97-権中納言定家(ごんちゆうなごんさだいえ)

百人一首百彩-97

海野 弘

97-権中納言定家(ごんちゆうなごんさだいえ)
新勅撰集 健保六年内裏歌合、恋歌

来(こ)ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに やくや藻鹽(もしお)の 身もこがれつつ
〔こない人を待ちこがれている。松帆の浦の夕なぎに、藻塩を焼いているが、私の身も焼かれているかのようだ〕

<まつほの浦>は淡路島の北端。松に待つが掛けられている。『万葉集』巻六の笠朝臣金村(かなむら)の長歌「淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ…」の本歌取りである。権中納言定家は藤原定家(1162~1241)である。俊成の子で、若くして、歌の才能を示し、歌壇に新風をもたらした。藤原良経をパトロンとし、歌壇の主流を占めたが、役職はあまり上らなかった。後鳥羽院に認められ、『新古今集』の撰者となった。しかし、後鳥羽院とは和歌の評価が対立するようになり、承久二年(1220)、公式の歌会への出席を禁じられた。承久の乱により、後鳥羽院は追放され、九条道家、西園寺公経が権力を握り、公経の義兄である家定も歌壇に復帰することができた。定家は後堀河天皇に、『新勅撰集』の撰者を命じられた。しかし、初稿から百余首の削除がなされた。そのほとんどは、承久の乱の罪で流された後鳥羽院、順徳院の歌であった。定家は不本意ながら、それを受け入れた。その不満から、二人の歌を入れた『小倉百人一首』をつくつた、といわれている。
晩年の定家は古典、古歌の研究に向かった。歌のよき時代はすでに終ってしまった、と思ったのだろうか。

96-入道前太政大臣(にゆうどうさきのだじょうだいじん)

百人一首百彩-96

海野 弘

96-入道前太政大臣(にゅうどうさきのだじょうだいじん)
新勅撰集 落花をよみ侍りける

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは 我身なりけり
〔春の嵐で桜の花が庭に散り落ちて、雪が降っているかのようだ。しかしそれは雪ではなく、ふり行くものは、私の身なのだ〕

<ふりゆく>は、降り行くと古り行く、雪と老いが掛けられている。
入道前太政大臣は西園寺公経(きんつね、1117~1244)である。内大臣藤原実宗(さねむね)の子。源頼朝の姪と結婚し、鎌倉幕府派であった。公経の姉は定家の妻である。親幕派であったため、後鳥羽院と対立した。

実朝が殺されると、九条道家の子頼経が摂家将軍として鎌倉に下向した。頼経はし公経の孫(娘の子)に当たる。承久の乱(1221)で後鳥羽院が敗れると、公経は太政大臣となった。
このように公経は、院政末期の目まぐるしい権力の変転を生きぬいた政治家であるが、熱心な歌人でもあった。その豪奢な生活でも知られ、北山に華麗な山荘をつくった。これが足利義満の鹿苑寺(ろくおんじ=金閣寺)の基礎となった。
すでに平安は去り、鎌倉の世になり、栄枯盛衰の変転は目まぐるしい。桜が散っていく中で、自分の身の明日をふと思うこの歌は光と影を一瞬のうちに点滅させる。

95-前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)

百人一首百彩-95

海野 弘

95-前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)
千載集 題しらず

おほけなく 浮世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に 墨染の袖
〔身分不相応にも、私はこの山にいて、墨染の衣の袖で、うき世の民をおおっているのだ〕

(おほけなく)は、おそれおおくも、身のほど知らずにも、の意。杣は、木を切り出す山であるが、ここでは比叡山のことである。
おそれおおいことではあるが、私はこの比叡山で墨染の衣を着て、人々を仏の力でおおい、救おうとしているのだ、という仏僧としての決意を詠んでいる。慈円が大僧正になる前の、まだ修行中の若い僧であった頃の歌なのだろう。
前大僧正慈円(1155~1225)は関白忠通の六子。関白兼実の弟。良経の叔父である。十一歳で叡山に入って出家した。権(ごん)大僧正、天台座主(ざす)となり、十二世紀に激しく対立した寺院勢力と宮廷との融和につくした。歌人としてもすぐれ、後鳥羽院の歌壇に参加している。慈円、良経などの九条家は、定家の御子左家を支持し、六条家に対抗した。
甥の良経が急死し、和歌のパトロンであった後鳥羽院が承久の変(一二二こで隠岐に流され、仏僧である慈円も激しい政治的転変に流されなければならなかった。
この歌に詠まれている、民衆を救おうとする若い日の情熱はどんなふうに変わっていったであろうか。

94-参議雅経(さんぎまさつね)

百人一首百彩-94

海野 弘

94-参議雅経(さんぎまさつね)
新古今集 擣衣(とうい)のこころを

 みよし野の 山の秋風 さよふけて ふる里さむく 衣うつなり
〔吉野山の秋風が吹き、古都吉野は寒い夜がふけてゆくが、衣を打つ音がその寒さをさらに厳しく感じさせる〕

擣衣は、衣を打つこと、砧(きぬた)で、板の上で布を打って、やわらかくし、艶を出すのである。
吉野は天武天皇が即位する前に隠れていた地であり、その後、吉野離宮として、行幸があり、古都として知られていた。

参議雅経は飛鳥井雅経(あすかいまさつね。1170-1221)である。藤原頼経の子で、俊成に和歌を学んだ。『新古今和歌集』の撰者となった。鎌倉の大江広元の娘と結婚し、京都と鎌倉の仲介役でもあった。蹴鞠の名手で、後鳥羽院にかわいがられた。
後鳥羽院は建仁元年(1201)、二条殿に和歌所を復活し、後鳥羽院歌壇を形成するが、雅経もそこに参加した。
この歌は建仁二年(1202)、「詠百首和歌」として奉ったものの一つである。彼が歌人として認めるようになった時期の作品といえる。
鎌倉の三代将軍源実朝の歌を京都に取り次いだのも雅経であったろうといわれている。和歌の地方との交流、地方への普及に一つの役割を果たしたのであった。

93-鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)

百人一首百彩-93

海野 弘

 93-鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)
新勅撰集 題しらず

世の中は 常にもがもな 渚漕(なぎさこ)ぐ 海士(あま)の小舟の 綱手(つなで)かなしも
〔世の中は、いつまでも変わらずあってほしいものだ。渚を漕いでいく舟人の小舟を見ていくと、綱手を引く姿がしみじみと思いをかきたてる〕

綱手は舟の引き網だという。すると、綱で結んで、もう一艘を引いているのだろうか。とにかく、渚を小舟がゆっくり漕いでいく姿を見て、世の中がずっとこのままだといいな、と感じているのである。そのことは逆に世の中があまりに変わりつつあることを嘆いているのかもしれない。
鎌倉右大臣は源実朝(さねとも)(1192-1219)であり、源頼朝の次男である。頼朝の後、長男の頼家が将軍となったが、北条時政と対立し、暗殺され、実朝が三代将軍となった。1218年、右大臣となったが、翌年、頼家の子公暁(くぎょう)によって鎌倉八幡宮の前で殺された。
実朝は王朝文化にあこがれ、和歌を詠んだ。そして家集『金塊(きんかい)集』を出している。実朝によって『万葉集』の歌風を甦らせたといわれる。京都の歌壇で閉鎖的になっていた和歌は、鎌倉の地方文化によって活性化されたのであった。
しかしいつまでもこの平和な風景がつづいてほしいという実朝の願いはむなしいものとなり、小舟は嵐にのみ込まれていった

92-二条院讃岐(にじょういんのさぬき)

百人一首百彩-92

海野 弘

92-二条院讃岐(にじょういんのさぬき)
千載集 寄レ石恋と言へる心を
わが袖は しほひに見えぬ 沖の石の 人こそしらね かわくまもなし
〔私の袖は、潮干の時でもまだ水の下に沈んでいて見えない沖の石のように、人には見えませんが、乾く間もなく、いつも涙に濡れています〕
<袖、涙、かはくまもなし>、といった決まり文句をつないだような歌だが、当時は評判になって、後に「沖の石の讃岐」といわれた。このようにしゃれたレトリックがいい歌だ、と見られていたのだろうか。
二条院讃岐(1141~1217)は源三位頼政の娘。二条院は後白河の第一子で、後白河の後、二条天皇となった。讃岐は二条天皇に仕えた。二条は和歌を好み、藤原清輔を中心に、三河内侍、小侍従、讃岐などの二条院歌壇をつくつた。
二条院の没後も歌人として活躍していた。その間、治承四(1180)、父頼政が平清盛を倒、以仁王(もちひとおう)を奉じて挙兵し、敗死した。それが彼女にどのように影響したかわからない。その後も、後鳥羽院の歌壇に招かれていたようだ。
平氏が実権を握り、上皇たちは和歌に逃避する、といった院政末期の時代相の中で、女たちは恋の歌を詠いつづけていたのであった。

