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1、「スキャンダル」

第三章

2、「ポール・ブルーム」

34)21

 2、「ポール・ブルーム」1947年8月4日(月)

ディックはいつもより早めに起きて髭を整えた。最近は鏡の中に見る自分の髭面にも慣れて来た。真夏なので少々暑苦しい印象を与えるかも知れないが、いきなり剃ってしまうのも惜しい気がしてそのままにしていた。
午前11時の待ち合わせまで、あと二時間ほどあったが、まずは自分の弁護士事務所に寄って郵便物や書類など一式を受け取らなければならない。これは毎週月曜日の業務だった。さらに秘書と簡単な打ち合わせをする必要もあったし、のんびりしてはいられなかった。コーヒーを淹れトーストとベーコンエッグでそそくさと朝食を済ませると、三本しか持っていないネクタイの中から一番無難なブルーのストライブ柄を選んだ。真夏にネクタイをするのも気が進まなかったが、今日の待ち合わせの相手はアメリカ政府の高官だ。電話では詳しい説明はなかったが、OSS(戦略情報部)所属ということは諜報関係の人間に間違いない。
「しかし、ワシントンの高官がわざわざ自分のところに来るとは…一体何の話だろう」
ディックは役人が苦手なので少々緊張していた。
10時丁度に事務所に着くと、秘書の花村幸子がたくさんの郵便物を入れたバスケットを持って来た。
「ミスター・ファーガソン、一応、全て私が開封してチェックしてあります。それから、こちらの書類にはサインをお願いします」
花村幸子は幼少期をロンドンで過ごしたせいか、英国訛りのある英語を話す。テキサス生まれのディックにとって、その訛りは少々気取ったように響いた。呼び名はディックでかまわないと言っているのに『ミスター・ファーガソン』と呼び続けるのも事務的でイヤだったが、仕方がない。彼女は有能な秘書だったから。
「それと、先ほど電話が一本入りました。ミスター・ブルームと言う方で、11時の待ち合わせに少々遅れるとのメッセージです」
「わかった。じゃあ、その書類を見せてくれ」
最近は弁護士としての仕事はめっきり減っていたが、止めるわけにも行かなかった。やはり弁護士の肩書きは色々な面で役に立つし、一度事務所を閉めてしまったら、再開するのは難しいからだ。
ブルーム氏と待ち合わせの場所は元町の「Rio」というコーヒーショップだった。近くの輸入食品の店が経営しているだけあって良質のコーヒー豆を使っており、米軍関係者の間でも評判の良い店だった。ディックの店のコーヒー豆も同じ店から仕入れていた。
通りに車を停め11時5分過ぎに店に入った。アンティークの椅子とテーブルが並んだヨーロッパのカフェのような趣味の良い店だ。シナトラの曲が流れている。店内を見回すと窓際の席の男が手を振った。遅れるはずだったのに先に来ている。
「ブルームさんですか?」
ディックが近づいて話しかけるとその男は大きく頷き、手で向かいの席に座るように示した。
「ファーガソンさん、今日はお忙しいところ、ご足労いただきありがとうございます」
そのブルームと言う男は丁寧だが少々フランス訛りのある英語を話した。カールした髪に褐色の瞳。年の頃は40代だろうか…政府高官にしては全く威圧感を感じさせなかったが、時々見せる鋭い眼光は、この男が只者ではないことを感じさせた。
「実は、横浜は私の生まれ故郷でしてね、戦争前はこの辺りはまだ開けていなくて田園風景が広がっていたんですよ」
ディックは意外な話に思わず身を乗り出した。
横浜生まれ…と言う事は、ブルームさん、あなたはどこの国のご出身なんですか?」
「はい、父はフランス人です。ここ、横浜で貿易商をやっていました。母はアメリカ人で…両親ともユダヤ系ですが」
「なるほど、では横浜でお生まれになって、今はアメリカ政府の職員でいらっしゃる」
「まあ、話せば長いんですが、私がフランスにいた時に戦争が始まりましてね、ご存知のようにフランスはあっという間にヒトラーに占領されてしまった。我々ユダヤ系は逃げ出すしかなかったわけです」
「それは大変でしたね。で…」
ディックはブルームの真意がわからず次の言葉を待った。
「いや、ファーガソンさん。実はあなたのことを色々と調べさせていただきました。来日後まだ日も浅いのに大変成功なさっている。商才がおありの上に人脈も広いようですね。そこで我々の提案なのですが、あなたに政府の仕事を手伝ってはいただけないかと…」
思いがけない話だった。「政府の仕事」とは?一体どういう意味だろう。
「と、申しますと、どのような?」
「すでにご存知だとは思いますが、つい先日、大統領は国家安全保障法に署名し、CIA(中央情報局)という新たな組織が生まれたのです。私はこれまでOSS(戦略情報部)に在籍していましたが、今後はCIAのために働くことになりました。そして、この日本にも新たな組織を作ることを命じられ先週、その下準備のために来たのです。この新たな組織作りに是非あなたの力を貸していただきたいと思い、連絡を差し上げたわけです」
ディックはまだ話の意図がはっきりわからず、眉間に皺を寄せたまま無言でコーヒーを啜っていた。
「で、我々の条件についてですが、もしもこの提案を受けていただけるなら、あなたの弁護士事務所の経費はこちらで負担しましょう。その他の活動費も必要に応じて負担します。あなたから提供していただいた情報に関しても、その内容に応じて謝礼金を用意します。その代わり、事務所を東京の丸の内に引っ越していただきたいのです。もう候補地はいくつか確保してあります。もちろん、あなたのレストランビジネスは今まで同様続けていただいてかまいませんし、PXからの物資調達も継続していただいて問題ありません。いかがでしょうか?」
ディックは一瞬顎にパンチを食らったような気がした。ブルームは提案と言うよりも「断れない条件」を出して来ているのではないか。つまりディックがPXから酒や食料品、タバコなどを裏ルートで仕入れている件も掴んだ上で、自分に会いに来ていると言う事だ。
「なるほど…で、その新しい組織の名は何と言うのですか?」
ディックは努めて平静を装い、話の風向きを変えようとした。
「名称ですか?役割としてはCIA日本支部ということになりますが、それは表には出しません。あなたの新しい事務所の名称は『ファーガソン法律事務所』でお願いできますか?」
「急な話なので…何とも。お返事はいつ頃までにすればよろしいですか?」
「もちろん、今すぐにここで決めなくて結構です。しかし、私も来週にはワシントンに戻らなければなりません。どうでしょう…今週中、金曜日の17時までに…ということで」
今週中…と言っても、これは断れないのはわかっていた。しかし、さらに細かい条件を考える必要があった。法律家として、迂闊に提案に乗ることだけは避けなければならない。三日もあれば疑問点を抽出できるだろう。ディックは取りあえずこの場から逃れたかった。プレッシャーで息が詰まりそうだったからだ。
「わかりました。では、今週の金曜日17時までに連絡いたします」
「ファーガソンさん、あなたが承諾してくださればさらに詳しいお話をさせていただきます。今日はお忙しいところ、ありがとうございました。連絡はこちらにお願いします」
そのメモ用紙には「山王ホテル321」という部屋番号が書かれてあった。

