月別アーカイブ: 2017年12月

謹賀新年 第3回・東軍慰霊祭ー2

謹 賀 新 年

謹んで新年のお喜びを申しあげます。
私は新人物往来社の元編集者&社長として歴史関連書籍を千冊以上世に出して参りました。それによって、勝者が敗者を裁き、旧令を廃し新たな秩序をつくる政略的経緯や矛盾も熟知しています。
その反動として、政治的策略とは無縁な立場で、義と仁のために激しく燃えて散った若者たちの純粋で熱い姿にエールを送るに至っています。
時は移り、昭和、平成の世も過ぎ、あと1年余で新たな年号の新時代が訪れます。北朝鮮のミサイル開発に伴う国際紛争への危機感が高まる中、我が国の安全と繁栄を盤石にする道はあるのか? 歴史は繰り返す、という言葉もありますが、異国の列強が日本への支配力を強めるべく迫った幕末にも、海軍や陸軍を創設し、太平洋横断を試み、国の総力を挙げて各国の文化文明に学び、国を分けての内乱後も一致団結して国難を克復した勤勉で強靭な国民性を省みれば、日本を脅かす現在の国際的逆境も乗り切れないはずはありません。これからも歴史に親しみ歴史に学び、それを現代に生かすことこそを祈念して新年の挨拶とさせて頂きます。
平成30年元旦
大出 俊幸

大出俊幸講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
http://tomonokai.bakufu.org/

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東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第三回 東軍慰霊祭-2

稲川氏は最近、『長岡城奪還』なる労作を上梓された、なかなかのサムライだが、顔に似ず?酒、煙草全然ダメ。ウ一口ン茶で私の相手をして下さり、私は生ビールで申し訳なし……。
実は、稲川氏は、昔はアンチ河井継之助派だったという。数年前、大出氏が安藤英男先生と『継之助写真集』などの企画で、長岡を訪れたときは、木で鼻をくくる冷たい態度だったと言う。
事実、長岡を戦火に巻込んだという理由で、継之助嫌いほ多かった。が、その後、観光町起しや、司馬遼太郎の『峠』の影響で、継之助ほ
徐々に復権した。そして稲川氏も今や、継之助様々である。これと同じ事が、連合艦隊司令長官・山本五十六にも起こつている。(やはり、
五十六も終戦間近の長岡空襲で市民に恨まれたが、今や、立派な記念館が出来ている)
ここで回想の糸が切れた。検札で車掌に起こされた。「ナンデ、2時間足らずの車内で、検札するのか」と寝起きのワルイ私ほカランデやった。車掌、ケロリとした顔で、「これは規則ですから、ところでこの絵葉書は如何ですか。期間限定の特別製です」。
9時27分、長岡駅着。すぐ信越線に乗換え、9時42分、小千谷着。改札に駅長がヒマそうに立っていた。「慈眼寺まで歩いてどれぐらい?」。
駅長「ジグンジ? さあ知りません。何町でっか、それは」。
日頃は温厚で通っている私だが? これには少し立腹した。
「オ、、、しやん、小千谷の駅長なら、もっと勉強せなあかんでや」と、河井継之助の口まねをして、目を白黒させてる駅長を後に駅を出た。
この話はどうでもイイが、駅前からタクシーに乗り、朝日山へ向う。浦柄川を渡り、急な登りに入る。中型タクシーがヤットの細い道だが、半分ぐらいは舗装されている。頂上にはトイレ付展望台も完成し、立派な小公園になっている。
「朝日山古戦場」の碑あり。会津の松平恒雄の揮毫である。さすがは長岡戦争の天王山、頂上よりの視界は絶景である。思わず快哉を叫び、
去年のように、何か歌おうと思ったが、適当なメロディが浮ばない。
眼下にはゆるやかに蛇行する信濃川、が、水量は少ない。対岸の三仏生から先ほど登ってきた榎峠、妙見まで手に取るように見える。仕方
がないので、「水の流れに花びらをそっと浮かべて泣いたひとー
と、五木ひろしの「千曲川」を歌ってみる。が、どうもしっくりこない。

 

 

 

 

に縁のん気念

 

はいまも生きているのか? いまや経済力と軍事力共に大国になって日本を脅かす存在となった中国、いつでも日本に牙を剝く可能性のあるロシヤ、太平洋戦争で日本を完膚なきまでに叩き潰して進駐占領、いまや同盟国として日本を支配下におくアメリカ・・・いま、日本を取り巻く国際的環境はかなり厳しく、このままでは独立国としての日本は単独では生き抜けません。、。。のかの脅威は、やてにも崩れなかったからも立ち直ったにも崩れなかった必死で二本を幕末の外国。今こそ日本人としての誇りを取り戻し、若者に期待するだけではなく我々昭和10~20年世代が精神的㎡支柱となって、日本国および国民のために

 

 

の我哀れの再構築のためにも歴史は発展

 