91-後京極摂政前太政大臣

百人一首百彩-91

海野 弘

 91-後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだじょうだいじん)
新古今集 百首歌たてまつりし時

きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに ころもかたしき ひとりかもねむ
〔こおろぎが鳴いているこの霜の降りた寒い夜に、むしろに衣を敷いて、独りで寝るのです〕

きりぎりすは、今のこおろぎであるという。<さむしろ>は、小さなむしろであるが、寒しを掛けている。「ころもかたしき」は、片方の袖を下に敷くことで、二人なら互いの袖を敷き交わすが、一人寝では片敷きになる。「さむしろにころもかたしき」の句は、『伊勢物語』や『古今集』に出てくるので、それを引用している。
後京極摂政前太政大臣は藤原良経(よしつね)(1169-1206)で、関白九条兼実(かねざね)の子、忠通の孫。慈円の甥。1202年、後鳥羽院の摂政、1204年、太政大臣となった。歌は俊成に学び、後鳥羽院の歌壇の中心であった。そして定家のパトロンとなった。
詞書の「百首歌たてまつりし時」は、正治2年(1200)の「後鳥羽院初度百首」の時である。
良経の歌は、漢詩文の教養に裏づけられ、隠者趣味があるといわれるが、この歌なども漢詩の風景を感じさせる。

90-段富門院大輔(いんぷもんいんのだいふ)

百人一首百彩-90

海野 弘

90-段富門院大輔(いんぷもんいんのだいふ)
千載集 歌合し侍りける時、恋の歌とて詠める
あーま
   見せばやな をじまの海人の 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず
〔見せたいものです。雄鳥の蟹の神は、海水ですっかり滞れてしまっても色は変わらないのに、私の袖は涙で濡れて色が変わってしまいました〕

色が変わるのは、恋で流す血の涙のせいだと解釈されている。雄鳥は宮城の松島の中の一つ。
段富門院大輔は生没不明。藤原信成の娘。股富門院は、式子内親王の姉。大輔は彼女に仕えていた女房の一人。西行、寂蓮、俊恵(しゅんえ)などと歌のやりとりがあり、定家の挟んだ『新勅撰集』に、女性では最高の十五首が入っている。姉の播磨(はりま)も股富門院に仕え、歌人であった。
大輔は俊意の「歌林苑」のメンバーで、歌をつくるのが非常に早く、多作であつたので(千首大輔)といわれたほどであった。 雄島は有名な歌枕で、(あま)、(松島)などと一緒に使われる。作者は雄鳥を見てはいないだろうが、歌枕として歌に引用して使っている。見た風景ではなく、ことばやイメージとしての歌枕によって歌をつくるテクニックが開発されている。さまざまな歌枕、さまざまな古歌を重ねて、千首でもつづけて詠めるのである。

89-式子内親王(しょくしないしんのう)

百人一首百彩-89

海野 弘

89-式子内親王(しょくしないしんのう)
新古今集 百首歌の中に、忍ぶる恋

 玉の緒よ たえなば絶(たえ)ね ながらへば 忍ぶる事の よはりもぞする
〔わが命よ、絶えるならたえてしまえ。なまじ生き永らえれば、恋を忍んでいる力が弱り、人に知られてしまうだろうから〕

玉の緒は、魂をつないでいる糸、命のこと。「たえなば絶ね」と激しい気持ちが詠われている。
式子内親王(1149-1201)は後白河天皇の三女。母は藤原季成(すえなり)の娘。保元の乱、平治の乱の激動があり、その中で式子は1159年から11年間、賀茂斎院となった。歌人としては藤原俊成に学び、定家とも交流があった。定家が恋人であったという説もある。
しかし、斎院として禁欲的な生活をし、引退してからも、ひっそりと暮らしたらしく、ほとんど目立った出来事は知られていない。それにもかかわらず、その歌には、激しい思いが秘められていて、情熱的な性格とそれを押圧されている悩みが感じられ、その秘められた生涯への想像力をかきたてられる。
1192年、後白河法皇が没し、式子内親王の地位は不安定なものとなった。はけ口のない情熱をじっとこらえてその生涯を終えた彼女に藤原定家も魅せられていたらしい。能『定家』には彼女の亡霊があらわれる。

88-皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)

 百人一首百彩-88

海野 弘

88-皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)
千載集 摂政、右大臣の時の家の歌合に、旅宿逢恋(りょしゅくあうこい)と言へる心を詠める

難波江(なにわえ)の あしのかりねの一夜ゆゑ みをつくしてや 戀わたるべき
〔難波の入江の産の刈根の一節のように、仮寝の一夜の短い逢瀬のために、身をつくしてずっと恋しつづけなければならないのでしょうか〕
<かりね>(刈根、仮寝)、<みをつくし>(浮標、身をつくし)などの掛けことばを結びつけたかなり技巧的な歌である。
「摂政、右大臣の時」というのは、九条兼実(かねざね)が右大臣だった時のことで、治承三年(1179)に歌合があった。
皇嘉門院別当は生没不明。源俊隆の娘。皇嘉門院は崇徳天皇皇后藤原聖子(きよこ)。聖子は関白忠通の娘で、九条兼実は異母弟であった。
作者は皇嘉門院に仕えた。右大臣兼実家歌合に参加した。俊忠、寂連、基俊、右府女房丹後などが一緒であった。
皇嘉門院に仕えた女房には歌人が多かった。出雲、近江などで、いずれも名前は伝わっていない。
その中でも別当は、歌人として才能があった。

87-寂遵法師(じゃくれんほうし)

百人一首百彩-87

海野 弘

87-寂遵法師(じゃくれんほうし)
新古今集 五十首歌たてまつりし時

村雨(むらさめ)の 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぽる 秋の夕ぐれ
〔村雨がさっと降り過ぎていった。その霧がまだ乾いていない真木の葉の辺に霧が立ちのぼっている秋の夕暮である〕
 村雨は、秋から冬にかけて、ざっと強く降る雨。真木は、杉や槍など。
寂蓮法師(1139?-1202)は俗名藤原定長。このあたり、坊さんがつづくが、それだけ遁世者が多かったのだろう。父は藤原俊成の弟俊海で、歌人の血をひく家柄である。1201年、『新古今集』 の撰者になったが、まとめる前に没した。
出家して、京都嵯峨に住み、後徳大寺実定小侍従、西行などと交流があった。また、出雲から鎌倉まで、各地を遍歴している。やはり法師として、旅をしやすかったのだろう。
「五十首歌たてまつりし時」というのは、1201年、後鳥羽院によをる「老若五十首歌合」のことである。すでに時代は鎌倉時代に入っている。1205年、藤原定家が『新古今集』を撰んだ。寂蓮は撰者となりながら、それを果たすことなく没した。
この歌のように、寂蓮は、王朝和歌の秋の夕暮れを見た人であったかもしれない。その死を聞いた定家は、哀傷の思いに打たれたという。

86-西行法師(さいぎょうほうし)

百人一首百彩-86

海野 弘

86-西行法師(さいぎょうほうし)
千載集 月前恋と言へる心を詠める

なげけとて 月やは物を おもはする かこちがほなる わがなみだかな
「月が私に嘆けと、物思いにふけらせるのだろうか。そんなはずはないのに、月のせいにして私の涙が流れてくる」

月前恋、つまり月を見ながら恋に悩むという題の歌である。
西行法師(1118-1190)はおそらく最も親しまれている歌人の一人だろう。本名は佐藤義清(のりきよ)で、俵藤太秀郷の末というが中流の武士で、鳥羽上皇の北面の武士となった。北面の武士は、11世紀末、白河法皇が院御所の衛兵として設けたもので、院政と武家勢力との結びつきを強めた。
しかし彼は23歳で出家した。その理由は高貴な女性への失恋ともいうが、この世を離れたいという思いが早くからあったらしい。そして高野山を中心に各地を遍歴し、歌に生きた。陸奥へ、そして中国、四国へと大旅行し、旅人としての西行は伝説化されていった。
その旅が勧進という宗教活動であったか、歌を求めての数奇、風流の旅であったかはわからないが、歌を一般の人々にこれほど親しいものとした歌人は他にいないだろう。<西行>といえば、歌と修行の旅を意味するようになった。
この歌も、恋の歌というだけではなく、月の下を一人旅する西行の姿として詠んでみたくなる。

85-俊恵法師(しゅんえほうし)

