蛍舞う 故郷の友のメール來る


蛍舞う 故郷の友のメール來る     六日

故郷徳島の美郷地区。いま螢が乱舞する。高校の同級生、ひでこさんが地元紙に掲載された写真をメールで送ってくれた。彼女は大手術を無事終えて入院中。テレビ画面からツツジの名所の写真も送ってくれて、ふるさとの四季を東京で満喫。

夏のパリ 抱えて帰国 まずは寿司    九日

連れ合いの妹が、パリで働く娘さんを訪ねて一週間ほど滞在し、帰つてきた。羽田から自宅に着き、門前仲町の「すし銀」へ。この店は偶然入って、ネタが新鮮で値段も手ごろ、と気に入って、時々。土産話など聞きながら、こちらは冷酒で寿司を。

脱原発 夏の宴で声を聞く   さ日

毎日新聞山田孝男特別編集委員の日本記者クラブ賞受賞を祝う会が九日、如水会館で開かれ、小泉純一郎元首相が出席。「原発ゼロ社会実現を一生の仕事にする」と、改めて決意を表明した。受賞理由は週一回掲載の政治コラム「風知草」の自由な言論。

新潟へ 七二七の席の縁

 

紫陽花が ベランダで咲く南の精

梅雨の季節にピンクの花が目を楽しませてくれる。連れ合いが生け花の花材を挿し木しておいたら、初めて花を着けた。ほとんど水だけで成長したらしく、水の精でもある。土地の条件によって色が変わり、我が家はピンク。

新潟へ 七二七の席の縁      四日

新潟出張で上越新幹線。東京駅で切符を確認したら、七号車二七A。田中角栄元首相がロッキード事件で逮捕された七月二七日を連想する人は、ほとんどいないと思うけれど、三八年前のあの夏の朝、東京地検前で現認した光景が浮かんだ。

顔だけが スマホで光る夏の闇

前から歩いて来る女性は、スマホに集中して顔だけが闇に浮かぶ。昼間、自転車で走っていても、スマホに気をとられて前を見ていない人に神経を使う。自分の安全より、他人に怪我をさせないように、と。

「天皇譲位と忌部族」-7(最終回)

特別寄稿

忌部(いんべ)の地 歴史語って濁り酒

写真は忌部小学校

特別寄稿
「天皇譲位と忌部族」-7(最終回)

高尾 義彦
(「人生八聲」一七年夏季号・第十一巻掲載から)

地元住民や林教諭たちの啓発活動が実を結んだ形で、農林水産省は今年三月、急傾斜地農業を日本農業遺産に指定するとともに、世界農業遺産候補の一つとして申請することを承認した。徳島県西部の勾配三度を超える急傾斜地で引き継がれてきた農業は、ソバ、キビなどの雑穀、白菜、大根などの野菜、あるいは葉タバコなどの生産に適する農地として、古くから開発されてきた。急傾斜地に段々畑を作るのではなく、斜面をそのまま生かして、土が流れ出さない工夫などを施している。
森林を焼いて畑地を生み出す「焼き畑農業」が古来からの手法として伝えられ、これは忌部の発達した農業技法にさかのぼることが実証されつつある。急峻な山の斜面、「ソラ」と呼ばれる天空に近い集落で営まれる農業がいま注目されており、地元では「徳島剣山世界農業遺産推進協議会」が結成され、推薦運動を活発化させている。
「忌部が担ってきた農業文化は、共生、共助、自然循環などの思想が根底にあり、持続可能な社会の実現に向けたモデル的な要素が認められる」と林教諭はみる。忌部の歴史をさらにさかのぼれば、中国・雲南地域やさらに西方の大陸にもルーツを求め得ることが考えられ、日本の歴史を根底から見直すスケールの大きな研究の可能性を秘めている。この「忌部ロマン」 に大いに期待して、自分なりに協力できることを模索してゆきたい。
「忌部」文化研究所設立協議会のURL


