第二回 東軍慰霊祭ー3

東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第二回 東軍慰霊祭ー3

近くの函館八幡宮へ参詣し、タクシーで新選組や先祖の関川代次郎も守備した弁天台場へ向う。が、何も無い。巨大なクレーンが立つ函館
ドッグ前に、昭和34年建立の白木の碑のみ。ここから背後の函館山を振り仰ぐ。新政府軍が奇襲した七面山とは右の高台か、などと考えつつ、待たせてあったタクシーで高龍寺へ。
「傷心惨目」の碑などカメラに収めて、釣先生の発案で横山松三郎(近代写真術先覚者)の墓を釣氏と手分けして探す。山腹に階段状になっ
た広い墓域を駈け回る。あった、左手奥の雑草に覆われた小さな墓だった。
時刻は正に正午、時間がない。外人墓地はあきらめて、船見町の称名寺へと急ぐ。受付を済ませ、隣の実行寺へも寄る。称名寺は箱館新選
組の屯所で、戦争終結後も隊士が収容されていた所で、妙に懐かしい感じがする。しかし、実は、歳三らがいた頃は、道路の向かい側にあっ
たが、明治12年の大火後に現在地に移ったものだという。
司馬遼太郎『燃えよ剣』のラストは、歳三の恋人お雪が、日照雨の降るなかを、称名寺へ墓参りにくるシーンである。しかし、この日は、
日照雨も降ってなかったし、私は「お雪」みたいに歳三の碑に取りすがったりはしなかった。
(大体、函館でほ日照雨など滅多に降ったことがナイという)

午後1時より本堂にて法要。ここで、大切に持参した歳三の位牌(「お仏壇の長谷川」で作成した、自前の特別製)を取り出しチャツカリ
と、〝魂入れ〃もお願いする。50数名の参会者があり、須藤隆仙住職の読経、小島慶三氏(日本新党・参議院議員)の祭文奉読、焼香と続く。
司会は高橋昌弘氏(南北海道史研究会)が努める。
隆仙師はフツーの住職ではない。「南北海道研究会」を主宰し、図書館古文書講師、函館文化財審議委員、さらに、刑務所の教詭師を努め
る、など、多彩多忙な住職である。歴史関係の著作も多い。
最後に地元の宇佐美城峰氏(錦城流師範)の吟詠があった。

碧血碑        宮本小一作

戦骨全く収まりて 海勢移る 粉華誰か復た当時を記せん
鯨風鰐雨 函山の夕 宿草茫々たり碧血碑
(明治34年8月)
この詩碑が碧血碑の側にあると言うが、気がつかなかった。
休憩後、講堂にうつり、懇親会。榎本揚武氏初め来賓の挨拶。さらに、遺族紹介と続く。その後、長谷川つとむの講演「伊庭八郎、箱舘に
死す」となる。


 第二回 東軍慰霊祭ー2

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東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第二回 東軍慰霊祭ー2

第ニ日 10月16日(土)快晴
釣サンに起こされて7時起床。大出氏はすでに食事中。8時半釣サンと出発。まず駅裏の朝市による。活気があって上野アメ横の雰囲気。
威勢のいい呼声「イイ男にはオマケするよ」といわれて、つい買ってしまう。マルヨ三郎商店。
すぐ、宅急便で自宅へ送る。(私の帰宅より早く届いていた)
タクシーで鶴岡町~栄国橋~啄木の墓を回って立待岬へ出る。ここには早熟の天才歌人、石川啄木の墓があり、歌碑も建っている。

函館の 臥牛の山の半腹の 碑の漢詩(からうた)も 半ば忘れぬ

明治40年(1907)5月、21歳の啄木は故郷岩手渋民村を石もて追われる如く、函館へ渡った。青柳町の借家に身を寄せ、弥生小学校の代用教員となった。月給は12円。(現在の価格では12万円位か)7月、妻子を呼び寄せ「函館日々新聞」の記者も兼務。ようやく、生活も安定したが、その直後、函館の大火ですべては灰燼に帰した。その後は、単身、札幌から小樽へ、さらに釧路へと多感、苦難の旅は続く。

