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先生方の作品集

 読 者 論

作:山田篤朗

長編の作品を初めて読むとは、どういうことなのだろうか。
 例えば、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(全十巻、井上究一郎訳、ちくま文庫)。
 
初めて読むと言うこと。
それは知らない街中を、好奇心と警戒心を持って彷徨うことである。
例えば、鈴村和成に『ヴェネツィアでプルーストを読む』(集英社 二〇〇四年二月)がある。
これは、「プルースト」という作品の内外を徘徊する優れたガイドであり、優れた評論である。
最初は、読者は作者が創った地図(作品)に忠実に従う。
最初は総て迷路なのである。
先ず表紙に書かれた題名の「門」をくぐる。
長編の場合、それは追跡の快楽であり、苦痛である。
若年の私にとって、快楽の長編は、『失われた時を求めて』だった。眠る時間を惜しんで、長編を読み進めていった。
全集十巻を半年、じっくりと散策した。
一方、苦痛の長編は、ドストエフスキィの全集だった。
二十歳頃、家に父が持つ「ドストエフスキィ全集」に取りかかったことがある。
その頃、私は「乱読者」を自負していたから、この大山脈を登ることは楽しみだった。
ところが、どういう訳か、なかなかドストエフスキィの文学世界に溶けこめない。
結局、私は二冊目の途中で放棄したのである。
乱読を誇っていた私にとって、初めての読書の挫折だった。
それでも、「乱読」という言葉は口にしていたが、少しばかり疚しさがあった。
その後、ミハイル・バフチンの『ドフトエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)を読んだ。
ドストエフスキィが、こんなに面白い世界を抱いていたとは知らなかった。
世界の広さを知った。ドストエフスキィの読み方を少し知った。
それで何とか「全集」を読み終えたのである。
しかし現在の私は、ドストエフスキィを再読する気にはなれない。おそらく相性が合う合わないの問題なのだろう。
読者には再読しないという自由がある。
 

ところで、最初に読む手掛かりは、「作品」という作者の地図でしかない。つまり読者よりも作品が主導権を握っているのである。
これは実は極めて重要なことである。
自分が主導権を握れないというのは、しかし身を委ねることの楽しさがある。それが文学の喜びである。

読書中は未知の部分部分の連続を繋ぎ合わせて読んでいる。
しかし、遂に読み終えたとき、つまり「作品」の全貌が明らかとなったとき、様々な細部が全体との関係として見えてくる。
読後は、作品を一つのコスモスとして眺め直すのである。
これは読書中の行為と、読後の眺め直すこととは、もはや別の解釈となるだろう。
そして、このとき主導権は何よりも作品ではなく読者が握るのである。
もはや作品は作者のものではない。
読者が辿り直した新しい作品として、読者の前にあるのだ。
 

さて読み終えるやいなや、読者は作品を振り返る。
そこには厳として存在する言葉の建築物がある。
作品とは、作者が吟味しながら、選択していった言葉の構築物であるからだ。
従って、完成された作品の言葉を読み換えることは、作品全体の意味構成を変えることになる。
全く別の作品となってしまうのである。
従って徒らな読み方は出来ないのだ。

しかし一方で、読者には自由がある。
そこは自由気儘に「作品」を読み替えしたり、書かれていない主人公の行く末を考えたりすることが出来るという立場に読者はいる。
例えば水村美苗の『続 明暗』は、その自由の想像力が最大限に生かされた小説なのである。
この作品の束縛性と、読者の自由・想像力は、常に抗争的である。
 

読み終えた作品。
しかし読み終えた地点から眺めるだけでは、作品は結果論で終わり、素朴な印象主義的読者に留まってしまう。
素朴な印象であれば、一行でも書けるだろう。
しかし、それは作者の努力に対し失礼である。
読者も努力しなくてはならない。
その努力とは、流し読みではなく、何度も立ち止まって作品の言葉の意味を考えることであり、様々な論を読むことである。
 それは自分の読みを相対的にするということである。
作品の周りや作品のうちの、何処へでも立てるような立場に移動できる読者になることである。
しかしながら様々な立場に立つことが出来たとしても、必ずや死角と矛盾が生じるのである。
だが死角・不整合の部分を整合させることは、死角・不整合の部分を切り捨てることである。
そして死角・不整合の部分こそが、文学の本質であるとしたら、どうだろう。
つまり一貫性のある作品として読むとは、それは読みの貧弱に他ならない。
矛盾は矛盾のまま。
整合性はいつも疑うべきだろう。
読みは弁証法では片づけられないのである。
 作品の読みとは「解釈は、それだけではない」、「解釈は、まだ別にある」という過剰さにあるのだ。
それが小説の豊饒さなのである。

一方、読者には先入観がある。
読書という行為は、今まで読者が得た知識や経験を最大限に駆使し理解しようとすることは言うまでもない。
そこには自ずと限界がある。その限界を知っておくことは、独りよがりにならないための歯止めでもある。
 だが、先入観を否定的に見てはならないだろう。
その先入観こそが他人とは違う、その人の「読み」の個別性となるのだから、他人の意見に左右されてはいけないのである。
しかし先入観はいつも壊さなれなければならない。自分の思いこみをいつも壊すこと。自分の結論をいつも疑うことである。

同時に作品が自分の思いこみを壊すことがある。
作品はいつも読者を裏切るのである。
壊されることを覚悟するだけの柔らかさを、読者は持ち合わせていないと、作品は既成の読み方と変わらないのである。

読み終わったとき、読者は、それ以前とは違う。
それだけの力が小説にはある。


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