洞窟に 生命(いのち)感じて温かく

手古舞伝える辰巳芸者-3

高尾 義彦
「人生八威聲」2018年10月
秋季号・第16巻より

 かつては目の肥えたお客さんも多く、自ら芸事をたしなむ旦那衆もいた。正月には獅子舞が恒例で、辻井さんもお面、太鼓、鉦の三人とともに獅子を演じる。ある年、お手玉に獅子がじゃれる場面で、「それでは猫だ、獅子になってない」と厳しく叱責された。悔しくて、一晩中、鏡台の前で何度も練習して次の機会に踊ると、「今日は、獅子になっていたぞ」と誉めてくれた。
辰巳芸者の由来は、富岡八幡宮や深川不動尊がある深川地区が江戸城の辰巳、つまり南東に位置することから生まれた。色を売る芸者とは区別して、誇り高い辰巳芸者は一流になると羽織を着てお座敷に出ることが許され、江戸時代以来、「羽織芸者」と呼ばれてきた。足袋ははかず素足で、親指と小指に、紅を塗る。羽織は「粋」の代名詞でもあつた。
丑井さんは、大卒サラリーマンの月給が一万円から一万二千円の時代に、一着一七万五千円で衣装を自前で新調した。「粋と気っぶのよさが、辰巳芸者の信条」と丑井さん。
しかし、昭和四十年代にかけて隆盛をきわめた深川の料亭文化も、バブル経済の崩壊とともに、衰退の時期を迎える。
隅田川河口の材木集積場だつた木場が埋め立てられ、昭和44年に荒川河口「新木場」が設けられると、木場の旦那衆の足も遠のき、辰巳芸者の人数も減ていった。
丑井さんは昭和58年、置屋の名前をそのままつけた料亭「君代紫」を開店、お座敷に呼ばれて踊りや三味線、鼓を披露する生活にピリオドを打つ。辰巳芸者はそのころすでに二〇人ほどに減り、料亭も四、五軒しか残っていなかった。その後10年も経たないうちに辰巳芸者は姿を消し、往時を語ることが出来るのは、丑井さん一人になつた。「一力」「幸月」などの有名料亭もいまはなく、かつての料亭街では「金柳」が昔の姿を偲ばせる。

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洞窟に 生命(いのち)感じて温かく
(2017/2/2)
 寒風の中、「ラスコー展」を国立科学博物館に見に行った。「クロマニヨン人が残した洞窟壁画」と題して、実物大の壁画(レプリカ)を展示。二万年前に制作されたと推定される壁画を少年が発見した偶然。

恵方巻 北北西は我が恵方
(2017/2/4)
佃にある我がマンションは北北西向きで、陽当たりが悪い。地下鉄月島駅に近い割には静かで、足の便はよく、終の棲家として満足しているのだが。昨夜は人形町寿堂の豆。

チョコレート  柚子の香りを包み込み
(
2017/2/7)
ヴァレンタインを前に柚子をチョコでくるんだ一品を栄美子さんに貰った。仙台の居酒屋「源氏」の女将・髙橋雛子さんの筑前琵琶発表会が東京で開かれた機会に。叶匠壽庵の説明書きに「柚子の花言葉は恋のため息」と。

春隣り ポストに託す人の縁

手古舞伝える辰巳芸者-2

高尾 義彦
「人生八威聲」2018年10月
秋季号・第16巻より
門前仲町は木場に近く、30年代は復興景気で、永代通りと大横川にはさまれた二本の路地に添って料亭が最盛期には45軒ほど並び、芸者は125人もいたという。木材業者を中心に兜町の証券会社、魚河岸などの客で辰巳芸者は引く手あまた。特に材木業者は地方から上京した荷主を料亭で接待し、話がうまく運ぶと翌日もお座敷に呼んでくれて、「何もしなくて寝っ転がつてていいよ」と玉代だけはつけてくれるということもよくあった。

