第三回 東軍慰霊祭-5

 

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その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
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東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第三回 東軍慰霊祭-5

船岡住職の話が面白かった。昭和初期(12年?)もう良かろうと、継之助~精一郎の子孫が同寺に会した。初めは和気裔裔だったが、やがて、話が北越戦争に及ぶや、雲行きが怪しくなり、終いにはにはケンカ別れしたという。この一部始終を、少年時代の住職が、障子の蔭からみていたというのだが……。
午後4時半終了。集合写真をとり、それぞれバス、電車、タクシーに分乗し、懇親会会場、長岡駅前「小嶋屋」へと向う。島津隆子先生、安田則子(旅行家)、森田由紀(画家)らのお姉様方と一緒のタクシーで同行。が、すぐ車内で吊し上げを食らう。
「パンフに小千谷の地図が入ってない」、「慈眼寺は長岡駅前だと思っていた」、「今夜の宿も紹介してくれない」云々。私は平身低頭するのみ。
6時前に小嶋屋へ。大部屋30名、小部屋数名で予約したが、地元の飛び入り、その他で倍近い50数名に膨れあがってしまった。これからは大混乱。大部屋の床が抜けると店員に驚かされ、別の小部屋二つを確保するも、たちまち、定員オーバー。
それからまた、小嶋屋はパニック、火事場騒ぎは続く。
「幹事、ビールがない、酒もナイ。料理もこない」
「私は幹事ではナイ、明日のツアーガイドです」
(が、誰も聞いてくれない)
「こんな店を予約したのは誰だ」(ハイ、それは稲川氏です)
「幹事がナンデ女の子の隣に座ってるのか」(釣先生ど立腹と、吉地氏の注進あり)
「何が雷神隊だ!会津が一番だ」、「イヤ、強いのは衝鋒隊だ」
「この酒(八海山)はウマイ、もっと持ってこい」……かくて越後の夜は更けてゆく。
アカデミツクな、同じ目的を持って集まった会でも、酒が入ればこの通り。まして利害の違う奥羽列藩同盟など、瓦解するのは当然であった。


 

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東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第三回 東軍慰霊祭-4

第三回 東軍慰霊祭
平成6年10月8日(土)
小千谷・慈眼寺
祭主‥小島慶三 実行委員長‥船岡芳秀
講演‥石原和昌 事務局‥大出俊幸

正午、慈眼寺着。門前で榎本揚武ご夫妻と「新選組友の会」の元気印、岡田祐子とバッタリ(彼女の実家はこの近くだという)。誰も来ぬうちに、本堂右手奥12畳半の河井継之助-岩村精一郎、会談の間に入り、河井の場所に座って見る。
河井は長岡藩(7万4000石)が武装中立を維持しっつ、本気で東西両軍の仲介ができると考えていたかは、大いに疑問がある。生意気な岩村の若僧も、横暴で仙台藩士に斬られた、世良修蔵の次に評判が悪い。
が、一つ弁護すれば、慶応3年12月7日の京都天満屋事件。紀州藩三浦休太郎を護衛する新選組に、殴りこみをかけた、土佐藩士10数名の中に岩村もいた。オツムの方はともかく、度胸だけはあったのではないか。
釣洋一、吉地厚生、石原和昌氏等次々と到着。
各地からの参加者60数名、たちまち本堂が一杯になる。(心配した床は抜けなかったが、先の中越地震で倒壊し、再建されたことは記憶に新
しい)
午後1時、慰霊祭開始。船岡芳秀住職の読経、小島慶三氏の祭文奉読、参会者の焼香と続く。
休憩後、石原和昌氏講演「良知の人・河井継之助」に入り、山田方谷と朱子学を中心に一時間はど話される。
続いて来賓挨拶、子孫紹介。主な方々は次の通り
小嶋慶三(永井隻
午後1時、慰霊祭開始。船岡芳秀住職の読経、
小島慶三氏の祭文奉読、参会者の焼香と続く。
休憩後、石原和昌氏講演「良知の人・河井継之
助」に入り、山田方谷と朱子学を中心に一時間
はど話される々