津軽海峡もベタ凪で、下北半島も指呼の間。
「津軽海峡冬景色」を歌ってみるが、どうもしっくりこない。山道を歩いて「碧血碑」へ着く。
木立に囲まれ静寂が支配し、立待岬の喧噪がウソのよう。
碧血とは、皆様ど存知の通り「義に殉じたる武人の血は、3年経つと碧に変わる」との中国の故事によるもの。ここには、明治4年、旧幕
府軍の戦死者、796体を合葬、さらに明治8年、大鳥圭介がオベリスク型の巨大な碑を建立したものである。そういえぼ、『歳三を歩く』
を書いた野田(現・山脇)雅子は「歳三を歩く旅の終点は、碧血碑だ」と結んだ。
少し下がると、柳川熊吉の小さな自然石の碑がある。熊吉は江戸浅草の火消し、新門辰五郎の子分だったが、安政の大地震後、何故か、箱
舘に住み着いた。彼は義侠心に富む男で、箱館戦争後、あちこちに棄てられていた旧幕兵の遺体を収容埋葬した。その罪で新政府軍に逮捕さ
れ、処刑寸前に、軍監田島圭蔵に助命された。


第二回 東軍慰霊祭ー1

東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第二回 東軍慰霊祭ー1

平成5年10月16日(土)
函館・称名寺

祭主‥小島慶三 実行委貞長‥須藤隆仙
講演‥長谷川つとむ 事務局‥大出俊幸

第一日 10月15日(金)晴

好天の羽田を定刻に飛び立ったANAジャンボ機557便は、快適なフライト1時間でで予定通り、12時15分函館空港へ到着。
紺青色の海、間近に見える函館山、潮の香と共に旨そうなイカ焼きの臭いが漂う。風ほ冷たいが爽快な気分。
~はるばる来たぜ ハコダテヘ~と、思わずサブチャンの「函館の女」のメロディを口ずさんでしまう。
タクシーで五稜郭へ向う。運チャンに函館名物を尋ねると、何を勘違いしたのか、
「人間、ダマす方とダマされる方と二つに分けると、この土地の人ほ皆、ダマされる方じゃないカイ」? これには、相づちの打ちようもナ
イ。
五稜郭タワー前で先着の釣洋一先生に会う。
土方歳三初め、我家の先祖の関川代次郎も、足跡を印したか思うと何故かハイテンションとなる。タワー専務で垢抜けた紳士の中野豊氏の招
待で「稜雲亭」で昼食、早速、ビールで乾杯し歓談する。
ほろ酔い気分で五稜郭を見学し、資料館を覗く。適当に入替えるとのことだが、歳三の写真パネル、新選組袖章などは目を引く。伊庭八郎
の迷子札には「ホンマカイナ」と笑ってしまう。函館市教育委員会が発掘中とかで、盃、茶碗、ギヤマンのコップ、ビンなどが出たとのこと。(歳三もこれでワインを呑んだかも…・‥)
場内を一周し、タワー土産店で「歳三まんじゆう」、「五稜郭最中」、新選組グッズ(土方歳三の大型将棋駒)、その他2、3の書籍を購入。
タクシーで今日の宿「ザ・ひじかた」へ向う。
途中、中島町の中島三郎助親子最後の地に寄り、昭和49年建立の中島親子碑に合掌する。ここには、千代ケ岱陣屋があった。明治2年5月16日、新政府軍の猛攻に、陣屋を死守して中島三郎助、長男恒太郎(23歳)、次男英次郎(19歳)、ともども奮戦、降伏勧告を拒絶し、遂に戦した場所である。千代ケ岱と呼ぼれていたが、昭和6年、中島町と改めた。

三郎助は元浦賀与力で、ペリー艦隊が来航したとき、最初に黒船に乗り込み、ペリーと談判した硬骨漢。安政2年(1855)、長崎海軍伝習所の第l期生として、伝習を受けた。同期に勝海舟がおり、榎本武揚の1年先輩ということになる。特に砲術に関しては、第一人者であった。三郎助の辞世が伝わっている。