さて、ここでCIAについて少し補足しておこう。CIA(中央情報局)が実際に発足したのは1947年9月18日である。それまでバラバラに集められていた世界各地の情報をアメリカ政府が一元管理しようと言うのが目的であり、統括するのはCIA長官であり合衆国大統領直属の組織である。つまり国家安全保障会議の直轄機関であり、米軍とは別の独立した機関であるのが重要な点だ。
CIAは情報収集のみならず、世界各国の内政にも積極的に関与する点が特徴である。
例えば:
●親米政権樹立の援助、協力者の育成
●反米政権打倒の援助、協力者の育成
●アメリカ合衆国に敵対する指導者の暗殺
などの活動である。
当時の占領下及びその後の日本における協力者とされる主な人物としては以下のような名前が挙げられる。
岸信介、賀屋興宣、正力松太郎、児玉誉士夫、笹川良一、田中清玄、笠信太郎、緒方竹虎、野村吉三郎など。
もちろん、上記以外にも多くの日本人の協力者が存在しており、アメリカ人も公務員のみならずディックの様な民間人の協力者(エージェント)は数多く存在している。
また、揺籃期の自由民主党に資金提供し、さらにマスメディアを利用し、食生活から文化・娯楽までアメリカニゼーションを推し進め、親米政権の維持に力を注いだことは今日の日本を見れば、その影響力の大きさがわかるだろう。

