占いの歴史ー11

占いの歴史ー11

安倍晴明はどのような占術を用いたのか? それを分析してみたいと思います。
まず、古い書物に載っている記述では、どの書物でも「安倍晴明は式神を使役していた」とされています。この式神(しきがみ。しきじん)なるものの実態を確かめるべくが掴めればいいのですが、式神(識神とも)とは、陰陽師が使役する鬼神のことで、人心から起こる悪行や善行を見定める役を務めるものとされています。
では、その鬼神とは、どのようなものかというと、「妖怪変化の中の荒ぶる神」という説が尤もらしく伝わっています。
 現存する安倍晴明関係文書に『不動利益縁起絵巻』(部分)というものが三井寺にあります。それによると、、祭壇を構えて2匹の式神を従えた安倍晴明が、姿を現した物の怪どもと対決しながら祈祷を続けている姿があります。これで見ると安倍晴明は祈祷師でもあったことが分かります。
では、安倍晴明は祈祷師だったのかというと、きちんとした占いも沢山残されていますので、安倍晴明は天文学にも通じた優れた科学者であり、優秀な占術家であることも間違いないようです。

占いの歴史ー10

占いの歴史ー10

どこで脱線したのか、占いの歴史を簡単に述べるつもりが、安倍晴明の話題から中世の宮廷政治に迷い込んでしまいました。
そろそろ平安時代にサヨナラしないと話が前に進みません。
ともあれ、花山天皇の退位後も安倍晴明の人気は衰えず、一条天皇や藤原道長など特の為政者の信頼を深め、安倍晴明の時代はまだ続きます。
当時の貴族の日記は、有名無名を含めて何種か遺されていますが、道長の日記にも安倍晴明の活躍ぶりが描かれています。
とくに、正暦4年(0993年)の春、一条天皇の重い病いが安倍清明の禊(みそ)ぎや祈祷で快復した事象や、寛弘元年(1004年)夏の全国的な干魃(かんばつ)による農作物被害が、一条天皇の命による安倍晴明の雨乞いの儀式・五龍祭を始めた直後から、全国的に大量の項羽となって枯れかけた農作物を蘇生させて農民を救ったことなどが記述されています。
たとあります。
こうして一条天皇の信任を深めた安倍晴明は、天文道で学んだ計算能力をも生かして出世を重ね、主計寮(現在の財務省主計局)に栄転して主計権助となります。さらに左京権大夫、穀倉院別当などの主要官職を駆け昇るように大出世して位階もついに従四位下に昇進する事態となります。
さらに、晴明の偉名によって、二人の息子までも出世し始め、長男の安倍吉昌が天文博士になり、次男の安倍吉平が陰陽助に就き、ついに安倍一族は、清明の師である賀茂氏を抜いて日本一の陰陽道の家としての地位を築いたのです。
こうして安倍晴明を考察すると、古代中国の三国志で活躍した蜀の軍師・諸葛亮孔明との類似点が多いことに気付きます。
清明も孔明も神がかって誇張された伝説に包まれて半ば神格化されて神社にもなっていますが、所詮は紛れもない人間です。聡明であり天文地理の知識に長け数理に強く、医術にも通じる博識万能のスーパーヒーローだったと考えられます。
ならば、清明が用いた「陰陽道・式神12将軍の術」、孔明が用いた「八門遁甲の術」とはいかなるものであったか?
次回から、これら歴史上の伝説を現代の常識で紐解いてみたいと思います。

占いの歴史ー9 安倍晴明

占いの歴史ー9

 安倍晴明は28歳の天暦2年(948)、師の推挙もあって、宮中で宿直や警護、その他の雑事に従事する大舎人(おおとねり)寮に属すことになります。この役は下級官職ながら律令制では中務(なかつかさ)省に属し、左右2 寮に分かれて定員は左右各800人 (のち左右合せて400人に削減) で、これが清明の世に出るきっかけになります。
そこで頭角を現した清明は天徳4年(960年)に、陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職である天文得業生に抜擢されます。そのとき40歳、当時としては遅い出世でした。
官職としての出世は遅い晴明でしたが、占いの才能は抜群で、貴族社会み認められただけでなく、宮廷に招かれて村上天皇の御前でも占いを求められるなど、陰陽師としての地位は確たるものになっていました。
やがて、50歳を過ぎた清明が天文博士に任ぜられ我が世の春を謳歌していた貞元2年(977年)、師の加茂保憲が病に倒れて没し、安倍家は賀茂家と並ぶ二大陰陽家として肩を並べることになります。
天元2年(979)、59歳の晴明は、皇太子師貞(もろさだ)親王(後の花山天皇)の命で、那智山の天狗(山賊?)を封ずる儀式を行って、成果を示しています。
この事もあって、花山天皇在位時は信頼も厚く、宮廷内の占いや陰陽道の儀式を清明が一手に引き受けていました。