ほととぎす われも血を吐く 思いかな

続いて、若松町一本木の「土方歳三戦死の碑」へ表敬訪問。ここはほ昨年グリーンベルトから引越し、一本木関門を新設した小公園となっ
おり、大いに満足。持参の線香を手向け写真をとり、歩いて数分の民宿「ひじかた」で旅装をとき、しばし休憩。応接間にズラリと、新人物
往来社の幕末本が並んでいるのはお見事。(これは、フアンが持ち寄ったのもあるが、殆どほ大出氏が寄付したもの)も早速、親切なオーナーの三上さんに、荒法師三上超順との関係?を聞く。超順は松前法華寺の僧ながら、武術もたしなみ、松前軍参謀として参戦。明治元年12月28日、榎本脱走軍との館城攻防戦で右手に大刀、左手に鍋蓋を持って奮戦、散々脱走軍を悩ましたが、遂に戦死した。
「ウチの先祖は維新後、津軽から海を渡ってきたが、あちらも函館も三上はワリと多いです」
との返事。
日没となり、タクシーで函館山へいき、〝百万ドル″の夜景を楽しむ。海に峠遠くイカ働舟の漁火が連なり、旅情を誘う。思わずここでも
裕チャンの「黒い海峡」を歌ってしまう。

「海峡の空を 星がひとつ飛んで 家をでた
あの娘が 遥々越えた…… (皆様、ど存知か)

しかし、山頂は海からの強い風が冷たく、涙目になり鼻水が出る。まして、釣先生とのデートでは、あまりロマンチックでもない。
早々とロープウエイで山を下り、駅裏の郷土料理店へ入り、釣氏と一杯やりながら暖まる。
シーフードがボリュームたっぷりで美味しい。イカ、エビがたっぷり入った海鮮ラーメンも旨かった。ホロ酔い機嫌で宿へ戻る。
大出氏も外出より戻られ、早速、また乾杯。
釣氏は今、火盗改めの長谷川平蔵に入れ込んでいるという。すかさず、大出氏が、「これからは、鬼の釣平こと、〝鬼釣″と呼ぼう」それはいいと大笑いしたが、釣サンは苦笑い。明日からの慰霊祭とツアーの成功を祝って、12時散会。


東軍慰霊祭の想い出(1)-7

東軍慰霊祭の想い出(1)-7

郡 義武
同氏は戦争中、捕虜のロシア兵(死体?)を試し斬りしたという古強者。
また桑名薄から箱館新選組に入隊、重傷を負った谷口四郎兵衛の遠縁にあたるとか。小柄だが全身、全くハガネの様な肉体で、隙がない。
朝夕、重さ2キロの鉄棒を、200回素振りしているという。(真剣ほ大体1キロ強)、なんだか口惜しいので、かなり酔っているのを見て、後から、いきなり小突いてみた。さすがの名人もヨロメイタ。
その後、友の会の大姉御、星野幸子、高木富子などに誘われて、彼女の子分の大石ゆきこ、小池智恵子、や近藤圭二らと場所を変え、「今
日はスゴかった、感動したね。来年ほ何処でやるのか楽しみだね」などと、コーヒーしながら反省会。
友の会のマドンナ星野幸子、宝飾関係の営業主任。黙って座っていれば、色白で京マチ子似のかなりの美形。しかし、少々ど酎酎になると
口が悪い。友の会1期生と自称し、有名人や先輩も、片っ端からこきおろす。聞いてるだけで退屈しない。が、美人薄命、彼女も平成12年逝去した。

 


