77-崇徳院(すとくいん)

 百人一首百彩-77

海野 弘
77-崇徳院(すとくいん)
詞花集 題しらず
たきがわ
瀬をはやみ 岩にせかるる 瀧川の われてもすゑに あはむとぞ思ふ
〔清瀬で流れが速くなり、岩にぶつかる滝川は、そこで二つに分かれても、また先で一緒にな
るように、私たちも別れても、また逢うことができると信じている〕
崇徳院(一二九-一一大四)は、鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮藤原たま子(待賢門院)。名は顕仁。
一一二三年に即位。摂政は藤原忠通であった。
二三九年、鳥羽上皇の皇后藤原得子(とくし・美福門院)に皇子が生まれた。得子を溺愛していた上皇は、この皇子を東宮(次期の天皇)と決め、一一四一年、崇徳を退位させ、三歳の東宮を近衛天皇として即位させた。それで、鳥羽上皇を本院、崇徳上皇を新院といった。
しかし、近衛天皇は一一五五年に没し、後継として、崇徳の第一皇子が通らず、美福門院と関白忠通の擁立する後白河が即位した。それをきっかけに起きた保元の乱に敗れ、讃岐に流され、そこで一一六四年に没した。
その後の戦乱は崇徳院の怨念によるたたりだといわれる。何度も都にもどることを嘆願したが後白河は許さなかった。
この歌の 「われてもすゑに あはむとぞ思ふ」という思いは叶えられなかったのである。