月別アーカイブ: 2019年2月

会津人・藤田五郎もう一枚の写真-3

 大出俊幸講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

 新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
http://tomonokai.bakufu.org/
今回は平成二十年四月・二一五号からの掲載です。

故・赤間倭子先生を偲び
会津人・藤田五郎もう一枚の写真-3

伊藤 哲也

藤田五郎の写真

 斎藤一こと藤田五郎の写真であるが、西南戦争凱旋時のものが有名だ。反面、晩年における藤田五郎の写真のことを知っている人は、多いとは言えない。藤田家集合写真が実質的に何故、何処で、何のために撮影されたのかと、いろいろ不思議に思われる方々は多いことであろう。そのことも紹介していく。そして、撮影された場所が、現在はどのようになっているかも書き記していくこととする。また、ここで注意書きさせていただく次第。著名な人物、歌手、俳優等と異なり、写真の著作権自体が撮影者の死とともになくなっておりました。写真の複写を譲渡されたことから、私自身には掲載する権限が譲渡されたと同じことなのだともいう。藤田五郎の次男直系から私宛に写真とともに送ってこられた文章を抜粋すると、「藤田剛の結婚式の写真のコピーですが、送付させて下さい。大出様にも同様のもの(以前に赤間先生へと、大出様にお願いしたものです)」という依頼状をいただいている。
藤田五郎こと斎藤一の京都時代、戊辰戦争時代の写真は見つかっていない。箱館戦争終結後であるが、中島登の『戦友絵姿』に山口次郎(斎藤一)が描かれている。その時の常について、装帳家の平野太一氏は「私は、中島登の『戦友絵姿』を見ると、はっきりしないですが、なんだか頭の真ん中に月代があるように見えるので、江戸では「講武所風」などと呼ばれていた、細い髷だったのではないか」と述べられている。
赤間先生が見つけられた西南戟争凱旋時の顔の骨格、体型など皆さん、御存知のとおりである。藤田五郎の写真を発表された時、見つけられた時の赤間先生の喜びは、文字では表現できないほどであった。
藤田一族の写真の説明に入る前に、藤田五郎の壬申戸籍や斗南移住から息子達のことまで少し紹介させていただく。壬申戸籍に藤田五郎は、斗南藩士と記されているが、法的に現物の写しを公開できないのは残念である限り。藤田五郎の長男直系子孫の代理で、私が閲覧してきて撮影した戸籍は依頼者に渡して、ネガは壬申戸籍を管理しているところへ返却した。この時は、個人情報保護法が施行される前である。藤田五郎は会津藩士ではないが、新選組解体後は会津藩朱雀隊に加わり、転戦し、高田で謹慎後は斗南の五戸に移住して、斗南藩士となり、松平容保の実子・容大に仕えて、後には会津会に入り、いろいろと旧藩や戦士者たちへ助力をしていることから、会津人と表現しても良いのではなかろうか。

 


会津人・藤田五郎もう一枚の写真-2

 大出俊幸講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

 新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
http://tomonokai.bakufu.org/
今回は平成二十年四月・二一五号からの掲載です。