東軍慰霊祭の想い出(1)-6

東軍慰霊祭の想い出(1)-6

郡 義武

次にお会いしたのが、会津史学会会長の宮崎十三八氏。早速、「東京会津会」にさそわれ、本日は参加してないが、郡荘一郎氏(会津藩家
老、抗戦派の責任をとり切腹した萱野権平衛の子孫)も喜ぶという。権兵衛の長子で同じく16歳で切腹した郡長正の話になった。なぜ萱野か
ら郡になったのか、私の質問に「母方の姓を名乗ったと、聞いてますが、今度調べておきます」との返事だった、が、間もなく、逝去されてしまった。
また、同じく会津の西郷頼母子孫(正確には、実弟の山田陽次郎)という、山本英市氏も紹介された。この人、やや酒癖がワルイのか? 私と話している最中も、度々立ち上がり「勝てぼ官軍、負けれぼ賊軍!」と咆哮する。
さらに、三次会ほ上野駅周辺は何処も満席なので、御徒町へ流れ流れて、居酒屋「八起」。ここまでついて来たのは、釣氏はじめ殆どが新選組関係の顔なじみぼかり、約30名弱。ここで、記念の集合写真をとる。
後で写真をよく見ると、釣洋一、菊池明、山村竜也、を初め、名古屋からきた柿内昭二や林昭二郎サン、さらに小林明子、高橋悦子、野田
雅子、岡田裕子ら、懐かしい(若々しい?)顔が写っていた。後日、清水理絵、京都からきた結害しはや、長田由美子らも慰霊祭には出席し
たと言い張るが、写真には写ってないので、三次会は来なかったようだ。
大出氏も初めての大任を無事こなし、肩の荷下ろして一安心の様子。ここからはみんな新選組の話に戻って、大いに盛上がる。相変わらず、山本英市氏の酔声が響く。誰か(私ではない)が、頼母はズルい、一人で逃げた? みたいな、言ってはいけないことを言った。英市氏顔を真っ赤にして、反論。これがしっこいので一座は少しシラけた。
ここで、天然理心流・瀧上鉄生剣七世から、丸い袖印と特別に手作りのハチガネを頂く。実戦にも使えるという立派なもので、今は亡き瀧
上氏(平成18年逝去) の形見として大切に保存し、居合いや剣舞をやるときに愛用している。


東軍慰霊祭の想い出(1)-5


福島県白河市の龍興寺で行われた第26回・戊辰役東軍殉難者慰霊祭(主宰・大出俊幸講師)は、10月7日(土)大勢の参集者を得て無事に執り行われました。東北の山寺で季節は秋、気候が心配でしたが当日は穏やかな晴れ日で風もなく、紅葉に包まれての厳粛でよき法要でした。
龍興寺・海野仁兆ご住職の読経と法話の後、ご焼香に続いて勝海舟ご子孫・高山みな子氏の挨拶、各ご子孫紹介などもありました。
暫しの休憩を挟んで、白河藩最後の藩主・阿部正外(まさとお)と白河にまつわる記念講演がありました。
講師を勤められたのは白河藩、棚倉藩の最後の元藩主のご子孫で阿部家22代当主の阿部正靖氏で、少々早口ではありましたが歯切れのよい聞きやすい語り口で、徳川家康公以来の幕府における阿部家の重要な役割がよく理解できました。
その後の懇親会は、美酒に加えて龍興寺ご住職自らが台所で腕を振るっての料理の数々で味も量も充分に堪能しました。
私(花見)は翌日に所用がありますので日帰り帰還でしたが、翌日の史蹟巡りバスツアーも盛大だったそうで何よりです。(村長)

郡 義武(こおり・よしたけ)
昭和十五年(一九四〇)三重県桑名市生まれ。
平成十二年大日精化工業(株)を定年退職。
現在上尾市生涯学習指導員、歴史作家。
主要著書に「桑名藩戊辰戦記」「秋田・庄内戊辰戦争」「坂井三郎{大空のサムライ}研究読本」「シリーズ藩物語・桑名藩」。
共著に「松平定敬のすべて」「戊辰戦争全史」「三百藩戊辰戦争事典」「江戸東京史跡事典」「新選組資料集」他多数あり。