続いて来賓挨拶、子孫紹介。主な方々は次の通り
小嶋慶三(永井?伸齊子孫)
根岸満(河井継之助子孫)
榎本揚武(榎本武揚子孫)
古山練次郎(新潟戊辰の会会長)
丸山定太郎(小千谷商工会議所副会頭)
松山賢二(継之助を偲ぶ会代表)
星亮一(作家、郡山在住)
稲川明雄(長岡市史編纂室)
兵頭武郎(日本文芸社社長)
古屋寛(古屋佐久左衛門子孫)
西ノ人傑一(小千谷収入役)
太田修(長岡市会議員、継之助を偲ぶ会)

さらに釣洋一、小石房子(作家)、島津隆子、桐野作人、私などが続く。
司会の大出氏は私のことを、新選組・関川代次郎子孫と紹介されたが、実は、今回は雷神隊のつもりである。
「郡藤蔵は天保十年生、在府御徒役10石2人扶持。江戸より藩主と海路新潟へ。雷神隊に入り、北越戦争に参加。維新後は岸栄塾にて算術を修
め、三重度会県会計課に出仕。藤蔵は反骨精神の固まりで、時の県令山崎直胤(土佐)に容れられず、恩給年限にあと一ケ月で退職した。(石井勇次郎も、同じく第2課に出仕、やはり、まもなく故郷柏崎に帰った)
このように、郡家には脈々と反骨の血が流れており、勿論、この私にも流れている」(あちこちから失笑あり)

 


第三回 東軍慰霊祭ー3

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東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第三回 東軍慰霊祭-3

頂上南側にほ桑名雷神隊などが築いた、仏式塹壕が40~50メートルぐるりと連なっている。
深いところは1メートル以上あり、二股台場山より深い。また、付近には東軍兵士の墓が点在し、七基が数えられた。
慶応四年(1868)五月十三日、この山を巡り激戦が展開された。長州奇兵隊、薩摩隊などが、濃霧のなかを頂上めざし駆上った。前哨の会津鎮将隊ほ打ち破られたが、頂上を守る立見鑑三郎(後、陸軍大将)率いる桑名雷神隊、長岡安田多膳の槍隊らは頂上を死守。
立見の奇策もあり、この戦いで、奇兵隊仮参謀・時山直八(30歳)が戦死、西軍は大敗して下山した。時山を狙撃したのは、桑名の三木重
左衛門。三木は代々、火術師範の家柄で自身も名手だった。       、
時山は松下村塾出身の、火の玉の如く闘志にあふれた男である。彼も長州より遥々越後まで来て、無念の死を遂げたのは気の毒だが、実は、京都でも二度、新選組の追求を逃れている。
先ずは、文久三年(1863)八月、豊後屋で土方歳三率いる新選組の御用改めを受け、「長州藩、萩野鹿介でどざる」と、ふざけた偽名で逃れ、翌年六月、池田屋でも時間に遅れて斬られずにすんだ。
莫逆の盟友、時山を失った奇兵隊参謀・山県狂介(有朋)は、時山の首ナシ遺骸に取りすがり、〝鳴呼直八、死して、死せず″と号泣した。
さらに、ここで苦吟した有名な一首がある。

あだ(賊)守る砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風

名残はつきぬが時間が無い。車にもどり、四合目まで下った所に分譲地の看板あり。値段を聞けぼ、坪八千円。安いので百坪ほど買って、
ここに別荘と墓を建てようかと、マジに考える。
(去年の函館碧血碑とここ朝日山の二カ所に分骨する必要がある)
小千谷に戻り、船岡公園でタクシーを下りる。
ここには立派な百九十八体の西軍墓地がある。
薩長仲良く並んでいるが、形が違う。右手にひときわ大きな時山の碑が建っている。西軍なので長居は無用、写真を撮り、すぐ引上げる。
時間は11時半、少し早いが昼食とする。運チャンに聞いた〝へぎ蕎麦〃の老舗「角屋」を探して入る。店内で、聞き慣れた懐かし声がする。
なんと大出氏である。他に常総歴研代表の八巻実、渡辺鞆哉の両氏、高橋悦子のご一行である。
早速、同席し、奇遇を喜ぶ。