8月8日(金)午後4時。ディックは本牧にある自分の事務所でポール・ブルームを待っていた。秘書の花村幸子は早めに帰した。ブルームとの話はまだ極秘にしておきたかったからだ。
4時5分過ぎ、ブルームがやって来た。
「いやあ、やっぱり日本の夏は暑いですねぇ。この湿気、すっかり忘れていた」
ブルームはハンカチで額の汗を拭いながら、ディックのデスクの前の椅子に座った。
「ブルームさん、今回のお話、有難くお受けしようと思います。私も政府のために働くことができて光栄です」
ディックは政府の世話になるのは本意ではなかったが、もしも断った場合、今後日本でのビジネスがやりにくくなるのは目に見えていた。そもそもディックが日本に来たのは新天地でチャンスを掴むためだった。だから東京裁判の弁護団随員募集に応募して、はるばるこの極東の国までやって来たのだ。ここまで頑張って来たのに、挫折して故郷に帰るのは何としても避けたかった。父や親戚達がどんな目で負け犬を見るか、それを想像しただけで身震いするほどだった。それに加えディックは次第にこの東洋の島国が好きになって来ていた。最初の頃は「日本人は野蛮な民族だ」という先入観を持っていたのだが、それは戦中の政府によるプロパガンダに過ぎなかった。彼らは独自の洗練された文化を持つ魅力的な人たちだった。
「そうですか。ファーガソンさん、我々も嬉しく思いますよ。何しろ、一から組織を作って行かなければならないのですから、あなたの様な方に加わっていただいてとても心強く思います。それでは、細かい規則などはこの書類に書いてありますから良く読んでおいてください。それから、事務所の引っ越しの件ですが、10月中にオープンという段取りではいかがでしょう?もちろん、何か御希望の日があれば変更は可能ですが、9月に本部が発足する予定なので引っ越しはその後ということになります」
ブルームはディックが断らないことを見越して、全ての資料を持参して来ていた。悔しいが仕方がない。こうなったら可能な限り利用してやるだけだ。
「ところで、いかがですか?ブルームさん、一度、私の店でお食事をなさっては?よろしければ、これからでもご案内いたしますよ」
ディックは自分のボスになる男に食事を振舞っても損にはならないと思って誘ってみた。
「あははは。実は…もうあなたのお店には行ってるんですよ。最初にあなたに会う二日前…ちょうど土曜日だった。すごく繁盛していましたね。仲間と三人で行きました。憶えていませんか?」
ディックは思い返してみたが何しろ毎日多くの人たちと接しているので、ブルームのことは思い出せなかった。そもそもブルームはあまり目立つタイプの男ではない。いや、そもそも諜報関係の人間が目立ってはいけないのだが…。もしかしたら、その時はディック以外のスタッフが対応したのかも知れない。
「すみません。ちょっと記憶にありませんね」
「いや、かまいませんよ。料理は最高でした。特にラヴィオリは絶品だったし、店の雰囲気も良かった。正直、日本にあのような本格的なイタリア料理の店があることが信じられませんでした。料金も良心的でしたしね」
「ありがとうございます。最初は色々大変でしたが、何とか自分でも満足できるところまで来ています」
ディックは今までの苦労を振り返るように何度も頷いた。
「ファーガソンさん、あなたのビジネスセンスは素晴らしい!ですから、もしも今後、支店を出す場合はご相談ください。私たちは不動産関連にも情報網を持っていますからね」
ディックは改めてブルームをまじまじと見た。そしてこう思った。「そうだ。この男は優秀なスパイなのだ。ヨーロッパや世界各地で諜報活動のプロとして生きて来た男なのだ。そして、あの切れ者のアレン・ダレスの片腕と言われた男なのだ。その男が自分に協力しようと言っているのだ。これはもしかすると飛躍のチャンスなのかも知れない」
ディックは先ほどまで感じていた屈辱感が消え、成功への期待感が一気に漲って来るのを感じた。
「ありがとうございます。ブルームさん、今はまだ支店の準備はできませんが、丸の内に事務所をオープンしたら、いずれはビジネスの方も広げて行きたいと思います。その時はよろしくお願いいたします」
ディックは丁寧に礼を言うとブルームを外まで見送った。路上には黒のカイザー・フレイザーが停まっており、車外で煙草を吸っていたラテン系の運転手が慌てて煙草を揉み消すと後部座席のドアを開けた。ブルームは車に乗り込み窓を開けるとディックに告げた。
「ファーガソンさん、今回は一旦ワシントンに戻りますが、来年からは本格的に日本に腰を据えて仕事をしますよ。今後は部下を通して指示を出しますから、よろしく」
ディックは黒い車が去って行くのを見送った後も、しばらく呆然と歩道に立っていた。
「果たしてこれは吉兆なんだろうか…事務所を東京に引っ越して、店の支店を広げて、儲かったら結婚して…」
ふと、雪枝のことが頭に浮かんだ。そしてディックは口笛を吹きながら足取りも軽くガレージに向かって歩いて行った。


3、「片瀬海岸」


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