十九、土方歳三、出陣-2

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その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
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会津戊辰 白河戦争と新選組ー25

生江昌平

十九、土方歳三、出陣-2

『旧夢会津白虎隊』の著者・白虎一番土中組、永岡清治は、
○…時に土方歳三、福良に陣し、方面に任して白虎隊の隣舎に在り。常に少年と親しみ且つ談話して士気を励ます-とある。
白虎隊士の少年達にとっては、戦争のための出陣というより、現代の修学旅行のような気分ではなかったのではないだろうか。 初陣に胸を躍らせていたのではないだろうか。土方歳三にとっても、若い白虎隊士と毎夜語り合える時こそ、束の間、戦争を忘れ、あたかも教師となり、京都での出来事等々を話したという。若い隊士にとって、土方の話は体験に基づいているだけに説得力があり、いつか話の中に引き込まれ、目を輝かせ身を乗り出して聞き入ったものと推察する。
さらに会津に残るこんな逸話がある。
約三ケ月半ぶりに復帰した土方が、福良本陣を訪ねた。
街道の警備に立つ白虎隊士が、騎馬のまま通りすぎようとする土方に停止を求めたが、そのまま通り過ぎようとした土方に発砲した。土方は馬首を返して「新選組の土方歳三だ、本陣に行くところである」と答えた。名を聞いた白虎隊士は驚き、顔色をなくした。土方ほ「君は任務を守ったものである。黙って通り過ぎた私が悪かった」と走り去ったという。これらが真実か否かは探る術はない。
※新選組の宿舎は「福良御用場」と言われている。私が訪れた一九八二年八月には当時のまま残されていた。
七月二十五日、藩主喜徳、俄に九ツ時(正午)白虎隊を率い出立となり、原宿に一泊後、猪苗代の土津神社の藩祖保科正之を参拝し帰城する。
宰相松平容保が越後口へ士気鼓舞のため出馬するためであった。前述の『旧夢会津白虎隊』の永岡清治は
○…帰城は蓋し越後事急にして、老公(容保)越に出馬するの意ありて、喜徳公を召し返さしめたるなり。余の家に帰るや、母門に侍って待つ。既に戒衣を脱するや、諸弟と団楽膳を囲む。白虎隊士は十中の九は初めて旅舎に宿泊したることなれば、奇談、笑話限りなく笑い興じて蚊帳(かや)に入る…。


十八、第六次白河戦争-2

 

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会津戊辰 白河戦争と新選組ー23

生江昌平

十八、第六次白河戦争-2

別石より進みたる会兵小原宇右衛門、木下慎吾等、時刻を失し仙台兵すでに矢吹駅を焼いて退くを以て、遂に戟わずして小田川に退守するに至り。        (『七年史』)
飯野藩兵もまた奮戦する。隊長・森要蔵(五十九歳)身を挺して進み、刀を振るって縦横無尽、流血淋凛、遂に敵兵三人を斃して戦死する。
要蔵の次子虎尾(十六歳)紅顔の美少年なりしが、父と共に奮戦して死する。
飯野藩(上総飯野、藩主保科正益=まさあり、二万石、譜代)は会津藩松平家と同族であり、前藩主正もと(木の下に一)の三女・照姫が、会津八代藩主容敬(まさたか)の養女となった関係もあり、森要蔵らは藩を脱藩し、会津救援に出陣していたのである。森要蔵らの墓は西郷・羽太の大龍寺の会津藩士と共に「戦死之墓」に埋葬されている。

