第273回 幕末史研究会

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幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727

電話・090-6115-8068(小美濃)

 

Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken
幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。

第273回 幕末史研究会

日時・4月27日土曜日午後2時より4時まで
会場・武蔵野商工会館 4F
講師・若山 太良氏(東京大学史料編纂所)
テーマ・「ハワイ王国と日本 ‐その交流の歴史」
内容・日本とハワイ王国の交流は江戸時代末に始まり、アメリカによる併合までの30年間がひとまず区切りとなる。

明治元年(1868)150人の渡航いわゆる元年者に始まり、1881年のカラカウワ王の日本訪問、条約交渉。それに続く完約移民の歴史について語ります。

 

会費 一般 1500円 大学生 500円 高校生以下 無料


第272回 幕末史研究会

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第272回 幕末史研究会

日時・平成31年3月30日(土) 午後2:00から4:00
会場・武蔵野商工会館 5階
講師・町田 明広氏 (神田外語大准教授)
テーマ・「薩長同盟論」-坂本龍馬の動向を中心にー
内容・薩長同盟を一次史料からもう一度読み解き、龍馬の本当の役割を考察し、
「小松・木戸覚書」として再定義を試みます …


おわりに

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おわりに

 この本は数々のご縁によって出来上がることになった。
筆者が高知県観光特使を委嘱され、その集まりが高知市で行われた。この機会に友人四人が高知観光にやってきた。高知市内で開かれた会合の翌日、五人で桂浜の坂本龍馬像を見に行くとになった。
車で高知城下から桟橋(さんばしどおり)通りを走って、桂浜へと向かった。長浜へ近づいた時、筆者が近くの雪蹟寺(せっけいじ)の話をした。
昔、三十三番札所の雪蹟寺で一人の青年が行き倒れとなった。その青年は助けてくれた住職太玄和尚に語った。
「お坊さんになりとうどざいます。」
「お前は、そうなる人間だろう。」
「しかし、ご覧の通り、私はめくら同然。字も識らず、お経も読めません。こんな人間でもお坊さんになれましょうか。」
「普通の坊さんにはなれんが、覚悟次第で、本当の坊主になら、なれる。」

こうして19歳から眼病で苦しんだ青年は四国遍路を裸足行道(はだしまいり)で7回に及んだ末に出家することになる。そして、その青年は山本玄峰(やまもとげんぽう)という近代の名僧となった。
筆者は山本玄峰師の『無門関提唱』というご著書に書かれている有名な逸話を簡単に説明し、車の左手を指差して、雪渓寺はすぐそこです、と観光ガイドをした。
この四人の中に右文書院の社長・三武義彦氏がいた。氏からしばらくして手紙をいただいた。
この手紙がご縁となってこの本を執筆することになった。私信だが三武社長のご承諾をいただいて、その一節を載せることにする。
(いや~過日の高知は実に楽しかった。お誘い戴き本当に有難う。坂本龍馬記念館の森健志郎館長にお会いできたのも奇遇でした。加えて、なによりも小美濃さんから山本玄峰老師の話が聞けたことは大いに驚かされました。お話ししたとおり、師の四十九日忌日の法要の折(昭和36年7月)〝大接心〟と称する業に三島の龍澤寺で参禅していたことが思い起こされたからです。
数ある兄貴分である先輩の老師をさしおいて中川宗淵師がその龍澤寺の管長になっておられ、法要当日は妙心寺管長の朝比奈宗源師とも会えました。奇しくも近代の名僧と云われた三人の老師に近づきを得たことが、私の今日に少なからぬ影響を与えてくれているものです。)
三武氏とは古文書研究会でお会いして以来、二十年を超えるご厚情をいただいている。この旅行がご緑で一層、親しくさせていただいている。
四国遍路・八十八箇所巡りからのご緑で、〝龍馬八十八話〃 と題することにした。
33年という短い生涯だった坂本龍馬が、ご緑あって巡りあった人々との逸話、幕末の知られざる話、今も龍馬の遺風の中に生きる人たちの話。それらを龍馬八十八話としてまとめてみた。