謹賀新年 第3回・東軍慰霊祭ー2

謹 賀 新 年

謹んで新年のお喜びを申しあげます。
私は新人物往来社の元編集者&社長として歴史関連書籍を千冊以上世に出して参りました。それによって、勝者が敗者を裁き、旧令を廃し新たな秩序をつくる政略的経緯や矛盾も熟知しています。
その反動として、政治的策略とは無縁な立場で、義と仁のために激しく燃えて散った若者たちの純粋で熱い姿にエールを送るに至っています。
時は移り、昭和、平成の世も過ぎ、あと1年余で新たな年号の新時代が訪れます。北朝鮮のミサイル開発に伴う国際紛争への危機感が高まる中、我が国の安全と繁栄を盤石にする道はあるのか? 歴史は繰り返す、という言葉もありますが、異国の列強が日本への支配力を強めるべく迫った幕末にも、海軍や陸軍を創設し、太平洋横断を試み、国の総力を挙げて各国の文化文明に学び、国を分けての内乱後も一致団結して国難を克復した勤勉で強靭な国民性を省みれば、日本を脅かす現在の国際的逆境も乗り切れないはずはありません。これからも歴史に親しみ歴史に学び、それを現代に生かすことこそを祈念して新年の挨拶とさせて頂きます。
平成30年元旦
大出 俊幸

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東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第三回 東軍慰霊祭-2

稲川氏は最近、『長岡城奪還』なる労作を上梓された、なかなかのサムライだが、顔に似ず?酒、煙草全然ダメ。ウ一口ン茶で私の相手をして下さり、私は生ビールで申し訳なし……。
実は、稲川氏は、昔はアンチ河井継之助派だったという。数年前、大出氏が安藤英男先生と『継之助写真集』などの企画で、長岡を訪れたときは、木で鼻をくくる冷たい態度だったと言う。
事実、長岡を戦火に巻込んだという理由で、継之助嫌いほ多かった。が、その後、観光町起しや、司馬遼太郎の『峠』の影響で、継之助ほ
徐々に復権した。そして稲川氏も今や、継之助様々である。これと同じ事が、連合艦隊司令長官・山本五十六にも起こつている。(やはり、
五十六も終戦間近の長岡空襲で市民に恨まれたが、今や、立派な記念館が出来ている)
ここで回想の糸が切れた。検札で車掌に起こされた。「ナンデ、2時間足らずの車内で、検札するのか」と寝起きのワルイ私ほカランデやった。車掌、ケロリとした顔で、「これは規則ですから、ところでこの絵葉書は如何ですか。期間限定の特別製です」。
9時27分、長岡駅着。すぐ信越線に乗換え、9時42分、小千谷着。改札に駅長がヒマそうに立っていた。「慈眼寺まで歩いてどれぐらい?」。
駅長「ジグンジ? さあ知りません。何町でっか、それは」。
日頃は温厚で通っている私だが? これには少し立腹した。
「オ、、、しやん、小千谷の駅長なら、もっと勉強せなあかんでや」と、河井継之助の口まねをして、目を白黒させてる駅長を後に駅を出た。
この話はどうでもイイが、駅前からタクシーに乗り、朝日山へ向う。浦柄川を渡り、急な登りに入る。中型タクシーがヤットの細い道だが、半分ぐらいは舗装されている。頂上にはトイレ付展望台も完成し、立派な小公園になっている。
「朝日山古戦場」の碑あり。会津の松平恒雄の揮毫である。さすがは長岡戦争の天王山、頂上よりの視界は絶景である。思わず快哉を叫び、
去年のように、何か歌おうと思ったが、適当なメロディが浮ばない。
眼下にはゆるやかに蛇行する信濃川、が、水量は少ない。対岸の三仏生から先ほど登ってきた榎峠、妙見まで手に取るように見える。仕方
がないので、「水の流れに花びらをそっと浮かべて泣いたひとー
と、五木ひろしの「千曲川」を歌ってみる。が、どうもしっくりこない。