一方この日、仙台城では白河城攻略の軍定を開き、十五日に新たな兵力を投入した攻撃を行う事を決議されていた。
七月二日、会津白河口総督西郷頼母、戦績不振につき総督を罷免され、内藤介右衛門が後任となる。内藤介右衛門は藩主喜徳出馬に随行して福良本陣に宿陣している。
七月二日、六月に会津を発った列藩同盟盟主の輪王寺宮一行ほ米沢経由で仙台に至り、仙岳院で藩主伊達慶邦らに令旨を下す。 十二日には白石城に列藩同盟の「公儀府」を設置する。
六日には同盟軍の「軍令」が諸藩に送達される。
七月三日、藩主伊達慶邦は白河の戦況不利のため、自ら出馬を願うが、病気のため坂英力を陣代(代理)とし、自ら正宗の宝刀を与え出陣させる。坂英力が率いた隊は五番大隊士一小隊(冨塚熊之助隊長)、投機隊(桜田敬介隊長)、ほかに伊達安芸の手勢三小隊、衆義隊二小隊(小竹長兵衛隊長)、軍監小島勇記、真田の手勢一小隊、何れも七月十日に須賀川に着降した。
七月七日、白虎一番・二番土中組、三月中旬から仏蘭西式訓練を終了し、八日藩主喜徳の守護として若松を出立、赤津
へ宿泊し、九日福良に着陣、仏蘭西式訓練の成果を披露する。
この時、白虎隊が所持していた小銃は、旧式のヤーゲル銃だった。『戊辰戦争実歴談』の著者・白虎二番土中組酒井峰治は「常時用いる所の砲ほ『ヤーゲル』なるを以て、火門塞りて丸を発するに苦しむ」としており、そのため八月二十二日に松平容保に従って出陣する際には「短く且つ軽くして、白虎隊に頗る適当せり」という新式の馬上銃との交換を申し出て、受け入れられている。


 十八、第六次白河戦争-1

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十八、第六次白河戦争-1

七月一日、会津・仙台二一本松・棚倉藩兵、大平ロより下羽太村を経て下相野村に至り、白河城を攻撃するが、上小屋・泉田・小田川に敗走する。
七月一日、羽太村より繰出し相野に大砲を備え、雷神山より米村へ進撃致し、下柏野よりは入道山へ進撃、熊倉ロから中山へ攻め登り諸道より戦争に及び候処、敵敗軍のように相見え天神山迄攻込み、味方一旦勝利の処、図らずも敵兵金清山に罷り出、腹背より烈しく打掛けられ、遂に崩れ立ち、夕景羽鳥村迄引揚休降す。
この時、土方公医療を受け漸く全快す。押て福良村迄出張に相成り、当隊一同長沼駅より町守屋村に廻り候様命を受け、即時出立、長沼に両三日休降す…。(『中島登覚書』)
夜を冒して大平ロを発し、下羽太より赤須へ出て下柏野村に至り、左右の塁壁に兵を配置し、友平久三郎、東海林貞之進に命じ、金勝寺山に上り長四斤砲を以て白河城を撃つ。弾丸敵中、西兵散乱するを見る。会兵山田伝治、蜂川友次郎、赤垣平八、仙兵大立目武蔵、紳谷十太夫等、各兵を率いて中山及び雷神山より進み、古人天神の西兵と戦う。原田五郎、土屋鉄之助等、累進して激戦時を移す。
西兵別軍を以て東軍の背後に出て、上羽太、下羽太、太閤屋等の民家に放火す。原田対馬は新選組山口次郎及び飯野藩兵三十六を率いて柏野、阿武隈の塁を出て雷神山の敵を撃つ。
苦戦利あらず、飯野藩奮闘血戦して皆斃れる。


