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本牧ブルース
「赤狩り」

第二章

7、「ミス・ハドレー」

(39)「ミス・ハドレー」1947年10月18日(土)

 雪枝は普段の休日よりも早めに起きて、コーヒーを飲みながらレコードを聴いていた。

I love you for sentimental reasons♪

いつもは心地良いはずのナット・キング・コールの甘い歌声が、今の雪枝にはかえって辛く胸が締め付けられるように響いた。
先週の出来事からずっと感じている不安。ヘンリーとの関係が終わるかも知れない予感が消えなかった。

あの晩、泥酔したヘンリーを宿舎まで送って行って聞いた話は衝撃的なものだった。GHQに赤狩りの嵐が吹き荒れる予想…いや、もうそれはすぐ目の前に迫っていると言う話。
そして、その嵐にヘンリーも巻き込まれるかも知れない。いや恐らく、このままでは巻き込まれるだろう。なぜなら赤狩りの標的の一人はヘンリーの直属の上司であるケーディス大佐なのだから。
最初に聞いた時は、そんな情報をヘンリーに吹き込んだディックを恨む気持ちもあったが、冷静に考えればディックは「現実を見ろ!」とアドバイスしてくれたのだ。
逆に感謝すべきかも知れない。

 雪枝は気分が沈み込みそうなので、レコードの棚から「マナグア・ニカラグア」を選んだ。こういう能天気な歌の方がいい。今の雪枝にラブソングは辛過ぎたから。
今夜は、ヘンリーとディナーの約束があった。もう一組のカップルと一緒だった。ヘンリーからはGHQの同僚「ミス・ハドレー」とその友人の新聞記者が一緒と聞いている。
雪枝は自分の頭の中の陰気な雲を振り払おうとしていた。
「こんなの本当の私じゃない」
雪枝は湿っぽい自分が大嫌いだった。
「あら、もうこんな時間!」
カップに残ったコーヒーを飲み干すと雪枝は立ち上がり素早く着替えを始めた。美容院に予約を入れた9時半まであと30分を切っていた。

 ディナーの店は日比谷のレストラン「喜望峰」だった。以前、雪枝が連れて行ったのをきっかけにヘンリーはこの店を気に入り、その後も何度か訪れ馴染になっていた。雰囲気や料理が気に入っただけでなく「米軍関係者がいない」というのも重要なポイントだった。
午後7時、雪枝とヘンリーが店に着くと、もうすでにミス・ハドレーはバーでマティーニを飲んでいた。

「わあ、素敵な人!」雪枝の第一印象だった。
女優のような派手さはないが、知性があふれ出る様な上品な美しさが感じられた。
「こんにちは、上松雪枝です」
「初めまして。ハドレーです。エリーと呼んでください。私もあなたをユキと呼ばせてね」
エリーは雪枝より少し年上…おそらく三十歳前後だろうか。束ねたブルネットの髪、理知的な目、形の良い鼻が印象的だった。雪枝は久しぶりに同性に対して胸が高鳴るのを感じていた。
「エリー、ジョセフは?」
ヘンリーが尋ねた。
「ああ、彼は遅れて来るから先に始めてかまわないわ」
ジョセフとはエリーと一緒に来るはずのジョセフ・フロムのことだった。アメリカで人気のある週刊誌「ワールドレポート」の東京特派員をしている。
「それじゃ、個室の方に行こうか」
ヘンリーがそう言うなり、すっかり馴染になった前田マネージャーが現れて3人を奥の個室に案内した。