 

 

 

 

に縁のん気念

 

はいまも生きているのか? いまや経済力と軍事力共に大国になって日本を脅かす存在となった中国、いつでも日本に牙を剝く可能性のあるロシヤ、太平洋戦争で日本を完膚なきまでに叩き潰して進駐占領、いまや同盟国として日本を支配下におくアメリカ・・・いま、日本を取り巻く国際的環境はかなり厳しく、このままでは独立国としての日本は単独では生き抜けません。、。。のかの脅威は、やてにも崩れなかったからも立ち直ったにも崩れなかった必死で二本を幕末の外国。今こそ日本人としての誇りを取り戻し、若者に期待するだけではなく我々昭和10~20年世代が精神的㎡支柱となって、日本国および国民のために

 

 

の我哀れの再構築のためにも歴史は発展

 

ずを否応なしに嫌と言うほど生み出して捌くが、まだまだ歴史上の事物や人物に謎は尽きません。しかも、生存のために戦うという人間の生物としての本能が、義や仁のために戦った個人や地域から国益と言うい家や民族の存亡を賭けての欲得の争いに

 


第三回 東軍慰霊祭-1

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東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第三回 東軍慰霊祭-1

平成6年10月8日(土)
小千谷・慈眼寺
祭主‥小島慶三 実行委員長‥船岡芳秀
講演‥石原和昌 事務局‥大出俊幸)

第一日 10月8日(土)晴
上野発7時50分「あさひ」507号で出発。
休日で行楽シーズン、車内はほぼ満席。生活に疲れた中年男は、すぐ居眠りにおそわれ、夢こどちで回想する。
それは今年の「歳三忌」の四次会の席上だった。人使いの上手な大出さんより、「次の慰霊祭は長岡・小千谷です。雷神隊の子
孫として、郡サンに案内役をお願いします。但し、やるからには、去年の山本博司先生に負けずに勉強して下さい」      ゝ
と、半ば要請、半ば命令である。
このような場合、大出氏は辣腕の新人物往来社編集局長に変貌し、秋霜烈日、反論は全く許されない。(知ってる人は知っている。後でこ
の話を聞いた菊地明氏、ウン、ウンと大いにうなずく)
私は元々、頼まれるとイヤといえない性質である。これは、幕末京都所司代を引き受け火中の栗を拾った、桑名藩伝統の悲しいサガなのか。
悩んでいる内にニケ月過ぎ、七月末、森清書子先生の出版記念会であった大出氏、開口一番、「長岡ツアーのガイドブック、早く作成して下さい」矢は弦を放たれた。
そして、今年の夏の盆休み、記録的猛暑の白昼、猫の子一匹通らぬ、埃っぼい長岡の裏通りを、汗水たらしてさすらう中年男がいた。何故
か、突然、西部劇「真昼の決闘」を想い出した。
が、ゲイリー・クーパーの保安官のように格好よくはない。
栄涼寺(地元では、何度聞いてもイーリョーズ)から長興寺を回って駅前へ。市役所市史編纂室の稲川明雄氏と会い、ツアーの打合せをす
る。同氏日く、「よく慈眼寺で、できますね。重要文化財だし、本堂の床が抜けるとかで、今まで殆ど断っていますよ」、ここでも、大出氏の凄腕に感心する。


第二回 東軍慰霊祭ー7

 

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東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第二回 東軍慰霊祭ー7