 百人一首百彩-85

海野 弘

85-俊恵法師(しゅんえほうし)
千載集 恋の歌とて詠める
夜もすがら 物思ふころは 明やらで 閏の隙さへ つれなかりけり
〔よもすがら、恋の思いに悩んでいるこの頃は、夜が長く、なかなか明けない。寝室のすき聞から朝の光を待っていても、入ってこない〕

おそらく、やって来ない人を待って、一晩中、眠れぬ長い夜を過ごしたのだろう。朝の光でさえなかなか閏のすき聞から入ってこない。これは作者が女性の気持になつて詠んだものである。
俊恵法師は生没不明。源俊頼の子。大納言経信の孫。王朝末期になると、歌人も三代目、四代目となり、互いに親族だったり、サロン・グループだったりして、つながりができてくる。
俊恵は奈良東大寺の僧となった。歌人として、六条家、御子左家に対する第三勢力として活動した。1156年ごろから京都白川の僧坊を「歌林苑」と称し、歌人のサロンを開いた。藤原清輔、鴨長明、また殷富門院大輔、讃岐などが集まった。身分にこだわらない自由なグループであったといわれる。
坊さんであることが、俊恵の場合でも、世間的な身分、性の区別から自由な立場を可能とさせたようだ。和歌の世界を貴族社会から一般の人々へ開くために、彼のグループはある役割を果たしたのではないだろうか。

84-藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん)

百人一首百彩-84

海野 弘

84-藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん)
新古今集 題不知
こい
永らへば また此頃(このごろ)や しのばれむ うしと見し世ぞ 今は懸しき
〔生き長らえていれば、辛いこのごろも、なつかしく思われるだろう。なんと悲しい世だと悩んでいたあの時代が、今は恋しいとさえ思われるのだから〕

『新古今集』では題不知となつているが、『清輔朝臣集』では、「いにしへ思ひ出でられるころ、三条内大臣いまだ中将にておはしける時、つかはしける」と詞書がついている。三条内大臣は清輔の従兄藤原公教(きんのり)で、中将であったのは1130-1136年であった。崇徳天皇の時代である。
藤原清輔(一一〇四Ⅰ一一七七)は顕輔あきすけ()の子であったが不仲であったという。そんな悩みがこの歌にも沈んでいるのかもしれない。しかし一一四四年、顕輔が崇徳院の院宣で『詞花集』 の撰者となつた時、息子清輔と和解して、手伝いを頼んだという。ながらえると、いいこともある。
保元の乱で崇徳院が讃岐に流され、清輔は後援者を失う。しかし二条天皇に認められ、歌壇に地位を築いた。そして『続詞花集』を挟んだが、二条の急死によって、勅撰集にならなかった。
幸運と不運がくるくると変わっていくこの世を、彼はこの歌で予感していたのだろうか。

83-皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶとしなり)

百人一首百彩-83

海野 弘

83-皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶとしなり)
千載集  述懐百首の歌詠み侍りける時、鹿の歌とて詠める

世の中よ 道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞなくなる〔この世を逃れたいと思っても、道はないのだ。世を捨てようと山に入ったが、そこでも鹿が鳴いて、悲しみを思い出させる〕

 このころ遁世の思いを詠んだ歌が目立つようになる。王朝の落日、末世観が迫りつつあったからだろうか。
皇太后宮ほ俊成は藤原俊成(1114-1204)で、俊忠の子であった。皇太后宮(後白河の皇后、藤原厚子)の大夫となった。その子の定家とともに、歌道の家である御子左家(みこひだりけ)の繁栄を築いた。
基俊に和歌を習い、古歌の意味などを秘伝として伝える〈古今伝授〉をはじめたといわれる。和歌も技術として継承されることになったのである。
この歌は、-表○年ごろ、俊成が堀河百首題により、述懐百首として崇徳天皇に奉ったものの二言ある。これによって崇徳院歌壇に参加するようになり、「久安百首」の一合育、歌人として認められた。
官職では必ずしも認められなかったので、俊成の歌には、悲観的なひびきが漂っている。

82-道因法師(どういんほうし)

百人一首百彩-82

海野 弘
82-道因法師(どういんほうし)

千載集 遺しらず

思ひわび さても命は 有ものを うきにたへぬは なみだなりけりこの画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 282d142d8a972177a87d49649d088aee.jpg です
〔恋に思い悩んでいても、なんとか命はまだ有るのだが、その悩みに耐えられないのは涙で、とめることができない〕

(うき)は憂き、だが、浮きも掛けられているかもしれない。涙は落ちるものなので、(浮き)に対比されている。
 道因法師は俗名藤原敦頼(1090-1182?)といった。九十歳以上まで生きたという。いろいろ滑稽なエピソードが残っている人で、歌人の長老として、あちこちに出入りしていたらしい。
また法師という、社会的な身分関係から自由な立場で、貴族の歌会から、貴族以外の地下階級の、庶民的歌会まで参加している。住吉社歌合(1170)、広田社歌合(1172)など神社の社頭で、一般の人々も参加できる催しを彼自身の勧進で開いた。
この歌は、一応、恋の歌とされているのだが、人生一般のこととして読むこともできる。この世のさまざまな悩みにもかかわらず、今日までなんとか生きてきた。しかし、命はなんとかこらえてはいるが、こらえきれずに流れ落ちてしまうのは涙である。
九十すぎまで歌に生きた道因は、院政のはじまりから平家の滅亡までの時代の大部分を見ていた。

81ー後徳大寺左大臣(ごとくだいじのきだいじん)

81ー後徳大寺左大臣(ごとくだいじのきだいじん)
千載集 暁ニ聞ク郭公ヲ、といへる心を詠み侍りける

 郭公(ほととぎす)鳴(なき)つるかたを ながむれば ただ有明(ありあけ)の 月ぞのこれる
〔ほととぎすの鳴いている方を見ると、ただ有明の月が残っている〕
ほとんどそのままの、説明不要ともいえる歌である。もちろん、この時代の歌なので、実際に見たまま詠んだわけではなく、暁に郭公を開くという題を出されて、まるで見たかのように想像のシーンを詠んだのである。
後徳大寺左大臣は藤原実定(1139一1191)。右大臣公能(きんよし)の子。祖父実能が徳大寺左大臣と呼ばれて、彼は後徳大寺左大臣と呼ばれた。俊成の甥、定家の従兄弟。
郭公は、初夏に、夜附けに一声鳴くのを待つ、というのが歌の世界の風流であった。この歌では、やっと鳴いたので、そちらを見ると、ほととぎすの姿は見えず、有明の月が残っでいたというのである。
実定は長いこと役職にめぐまれず、その悩みを歌作への情熱で癒していた。平氏全盛の時代であった。やっと1177年に右大将となり、出世の通が開ける。歌人としても有名になっていくが、俗物になったという評もあったという。ともかく、なかなか人間味豊かな人であったようだ。

80-待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)

百人一首百彩-80

海野 弘
80-待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)
千載集 百首歌奉りける時恋の心を詠める
ながからむ 心もしらず 黒髪の みだれて今朝は 物をこそおもへ
〔この恋が長つづきするものか、あなたの心がわかりません。長い黒髪は、今朝は乱れています。そのように、心も乱れ、思い悩んでいます〕

 これも「久安百首」の時の歌である。そこでは一句が「ながからぬ」になつている。
待賢門院堀河は生没不明。神武伯源顕仲の娘。父も有名な歌人であった。
待賢門院は藤原公実(きんざね)の娘章子(しょうし)。鳥羽天皇の皇后で、崇徳、後白河の母であった。堀河はこの皇后に仕えた。埠子は白河上皇にかわいがられ、崇徳は実はその子ではなかったかといわれている。そのため、鳥羽は崇徳をかわいがらず、それがやがて保元の乱を引き起すきっかけとなる。
そのような微妙な立場にあった待賢門院に仕えた堀河も女主人の盛衰に苦労した。鳥羽は美福門院を寵愛し、待賢門院は出家して仁和寺に引退した。堀河も一緒であった。

歌人としては高く評価され、「久安百首」に妹の兵衛(ひょうえ)とともに選ばれている。西行とも交流があったといわれている。

79-左京大夫顕輔(さきょうのだいぶあきすけ)