夜11時頃までお座敷を務めると、ふところはご祝儀で一杯に。仲間と一緒に深川不動尊の前からタクシーで六本木などに遊びに行き、「キャンティー」や「香妃苑」で美味しいものを食べたり、芸能人に出合って胸をときめかせたりした。帰りもタクシーで、小遣いには不自由しなかったという。
その一方で、踊りや三味線の稽古は厳しく、初めてお座敷に出て一週間目で泣かされた体験を忘れない。客が小唄を歌って、それに合わせて踊るように先輩から指示されたが、艶っぽい替え歌でそれまでの座学では聞いたことがなく、「知りません」と立ちんぼしてしまい、泣いて帰ってきた。慰められるかと思ったら、「泣いて帰って来るのなら、明日から出なくていい」とたしなめられた。
丑井さんが所属する置屋は、ほかと比べて格上だったため、やっかみからいじめられることもあった。「他所の置屋だったら、何でうちの子いじめるんだ、と怒鳴りこむところだが、それを言ってくれなかった。それから人に負けないだけ踊りの数を増やそうと発奮して、人の三倍練習した。私自身負けん気が強かったので、負けるもんかとここまで頑張ってきた」と丑井さん。
「泣いて帰ってくるなら、と言った姉(従妹)を何年も恨んだ。でも、後年、『お前にひとつだけ謝つておきたいことがあ
る。厳しい稽古で、青春時代を私が潰した』と言われて、恨みは全部晴れた」 後に三本の指に入る「踊りの名手」と呼ばれるようになったのも、この体験があったから。一本立ちして十年ぐらいして、ようやく実力が認められるようになった。意地悪をされた先輩からは、「私が三味線を弾けるものを踊ってね」と一目置かれるまでにった。

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梅描く しっかり筆を握りしめ
(2017/1/27)
高校先輩の画家、今獅々貴美子さんから「梅」の小品が届いた。インキ原材料の取引先、ウメモトマテリアルの梅本隼三社長から、左手を描いた彼女の初期作品を所有、と聞き、連絡。「出会いに感無量。苦しさをこの手で乗り切ってみせると描いた作品」。

春隣り ポストに託す人の縁
(2017/1/27)
 今獅々さんの詩画集「原風景」を梅本社長に送るため、大川工業団地のポストへ。今獅々さんへの葉書も。奇跡的な偶然の仲介役。

もろみ買う 寒さゆるんで京の朝
(2017/1/28)  二八日
京都御所に近い澤井醤油本店。子供の頃、温かいご飯に乗せて食べた。ある意味では貧しい食品だけど懐かしい。高校同窓会の近畿総会で京都に泊まって大阪へ。

雪が降る シャンソン少し口ずさむ

手古舞伝える辰巳芸者

高尾 義彦
「人生八威聲」2018年10月
秋季号・第16巻より

 江戸最大の八幡宮で勧進相撲の発祥の地として知られる富岡八幡宮はこの夏、「御本社二の宮神輿渡御」で賑わった。3年に1度の本祭りは昨年だったため、五四町会の神輿が永代通りをずらりと埋める光景は見られなかったが、重さ2トン、高さ3㍍の金色の神輿が総距離15キロ㍍にわたって、「わっしよい、わっしょい」の声を響かせた。
担ぎ手に向かつて消防用のホースも動員して水を浴びせる「水かけ祭り」は本祭り同様で、8月12日の日曜日には江戸の昔の再現を楽しむことができた。
その神輿を先導するのが、手古舞の女性たち。今年は13人がそれぞれ名前を記した弓張提灯を左手に、口元を隠す扇子を右手に、木遣りの声を上げながら、見物客の関心を集めた。頭にカツラをかぶり、花笠を背に、格子模様のたっつけ袴、足元は濃紺の足袋に草履のいでたち。この手古舞は、もともと辰巳芸者の名前で知られる粋なお姐さんが担っていたが、現在では江戸時代以来の歴史と伝統を誇る「辰巳芸者」は姿を消して、手古舞は氏子の中から高校生、大学生やOLなどの希望者を募り、引き継がれている。
この手古舞を指導しているのが、置屋「君代紫」を切り盛りして「踊りの名手」と名をはせた君子姐さん=本名・丑井美代子さん(84)。お祭りを機に門前仲町で、手古舞いの由来や辰巳芸者の盛衰を聞いた。手古舞保存会の中でも、伝統と歴史を知る唯一の指導者として、祭り前後は忙しい日々だ。
丑井さんは浅草生まれで、戦災で焼け出されたため、永代橋に近い江東区佐賀町に移ってきた。中学校卒業後、従妹が経営していた縁で、門前仲町の置屋「君富久泉」で雑用などを手伝うようになり、昭和27年、18歳で半玉としてお座敷に出た。置屋「君代紫」として独立したのは昭和41年、33歳の時だった。