十七、第五次白河戦争 ・棚倉城奪取される-2

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会津戊辰 白河戦争と新選組ー21

生江昌平

十七、第五次白河戦争 ・棚倉城奪取される-2

六月二十九日、上小屋の西郷頼母、同盟軍の諸将と白河奪還の軍議を開くが、三春藩降伏の報知を受け、仙台二一本松両藩は須賀川への撤退を主張、白河攻略は会津藩単独で行うことに決する。これを受けて野村監三郎は大平口の原田対馬に白河城進撃を報告し、軍議の結果を上小屋に帰って伝える。
しかし、この後も同盟軍は共に白河城奪回の戦いを続けていく…。
七曲・小田川・突吹村に在陣の会津・仙台藩兵等、小田川陣屋に集会し、矢吹村に放火して須賀川へ転降する。
〇六月廿九日、白河口出先仙台藩参謀増田歴治、泉田志摩、会藩辰野源左衛門を始め、列藩小田川陣屋に集会、棚倉敗れて後、白河より東海岸迄引揚、西軍勢充満、近頃海陸両道より数千の西軍繰込みの事に相聞き、且つ七曲の胸壁ほ白河へ直径二十丁程にて、朝暮の進退討入の機密も自然漏れ候姿、また守山、三春へ兵隊繰込み置き候得ども、阿武隈川を隔てて至急の応援も如何、これによって七曲及び小田川、矢吹三ケ所とも残らず引揚すべしと軍議一決、其の夜矢吹駅焼払い(西軍方の陣所とならんと恐れて)須賀川へ下がって屯集致し侯。(『仙台藩記』)
また同日朝、霧に乗じた西軍は阿武隈川を.渡って川原田を砲撃で急襲、二本松藩兵は不意をつかれ大敗し、関和久村宿陣の隊と共に須賀川に逃れ走り藩兵の集結、戦列の整理を計った。
会津・仙台藩兵も共に須賀川に移る。


十七、第五次白河戦争 ・棚倉城奪取される-1

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会津戊辰 白河戦争と新選組ー20

生江昌平

十七、第五次白河戦争 ・棚倉城奪取される-1

六月二十三日、大総督府参謀鷲尾隆聚が阿波藩兵を率い、白河に入り、常宣寺を本営にした。
西軍の総兵力は五千名を超すに至った。東軍も戦線を立て直すため、仙台・会津・二本松・三春の各藩の兵をもって増強した。
西軍参謀板垣退助は、浜通り平潟上陸軍の進撃作戦に呼応し、戦局展開を策し得るとして、時機到来と断じ、棚倉城の急襲を強行することとした。
六月二十三日夜、棚倉街道の関山麓の会津陣営へ西軍夜討ちをかけ、会津軍多くの死者を出して棚倉へ逃走する。
六月二十四日、西軍七百人、二手に分れて白河を発し、一隊は関山より進み、一隊は郷戸村に向い進み東軍の塁壁を襲う。棚倉口の会津小森一貫斎・木村兵庫・土屋鉄之助、仙台佐藤宮内、棚倉兵、相馬兵等、予め郷戸村の切り通しに胸壁を築き、木村の一小隊は外塁に看守させ、卯の上刻(午前六時)西軍三面よりこれを攻める。
木村の隊頗る防戦に努む。土屋の隊は棚倉兵と共にこれを援け、戦い利あらずして番沢に退く。
一人木村の隊返戦し、小山田大学死す。小森隊、仙台・棚倉・相馬の隊来て共に闘うといえども、西軍新たに兵を加え、数次に戦うが、支えること出来ず退いて金山の塁にこもる。西軍、森林の径路を廻って金山の背を衝けば守ることできずに棚倉に退く。木村隊、棚倉・相馬兵、多く死傷する。西軍郷戸、金山破って棚倉城に迫る。
城中兵士多くは出陣しており、留まる者僅か三十余人と老幼婦女のみ。有志の士、道川に進み出て長州・土州・忍兵と戦う。薩摩・大垣・黒羽藩兵、横に襲い来たれば、川岸の塁壁にこもり、暫く奮闘す。西軍突撃する者潮の如く、東軍衆寡敵せざるを知り、火を城に放ち釜子に奔る。木村、小森の兵は須賀川に退き、仙台・相馬の兵は共に笹川に退き、相馬兵は遂に中村に帰藩する。
この夜、会津兵ほ西軍に制圧された釜子に忍び込み、土蔵より金穀を奪い取った。翌日、この騒ぎによって棚倉宿陣の薩摩・長州・土佐等
の藩兵が釜子に出張するが、既に会津兵の姿はなく、民家に火を放って帰営していた。
六月二十五日、会津兵坂平三郎・木本内蔵之丞・軍事方及び小原宇右衛門、大谷地より白河城を攻撃するため六反山、金勝寺山に進撃して戦うが、敗れて大谷地方面に退く。
○本隊十八人、田口下陣廿八人、下降十四人、御陣将に付属、八子石坂へ出張。木本隊、金勝寺辺り迄進み、応援の兵さらに無く、一旦引上げ、無念に覚え候付、そのため応援大谷 地口迄詰候処、追々引揚西軍賊頻りに追う候付、同所に暫時防戦、当隊の一同怪我無く引揚げ候事。     (『会義隊陣中日記』)
○廿五日鶏明、本陣に集合し卯の刻(午前六時)大谷地に至り二手に分れ、左右の山より進軍す。山上に至り開戦。敵と対する距離、僅か二、三十間を隔てて戦う。敵は胸壁より激しく発砲、味方不利の地形にして、勝算なく退却に決して引き帰る。敵も追撃せず。(『会津藩大砲隊戊辰戦記』)
六月二十八日、宇都宮の戦いで負傷し、田島陣屋で療養中であった旧幕第一大隊総督の秋月登之助、越後口脱走兵三十六名を率いて上小屋村に至り宿陣、同所で滞陣中であった新選組は中地村に宿陣する。