森町の「霊鷲院」で昼食。歳三初め脱走軍上陸の地、鷲ノ木浜で全員記念撮影。榎本氏とも写真に収まる。
晩秋の蝦夷の浜辺は妙にうら淋しい。あの時は大雪で、歳三は震え上がっただろうが、桑名の石井勇次郎、関川代次郎などは、越後暮らし
が長かったから、あまり驚かなかったのではとも思う。
駒ヶ岳の山頂が、昔の写真とは少し違う気がする。やはり、最近一部崩落したとのこと。榎本軍が上陸したころは、ブリユーネの絵の如く
もっと鋭峰だったのではなどと考えつつバスに戻る。帰途ほ森町~峠下~七飯~函館駅のコース。
車内では大出氏の司会で参加者全員の挨拶。
榎本氏が来年もぜひ参加したい、と述べられたが、二日間の短い日程とはいえ、一期一会、初対面の人もすぐ打解けた楽しいツアーで、名残は尽きない。
車内で函館の感想を尋ねられた私は「老後は、ここでノンビリ海を眺めながら暮らしたい」。
すかさず、後席の島津先生、「ついでに、お骨も碧血碑に埋めて貰いなさい」(上品な物腰の島津先生だが、言うことは結構、キッイ)
駅前で再会を約して解散。また大出、釣氏ら
と反省会で一杯。時間があったので摩周丸へ寄る。夕暮れの函館湾が美しく、柄にもなく少し感傷的になる。
「赤い夕日よ燃え落ちて 海を流れて何処へ行く……
と小林旭の歌まねしていたら、「今度はギター抱えてくるとイイヨ」と鬼釣先生。函館に逗留する釣氏と別れ、空港に引返し、土産袋を手にした観光客で満席のJAL最終便で、大出氏と帰途につく。やれやれ……。


第二回 東軍慰霊祭ー6

東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第二回 東軍慰霊祭ー6

第三日 10月17日(日)雨のち晴

激戦地ツアー

朝、突然の激しい雨音で目がさめる。時計を見ると6時半。
「歳三の涙雨です……」釣サンのボヤキを聞きながら、身支度して食堂へ。すでに山本氏は食事中。ナント早いと思ったら、実は、昨夜あの
ままの格好で寝てしまったとか。(さすがは元自衛隊、やることが素早い)
出かける頃には雨も殆ど止む。振り返れば函館山に雲有り、我に天佑あり。8時前に駅前に、すでに大出氏、高橋悦子がおり、「誠」の旗が翻る。北海道新聞に、すでに慰霊祭の記事あり。
点呼をとり、総勢30名弱、元気にバスに乗車し出発。
本日のガイドは、市内は釣、市外は山本博司の両氏。鬼釣先生はすでに迎え酒で上機嫌。
大出氏の第一声、「本日、初参加の方もあり、碧血碑も回ります」車内騒然、特に昨夜わざわざ行ったギャルたちは、ダハンコク(エゾの方言、無理を言って泣く) こと。
バスは碧血碑~歳三碑~一路、大野の光明寺へ。ここは矢不来で戦死した永井蝮伸斎の墓と、官軍の合葬墓がある。ここも日当たりのよい場所が官軍である。
再びバスに乗り、全山紅葉真っ盛りの国道227号を中山峠二股へ。車内で熊がでるから注意、単身行動不可の達しが有り。今年は山も不作でグリズリーが出没するとのこと。バスを降り、官軍の碧血碑から少し戻る。
ここで大野町教委関係、地元有志20数人、佐藤先生引率の大野農校歴研グループ10数人が合流し、俄然、賑やかになる。官軍墓と薩藩卒某業
の墓が有り、長靴姿で付近の熊笹を刈っている地元の方がいる。営林署の人かと、よく見れば、昨日ユニークな話をした小井田氏なり。
早朝の雨と大勢に踏まれて、泥んこになった山道を、足を滑らしつつ二股の峠へ登る。どこがイナズマ型陣地か、イヤ旧陸軍の演習跡かな、と勝手な想像を巡らしていたら、おいてけぼりを食う。
ハッチヤキこいて駆け下りると、突然、熊笹がガサ!、出た熊だ!。
視線があったら熊がニヤリ。よく見たら、一人でキジを撃っていた、ツアーの関西系某男性会員。帰途、案内板をみたら「二股古戦場」と
あり、ど丁寧に甲胃姿が書いてあった。
バスは国道5号へ戻り、大沼、小沼、湖畔を走る。初めて見る駒ヶ岳が、絵のように美しい。

 