占いの歴史ー8

占いの歴史ー8

平安時代後期に活躍した陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明は歴史に残る実在の人ですが、そのエピソードに関しては誇張が多くて信じ難いことばかり、占術ではなく妖術とでもいうべき世界の物語でしかありません。
そこで、この10連休を利用して今までに伝えられている事象を、私の書斎に半世紀前から埃を被って眠っている古典文学全集などか一日がかりで探してみました。
『大鏡』『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『平家物語』などからその伝承を探してみました。
ところ、8・が、ついでに斜め読みした「『竹取物語』の中に、清明らしき人物が安倍宿禰(すくね)晴明という名で登場しています。陰陽師実在・したの安倍晴明は、官職でいえば、宿禰よりかなり上位の朝臣(あそん)ですから、物語では狂言回しの役柄からみても、格下に貶(おとし)められていことになり、竹取物語の作家は、帝の信頼篤く当時隆盛を極めた安倍晴明をあまり快く思っていなかったのかも知れません。
いずれにしても、古典から浮かび出てくる陰陽師・安倍晴明なる人物が時代の寵児であったことは紛れもない事実です。
、それから千数百年の時を経た今、こうして占術の歴史を語る私にとっても、この偉大な陰陽師だけは少し触れただけで素通り出来るような軽い存在ではないのです。その用いた術が占術ではなく、あまりにも妖術めいているからです。
陰陽師・安倍晴明の出生については2説あり、1説では、延喜21年(921)摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)出生説です。もう1説は、生年不詳、奈良県桜井市安倍の出生とする説ですが、幼少の頃については確かな記録はあまりません。
学問を志した清明は、当時の天文・陰陽寮を一手に束ねていた陰陽師・賀茂忠行・保憲父子に弟子入りし陰陽道と天文道を学びます。

占いの歴史ー7

占いの歴史ー7

占いの歴史についてここまで述べて参りましたが、そもそも「占い」という言葉は、何時、どこから生まれたか? それを検証してみたいと思います。
そもそも、占いという文字そのものが、卜(ぼく)という亀の甲羅や鹿の骨を焼いたときに出きるひび割れと、その時に出る「ボクッ」という音から出来た象形文字で、そのひび割れの状態から判断した太占(ふとまに)という占いを口で伝えたことから、卜と口を重ねて占いという文字が出来たとも考えられています。
では、「うらない」という言葉はどこから来たかというと、語源は「裏合い(うらあい)」である、という説があります。その意味は、隠された裏の事象を知り、それと表の事象と照らし合わせて真実を知り将来に備えることかに由来するとの説です。
かつて占いは帝王の学問とも言われ、国家の政策を決める大切な行事の一つとして、平安時代には律令制のもと、卜占は神祇官の卜部氏が管轄し、その他の易占や占星術は陰陽寮の安倍家など陰陽師・宿曜師が管掌していた時代があります。
その後、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい・延喜21年1月11日[1]〈921年2月21日〉 – 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉)の影響で、安倍家が明治時代初めまで陰陽寮を統括していました。
安倍清明を祀った神社は全国に数社ありますが、安倍清明の像は、京都市内の晴明神社にもあります。

占いの歴史ー6

占いの歴史ー6

 日本の歴史に現れる占術家のトップバッターは何といっても倭(わ)の国の女王・卑弥呼(ひみこ)です。
弥生時代後期の3世紀末、古代中国の西晋時代に編纂(へんさん)された史書「三国志」のうち,魏に関する部分を記した「魏書」内の「東夷伝」には、当時の日本である邪馬台(やまたい)国の記述があります。邪馬台国の女王卑弥呼は、鬼道(呪術=占術の原型)を駆使して衆人を畏怖させ従わせて国を治めたとされています。
ただし、これはあくまでも中国の史書に記載された記録ですからどこ間frが真実かはいまだに議論の的になっています。
日本古来の占いが史書に登場するのは、8世紀の奈良時代、神話を基に編纂(へんさん)された「古事記(712年)」や「日本書紀(720年)」に記載がある「布斗麻邇(ふとまに)」という卜占(ぼくせん)の一種です。その方法は、牡鹿の肩甲骨を、桜の木で焼き、そのひび割れ模様の状態で吉凶を占うもので、記紀の記述では、伊弉諾尊(いざなきのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の夫婦が国土を築くために、良き後継者を得ることができるかどうかを天神(あまつかみ)に問うたところ、天香山(あまのかぐやま)の真男鹿(まおしか)の肩を内抜きて,天香山の天波波迦(あめのははか=うわみずざくらの古名)を取りて占合(うらない)をすべし、と教えたとあります。
この卜占(ぼくせん)の一種である「ふとまに」による占いでは、牡鹿の肩骨を上溝桜(うわみずざくら)の木皮で焼き、そのヒビ割れの形状が異常であれば、戦乱や疫病や天変地異の出来事や凶作に襲われるとされ、そのヒビ割れの形が良ければ稲作もよく穏やかな日々が訪れるとされたのです、
この鹿の骨を用いた「ふとまに」は、やがて、中国から渡来した亀の甲羅を用いての亀卜(きぼく)にとって代わられて、次第に消えてゆきました。
その亀朴もまた、葦(あし)の種類である「イ」を用いた周易の出現で姿を消してしまいます。