十六、第四次白河戦争

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会津戊辰 白河戦争と新選組ー19

生江昌平

十六、第四次白河戦争

〇六月十二日、列藩大挙して白河城を攻める。
棚倉ロ、番沢より会の純義隊、小森一貫斎、木村兵庫等、先鋒となりて棚倉兵、相馬兵と 並進してこれを撃つ。既に白河城下に迫らんとせしに、薩州兵横合いより応援し来たりければ、棚倉兵、相馬兵共に戦わず退きけれぼ、小森、木村、純義隊等も止まり戦うことかなわず、共に番沢に退く。
根田、和田山より仙台細谷十大夫、大松沢掃 部之輔、白河口なる愛宕山に上り、愛宕山地方よりは会津遠山伊右衛門、井深守之進、野村左馬之丞、大谷地口別石よりは仙将中島兵 衛之助、会将高橋権太輔、福島兵等追撃し、大谷地口の薩摩、土州、忍兵来たり戦う。薩州、土州の兵、森林径谷を廻りて大谷地の左の沢合より突出しけれぼ、会兵左顧して退き、再度返し戦わんとせしも、根田口の東兵大いに敗れて、隊長遠山伊右衛門、野村左馬之丞、井口源吾を始めとし、死傷頗る多かりけれぼ、遂に返戦するを得ず。
米村口長坂より会兵上田八郎右衛門、相馬直登、土屋鉄之助、中根監物等、折口より蟻川友次郎、二本松兵等並んで土州兵と戦う。会兵、長坂山に一隊を伏し、西兵の白河城過るを待って、これを横撃して土州兵を破りて追撃しければ、西兵まさに潰れんとせしに、薩摩兵来たりて援すけれぼ、会兵三方の敵を受くるの姿に至り、急に退きて阿武隈川の塁壁にこもる。西兵は長坂村に放火して退きけり。
釧石より進みたる会兵、後れて時機を失し、戦わずして帰る。(『七年史』)
またしても東軍は白河城奪還に失敗する。
この日の戦いは五月一日に次ぐ、白河戦最大の激戟であった。二本松兵十二人、会津兵二十七人、仙台兵七十二人、棚倉兵十二人、米沢兵一人の死傷者を出したが、西軍は僅か十一人であった。
西軍には五月二十九日、日光今市守備の参謀板垣退助が土佐勢を率いて白河城に入り、同日、薩摩小銃一番隊、同三番隊、一番遊撃隊が江戸を出立し、六月九日に兵具一番半隊、一番大砲隊半隊が白河に到着した。ますます西軍の兵力は増強されていたのである。
六月十五日、泉藩(藩主本多忠紀(ただとし)、二万石、譜代)は半谷傍之丞を使者として、矢吹の仙台陣営に遣わし、六月十七日に至り、矢吹在陣の小森一貫斎らに西軍の平潟上陸を報知、救援を依頼し、小森以下、仙台・相馬藩兵と共に棚倉出陣を決する。