故・赤間倭子先生を偲び
会津人・藤田五郎もう一枚の写真-2

伊藤 哲也

故・赤間先生と斎藤一

 赤間先生は、いろいろと執筆をされてきて、著名ではあったが、そのなかでも『斎藤一の謎』は世間一般に広まったと述べても過言ではあるまい。斎藤一こと藤田五郎の写真を見つけられて掲載されたことも人々が惹き付けられた理由の一つではなかろうか。出版により斎藤一こと藤田五郎のことを調べられた最新資料を集めて、今も誰しもが追い抜くことなどはできない貴重な書籍となったのである。だが、研究本となると、誰かが後に、より詳しいことや新たな新史実を述べていく。後半は斗南へ移住した一瀬伝八改め藤田五郎のことが主体であった。実は、赤間先生と私が手紙でいろいろやり取りしたことごとを書き改めておられていたことには、後に読んだときに驚いたのでありますが、それと比較すると、一作目の『新選組副長助勤斎藤一』は小説であり、文章も読みやすい。史実が出てきたとしても、真偽の程は別なのである。両方の書籍は、別の意味合いで貴重なものであろう。赤間先生は、とにかく世に残る貴重な書籍を書き残されたが、他の斎藤一以外の単行本も読み応えはある。皆様も本棚から取り出して、改めてお読みになられるとよいものではなかろうか。
私が初めて、赤間先生が入院されたということを聞かされた時は、驚きました。急ぎ東京都日野市の病院へお見舞いに上がったのですが、土方歳三資料館の土方様がいろいろと赤間先生の面倒をみておられた他、伊東成郎氏が『土方歳三の日記』を持ってお見舞いに上がられたことも伺いました。
清水りえ氏も何度もお見舞いにあがられておられている。その後、第三者より、「女性の場合、長期入院生活しているところを男性に見られるのは恥を噸すようなものだから」と言われて、少し納得し、お見舞いも控えめにしたこともありました。そのうちに、赤間先生は、東京都日野市の病院から他市の病院へ転院される。お見舞いに行く度に部屋が移られていく。そして、赤間倭子先生の旦那様は、というと、藤田家からいただいた藤田五郎の羽織を召しになったことも本に書かれており、皆様も御存知のことであろうが、旦那様が他界されて、その病室へ移られてきたこともあった。私と赤間先生の最後の面会となる病室が相部屋に代わられており、重くて単行本でも持てないというので、寄贈本とは別に書籍のコピーをお渡しした。だが、眼鏡が近くになく、視力の問題で読めない。私が涙声で低音ながら読んで聞いていただくことになるのだが。そして、私が後に述べる藤田五郎のもう一枚の写真も見ていただくが、ボヤケテシマッテ見えなかったのだろう。赤間先生の涙が止まらなかった。そのようにして、藤田家の藤田夏子氏に藤田五郎の壬申戸籍を渡す前にも見ていただいている。壬申戸籍の写真は、子孫に渡して、ネガは法務局に返すことにっており、急いで見ていただいたのだ。赤間先生が元気で、入院される前に、旧斗南藩領の青森県に行きたい旨を手紙にて何度も受け取っているし、行きたいとも言われた。元気な頃は、演劇鑑賞にも誘われて御一緒したものである。
時は流れて、長屋芳恵氏の知り合いが赤間先生との面会を病院側から拒否された旨を教えられた。どうなっているのだろう?と思い、私も面会しようとしたところ、医師自らが出てきて、個人情報保護法のことを強調されて、どこの部屋にも名前はないといわれる。前からお会いしている医師なので、いろいろ話を伺ったが、暖味な口調であった。だが、そのうちに出た結論は、親戚以外の見舞いは禁ずるということである。少し落ちついてから再び見舞いに訪れようとしていたところ、月日は流れて、赤間先生は永遠の旅立ちに赴かれたのである。


 大出俊幸講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。
 新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
http://tomonokai.bakufu.org/
今回は平成二十年四月・二一五号からの掲載です。