東軍慰霊祭の想い出(1)-5

郡 義武

小嶋慶三氏は長身スマートかつ物腰も上品な好紳士。本日の慰霊祭の実行委員長である。武州忍藩から幕臣に養子入りし、衝鋒隊副隊長と
なり、同じく、副隊長で生き残った今井信郎よりも活躍した快男児・永井壊伸葬(別名、鈴木蜂之進、蝦夷矢不来で戦死、享年30歳)の子孫である。初対面ながら、いろいろな話をしたが、その要旨は、次のようだった。
「忍藩松平家(奥平)は文政6年(1823)、有名な一二万お国替えで桑名から忍(現・埼玉県行田市)に転封されたが、桑名時代が一番長く、
召年以上桑名にいたので(正確には113年間)懐かしい感じがする。しかし、桑名時代の記録はあまり残っていない」
私が「桑名薄からは、恭順派家老・吉村権左衛門を上意討ちした、山脇隼太郎、高木貞作(後、箱館新選組入隊) の両名が衝鋒隊に入っ
ている。
我家の分家からは、郡藤蔵が雷神隊に入っていた」というと、小嶋氏、大いに喜んで、「”1に衝鋒、2に桑名雷神、3に佐川の朱雀隊″、あの雷神隊ですか。(但し、この順位は桑名では逆になる)、衝鋒隊は負けると判っている戦いに、武士の義を通すために戦ったのです。
自費出版の『永井護伸斎博』は若干在庫があるので、後日、寄贈したい」(残念ながら、この約束を果たす前に、逝去された)
次にお会いした榎本隆充氏(榎本光学研究所所長)は、落ち着いた物腰で、人当たりも柔らかく、酒は強く、顔にも全然出ない。この時は、まだ鼻下の美髭? も生やしていなかった。
子爵榎本武揚の長男の子孫だが、「記録、資料は殆ど我家には残ってません。降伏の時に渡した『海律全書』などは、国会図書館にありま
す」(後日、榎本氏よりこれは宮内庁資料室の方です。との訂正があり、実物は傷みが酷いので、公開されてないが、複写版があるとのこと)「武揚は有名なので、映画、TVなどでドラマ化されるときは、必ず、挨拶があり、引っ張り出されたりで、結構忙しいです」とのこと。
「父上は何をなされてましたか」との私の愚問には、「戦前まで、爵位を持ってる人は、皆様償金が貰えました。高等遊民とでもいいますか、名誉職以外、特に何もしないのがイイのです」
とのこと。同氏の温厚な人柄は親しみやすく、その後も長くお付合いをいただくことになった。
続いて会った古屋寛氏(衝鋒隊隊長、古屋佐久左衛門子孫)は、酒をがぶ飲みし、かなり強そうだ。日大長谷川勉教授(つとむ、はペン
ネーム。会津・梶原平馬子孫) の教え子とのこと。ドイツ文学とヨットが趣味とかで、日焼けした、たくましい顔をしている。
が、家には資料は何もなく、佐久左衛門が蘭語で書いたとかの日記も見たことがないという。
時間がなかったので、来年の「歳三忌」で再会を約して別れる。


東軍慰霊祭の想い出(1)-4

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 郡 義武(こおり・よしたけ)
昭和十五年(一九四〇)三重県桑名市生まれ。
平成十二年大日精化工業(株)を定年退職。
現在上尾市生涯学習指導員、歴史作家。
著書に「桑名藩戊辰戦記」「秋田・庄内戊辰戦争」「坂井三郎{大空のサムライ}研究読本」「シリーズ藩物語・桑名藩」「航空映画百年史」「台南空戦闘日誌」。共著に「新選組大人名事典」「松平定敬のすべて」「戊辰戦争全史」「三百藩戊辰戦争事典」「江戸東京史跡事典」「新選組資料集」他多数あり。
東軍慰霊祭の想い出(1)-4

郡義武

桑名の殿様・松平走純(久松)氏には案内状は出したのだが、本日、あらためて挨拶しょうとしたが、殿様一行はすぐに車で別会場へと向われ、残念ながらお目通りはかなわなかった。
初お目見えは6年後、平成10年10月の桑名に於いての慰霊祭まで待つ事になった。チヨット見た感じは、色白で気品があり、幕末の桑名藩主・松平定敬もかくやと思われた。
慰霊祭終了後、ついでなので、寛永寺の徳川第1回東軍慰霊祭・3次会慶喜の謹慎の間などを見学。陣羽織、小机なども当時のまま置いてあったが、陽の当たらない陰気な部屋。ここで二ケ月、慶喜はヒゲも剃らずに、ただひたすら謹慎したと言うが、本当に、一会桑の京都時代のあれこれや、大阪城脱出などを真剣に反省したのだろうか……。
余計なことだが、慶喜の正妻美香子は江戸城に置きっばなしで、謹慎しながらも、慶喜は特にお気に入りの側室、新村信、中村幸の二人を
京都から江戸まで帯同していた。(側室は貴賎交々計10名)さらに、余計なことだが、この二人余程お気に入りだったのか、ナントそれぞれ、12人の子女を生ませ、(但し13人が成人したのみ)二人の側室は、その後、静岡へ行き、慶喜臨終まで付き従っている。
二次会は上野駅東「ニュー上野ホテル」3F会場。約60名参加。改めて小島慶三、宮崎十三八、榎本隆充、古屋寛氏などと名刺交換して歓談。同じ東軍なので、すぐ打ち解けて話は盛り上がったが、特に榎本、古屋氏の豪快な飲みっぷりは、さすが、酒豪の子孫だと納得した。