八十八話をどこからでも、気軽に読んでいただければ幸いです。
著 者

村長からも一言

上記の高知行き5人組のメンバーは、坂本竜馬研究の第一人者である小美濃清明氏、本書の出版元社長の三武義彦氏、開運村顧問に名を連ねている元旅行会社社長の高須譜生(つぐお)氏、私(花見)と、故人になった友人F氏の古文書研究会仲間です。
その旅行以前に、私は高知を訪れ「魔の四万十川」という短編小説を釣り雑誌「つり人」に連載した経緯があり、それ以来、高知の人々の坂本龍馬熱がいかに高いかも承知していました。そこで私もこの機会に便乗して取材を重ね、著名な龍馬研究家の小美濃氏に相乗りして、「異聞 坂本龍馬」の長編小説を上記「右文書院」からちゃっかりと出版しています。
この高知への旅は、長い付き合いで有りながら意外に知らなかった友人の一面も知ることが出来た有意義な旅でした。
桂浜の坂本龍馬記念館には、小美濃氏寄贈の龍馬の愛刀・陸奥守吉行と同じ刀が飾られていて、小美濃氏がいかに龍馬に傾倒しているかもよく理解できました。そして、私はつくづくとよき友人に恵まれた喜びと友人知人への感謝の念で胸が熱くなるのを感じます。次回からのこのコーナーの連載にご期待ください。 花見 正樹


第88話 品川海岸を訪ねて

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第88話 品川海岸を訪ねて

 坂本龍馬が品川海岸の警備陣の中にいたという事実は古い研究書にもある。
宮地佐一郎先生がご存命の頃、品川海岸とはどの辺りでしょうかと質問したことがあった。
答えは龍馬のいた品川海岸は特定されていないということであった。
その話がきっかけとなり、調べてみようと思い立った。先ず京浜急行鮫洲駅前にある山内容堂の墓へ行った。
その後、付近を歩いてみたが、案内板もなく詳細は分からず、旧東海道を品川に向かって歩いてみたが、品川海岸はほとんど埋められており、何も残っていなかった。
しかし、明治時代の品川湾という地図を品川図書館で見つけることができた。
参謀本部陸軍部測量局が明治14年(1881)に測量し、同18年に製版された品川湾という地図だった。
この地図を見ると、第三砲台、第六砲台、第二砲台、第五砲台、第一砲台、第四砲台が右上から左下に向かって一直線に並んでおり、江戸湾を防備するために建造された御台場の姿がよく分かる。
陸上部分を見ると高輪から大森村まで、旧東海道が江戸湾の海岸に沿う形で続いている様子も一目瞭然である。
その東海道の高輪から大森村に向かって細かく見てゆくと、停車場とあり、品川海岸に駅があったことが分かる。新橋から鉄道線路は海の中を走っている様子が見てくる。鉄道線路は品川から内陸部に建設されて横浜に向かっている。東海道に沿って目を追ってゆくと、北品川宿、商品川宿、大井村と記されている。この大井村で東海道は立会川と交差している。そこに諏訪詞、神明詞という詞が立会川の両側に記されていて目に止まる。
そして、かなり大きな正方形の点線が描かれていた。正方形の一辺は立会川であり、他の三辺は点線になっている。面積はかなり広く特別の区画と地図でも分かった。その正方形は東海道と平行していて、隣りに来福寺という寺が卍マークで印されていた。
その辺りから地図で少し南へ下ると、鬼子母神とあり、鈴ケ森とある。鈴ケ森の刑場である。
そして大森村となり、この辺りから東海道も海岸から遠ざかっていた。
この地図を頼りとして、二回目に立会川付近を調査することにした。
京浜急行立会川駅の改札を出て左に少し歩くと、細い道である。これが旧東海道の道幅かと思うと、そうに思えてくる。
旧東海道に出る。横幅七メートルぐらいのここを大名行列が歩いてゆく姿が何か窮屈そうに思えてくる。
左に歩くとすぐに立会川があり、そこに浜川橋が架かっている。別名涙橋であり、鈴ケ森の刑場にひかれてゆく罪人が家族とここで
涙の別れをしたので涙橋という。この浜川橋を渡らずに立会川に沿って歩くと東京都の浜川ポンプ場があった。そこから、勝島運河となっていた。
訪れたのが冬だったので、この運河には渡り鳥が群れていた。海岸はコンクリートで固められていたが、昔の海岸線が残っていた。
あとで分かったのだが、江戸時代の海岸線が残っている唯一の場所であり、龍馬の見ていた海岸を見ながら、やっと品川海岸に辿り着いたという安堵感に包まれた。
江戸の龍馬が一瞬、見えた気がした夕方だった。