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雪見酒 筋肉痛をなだめつつ    一七日
(2016/01/17)
列島各地の雪景色や除雪の光景を見て、数年前の大雪でマンション周辺の雪かきに汗を流したことを思い出した。スコップなどの用意がなく十分な除雪は出来なかったが、住人たちから「ご苦労さん」と声をかけられた。

雪が降る シャンソン少し口ずさむ
(2016/01/20)
雪は降る あなたは来ない……。東京に雪がちらついた朝、アダモのシャンソンを思い出した。原詞は一部しか覚えていないけれど、いつかカラオケでこの唄を。

日脚伸ぶ 寒気はいまだ去らずとも

住専、豊島、司法改革-5

中坊公平さんの三回忌
=「人生八馨」一五年
夏季号・第三巻より

 中坊さんは「人の不幸を仕事の種にしている」と、弁護士の原罪的な側面に、目を向ける。償いの気持ちも込めて、大阪地裁に近い自分が所有するビルのワンフロアを、住民訴訟や市民団体の会議場として安い使用料で提供する「プロボノ・センター」を92年1月に開いた。本人が亡くなった後も、弁護士有志のカンパなどで継続され、中坊さんの「理念」が具体的な形で受け継がれている。
中坊さんの言葉のひとつ一つを懐かしむだけではなく、それぞれに関わってきた人たちが、中坊さんが残した理念を今の社会に生かしてほしい、と強く願う。

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命日に 裏表なく銀杏舞う
(2015/12/16)
田中角栄元首相の命日。没後21年。目白の田中邸を見に行った。「裏を見せ表を見せて散る紅葉」。最高裁の弁論で丸紅弁護団か引用した良寛さんの句。事実を見極めるには裏と表を見るべき、との主張だが。

冬の社報に デスクを送るひとことを
(2015/12/19)
初任地は静岡支局。初めて出逢ったデスク、阿部修三さんが先月亡くなり、社報に追悼文を寄稿。新聞記者の基本と酒の飲み方を教わった。退職後、巣鴨のとげ抜き地蔵近くに開店したとろろの店も懐かしい。

仲間たち 思い出笑顔忘年会
(2015/12/19)
ここ二週間、仕事絡みの忘年会の間に、個人的なつながりの忘年会が相次ぎ、今日は朝寝してゆつくり。仲間うちの忘年会はノンフィクション作家、佐野眞一さんを囲む会、書道の友野浅峰先生の三〇周年感謝の会など。

日脚伸ぶ 寒気はいまだ去らずとも
(2017・01.12)
夕方五時頃、会社を出る。まだ暗かった数日前に比べ、いまは同じ時間でも明るさが残っている。今日は帰り道、満月を見た。ちょっとした偶然に、反応し、感動できる喜び。

雑煮椀 七日過ぎても飽きもせず

住専、豊島、司法改革-4

中坊公平さんの三回忌
=「人生八馨」一五年
夏季号・第三巻より

 中坊さんと行動をともにしてきた「同志たち」の思いは、過去を振り返るだけではなかった。中坊さんが「国民に二次負担はかけない」と約束した住専の債権回収は、その過程で自身が弁護士資格返上という大きな傷を受けたものの、約束通りに終結した。
日弁連会長当時から訴え、推進してきた司法改革は、裁判員制度の実現や被疑者取り調べの可視化など着実に前進している。一方で司法試験合格者三千人を目標に掲げた司法の容量拡大という課題は、千五百人規模に逆戻りし、理想通りには運んでいない。三回忌の席では改革の意志を引き継ぐ決意が語られた。
振り返れば、中坊さんの取材は日弁連会長だつた一九九一年秋にさかのぼる。当時、中坊さんは日弁連の活動と自分が掲げる司法改革の理念をメディアに理解してもらおうと、新聞社の論説委員らと毎月一回、懇談していた。その顔ぶれの一人だつた先輩の溢澤重和論説委員(当時)から紹介されて、縁がつながつた。中坊さんが永年、司法に携わってきた生涯を総括する書物の出版を希望し、その作業の手伝いを、という指名だつた。
その頃は、司法取材の現場か一らは離れていたが、社会部のデスクワークの合間に会長室を訪ね、関係者に取材して、「強きをくじき司法改革への道」(同、九二年)が出来上がった。以来二〇年余り、森永ひ素ミルク中毒事件を契機に、弱者に寄り添う弁護士としての姿勢を貫き、国民の立場に立って喧嘩もいとわず行動してきた姿を、すぐ近くで見てきた。

