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19、「731部隊」

第二章

1、「スキャンダル」

33)
 1、「スキャンダル」1947年7月24日(木)

11時50分。雪枝はいつもより早めにオフィスを出た。12時丁度に父とランチの待ち合わせをしていたからだ。場所は、今ではすっかり馴染になった日比谷のレストラン「喜望峰」。
店に着くと父はもうすでにバーでマネージャーと雑談をしていた。
「雪枝、こちらはマネージャーの前田さんだ」
「いつもお世話になっております」
前田マネージャーは丁寧にお辞儀をした。雪枝はその黒いスーツ姿の男性は印象に残っていたが、名前を聞いたのは初めてだった。背が高く品の良い顔立ちは女性だったら誰もが好感を持つに違いない。
「え…前田さん?ここのチーフも前田さんですよね?」
「はい、チーフは私の兄でございます」
「ええ!そうだったんですか。御兄弟でしたの?私、少しも気付かなくて」
雪枝が兄の前田チーフの姿を見たのは二回ほどで、それもちらりと見た程度なので印象が薄かった。食事の時は専ら弟の方の前田マネージャーと、もう一人の若いウェイターとしか接していなかったので当然ではあったが…。
「では、上松様、お席にご案内いたします」
壁際にはオリーブ色の大きな扇風機が回っていた。それを見て父が言った。
「おお、あれはアメリカ製だね」
「はい、進駐軍の方から譲っていただきまして」
席に着くと前田が言った。
「本日はTボーンステーキがございます」
「なるほど。それも進駐軍の方から?」
「「はい…まあ…」
前田は困ったような顔で目を伏せた。
それを見て雪枝は言った。
「お父様、私はお肉がおいしければいいわ。進駐軍でも何でも」
「あはは。そりゃそうだ。雪枝の言うとおりだね」
前田はホッとしたのか笑みを浮かべ言った。
「それではお二人ともTボーンステーキということで…焼き加減はいかがいたしましょうか?」

食事が終わり食後のコーヒーが運ばれて来た頃合いを見計らって、雪枝は話を切り出した。
「お父様、お食事が美味しくなくなると思って、今、お話ししますけど、実は満州時代のことでいくつか伺いたいことがあるんです」
「何?満州時代?どんなことかね?」
父はちょっと眉間に皺を寄せた。多分、あまり思い出したくないこともあるのだろう。
「ご存じかも知れませんけど731部隊のことなんです」
「731…ああ、防疫給水本部のことか。石井中将の部隊だね。それが何か?」
「実は、その部隊が細菌兵器の研究をしていたのは、お父様、ご存じ?」
「いや、もちろん防疫だから細菌や病気の研究はしていただろうが、細菌兵器とは…それは確かな話なのかい?」
「ええ、私もこの前ヘンリーから聞いたばかりなんですけど、人体実験をしていた証拠もあるとか…」
「いや、雪枝、僕は鉄道輸送の担当だったから、その部隊の名前は知っていたが何をやっていたかまでは知らないね。石井中将だってまだ行方不明なんじゃないのかい?」
「それがね、お父様、もうとっくの昔に帰国していて新宿の自宅に隠れているらしいのよ」
「ほお!それは初耳だね。でもね、雪枝、僕はあまり役に立てそうもないね。何しろほとんど知らないんだから」
雪枝はちょっとがっかりすると同時にホッとする気持ちもあった。父がそのような犯罪行為とは無関係なのがわかったからだ。
「じゃあ、その鉄道が運んでいた貨物の中には731部隊関連の物もあったでしょうね?」
「それは当然あっただろうね。僕は現場担当じゃないが、書類はチェックしていたから」
「それじゃあ、例えば『マルタ』みたいな名前の荷物はリストにあったのかしら?」
父は困ったような顔をして少し沈黙したが、コーヒーをひと口啜り意を決したように話し始めた。
「なるほど、雪枝がその言葉を知っているのなら話そう。満州に着いたばかりの頃、前任者からの引継ぎがあってね、その『マルタ』の意味も教えてもらったよ。僕が聞いたのは『マルタ』は捕虜や囚人を意味する符丁だという事だ」
「じゃあマルタを汽車で運んでいたのね?」
「そうだよ。それはそんなに珍しいことじゃない。もちろん刑務所や収容所と駅との間はトラックや護送車を使っただろうけどね」
「お父様、そのマルタは人体実験に使われていたのよ」
「え?何か証拠があるのかい?」
「今調べている最中よ。でも私、人体実験はあったと思うわ。ドイツでもやっていたから日本もやったと思う」
「しかし、雪枝、その調査はGHQの仕事だろう?お前が頭を突っ込むようなことではなかろう」
「それはわかっているわ。でも満州と聞いて、お父様が何か知っていることがあれば聞きたいと思ったの。もちろん、私が調べるようなことではないわ」
「雪枝、これは余計なことかも知れないがね、ヘンリー君もあまり深追いしない方がいいと思うよ。旧日本軍の残党はまだあちこちに隠れているし、彼らは結束が固い。不都合な者を消すのも平気だからね。くれぐれも用心するようにお伝えしてくれ」
「はい、お父様、伝えておくわ。そうそう、これヘンリーからお父様にって預かっているの」
「ああ!オールドパーかい?うれしいね」
「それと、これはお母様にハムとコンビーフの缶詰」
「きっと喜ぶよ。ありがとう」

