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先生方の作品集

レトリック論

作:山田篤朗                        

1 再読の愉しみ

 日本語の、特に、「レトリックとは何か」を執拗に真摯に問い続けた学者に、佐藤信夫(一九三二〜一九九三)がいる。
佐藤の著作は次の通りである。

『記号人間』 (大修館書店 一九七七)
『レトリック感覚』 (講談社 一九七八)
『レトリック認識』 (講談社 一九八一)
『レトリックを少々』 (新潮社 一九八五)
『意味の弾性』 (岩波書店 一九八六)
『言述のすがた 《わざとらしさ》のレトリック』(青土社 一九八六)
『レトリック・記号etc,』 (創知社 一九八六)
『レトリックの消息』 (白水社 一九八七)

 
 佐藤の数多くない著作に一貫してあるのは、レトリックの魅力である。
彼ほどレトリックを愛した男は数少ないだろう。
言うまでもないが、日本語では言葉のあや(文彩・綾)をいう。

 佐藤によると、従来「レトリック」とは、「《あげ足取り、言いつくろい、巧妙な言いのがれ》」とされてきた。
現在でも否定的な使い方がほとんどだろう。
例えば「売れる本を書ける人はごまかしのうまい人が多く、内容の貧弱さをレトリックでカバーできる才能を備えている」(中島義道『人生を<半分>降りる』一九九七)という具合である。ただし中島の書名は、優れたレトリックであるが。

 佐藤は、しかしレトリックに対して、この一八〇度の価値転倒をする。
本来、レトリックとは「どんな思考でも表現してやろう」とする「普遍を目指す野心」があるのだと喝破するのである(『レトリック感覚』)。
確かに「自らの思考」を、既成の言葉では「表現」出来ないものがある。
自分の「言葉」を表現するにはレトリックが必要なのである。
読者は「目から鱗が落ち」、言葉の表現の自由を覚えるだろう。
それは表現する上で「決まり文句」を厭わず使うと同時に「決まり文句」に抗うことである。
 
 ところで『レトリック感覚』では、レトリックの種類を述べる。
「直喩」、「隠喩」、「換喩」、「提喩」、「誇張法」、「列叙法」、「緩叙法」である。
そして、それぞれ章を立てて、近代・現代文学作品から、言葉を切り取って説明していく。

 しかし、それは単なる辞書的な説明ではない。
『レトリック感覚』の副題にあるように「ことばは新しい視点をひらく」とある。
或る小説に含まれている、或る一つの言葉が、その小説全体を「新しい視点」で「ひらく」力があるということである。
つまりレトリックに注目するとは、最初の小説全体を読む幸福とは違って、細部の愉しみであり、再読の悦びでもあるのだ。
さらにいえば『レトリック感覚』の試みとは、近代・現代文学のレトリック総覧であり、それは佐藤の「野心」でもあっただろう。

 また『言述のすがた《わざとらしさ》のレトリック』では、夏目漱石、小林秀雄、谷川俊太郎、井上ひさし、筒井康隆、高橋康也という、レトリックを自由自在に操る日本人作家・研究者を取り上げている。
特に漱石文学の「まことしやか」と「わざとらしさ」を分析する手際の良さと説得力は見事である。
 
また最終章のロラン・バルト論はバルトの優れた入門書である。
この文章が契機となり、私はバルトの著作を貪るように読んだ記憶がある。
特に『S/Z』(みすず書房)は「分析をするとはどういうことなのか」を考えさせられ学んだのである。

 さて、それぞれの著作は既に、30余年の月日が流れている。
しかし佐藤が愉しげに語る、日本近代文学のレトリックについての魅力は全く色褪せてはない。
それどころか、彼の著作群は、今も読者の精神を絶えず挑発し、読者の感受性を試すのである。
再読に際し細部を愉しむための指南役となるだろう。

 

2 言語芸術への問い

 佐藤レトリック論は「小説」の「表現」を中心に論じている。
この佐藤の緒論を批判的に継承しつつ、「言語表現」を「詩」の方向から徹底的に追究した評論がある。
北川透『詩的レトリック入門』(思潮社 一九九三)である。
これは、単に「詩」のレトリックの問題だけではない、「詩」全体の表現を取り上げた、優れた論である。
「入門」という言葉に、だまされてはいけない。
これは少しばかり、著者の奥床しい謙遜の「レトリック」である。
「門」の奥は、あまりにも深い。
最初に掲載されたときは「思いつき詩的表現論」であったというが、「思いつき」は戦略に他ならない。
  
 この北川の批評は「詩」について徹底して考えさせる評論である。
書かれた当時は、おそらく「現代詩」の「孤立と自閉」を憂い、毀そうとした評論だったはずである。
しかし、そのコンテクストから外れた今、「言語芸術」とは何か、そういった普遍的な問いかけがある。
従って、この評論は、散文とは無関係ではない。
それどころか「散文」についても、様々なことを考えさせられるのである。
「現代詩は判らないから」と食わず嫌いの者や「私は詩ではなく散文を書くのだ」と頑な人も、読んで貰いたい作品の一つである。
いや佐藤と同様、これを読んで刺激を受けない作家志望者は、よほどの鈍感であり、失格であると断言できる。
 
 『詩的レトリック入門』は9つの章に分かれている。

1、 「レトリックの誘惑」では「詩的レトリックは、日常的、慣習的な語法や文脈に違犯の関係をつくりだすことで、おいしいことばになっている」と記している。~「違犯の関係」とは、何かゾクゾクする言い方である
2、 余白論の試み
3、 詩と散文のあいだで
4、 詩作品の〈語り手〉とは(副題に「詩・短歌・俳句における〈私〉)
5、 詩的意味論の試み
6、 未知の像(副題に「詩的比喩論の試み」)
7、 反喩の構造(副題に「詩的仮構論の試み」)
8、 詩的境界について
9、 詩型論の試み

 なかでも「3、詩と散文のあいだで」、「8、詩的境界について」の「3」の題は「物語に戯れ、物語を裏切る、もの偏り」の題が示すように、「散文」の影がある。
別に言えば「詩」から「散文」への挑発である。
私が、この北川の評論を薦めるのは、この作品が単に「言語芸術」の問題を取り上げているからではない。ここに記されている様々な「詩のレトリック」の、豊富な富を奪って貰いたいのである
 
 なお現在、佐藤の『レトリック感覚』、『レトリック認識』、『レトリックの記号論』(『レトリックを少々』改題)、『レトリックの意味論』(『意味の弾性』改題)、『わざとらしさのレトリック』(『言述のすがた《わざとらしさ》のレトリック』改題)の5冊は、講談社学術文庫に収録されている。


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