第87話 勝海舟の肖像画

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「坂本龍馬八十八話」

第87話  勝海舟の肖像画

 アメリカのバージニア州レキシントンに威臨丸に乗船していたジョン・ブルック大尉の孫にあたるジョージ・ブルック二世がご健在であった。
成臨丸子孫の会でこのブルック氏を訪ねるという企画が持ち上がっていた。
東京でそうした話が進行していた時、筆者はアメリカを旅行していた。
サンフランシスコで友人の作家、ロミュラス・ヒルズボロウ氏を訪ねていた。彼の家に宿泊していた時、メアアイランドは近いかと質問した。
「近い、車で20分位だ」という答えだった。案内してやるとすぐに車に乗る用意が始まった。
高速を走りながら、成臨丸の話をする。日本人96名、アメリカ人が11名。107名の乗組員が万延元年(1860)1月、江戸湾を出港し、37日間で太平洋を横断、サンフランシスコに入港した。
この話をヒルズボロウ氏は知っていた。しかし、船体修理のため、海軍基地があったメアアイランドに成臨丸が来ていたことを知らなかった。もと海軍基地だったが、現在は開放されていて、誰でも入れるという。
元海軍基地を歩きながら、修理ドックらしい場所も写真に撮り帰国した。
するとその話を威臨丸子孫の会でして欲しいと連絡があった。
来年、威臨丸子孫の会はアメリカ訪問を計画しているということだった。
成田から直行便でワシントンDCへ飛び、バージニア州レキシントンを訪ねて、その後サンフランシスコを訪れるという。メアアイランド海軍基地を見学する予定だという。
成臨丸子孫の会へ行きメアアイランドの話をした。
その後、話は進み、来年のアメリカ訪問をすることになった。サンフランシスコの案内はヒルズボロウ氏に決まった。
2005年10月6日、成田から出発し、ワシントンDCへ向かった。そして、昼すぎブルック家の前にバスは停止した。
雨にもかかわらず、ジョージ・ブルック二世は門の近くで傘もささず、直立不動の姿勢で迎えてくれた。
広間に日本に関連する展示物が並べられていた。皿、刀、絵画、人形、その中に勝海舟の肖像画があった。
Capt.Katz Lintaro
Japanese Navy
Painted by Karn
for Br00ks
艦長 勝麟太郎
日本海軍
力ーンが描きブルックへ贈る
と裏面に描かれていた。

海舟が小野友五郎、赤松大三郎と三人でサンフランシスコで撮った写真が残っている。そこに写っている海舟と同じ着物の肖像画であった。おそらく同じ日にカーンによって描かれたものと思われる。


第86話 フェアヘブン

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「坂本龍馬八十八話」

ニューヨークに住む友人にフェアヘブンに行ってみたいと言うと、連れていってあげるという。しかも車で。かなりの距離である。アメリカ人は驚くほど離れていても、いや近いところと言う。物差しが違うようである。
ジムは鉄道員だったが定年後、時間をもてあましており、毎日が日曜日であった。
助手席に座り地図を広げながら、ナビゲーター役となり、北上を開始する。
ニューヨーク、コネチカット、ロトドアイランド、マサチューセッツと四州を走り回ることになる。
運転しながらジムは何故にフェアヘブンへ行きたいのかと質問する。そこでジョン万次郎の一代記をアメリカ人にも分かりやすく説明する。こう書くといかにも筆者が英語の達人のように聞こえるが、実は下手である。
初めてアメリカを訪れたのは一九七一年であり、アメリカはベトナム戦争の真っ最中であった。もうなくなったパンナムが飛んでいた頃である。
迷彩服を着たアメリカ兵がパンナムでベトナムへ飛んでいく時代だった。それから数十年、アメリカへ旅行している。英語は下手だが、場数を踏んでおり、一人でどこへでも行く。ジョン万次郎の苦労にくらべれば、楽なものである。
フェアヘブンに着くと、ジムはB&Bという民宿を見つけると、筆者を下ろし、蛸輪返りでニューヨークに戻っていった。また迎えに来ると言って消えていった。初めての町で一人になる。ジョン万次郎の心境である。
B&Bはベッドと朝食という意味で普通の家がアルバイトに経営している。
早速、その家の自転車を借り、フェアヘブンの探訪に出かける。自転車でフェアヘブンの町の全休像を頭に入れ、翌日一日は早朝から走り回った。夜、レストランへ行くと天井から土佐清水市から贈られた大漁旗がたくさん下がっていた。
ジョン万次郎を救ったホイットフィールド船長の家、英語を教えてくれた女性教師の家、石造りの小学校を見て歩く。フェアヘブンにはホテルがなかった。小さな町であった。
ジムはそれを知っていて、B&Bを探してくれたのである。
その日の午後には対岸のニューベッドフォードの町へ行き、捕鯨博物館へ行った。鯨の全体骨格標本が展示されており、・大きさに圧倒される。万次郎が作った樽もこれと同じ形だろうかと、幕末に思いを馳せる。
次の日、ゆっくりとフェアヘブンの町を歩いてみる。木造だがしっかりとした家が並ぶ町並みは静かで落ち着いていた。
町で会う人も日本人には慣れていて、向こうから万次郎の話をしてくれた。ジムの車が迎えに来るのを待ちながら、海を見ていた。万次郎の望郷の念について考えてみた。やはり帰りたかったろうと思う。アメリカ社会に慣れたある日、突然にその思いは襲ってきたのではないだろうか。必死に生きている間は望郷の念など起きようがない。
鯨の尾だけの彫刻が緑の芝生の上に立っている。風もここちよく静かな午後だった。