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初笑い 文枝のその目笑わない
(2017,01,08)    八日
桂文枝新春特撰落語会を有楽町の朝日ホールで。「天国へのメロディー」と「抜け雀」。さすがに芸歴五〇年。存分に笑ったが、三枝時代からの「新婚さんいらっしゃい」でも、その目は笑っていない。

雑煮椀 七日過ぎても飽きもせず
(2017,01,09)   九日
今月はずっと餅を食べる。雑煮が終われば、焼いて、黄な粉やくるみや砂糖醤油など。徳島で育った子供の頃は、餅をつく日が楽しみだった。餅にあんこをくるんで。

香梅と 書初めの筆走らせて 河彦

住専、豊島、司法改革-4

中坊公平さんの三回忌
=「人生八馨」一五年
夏季号・第三巻より

×       ×       ×
「しだれ藤 中坊さんの三回忌 河彦。
中坊さんが生前に用意したご夫婦の墓は、JR奈良線玉水駅近くにある。朝、弁護士、元銀行員、警察・国税関係者、元記者計一四人で墓参り。マイクロバスで京都市内に移動して、中坊さんの旅館、御殿荘で三回忌。奥様と娘さんを囲んで、思い出話とそれぞれの決意」
これは、豊島訪問の約一か月前の今年五月九日、京都に出かけ、中坊公平さんの三回忌に出席した際、自分の俳句ツイッターに書き込んだ内容。昨年の五月にも、一周忌に合わせて京都府一井手町のお墓を訪れ、線香をあげて冥福を祈り、今回は二度目の墓参り。参加した一四人は、元新聞記者を除くと、中坊さんが整理回収機構の社長として住専の債権回収に全力を挙げ、その後、司法改革の推進にあたつて、側近として活動を支えた人たち。
最高裁事務総局の局長や東京高裁幹部も参列。
弁護士一九年目という、参加者の中では若手の弁護士、川村百合さんは、司法改革に込められた思いを中坊さんから数年前に聞いた縁で、初めて参加した。
墓前には 「顕正院巌馨隋順公道居士」と記載された記帳用の和綴じの冊子が用意され、最初のページのトップに香川県・豊島の安岐さんや中坊事務所の事務方を長年、支えてきた高津功さんの名前が、昨年八月三日の日付で記載されていた。高津さんは月命日の墓参りを欠かさず、記帳名簿によると、安岐さんも直近の命日に訪れている。
中坊さんの実家は、墓地からそれほど離れていない玉津国神社から坂道を下ったところにあり、いまも 「中坊」 の表札がかかる。敷地は葡萄畑なども含めて四〇〇坪ほどあるだろうか。無人だが、庭などもきちんと手入れが行き届き、この目はさくらんぼが紅い実を着けていた。神社の脇には枝垂桜の大木があり、昨年は野生のサルが訪問客を驚かせた。
一行はマイクロバス二台に分乗して、京都市内に向かい、一時間余りで、いまは中坊さんの娘さんが経営する左京区の旅館「聖護院御殿荘」へ。三回忌の食事会が開かれた大広間には、笑顔の遺影のほかに、中坊さんの活動を記録した十四、五枚の写真が飾られた。

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 香梅と 書初めの筆走らせて
(2017,01,03)
北野天満宮。主に子供たちを対象に書初めの場が設けられ、筆と半紙を買って飛び入り。菅原道真にならって、「香梅」の二字を即興で。書道クラブ新年会に向けて、宿題の手本を師匠の友野浅峰さんから貰って、一念発起。

 

清水に キモノレンタル初詣
(2017,01,03)は、レンタルキモノの看板。着付けしてもらったばかりの着物姿で清水の舞台に立つ若い女性たち。デザインも色もいかにも安っぽいが、外国人観光客も含め、これも古都の記念か。自撮り姿も。

若水や 空也が招く坂の道

明けましておめでとうございます。

本年もツイッター俳句を宜しくお願いします。

高尾 義彦

 

住専、豊島、司法改革-3

中坊公平さんの三回忌
=「人生八馨」一五年
夏季号・第三巻より
生前は一体となって苦労をともにしてきた中坊さんに、最近のだらしない自分を責められていると痛切に感じて、以来、酒を断つことにしたという。「なんにも言わず、じっと睨まれているようで」。安岐さんが最初にこの話を打ち明けてくれたのは、この一か月ほど前に上京した時だった。ビールで乾杯しようと声をかけたら、烏龍茶を手に取った。屈強な身体つきの安岐さんが「烏龍茶で乾杯」を貫く姿には違和感があったが、禁酒はまだしばらく続ける決意が表明された。

