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本牧ブルース
8、「ナミ」

第三章

9、「帰国」

41)「帰国」1947年10月27日(月)

ヘンリーは朝一番で上司のケーディス大佐の執務室に呼ばれていた。理由?大体の見当はついている。「赤狩り」の件だろう。
GHQ内の「赤狩り急先鋒」であるウィロビー准将が昨年、マッカーサー元帥に「総司令部への左翼主義者の浸透状況」と題したリポートを提出したのはヘンリーも知っていた。その後もこの種のリポートは何度か出されているようだったが、これまでその内容が公になることはなかった。それも当然だろう。このような文書が外に漏れれば、それは「GHQ内部のスキャンダル」として新聞・雑誌に書き立てられるだろうし、何よりもまずいのは「仮想敵国であるソ連」に弱みを見せることになりかねないという事だ。これについてはさすがのウィロビーも充分理解していると見え、情報を外部にリークするようなことは絶対にしなかった。
ヘンリーがやや緊張した面持ちでケーディス大佐の部屋のドアをノックすると、意外に上機嫌な声が聞こえて来た。
「やあ、少佐、入りたまえ」
ケーディスは書類を手に、にこやかな顔で座っていた。
「少佐、何か飲むかね?コーヒーでも?」
「いや、どうぞお構いなく」
「マーゴ、コーヒーを二つ頼む」
ケーディスは秘書の女性にコーヒーを頼むと、ヘンリーに向き合い、暫しの沈黙の後、話し始めた。
「ヘンリー、君の任期はあと半年あるが、どうだろう、家族の側で過ごしたくはないかね?」
「え…と申しますと?」
意外な話だった。転勤の話か?どういう事情だろう。
「うん、実はブランズウィックの基地でフランス語のできる人材を探していてね、君を思い出したんだよ。家族は確か…」
ブランズウィックはアメリカ東海岸メイン州にありヘンリーの実家のあるポートランドとも遠くない。
「はい、家族はポートランドにおります」
「子供たちも大きくなって来ただろう?」
「はい、3歳と5歳です」
「だったら、ダディがもっと近くにいてあげた方が良くないか?」
「はい、それはそうですが…」
ヘンリーが思い描いていた未来は「日本で任期を全うし除隊したら家業のレストランを継ぐ」という計画だった。確かに子供たちの側にいたい気持ちもあったが、それは半年先でもかまわない。
「ですが?何だね?何か問題でも?」
「いえ、急なお話なので、少々戸惑っただけです」
「もちろん、断ることもできる。だが…」
秘書のマーゴがコーヒーを運んで来た。明るい金髪のショートヘアー。輝くような笑顔に白い歯が印象的だった。
「少佐、どうぞ。お代りも遠慮なく」
ケーディスとヘンリーはコーヒーをひと口啜ると話に戻った。
「少佐、このリストにはまだ君の名はない。だが、ここに名前が出る前にこの国から出ることを強くお勧めするよ」
ケーディスの手には例の「赤狩りの対象者のリスト」があった。
「では、帰国の時期はいつ頃と考えればよろしいですか?」
「そうだな。早ければ早いほど良いのだが、引継ぎなどもあるだろうから、あと半月後、11月15日近辺ではどうかね?」
「はい、部屋に戻って少し考えさせてください」
ヘンリーはあまりの急な展開に考えがまとまらなかった。
「少佐、君の為に推薦状を用意しておこう。当然、先方も君の経歴を調べるだろう。その時、このリストに名前が載っていると、あるいは断られる場合もありえる。しかし、今なら、全く問題はない。ヨーロッパ、そして日本と重要な地域でキャリアを積んだ有能な将校として迎えられるだろう。その方が家族も喜んでくれるのでは?」
ケーディスの言う事は尤もだった。赤狩りのリストに載るという事はキャリアに傷がつくということなのだ。
「わかりました。引継ぎの手順などもありますので、改めてお返事させていただきます」
「少佐、家族を大切にな」
ケーディス大佐の言葉には思いやりが感じられた。この一年半の日本での生活。そして雪枝との甘い思い出の数々。しかし、それを残し、家族のもとに帰る日が来たのだ。それも思わぬ形で。「赤狩り」などという抗えない流れに自分の運命が翻弄されようとは。
しかし、流れに翻弄されているのはヘンリーに限った話ではなかった。先月、ハリウッドの監督や脚本家達に対してHUAC(非米活動委員会)から召喚状が送られた件は全米のみならず世界に衝撃を与えていたし、恐らくこれは今後始まる赤狩りの嵐の序曲に過ぎないとの予感はヘンリーのみならず多くの人たちが感じているものだった。
自分のオフィスに戻るとヘンリーはしばらく呆然としていた。
「このことを雪枝にどう伝えようか」
プライドの強い彼女のことだからヘンリーにすがって泣くようなことはないだろう。むしろ「今ここでキッパリ別れて欲しい」と言うかもしれない。
「未練たらしいのは自分の方かも知れないな…」
ヘンリーは思わず苦笑いをした。
「少佐、失礼します。会議のお時間です」
秘書の声でヘンリーは我に返った。