ジムの迎えの車に乗ると、すぐさまニューヨークを目指して南下が始まった。
車の中で、フェアヘブンの町のことや、万次郎のことに、ジムから質問がでた。
そして、どうして万次郎に興味を持ったのかという質問に答えながら、坂本龍馬の話になる。
サムライに興味のあるジムは黙って聞いていた。
突然ジムは言った。この話面白い。鯨、ジョン万次郎、龍馬、ペリー来航。一大歴史ドラマだ。日米合作の映画を作ろう。ハリウッドへ売り込んだらいいぞ、と叫んでいた。


第85話 鬱陵島(ウルルンド)を訪ねて

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「坂本龍馬八十八話」
第85話 鬱陵島(ウルルンド)を訪ねて

 坂本龍馬が開拓を目指した竹島、現在の韓国・鬱陵島(うつりょうとう=ウルルンド)を訪ねてみようと考えた。
龍馬は慶応三年(一八六七)三月六日、印藤肇あて手紙の中に次のように書いている。
「良林及海中の品頬よきものを得バ
人をうつし万物の時を得るよろこび
諸国浪生らを命じて是が地を
開かすべしと、其余思千万ナリ。」
良い木材、海産物を得る開拓を目指していた龍馬は一度も竹島((鬱陸島)を見ていない。
成田空港から釜山(プサン)へ飛び、釜山から高速バスで浦項(ポハン) へ行く。浦項から高速フェリーで三時間でウルルンドに着く。
この島の面積は七三平方キロメートルで世田谷区と渋谷区を合わせた広さがある。
昔、この島は火山島で火口に土砂が堆積して平野ができている。龍馬は、
「壱里余より弐里もあらん平地ありしと也」
と手紙の中に書いている。
上陸してみると、広い平野があり、龍馬が持っていた情報と合致している。しかし、土砂が堆積した土地であり、肥沃ではないようである。龍馬が希望した稲・麦の作付けは無理のようである。
しかし、海産物に関しては豊富であり、ウルルンドの土産品売場では魚類・貝類・海草類の生もの、加工品が販売されていた。
フェリーが発着する桟橋は狭く、島全体は岩壁で囲まれており、良港はどこにもないようであった。
もし、いろは丸でこのウルルンドに到着しても、船を横にする場所はなかったと思われる。
沖に碇泊させ小舟で近づき上陸するようになったであろう。
冬は積雪もあり、かなり寒いということであり一年中の漁船の操業は無理と思われる。
龍馬の描いた開拓の夢は実現したであろうか。否であろう。
龍馬のいろは丸沈没という情報をうけて、岩崎弥太郎はこの島に上陸している。しかし、彼もこの島の開拓には乗り出していない。
吉田松陰もこの島の開拓に夢を描いたが、これも実現しなかった。
「元禄九年お引渡の事」という事実があった。松陰はその事実を認識しながらも、防衛という問題でこの島に注目していたのである。
しかし、龍馬も岩崎弥太郎も経済という視点からウルルンドを見ていたのであり、軍学者と経済人という違いが如実である。
このウルルンドに上陸してみて、観光地として栄えている島に最も良い産業は、やはり観光であろうと考えた。
「龍馬が行きたかった島」として宣伝すれば、かなり多くの日本人観光客が訪れるのではないだろうか。
日韓両国にとっても良いことと思われる。
これは竹島(韓国名、独島(トクト)問題の良い解決をもたらす糸口となるかもしれない。