翌日は、廃棄物撤去の作業が進む現場を案内してもらった。参加者はヘルメットにマスク、足元は長靴姿で、あちこちに汚染水が溜まった大きな穴があき、一部にドラム缶などの廃棄物がそのまま積み上げられた現場を歩き、目の前に、冒頭に記した光景が広がっていた。確かに以前に比べれば、廃棄物の捨て場は大きくえぐり取られ、その限りでは処理が進んでいるのだが、汚染地中のどの深さまで及んでいるかは、今後の調査を待たなければならない。
中坊さんは生前、淳子夫人を伴って何度か、島を訪れている。夫人を仕事の現場に同行することはめったにないことで、美しい島を取り戻す目を目指して、困難な仕事に挑んだ成果をいつ′か二人で確認したかったのでは、と島民らは推測する。一昨年5月3日に83歳で亡くなり、その夢は実現しなかっただけに、安岐さんたちは、このままでは終わらせない、と決意を新たにしている。
島の住民が育ててきたオリーブは昨年の収穫で、上質なオリーブオイルを生産出来るまでに実績を積み、島の土産物店に置かれている。この夏はオリーブの実を予約販売する計画も動き出している。二十数年に及ぶ島民の運動を心に刻み後世に伝えようと始めた「島の学校」は、当初の予定では十年で終了するはずだったが、現状を踏まえて今年の8月にも実施することになり参加者の募集を始めた。
島を離れる快速船から島を眺めながら、「豊島」を過去のものにしてはならないと、自分に言い聞かせた。自宅マンションのベランダには、豊島から運ばれたオリーブの木が育っているが、そのオリーブに託して、ささやかにでも豊島の人たちを支援できればと願う。

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若水や 空也が招く坂の道
(2017、1、3)      三日
元日は六波羅蜜寺へ。若水は元日に初めて汲んだ水。梅干しと昆布で健康長寿を祝うお茶を味わう。連れ合いの知人はよくこの寺に来て空也上人の像に手を合わせていた。

古稀の年 年賀の言葉 やや長く

     謹賀新年

本年も宜しくお願いします。

高尾 義彦

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古稀の年 年賀の言葉 やや長く
(2015元日)
この句は、五日から始める連句九四巻目の発句に用意した。小学生時代の友人二人と歌仙古稀百巻達成の目途が立つ段階に。日々の楽しみとある種の緊張感が持続力に。

 

住専、豊島、司法改革-2

中坊公平さんの三回忌
=「人生八馨」一五年
夏季号・第三巻より

 公害調停成立時の計画では十周年の二〇一〇年春に産廃撤去は終わるはずだった。現場から廃棄物を運び出し船で隣りの直島に送って無害化するスキームだつた。しかし実際には予定通りには処理は進まず、さらに、当初推定の六〇万トンどころか九二万トンもの廃棄物(汚染土壌を含む)が存在することが判明して、計画は二度にわたって見直された。現在までに八一%を処理したものの、最終期限は改めて二〇一七年三月と設定された(最終的に香川県は二〇一七年三月二八日、豊島からの搬出は終了と発表した。総量九〇万八千トンで、汚染地下水の無害化や跡地の開発計画などが課題として残る)。
このため 「花を見る会」 は十周年の時も今回も、みんなが明るい笑顔で迎えることは出来なかつた。私たちが訪れた当日、島では廃棄物完全撤去後を見据えて、跡地七㌃の活用策などを話し合う住民の会議が開かれた。
「原状復帰」の願いを胸に、島の将来像が議題になつたが、その前提として、本当に完全撤去が実現するのか、疑問視する見
方が広がつていた。
テシマリゾートのレストランで運動の経過報告や島が抱える課題を安岐さんたちから聞いているうち、安岐さんの「禁酒宣言」 が話題になつた。ここ数年、撤去作業の進捗状況は満足できるものではなく、一丸となつて公害調停を勝ち取った住民たちも時間の経過につれて、それぞれの思惑の違いが表面化する。
二十数年闘い続けてきた住民運動は必ずしも高揚した状態を持続できていなかつた。
悶々として日々を送っていた安岐さんは、一晩でウイスキーの角瓶を空けてしまうほど酒でストレスを紛らす日が続いた。昨年一月四日もビール、ウイスキー、日本酒を呑んでうとうととしていた早朝、ふと目覚めると誰かがそばに立っている気配がした。それが亡くなつた中坊公平さんの姿だと気づいた瞬間、酔いが一瞬にして醒める思いだつた。何も言わずにこちらを見つめている中坊さんの姿に大きなショックを受けたという。

