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本牧ブルース
7、「ミス・ハドレー」

第二章

8、「ナミ」

(40)「ナミ」1947年10月19日(日)

 雪枝は渋谷に着くと道玄坂の途中に車を止め、徒歩で駅前に向かった。以前は忠犬ハチ公の銅像のあった辺りを待ち合わせ場所にしてあった。忠犬ハチ公の像は戦時中の金属供出によって溶かされ、今はどこかの機関車の部品になっているらしい。何ともバカなことをしたものだ。
ナミは東京にいたこともあり「ハチ公」は知っていると言っていた。迷う事はないだろう。青いスカーフが目印だ。
雪枝が待ち合わせ場所に到着してすぐに、青いスカーフにベージュのレインコートを着たナミが小さな茶色のボストンバッグを持って立っているのを見つけた。
「ナミさん!」
雪枝が声をかけるとナミは目を大きく見開いて笑顔で挨拶をした。
「雪枝さん、ありがとうございます。こんなに夜遅くにごめんなさい」
「挨拶はいいから…さあ、ナミさん、早く車に乗りましょう。この辺は夜はちょっと物騒だから」
確かに辺りには見るからに柄の悪い男たちが数人立っており、酔っ払いに声をかけている。あんな各引きに引っかかったらどんな目に合うかわからない。雪枝は先ほどから赤いジャンパーにリーゼントの若い男が自分たちをジロジロ見ているのに気づいていた。雪枝はナミを追い立てるように道玄坂に向かった。
車が走り出すとナミは張り詰めていた気持ちが解けたのか、急に泣き出した。雪枝は何も聞かずにラジオのスイッチを入れた。米軍の放送局から流れ出すキャブ・キャロウェイのコミカルな歌が車内の空気を変えた。大ヒット中のHi De Ho Man(That’s Me)だ。
渋谷から青山通りに抜けてしばらく走った辺りで雪枝は尋ねた。
「ナミさん、あなた、姐さんには黙って出て来たの?」
姐さんとはもちろん竹田久子のことだ。雪枝はナミがなぜ静岡の久子のところから飛び出して来たのか理由が知りたかった。
「私、書置きをしてきました。久子姐さんと…それと…タカさんにも。いえ、別に揉め事を起こしたわけじゃないんです。私の我儘です。」
多分、今頃その書置きを見て騒ぎになっているかも知れなかった。雪枝はナミを助けたことで久子やタカなどとの関係がギクシャクするのは避けたかったのだ。
「じゃあ、私の家に着いたら詳しく事情を話してね。ナミさん、ひとつ言っておくけど私に絶対に嘘はつかないで」
家に着くと雪枝は予備の布団を居間に敷いた。一人暮らしなのでここには客間はないのだ。
時間はもう夜中の12時近かった。
「ナミさん、今日はもう遅いからゆっくり寝て、明日の朝話を聞かせてちょうだい。あっ、その前にシャワーでも浴びる?」
「はい、雪枝さん、ありがとうございます」
ナミがシャワーを浴びている間に雪枝はナミのために着替えを用意した。ナミは雪枝よりひと回り小柄だったが、パジャマだから少しゆったりしていても問題ないだろう。
その時、電話が鳴った。
(ああ!多分、静岡からだわ。久子姐さんか…それともタカさんか)
雪枝は取りあえず電話に出ることにして受話器を取った。
「ユキちゃん?ナミがそっちに行ってるしょ?」
やはり久子だった。
「久子姐さん、今さっき迎えに行って帰って来たところなの。今、シャワーを浴びているわ」
できればナミを電話に出したくはなかった。
「ナミが元気ならいいのよ。随分思い詰めていたみたいだから。でね、ユキちゃん、あなたに頼みがあるの。しばらくナミの面倒を見てやって欲しいのよ。私は心配なの。また前みたいに変な男にだまされたりしたら大変だから。まだ19だからね、子供なのよ。だからしばらく置いてやって。でね、その分、お金を送るから…お願い」
雪枝もある程度覚悟していたが、しばらく面倒を見ることになるとは…意外な展開だった。しかもナミがまだ19だと聞いて少々驚いた。せいぜい3,4歳年下だと思っていたのだが8つも下だったのだ。苦労したせいで大人びてしまったのだろう。
「わかったわ。姐さん、私が責任を持って面倒を見ます。ところで、タカさんは?」
タカがナミにぞっこんだったのは間違いないだけに、ナミを追って東京に来るのではないかと気になった。
「大丈夫!私がタカにはしっかり言ってあるから。『みっともないマネすんな』ってね」
それなら安心だ。痴話喧嘩に巻き込まれるのはまっぴらだった。
「じゃあ、姐さん、何かあったらまた報告しますから、取りあえずご安心ください」
「本当に良かったよ。ユキちゃんのところに行ってくれて。東京で若い娘がウロウロしたらどんなことになるか、心配で寝られやしない」
久子は上機嫌で電話を切った。なぜだか全く怒っていない。それに「ナミが思い詰めていた」とも言っていた。一体何があったのだろう。ナミから事情を聞かせてもらわねばならない。
翌朝、雪枝が7時に起きると、キッチンから物音がしていた。見に行くとナミが雑巾で床を拭いていた。
「あら、ナミさん、そんなことしなくていいのに」
「いいえ、泊めていただいたお礼です」
「あのね、ナミさん、あなたしばらくここにいてちょうだい。実は昨晩、姐さんから電話があってあなたをよろしく頼むって言われたのよ。だから、私も責任を持って預かるって約束したの」
ナミはそれを聞くと少々戸惑った様子で手に持った雑巾を握り締めていたが、やがて意を決したのか、床の上に両手をついてこう言った。
「雪枝さん、それではお言葉に甘えてそうさせていただきます」
「良かった。私も時々一人でさびしい時があるから、あなたがいてくれると助かるわ」
そして、二人でトーストとミルクティーの朝食を食べながらしばらく話をした。
ナミが静岡を抜け出したのは、何か大きな問題があったわけではなく、ナミの言葉を借りれば「このままずっとこの田舎で一生を終えたくない」という若い娘らしい気持ちからだった。つまり、久子の世話になっている限り、そこから抜け出せない…それが窮屈になったのだろう。
そしてナミは自分の夢を語った。
「私、洋裁を勉強してデザイナーになりたいんです。だから、東京で働きながら学費を稼いで勉強して、そしてできればパリに留学したい」
雪枝は19歳のナミがそんな壮大な夢を描いていることに驚くとともに、何とか力になってあげたいと心から思った。一人っ子だった雪枝は何だかかわいい妹ができたような気がして嬉しかった。