東軍慰霊祭の想い出(1)-3

東軍慰霊祭の想い出(1)-3

郡 義武

当日、西郷銅像前で杉昭氏と会い、寛永寺へ向かう。
予想に違わず大盛況、寺の入口で釣洋一氏と落ち会い、その他顔なじみの新選組友の会のメンバー多数と再会、長い行列の受付を済ませ大広間へ。(受付に初対面の美女がいた、後で大出氏に尋ねたら、それが「秀頴会」会長の西澤朱実だった。その後、拙著出版会の司会を頼んだり、資料を頂いたり、いろいろお世話になる事になる)
1時より法要開始、金箔の三ツ葉葵が輝く大広間、右側の来賓の顔ぶれを見て驚いた。宗家の徳川恒孝、松平走純(桑名藩)、松平保定(会津藩)、南部利剛(盛岡藩)、酒井忠久(庄内藩)らの著名な東軍の殿様が椅羅星の如く居並んでいる。
その後には、東軍有名人の子孫、小島慶三(永井護(左が虫偏)伸斎)、榎本隆充(榎本武揚)を初め、小栗上野介、佐川官兵衛、西郷頼母、古屋佐久佐衛門(古屋寛)、等、……名前を挙げきれない、とにかくズラリと揃っている。思わず、「125年前にタイムスリップ、このまま再度、戊辰戦争を戦いたい」とつぶやいてしまう。
会津からは代表宮崎十三八氏(郷土史家)以下、十四団体、バス2台に80余名が参加。参会者は、なんと総勢400名(『週間民社』記事)(『東京新聞』は300名)という多数の参列者は正に壮観だった。
先ずは小島慶三(日本新党・参議院議員)実行委貞長の挨拶。
「戊辰役は日本の夜明けの最大の事件。一身を投げ出して戦った東軍の魂は忘れてはならない。国を守る魂をもう一度、見直してはどうか。そのためにも、日本の近代化の原点にいた人たちの霊をなぐさめたい」
続いて、法要、列席者の焼香、来賓紹介、会津「白虎隊」剣舞奉納、最後に中村彰彦の講演「遊撃隊の戊辰戦争」と続き、午後4時終了。講演はマイクの調子が悪かったのか、あまりよく聞き取れなかった。

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戊辰役東軍殉難者慰霊祭白河史跡探訪ツアー

日時・平成29年10月8日(日)午前9時
集合場所・新白河駅
会費・5000円(昼食代含む)
定員・先着50名にて締め切らせて頂きます。(バス2台予定)
ツアー講師・白河史跡ガイドグループ
コース(予定)
新幹線新白河駅前出発、稲荷山、会津藩墓所、常圭寺、妙関寺、皇徳寺、棚倉城、蓮家寺、馬場都々古和気神社、仙台藩墓所、遊女しげの墓、桜山、小峰城、新白河駅にて解散(16:10着予定)。
申込締切  29年9月29日(土)までにお申し込みください。
≪ツアー申込先≫   慰霊祭事務局・会計担当 高橋悦子
口座名     高橋 悦子
口座番号     00150-1-708004
*口座入金確認後、折返し領収書をお送りします。
*趣味の会ですので、各自で保険に入ってください。
会費について・・
申し込み後、都合で不参加になった場合について記載します。
*10月6日午前中までにご連絡があった方(前日午前中)
後日、現金書留にて全額返金致します。
*上記以降にキャンセルのご連絡があった方及び連絡なくキャンセルの方
慰霊祭会費:返金できません。(記念品を郵送致します)
懇親会会費:返金できません。
ツアー会費:後日、現金書留にて全額返金致します。
*返金は事務処理後になりますので、少々お時間を頂きます。
連絡先 大出俊幸  〒270-0116 千葉県流山市中野久木572-44
FAX:04-7153-3506
TEL:090-7736-9073
*都合で欠席される場合は大出の携帯に必ず御連絡お廉いします。
------------
新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
http://tomonokai.bakufu.org/