雪枝は先週から忙しい日々を送っていた。新しいメンバーが二人、部署に配置され雪枝が教育係に任命されたのだ。二人とも日本人女性で一人は32歳のタイピスト。米軍基地に一年ほど勤務していたとのことだった。タイプの腕は確かだったが気の強そうな性格で、雪枝はいつかぶつかりそうな予感がした。もう一人は25歳で、こちらはタイプの腕はまずまずだったが、素直そうな性格で、雪枝はこの娘とならうまくやっていけそうな気がしていた。
昨日の夜、ヘンリーから電話で週末に会うことになったが、なぜか心が弾まなかった。ヘンリーの声の調子からすると何かイヤな予感がするのだ。しかし、今は仕事が忙しいことが却って救いだった。不安な事を考えないで済む。

あっという間に金曜日になった。夜7時、久しぶりに霞町の中華料理店「上海酒家」でヘンリーと待ち合わせた。この辺りは米軍関連の施設もあり軍関係者の行きつけのバーやレストランがポツポツとできていた。上海酒家の入り口には店主の飼っている日本猿がいて、客や通行人に愛想を振りまいている。雪枝は子供の時噛まれたことがあるので、猿はそれほど好きではなかったが、ここの猿は良く懐いていて可愛かった。雪枝が猿を見ていると後ろから肩を掴まれた。ヘンリーだった。
「ユキ、君は猿が嫌いじゃなかったっけ?」
「うん。でもここのは特別よ。良く躾けてあるから可愛いわ」
猿は誰かにもらったパンを齧りながら首を傾げ雪枝を見ている。まるで小さな子供の様な視線だった。
「さあ、中で食事をしようか」
ヘンリーと幸枝はドアを開けて店内に入った。
席は予約してあったので奥のボックス席が用意されていた。ビールと冷菜のつまみを何品か頼むと雪枝とヘンリーはお互いを見つめ合い、一瞬探り合うような雰囲気になった。
「ユキ、今日は大事な話があるんだ」
ヘンリーが切り出すと雪枝は応えた。
「知ってるわ。帰国が早まったんでしょ?」
「え?どこでそれを?」
「大佐よ。ケーディス大佐。私と大佐の間にはホットラインがあるの。月曜日の夜に電話があったのよ」
月曜日と言えばヘンリーが大佐に呼び出された日だ。何ということだろう。大佐のお節介にヘンリーは少々憮然とした表情になった。
「ヘンリー、怒らないでね。大佐は私がショックを受けないように気を使ってくれたんだから。でも私は大丈夫だけど」
ヘンリーが予想した通り雪枝は冷静だった。肝が座っているというか…いや、おそらく「みっともないマネはしたくない」と言うプライドなのだろう。
ビールが運ばれてきたので、二人は乾杯した。
「新たな人生を祝って」
新たな人生?雪枝はヘンリーのいない生活を一瞬想像し、涙がこぼれそうになるのを堪えた。
「あと二週間ぐらいでしょう?ねえ、最後の想い出に旅行に行きましょうよ。一泊でもいいから」
雪枝の提案にヘンリーも頷いた。
「どこがいい?」
「そうね。軽井沢はもう寒いから熱海とかどこか暖かいところがいいわ」
「熱海か。一度友人たちと行ったが温泉が気持ち良かったなあ。熱海はいいね」
ヘンリーは帰国を切り出すことで気が重かったのだが、ケーディス大佐の機転でそのプレッシャーから解放され、上機嫌だった。
そして雪枝と過ごす残された時間を心から大切に楽しみたいと改めて思うのだった。
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