薔薇館 ショパンにリスト 別世界  2014年6月

今年も千葉市・土気にあるドクター本間の薔薇の館へ。若い音楽家を支援するチャリティーコンサート・シリーズで、今日は若手ピアニスト、近藤和花さん。べヒシュタインの一八八〇年製リストモデルのピアノを弾きこなし、超絶技巧も見事だった。

「天皇譲位と忌部族」-6

特別寄稿

忌部(いんべ)の地 歴史語って濁り酒

 写真は忌部小学校

特別寄稿
「天皇譲位と忌部族」-6

高尾 義彦
(「人生八聲」一七年夏季号・第十一巻掲載から)

忌部族の農業技術は麻だけでなく、粟や穀(かじ)などを植え、その技術を広めていった功績があげられる。それを証明するため、林教諭は千葉県や栃木県などを幅広く調査し、千葉県に住む忌部の末裔を徳島に招いて歴史の糸を結ぶ作業を進めている。
このうち、千葉県酒々井町の 「大鷲神社」には、「阿波の国から麻・木綿(ゆう)の産業が伝えられた」などの記録がある。「安房」「粟」は阿波に由来し、粟の栽培技術も伝えられた。
栃木県小山市の「安房神社」など関東各地に、忌部の足跡が確認され、農業技術集団としての活動が歴史的事実として確認されつつある。
忌部が歴史の表舞台からやや下がった位置に置かれた理由は、大まかに言ってふたつある。ひとつは大和朝廷以来、皇室を支えてきた氏族だったが、中臣氏との権力争いで後塵を拝する結果になったことが考えられる。もう一つは、さらに時代が下つて、阿波藩に蜂須賀家が封じられて以降、外部からやってきた蜂須賀家が、地元の有力氏族である忌部の力を恐れ、江戸時代以来、忌部の勢力を削ぐ政策がとられてきたという。
歴史学は、権力者の歴史を正史とする。日本の歴史学も例外ではなく、支配者側の論理に従属してきた側面があり、林教諭らは古文書や阿波の国に存在する古墳、忌部神社の歴史など実証的な観点から、従来の歴史学に異唱え、ようやく忌部の存在が正しく認識され始めたといえる。
同時に、かつての忌部の地では、過去を振返るだけでなく、新たな動きが起きている。
林教諭たちが立ち上げの準備をしている「忌部」文化研究所の賛同者たちは、「剣山系の急傾斜地農業システム」を世界農業遺産として登録させるための地道な準備を進めてきた。

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新コレド江戸の賑わい春化粧 (過ぎし日の一句を)

日本橋に第二、第三のコレドがオープンして一か月。昨日、連れ合いと日本橋三越で東日本伝統工芸展「金魚姫」 こと安田直子さんの陶芸作品を見て、コレド2へ。北海道・厚岸のカキ料理屋さんなどに長い列。銘酒・八海山の店も。江戸の賑わいを取り戻す狙い。

「天皇譲位と忌部族」-5

 

特別寄稿

忌部(いんべ)の地 歴史語って濁り酒

特別寄稿

高尾 義彦
(「人生八聲」一七年夏季号・第十一巻掲載から)

吉野川市は、麻栽培産業の復活を、人口減少対策の指針とする戦略(一五~一九年度)に位置づけ、推漣協議会を立ち上げて栃木などの先進地視察、シンポジウム開催など準備を始め、生産者の人選と育成を進めようとしていた。ところが鳥取県で大麻栽培が摘発され、種子などの入手が困難になつたほか、政府も麻栽培の許可を厳しくする方針を打ち出し、断念に追い込まれた。
栃木県にある大麻博物館発行の「大麻という農作物」によれば、副題の「日本人の営みを支えてきた植物とその危機」の指摘が正しい認識なのだが、無理解あるいは誤解によって、日本の麻産業は厳しい環境に置かれている。
古来、日本で栽培されてきた麻、つまり大麻は、「違法な薬物」として使用される習慣がなかった。
大麻は「薬用型」「中間型」「繊維型」に分けられ、日本では「繊維型」が主要産物だった。大麻にはTHC(テトラヒドロカンナビロール)という向精神作用をもたらす成分が含まれるが、「繊維型」にはほとんど含まれず、長く和紙や衣料品の素材として日本人の生活を支えてきた。
その貴重な麻が、危険な麻薬扱いされるようになったのは、第二次大戦後のGHQ(連合国軍総司令部)にょる摘発がきっかけだった。
マリファナはインド大麻から作られ、日本の大麻とは別物とされていたのが混同され、さらにべトナム戦争に参加した米軍兵士の間で流行したことを背景に、規制強化の道をたどった。
現在、日本で麻が生産されている地域は、生産量でみると、栃木、長野、三重の順。「繊維型」としての麻を徳島で生産しょう
とした吉野川市の計画が頓挫したことは、残念でならない。誤解を解いて、麻に縁の探い地で麻の栽培が再開されることを望みたい。