 百人一首百彩-79

海野 弘

79-左京大夫顕輔(さきょうのだいぶあきすけ)
新古今集 崇徳院に百首たてまつりけるに

秋風に たな引(びく)雲の 絶えまより もれ出(いず)る月の 影のさやけさ
〔秋風にたなびく雲の切れ間から、もれてくる月の光がすがすがしい〕

秋風、雲、月の光と、まさにさわやかな取り合わせで構成されている。
これは、崇徳に百首を奉る、という「久安百首」の時の歌で、兼昌と一緒である。ただし「久安百首」では第二句が「ただよふ雲の」になっている。
左京大夫顕輔(あきすけ)は藤原顕輔(1090-1155)で、藤原顕季(あきすえ)の三男。顕季は歌道の家である六条家の祖である。顕輔は崇徳院の院宣を受け『詞花集』を撰んだ。
院政時代には、歌も歴史を持ち、歌論・歌学が盛んになり、歌道として受け継いでいく歌道の家があらわれる。和歌は学問として蓄積され受け継がれるものとなる。古歌の知識が必要となるのである。

歌道家として確立した六条家に対抗したのは御子左(みこひだり)家で、藤原俊成、定家があらわれて六条家を圧倒してゆく。
六条家は、柿本人麿を歌聖として崇拝する和歌の祭典をはじめた。
顕輔は、俊頼、基俊の時の歌壇の第一人者となった。

78-源兼昌(みなもとのかねまさ)

百人一首百彩-78

海野 弘

78-源兼昌(みなもとのかねまさ)
金菓集 関路千鳥と言へる事を詠める
ぎめ
淡路島 かよふ千鳥の鳴くこゑに いくよね覚ぬ 須磨の開もり
〔淡路島との間を飛び交っている千鳥の鳴き声に、何度、目を覚まされただろうか、須磨の関守よ〕

 淡路島と明石須磨の間を往復している千鳥を関路千鳥といっている。千鳥は、冬に浜辺に群棲し、泣くような悲しい声で鳴く。したがって寒い冬の夜の情景である。
源兼昌は生没不明。1112年に没したとされるが、1128年の住吉歌合に兼昌入道が出ているので、その頃まで生きていたともいう。宇多源氏の源俊輔の子。あまり有名な歌人ではないが、周辺にいたらしい。
『後拾遺集』(1086)から『金葉集』(1127)までの間、白河、堀河、鳥羽、崇徳天皇の時代、院政前期ともいえる約40年間に歌合や百首がよく行なわれた。(百首)は、勅命によって、多くの歌人にそれぞれ百首を奉らせる催しである。
康和年間(1099-1104)に「堀河百首」があり、鳥羽天皇の永久4年(1116)に「永久百首」があった。この「永久百首」に召された7人の歌人の中に源兼昌が俊頼などと並んで入っている。

これらの歌の催しが大がかりになり、かなり多くの歌人が登場しつつあった。

77-崇徳院(すとくいん)

 百人一首百彩-77

海野 弘
77-崇徳院(すとくいん)
詞花集 題しらず
たきがわ
瀬をはやみ 岩にせかるる 瀧川の われてもすゑに あはむとぞ思ふ
〔清瀬で流れが速くなり、岩にぶつかる滝川は、そこで二つに分かれても、また先で一緒にな
るように、私たちも別れても、また逢うことができると信じている〕
崇徳院(一二九-一一大四)は、鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮藤原たま子(待賢門院)。名は顕仁。
一一二三年に即位。摂政は藤原忠通であった。
二三九年、鳥羽上皇の皇后藤原得子(とくし・美福門院)に皇子が生まれた。得子を溺愛していた上皇は、この皇子を東宮(次期の天皇)と決め、一一四一年、崇徳を退位させ、三歳の東宮を近衛天皇として即位させた。それで、鳥羽上皇を本院、崇徳上皇を新院といった。
しかし、近衛天皇は一一五五年に没し、後継として、崇徳の第一皇子が通らず、美福門院と関白忠通の擁立する後白河が即位した。それをきっかけに起きた保元の乱に敗れ、讃岐に流され、そこで一一六四年に没した。
その後の戦乱は崇徳院の怨念によるたたりだといわれる。何度も都にもどることを嘆願したが後白河は許さなかった。
この歌の 「われてもすゑに あはむとぞ思ふ」という思いは叶えられなかったのである。

76-法性寺入道前関白太政大臣

百人一首百彩-76

海野 弘

76-法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゆうどうさきのかんばくだじょうだいじん)
詞花集 新院位におはしましし時、海上遠望といふことを詠ませ給ひけるに詠める

和田(わた)の原 こぎ出(いで)て見れば 久かたの 雲ゐにまがふ おきつしらなみ
〔海原に船をこぎ出してみると、はるか彼方に、雲と見まちがうような沖の白波が立っている〕

そのままのおおらかな風景歌で、万葉ぶりの復活のようにも見える。
法性寺入道前関白太政大臣は藤原忠通(一〇九七-一一六四)。関白忠実の子。鳥羽、崇徳(すとく)、近衛、後白河と四代の天皇の摂政関白であった。一二ハニ年、出家して、法性寺の脇に住んだ。
父忠実と弟頼長は忠通と対立し、藤原氏は分裂した。忠通は後白河と組み、頼長は崇徳上皇と組んで、内乱となった。保元の乱(一一五六)である。頼長は敗死、崇徳は讃岐に流きれた。
忠通は、歌人で能書家であった。同時に、政治家であり、院政と妥協しながら、藤原氏の摂関体制を維持しょうとした。しかし保元の乱は、武士の時代を開幕させた。この歌の「沖つしら波」はそのことだったろ、つか。
詞書の「新院位におはしましし時」とあるのは、新院(崇徳院)がまだ天皇の位にいた時(1141)のことだ。

75-藤原基俊ふじわらのもととし)

百人一首百彩-75

海野 弘
そうず     ゆいま え  こうじ  せい
 75-藤原基俊ふじわらのもととし)
千載集 僧都(そうず)光覚、維摩会(ゆいまえ)の講師(こうじ)の請(せい)を申しけるを、たびたびもれにければ、法性寺入道前太政大臣(ほっしょうにゅうどうさきのだじょうだいじん)に恨み申しけるを、しめぢが原と侍りけれど、又その年ももれにければ遣(つかわ)しける。

契(ちぎ)りおきし させもが露を 命にて あはれことしの 秋もいぬめり
〔「させもぐさ」とおっしゃったことばをお約束と信じていましたのに、今年の秋もまたむなしく過ぎました〕

詞書によると、基俊の子である僧都光覚が維摩会(維摩経の法会。興福寺で毎年十月に開かれる)の講師になりたいと願っていたが、たびたび落ちていた。そこで基俊が法性寺入道前太政大臣(藤原忠通)にうらみをいうと、「しめぢが原」といった。
これは『新古今集』の古歌「なほ頼めしめぢが原のさせも草われ世の中にならむ限りは」による。
標茅(しめじ)が原は下野国のもぐさの名産地。「しめぢが原」といったのは、「なほ頼め」(頼りにしてくれ)という約束と信じたのに、させも草に降りた露のようなはかないことばで、今年も落ちてしまい、秋が去っていきました。
藤原基俊(?-二四二)は右大臣藤原俊家の子。道長の曾孫であり、名門であるが、出世には恵まれなかった。
しかし歌の才能が認められ、俊頼とともに院政期歌壇の主な歌人の一人となった。

74-源俊頼朝臣(みなもとのとしよりのあそん)

 百人一首百彩-74

海野 弘

74-源俊頼朝臣(みなもとのとしよりのあそん)
千載集 権中納言俊忠家に、恋の十首歌詠み侍りける時、祈れどもあはぎる恋と言へる心を
うかりける 人を初瀬の 山おろし はげしかれとは いのらぬものを
〔つれないあの人のことを初瀬の長谷寺に祈ったけれど、山おろしがこんなに激しく吹くとはいわなかったのだが〕

源俊頼(1055?~1129?)は大納言経信の三男。優忠の父。天治元年(二二四)、白河院の命で『金葉集』を挟んだ。しかし白河院の気に入らず、三撰でようやく受け入れられた。
俊頼は堀河天皇の近習となった。白河上皇の院政下で堀河天皇はひたすら歌や管絃の世界に遊んだ。中宮篤子(とくし)とともに、堀河院歌壇といわれた宮廷サロンをつくつた。
堀河院歌壇は、村上源氏の顕仲(あきなか)、国信、師頼、師時、藤原氏の能実(よしざね)、宗忠、俊忠、仲実(なかざね)、管絃の才で近侍した源俊頼、藤原忠教、藤原敦兼などであった。
二〇七年、堀河天皇の代で堀河院歌壇は終わったが、俊頼は、藤原顕季(あきすえ)、藤原基俊とともに、貴族歌壇の中心となつた。

72-祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)

 

 明けましておめでとうございます。

本年も宜しくお願いします。

三武 義彦

百人一首百彩-72

海野 弘

 

72-祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)
金葉集 かへし
音に聞く たかしの浜の あだ浪は かけじや袖の ぬれもこそすれ
〔あの有名な高師の浜のあだ浪が、袖にかからないよう気をつけます。濡れてしまいますから〕

