トップ | 一覧 | 単語検索 | 最新 | ヘルプ ]

Counter: 3188, today: 1, yesterday: 2

先生方の作品集

江戸吉原物語 緋牡丹と袖香

作 篠原景

 惚れた女、そしておそらくは、向こうも惚れてくれていた女が、死してなお、自分の前に現れ続けることが、憂うべきことなのか、幸せとすべきことなのか、甚吉(じんきち)は分からないでいる。
 ただ、今夜も緋牡丹(ひぼたん)が現れるのを待っている。

 夜、人が寝静まるということのない妓楼では、廊下にも八間(はちけん)と呼ばれる釣行灯が天井から吊るされており、手燭を持たずに歩くことが出来る。
 だが、決して昼間のような明るさとはいかない。暗がりから突然人が現れて、驚くことも多々ある。
 江戸吉原、江戸町一丁目橘屋で、不寝番(ねずのばん)と呼ばれる甚吉の務めは、この夜の廊下を、拍子木で時を告げたり、各部屋の行灯に油をさすために歩いてまわることである。
 今年五十になる甚吉は、不寝番となって、もう十八年だ。
 遊女が客と同衾していても、無遠慮に部屋に立ち入る仕事は、他人に「覗き放題たア、羨ましいねえ」とからかわれたりもする。
 だが、不寝番は、客の不心得、遊女の不心得をきっちり監視することも務めの内とされている。心中だの足抜けだのがあっては大事だ。人が言うほど気楽な立場ではない。
 それに、毎晩毎晩、女たちが金で〈男女のこと〉を強いられる場を眺め続けているのだ。己の中にある、女というものに対する気持ちが、並の男のそれとはだいぶ違ってしまっているのだろう、とは、甚吉自身も自覚するところではある。
 (さあて、そろそろ行くか……)ここ二、三日の夜の冷えこみに冬が近いことを感じながら、茶を冷ましていた湯呑みを一気に空にして立ち上がった甚吉の胸には、ある期待が満ちていた。
 俗に草木も眠ると言われるちょうど今時分、油をさしにまわると、緋牡丹は甚吉の前に姿を見せる。現れる場所は定まっていない。だが、人のいない部屋の前を甚吉が素通りするときに現れることが多い。
 緋牡丹は橘屋に来たときから、気立ては良いし悪い目鼻立ちではないのだが、全く華のない、寂しげな風貌をした女だった。緋牡丹の名も、その遊女としての欠点を補うべくつけられたものだった。
 先に気持ちが動いたのがどちらであったかは分からない。そもそも親子ほどの年の差なのだ。だが、甚吉と緋牡丹は、いつしか黙って見つめ合う瞬間が増えていた。
 気のせいだ、きっと実の父親にでも似ているのだろう、と、胸にこみ上げるものを振り払おうとしていた甚吉に、一歩踏み込んできたのは緋牡丹のほうだった。一晩に幾度(いくたび)も二階の廊下を歩いてまわる甚吉と擦れ違うとき、時折人目を憚るように、そろりと手を触れてくるようになったのだ。恐れるような、けれども確かな気持ちを持った触れ方だった。そして甚吉も、緋牡丹の手が触れてくるときには、甚吉なりの気持ちを懸命に込めた。
 しかし二人の仲はそこまでだった。妓楼において、遊女と男の奉公人が特別の仲となるのは、決して許されぬことであった。明らかとなれば、双方、特に遊女の側に、厳しい制裁が加えられる。
 だから甚吉は、緋牡丹を思うゆえに、怯えていた。そして怯えが募るほどに、一層、緋牡丹への想いが増していった。
 些細なことで客を怒らせ、水責めを受けた緋牡丹が、三日間も高熱にうなされた挙句、息を引き取ったのは、半年前のことである。
 (あっ、来た……)行灯の油をさした部屋から出て来たとき、視界の端に、廊下の暗がり、闇から滲み出たような緋牡丹の姿があった。
 緋牡丹が生きていた頃と同じように、甚吉は緋牡丹を直視しない。淡々と仕事をするふりをしながら、黙って待っている。
 そして、廊下を歩き出した甚吉と緋牡丹が擦れ違う瞬間、緋牡丹の手が、甚吉の手に触れてくる。
 しかし、触れられても、感触はない。
 (緋牡丹よう……なんでおいらみてえな爺イなんかによう……)
 触れてはならぬ遊女は、触れられぬ亡者となり、甚吉の恋心だけが、変わらず甚吉の血をたぎらせ、苦しめる。