十五、会津藩主、白河ロヘ出馬-1

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会津戊辰 白河戦争と新選組ー18

生江昌平

十五、会津藩主、白河ロヘ出馬-1

〇五月廿六日、若殿若狭守様、白河口へ御出馬に付、我が隊は御供すべき旨命ぜらる。(『会津藩大砲隊戊辰戦記』)
○廿七日辰の刻(午前八時)頃、一同城内に整列して御出馬を待つ。午の下刻(午後一時過ぎ)に及んで御出馬あり。
宰相様(容保)様、黒金門迄見送りあり。若殿様は独乙人のスネルより献上の洋服を召され、御馬上にて御出発。城下の土民、多く路上に出て御見送り申上ぐ。滝沢村名主山三郎方(滝沢本陣)に御休息、御召し替えありて、酉の刻(午後六時)原村に御着陣。白虎二小隊は此処まで供奉す。(『会津藩大砲隊戊辰戦記』)
藩主松平書徳の出馬には、鳥羽伏見以]米の部将、家老内藤介右衛門が実験指揮官(勢至堂口の総督)として随行した。大目付・軍事奉行鈴木作右衛門が原宿まで出迎えた。
五月二十八日、原宿で砲兵隊の演習を謁見、翌二十九日福長に着陣、六月九日まで滞降する。
その後、三代に出馬(二十三日まで)、大平(二十三日出張)、福良に帰陣する。
牧之内に滞降する新選組の中島登は、○…此の時、松平若狭守様、福良村に出陣遊され、当所当隊一同御呼出しに相成りべき旨、会津藩遠野某奉命し来て、直様当村に罷り出、拝謁す。出賜に金若干を以す。右に付当村へ一両日休兵致し、夫より大平口へ出兵命じられる。六月六日大平口へ出兵。両三日休兵。
夫より羽大村迄出張す…。

五月三十日、三春藩(藩主秋田万之助、五万石、外様)、奥羽列藩同盟中に孤立し、家老・秋田
広記が西軍に救援を求める。三春藩は藩主が幼年のため叔父の秋田主税が後見していた。もともと勤王が強く、同盟加入の時も、京の岩倉具視と密約を結び、内応を約束していた。同盟軍に出兵するも、戦いには積極的ではなかった。
福島の千手院。新選組の病院跡。五月二十六、七日の戦いで負傷した島田魁が入院している。
そのため同盟軍から疑念が持たれたと思われる。
七月、同盟軍が棚倉城奪回に出陣するが、浅川の銃撃戦で、味方に発砲し、裏切ったのである。
六月五日、藩主善徳ほ、福長宿で藩兵の撤兵演習を見る。七日、書徳は藩士猪狩恒五郎、渡部直治、小林繁之助を棚倉方面に、中村鎮之助、石山綱衛を大平方面に、奥田鉱太郎、手代木清書を上小屋方面に派遣して戦況を視察させた。
しかし、東軍の白河城攻撃が延期となり、鈴木多門・木村兵庫・小森一貫斎らは、勢至堂方面、岩瀬都万面の会津側重要地域防備の指揮をとる倉沢右衛門(若年寄)に不満の書状を送っている。
六月八日、内藤介右衛門は福長・千手院の新選組病院に負傷者を見舞い、翌九日には藩主善徳が見舞っている。五月下旬の戦闘で負傷した島田魁も入院している。
※この「千手院の新選組病院」を世に知らしめたのほ『白河藩御用達・荒井治長石衛門慶応日記』(以下、『慶応日記』と呼ぶ) である。五月一日の白河戦争で実家の福長の脇本陣・武藤儀右衛門の家に疎開した。治長石衛門の次男で、荒井家の当主を相続した。
六月十日、藩主書徳は三代へ出向き二十二日まで滞陣、翌日大平口へ出張し、福良に帰陣する。
(新選組友の会ニュース149より)