高師の浜は、大阪府浜寺から高石市にかけての浜で、和泉国の歌枕。高師に、波高しも掛けられ
ている。

これは康和四年(一一〇二) の 「堀河院艶書(えんしょ)歌合」で中納言俊忠の歌「人しれぬ 思ひありその 浦風に 彼のよるこそ いはまほしけれ」(人知れぬ思いかあります。ありそ(荒磯)の浜の風が波を打寄せているのも、なにかいいたいことがあるのです) への返しである。
色好みで名高いあなたの、あだな(いたずらな)思いの波はよけましょう。袖が濡れてしまいますから、という意味である。
祐子内親王家紀伊は生没不明。後朱雀院中宮げんしに仕え、のち、その娘の祐子内親王に仕えてこう呼ばれた。紀伊の名は、紀伊守藤原重経の奏であったからではないかという。(きい)でなく、(き)と読む、という説もある。
後宋雀天皇には皇后、中宮、女御が多かったので、それぞれ女房たちがいて、女房文学が盛んであった。紀伊もそこで歌人として活躍した。男たちの歌に鮮やかに切り返す才気がこの歌でも見られる。

71-大納言経信(だいなごんつねのぶ)

 百人一首百彩-71

海野 弘

71-大納言経信(だいなごんつねのぶ)
金菓集
師資(もろかた)朝臣の梅津の山里に人々まかりて、田家秋風と言へる事を詠める

夕されば 門田(かどた)のいなば おとづれて あしのまろ屋に 秋風ぞふく
〔夕方になると、家の前の田の稲の葉を揺らし、産で葺いた丸い屋根の家に秋風が吹いてくる〕

これもわかりやすい叙景歌だ。まろ家は、中心柱からまわりに産を葺き下して、傘のような丸屋根になっている小屋のことだろうか。
詞書では、源師賢の梅津の山里(山城国、今の京都市右涼区)に人々が集まり、田家秋風の題で詠んだものである。
この時代には、都を逃れて、地方の田園生活を面白いと見る趣味があらわれた。ひなびたもの、古風なもの、廃墟趣味、懐古趣味、歴史の意識などが詠われる。もちろん、田舎が面白いというのは、あくまで都の貴族の感性からのものである。
大納言経信は源経信(1016-1097)である。平安後期の歌人で、詩、管絃の名手でもあり、風流人であった。源師賢は琵琶の名手資通(すけみち)の子で、経信の管絃仲間で、それぞれ山荘を持ち、そこに集まって歌や管絃の会を開いていた。経信の山荘は桂にあり、桂大納言ともいわれた。
この歌はそれらの山荘で生まれた、山荘文芸の一例である。
経信は摂関時代の最後を飾る歌人で、院政時代への過渡期を生きた。

70-良ぜん法師(りょうぜんほうし)

百人一首百彩-70

海野 弘
70-良ぜん法師(りょうぜんほうし)
後拾遺集 題しらず

淋しさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋のゆふぐれ
(淋しさを感じて、家を出てあたりを眺めると、どこも同じような秋の夕暮である)

そのまま読んでわかる、訳もいらないように見える歌だ。このように淡々と情景を詠んでいく自然な感じが清新な感じをもたらす。
師は生没不明。十一世紀なかば、後宋雀、後冷泉の時代に活躍した。叡山の僧であったと能国法師などと同じく、宗教活動よりは歌僧として上流貴族に招かれて歌会に出る方が多かった。和歌が社交となり、座の芸術の様相を帯びてきた。また、中宮、女御など女性が主宰する歌会が多くなった。座の変化をつけるため、また後宮という女性社会であるため、中性的な、僧体の人は都合がよかった。
平安後期には、熊野参りなどの宗教行事が流行し、精神生活の不安、末世思想などから、祈祷が盛んになり、生活と宗教が混じり合うようになった。
歌の世界でも聖俗の混合が行なわれ、歌法師たちが、いわば芸人としてもてはやされたのであった。

69-能因法師(のういんほうし)

 69-能因法師(のういんほうし)
後拾遺集 永承四年内裏歌合に詠める

  嵐吹く 三室(みむろ)の山の もみぢ葉は 龍田(たつた)の川の にしき成けり
〔嵐の吹く三室山の紅葉は、散り落ちて、龍田川の錦になった〕

 三室山は奈良県生駒山のことという。歌枕である。龍田川はそのふもとを流れる。嵐で散った紅葉が川を錦のように彩っている、という視覚的な歌で、在原業平の歌と似ている。
能因法師は生没不明。俗名は橘永憶(たちばなのながや)。藤原長能(ながとう)の歌道の弟子となつた。長能は道綱母の兄である。歌道の師弟関係が結ばれ、歌道の家がつくられていてはしりであるという。
能因は若くして出家し、摂津国古曾部に住み、歌僧として活躍した。深い信仰があったというより、むしろ僧体の方が自由に旅をして、歌作に専念するのに便利であったかららしい。だから歌には宗教色がない。
能因法師は、見たこともない奥州の白河の関の歌を都にいてつくつたという話があるが、これは伝説らしく、実際は二度ほど奥州に下っている。日本中を旅して、その風景を詠むというのもこの時代の新しい傾向なのだ。(歌枕)が確立されてくる。能因は、旅の風景を詠み、地方に都の和歌のつくり方を広めることに大きな役割を果たしたのではないだろうか。

68-三条院(さんじょういん)

百人一首百彩-68

海野 弘

68-三条院(さんじょういん)
後拾遺集 例ならずおはしまして、位などさらむと覚しめしける頃、月のあかかりけるを御覧じて

心にも あらで憂世(うきよ)にながらへば、戀しかるべき 夜半の月かな
〔こころにもなく、この憂き世に生きながらえていれば、この夜の、こうこうと照っている月を恋しく思い出すだろう〕

三条院は三条天皇(九七六-一〇一七)である。詞書によると、「例ならず」(身体の具合が悪く)、退位しょうか悩んでいた。その夜の月の明るさを見て詠んだ歌である。
権中納言走頼のところでのべたように、三条天皇は道長に退位を迫られていた。その時、つくつた歌らしい。
天皇をやめてしまって、なんのいいこともなくこのまま生きていくなら、今夜の美しい月のことを思い出すだろう。天皇としてこの月を見るのは、今夜で終わりなのだ。
三条天皇は眼病を患っており、失明して、月が見えなくなる、というおそれもこめられているという。三条は退位し、道長の孫が後一条天皇となり、道長の天下となる。

67-周防内侍(すおうのないし)

百人一首百彩-64

海野 弘

67-周防内侍(すおうのないし)
千載集 二月ばかり月のあかき夜、二条院にて人々あまたゐあかして、物語などし侍りけるに、内侍周防よりふして、枕をがなとしのびやかに言ふを聞きて、大納言患家是を枕にとて、かひなをみすの下よりさし入れて侍りければ詠み侍りける
たまくら

春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなくたたむ 名こそをしけれ
〔春の夜の夢にしかすぎない手枕のために、浮名が立ってしまうのは割が合いませんし、残念です〕

詞書によると、二月ごろ、月夜の晩に二条院に集まっておしゃべりをしていた。周防内侍は横になり、「枕がほしい」といった。すると大納言忠家が簾(みす)の下から手を入れて、これを枕に、といったのに答えたものだ。
そんな冗談のような手枕をしたりすれば、本当の恋でもないのに噂になってしまって、評判が悪くなるのはごめんですよ、というのである。
周防内侍は生没不明。後冷泉、白河、堀河に仕えたという。本名は平伸子。
二条院は後冷泉天皇の中宮章子である。大納言忠家は、藤原道長の孫で、歌人として知られ、そ
の家系は御子左家(みこひだりけ)と呼ばれ、藤原定家につながる。

前大僧正行尊

66-前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)
金葉集 大峯にておもひもかけずさくらの花の咲たりけるをみて詠める

もろともに 哀(あわれ)と思へ 山櫻 花より外(ほか)に しる人もなし
〔山桜よ、ともにあめれと思おうではないか。おまえを見ているのは、私一人しかいないが、私を知っているのも、おまえしかいないのだから〕

哀は、哀れだけでなく、親しく、なつかしく思うという意味でもある。大峯(奈良)に山ごもりしている時に人知れず咲いでいる桜を見て詠んだ歌という。
 前大僧正行尊(一〇五五-一一三五)は三条院の子孫で、参議源基平(もとひら)の三男。十二才で園城寺に入り      出家し、諸国行脚の旅をし、山伏修験の行者として知られる。一一二三年、延暦寺の座主(ざす)となった。
平安時代に密教の影響で、山に入って修行する修験道が盛んになった。大峯山鳩醍醐寺の聖宝にょって開かれ、修験道の中心となった。平安後期には貴族の帰依によJ密教の寺院がつくられ、祈祷が行なわれた。行尊は霊験あらたかな行者として都の注目を集めた。また歌人としても知られた。
彼についてはさまざまな不思議な話が伝えられている。歌と魔術とはどのように結びついているのだろうか。

