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先生方の作品集

小説家の創作論                   

作:山田篤朗

小説の方法について語った文章は、創作欲を刺激する。             

1 M・バルガス=リョサ『果てしなき饗宴』について

 私が文学理論や文芸批評に興味を抱いたのは、大学三年生以降である。それまで私は素朴な乱読者に過ぎなかった。古今東西の波瀾万丈の物語、真実追究の物語、そういう物語世界に酔うだけの読者だった。だが大学でT教授から「文学理論」を教わった。このときから、小説の構造・技術、そして読者とは何かを意識し、「文学理論」関係の邦訳を手当たり次第読むようになり、そういう態度で小説や評論を読み始めた。
 そのなかの一冊に、マリオ・バルガス=リョサの『果てしなき饗宴』(工藤庸子訳 筑摩叢書 一九八八年三月、『饗宴』と省略)があった。副題には「フロベールと『ボヴァリー夫人』」とある。
私は早速『ボヴァリー夫人』を再読し(初読の時は、あまり感動がなかったのだが)、それからバルガス=リョサの批評を読んだ。読後感は衝撃的だった。ここに完璧な批評のかたちがあると思ったのだ。
 『饗宴』は三部に分かれている。
「第一部」はバルガス=リョサ個人のエンマ・ボヴァリーへの息苦しいほどの告白が描かれている。エンマ・ボヴァリーはバルガス=リョサの永遠の恋人である。しかしエンマ・ボヴァリーは小説上の人物である。だから、その情熱は当然ながら「報われることはない」。その切なさが露わに伝わる情熱の書である。
 それでも当時の私は、全く「幻滅」することなく、「愛らしく深みある」とエンマ・ボヴァリーを読むバルガス=リョサを羨ましくさえ感じた。これだけのめり込むような小説の登場人物はいるのかと何度問うたことか。
 「第二部」は「ペンの人間」と「付加された要素」の二つから成り立っている。前者の「ペンの人間」とはフロベールのことである。
どのように作品が書かれたかの成立過程が、『ボヴァリー夫人』執筆時のフロベールがどうであったかが、問答形式で書かれている。
 「付加された要素」はテーマ別、時間、語り手が詳細に冷静に分析されている。この分析は単なる内容分析ではない。『ボヴァリー夫人』という作品が、徹底的に部分部分にばらされ、もう一度組み立てられるのである。
「第三部」では『ボヴァリー夫人』の様々な「現代性」を問う。
まずバルガス=リョサは『ボヴァリー夫人』が美しくもなく醜くもなく「凡庸さの支配する国」の「特性のない人々が住む灰色の宇宙」を描いた「最初の現代小説」であると指摘している。そしてフローベルを「形式」が「主題の美醜」「真実と虚偽」を決定すると考えた、形式主義の「先駆者」であるとした。また「自由間接話法」というフローベルが意識的に開発した文体は、のちの「内的独白」の「先駆」であるとした。と『ボヴァリー夫人』の様々な「現代性」を抽出するのである。
以上のように、この三部のそれぞれの批評の方法によって『ボヴァリー夫人』の豊かさを意識することができた。言い換えれば解釈の豊かさでもある。そして批評の知的快楽を私に教示したのである。
 何よりもバルガス=リョサのこの批評が『ボヴァリー夫人』とは別の芸術作品であるということを知った。
 さらに言えば『ボヴァリー夫人』が、小林秀雄の「マダム・ボヴァリーは私だ」という自意識の呪縛から解放されたのである。解釈は一つではない。
それから数年は、年に一度読み直した。それが私の原点のように思えたからだ。しかし、その後、ほかの感動した本と同様、私の関心は離れていった。それは『饗宴』がバルガス=リョサの言葉で作られたものであって、自分の言葉ではないということに気がついたからである。どんなに拙くとも、私は自分の言葉で書かなければならないと思ったのである。しかし、それでも、今回久しぶりに『饗宴』を読んで「完璧」だと思った。『ボヴァリー夫人』の批評として。
ところで二〇〇〇年七月に、バルガス=リョサの『若い小説家に宛てた手紙』が新潮社から刊行された(木村榮一訳)。この作品は、宛先に「若い小説家」を設定しているからといって、単なる文学の入門書ではない。極めて実践的な、そして文学への熱い思いが裏打ちされた「小説」論である。更に言えば(これは私自身の想いでもあるのだが)、低迷している日本の「文学」の復活への手掛かりとなる書物ではないか。