第84話 L字の道路

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「坂本龍馬八十八話」

第84話 L字の道路

 京浜急行立会川駅の改札口を出て右に歩きだすとすぐに国道15号線にぶつかる。第一京浜である。そこを渡って右に歩くと品川区立浜川中学校がある。ここが土佐藩品川下屋敷の跡地である。
品川下屋敷は土佐藩が天保十三年(一八四二)に幕府に提出した「指出(さしだし)によると一万六千九百一坪とある。土佐藩の江戸で所有していた屋敷の中で最大のものである。その中心となっていた部分にこの浜川中学校は建っている。正門に沿って国道の歩道を歩いてゆくと、信号機がある。この信号機の交差点を右折して進むと、その道は行き止まりになる。右に曲がる道しかない。前進あるいは左折はできない道、不思議な道である。L字に曲がっている路を進むと、もとの第一京浜へ合流する。地図で確認すると、この道は立会川に直角に近い角度で接するように造られている。
L字という形からみて、この角が土佐藩の角を示していると思われる。
L字のもう一方を歩いてゆくと、来福寺と土佐藩品川下屋敷の境界にこの道があると分かる。
この屋敷は明暦三年(一六五九)一月、江戸本丸、二の丸も焼失した大火(明暦大火、あるいは振袖火事とも言われた)の後、土佐藩が御国元から海路送った木材の集積地として使われた土地に建てられている。
大火の後、江戸の道幅拡張、側溝などを定め、町屋の藁(わら)、萱葺(かやぶき)の屋根を禁止し、江戸の大改造をしている中で、大量の木材が必要となり、土佐の木材が江戸へ送り込まれたのである。土佐は森林資源漉が豊富であり、海路送り込んだ木材を蒜保管するために、広大な土地が必要になった。
一万六千九百一坪、東京ドームの約一・二倍となる面積を幕府から借りて使用した。
その後、土佐藩はこの地を拝領して下屋敷としたのである。
寛政年間(五八九~六〇一)に道中奉行が中心に作成した「東海道分間延絵図」には土佐藩品川下屋敷が描かれている。
東海道の浜川橋(涙橋)から細い道路が品川下屋敷の表門に向かって延びている。道の両側は松が植えられており、町屋は東海道沿いに点在するといった静かな場所である。
屋敷は水田に囲まれて、裏が小高い丘となっており、西隣りに来福寺が石段と共に描かれている。
大きな屋根の家屋が一軒、中ぐらいの屋根が五軒、蔵が九軒、確認できる。ペリー来航時、突貫工事で仮屋敷も建てられたと記録されているので、かなりの人員を収容できる屋敷だったと思われる。
L字の道路近くに大きな屋根の家屋が描かれているので、ここが主殿となる建物と思われる。東に向いたこの建物は水田を目の前にする景色の良い眺めである。
屋敷の塀は土塀ではなく木の柵のように描かれている幕末期には土塀になっていたか分からないが、案外、そのままだったのではないだろうか。