65-相模(さがみ)

 65-相模(さがみ)
後拾遺集 永埜ハ年、椰鼻歌合に

うらみわび ほさぬ袖だに ある物を 恋にに朽ちなむ 名こそをしけれ
〔恋の悩みをうらんだり悲しんだりして、涙に濡れた袖を乾かす間もないのに、恋によって、名前も朽ちてしまうのは残念です〕

濡れたまま乾さないので、袖がぼろぼろになってしまうことと、恋の噂で名前もぼろぼろになることを重ねている。
相模は生没不明。源頼光(よりみつ)の娘ともいわれる。乙侍従の名で宮仕えし、大江公資(さんすけ)と結婚し、その住

地相模に下ったので、こう呼ばれる。公資と別れてから、一品宮祐子(いっばんみやゆうし)内親王に仕え、歌人として知られた。藤原定頼などともつきあいがあり、そのことはうかがわれる。恋をして、思いが詠まれている。
永承六年(一〇五一)は後冷泉天皇、恋の噂が多い。魅力的な女性であったようだ。この歌からもそれを悩み、また世間の噂にも悩むという、悲観的な女性の関白頼通の時代である。この年に東北で叛乱が起こつた。前九年の役である。藤原氏の摂関政治にかげりがあらわれる。相模の憂愁も時代の影であるかもしれない。

64ー権中納言定頼

百人一首百彩-64

海野 弘
64ー権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)
千載集 宇治にまかりて侍りける時詠める

朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれ渡る 瀬々のあじろ木
〔朝、日が昇ってくると、宇治の川霧も散り散りになってきて、あちこちの瀬に掛けられた網代木が見えてくる〕
ひお
網代木は魚をとるための竹の寵を留める杭である。宇治川では冬に氷魚をとるための網代をかける。風景をくつきりと見えるよケに描写している。
権中納言定頼(九九五-一〇四五)は藤原公任の子。小式部内侍のところでも登場した。軽薄でおっちょこちょい、憎めない才子であったという。さまざまなエピソードが伝えられているが、長和三年(一〇一三)、三条天皇の伴で春日神社に行った時、敦明(あつあきら)親王の従者をなぐつたので、五年間、行事の役をとりあげられたという。
一条天皇を継いだ三条天皇は、藤原氏の権力に最も苦しんだ天皇といわれる。道長から無視された。三条の子敦明親王の従者に走頼が乱暴したのも、藤原氏が三条天皇を軽視していたからだろう。
道長は三条に迫って退位させる。それによって皇女当子(まさこ)が斎宮の役を解かれ、都にもどってきたのである。そして道雅と当子のスキャンダルが三条に決定的な打撃を与えた。
三条と道長の権力抗争を背景に、道雅、走頼といった貴公子たちが踊っていたのである。

63ー左京大夫道雅

百人一首百彩-63

海野 弘

63ー左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)
後拾遺集 伊勢の斎言わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひける事を、おほやけもきこしめして、まもりめなどつけさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ詠み侍りける

今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
〔今はもう、思いを絶たないといけないのだが、そのことだけでも、人づてでなく、直接お伝えできたらいいのですが〕

詞書によると、伊勢の斎宮(さいぐう)であった人とひそかに逢っていたが、天皇にも知られて、守り女(番人)がつけられ、近寄れなくなってしまったことを嘆いた歌である。
天皇が即位すると、皇女を伊勢神宮奉仕に送る。その未婚の皇女を斎宮という。この話の斎宮は三条天皇の皇女当子(まさこ)であった。
左京大夫道雅は藤原道雅(九九二-一〇五四)で、儀同三司藤原伊周の子。儀同三司母の孫となる。
『栄花物語』には、道雅が三条天皇の皇女正子に通ったので、天皇は正子を尼にしたとある。
中の関白家といわれた伊周の家は道長との権力争いに敗れて衰えていき、道雅も世をすねたところがあったらしい。従三位右京大夫となつたが、悪三位とか荒三位といわれた。しかし晩年は、文人として静かに暮らしたようだ。

62ー清少納言

62ー清少納言(せいしょうなごん)
後拾遺集 大納言行成、物語などし侍りけるに、内の物いみにこもればとて、いそぎ帰りて、つとめて、鳥の声にもよほされてといひおこせて侍りければ、夜深かりける鳥の声は函谷関(かんこくかん)のことにやといひ達したりけるを、立帰り、是は逢坂の関に侍るとあれば詠み侍りける。

 

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よにあふさかの 関はゆるさじ
〔真夜中に、鶏のうそ鳴きでごまかそうとしても、逢坂の関は開かないでしょう〕

故事を知らないとわからない歌だ。詞書によると、藤原行成(ゆきなり)が訪ねてきて、おしゃべりをしていたが、内の物忌みがあるからと、いそいで帰ってしまった・。昨朝、鶏の声がしたので、夜明けと思って早帰りをしましたと言い訳の手紙が来た。それに対して、夜中の鶏の声というのは函谷関のことですか、と返事をすると、いや逢坂の関のことですといってきた。それに対する歌である。
「函谷関のこと」というのは、『史記』に出てくるもので、戟国時代、孟嘗君(もうこうくん)は三千人の食客を養っていたが、秦に捕われた時、鶏の鳴き声のうまい食客に鳴かせて、夜明けと思った関守に扉を開けさせ、脱出したという故事である。行成は、いやそうではなくて、あなたに逢いたいと思う逢坂の関のことですよ、と答えるが、作者は、鶏の声でだましても逢坂の関は開きません、と切り返す。
清少納言は生没不明。清原元締の娘。一条天皇の皇后定子(ていし)に仕え、その教養で男たちと競った。
紫式部には、したり顔で、さかしい (賢こぶっている)などといわれた。一〇〇〇年に定子が亡くなると、尼になったという。この歌をめぐる話は『枕草子』に出ている。

61-伊勢大府輔(いせのたいふ)

百人一首百彩-61

海野 弘

61-伊勢大府輔(いせのたいふ)
詞花集 一条院御時、ならの八重桜を人の奉(たてまつり)けるを、其の折御前に侍りければ、その花を
題にて歌詠めとおほせごとありければ

いにしへの 奈良の都の 八重樺 けふ九重(ここのえ)に 匂ひぬるかな
〔いにしえの 奈良の都の八重桜、今日は、宮中で美しく薫っています〕

九重は、王城の門が九重にめぐらしてあるという意味で、八重桜が九重(宮中)で咲いている、ということばの遊びである。
詞書によると、一条院(在位九人六-一〇一一)に桜花を奉った人がいて、帝は、それについて歌を詠めといった。その時の歌である。したがって、古くからの桜が宮中(九重)で、また一段と美しく
咲きほこつている、と桜を通して帝を請えているのである。          、
伊勢大輔(生没不明)は、神祇伯祭主大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の娘。伊勢神宮の神宮でをる大中臣家の歌人群の                                    し上、つし
一人である。頼基、能宣、輔親と代々つづいている。上東門院彰子(道長の中宮)に仕えた。和泉式部、紫式部、赤染衛門、小式部内侍と共に、(梨壷の五歌仙)として道長の時代を飾った。

60ー小式部内侍(こしきぷのないし)

百人一首百彩-60

海野 弘

60ー小式部内侍(こしきぷのないし)
金葉集 和泉式部、保昌にぐして丹後国に侍りけるころ、都に歌合のありけるに、小式部内侍歌詠みにとられて侍りけるを、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌いかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしけるや、使はまうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむ、などとカはぶれて立ちけるを、ひきとどめて詠める。

大江山 いくのの道の とほければ まだふみも見ず あまのはしだて
〔大江山に向かう幾野の道は遠いので、さらにその彼方の天の橋立は見たこともなく、そこからの手紙も来ません〕

一つの物語のような長い詞書がついている。和泉式部が藤原保昌(やすまさ)と再婚して、夫の赴任した丹後に行ってしまった。都に歌合があり、娘の小式部内侍(ないし)が呼ばれた。すると藤原公任の息子の定頼がやってきてたわむれた。彼は軽薄な才子といわれていた。歌はどうしました。丹後にいるお母さん
に頼みましたか。まだ歌はとどいていませんか、などとからかったのである。
それに対して、この歌を詠んでみせた。大江山の彼方の天の橋立 (丹後) は遠いので、行ったこともないし、歌なんか頼んでいませんよ、というのである。
幾野(生野) には(行く)が掛けられ、「ふみも見ず」は、文(手紙)も見ずと踏みもみず(行った
こともない)が掛けられている。私だって、母に頼まなくても歌が詠めますよ、と切り返している。
小式部内侍(九九九?-一〇二五)は、和泉式部と橘道貞の子。母とともに中宮彰子に仕えた。道長の子敦道(のりみち)をはじめ多くの男に愛されたが、母より先に亡くなった。