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「獺祭 日本酒」の画像検索結果

ふく食べて 福を祈って年の暮れ
(2015元日)
ホテルで紹介された天神の居酒屋で、ふくの刺身や唐揚げを頼み、日本酒は獺祭。昼間、唐津から名護屋城跡を見物、秀吉の権力と晩年の愚かな執念が形をとつた広大な城跡を歩く。黒田長政陣跡など官兵衛ドラマ追体験も。

指走る リスト・シヨパンに聖歌へと

住専、豊島、司法改革-1
中坊公平さんの三回忌
=「人生八馨」一五年
夏季号・第三巻

 深い緑に覆われた瀬戸内海の美しい島は、西側のそこだけがばっくりと大きな傷口を開け、海側には長いフェンスが張られている。現場を歩くと、ひん曲がったドラム缶やタイヤなどが地面からはみ出し、油だろうか、緑や黄色の液体がにじみ出ている。
産業廃棄物の不法投棄で「ごみの島」と呼ばれた香川県・豊島は、いまも廃棄物処理作業が続く。
公害調停成立から15周年の15年6月6日、岡山県の宇野からフェリーに乗船して5年ぶりに豊島を訪問した。船上からも「大きな傷口」は見えて、20年近く前に住民側弁護団長だつた中坊公平さんらの運動を取材するため、廃棄物の上を歩いた記憶が蘇る。
家浦港で、今回の「島の花を見る会」を企画してくれた産業廃棄物対策豊島住民会議事務局長・安岐正三さん、熊本学園大学・中地重晴教授らに迎えられ、マイクロバスで宿舎のテシマリゾートに向かう。参加者は学者、弁護士に新聞記者などで、濃淡はあれ長く豊島に関わってきた人たち。中坊事務所から弁護団に加わり今は独立したもののNPO法人「瀬戸内オリーブ基金」の理事長を務める岩城裕弁護士も加わっていた。途中、中坊さんらが植えたオリーブの木を確認、白い花や大きく育った様子に15年の歳月を改めてかみしめた。
「花を見る会」は公害調停が成立した2000年6月、廃棄物が撤去される十年後に、みんなで豊島に集まって締麗になつた自然の中で「花見」をしようと約束したことが発端。拙著「中坊公平の追いつめる」(毎日新聞社刊、九八年)では中間合意までの経緯を報告し、その中で「島で花見といえば、桜ではなく、島三田に咲き誇るツツジを愛でて酒を酌み交わし、持参の弁当を楽しむこと」と紹介した。
つづく

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訃報読む 賀状の宛名書く前に
(2015/12/15)
在日韓国人二世の映画監督、呉徳沫さんの訃報が毎日新聞に。取材でお付き合いし、年賀状のやりとりを続けてきた。七四歳。喪中の葉書はすでに四〇枚近く。今年はご本人が亡くなつたケースが目立つ。

指走る リスト・シヨパンに聖歌へと
(2015/12/14)
ピアニスト、近藤和花さんのディナーショーを、昨夜、千代田区のレストランで。彼女の車のナンバーはリストの生れた年。超絶技巧を披露。我々はその前に東京交響楽団のコンサートをサントリーホールで。

雨しとど 傘に銀杏の葉を受けて

兵馬俑師走を前にゆつたりと
(2015/12/29)
「始皇帝と大兵馬桶」展を上野の東京国立博物館で。兵馬俑のほか、始皇帝の魂を運ぶために作られたという銅車馬の複製も。二000年以上前の秦王朝を実感した。

総会の師走迎えてまた一歩
(2015/12/07)
勤め先のインキ会社は先週四日が株主総会だった。就任後初の赤字決算で厳しい質問もあつたが、役員人事案などが承認され、あと一年、代表取締役を。新聞事業を支える会社として黒字経営を目指す。

雨しとど 傘に銀杏の葉を受けて
(2015/12/11)
昨夜はお酒の席をふたつ。一つは、毎年師走に「菊姫の会」と名づけて門前仲町・久寿宋に集まる編集局仲間の呑み会で、女性三人を含め一〇人。もう一七回目。二〇回目の実現を、と盛り上がった。