東軍慰霊祭の想い出(1)-2

戊辰役東軍殉難者慰霊祭白河史跡探訪ツアー

日時・平成29年10月8日(日)午前9時
集合場所・新白河駅
会費・5000円(昼食代含む)
定員・先着50名にて締め切らせて頂きます。(バス2台予定)
ツアー講師・白河史跡ガイドグループ
コース(予定)
新幹線新白河駅前出発、稲荷山、会津藩墓所、常圭寺、妙関寺、皇徳寺、棚倉城、蓮家寺、馬場都々古和気神社、仙台藩墓所、遊女しげの墓、桜山、小峰城、新白河駅にて解散(16:10着予定)。
申込締切  29年9月29日(土)までにお申し込みください。
≪ツアー申込先≫   慰霊祭事務局・会計担当 高橋悦子
口座名     高橋 悦子
口座番号     00150-1-708004
*口座入金確認後、折返し領収書をお送りします。
*趣味の会ですので、各自で保険に入ってください。
会費について・・
申し込み後、都合で不参加になった場合について記載します。
*10月6日午前中までにご連絡があった方(前日午前中)
後日、現金書留にて全額返金致します。
*上記以降にキャンセルのご連絡があった方及び連絡なくキャンセルの方
慰霊祭会費:返金できません。(記念品を郵送致します)
懇親会会費:返金できません。
ツアー会費:後日、現金書留にて全額返金致します。
*返金は事務処理後になりますので、少々お時間を頂きます。
連絡先 大出俊幸  〒270-0116 千葉県流山市中野久木572-44
FAX:04-7153-3506
TEL:090-7736-9073
*都合で欠席される場合は大出の携帯に必ず御連絡お廉いします。
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新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
http://tomonokai.bakufu.org/


東軍慰霊祭の想い出(1)-2

郡義武

第1回 東軍慰霊祭ー1

平成4年(1992)10月3日(土)
上野寛永寺
祭主‥松平保定 実行委貞長‥小島慶三
講演‥中村彰彦 事務局‥大出俊幸

平成4年秋、第1回戊辰役東軍殉難者慰霊祭(以下東軍慰霊祭と省略)が開催された。
「ふるくには戊辰役から五十年目、ときの宰相原敬が主宰して、盛岡で東軍戦没者慰霊祭がとりおこなわれました。
そして、今秋、戊辰役から百二十五年目にあたり、会津藩・松平容保の末喬であられる松平保定氏を中心に東軍戦没者の霊に合掌したく、慰霊祭を企画いたしました。たくさんのおいでをおまちしています(平服でお願いします)」
との案内を新人物往来社大出編集局長からいただき、〝これは凄い、このイベントを待っていました〃と我家の分家筋の郡杉昭氏などをさそって、喜び勇んで出席した。
杉昭氏は我家と同じ桑名藩士(下級武士)子孫だが、大正15年生まれ、毎日放送プロデューサー(「特別機動捜査隊」「寺内貫太郎一家」などを手がけた)を経て、現在は、鶴川駅前で学習塾「総数学院」を経営、また立教大マスメディア論の講師でもある。また日芸(日大芸術学部)卒だが、同期に石井ふく子(後、プロデューサー)がいたそうだ。
さらに、ここだけの話としては、なんと、杉昭氏先祖の一族が龍馬殺害に一役買っていた!のである。殺害の実行犯は、今では京都見廻り組佐々木只三郎率いる配下の5名(渡辺篤、今井信郎、桂早之助、高橋安次郎、世良敏郎)が、最も有力視されている。
渡辺篤の手記に、「現場に刀の鞘を忘れ残し返りしは、世良敏郎という人にて……」とある通り、この世良敏郎は、桑名藩士小林甚七で、京都見廻り組世良家に養子入りした人物である。
(詳しくは、菊池明『龍馬暗殺完結編』新人物往来社、をご覧ください)
そして、この小林甚七の妹・舜(たつ)が同じ桑名藩士の郡藤蔵(杉昭の曾祖父、後、雷神隊)に嫁いており、すなわち、郡家と小林家、世良家は親族なのである。(どうやら、私の龍馬嫌いは、このDNAのなせる業らしい)
杉昭氏、この日の慰霊祭で本懐を遂げられたのか、翌年、突然逝去された。享年67歳。


東軍慰霊祭の想い出(1)