第二回 東軍慰霊祭ー5

東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第二回 東軍慰霊祭ー5

去年の慰霊祭でヒンシュクをかった山本英市氏は、今回自粛され、借りてきた猫のごとし。(実は、大出氏の密命により、私が、「本日は何卒穏便に」とけん制したのが功を奏す)が、代わりはいるもので、かわりに大声を発したのは、神山茂郎氏(茂の息)。幼時より畑の柿ひとつとらずに、会津武士の伝統を守ったと力説。
さらに元気良かったのが、南部の爺サマ杉原亨三氏(盛岡藩家老子孫)。当年88才。今回出席者の最高齢。古武士然とした方で、入歯の具合が悪いのか、大声で発声のたびツバキが飛ぶ。
「桑名藩も先が読めないが、盛岡藩はもっとヒドイ。ガハハハ……」そのたびに、バッパパ。
その間、20分、私の手を堅く握りつばなしで、もがいても脱出できないのだ。最後にお流れ頂戴して別れたが、その昔、関ケ原前夜、大谷
継の鼻汁が落ちた大杯を黙って飲干した、石田三成の心境もかくやと思われた。
三次会は民宿「ひじかた」へ集合。大出俊幸、長谷川つとむ、釣洋一、山本博司、山本英市、島津隆子、安田則子(島津女史友人、旅行家)、森田ゆき(島津女史友人、画家)、広瀬るみ(札幌、クリニック院長)、の諸氏でまたまた大いに盛上がる。夜9時過、福岡からの永富治美、日立の清水理恵、ら若い女性も到着。手にライトを持ってる人もいる。聞けば、暗夜の「碧血碑」訪問をしてきたという。思い込んだら、命がけ……。
次々と話題はつきず。歴史、旅行、食べ物、森田女史と映画の話(これがまた、「商船テナシテー」(34)「望郷」(36)など、古いのばかりだ)まで、お姉様方相手に盛り上がる。特に安田サンは、小柄だが、女だてらに単身、ガダルカナル島に暮らしたことがあるという、世の中怖いものなしの古狸だ。
11時、この宿は満員御礼とのことで、釣、山本(博)、私の3名は近くの旅館「喜多美」へ移ることにする。(「ひじかた」宿泊は大出氏以外全員女性とのこと、ダイジョウブか?)

旅館でまた飲直しながら、明日の予定などを打ち合わせ。山本氏より、箱舘新選組に入隊した桑名藩士石井勇次郎の「戊辰戦争見聞略記」
の評価を聞き、発見者としては嬉しくなる。いつのまにか酔いつぶれて寝る。


第二回 東軍慰霊祭ー4

東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第二回 東軍慰霊祭ー4

主な挨拶、紹介者は次の通り。
榎本揚武(榎本武揚の子孫)
小嶋慶三(永井蟻伸舞子孫、参議院議員)
長谷川つとむ(日大教授、会津梶原平馬子孫)
山本英市(会津・西郷頼母子孫)
神山茂郎(会津・神山茂子孫)
杉原亨三(盛岡藩桑田理事長)
中居俊(〝副理事長)
合田一道(北海道新聞社)
村井雄一郎(古銭研究家)
小井田武(大野地方史代表)
石橋藤雄(開陽丸青少年センター理事)
山本博司(北海道幕末維新史代表)
釣洋一(新選組研究家)
島津隆子(歴史作家)

村井氏の話、「榎本ブヨはただのゴロ合わせ。榎本のニセ金も、手のこんだ加圧型鋳物で、五稜郭で簡単には作れない。すべて明治新政府のデッチ上げです」との嬉しい話。
続いて、小井田氏の話は、チヨットユニーク。「ティタ話ケンド、ヒズカタトスゾウハ、ココデスンズマッタンダ……」(大受け)
私もウトウトしていたら、突然、大出氏に指名された。赤穂浪士は360人が47人、桑名藩士の新選組は1800人が20数名となった。さらに「一に衝鋒、二に桑名、三に佐川」の東軍強者番付が桑名でほ順番が逆になる。という話でお茶を濁す。(やや受け)