占いの歴史ー5

占いの歴史ー5

西洋占星術にも東洋の十干十二支同様に長い歴史があります。
その歴史をたどると、紀元前よりまだまだ昔に遡ることになります。
その理由は、人類は初めから空を眺めて天候や季節の移り変わりを感じていたのは確かですから、文字を発明する以前から、本能的に天体観測を覚えて天候や移動地区などを占っていたとかんがえられるからです。
したがって、占いの歴史を辿るのは人類の発展をみるのと同意語になりますし、その歴史をつぶさに調べるなどは不可能なことですから、
かなり大ざっぱにしか占星術の歴史は語れません。
天体観測の歴史は、大きく分けて6時代に区分されています。
1番目は、紀元前300年頃までのプロト占星術期、2番目は紀元前200年頃までの占星術形成期、3番目は、紀元前から紀元300年頃まで続く安定期、ここから徐々に衰退期に入ります。4番目は、1100年代から1500年代までの復興期で、この頃が最も盛んな時期だったとする説もあります。そこからまた徐々に衰退し、1600年頃から約2世紀の1800年代までが再び衰退期となって西洋占星術の冬の時代が続きます。
そして今、1900年代以降に続く第2復興期を迎えて、西洋占星術もまた隆盛となっていあす。
では、現代の占星術の基礎を築いた古代のプロト占星とはいかなるものだったか、その伝承に触れてみます。
 プロト占星術は、チグリス・ユーフラテス流域のメソポタミア南部を発祥のちとしていて、紀元前2000年以前から、天体の動き、すなわち星の動きは神々の意志を知るための予兆として考え他とみられています。その神々の意思とする初歩的な占いが、その後に続くシュメール文化に乗って徐々に占星術として発展してきたとされています。
その後、紀元前から始まる古代バビロニア文明では、星占い=オーメン(予兆)とする占いが盛んになり、占いの対象は自然界の全てのもの、鳥や動物、川や山、虹や雲、日の出と日没の状態など、ありとあらゆるものの動きや変化が、何らかの予兆を示しているとみなされたのです。
このオーメン占いは、過去の出来事と結び付けて考えられ、流星の多い年は洪水に注意とか、森の鳥が騒いだら部族間の争いが起きるとか、過去に起こった事例を基に次々と占例を増やしていったのです。
なかでも最も重要視されたオーメン占いは、部族の儀式のなかで生贄(いけにえ)にされる動物(人間の幼児も)の肝臓の動きや形状で、天災や部族の繁栄に関する予兆(オーメン)をしるというものでした。
その過去のオーメンの解釈が正しいかどうかは、過去の出来事の記録を粘土板に記録して代々伝えて、統計的にも的中する事象も起きています。それらの記録が現代にも引き継がれ、西洋占星術に発展したと考えて間違いはありません。
このオーメンの記録は、7000点以上も残されていて、ニネヴァの古文書館に保存されているとの記録があります。
こうしたオーメン占いを経たバビロニアの天文学者は、現代につながる12星座の基礎を作りました。