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駆け上がる ツツジ咲く坂 陽を浴びて   二三日

佃公園にツツジが咲き、季節が進む。朝、リバーシティー中央大橋に向かう坂道を自転車で駆け上がる。今日の陽気なら、夜の帰りにも雨用のコートは必要なさそう。底寒い日が続いたので、本当の春にと願う。
(春に詠んだ句です)

「天皇譲位と忌部族」-4

忌部(いんべ)の地 歴史語って濁り酒

特別寄稿
「天皇譲位と忌部族」-4

高尾 義彦
(「人生八聲」一七年夏季号・第十一巻掲載から)

「至誠無息」の揮童は元帥・海軍大将だった東郷平八郎で、この言葉の由来となる校歌の別の一節を紹介すれば、「心ままなる人の世の 蓬を正す麻として 至誠の道を一筋に」となつている。
天皇が生前退位の気持ちをにじませたお言葉を発表されて以来、次期天皇の即位の時期や新元号の検討が政治課題になつてきた。忌部の当主である三木さんにとって、今回も大嘗祭への鹿服(あらたえ=鹿の字の上部が々です)調進の事業をつつがなく進める責任があり、協議会組織などの準備が急務。
予算的には一億円前後はかかると見込まれ、地元あげての協力が必要になる。
大嘗祭は、即位後最初に迎える秋の収穫期に挙行される(通常は新嘗祭)。現在検討されている政府案によれば、一八年末の天皇譲位、一九年元日の元号改元を経て、その年の秋に大嘗祭挙行というスケジュールが考えられる。
麻は忌部族のシンボル的な植物であり、三木家住宅の帰りに訪私た忌部神社には麻の菓の紋章が飾られていた。麻に縁の深い土地であることは、十年前に、ふるさとの山川町と鴨島町、川島町、美郷村が合併して吉野川市が誕生するまで、この地域は 「麻植(おえ)郡」と呼ばれていたことでも理解いただけると考える。麻を植える、という古来の農業に由来する名前で、合併時には「麻植市」の名称を冠すべきだ、という意見も強く、私はいまでも「麻植」に強い愛着がある。
江戸時代以来、「ジャパン・ブルー」として有名になつた藍染は、本来、麻布を染めるために開発されたという。東京五輪・パラリンピックのシンボルマークにも、藍色が使用され、さらに注目されている。
そんな麻をめぐる動きの中で、残念なニュースもあつた。徳島新聞が今年二月九日、「吉野川市が麻栽培復活断念」と報道したことを、高校同級生の松島ひで子さんが教えてくれた。

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鹿服(あらたえ)に思いをはせて訃報聞く   一七日

母校の同窓会・至誠会の木村悟前会長が八四歳で亡くなった。鹿服は麻で織った布で、天皇即位の儀式に必須の品。今上天皇の大嘗祭後、余り布で「至誠無息」の校旗レプリカを作ったのが木村さん。故郷はかつて「麻植(おえ)郡」と呼ばれ、麻とは深い縁。(注)鹿服(あらたえ)は、鹿の字の上部が々です。

