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5、「静岡」

第二章

6、「赤狩り」

(38)「赤狩り」1947年10月13日(月)

 ヘンリーは前週から残っていたデスクワークをさっさと片付けると午後5時30分過ぎにGHQのオフィスを出た。向かう先はディックの新しいオフィス。
ディックは先月いっぱいで本牧のオフィスを閉め、先週、丸の内に新たに法律事務所を開いたばかりだった。目指すビルはGHQ本部から有楽町の方に2ブロックほど歩いたところにあった。5階建てのそのベージュに塗られたビルは
周辺の薄汚れた建物の中でひと際目立っていた。
「おお、これは新築のビルじゃないか」
レストラン・ビジネスに熱中していたディックが、このような一等地に事務所を開くことがヘンリーにとっては不思議に感じられた。ディックが弁護士の仕事にそれほど身を入れているとは思えなかったからだ。
階段で2階に上がり「ファーガソン法律事務所」という金色のプレートのあるドアをノックすると「どうぞ」という女性の声が聞こえた。
オフィスに入ると正面の大きなデスクの向こうにディックが笑顔で座っていた。手前のデスクでは痩せたブルネットの女性がタイプライターを叩いている。
「ディック、すごいじゃないか!こんな立派なオフィス」
「ああ、やっぱり横浜に引っ込んでちゃダメだな。情報収集でも後れを取ってしまう」
「という事は、また弁護士稼業に身を入れるつもりかい?」
「まあ、その辺のことも含めゆっくり話そう。奥の会議室に行こうか。ヘレン、ビールを二本頼む。ヘンリー、飲むだろう?」
「ああ、いただくよ」
会議室には本革の高級な応接セットが置かれていたが、ミントグリーンに塗られた壁にはまだ何の飾りもなく塗料の匂いが微かに残っていた。
ヘンリーがディックと向かい合って座っていると、ヘレンと呼ばれた女性が冷えたバドワイザーの瓶を二本持って来た。
「グラスは?」
「いや、このままでいい」
二人はビール瓶で乾杯するとグッとひと口飲んだ。
「ディック、素晴らしいオフィスじゃないか。おめでとう!」
「ありがとう。君たちとも近くなれてうれしいよ」
「ところで、以前いた秘書は…ええとサチコだっけ?彼女はどうしたんだい?」
「ああ、サチはまだいるよ。今日は早めに帰ったんだ。ヘレンはパートタイマーで先週から来てもらっている。旦那は霞町にいるよ。軍の関係者だ」
「そうか。いよいよ本気で弁護士としてやって行くんだな」
「ああ、それもあるが、店の方も軌道に乗って来たんでマネージャーを雇ってある程度任せることにしたんだ。で、今年中にもう一軒出す予定だ」
「え?もう一軒?」
ヘンリーは驚くことばかりだった。弁護士稼業に本腰を入れると思いきや、店ももう一軒出すと言う。これは誰かスポンサーでも付いたのだろうか。
「ああ、今、物件をいくつか検討中なんだ。多分、立川あたり」
「すごいね、ディック。君のビジネスセンスには感心するよ」
ディックは少々心が痛んだ。裏でCIAのエージェントの仕事をしているとは誰にも言えない。たとえ親友でもこれは絶対に秘密だった。
「ヘンリー、日本は今急速に復興しているんだ。この勢いに乗れば色々なことができると思う。ここはまさにニュー・フロンティアなんだ」

 ディックはダラスにいた頃の自分を思い出していた。ハッキリ言って退屈だった。弁護士の資格は取ったものの父親の知り合いの法律事務所で雑用ばかりの毎日。
「ここで、このまま結婚して家庭を持って人生を終えるのか…」ため息ばかりの日々だった。
そんな時、東京裁判の随員募集の話が舞い込み、待遇も条件も聞かずに飛びついた。そういう意味ではヘンリーも同じようなものかも知れない。故郷で父親のレストランを継げば安定した暮らしが手に入ったはずなのに、わざわざ軍に入って結局この東洋の果ての島国まで来た。ディックとヘンリーはお互いに「似た者同士」心が響き合うのを感じていた。