ずを否応なしに嫌と言うほど生み出して捌くが、まだまだ歴史上の事物や人物に謎は尽きません。しかも、生存のために戦うという人間の生物としての本能が、義や仁のために戦った個人や地域から国益と言うい家や民族の存亡を賭けての欲得の争いに

 


第三回 東軍慰霊祭-1

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東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第三回 東軍慰霊祭-1

平成6年10月8日(土)
小千谷・慈眼寺
祭主‥小島慶三 実行委員長‥船岡芳秀
講演‥石原和昌 事務局‥大出俊幸)

第一日 10月8日(土)晴
上野発7時50分「あさひ」507号で出発。
休日で行楽シーズン、車内はほぼ満席。生活に疲れた中年男は、すぐ居眠りにおそわれ、夢こどちで回想する。
それは今年の「歳三忌」の四次会の席上だった。人使いの上手な大出さんより、「次の慰霊祭は長岡・小千谷です。雷神隊の子
孫として、郡サンに案内役をお願いします。但し、やるからには、去年の山本博司先生に負けずに勉強して下さい」      ゝ
と、半ば要請、半ば命令である。
このような場合、大出氏は辣腕の新人物往来社編集局長に変貌し、秋霜烈日、反論は全く許されない。(知ってる人は知っている。後でこ
の話を聞いた菊地明氏、ウン、ウンと大いにうなずく)
私は元々、頼まれるとイヤといえない性質である。これは、幕末京都所司代を引き受け火中の栗を拾った、桑名藩伝統の悲しいサガなのか。
悩んでいる内にニケ月過ぎ、七月末、森清書子先生の出版記念会であった大出氏、開口一番、「長岡ツアーのガイドブック、早く作成して下さい」矢は弦を放たれた。
そして、今年の夏の盆休み、記録的猛暑の白昼、猫の子一匹通らぬ、埃っぼい長岡の裏通りを、汗水たらしてさすらう中年男がいた。何故
か、突然、西部劇「真昼の決闘」を想い出した。
が、ゲイリー・クーパーの保安官のように格好よくはない。
栄涼寺(地元では、何度聞いてもイーリョーズ)から長興寺を回って駅前へ。市役所市史編纂室の稲川明雄氏と会い、ツアーの打合せをす
る。同氏日く、「よく慈眼寺で、できますね。重要文化財だし、本堂の床が抜けるとかで、今まで殆ど断っていますよ」、ここでも、大出氏の凄腕に感心する。


第二回 東軍慰霊祭ー7

 

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東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第二回 東軍慰霊祭ー7

森町の「霊鷲院」で昼食。歳三初め脱走軍上陸の地、鷲ノ木浜で全員記念撮影。榎本氏とも写真に収まる。
晩秋の蝦夷の浜辺は妙にうら淋しい。あの時は大雪で、歳三は震え上がっただろうが、桑名の石井勇次郎、関川代次郎などは、越後暮らし
が長かったから、あまり驚かなかったのではとも思う。
駒ヶ岳の山頂が、昔の写真とは少し違う気がする。やはり、最近一部崩落したとのこと。榎本軍が上陸したころは、ブリユーネの絵の如く
もっと鋭峰だったのではなどと考えつつバスに戻る。帰途ほ森町~峠下~七飯~函館駅のコース。
車内では大出氏の司会で参加者全員の挨拶。
榎本氏が来年もぜひ参加したい、と述べられたが、二日間の短い日程とはいえ、一期一会、初対面の人もすぐ打解けた楽しいツアーで、名残は尽きない。
車内で函館の感想を尋ねられた私は「老後は、ここでノンビリ海を眺めながら暮らしたい」。
すかさず、後席の島津先生、「ついでに、お骨も碧血碑に埋めて貰いなさい」(上品な物腰の島津先生だが、言うことは結構、キッイ)
駅前で再会を約して解散。また大出、釣氏ら
と反省会で一杯。時間があったので摩周丸へ寄る。夕暮れの函館湾が美しく、柄にもなく少し感傷的になる。
「赤い夕日よ燃え落ちて 海を流れて何処へ行く……
と小林旭の歌まねしていたら、「今度はギター抱えてくるとイイヨ」と鬼釣先生。函館に逗留する釣氏と別れ、空港に引返し、土産袋を手にした観光客で満席のJAL最終便で、大出氏と帰途につく。やれやれ……。