「天皇譲位と忌部族」-3

特別寄稿

忌部(いんべ)の地 歴史語って濁り酒

特別寄稿
「天皇譲位と忌部族」-3

高尾 義彦
(「人生八聲」一七年夏季号・第十一巻掲載から)

併設の資料館には、麻蒸し桶、麻舟、機織り機などが展示され、現天皇即位に伴う一九九〇年十一月の大嘗祭では、この地で織られた鹿服(あらたえ=鹿の字の上部がㇰです)を、我がふるさとである山川町の忌部神社を通じて供納した記録や写真も展示されている。
この時の鹿服(あらたえ=鹿の字の上部がㇰです)調進については、毎日新聞社社会部の若手だった丸山雅也記者(現・大阪本
社編集局長)が現地を訪れて取材しているが、三木さんはそのことをよく覚えていてくれた。
その取材は連載「即位の礼と大嘗祭4(一九九〇年十一月二目付=写真) にまとめられ、「鹿服(あらたえ=鹿の字の上部がㇰです)調進の伝統の根源は平安時代の法令集、延喜式にさかのぼる」「民間の協議会で二千万円以上の資金を集めた」[木屋平村の畑で四月に種を播き七月の刈り入れまで、村民が二四時間体制で見張った」などの記載がある。忌部神社で女性が鹿服(あらたえ=鹿の字の上部がㇰです)を織る様子を伝えた写真も添えられている。
当時、地元で調進の事業を中心になつて進めたのが母校、川島高校の同窓会組織である「至誠会」の会長を務めた木村悟さん(一七年二月死去、享年八四)。木村さんはこの時織られた鹿服(あらたえ=鹿の字の上部がㇰです)の残り布を使って、母校の校旗・校宝となつている「至誠無息」の旗のレプリカを三つ、作成した。そのうちの一つは東京至誠会会長である私の自宅に保管され、毎年秋の同窓会では会場に持参して飾る。

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逝きし人 碑む五月ほ肌寒く     三日

八〇歳で亡くなった元サンデー毎日編集長、四方洋さんの通夜が二日、四谷の聖イグナチオ教会で。最近、『あの世へ逝く力』を上梓した北浦和の料亭「二木屋」社長、小林玖仁男さんと同じ難病の問質性肺炎。

「天皇譲位と忌部族」-2

特別寄稿

忌部(いんべ)の地 歴史語って濁り酒

特別寄稿
「天皇譲位と忌部族」-2

高尾 義彦
(「人生八聲」一七年夏季号・第一一巻掲載)

周辺に植えられた数十本の枝垂れ桜はまだ開花せず、前日には雪が降つたそうで、剣山山系の近くの山や神社の屋根に雪が残っていた。
案内役は、忌部研究の第一人者で、「倭国創生と阿波忌部」「日本の建国と阿波忌部~麻植郡の足跡と共に~」などの著書がある林博章・鳴門渦潮高校教諭(51)にお願いした。
徳島市内から車で三時間近く、吉野川の上流に向かい、くねくねと曲がる細い山道を走つて、「三木家住宅」にたどり着いた。
林さんは、一般社団法人「忌部」文化研究所を来年一八年に立ち上げる計画の中心となって精力的に活動している。私自身も、高校一年後輩の高野啓子さんを通じて、林さんからこの研究所設立への協力を求められ、彼が上京した際に二度ほど話を聞いた縁で、「忌部」の世界にのめり込むことになった。今回の報告は、歴史的事実などに関して、前掲の
著書を含め、林さんの研究成果に負うところ大であることを、お断りしておく。
この日は、冬季には大阪在住の二八代当主、三木信夫さん(81)が、前日に帰宅して出迎えてくれた。三木さんは桜の木で四角に囲つた囲炉裏に火を入れて、林教諭、高野さんら我々一行を歓待してくれた。樫の木が勢いよく燃え上がる炎を見ながら、濁り酒を酌み交わして、忌部にまっわる話を聞いた。
皇室と忌部の関係を示す重要な事業として、天皇即位に伴う大嘗祭に、阿波で育てた麻の繊維で織った「喪服(あらたえ)」という布を調進する伝統が代々、受け継がれている。三木家住宅には鎌倉時代から南北朝動乱の時代の古文書類が保存されている。
つづく