「ところでヘンリー、最近のワシントンの動きを知っているかい?」
「え?何だろう?CIAの発足と関係があることかい?」
ディックはヘンリーが「CIA」の名を口にしたので一瞬ギクッとしたが、気付かない振りをして話を続けた。
「ああ、CIAが先月発足したのはもちろん知っているが、それよりももっと注目すべきことは『非米活動委員会』の活動だよ」
「非米活動委員会」はアメリカ議会の下院に常設されている委員会であり、戦時中は主にアメリカ国内のファシスト摘発を目的としていた。しかし、もはやファシストは絶滅したはずだ。ヘンリーには全く見当がつかなかった。
「ああ、その委員会は知っているが、いったい何が始まったんだい?」
「『赤狩り』だよ。委員会が共産主義者の摘発に乗り出したんだ。まずハリウッドが標的になるはずだ」
「え?ハリウッドに共産主義者?まさか!映画界の奴らなんか、まさに資本主義の申し子じゃないか」
ヘンリーは昔読んだ共産主義に関する本を思い出していた。世界には本来の意味での「共産主義」は存在していないのだ。ソ連のスターリンがやっていることは、共産主義を掲げたファシズムだと思っていた。つまりヒトラーとは看板が違うだけで中身は大差ないのだ。
「ヘンリー、君ならわかると思うが、委員会がやりたいのは一種の『言論弾圧』なんだよ。要するに政府を批判する発言や表現を制限したいわけだ。その大義名分として『共産主義者』のレッテルは実に効果的なんだ。僕だってハリウッドに真の意味での共産主義者がいるとは思わないが、ハリウッドの連中が作る映画や彼らの発言が政府の癇に障るのも確かなんだ。そして、恐らく少数ではあるがソ連のスパイもいると思う」
「ああ、確かにスパイはいるだろうね。アメリカにも日本にもヨーロッパにも。でも、彼らはイデオロギーに共鳴しているとは限らない。単に金が欲しいだけの場合もあるし、中にはハニートラップに引っかかっているだけの間抜けな奴もいるだろうよ」
ヘンリーもスパイの存在は否定しなかったが、中には弱みを握られて仕方なく情報を漏らしている者もいるはずだ。
「ヘンリー、僕がこんな話を持ち出すのは、今回の『赤狩り』がハリウッドのみならず全米、そして日本にも広がる可能性があることを知って欲しいからなんだ。率直に言おう。君たちG2の組織も狙われているぞ」
ヘンリーは自分たちGSの組織が「赤」だの「共産主義者のスパイ」だの言われるのは慣れていたので今さら驚かなかったが、具体的な動きがあるなら今のうちに知っておかなければならない。ディックがビールを取りに行っている間に、ヘンリーは次の質問を考えようとした。しかし、酔っているのかあまり良いアイディアは浮かばなかったので単刀直入に聞くことにした。頭のきれる弁護士相手にあれこれ探りを入れても意味がない。
「じゃあ、ディック、例えばどんな動きが考えられるんだい?」
「そうだな…ここは本国とは違うし、やり方はだいぶ違うと思うが、一番考えられるのはスキャンダルだろうね。プライベートな問題とは限らない、例えばカネが絡んだ汚職とか」
「何!汚職?なあ、ディック、お願いだ。何か掴んでいるなら仕事に差し支えない範囲で教えてくれないか?」
ヘンリーは何らかの具体的な話を聞くまでは帰るつもりはなかった。
「そうだな。これは推測だが、たとえば君の上司のケーディス大佐、ずいぶん入れ込んでいる女性がいるじゃないか。もちろん、不倫そのものも問題だが、何やら日本の企業と特別な関係があるともっぱらの噂だが…」
上司のケーディスが日本の上流階級の人妻と密会しているのはヘンリーも知っていたし、財界関係者と頻繁に会食していることはヘンリー自身同席したこともありそれほど問題があるとは思っていなかった。しかし賄賂を受け取っているとなると話は別だ。考え込むヘンリーにかまわずディックは話を続けた。
「ヘンリー、君は前の総理大臣の吉田を知っているだろう?」
「ああ、何度か会ったことがある。あまり良い感じではなかったな。敵意と言うほどではないが、何か打ち解けないものを感じた」