第二回 東軍慰霊祭ー6

東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第二回 東軍慰霊祭ー6

第三日 10月17日(日)雨のち晴

激戦地ツアー

朝、突然の激しい雨音で目がさめる。時計を見ると6時半。
「歳三の涙雨です……」釣サンのボヤキを聞きながら、身支度して食堂へ。すでに山本氏は食事中。ナント早いと思ったら、実は、昨夜あの
ままの格好で寝てしまったとか。(さすがは元自衛隊、やることが素早い)
出かける頃には雨も殆ど止む。振り返れば函館山に雲有り、我に天佑あり。8時前に駅前に、すでに大出氏、高橋悦子がおり、「誠」の旗が翻る。北海道新聞に、すでに慰霊祭の記事あり。
点呼をとり、総勢30名弱、元気にバスに乗車し出発。
本日のガイドは、市内は釣、市外は山本博司の両氏。鬼釣先生はすでに迎え酒で上機嫌。
大出氏の第一声、「本日、初参加の方もあり、碧血碑も回ります」車内騒然、特に昨夜わざわざ行ったギャルたちは、ダハンコク(エゾの方言、無理を言って泣く) こと。
バスは碧血碑~歳三碑~一路、大野の光明寺へ。ここは矢不来で戦死した永井蝮伸斎の墓と、官軍の合葬墓がある。ここも日当たりのよい場所が官軍である。
再びバスに乗り、全山紅葉真っ盛りの国道227号を中山峠二股へ。車内で熊がでるから注意、単身行動不可の達しが有り。今年は山も不作でグリズリーが出没するとのこと。バスを降り、官軍の碧血碑から少し戻る。
ここで大野町教委関係、地元有志20数人、佐藤先生引率の大野農校歴研グループ10数人が合流し、俄然、賑やかになる。官軍墓と薩藩卒某業
の墓が有り、長靴姿で付近の熊笹を刈っている地元の方がいる。営林署の人かと、よく見れば、昨日ユニークな話をした小井田氏なり。
早朝の雨と大勢に踏まれて、泥んこになった山道を、足を滑らしつつ二股の峠へ登る。どこがイナズマ型陣地か、イヤ旧陸軍の演習跡かな、と勝手な想像を巡らしていたら、おいてけぼりを食う。
ハッチヤキこいて駆け下りると、突然、熊笹がガサ!、出た熊だ!。
視線があったら熊がニヤリ。よく見たら、一人でキジを撃っていた、ツアーの関西系某男性会員。帰途、案内板をみたら「二股古戦場」と
あり、ど丁寧に甲胃姿が書いてあった。
バスは国道5号へ戻り、大沼、小沼、湖畔を走る。初めて見る駒ヶ岳が、絵のように美しい。

 


第二回 東軍慰霊祭ー5

東軍慰霊祭の想い出

郡 義武

第二回 東軍慰霊祭ー5

去年の慰霊祭でヒンシュクをかった山本英市氏は、今回自粛され、借りてきた猫のごとし。(実は、大出氏の密命により、私が、「本日は何卒穏便に」とけん制したのが功を奏す)が、代わりはいるもので、かわりに大声を発したのは、神山茂郎氏(茂の息)。幼時より畑の柿ひとつとらずに、会津武士の伝統を守ったと力説。
さらに元気良かったのが、南部の爺サマ杉原亨三氏(盛岡藩家老子孫)。当年88才。今回出席者の最高齢。古武士然とした方で、入歯の具合が悪いのか、大声で発声のたびツバキが飛ぶ。
「桑名藩も先が読めないが、盛岡藩はもっとヒドイ。ガハハハ……」そのたびに、バッパパ。
その間、20分、私の手を堅く握りつばなしで、もがいても脱出できないのだ。最後にお流れ頂戴して別れたが、その昔、関ケ原前夜、大谷
継の鼻汁が落ちた大杯を黙って飲干した、石田三成の心境もかくやと思われた。
三次会は民宿「ひじかた」へ集合。大出俊幸、長谷川つとむ、釣洋一、山本博司、山本英市、島津隆子、安田則子(島津女史友人、旅行家)、森田ゆき(島津女史友人、画家)、広瀬るみ(札幌、クリニック院長)、の諸氏でまたまた大いに盛上がる。夜9時過、福岡からの永富治美、日立の清水理恵、ら若い女性も到着。手にライトを持ってる人もいる。聞けば、暗夜の「碧血碑」訪問をしてきたという。思い込んだら、命がけ……。
次々と話題はつきず。歴史、旅行、食べ物、森田女史と映画の話(これがまた、「商船テナシテー」(34)「望郷」(36)など、古いのばかりだ)まで、お姉様方相手に盛り上がる。特に安田サンは、小柄だが、女だてらに単身、ガダルカナル島に暮らしたことがあるという、世の中怖いものなしの古狸だ。
11時、この宿は満員御礼とのことで、釣、山本(博)、私の3名は近くの旅館「喜多美」へ移ることにする。(「ひじかた」宿泊は大出氏以外全員女性とのこと、ダイジョウブか?)

旅館でまた飲直しながら、明日の予定などを打ち合わせ。山本氏より、箱舘新選組に入隊した桑名藩士石井勇次郎の「戊辰戦争見聞略記」
の評価を聞き、発見者としては嬉しくなる。いつのまにか酔いつぶれて寝る。