故・赤間倭子先生を偲び
会津人・藤田五郎もう一枚の写真-1

伊藤 哲也

故・赤間先生と斎藤一

 斎藤一のことを永年、調べてこられた赤間倭子(しずこ)先生が他界された。故・赤間先生というと斎藤一のことを思い浮かべる。斎藤一についてさまざまなものを書き残されてきているからであろう。そして、私は赤間先生が生前の元気な時に、「私が一番、力を入れているのは排句なの!」と言われて驚いたこともありました。しかし、故・赤間先生は、俳句部門で曲水新賞、水巴賞、麻賞などを受賞されているのであるから。
私自身、故・赤間先生の身体が衰えて病で床に伏せる直前に「うら切るも 知る指切りや 冬絡ませ」という句をいただいたことがあった。
赤間先生が斎藤一のことを調べようとして藤田五郎直系の子孫・藤田勉氏に依頼文を出された。すると、藤田勉氏が赤間先生の藤田家訪問前にいろいろと様子を見に来られたことも有名な話である。その後、赤間先生は藤田家と親しくなっていき、斎藤一の遺品をいただいたりされた。その後、藤田五郎の妻の実弟の子孫である高木家の方を紹介していただくなど、輪を広げてい
かれている。藤田家とともに高木家の古資料の提供も受けるなど、主婦業をこなしながら、数多くのいろいろなことを知り得ることができた。現在の斎藤一のデータは、赤間先生なくしては成り立たなかったのは、誰もがわかることである。そして、一生をかけて赤間先生は斎藤一研究に打ち込まれていく。だが、赤間先生が他界された今年(平成十九19年)は、高木家当主が他界して五年、藤田勉氏が他界されて三年、赤間先生の旦那様も数年前に他界されてしまっているのも忘れてはいけないであろう。
藤田勉氏の三回忌の供養には、ご夫人や息子の太郎氏も会津若松市の阿弥陀寺に赴いている。藤田家墓石の修繕は二度行われているが、その時のことは写真込みで、改めて書き直させていただく。
故・赤間先生は、執筆活動に対応して、現地へ見に行かれるなど、さまざまな努力をこなしてこられた。三十一人会での活動だけではおさまらなかったのであろう。また、斎藤一を慕う御心から「斎藤一の会」を立ち上げられたのだから。私はツアーとかには参加せずに、忘年会のみ参加してき。山梨ツアーの時も公的用事が入り、その次に予定されていた二本松は実現できないままに現在に至っている。


『燃えよ剣』を読む。 最終回、赤間 均

 大出俊幸講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。
 新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
http://tomonokai.bakufu.org/
今回は平成20年4月・215号からの掲載です。

『燃えよ剣』を読む

赤間 均

八 『燃えよ剣』の魅力

 司馬は『燃えよ剣』を次の文で締め括った。
「お雪は横浜で死んだ。それ以外はわからない。明治15年の青葉のころ、函館の称名寺に歳三の供養料をおさめて立ち去った小柄な婦人がある。寺憎が故人との関係をたずねると、婦人は澄みとおるような微笑をうかべた。
が、なにもいわなかった。お雪であろう。
この年の初夏は函館に日照雨が降ることが多かった。その日も、あるいはこの寺の石畳の上にあかるい雨が降っていたようにおもわれる。
お雪の幻影が石畳の上に残っている。映画のラストシーンを見るような情景描写である。絵のように浮かんだ情景を文章に置き換える、司馬らしい表現のように思われる。
小学生のころから、絵を描くのが上手だった司馬は、新聞記者時代、絵を見て感想を書くのが仕事だった時期に、絵画理論を読み、その呪縛のために、絵を自由に見られなくなったと書いている。その仕事を離れ、自分自身を拘束するものから解放されて、絵を自由に見ることができるようになり、小説を書き始めるきっかけになったという。
取材にでかけ、土地の匂いを巧みにスケッチする。そのスケッチを並べ、空の高みから、時空を超えて自由に構成する。そうした画家や絵巻物の絵師、映像作家の目で司馬は小説を書いていたような気がする。
司馬は、幕末の変動期に生まれていたら何になっていたいと思うか、という問いに、百姓になっていただろうとこたえた。百姓の一人として、街道の縁に立って、道を急ぐ壮士たちや、練り歩く大名行列を見送っていただろう。寺子屋で読み書き算盤を身につけ、村の雑貨店くらいは経営しただろうし、仕入れのために、街道をゆくことはあっただろう。行商もしただろう、ともこたえている。
司馬は、歴史家の眼で激動の時代を捉え、庶民の目の高さで『燃えよ剣』を書いた。
連載予告の後半ではこうも述べている。
「歳三は戦国時代の勇者ではなく、現代の英雄とよばれるにふさわしい。歳三のような人物は、どの職場にもいるのではないか。ただその企業目的が、殺人であるかないかのちがいだけである」と。
だから、時代の荒波に抗って、最後の一人になっても闘い、死んだ、土方への共感-敗者への共感が、やさしさとなって伝わり、読後感がどこか爽やかで明るく感じられるのだろうと思われる。
(『箱館戦争銘々伝』「土方歳三」執筆者)