十四、第三次白河戦争-3

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会津戊辰 白河戦争と新選組ー17

生江昌平

十四、第三次白河戦争-3

新選組は白河関門方面で戦って敗走し、上小屋まで引揚げ休陣する。
この時の東軍「一万有余」と言われているが、
壱番  仙台 伊達伴右衛門  九百八十人
弐番  同  白川 弾正  千弐百参十人
参番  同  片倉登之助  千六百五十人
四番  棚倉 片岡善左衛門  八百五十人
五番 二本松 阿部甚五左衛門 六百八十人
六番  福島 柄倉帯刀     百参拾人
七番  相馬 木村友之丞     弐百人
八番  南部 柳原伊蔵    九百五拾人
九番  津軽 三浦六郎左衛門  千三百人
十番  三春 板倉若右衛門    弐百人
十一番 米沢 色部市野右衛門   参百人
十二番 会津 西郷頼母    弐千八百人
内藤介右衛門

惣勢合 壱万弐千弐百七拾人
と『白川詰人数控』に記録されているというが、今までの史料にも記されていない南部藩、津軽藩などは、庄内藩応援に出陣しているはずで、白河にほ来ていない。この数字は恐らく同盟軍が数ヶ月に及ぶ奥羽地方で、西軍と戦った総人数ではないだろうか、会津の内藤介右衛門などほ、この日に藩主に随行して白河口福良に着陣したばかりである。また一万対五首の戦いであれば、いくら火力の違いがあっても、東軍が簡単に敗走となることは考えにくい。果たして記録はいかがかなと思われる。
五月二十七日、東軍昨日に続き、白河奪還の戦いを展開する。
○同廿七日、当隊、会津遊撃隊合兵して大谷地村より白河口へ向う処、早敵兵当村迄繰出し、昼九ツ時(正午)より戦争と相成り、味方兵隊残らず出て撤兵配って烈しく打掛ければ、敵追々引揚、一旦勝色に相成り候処、味方応援の兵なくして遂敗走して牧之内迄夜中引揚ー(『中島萱覚書』)
牧之内へ退いた新選組は数日休降している。

○同廿七日、再挙白河城を襲う。賊己(すでに)金勝寺山嶺に胸壁を築き固く守る。以て占領する能わず。退いて大谷地村西方谷地を隔て対戦、数賊あり、数人密かに谷を渡り来る。隊長これ
を認め、大に声を励まして〝賊来れり、汝等何ぞ進んで生檎(いけどる)せざる、葦丸を持ちたる甲斐、何処に在るや。声、雷ていの如し。賊、狼狽して去る。日暮、戦決せず(斎藤勇治負傷す)。
この時に当たり大谷地火を失す、姻焔天を焦す。此の日、賊兵、大谷地村酒蔵庫中に潜み、我軍大いに狙撃せらる。此れを以て火を放ち退くと云う。日全く暮れ、戦止め退く。我隊士も悉く此処(切り通し)に在り、路傍に整列し人員を調査する所なり。すでにして本営より送る料を粮(兵糧)を以てす。これを喫して飯土用村に着す。爾後(そのご)、ここに陣し、切り通し(村より二里弱)に胸壁を築き砲門を設け山上に交番して守る。(『暗涙之一滴』)

※『暗涙之一滴』は朱雀四番寄合組に編入された三沢主税(当時十八歳)が戊辰戦争後に筆記したもので、原題は『長夜の夢』という。戦後、名を千賀良と改めた。

この日、会津藩主松平書徳が白河ロへ出馬している。

(新選組l友の会ニュース149」より転載)
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 十四、第三次白河戦争-2

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会津戊辰 白河戦争と新選組ー16

生江昌平

十四、第三次白河戦争-2

五月二十六日、東軍(列藩同盟軍を以後、東軍と称する)ほ総攻撃を開始した。各兵塁壁にこもり砲戟する。会津口飯土用に陣降した会津藩砲兵二番隊頭高橋権太輔、朱雀四番寄合中隊頭木本内蔵之丞、誠志隊頭坂平三郎、義集隊望月新平、同国府辰次郎等、仙台藩の各隊と共に進んで潜かに加石より径路を過ぎ、白河城の近兵応戦する。薩摩六番隊が更に突出して金勝寺山の麓に迫って接戦せんとする。木本隊の小隊頭吉田誠一郎、同半隊頭諏訪数馬、一小隊を率いて迂回して薩摩軍を横撃、薩軍固守して東軍殆んど破れんとするが、吉田・諏訪奮撃、兵を励まして返戦する。この時、観音山方面の木本隊小隊頭一柳盛之允、同半隊頭一柳伊右衛門が兵を率いて馳せ付け西軍を攻撃、さらに仙台藩紳谷十太夫、大立目武蔵、二本松藩の大谷鳴海等共に兵を進め戦うが、利なくして退いた。

