97-権中納言定家(ごんちゆうなごんさだいえ)

百人一首百彩-97

海野 弘

97-権中納言定家(ごんちゆうなごんさだいえ)
新勅撰集 健保六年内裏歌合、恋歌

来(こ)ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに やくや藻鹽(もしお)の 身もこがれつつ
〔こない人を待ちこがれている。松帆の浦の夕なぎに、藻塩を焼いているが、私の身も焼かれているかのようだ〕

<まつほの浦>は淡路島の北端。松に待つが掛けられている。『万葉集』巻六の笠朝臣金村(かなむら)の長歌「淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ…」の本歌取りである。権中納言定家は藤原定家(1162~1241)である。俊成の子で、若くして、歌の才能を示し、歌壇に新風をもたらした。藤原良経をパトロンとし、歌壇の主流を占めたが、役職はあまり上らなかった。後鳥羽院に認められ、『新古今集』の撰者となった。しかし、後鳥羽院とは和歌の評価が対立するようになり、承久二年(1220)、公式の歌会への出席を禁じられた。承久の乱により、後鳥羽院は追放され、九条道家、西園寺公経が権力を握り、公経の義兄である家定も歌壇に復帰することができた。定家は後堀河天皇に、『新勅撰集』の撰者を命じられた。しかし、初稿から百余首の削除がなされた。そのほとんどは、承久の乱の罪で流された後鳥羽院、順徳院の歌であった。定家は不本意ながら、それを受け入れた。その不満から、二人の歌を入れた『小倉百人一首』をつくつた、といわれている。
晩年の定家は古典、古歌の研究に向かった。歌のよき時代はすでに終ってしまった、と思ったのだろうか。