「エリーはもう日本に長いの?」
雪枝はエリーに対する好奇心を隠せなかった。
「戦後は1945年の10月からよ。でも実は戦前にも日本にいたことがあるの。1936年からトーダイで勉強しに来ていたのよ」
「トーダイ?」
雪枝はエリーが「トーダイ」と日本語で言ったので咄嗟に意味がわからず聞き返した。
「そう、東京帝国大学。あの頃は勉強の合間をみて友人と旅行ばかりしていたわ。日本国内の名所はほとんど回ったかしら。知人の紹介で横浜の家族のところにホームステイさせてもらったのも懐かしい」
するとヘンリーが口を挟んだ。
「エリーは日本のことなら何でも知っているんだ。多分、GHQでも一番じゃないかな」
それを聞いてエリーは笑いながらこう言った。
「そうね、学者の先生たちは日本の政治、経済や歴史の知識はあるけど、日本の庶民の生活をご存じないわよね。私はよく知っている。本当は天皇陛下も日本国民も誰も戦争なんか望んでいなかったことだって理解しているわ。あの戦争は全て軍部とザイバツが仕組んだことなのよ」
「え?ザイバツ?」
またしてもエリーは「ザイバツ」と日本語で言ったので、雪枝は聞き返した。
するとヘンリーがマティーニのオリーブをかじりながらこう付け加えた。
「ユキ、エリーの専門は『財閥解体』なんだよ」
(財閥解体…新聞で目にしたことはあるけど、財閥ってあの三井・三菱などの大企業のグループのことよね?彼らに何か問題でもあったのかしら)
雪枝の父が務めている日本郵船も三菱財閥系の会社なので雪枝は財閥にあまり悪いイメージを持っていなかった。
「エリー、私、本当に恥ずかしいのだけれどザイバツについて、あまり知識がないの。簡単に説明していただける?」
スープが運ばれてきた。上質のコンソメの香りが食欲をそそる。
「いいわよ、ユキ。でもその前にこのおいしそうなスープを味わいましょう。ザイバツの話はあまり食欲をそそらないから」
三人は暫し無言でスープを味わう事に集中した。滋味豊かな素晴らしい味だった。
「さて、では…どこから始めたらいいかしら。まず、ユキ、戦争はビジネスだっていうこと、わかっているわよね?」
エリーの説明は簡潔でわかりやすかった。もちろん雪枝は戦争でたくさんの兵器や武器が使用され、それらを売る者が莫大な利益を得ることはわかっている。
「でも、エリー、結局、日本は戦争に負けて焼け野原になってしまったわ。いくらビジネスでも結果がこうなってしまったら、ザイバツの人たちはビジネスマン失格じゃないかしら?」
すると、エリーは人差し指を立てると笑顔でこういった。
「ユキ、いい指摘だわ。確かに彼らはビジネスマン失格。でも彼らの目論見は最初の頃は機能していたんじゃないかしら。たとえば満州国設立や中国との戦争。ここまでは充分利益が出ていたはずよ。ところがそこで政治家と軍部がヘマをやらかしたわけ。それはヒトラーの尻馬に乗ってアメリカ、イギリスを甘く見たことね」
「そう、特にインドシナに進駐したのは大失策だったね。あれで一気に国際世論は硬化したんだから」
ヘンリーが昔を振り返るように話した。
インドシナは現在のベトナム、ラオス、カンボジアを合わせた地域で19世紀末からフランスの植民地だった。1939年9月、ヨーロッパで戦争が始まり、翌1940年6月フランスがナチスドイツに敗れると、日本はこの隙を狙ったかのように北部ベトナムに進駐し、ついで南部にも進駐しようとしたところで米英を中心とする国際社会の強い反発を招いたのだ。
そしてその後、1941年12月、日本が真珠湾を奇襲しアメリカと戦端を開いた頃、ソビエトに攻め込んだドイツ軍は厳しい冬の寒さとソビエト軍の猛」反撃によって立ち往生し始めていたのだから、あと一カ月様子を見れば日本は無謀な戦争に突入しないで済んだかもしれない。いや、それでも軍部の強硬な姿勢は誰にも止められなかったかも知れないが…。
「エリー、実は私、戦前はずっとアメリカにいて、日本国内のことはあまり知らないのよ。いえ、知らないどころか全く興味がなかった。当時の私はアメリカでの生活が楽しくて政治のことなんか全く他人事だったのよ」
「あらあら、ユキはお嬢様だったのね」
エリーの口調には皮肉な響きは全く感じられず、むしろ姉が妹に話すような親しげな響きがあった。
そう…雪枝は世間から見れば「お嬢様」だったかも知れない。家柄も良く経済的にも恵まれていたのだから。
しかし歴史の大きな波はそのような個人の運命など簡単に捻りつぶしてしまうのだ。アメリカ滞在時に見たあの映画「風と共に去りぬ」のストーリーのように「戦争」と言う風はあらゆるものを吹き飛ばしてしまうのだ。