1中村真一郎
中村眞一郎は、文学の新しい表現と新しい形式を生涯追求していった作家であり評論家だった。
その仕事を語るには、副題に「20世紀小説と私」とある『小説の方法』という評論的エッセイが最適である。
10代後半からの自らの20世紀小説への考察と、自らの小説の方法論の模索が記されている。つまり西欧現代文学の受容私史である。同時に、眞一郎初期の連作長篇五部作、すなわち『死の影の下で』、『シオンの娘等』、『愛神と死神と』、『魂の夜の中で』、『長い旅の終り』の成立過程略史でもある。
また特異なのは、ここで自らの小説方法の探究と実現を、「内面」、「時間」、「方法」、「純粋」、「神秘」「虚構」、「形式」、「構成」、「全体」、「抽象」、「夢」、「反小説」、「前衛」、と十三の主題別に書かれていることである。
「内面」の章では、ネルヴァールとプルーストの方法が記されている。ネルヴァールは、現実と夢の境目が無かった文学者であり、その小説も現実と夢を自由に往来した。
プルーストは、それを意識的に方法化した。
プルーストの思いがけず予期しない記憶の断片が噴出する「心の間欠」である。中村は、この「心の間欠」作用を分析する。
「時間」の章では、現代小説の物語の「時間」の重要性を指摘している。
ここには小説の「時間」論を、実践的に考える上で、示唆に富んでいる。
「方法」「純粋」の章は、ジードの文学の方法の分析である。
「神秘」の章は作品の視点を問題にしている。
「虚構」の章は、眞一郎が実際に戦中に小説に取りかかってのことが記されている。
眞一郎は事実からではなく虚構から出発することから小説を考えたと、述べている。
しかし、その方法は、経験不足によって失敗した。
従って、改めて書き直した「死の影の下に」は、経験のある少年時代の記憶を基にした、「偽の記憶」を書いて成功するのである。
「形式」の章は、『死の影の下で』、『シオンの娘等』、『愛神と死神と』、『魂の夜の中で』、『長い旅の終り』の形式的冒険の物語で、フォークナーを中心に語られている。ここで述べられている小説形式の意識は、反「私小説」論である。
「全体」の章は、社会全体を描きたいという小説家の野望を述べ、サルトルを中心に語られていく。これは、のちに中村にとって『四季』4連作と、短編・中編で試みた「人間精神の諸領域の研究」で、成功している。
「抽象」の章も「全体小説」論である。そして戦後派の文学理念が、「全体小説」にあるという指摘をしている。
「夢」の章は、単なるリアリズムでは主題にはなり得ない「夢」の問題を取り上げている。
「反小説」の章は、自分の方法とヘンリー・ミラーとの違いを述べ、眞一郎自身の方法と日本の伝統を意識するきっかけを作ったと述べていて、自らの文学の転機を暗示させている。
「前衛」の章は、一つの決意表明が記されている。すなわち「私にとって芸術とは、因習化したフォルムの破壊と、新しい形式の想像だけを意味した。前衛芸術だけが、生命力のある芸術であるという信念を抱きつづけて、私は死ぬことになるだろう」と述べる。眞一郎の遺作で「城北綺譚」は、エッセイと小説と歴史記述のジャンルを越境した作品であり、まさに前衛芸術を貫いたのである。
「内面」、「時間」、「方法」、「純粋」、「神秘」、「虚構」、「形式」、「構成」、「全体」、「抽象」、「夢」、「反小説」、「前衛」、この一つ一つのタイトル・テーマの追究こそが、20世紀小説だけではなく21世紀小説の課題である。
ここには、文学形式の有効なヒントが大量に埋蔵されていて、21世紀の小説家志望あるいは若い小説家への文学の継承であり、財産でもある。


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