大輪の薔薇と苺と菖蒲の湯

ベランダの深紅の薔薇を切り、部屋で楽しむ。苺は故郷の一品を徳島のひでこさんから。朝風呂の菖蒲湯。GWに映画「蘇えりし者」と三井美術館の魯山人の美。

「天皇譲位と忌部族」-1

忌部の地 歴史語って濁り酒

 特別寄稿
「天皇譲位と忌部族」-1

高尾 義彦
(「人生八聲」一七年夏季号・第一一巻掲載)

「古代文化の揺藍地 忌部(いんべ)の里り丘の上(え)に……」。母校である徳島県立川島高校の校歌には、こんな歌詞がある。在校当時、入学式や卒業式で歌い、最近では同窓会の締めに必ず歌われるが、卒業後五〇数年、「忌部」の意味を正確に知っていたか、ということになると、心もとない。
「忌部」とは 「穢れを忌み嫌い、神聖な仕事に従事する集団」を意味する。歴史をひもとけば、「阿波忌部」と呼ばれる氏族は、弥生後期から古墳前期(三~四世紀)にかけて四国・吉野川流域に勢力を展開した。大和朝廷の祭祀を司り、農業土木技術、衣食住の生活文化技術を関東などに広め、最近の研究では、古日本文化の源流を形成したと位置づけられるようになつている。
その祖神は「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」として「古語拾遺」に記されている。
「天太玉命」は古事記、日本書紀にも登場し、天照大神が岩戸の中に姿を隠した「天の石屋戸」神話でも重要な役割を果たしている。さらに、かつて「紙漉き」を業とした我が家の古文書には、天太玉命に従う四柱の神のひとつとされる天日鷲命(あめのひわしのみこと)により製紙技術がもたらされたとの記載があり我が家も先祖は忌部であつたと推定される。
その忌部の伝統を今も守る「三木家」の住宅を四月二日に訪ねた。剣山に近い木屋平村(標高五五二㍍)にある「三木家住宅」は、国指定の重要文化財となつている。木造茅葺屋根の建物の骨格部分の造成は、江戸時代初期にさかのぼり、建築後四〇〇年を経過していると、炭素年代測定で推定されている。

 

八十八夜稲葉天目(てんもく)宇宙考

連体の谷間俳句もひと休み

頭も連休モードで俳句が出ず、言い訳。休み前半は衣替えとベランダの鉢物の整理。日曜日は映画「3月のライオン 後編」。 帰りは、映画に登場する中央大橋を自転車で渡って。

八十八夜稲葉天目宇宙考

「茶の湯」展を東京国立博物館で。お目当ては静嘉堂文庫美術館所蔵の「稲葉天目」。小宇宙を思わせる奇跡の茶碗は、何度見ても感動的。自転車で走った上野までの道は、まさに新緑。自然の恵みの中で宇宙を考える。

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書籍ガイド
「私の一冊」
高尾 義彦
新治療への情熱
「森田療法の誕生」佃野文夫著、三恵社刊。

著者の佃野文夫さんは元講談社インターナショナル社長。洒の席で顔を合わせると「森田療法Lを話題にしていたが、退社後10年をかけて「森田療法の誕生、森田正馬の生涯と業績」(三恵社・3240円)をものにした情熱と努力に感動した。
明治の初め、高知県に生まれ、新治療への情熱
れた森田正馬は神経衰弱(神経質)の治療法を創始した。自らも神経衰弱に悩んだ体験を踏まえ、催眠術から禅の教えまで、幅広い研究で道を探った。フロイトなど西洋の構神分析や哲学も研究しつつ一線を画し、症状を「あるがまま」に受け入れることから治療は始まる、との確信に達した。
著者は未公開だった克明な日記を軸に森田像をさまざまな角度から解析する。その生涯を追う著者の姿が460ページの随所に浮かび上がる。