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こだわりから解き放たれて
 第一章  母逝く
1、母の発病
   昭和20年3月、東京大空襲のさなか、父は戦病死しました。以来母は苦労の連続でした。当時3歳の私と年子の弟を抱え、戦後の動乱の中を、女手ひとつで生きて行かなければならなかったからです。その心細さと生き抜く決意が、母の手記に記されていました。

 
行く先の遠き茨の道なれど
  強く明るく子等と墓参す
   
わびしめる母子案じて亡き夫の
  霜ふる夜半の夢路に立ち寄る
   

 1枚1円にもならない袋貼りの内職をしたり、近隣の娘に箏を教えたり、旋盤の廻る町工場に通っては、慣れない部品づくりに指を巻き込むなど、食べていくために、なりふり構わずの働く日々でした。しかしそれでも、私たちを養い得る収入にはほど遠く、新聞の募集欄を見ては就職の道も考えあぐねていたようですが、勤務の経験のない母にとっては外で働くことに自信が持てなかったようです。職業を選べる時代ではありませんでしたが、母にとっては、少しでも生き甲斐を感じるような仕事をしたいと、あの混乱の時代の中でも夢を捨てずにいたようです。以後、母が死ぬ間際まで続けていた職業、編み物講師は、まさに夢の実現でした。

 幼い私が夜中にふと目を覚ますと、枕元で丸く屈めた背中と編み棒を器用に動かす手、毛糸の玉を解きほぐす母の姿がいつもそこにありました。ひとつの作品が出来上がるまで、幾日かかって、いくら収入を得るかなど、思いやる年齢ではなく、ただ無心に眠っていました。

 
心なく眠れる幼の枕辺に
  たゆまぬ仕事の母は楽しき
   

  無心な子供の寝顔が、母の生きる活力となっていたことが、当時記されていた母の日記で知ることができます。 

 戦後の目まぐるしい進歩に伴い、手編み機も次々と開発されてきました。それは矢のような棒を一列編むごとに差し違えていくものでしたが、それでも編み棒で一目一目編むよりは、一列が一度に編み上がるので大変な進歩でした。

 夜中に目を覚ますと、手編み機の前に座る母がいました。それはまさに、時の流れを先取りして生きるかのごとく、 気力に満ちた姿でした。

やがて新型の手編み機がぞくぞくと開発され、編み物教室の看板も巷に目立ち始めると、大きな機械を下げて教室に通う娘さん達の姿も、町の至るところで見かけるようになります。

ジャー、ジャー。ハンドルを左右に動かすたびに、大きな音をたて、見る見るうちに毛糸がメリヤス化されていきます。母の経営する小さな編み物教室にも活気があふれてきて、お弟子さんの数も増え、朝昼晩の三部制勤務も、食事をとる時間さえないほどに忙しくなっていきました。

学校から帰った私たちが「ただいま!」と言うと、一斉に「おかえり!」と、声が返ってきます。母の姿を探そうと小さな教室を見回すと、お弟子さんと手編み機の間で小さく身をかがめ、タッピー(ゴム編み用の小さな器具)を動かす母をやっとの思いでみつけては安心する私たちでした。

 夕食が終わってほっとするのも束の間、あたりが寝静まる頃、母はまた注文の制作に熱中し、徹夜をすることもしばしばでした。 

他人には優しく常識的に振る舞う母は、人から信頼される反面、自分自身や子供たちには厳格でした。そのため、家庭では団らんをとるどころか犠牲を強いられることの方が多く、子供心に少しずつ、不満の塵が積もっていくのでした。

 成長するにつれて私たち姉弟は、ひとつ屋根の下に居ながら、三者三様の個性で生活していくようになりました。私と弟が就職すると、ますます団らんの時はなくなり、母の願望とは裏腹に、寂しい家庭環境となっていったようです。

 その頃のこと、母は体の不調を訴えはじめ、手のひらに感じた小さなしこりを乳ガンではないかと疑い、ひとり近隣の外科医へと通いはじめました。しかし、レントゲン撮影にも写らないため、脂肪のかたまりと診断されました。一時は安心したものの、しこりの存在を確認する度に血の気の引く思いで、約八ヶ月間同じ検査に通い続けたのでした。医者からは気のしすぎだと言われながらも、体調は日増しに優れず、だんだんに疲れを感じるようになり、何かをするのが億劫になってきたといいます。時々左脇下にひきつるような不快さを感じ、乳首も少々変形してきたようだと、発病当時の状況が記されて居りました。

10ヶ月後、再び医者を変え、訪ねた診療所の紹介状でやっと取るべき指示を得、癌研病院に入ったときは即入院となってしまいました。

この時母は60才でした。

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