占いの歴史ー4

占いの歴史ー4

 前回は、生年月日で占う方術の歴史について述べましたが、江戸時代半ばに中国から伝来した「命学」「命理」などと呼ばれていた占いが、日本では「四柱推命」という名称で発展しました。一方、鬼門遁甲という諸葛亮孔明が軍略に用いた占いは形を変えて、平安時代初期に遣唐使として海を渡った修行僧・空海(後の弘法大師)が持ち帰った密教の中に宿曜星占いとして伝えられ、方位学を主とする日本独自の九星気学として発展し今日の隆盛をみています。
なお、いま開運道で用いている人相学は、中国に古来からある 麻衣相法(まいそうほう)という峨眉山の山奥に棲む麻の衣を着た仙人が、希夷陳博という弟子に伝えた相法をそのまま伝えていますが、日本では江戸時代のに水野南北という占の名人によって、南北相法に改良されて伝えられています。
麻衣仙人の伝えた有名な言葉に「「相は心によって生じ、心は相によって生ず」とあり、心が卑しい人は人相も卑しいから、自然のまま人を観て心に感じたのが正しい判断である、とし、人を観るに動物を当てはめることを示唆しています。
日と夫々の風貌や印象を、虎、狐、タヌキ、うさぎ、ねずみ、狼、馬などに分類して、その性情や性格を当てはめる手法です。それに加えて顔や体の形から判断する見方もあり、それらを学ぶと第一印象だけで的確に人を診ることが出来ます。
その他、東洋の運勢学は紀元前の周の時代から築かれた哲学的な傾向の強い易学が、孔子や孟子など多くの学者の編纂をお経て完成され、儒教の聖書とも帝王の学問ともされる五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)の一つとして尊重され、今もなお君子の占いとして東洋の占術の最上位と認識されています。
このように占いは洋の東西をとわず人類の成長と併行して発展してきましたが、その発展は必ずしも順調とはいえません。時代の推移によって盛衰もまた必然だったのです。

占いの歴史ー3

占いの歴史ー3

 朝廷の補佐役として活躍した公職にある陰陽師は、政治の場においても貴族社会においても大きな力を発揮しますが、武家社会に変わって行くにつれて陰陽師の影響力は衰退します。それに替わって台頭するのが庶民出の民間の陰陽師です。
貴族社会に君臨した平安中期の陰陽(おんみょう)家で著名なのは、土御門家(つちみかどけ)家で、その一族からは有名な陰陽師が何代にもわたって排出されています。
なかでも文武(もんむ)天皇時代の右大臣阿倍御主人(あべのみうし・635―703)がよく知られています。
阿倍御主人は、672年の壬申の乱で大海人皇子(おうあまのおうじ・後の天武天皇)方の功臣でもあり、晩年には太政官の頂点の座にあった人物で、平安時代初期に創られた「竹取物語」に登場する右大臣のモデルです。
その子孫が前回登場の阿倍清明(あべのせいめい)です。
清明は、花山(かざん)天皇の譲位を予言するなど数々の伝説を持つ陰陽師で、現存する著書は「占事略決」1巻のみです。
その安倍清明が用いた占術を推測すると、中国の陰陽五行の思想に基づいた筮竹易占いや天文と干支を組み合せて占う「六任神課(りくじんしんか)」と「式占(しきせん)」という占いに加えて、地相や家相を観たのではないか、とされています。
当時はまだ四柱推命は日本にはなく、四柱推命が日本に入るのは江戸時代中期とされています。
その四柱推命の名も日本で命名された独自のもので、中国では「命学」または「命理」と呼ばれています。
この四柱推命も、他の東洋の占術同様に陰陽五行の思想に基づいて、生まれた年月日時の十干十二支から4つの柱を選び、それで人の命運を占うもので、中国では12世紀にすでに出来上がっていたのです。

占いの歴史ー2

占いの歴史ー2

人類はその発生から何らかの占いを用います。
古代日本にも当然ながら占はありました。
その一部は古代の中国から伝わって発展して独自の占いに変化したものです。
しかも古墳時代よりさらに古い大昔から勾玉(まがたな)占いや鹿の肩甲骨を焼いて占う”太占(フトマニ”という占いが行われていたことは各地の古代遺跡発掘調査の副産物として発見されています。
古い歴史に現れる卑弥呼(ひみこ)の時代には、卑弥呼自身が呪術(じゅじゅつ)家として占いを用いて国を収め、日本の古い歴史書である古事記や日本書紀にも占いに関する記述があちこちにあります。
大陸との交流が盛んになる5世紀から飛鳥時代までは遣隋使や遣唐使が様々な占いを持ち帰っています。中でも亀の甲羅を焼いて、そのひび割れや色の変化を占う亀卜(キボク)が盛んになり、政治的な意図もあって卜部(うらべ)」姓を名乗る占いを業とする集団も現れます。
さらに平安時代に入ると国策として天文や暦を扱う陰陽師(おんみょうじ)が政治の表舞台に登場し「陰陽寮」という占いの公的部門が設けられます。この陰陽寮は、明治時代になって廃止されますが、それまでは国の一機関として占が公的に用いられていた長い歴史があるのです。
とくに平安時代中期に出現した陰陽師の安倍晴明(あべのせいめい=921―1005)は、天文博士であると同時に悪霊退治や難病治療などに力を発揮して帝や貴族社会、豪族の圧倒的人気を得て時代の寵児となり、陰陽道も全盛期を迎えます。
つづく
ーーーーーーーーーーーーー