ちょうどその日の夜、ヘンリーは本牧のディックの店「イタリアン・キッチン」に向かっていた。先日ディックに依頼してあった「731部隊と石井中将」に関する調査で進展があったと連絡を受けたからだ。誰かに聞かれるとまずいので、ディックは中庭に面したテラス席を用意して待っていた。
「やあ、ディック、久しぶり。ずいぶん繁盛しているようだね」
ヘンリーは満席に近いテーブルを見回して言った。
「ああ、以前とは比べ物にならないよ。キッチンの方も今は3人態勢だ」
「森田チーフは元気でやってるかい?」
「ああ、彼は今は手が離せないから後で挨拶に来させるよ。ヘンリー、話は外でしよう」
ディックはヘンリーをテラス席に案内した。
「飲み物は?ビールでいいかい?」
「ああ、冷えたのを頼む」
ヘンリーはブリーフケースから書類を出して辺りを見回した。この小さな庭園のアイディアはいい。店の中からも見えるし、白い馬の彫刻やオリーブの鉢植えがまるでイタリアにいるような錯覚を起こさせる。ヘンリーは二年ほど前、一人で訪れたイタリアの庭の景色を思い出していた。
「お待たせ!」
ディックがビールとぺパロニのピザを持って来た。
「それじゃあ、さっそく本題に入ろうか。まずひとつハッキリしたのは、シロウ・イシイは新宿の若松町で暮らしているということだ。これは周囲の住民からも聞き取りをしているので間違いない。そして、彼の家には家族の他に元の部下と見られる男性が数人滞在しているのもわかった」
ディックはきれいにタイプされた報告書を手に話し始めた。
「すると、ディック、イシイはGHQが保護しているということなんだろうか?」
「いいや、保護しているとは言えないだろう。警備もしていないし。しかし、そこに住むことを黙認しているのは確かだ。そして、ここからが肝心なんだが、イシイの家には米軍の将校たちがしょっちゅう出入りしているんだ。近所の者達はイシイが『若松荘』という旅館を営んでいると言っていた」
「つまり、生活が苦しいから自宅を旅館として開放しているということか」
ディックはグビッとビールを飲むと続けた。
「そう。それも将校たちのお楽しみの場として提供しているんだ」
ヘンリーはあまりの思いがけない話に喉にピザを詰まらせそうになって咳き込んだ。
「何だって?つまり旅館ではなく売春宿なのか?」
「まあ、それに近いだろうね。しかし将校たちのお相手はいわゆるプロではないんだ。素人の女性や主婦なんだよ」
「じゃあ、その女性たちをイシイが斡旋しているのか?」
ヘンリーは思わず身を乗り出して尋ねた。
「いや、イシイがそこまで自分でマネージメントしているかどうかはわからない。恐らく部下に任せているんだろう。しかし、地元ではこんな話も聞いた。つまりイシイは戦争未亡人を経済的にサポートするためにこの仕事をやっているらしいと。要するに人助けだと言うわけだ」
そしてディックはさらに続けた。
「ヘンリー、この話は法的には大きな問題ではないかも知れない。しかし、時に『スキャンダル』は爆弾になりえる。とくにアメリカ本土のジャーナリストたちには『おいしい話』じゃないかと思うが…」
ヘンリーはピザをモグモグと食べながらしばらく無言で考えている様子だった。
「じゃあ、ディック、その出入りしている将校たちのリストはあるのかい?あるいは個人的に接触して裏を取れるかな?」
ディックは微かに首を振って答えた。
「それは今の段階では無理だと思う。将校たちが『若松荘』の存在に気付かれたと知ったら、即閉鎖してしまうだろうからね。ヘンリー、ここまで調べるのもかなり大変だったんだ。これ以上嗅ぎまわると多分気付かれるだろう。それと、僕はGHQの内輪モメに巻き込まれたくはない。後は君がこのネタをケーディス大佐なりボスに報告するかどうかだ。リポートはここにまとめてあるから持って帰ってくれ。この件、僕はここで手を引かせてもらうよ。ビール、もう一杯飲むか?」
「いや、これから帰ってリポートをゆっくり読ませてもらうよ。ディック、ありがとう」
ヘンリーがリポートをブリーフケースにしまって立ち上がるとディックは人差し指を立てて言った。
「ああ、そうそう!ひとつ言い忘れた。君のボスのケーディス大佐の件もそろそろ噂になっているよ。スキャンダルになる前に何とかした方がいいと思うがね」
GSの局長代理であるケーディス大佐と旧華族出身の島尾伯爵夫人の不倫関係はヘンリーも耳にしていた。しかし、ディックが知っているという事はG2の連中も知っている可能性がある。ヘンリーたちGSがいくらG2の弱点や731部隊について調査しても、たったひとつのスキャンダルで足元をすくわれる可能性があるのだ。ヘンリーは背筋が寒くなるのを感じた。
「ディック、ご忠告ありがとう。作戦を練り直すことにするよ」
ヘンリーは店の中を通らずに庭の奥の木戸から通りに出て空を見上げた。さっきまで見えていた半月が雲に隠れ、湿り気のある生暖かい風が吹いていた。このままでは眠れそうもない。
「帰ったらYukiに電話しよう」
ヘンリーは呟いた。


2、「ポール・ブルーム」


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