「あら、ユキはあの映画を見たのね。で、どうだった?感想は?」
雪枝が「風と共に去りぬ」を見た話をするとエリーは興味深げに尋ねた。
ヴィヴィアン・リーが演じたスカーレット・オハラのような強い女性に憧れると雪枝が言うと、エリーはこう言った。
「そうね。それがあの映画がヒットした要因なのは間違いないわ。自分の意志で強く生きる女性の姿に多くの女性たちは共感したのよ。私もその一人だった。でもね、ユキ、あの映画にはこんな批判もあることを忘れないで欲しいの。つまりあの作品はあくまでも『白人の』視点で描かれているっていう事。奴隷である黒人たちのことは全く問題にされていないのよ。確かにリンカーンは彼らを解放した。でも黒人たちにはいまだに選挙権も与えられていないのよ」
雪枝はまたしても自分の不勉強を恥じた。アメリカにいながら、黒人たちの境遇のことなど全く考えたこともなかった。友人たちはみんな白人だったし、黒人達と接するのは荷物の受け渡しや買い物の時やホテルのボーイ、メイドなど限られた範囲だった。
「エリー、私、まだまだ知らなければならないことがたくさんあるのがわかったわ。これからも時々教えてくださいね」
「もちろん!喜んで!」
エリーも心の底から嬉しそうだった。
「ユキ、良かったね。やっと友達ができた」
ヘンリーが頷きながら言った。ヘンリーは気になっていたのだ。雪枝にはほとんど女友達がいないことが。やはり帰国子女と言うのは周囲から浮いてしまいがちなのに加え、雪枝のストレートな性格は日本人離れしていた。だから、むしろエリーの様なリベラルなアメリカ人の方が気が合うのかも知れなかった。
丁度メインディッシュのビーフシチューが運ばれて来た時だった。息を切らしながら若いアメリカ人青年が入って来た。
「すまない。皆さん、遅くなって」
エリーの友人、新聞記者のジョセフ・フロムだった。くるくるとカールした黒髪と大きな茶色の瞳が印象的な美青年だ。
フロムはウォッカのストレートを一気に飲むと、話の輪に加わった。
雪枝はジョセフがエリーの恋人であることにすぐ気付いた。
(素敵なカップル。二人ともインテリジェンスがあってお互いを認め合っているわ)
ジョセフはジャーナリストらしい視点でGHQの様々な面に批判的な目を向けているようだったが、エリーもヘンリーもそのことに反発するでもなく、むしろ賛意を示すことの方が多かった。そして、話題がアメリカ国内で起こり始めている「赤狩り」のことになると、ジョセフの言葉はさらに熱を帯びて来た。
「苦労してファシズムを世界から一掃したと思ったら、今度はアメリカ政府自らがファシストのマネをし始めたわけだ」
先月、アメリカ下院の「非米活動委員会」によって証人喚問されたにもかかわらず証言を拒否し、議会侮辱罪で起訴されたハリウッドの製作者や脚本家など10人(所謂ハリウッド・テン)の件は全米に衝撃を与えていた。つまりこれは「言論の自由」に対する挑戦と受け止めた者も多数いたわけである。
雪枝は今さらながら自分の無知を恥じていた。過去の自分は「人生は楽しければ良い」と思っていた。そしてその考えは、あれほどの悲惨な戦争を経てもなお今もあまり変わっていなかったのだ。しかし、どうだろう…エリーやジョセフの生き方は。社会の矛盾や暗部に着目し、それを改善しようと日夜努力しているのだ。雪枝は、自分にはそのような力はないが、少なくとも「事実を知ること」は大切だと思い始めていた。

 有意義なディナーが終わり、ヘンリーは出張があるのでそのまま宿舎に戻り、雪枝はタクシーで家に帰った。そして着替えて化粧を落としている時、電話が鳴った。
「誰だろう?ヘンリーかしら…」
電話に出ると若い女性の声だった。
「雪枝さん?私…ナミです。憶えておいでですか?静岡の…」
「え?ああ!ナミさん。もちろん憶えているわ。どうしたの?」
何だろう。こんな夜更けに。静岡で何かあったのだろうか。
「雪枝さん、私、東京に来てるんです。今、渋谷にいます。今晩、泊めていただけませんか?お願いします」
雪枝は一瞬驚いたが、ナミの切羽詰まった声は無視できなかった。
「わかったわ。ナミさん、渋谷のどこにいるの?今から車で迎えに行くから待ってて」
雪枝はベージュのレインコートを羽織り、アルコール臭を消すためにガムを口に放り込むと、クリーム色のシボレーに乗り込んだ。


8、「ナミ」


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