59ー赤染衛門(あかぞめえもん)

百人一首百彩-59

海野 弘

59ー赤染衛門(あかぞめえもん)
後拾遺集
なかの関白、少将に侍りける時、はらからなる人に物いひわたり侍りけり。たのめてこざりけるつとめて、女にかはりて詠める
さよふ
やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな
〔くずくずしていないで、寝てしまえばよかったのですが、いつか夜がふけてしまって、月がかたむいたのを見ることになってしまいました〕

中開自は藤原道隆で儀同三司母にも通っていた。この人が少将だった時、作者の姉妹のところに通ってきた。しかし、ある夜、約束して来なかったので、「つとめて」(早朝)に、彼女の代わりに作者がこの歌を詠んで送った、と詞書にある。
自分のことでなく、姉妹の代わりなので、本当に馬鹿な娘です。来ないのだから寝ればいいのに、朝まで起きていたようですよ、といったニュアンスである。
赤染衛門は生没不明。母は平兼盛と別れて赤染時用(ときもち)と結婚し、彼女が生まれたが、兼盛の子だったのではないか、といわれている。道長の妻倫子(りんし)に仕え、のちに文章博士大江匡衡(まさひら)の妻となつた。
非常に才女で学者や文人との広いつきあいをし、歌や文章も、他の人のために代作を引き受けるほどうまかった。道長の栄華の時代を見とどけた。『栄花物語』は彼女が書いたのではないか、といわれる。

58-大弐三位(だいにのさんみ)

百人一首百彩-58

海野 弘

58-大弐三位(だいにのさんみ)
後拾遺集 かれがれなるをとこの、おぼつかなくなどいひたりけるに詠める

有馬山 ゐなのささ原 風ふけば 出そよ人を 忘れやはする

〔有馬山の猪名の笹原にそよそよと風が吹きます。そのように、私の心を動かした人をどうして忘れることがあるでしょう〕

詞書によると、「かれがれ」(離れがち)の男が、あなたの気持がよくわからないので、などといっ
たことへの答えである。
有馬山は摂津(兵庫) の山。猪名の笹原は摂津の猪名川(尼崎あたり)の両岸の笹原で、有馬山と猪名の笹原は一緒に使われ、「そよ」を呼び出す。「そよ」は、それよ、そのことよ、の意味。風のそよぎも掛けられている。
訳しにくい歌だが、有馬山と猪名の笹原は、(あり)と(いな)を対比させ、来た叫、来なかったり、という意味かもしれない。そんな当てにならない人であるが、軋が炊いて、笹がざわざわすると、来たのではないかと心乱されて、忘れることはできない。
大弐三位は生没不明。藤原宣孝と紫式部の娘の賢子(けんし)。正三位大事大弐高階(たかしな)成章の妻となって、こう呼ばれる。
紫式部は情熱に流されることは少なかったようで、だからこそ『源氏物語』が書けたのかもしれない。娘は、母とちがって、かなり多くの恋をしたようだ。

57ー 紫式部

百人一首百彩-57

海野 弘

57ー 紫式部(むらききしきぷ)
新古今集 はやくよりわらはともだちに侍りける人の、としごろへてゆきあひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきほひてかへり侍りければ

めぐり逢いて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな
〔ひさしぶりにめぐり番って、はっきりその人かどうか見ようとしているうちに、月が雲に入って、見えなくなつてしまった〕

詞書によると、幼友だちと、ずいぶんひさしぶりに会ったが、七月十日ごろで、月が夜中に没してしまうので、ぼんやりしか見ずに、月の沈むのと競争するようにいそいで帰ってきてしまった、といゝつのである。

紫式部(九七人?1一〇一六?)は藤原為時の娘。藤原宣孝(のぶたか)と結婚し、賢子・(けんし・大弐三位・だいにのさんみ)を生んだ。夫の死後「源氏物語』を書いた。中宮上東門院彰子に仕えた。道長にいい寄られたこモもあるという。
この歌の幼友だちは男か女か、説が分かれている。男なら、恋が生まれそうで生まれなかったのだし、女なら、すっかり変わってしまって、声を掛けそこねて、なんとなくそのまま別れてしまったことになる。ちょっと微妙で、不思議な歌である。
和泉式部の歌が思いをまっすぐにぶつけるような激しさがあるのに、紫式部の歌は、月の夜の幻影のようなぼんやりした物語を想像させる。

56-和泉式部

百人一首百彩-56

海野 弘

56-和泉式部(いずみしきぶ)
後拾遺集 心地れいならず侍りけるころ 人のもとにつかはしける

あらぎらむ 此の世のほかの 思ひ出に 今一たびの 逢ふこともがな
軒-
〔私はこの世からいなくなります。その思い出のために、もう一度、お逢いしたいものです〕

「心地れいならず」、気分が悪かった時にいってやった歌という。
「あらざらむ」は、ああ、私は死にそうです、という感じだ。
和泉式部は、生没不明。冷泉帝皇后の昌子内親王に仕えた。和泉守となつた橘道貞と結婚したので和泉式部と呼ばれる。二人の間の娘が女流歌人となる小式部内侍である。
しかし情熱的で、豊かな文学的才能を持っていた彼女は、夫に満足できず、恋多き女.であった。
冷泉帝第三皇子為尊(ためたか)親王との交際が噂になり、夫から離縁される。だが親王は一〇〇一年に急逝する。
それから親王の弟の師(そち)の宮との恋がはじまる。『和泉式部日記』はその記録である。しかし師の宮もー〇〇七年に没した。その悲しみから多くの歌が生まれ、歌人として認められた。
その後、道長に召され、その娘の一条帝中宮彰子に仕えた。
この歌の中に沈んでいる愛と死への不安が胸をうつ。

55ー大納言公任(だいなごんきんとう)

 

百人一首百彩-55

海野 弘

55ー大納言公任(だいなごんきんとう)
拾遺集 大覚寺に人々あまたまかりたりけるにふるき滝を読み侍りける
なおきこ
瀧のおとは 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて 猶聞えけれ
〔滝は滴れてしまい、一水音も聞こえなくなつて、ずいぶん時がたつが、その名はまだ伝わっていて、今も話に聞こえてくる〕

大覚寺は、嵯峨天皇の山荘があったところで、そこの滝殿の見事さは語り伝えられてきた。水は流れていないのに、昔の滝の音がまるで聞こえてきそうだ、というのである。
大納言公任は藤原公任(九六六-一〇四一)で、藤原道長め全盛期に歌壇の指導者として活躍した。
この歌では嵯峨天皇の時代、古きよき時がノスタルジックに回顧される。古事、旧蹟などが最高の模範としてなつかしがられるようになる。
歌壇では栄光を得たが、道長の一族の繁栄に対して傍系であった彼は、官職における出世はうまくいかず、不満であった。晩年にはあきらめ、世を捨てて出家して小る。′
昔はよかった、と思い、後世に名を残したい、と思う気持がこの歌にこめられている。

54ー儀同三司母(ぎどうさんしのはは)

百人一首百彩-54

海野 弘

54ー儀同三司母(ぎどうさんしのはは)
新古今集 中開白かよひそめ侍りけるころ

忘れじの 行末(ゆくすえ)までは かたければ けふをかぎりの 命ともがな
〔ゆく末まで、ずっと忘れないといわれますが、ずっと先のことはわかりません。いっそ、今日で命が終わりなら、死ぬまで忘れないという約束が嘘になりませんね〕

儀同三司は、太政大臣、左大臣、右大臣と同じ儀礼であつかわれる准大臣のことで、儀同三司である藤原伊周(これちか)を生んだので、儀同三司母(?-九九六)といわれる。中開自は、夫の関白藤原道隆。
伊周の他に、隆家、定子(ていし・一条天皇皇后)を生んだ。
伊周、隆家は、藤原道長との権力争いに敗れたので、彼女の晩年はあまり幸せではなかった。
いつまでも愛しているよ、という男に、先のことはわからない。いっそ今日このまま死んでしまえば、あなたのいうとおりになりますね、というのは、ちょっと皮肉で、現実的な女性であったのだろう。
九九五年、夫道隆が亡くなった。息子の伊周はまだ若かったので、道隆の弟道兼が権力を握り、道兼の子道長へと移っていった。明日のことはわからない、いつまでも幸せはつづかない、いっそ
世界が今終わればいいのに、というこの歌のことばが響いてくる。