その週の水曜日の午後、雪枝はナミを連れて日比谷のレストラン「喜望峰」に向かった。あれから雪枝はナミの就職先について色々と考えた挙句、喜望峰のチーフである前田に相談したのだった。するとホールのスタッフが足りないのでちょうど良いという事で、さっそくナミを会わせることになったのだ。ナミは居酒屋に勤めたこともあり客商売には慣れていたのでちょうど良かった。
ナミが来てから2日間、雪枝は毎晩ナミの身の上話を聞いた。ナミの本名は安岡波江と言い、千葉の軍人の家に生まれた。ナミの下には弟と妹が一人ずついた。ナミの父は陸軍少佐であったが1941年、太平洋戦争が始まると第14方面軍の大隊長としてフィリピン攻略に加わった。ナミが13歳の時だった。ナミは病弱だった母を助け幼い弟や妹の世話をしながら女学校に通い、戦争が激しさを増すと船橋にあった鉄工所に狩り出され、朝から晩まで軍需物資の仕分けなどの要員として奴隷のように働かされた。そして戦争が終わった時ナミは16歳になっていたが、母がその年の12月に結核で病死したので、弟と妹を叔母の家に預け職を求めて一人で東京に出たのだった。しかし、仕事は簡単には見つからず、上野で露店商の手伝いなどをしている内に地回りのヤクザに声をかけられ、熱海の旅館で働くことになったのだ。しかし、そこは旅館とは名ばかりで実態は売春宿だった。当時の熱海には米軍将校向けのRAA旅館である風喜荘と言うのがあったが、ナミが働いていたのは一般向けの玉乃井別館の方だった。
RAAとはRecreation and Amusement Associationの略で直訳すれば「余暇・娯楽協会」となるが、日本語では「特殊慰安施設協会」と呼ばれた。この組織は終戦直後1945年8月26日に設立されたが、翌年3月26日にGHQの通達により(オフ・リミッツ令)により廃止され、結果的に多くの慰安婦が解雇され街に溢れた。これが「パンパン」と呼ばれる売春婦たちである。

「私、本当は『オンリーさん』になりたかったんです。そうすれば毎日おいしいものが食べられるしPXで買い物して妹や弟にも色々送ってやれるし…」
「オンリーさん」とは特定の米兵の愛人になることである。
「ナミちゃん、若いのに本当に苦労しているのね。でもね、私、アメリカさんたちについては色々知っているけど、みんながみんないい人とは限らないわよ。まあ、将校連中はかなりマシだけど、兵隊のなかにはケダモノ以下の奴もかなりいるからね。集団で無理やり犯したり、先月なんかお堀に投げ込まれて溺れ死んだ女の人もいたのよ」
「まあ、ひどい!」
ナミは思わず絶句した。
雪枝は自分には考えられないほど過酷な運命に翻弄されてきたナミを見ると、何とか彼女の夢を叶えてやりたい気持ちでいっぱいになるのだった。
面談は大成功で、レストラン喜望峰のチーフもマネージャーもナミのことを大変気に入り、すぐにでも来て欲しいと言われたので、ナミはその週の金曜日の朝から働くことになった。面接が終わったナミの表情は輝いていた。
「雪枝さん、ありがとうございます。就職までお世話していただいて…」
ナミは丁寧に頭を下げた。
「ナミさん、ちょっとお茶でも飲んで行きましょうよ」
雪枝はもう少し二人で嬉しい気分を味わいたかったのでナミをお茶に誘った。
「いいのよ。私にできることがあったら何でもするわ。かわいい妹分の為ですもの」
「妹…妹分」
ナミはその言葉がうれしかったのか、雪枝の手を取って言った。
「ええ!私、お姉さんができたの?雪枝さんがお姉さんなの?」
「そうよ。だから何でも相談して。嘘は絶対にナシよ」
「はい、わかりました」
二人は、有楽町の「純喫茶ラ・セーヌ」に入った。
「ナミちゃんはコーヒー?」
「ええ。わあ、銀座はコーヒー高いんですね。15円もするんだ」
ナミはメニューを見ると驚いた声を上げた。
「そうね。この辺は何でも高いわね。まあ高級っていうことかしら。よかったらケーキもどうぞ。ここのエクレアはおいしいのよ」
コーヒーを飲みながら雪枝は煙草を取り出してナミに勧めようとしてふと気づいた。
(ああ、彼女、まだ未成年だったわね。私も止めておこう)
ナミはエクレアを夢中で頬張っている。
(かわいい…まだ子供なのね)
雪枝は目を細めてナミを見ていた。


9、「帰国」


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