相野村から青龍三番足軽隊中隊頭蟻川友次郎、土工兵頭小池帯刀兵を率い、赤埴平八は力士隊を率い、雷神山の西軍を攻める。戦たけなわのなか、蟻川隊半隊頭小沢八弥戦死する。
折口より朱雀三番土中組中隊頭上田八郎右衛門、正奇隊(農兵隊、隊士八十名、屈強な百姓を選りすぐつた隊)頭相馬直登、新棟隊(地方下人の子弟で二十~四十歳までで結成、三百八十人)頭土屋鉄之助、朱雀三番足軽中隊頭原田主馬、各兵を率いて進み、朱雀三番土中隊、新練隊、力士隊(藩内の力士を徴募して取立て)は原方ロの大垣・薩摩の西軍と戟い、正面には蟻川隊、二本松藩兵と共に戦う。米村口、雷神山、長坂、金膵寺山の砲撃が一斉に開始され、砲煙山谷を蔽い、砲声天地を震撼させる。
仙台の将中島兵衛之助の兵ほ愛宕山方面より山を越えて戦を挑み、二本松の大谷鳴海、会津辰野源左衛門は根田、和田山より攻め、義集隊の諏訪豊四郎、諏訪左内、仙台の紳谷十太夫、大立目武蔵ほ泉田より各兵を督して砲撃し、会津小森一一貫斎、木村兵庫、棚倉の兵及び純義隊等は棚倉街道より哨城して進み、山谷森林にこもって砲銃を連射する。西軍忍藩深田甚吾左衛門、長州楢崎頼三、薩摩の二番隊は棚倉ロに突出して戦う。しかし、よく統制のとれた西軍の攻撃に、東軍は申し合わせはしているが、諸藩との統制のとれた攻撃が必ずしもうまくいかず、この日の戦いは終わった。
(新選組友の会ニュースより抜粋)

 

 


 十四、第三次白河戦争-1

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会津戊辰 白河戦争と新選組ー16

生江昌平

十四、第三次白河戦争-1

五月二十五日、列藩同盟軍は軍議を持ち、白河城奪還を決した。各藩の部署は、
一、白河本道
仙台藩中島兵衛之介三小隊、細谷十太夫百人、片倉隊斎藤利衛門二小隊、会津藩大竹嘉内、辰野源左衛門二中隊、井深守之進、諏訪豊四郎、百人。

一、本沼口
二本松藩・家老丹羽丹波。
会津藩・弥一、黒河内友次郎、萩権蔵四小隊。
一、金勝寺口
仙台藩・泉田志摩、中島分隊、芝多賀三郎。
会津藩・望月新平、国府辰次郎。応援・大松沢掃部之輔。
全軍を須賀川より矢吹に進出させる。夜に小田川駅より七曲へ番兵を出し置き、翌日払暁、仙台藩の大砲長釜石栄治は白河関門に向い、芝
多賛三郎は山手に向い、田中惣左衛門ほ白河関門の東の羅漢山に向い、片倉小十郎家来の隊は富士見川に向い、中島分隊及び会津藩は高橋樺
太夫・木本内蔵之丞・坂平三郎・望月新平・国府辰次郎等の隊をもって金勝寺山方面に向い、仙台藩細谷十太夫、大立目武蔵の隊及び二本松
藩大谷鳴海等と互いに連絡を取って進む。また会津藩蟻川友治郎・小池帯刀・赤垣平八郎等は雷神山に、上田八郎右衛門・相馬直登・土屋鉄
之助・原田主馬等は折口に、仙台藩中島兵衛之助は愛宕山方面に、会津藩小森一貫斎・木村兵庫等は棚倉口に進出した。一挙して白河城を奪
取せんとしたのである。