 

53ー右大将道綱母

百人一首百彩-53

海野 弘

53ー右大将道綱母(うだいしさつみちつなのはは)
拾遺集 入道摂政まかりたりけるに、かどをおそくあけければ、立ち煩(わずら)ひぬといひ入れて侍りければ

なげきつつ 独(ひとり)ぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる
〔来ない人を嘆きつつぎひとりで寝ている夜は、明けるまで、いかに長いものかを、あなたは知らないでしょう〕

詞書によると、入道摂政(藤原兼家)がやってきたが、門をなかなかあけてやらなかったので、外で立っているのにくたびれた、と文句をいった。それに対しての答えなのである。
右大将道綱母(九三六?-九九五)は『晴玲日記』 の作者である。摂政関白となり、花山天皇を引退
させ、一条天皇を立て、摂関政治を確立したといわれる兼家の子道綱を生んだ。浮気な兼家に悩み、
その思いを日記に書いている。
この詞では、しばらく待たせて門をあけたようであるが、『晴玲日記』では、門をあけてやらず、
兼家は他の女のところへ行ったとなっている。そうすると、この歌のニュアンスもちがって感じら
れる。
ともかく兼家との仲は二十年以上つづいたらしい。

52-藤原道信朝臣

百人一首百彩-52

海野 弘

52-藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん)
後拾遺集 女のもとより、雪ふり侍りける日、かへりてつかはしける

明けぬれば 暮るるものとは知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな
〔夜が明ければ、また日が暮れて、夜になり、また逢えるのがわかっていても、それでも朝になると、離れなければならないので、うらめしいことです〕
これただ
藤原道信(九七二-九九四)は太政大臣藤原為光の子。母は伊ヂの娘。名門の貴公子であるが、二十三歳で没した。若くして天才歌人といわれた。一条天皇初期に活躍し、美方、宣方、公任、相如などと交友があった。
一条天皇の初期は、退位した前帝の花山院の和歌サロンが中心で、実方、道信はそのメンバーであった。しかし、道信が早死にし、実方が陸奥で亡くなり、花山院の歌壇は失われていき、代わって藤原道長の後援する新しい歌壇がつくられる。藤原公任がその指導者であった。
そのような過渡期に、若くしてはかなくなった歌人のこの歌は、朝になればやがて夜になるが、その夜はもうこないかもしれない、という不安を暗示しているように思える。

51-藤原実方朝臣

百人一首百彩-51

海野 弘

51-藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん)
後拾遺集 女にはじめてつかはしける

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな もゆるおもひを
〔こんなにも思っていると、どうしてもいうことができません。ですから、私の燃ゆる思いをちっとも知らないでしょう〕
いぶき
(えやはいぶき)は、えやはいう、すなわち「いうことはできない」と伊吹山が掛けられている。
さしも草は、艾(もぐさ)で、ヨモギを乾かして、灸をすえる時に使う。この伊吹山は栃木県の山といわれ、もぐさの名産地として知られる。さしも草に、「さしも」(そんなにも)と「もゆる」を呼び出す。
女性にはじめて恋をして、はじめて手紙を書いた、という歌である。
藤原実方(?-九九八)は藤原定時の子、左大臣師尹(もろただ)の孫。一条天皇に仕えた。美男で色好みで、華やかな貴公子であったらしい。清少納言とも親しかったという。
伝説では藤原義孝の子・行成と宮中で争い、陸奥守として左遷させられたといい、その時、源重之がお伴をした。そして、実方はその地で没した。華やかにはじまり、さびしく終わった生涯であつた。

50-藤原義孝(ふじわらよしたか)

 

百人一首百彩-50

海野 弘
もと    つか
50-藤原義孝(ふじわらよしたか)
後拾遺集 女の許より帰りて遣はしける

君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
〔命もそれほど惜しいとは思っていませんでしたが、君を知るようになって、いつまでも長く生きたいと思うようになりました〕

さっき逢ってきた女に送った手紙の歌である。この時代の歌は、贈答歌といった社交的な場のためにつくられる。独詠より対話なのである。
藤原義孝(九五四-九七四)は藤原伊尹(これただ)の四男。九七四年、天然痘で、朝に兄の挙賢(たかかた・九五三~九七四)が亡くなり、夕に弟の義孝が亡くなつた。義孝は二十一歳であった。少年の頃から歌の才能を認められ、また仏教に帰依して、法華経を読んだ。早くから死号予期していたのだろうか。
これほど若くして死んだが、三十六歌仙に入っている。そしてこの歌を読むと、はかない生涯を覚悟しているかのような
君のために長く生きたい、ということばが痛切にひびりく義孝の子の行成(ゆきなり・九七二~一〇二七)は、三蹟の一人に入る名筆家となった。

49-大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)

 

 百人一首百彩-49

海野 弘

49-大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)
詞花集 題しらず

御垣守(みかきもり)衛士(えじ)のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ 物をこそ思へ
〔宮中の門を守る衛士の焚くかかり火は、夜は燃えて、昼は消えている。私の心も夜は燃え上るが、昼は消えそうになり、強気と弱気のくりかえしで、思い悩んでいるのだ〕

大中臣能宣(九二一-九九一)は伊勢神宮の神官であるが、歌人としても知られる。梨壷の五人の中に選ばれた。神官でありながらかなり多くの歌をつくつている。坊主の歌人もいるのだから、神主の歌人も不思議ではないかもしれない。
村上、冷泉、円融、花山、一条の時代、十世紀半ばから十一世紀はじめにかけて、「梨壷の五人」(大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城) のように、歌人が仕事として認められ、専門歌人があらわれる。それぞれ職業はあっても、宮廷に呼び出されて、かなりの時間を和歌に割くことが許される。和歌が一つの技術・学問として認知されるのだ。          も
大中臣能宣なども、専門歌人のはしりではなかったろうか。

48-源 重之(みなもとのしげゆき)

百人一首百彩-48

海野 弘

九いぜいいんとうぐう
48-源 重之(みなもとのしげゆき)
詞花集 冷泉院春宮と申しける時百首奉りけるに詠める

風をいたみ 岩う頂波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな
〔風が激しく波を岩にたたきつけているが、波だけが砕け散ってゆく。私の心も、相手にぶつかって、はねかえされてしまい、ますます思いがつのつてくる〕

源重之は生没不明。清和天皇の曾孫。父は源兼信。伯父の参議兼忠の養子となった。兼備は、陸奥にいたらしい。重之は地方官としてあちこち旅をしている。
冷泉天皇が東宮(とうぐう)であった時、帯刀先生(たてわきせんじょう=雷管備長)として仕えた。その時、百首を奉った中の一首らしい。下級役人であったが、歌人としては才能を認められていた。旅の歌人といわれ、東北から九州までを旅して、歌をのこしている。
くわしくはわからないが、重之の子が陸奥で殺されるという不幸があった。恵慶法師、大中臣能宜(おおなかとみのよしのぶ)、安法法師(あんぽうほうし)などが。そのことを悼む歌をつくつているので、彼らが親しい仲であったことがわかる。
村上天皇の後、冷泉、円融、花山と天皇が目まぐるしく変わり、藤原氏が権力争いをした不安定な時代であった。源重之は、そのような権力の岩にぶつかって、くだけ散ってしまう無力な自分を感じたのだろうか。

47-恵慶法師

百人一首百彩-47

海野 弘

47-恵慶法師(えぎょうほうし)
拾遺集 河原院にて、荒たる宿に秋来る、といふ心を人々詠み侍りけるに

八重葎(やえむぐら) しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね秋は来にけり
〔八重葎がしげってい鞄荒れた宿がさびしい眺めを見せている。だれも人はやってこないが、秋は来ているのだ〕
「八重葎」は、ヤエムグラというアカネに似た草であるとも、葎(雑草)が八重にしげっているのだともいわれる。河原院は、称原左大臣が営んだ壮警邸である。それはすっかり荒れ果て、やえむぐらがしげっているだけだ。この廃櫨にも秋は来ているがへそのさびしさは一層深い。はりま恵慶法師は生没、経歴もよくわからない。花山天皇(在位九八四~九八六)の頃の人で、播磨の国分寺にいたという。花山のお伴で熊野に行ったりしている。
源融(とおる)の河原院は、百年後には荒れ果て、融の曾孫の安法(あんぼう)法師が住んでいたという、そこに恵慶法師、源重之、大中臣能宣、清原元輔などが集まって歌を詠んだ。廃墟の美が賞される時代になっていた。