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第26回 戊辰役東軍殉難者慰霊祭

戊辰戦争は苛酷な戦いでした。
政権奪取のための戦いを続けた西軍の前に、敗れた東軍の戦士たちは生きがたい世を生きのびて来ました。
今年は会津戊辰戦争の勝敗を決めた白河で戊辰役東軍殉難者慰霊祭を行います。
どなたでも参加できる会です。たくさんのお出でをお待ちしております。
日時・平成29年10月7日(土)午後2時30分
場所・龍興寺(山の寺)白河市向新蔵131
TEL O90-7939-6087
内容・読経・龍興寺住職 海野仁兆氏
祭文奉読、焼香
記念講演・阿部正靖氏(阿部家22代当主)午後3時30分
『白河最後の藩主・阿部正外』

慰董集会費・3000円(記念品含む)当日参加できます。
懇親会・龍興寺、会費3500円・午後5時30分
(当日払い可ですが、事前に申込をしてください。)
事 務 局
270-0116
千葉県流山市中野久木572-44
大出俊幸  EAXO4-7153-3506
携帯090-7736-9073
ノーー、阜-1-α月-&臥の白河戊辰戦ツアーは、詳細i
慰塞祭及び懇親会申込先
《お振込先》慰霊祭事務局・会計・高橋悦子
郵便振替口座名・高橋悦子
口座番号・00150-1-708004
*口座入金確認後、折り返し領収書をお送りいたします。

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東軍慰霊祭の想い出(1)

郡(こうり)義武

今から凡そ100年前、大正6年(1917)9月、岩手盛岡で「戊辰戦争殉難者50年祭」が挙行された。
祭主ほ政友会総裁の原敬(旧盛岡藩士)である。原は14歳で戊辰戟争を経験し、政界においても、常に薩長藩閥との戦いを続け、「一山」と号した反骨者である。(明治になり薩長新政府は「白河以北、一山百文」と、東北を蔑視した。それを逆手に取った、原の憤怒の諧謔である)
この慰霊祭で、原敬は次のような有名な祭文を朗読した。
「同志相謀り、旧南部藩士戊辰殉難者五十年祭、本日を以て挙行せらる。顧みるに昔日も亦今日の如く、国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ。当時勝てば官軍負くれば賊軍との俗謡あり。今や国民聖名の沢に浴し、此事実に天下に明らかなり、諸子以て瞑すべし。
余偶々郷ににあり此祭典に列するの栄を荷ふ、乃ち赤誠を披瀝して諸子の霊に告ぐ
大正六年九月八日 旧藩の一人 原敬」
戊辰の戦いは、「政見の異同」のみ、すなわち、政治的見解が違った為であり、勝者も奢らず、敗者も卑下しなくて良い、というものであった。
それから時を経ること75年。「その後、誰もがやらないのなら、断固、私がやるしかない」
決然と名乗りを上げたのが、新人物往来社の辣腕編集局長(当時)大出俊幸、その人であった。
大出氏は皆様ご存知の通り、本業の出版以外にも、「新選組友の会」「因島自由大学」「本の会」「民学の会」「史遊会」などを主宰する、超多忙な人物である。また、その人脈は広大で、ノンフィクション作家の佐野真一をして「出版編集者で大出俊幸を知らないのは、モグリである」といわしめている。
さらに、数々の新人ライターを発掘し育て、また一方では「武功夜話」「離(上に草冠)蔭史話」「新撰組永倉新入」等々、の貴重な古文書を、装いも新たに世に送り出した功績は不滅である。その大出氏の数ある業績の中でも、最も渾身の努力を続けているのが、東軍慰霊祭(戊辰役東軍殉難者慰霊祭)であると思われる。
事実、この会報製作を手伝う幅雅臣民(装丁家)も「大出氏の数ある業績中、最も重要なものが、この東軍慰霊祭である」と、はっきりいっている。

東軍慰霊祭は今年で早くも24回(年)目を迎えた。振り返り見て、記憶に残る初期の熱気に包まれた慰霊祭の想い出を、いくつ
かお話しし、その記録を後世に残すことも、意義あることと考える。
参加者名簿をみると、既に鬼籍に入られた方が多いのにほ、時の流れを感じ粛然とせざるをえない。が、その時以来、長く親しくお付き合いをいただいてる方々、また慰霊祭で会えることを楽しみにしている方々も多い。