第83話羽田空港第四滑走路

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

8、各地を訪ねて

第83話羽田空港第四滑走路

 現在、建設が進行している羽田空港第四滑走路(D滑走路)は二千五百メートルだそうである。土台の基礎部分は三千メートルあり、そのうちの一千メートルが多摩川の河口から流れ出る水の方向を変えてしまうので、その部分は橋梁とし流れが変わらないようにしたと建設の担当者から説明を受けた。
残り二千メートルは土台で埋め立てる従来の工法で造られている。
幕府が作成した「異国船進退之図」という地図がある。それによるとペリー提督が久里浜で国書を日本側に提出した次の日、一艘の軍艦が羽田村十二丁沖まで進入したと記録されている。
この軍艦はミシシッピ号であり、ペリー提督が乗っていた。
「ペリー艦隊 日本遠征記」には次のように書かれている。
(一八五三年七月十五日
(嘉永六年六月十日)
その日の午後のうちに、提督は提督旗をサスケハナ号からミシシッピ号に移した。それから江戸に向かってさらに約一〇海里進み、浦賀の停泊地から二〇海里ほど離れていると推測される地点に到達した。江戸の港か船積み場が首都の南側にはっきりと見えたが、首都そのものは見えなかった。
日本の首都は中国と同じように家屋が低いので、突き出た岬の背後にすっぽり隠されており、湾は岬の向こうで東に向かっていて、低い沖積地の海岸が湾を取り巻いていた。
見えた町はおそらく江戸の郊外の品川であろう。湾の西側には神奈川と川崎という人口集中した二つの町が見えた。
ペリー提督は船底の浅いミシシッピ号を旗艦として自ら乗り込み、江戸の町を見ようと考えたのである。
羽田沖まで入ると品川の町は見えるのである。最新鋭の蒸気軍艦ミシシッピ号の甲板で望遠鏡を持って立っているペリー提督の姿が浮かんでくる。
六月十日午後、この日、土佐藩はどのような対応をしたのだろうか。
<覚
一、品川御屋舗詰
惣頭取 山田八右衛門
〃  落合儀八郎
細井半之進 細井半十郎
安養寺善平 井家馬次
勝賀瀬専吉
一、品川御屋舗詰
足軽小頭 五人
足軽   五十人
小人   四十人
但為固御人数被差出候ハ六月七日之事也)
とあり、六月七日に最初の警備陣が品川下屋敷へ配置されている。
六月十日、土佐藩が品川にどれだけの人員を送り込んでいたか知る記録はない。
最新鋭のペリー艦隊が進入した場所に、一五七年後、日本の最新技術の滑走路が誕生したのである。


第82話長崎を歩いて

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

8、各地を訪ねて

第82話長崎を歩いて

正覚寺下で電車を降りて歩き出す。崇福寺で石段を上り中国風寺院を見たあと、晧台寺(こうだいじ)に向って歩いていく。寺町の通りは仏具屋が多い。いつだったか東京の仏具屋にはない仏具があ化ので買って帰ったことがある。
 晧台寺には近藤長次郎の墓がある。
昨年、高知市民図書館で近藤長次郎の資料を見ている時、長次郎が自刃した時、身につけてに袴の布地があった。紫色の市松模様の袴地だった。持ってみると厚い絹地で立派なものだった。
長次郎が刀を差し、ピストルを右手に持っている写真の中に写っている袴とは大違いであった。たぶん、海外へ出るというので、新しく作ったものだろう。ずいぶん、派手な袴だというのが第一印象である。侍の袴というよりは、能舞台の上で見るようなきらびやかな袴である。しかし、この袴を身につけて長崎の町を歩いたら、そうとう目立つのではないだろうかとも考えたが、そうでないかもしれないと思った。中国系の衣装は華やかである。そうしたものに見なれた長崎の人々たちは気にも止めないかもしれない。
龍馬は長次郎自刃の時、「術数余(じゅつすうあま)りあって、至誠足らず、上杉氏之身を亡す所(ゆえん)なり」と書いている。龍馬にしては少し冷めた書き方である。
水通町の大里屋の長男が、努力して摘んだ海外留学である
階級制度の厳しかった土佐藩で苗字帯刀を許されることは異例中の異例である。
長次郎は海舟の門人として龍馬と共に働いている。越前藩士・村田巳三郎に龍馬が会いに行った時も一緒であった。
龍馬も年下の長次郎を何かと気遣いしていたようである。
亀山社中で才子と言われて、少し龍馬から離れているようなところが見えてきたのだろうか。
至誠が足りないと龍馬が書くような事柄が二人の間にもあったのかもしれない。
長次郎にすれば侍になりたいという夢を実現し、もう一段高いところへ登りたかったのかも知れない。
龍馬は階級をあまり意識せずに生きている男だったが、長次郎は常に階級を意識して生きたのだったと思われる。そうした意識が、至誠足らずと龍馬に印象づける行動を起こさせていると思われる。
幼馴染も次第に出世していくと、いつの間にか、ライバルとなり、それを超えていくことに熱中するのかも知れない。
龍馬とすれば、淋しいだろうが、他人の生き方をどうすることも出来ないのである。
「千里駒後日渾」にある、
「己が居たら殺しはせぬのぢゃ」
と残念がる籠馬も長次郎の成長と変化に複雑な思いがあったのではないだろうか。
近藤長次鮎の墓には「梅花書屋氏墓」と刻まれている。
墓石の筆跡は龍馬、高杉晋作、小曽根乾堂とも言われているが、特定されていないという。