 袖香(そでか)は橘屋で一、二を争う売れっ妓で、はきはきした物言いと、面倒見の良い明るい性格を特徴とする女だ。雰囲気としては正反対である緋牡丹と、どういうわけか仲が良かった。 緋牡丹が死んだときも、見世のなかで唯一声をあげて泣いた。五日経っても、半月経っても、まだ緋牡丹の死を引きずる様子なのには、楼主夫婦や遣手も怒ったりあきれたりで手を焼いていた。
 甚吉には袖香が、不幸というものに慣れきってしまう遊女には珍しい、生き生きと血の通った感情の持ち主に見えた。
 以前、甚吉と他愛のない話をしていた袖香が、何気なく洩らした言葉がある。
「まったくここは妙ちきりんなところだよ。聞くところによると、並の世間じゃア、男と女ってエのは、そっと想いあったり、そっと想いを伝えあったりして、想いが通じた後は、ちっちゃなことでやきもきしたり……体を合わせンのはその後のことなんだろう? なのにここじゃア、男があれって指さして、いきなり体合わせて、男が済んだら、女がにっこり笑って、本当(ほんと)
の心はぬしだけでありいす、とくらア。何(なん)もかもがあべこべなのに、男は女房にする気もない女に向かって、まるで素人娘を相手にするように、他の男に気を移すな、神仏に誓えとがなりたてる。……確かにわっちは、子供の頃からここで育てられた世間知らずだが、筋一つ通らねえ男に、世間知らず扱いされる身ってエのは、どうにもつまらないね」
 確かに吉原じゃ、何もかもがあべこべだ。男と女のことはもとより、親の金詰まりで売られてきた幼い娘たちは、連日、「誰のおかげで立派な親孝行娘になれたと思っている。見世には感謝しても足りないはずだ」と怒鳴られ、攫われた、あるいは騙されたと分かる娘たちは、悪いのは注意の足りなかったお前たちだと言い聞かされる。借金は、売られてきてから十倍、二十倍と、増えていく仕組みだし、見た目が悪く客の少ない妓は、やる気がないからだと折檻される。
 並の世間では通らぬことばかりだ。
 ならば、誰にも知られることなく、そっと想い合い続けた甚吉と緋牡丹、そっと手を触れるだけの清い仲こそが、この色里で、唯一の真っ当だったのではないかと、甚吉はぼんやりと思うのだが、思ったところでどうにもならない。
 緋牡丹は、数知れぬ男たちに、〈本当〉だの〈誠〉だのを繰り返し、甚吉の前で男たちに抱かれ続け、些細なことで内所に責められて、死んだ。
 今夜も甚吉は、時を告げ、各部屋の行灯の油をさすために廊下を歩く。
 そろそろ、と思い、冷ました茶を一気に飲み干し歩き出す。廊下の二つ目の角を折れたところで、闇から滲み出たような緋牡丹の姿。
 緋牡丹が近づいてくる。擦れ違う。触れてくる緋牡丹の手。
 その手に、触れた感触があった。紛れもない、愛しい緋牡丹の感触だ。
 思わず甚吉は、緋牡丹の手を握り返していた。甚吉と緋牡丹は、初めてこんな近くで、手を取り合い、互いにしっかりと見つめ合った。

 袖香の部屋で、まだ九つの禿が怯えている。昨夜、甚吉が、湯呑みに入った毒をあおって死んだのだ。
 毒は、石見銀山ねずみ取りで、見世の中にも置かれてあるものだ。そもそもねずみ取りには、人が誤って口にしないよう、苦い味がついている。それを飲み干したのだから、自分で飲んだのだろうと医者は言っていた。
 だが、見世の方でひた隠しにはしているが、甚吉は毒を口にした後、油をさしに部屋を出て死んだ。見世の者は皆、甚吉が冷ました茶を一気に飲み干す癖があったのを知っている。
 おそらくは、うっかり苦い何かを一気に飲み干してしまったが、吐き出すことも出来ず、顔をしかめながら油をさす仕事にかかって、そこで毒がまわって倒れたのだろう。つまりは、甚吉は誰かに殺されたのだと、見世中の者が思っている。
「花魁、怖いでありいす」
 涙目の禿の背をさすってやりながら、袖香の目は宙を見ている。
 緋牡丹と仲の良かった袖香は、緋牡丹と甚吉の秘めた想いに気づいていた。そして緋牡丹が亡くなった後、あの世とこの世の境目で、束の間心を寄せ合うような二人の姿を、偶然見てしまった。
 無論、始めは恐ろしかった。だがすぐにいたたまれなくなった。
 二人が忍び合うのは毎夜のことで、甚吉は緋牡丹を求め、苦しんでいた。
 (大事な甚吉さんを手にかけちゃって、怒ってるかい? 緋牡丹さん……)袖香は心の中で呟く。だが、袖香には、秘密を知ってしまった自分が、他にどうすれば良かったのか分からなかった。
 禿に銭を渡し、好物の餅を買ってくるよう言いつけると、禿はためらう表情を見せた。笑って、甚吉さんにいっぺんお供えして、それから一緒に食べようと言い聞かせると、禿は「あい」と頷いて走り出した。
 一人になった袖香は、互いがまるで壊れもののように、そろりと触れ合っていた二人の手を思い返していた。どこか羨ましい光景であった。
 長い溜息をつきながら、足を投げ出すよう座り直した袖香は、両頬に手をあて、そのぬくもりを感じるために目を閉じた。

                        了


XOOPS Cube PROJECT