懇親会は護国神社内の「汐見亭」。会場差し回しのバスで5時着。途中、隆仙氏の案内あり。汐見亭はその名の如く、海を見下ろす高台にあり、函館湾の眺望が見事だが、内部もかなり立派。入口に「歓迎、人物復来社御一行様」の看板あり。(マ、イイか)
隆仙氏の音頭で乾杯。〝酒飲みとかけて、奴豆腐と解く。その心ほ、初め四角で後はグチャグチヤ″……。旅の恥は掻き捨て、というが、
とにかく大いに盛上がる。いろいろな人達と歓談したが、特に記憶に残るエピソードを少し紹介。
先ず、榎本ご夫妻。揚武氏大正4年生まれ、78才、気品ある老紳士。昔は酒豪、シルクロードに興味あり。戦前は近衛兵で2・26事件にも
出動。その後、日本郵船勤務で諸国歴訪、英米独日、四カ国の空襲を受けた経験があるという国際派。その話の途中、側に控えし美人の奥様
(美大卒)がチョコチョコとフォロー。すかさず、「あなたは黙っていなさい!」とピシャリ。これを度々繰り返すのが、なんとも微笑ましい。(平成11年11月9日逝去。墓は東京駒込吉祥寺)。

 


第二回 東軍慰霊祭ー3

東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第二回 東軍慰霊祭ー3

近くの函館八幡宮へ参詣し、タクシーで新選組や先祖の関川代次郎も守備した弁天台場へ向う。が、何も無い。巨大なクレーンが立つ函館
ドッグ前に、昭和34年建立の白木の碑のみ。ここから背後の函館山を振り仰ぐ。新政府軍が奇襲した七面山とは右の高台か、などと考えつつ、待たせてあったタクシーで高龍寺へ。
「傷心惨目」の碑などカメラに収めて、釣先生の発案で横山松三郎(近代写真術先覚者)の墓を釣氏と手分けして探す。山腹に階段状になっ
た広い墓域を駈け回る。あった、左手奥の雑草に覆われた小さな墓だった。
時刻は正に正午、時間がない。外人墓地はあきらめて、船見町の称名寺へと急ぐ。受付を済ませ、隣の実行寺へも寄る。称名寺は箱館新選
組の屯所で、戦争終結後も隊士が収容されていた所で、妙に懐かしい感じがする。しかし、実は、歳三らがいた頃は、道路の向かい側にあっ
たが、明治12年の大火後に現在地に移ったものだという。
司馬遼太郎『燃えよ剣』のラストは、歳三の恋人お雪が、日照雨の降るなかを、称名寺へ墓参りにくるシーンである。しかし、この日は、
日照雨も降ってなかったし、私は「お雪」みたいに歳三の碑に取りすがったりはしなかった。
(大体、函館でほ日照雨など滅多に降ったことがナイという)

午後1時より本堂にて法要。ここで、大切に持参した歳三の位牌(「お仏壇の長谷川」で作成した、自前の特別製)を取り出しチャツカリ
と、〝魂入れ〃もお願いする。50数名の参会者があり、須藤隆仙住職の読経、小島慶三氏(日本新党・参議院議員)の祭文奉読、焼香と続く。
司会は高橋昌弘氏(南北海道史研究会)が努める。
隆仙師はフツーの住職ではない。「南北海道研究会」を主宰し、図書館古文書講師、函館文化財審議委員、さらに、刑務所の教詭師を努め
る、など、多彩多忙な住職である。歴史関係の著作も多い。
最後に地元の宇佐美城峰氏(錦城流師範)の吟詠があった。

碧血碑        宮本小一作

戦骨全く収まりて 海勢移る 粉華誰か復た当時を記せん
鯨風鰐雨 函山の夕 宿草茫々たり碧血碑
(明治34年8月)
この詩碑が碧血碑の側にあると言うが、気がつかなかった。
休憩後、講堂にうつり、懇親会。榎本揚武氏初め来賓の挨拶。さらに、遺族紹介と続く。その後、長谷川つとむの講演「伊庭八郎、箱舘に
死す」となる。