ヘンリーは6月初めに吉田茂と会った日のことを思い出していた。ひどい雨の日だった。選挙で社会党に負けて内閣を総辞職した直後で、吉田は苛立ちを隠しきれない様子だった。そして、一緒にいた…たしかShirasuとか言う英国訛りの英語を話す…油断のならない男のことも思い出した。
「あの吉田がG2の連中と組んで何か仕掛けてくる可能性があるんだ」
「つまり我がGHQが日本の政界の権力闘争に巻き込まれるということか…」
するとディックは笑いながら言った。
「いやいや、ヘンリー、逆だよ。G2と君たちGSの権力闘争が日本の政界を巻き込むという事だ。今回はG2も本気だ。よくよく考えた方がいいぞ。ヘンリー、君は今のうちに転属を申し出ることをお勧めするよ。ケーディスやウィロビー達と運命を共にする必要はないだろう?」
ヘンリーは黙っていた。今まで自分を引き立ててくれたケーディスやウィロビーの顔や言葉が浮かんでは消えた。本当に嵐はやって来るのだろうか。今、逃げるのは卑怯者ではないのか?
「それから、これはとても言いにくいのだけれど、君とYukiのこと、恐らくG2のリストにも載っていると思うんだ。もちろんモラル云々の問題ではないが、奴らはどんな手も使う。電話一本で家庭を壊すことなどなんでもないだろうね」
イヤな話だったがあり得ないことではなかった。ヘンリーは頭の中が混乱して言葉が出てこなかった。
「ヘンリー、僕は君を苦しめるためにこんな話をしているんじゃない。それはわかって欲しい。とにかく君が嵐に巻き込まれるのを見たくないんだ」
ディックの言葉が友情から出たものだという事は充分理解できるのだが、ヘンリーは受け止めきれずに呆然とするばかりだった。
「ヘンリー、今ここで決める必要はないんだ。僕が言ったことが現実になるのにはまだ少々時間がかかると思う。多分今年の暮れ、あるいは来年になるかも知れない。まだ水面下で動いていることだから。でも、ヘンリー、ひとつ約束して欲しいんだ。この件は誰にも言わないでくれ。この話が漏れると僕は仕事ができなくなる。GHQの連中やYukiにも内緒にしてくれ。君を信じているよ」
「わかった。ディック、ありがとう。よく考えてみるよ」
ヘンリーは残ったビールをグッと飲み干すと立ち上がった。
外はもう暗くなっており、酔った米兵や日本人のサラリーマンがふらふらと歩いていた。ヘンリーは呆然とその酔っ払いたちの後に続いて歩いて行った。
みすぼらしい身なりの少年たちが路上で鍋やら履物などを売っているのを横目で見ながら銀座まで来ると、ヘンリーはようやく我に返った。
「そうだ、あの店に行ってみよう。確かあの路地を入るんだったな」
ヘンリーの頭に浮かんでいる「あの店」とは「氷川」のことだった。どうしても日本語の店の名は憶えにくい。
ドアをノックすると小窓が開いた。マネージャーはヘンリーの顔を憶えておりすぐにドアを開けてくれた。
店内には相変わらずバロック音楽が流れている。マネージャーは流暢な英語でヘンリーに尋ねた。
「ミスター・デュボア、今日はお待ち合わせですか?」
「いや、一人だ。ここで飲ませてもらうよ」
ヘンリーはバーを指差した。
「はい、ではごゆっくりどうぞ」

 雪枝は今週中に仕上げなければならない翻訳の仕事に取りかかっていた。それほど難しい内容ではなかったが分量が多い。
「でも、せっかくのお仕事だからね。ありがたく思わないと…」
雪枝はひとり言を呟いてタイプライターに向かった。恋文横丁のキーウェスト商会の仕事だった。今では恋文の翻訳だけでなく会社関係の翻訳依頼も増えており給料も以前より上がっていた。
すると電話が鳴った。
「あら、ヘンリー、どうしたの?どこにいるの?」
ヘンリーは珍しく酔っ払っているようだった。
「え?これから?」
何だか様子がおかしい。これは行くしかないだろう。
「じゃあ、今から車で行くから待っていて」
銀座まで迎えに行くことになった。もしかしたら彼の部屋に泊まることになるかも知れない。雪枝は化粧ポーチと下着を小型のバッグに詰めた。
「いったい何があったのかしら…」
雪枝は胸騒ぎを感じながらクリーム色のシボレーで銀座に向かった。


7、「ミス・ハドレー」


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